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title: "博伽梵歌 · 第八節"
description: "博伽梵歌又称雅蘇瑪蒂書達．踏薩，是古印度史诗摩诃婆罗多的核心篇章，成书于公元前5世纪至公元前2世纪之间，作者传统上归功于圣人毗耶娑。这部经典以克里希纳与阿周那的对话形式展开，阐述了业瑜伽、智慧瑜伽和奉爱瑜伽等修行道路，强调通过无私行动与虔信获得解脱。作为印度教最重要的圣典之一，博伽梵歌对佛教思想也有深远影响，其关于轮回、业力与解脱的论述与佛教教义存在对话空间。该经典至今仍是研究印度哲学与宗教实践的重要文献。"
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### 第八節

> 第8節

　　　　na tu māṁ śakyase draṣṭum
　　　　　　anenaiva sva-cakṣuṣā
　　　　divyaṁ dadāmi te cakṣuḥ
　　　　　　paśya me yogam aiśvaram

na——永不；tu——但是；mām——我；śakyase——能夠；draṣṭum——看見；anena——由這；eva——肯定地；sva-cakṣuṣā——以你自己的眼睛；divyam——神聖的；dadāmi——「我」給與；te——你；cakṣuḥ——眼睛；paśya——看；me——「我」的；yogam aiśvaram——不可思議的神秘能量。

> 「ナー」とは「決して」の意。「トゥ」は「しかし」。「マーム」は「私を」。「シャキャセ」は「見ることができる」。「アネナ」は「これによって」。「エヴァ」は「確かに」。「スヴァ・チャクシュシャー」は「あなた自身の目で」。「ディヴィヤム」は「神聖な」。「ダダーミ」は「私は与える」。「テ」は「あなたに」。「チャクシュフ」は「目」。「パシュヤ」は「見よ」。「メ」は「私の」。「ヨーガム・アイシュヴァラム」は「不可思議な神秘の力」を意味します。

譯文

你不能夠以你現在的眼睛看到「我」，因此「我」給與你神聖的眼睛好使你能夠看到「我」神秘的富裕。

> あなたは今の目では「我」を見ることができません。だから「我」はあなたに神聖な目を与え、「我」の神秘的な豊かさを見ることができるようにするのです。

要旨

> 心の本質を理解するための教え。

一個純潔的奉獻者除了基士拿兩隻手的形像以外並不喜歡看祂任何的形像；一個奉獻者一定要得到祂的恩寵才能夠看到祂的宇宙形像，不是通過心意而是通過靈性的眼睛。阿尊拿要改變的不是他的心意而是他的視野去看基士拿的宇宙形像，基士拿的宇宙形像並不十分重要；這會在以下數節中清楚顯示。但因為阿尊拿想看它，所以主給與他看那宇宙形像所需要的特別視野。

> 純粋な奉献者は、クリシュナの両手の姿以外のいかなる姿を見ることを好みません。奉献者は、心を通してではなく、霊的な眼を通してのみ、彼の宇宙の姿を見ることができるのです。アルジュナが変えるべきだったのは、心ではなく、クリシュナの宇宙の姿を見るための視野でした。クリシュナの宇宙の姿はそれほど重要なものではありません。これは以下の節で明確に示されるでしょう。しかし、アルジュナがそれを見たいと望んだので、主はその宇宙の姿を見るために必要な特別な視野を彼に与えられたのです。

吸引正當地與基士拿處於一個超然性關係奉獻者的是親切的形像，而不是一個無神的富裕展覽。和基士拿一起玩的伴侶，基士拿的朋友和基士拿的父母從不想基士拿展示祂的富裕。他們是這樣地溶滙於純潔的愛中以至並不知道基士拿是具有至尊無上性格的神首。他們在愛心交換中忘記了基士拿是至尊的主。史里瑪博伽瓦譚中所述和基士拿一起玩耍的男孩子全都是高度虔誠的靈魂，在經過了很多、很多次的誕生後他們才能夠與基士拿一同玩耍。這些男孩子並不知道基士拿是具有至尊無上性格的神首。他們把祂作為一個個人的朋友。偉大的聖賢認為至尊是非人性的婆羅門，奉獻者認為是具有至尊無上性格的神首，而普通的人則認為是這個物質自然的產物。事實上奉獻者並不關心去看宇宙形像——維士瓦．勞巴 viśva-rūpa，然而阿尊拿想看祂是為了充份地證實基士拿的聲言，以使將來的人能夠了解基士拿不單祇在理論上或哲學上顯示祂自己是至尊還實際上將自己這樣地顯示給阿尊拿。阿尊拿一定要證實這一點，因為阿尊拿是巴南巴喇制度的開始。那些真正地有興趣去了解至尊性格神首——基士拿的，和那些追隨阿尊拿步伐的人應該了解基士拿不單祇在理論上將自己顯示為至尊者，還實際上將自己揭示為至尊。

> 主クリシュナとの超越的な関係に惹かれる奉献者は、神性のない豊かさの誇示ではなく、親しみのある姿によって引き寄せられるのです。クリシュナと遊ぶ仲間たち、クリシュナの友人たち、クリシュナの両親は、クリシュナがご自身の豊かさを示すことを決して望みません。彼らは純粋な愛に深く浸っており、クリシュナが最高の人格神であることを知りません。彼らは愛情の交流の中で、クリシュナが至高の主であることを忘れているのです。シュリーマド・バーガヴァタムに描かれるクリシュナと遊ぶ少年たちは皆、高度に信心深い魂であり、何度も何度も生まれ変わった後、ようやくクリシュナと遊ぶことができたのです。これらの少年たちは、クリシュナが最高の人格神であることを知りません。彼らはクリシュナを単なる個人的な友人として見ています。偉大な聖者たちは、至高者を非人格的なブラフマンとみなし、奉献者たちは最高の人格神とみなし、普通の人々はこの物質的自然の産物とみなします。実際、奉献者たちは宇宙の形態——ヴィシュヴァ・ルーパを見ることを気にしません。しかしアルジュナは、クリシュナの宣言を十分に確証するために、その姿を見たいと望みました。それは、将来の人々が、クリシュナが理論や哲学だけでなく、実際にご自身をアルジュナに示したことを理解できるようにするためです。アルジュナはこのことを確証しなければなりませんでした。なぜなら、アルジュナはバラナバラの制度の始まりだからです。最高の人格神クリシュナを真に理解しようと願い、アルジュナの歩みに従う人々は、クリシュナが理論的にのみご自身を至高者として示したのではなく、実際にご自身を明らかにしたことを理解すべきです。

主給與阿尊拿必需的力量去看祂的宇宙形像，因為祂知道阿尊拿並不特別地想看它，我們已經解釋過這一點。

> 主はアルジュナに、宇宙の姿を見るために必要な力を与えられました。アルジュナが特にその姿を見たいと思っていなかったことを、主はご存じだったからです。この点については、すでに説明しました。