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title: "博伽梵歌 · 第四十七節"
description: "博伽梵歌又称雅蘇瑪蒂書達．踏薩，是古印度史诗摩诃婆罗多的核心篇章，成书于公元前5世纪至公元前2世纪之间，作者传统上归功于圣人毗耶娑。这部经典以克里希纳与阿周那的对话形式展开，阐述了业瑜伽、智慧瑜伽和奉爱瑜伽等修行道路，强调通过无私行动与虔信获得解脱。作为印度教最重要的圣典之一，博伽梵歌对佛教思想也有深远影响，其关于轮回、业力与解脱的论述与佛教教义存在对话空间。该经典至今仍是研究印度哲学与宗教实践的重要文献。"
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### 第四十七節

> 第四十七節

　　　　śreyān sva-dharmo viguṇaḥ
　　　　　　para-dharmāt svanuṣṭhitāt
　　　　svabhāva-niyataṁ karma
　　　　　　kurvan nāpnoti kilbiṣam

sreyān——較佳；sva-dharmaḥ——一個人自己的職務；viguṇaḥ——不完滿地執行；para-dharmāt——別人的職務；svanuṣṭhitāt——完滿地執行；svabhāva-niyatam——根據一個人本性的被指定任務；karma——工作；kurvan——執行着；na——永不；āpnoti——達至；kilbiṣam——罪惡的反應。

> スレヤーン——より優れていること；スヴァ・ダルマハ——自分自身の務め；ヴィグナハ——不完全に行うこと；パラ・ダルマート——他人の務めよりも；スヴァヌシュティタート——完全に行うこと；スヴァバーヴァ・ニヤタム——自分の本性に従って定められた任務；カルマ——仕事；クルヴァン——行いながら；ナ——決して；アープノーティ——達しない；キルビシャム——罪の報い。

譯文

就算一個人不完滿地執行他的職務，從事於他自己的職務遠比較接受別人的職務並完滿地執行為佳。根據一個人本性的被指定職務從不受罪惡所影響。

> たとえ自分の務めを完全に果たせなくても、他人の務めを完璧に果たすよりも、自分の務めに励む方がはるかに良いのです。その人の本性に応じて与えられた務めは、決して罪悪の影響を受けることはありません。

要旨

> 心の本質を理解するための教え。

一個人的職業性任務在博伽梵歌中有所指定。如前數節所述，一個婆羅門、一個剎怛利耶、一個毗舍或一個戍陀的責任是根據某特定的物質自然型態而被指定。一個人不應該摹倣別人的任務，一個本性上對戍陀工作有興趣的人不應該人為地自稱是一個婆羅門，雖然或許他是降生於一個婆羅門的家庭。這樣，一個人便應該按照他的本性工作，祇要是對至尊主服務的執行，沒有一樣工作是卑鄙的，一個婆羅門的職務肯定地是在良好的型態，但如果一個人不是本性上處於良好的型態，他便不應該摹倣一個婆羅門的職務。對於一個剎怛利耶，或行政人員來說，他有很多可惡的事情；一個剎怛利耶要用暴力去殺他的敵人或捕捉犯人，有時為了政治手腕一個剎怛利耶要說謊。這種暴力和兩面手法隨着政治而來，可是一個剎怛利耶不應該放棄他職務而試圖摹倣一個婆羅門的責任。

> 職業としての務めは、バガヴァッド・ギーターの中で定められています。先の節で述べられたように、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの務めは、それぞれの物質的自然の性質に基づいて定められています。人は他人の務めを真似るべきではありません。生まれつきシュードラの仕事に興味がある人は、たとえバラモンの家系に生まれたとしても、無理に自分をバラモンと呼ぶべきではありません。このように、人は自分の性質に従って働くべきであり、至尊主への奉仕という観点から見れば、どんな仕事も卑しいものではありません。バラモンの務めは確かに善良な性質に基づいていますが、もしその人が生まれつき善良な性質を持っていないなら、バラモンの務めを真似るべきではありません。クシャトリヤ、つまり行政官にとっては、嫌なことも多くあります。クシャトリヤは敵を殺したり犯人を捕まえたりするために暴力を用いなければならず、時には政治的策略のために嘘をつくこともあります。このような暴力や二枚舌は政治につきものですが、クシャトリヤは自分の務めを放棄してバラモンの責任を真似ようとするべきではありません。

一個人應該為了至尊主的滿足而作為。舉例如阿尊拿是一個戰士（剎怛利耶），他猶疑向敵方作戰。但如果這戰爭是為了基士拿——具有至尊無上性格的神首而做，便不會有墮落的恐懼。在商場上也是一樣，有時一個商人為了要賺錢而說了很多謊話，如果他不這樣做，便不會有利潤。有時一個商人會說：「啊！顧客先生，對你我不賺錢。」但一個人應該知道沒有利潤商人便不能存在。因此如果一個商人說他不賺錢這祇是一個謊話。但商人不應該以為因為他從事於一個要說謊的職務，他便要放棄他的工作而追隨一個婆羅門的工作，那是不推薦的。不論一個人是剎怛利耶、毗舍、戍陀都沒有關係，如果他通過工作而侍奉具有至尊無上性格的神首。就算婆羅門在執行不同的祭祀中有時也要殺動物，因為有時是要這樣的動物犧牲的。同樣地，如果一個剎怛利耶在他責任的執行中殺了敵人，他並不招至罪惡。在第三章中這些事情已經清楚詳盡地述及；每人都要為了耶冉拿的目的或為了韋施紐——具有至尊無上性格的神首而工作。任何為了個人感官享樂而做的事都是束縛之由，結論便是每個人都要從事於他得到的某特定物質自然型態，他應該决定祇為至尊主的至尊原由而工作。

> 人は、至高主を喜ばせるために行動すべきです。例えば、アルジュナは戦士（クシャトリヤ）でしたが、敵と戦うことをためらいました。しかし、その戦いがクリシュナ——至高の神格を持つ神の御方——のために行われるのであれば、堕落の恐れはありません。商売の世界でも同じことが言えます。時には、商人が利益を得るために多くの嘘を言わなければならないことがあります。そうしなければ利益が上がらないからです。時には商人は「お客様、あなた様には儲けていませんよ」と言います。しかし、利益なしには商人は成り立たないということを人は知るべきです。ですから、商人が儲けていないと言うのは、それはただの嘘に過ぎません。しかし、商人は嘘をつく仕事に携わっているからといって、その仕事を捨ててバラモンの仕事に就くべきだとは考えるべきではありません。それは推奨されません。人がクシャトリヤであれ、ヴァイシャであれ、シュードラであれ、それは問題ではありません。その働きを通して至高の神格を持つ神の御方に仕えるならば、それで良いのです。バラモンでさえ、様々な祭祀を行う際には、時には動物を殺すことがあります。なぜなら、そのような動物の犠牲が求められることがあるからです。同じように、クシャトリヤがその職務の遂行において敵を殺しても、罪を招くことはありません。これらのことは第三章で明確に詳しく述べられています。誰もがヤジュナの目的のために、あるいはヴィシュヌ——至高の神格を持つ神の御方——のために働くべきです。個人的な感覚の快楽のために行われることはすべて束縛の原因となります。結論として、誰もが自分に与えられた特定の物質的自然の性質に従って、至高主の至高の目的のためだけに働くことを決意すべきです。