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title: "博伽梵歌 · 第五十二節"
description: "博伽梵歌又称雅蘇瑪蒂書達．踏薩，是古印度史诗摩诃婆罗多的核心篇章，成书于公元前5世纪至公元前2世纪之间，作者传统上归功于圣人毗耶娑。这部经典以克里希纳与阿周那的对话形式展开，阐述了业瑜伽、智慧瑜伽和奉爱瑜伽等修行道路，强调通过无私行动与虔信获得解脱。作为印度教最重要的圣典之一，博伽梵歌对佛教思想也有深远影响，其关于轮回、业力与解脱的论述与佛教教义存在对话空间。该经典至今仍是研究印度哲学与宗教实践的重要文献。"
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### 第五十二節

> 第五十二節

　　　　śrī bhagavān uvāca
　　　　sudurdarśam idaṁ rūpaṁ
　　　　　　dṛṣṭavān asi yan mama
　　　　devā apy asya rūpasya
　　　　　　nityaṁ darśana-kāṅkṣiṇaḥ

śrī bhagavān uvāca——具有至尊無上性格的神首說；sudurdarśana——很難被看到；idam——這；rūpam——形象；dṛṣṭavān asi——像你所看到的；yat——那；mama——「我」的；devāḥ——半人神；api asya——還有這個；rūpasya——形象的；nityam——永恆地；darśana-kāṅkṣiṇaḥ——經常想看。

> 尊なる神聖なる主は言われた——「汝が見ているこの我の姿は、極めて見えにくいものである。天の神々でさえも、常にこの姿を望んで見ようと希求している。」

譯文

萬福的主說：「我親愛的阿尊拿，現在你所看著的形象是很難見到的。連半人神們也經常地找機會去看這個這樣親切的形象。」

> 万福の主は言われた。「愛するアルジュナよ、今あなたが見ているこの姿は、なかなか目にできるものではない。半神たちでさえ、このように慈悲深い姿をしばしば見る機会を求めているのだ。」

要旨

> 心の本質を理解するための教え。

在本章的第四十八節中主基士拿概括地展示了祂的宇宙形象和告訴阿尊拿說這個形象不可能通過很多的活動及與祭祀犧牲而看到，現在 sudurdarśam一字被用上了，正指出基士拿兩隻手的形像是更為機密的。在如懺悔苦修、吠陀經研讀、及哲學性推考等的活動上輕染一些奉獻性服務，一個人便可能會看到基士拿的宇宙形象。這個已經被解釋過是可能的，但是假如沒有一點巴帝的沾染便不能夠看到。而超越那宇宙形象之上的基士拿兩隻手的人體形象則更難看到，連半人神如梵王及施威神也不例外。他們想看祂，在史里瑪博伽瓦譚中我們有證據知道當祂被認為是在祂母親迪瓦姬胎中的時候，所有天上的半人神都來看基士拿的奇偉。他們都向主作虔誠的禱告，盡管他們在那時還不能看到祂，他們甚至等著去看祂，一個愚蠢的人可能會嘲笑祂，認為祂是一個普通的人，他們尊敬的不是祂本人而是祂內在的一些非人性東西，這些全是無意義的。實際上祂兩隻手形象中的基士拿是被半人神如梵王和施威神所想欲看到。

> 第48節では、主クリシュナがその宇宙的な姿を示し、アルジュナにこう告げました——この姿は、多くの善行や供物によって見えるものではない、と。ここで「スドゥルダルシャム」という言葉が使われていますが、これは、クリシュナの二臂の姿が、それよりもさらに神秘的であることを示しています。 悔い改めや苦行、ヴェーダの学び、哲学的探求といった活動に、ほんの少しだけ奉仕の心を添えるならば、人はクリシュナの宇宙的な姿を目にすることができるかもしれません。これは可能であるとすでに説明しました。しかし、そこに少しのバクティ（奉仕の愛）がなければ、その姿を見ることはできません。 そして、宇宙の姿を超えた、クリシュナの二臂の人間としての姿は、さらに見ることが難しく、梵天やシヴァ神のような半神たちでさえ、その姿を目にすることはかないません。彼らもまた、クリシュナを見たいと願っています。シュリマド・バーガヴァタムには、クリシュナが母デーヴァキーの胎内にいるとき、天界のすべての半神たちが、その偉大さを一目見ようと集まったという証拠があります。 彼らは主に敬虔な祈りを捧げましたが、そのとき彼らはまだその姿を見ることはできませんでした。それでも彼らは、その姿を待ち望んでいたのです。愚かな人は、彼をただの普通の人間だと思い、笑いものにするかもしれません。そのような人々は、彼自身を敬うのではなく、彼の内なる非人間的な何かを敬っているにすぎず、それはまったく無意味なことです。 実際には、クリシュナの二臂の姿こそが、梵天やシヴァ神といった半神たちでさえも、見たいと憧れる姿なのです。

在博伽梵歌中證實了祂不為嘲笑祂的愚蠢人所看得到。如在婆羅賀摩三滅達經及祂自己在博伽梵歌中所證實，基士拿的身體是完全靈性的，充滿著快樂和永恆性。祂的身體從來不像一個物質的身體。但對一些通過閱讀博伽梵歌或類似的吠陀經典來研究基士拿的人，基士拿是一個問題。這個問題可分為三種解釋的方法：對於一個採用物質程序的人，基士拿被認為是一個偉大的歷史人物和很有學問的哲學家，但祂並不是一個普通的人，有些人以為雖然祂的能力是這樣大，祂仍然要接受一個物質的身體。終極地他們以為絕對的真理是非人性的；因此他們以為從祂非人性的形象中扮上了一個依附於物質自然的形象。這是對至尊主的一個物質估計；另外一個估計是推考性的，那些追尋知識的人也對基士拿推考和以為祂比較至尊者的宇宙形象來得次要，因此有些人以為展示給阿尊拿看的宇宙形象較祂的人性形像為重要，據他們說，至尊者的人性形象是一個幻想出來的東西。他們相信在最終極的境界，至尊的真理並不是一個人。但是超然的程序是如在博伽梵歌第二章中所描述：從權威那裏聆聽基士拿。那便是真正的吠陀程序，那些實際上是在吠陀系列中的人從權威那裏聆聽基士拿，通過對祂的重複聆聽，基士拿變得親切了。我們經已數次討論過，基士拿為祂的瑜伽、摩耶 yoga-māyā 能量所遮蓋。祂並不揭示於每一個人或被任何人所看到。祂祇有為一個祂揭示自己給他的人才看到，這在吠陀文學中證實了；對一個皈依了的靈魂來說，絕對的真理可以真正地被了解。通過不斷的基士拿知覺和對基士拿的奉獻服務，超然主義者可以將開他靈性的眼睛和能夠因基士拿的揭示而看到祂。就算半人神也不可能有這樣的揭示，因此連半人神也很難了解基士拿、高超的半人神都經常希望看到基士拿的兩隻手形象。結論是雖然基士拿的宇宙形象是非常、非常之困難和不是每一個人或任何一個人可以看到，更有甚的便是去了解祂參密遜達喇 Śyāmasundara 的形象。

> 『バガヴァッド・ギーター』では、主は嘲る愚かな者たちには見えないことが確認されています。『ブラフマ・サンヒター』や主ご自身が『バガヴァッド・ギーター』で明かされた通り、クリシュナの身体は完全に霊的で、永遠の喜びと満ち足りた性質に満ちています。その身体は決して物質的な身体ではありません。しかし、『バガヴァッド・ギーター』や類似のヴェーダ聖典を読んでクリシュナを研究する人々にとって、クリシュナはときに難解な存在となります。この難しさは、三つの解釈の方法に分けられます。 物質的な考え方をする人々にとって、クリシュナは偉大な歴史上の人物であり、博学な哲学者とみなされますが、普通の人ではありません。ある人々は、クリシュナの力が非常に大きいとしても、やはり物質的な身体を受け入れなければならなかったと考えます。究極的には、絶対的真理は非人格的であると彼らは思い込み、非人格的な姿から、物質的自然に依存した形象をまとったのだと見なします。これは至尊主に対する物質的な評価です。 もう一つの評価は、思弁的なものです。知識を追い求める人々もクリシュナについて思索し、クリシュナを至尊者の宇宙的な形象に比べて二次的なものとみなします。そのため、アルジュナに示された宇宙的な形姿こそが重要であり、人間的な姿は想像上のものだと言う人々もいます。彼らは最終的な境地では、至尊の真理は人格ではないと信じています。 しかし超然とした道筋は、『バガヴァッド・ギーター』第二章で述べられているように、権威からクリシュナについて聞くことです。それが真のヴェーダの方法です。実際にヴェーダの系譜に連なる人々は、権威からクリシュナについて聞き、繰り返し聴聞することによって、クリシュナが親しみ深い存在となります。 私たちはすでに何度も論じてきましたが、クリシュナはご自身のヨーガ・マーヤー（内なる霊的エネルギー）によって覆われています。クリシュナはすべての人に姿を現すわけでも、誰にでも見えるわけでもありません。クリシュナがご自身を啓示される人にのみ、その姿が明らかになります。これはヴェーダ文献でも確認されています。つまり、帰依した魂にとってのみ、絶対的真理は真に理解されうるのです。 クリシュナ意識を絶えず深め、クリシュナへの奉仕に専念することで、超越主義者は霊的な眼を開き、クリシュナの啓示によってその姿を見ることができます。半神たちでさえ、このような啓示を受けることはできません。ですから、半神たちにとってもクリシュナを理解するのは難しいのです。高貴な半神たちでさえ、常にクリシュナの両手の姿を見たいと願っています。 結論として、クリシュナの宇宙的な形姿は非常に難解で、誰もが、あるいは誰にでも見えるものではありませんが、さらに難しいのは、クリシュナのシュヤーマスンダラ（美しい黒い姿）を理解することです。