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title: "入中論善顯密意疏 · 釋第六勝義菩提心之六"
description: "《入中論善顯密意疏》是藏传佛教格鲁派创始人宗喀巴大师所著的佛教论典，由法尊法师译为汉文。该论是对印度中观学派月称论师《入中论》的注释，系统阐释了中观应成派的空性思想与菩萨道次第。宗喀巴以严谨的逻辑辨析了中观见地，破除常见与断见，并融合显密教法，成为格鲁派核心教义的重要文献。此疏在藏传佛教中具有崇高地位，被视为研究中观哲学与实修体系的权威著作，对汉藏佛教思想交流影响深远。"
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## 入中論善顯密意疏（卷九）

> 入中論善顯密意疏（巻九）

宗喀巴大師造

> ツォンカパ大師 著

### 釋第六勝義菩提心之六

> 第六勝義菩提心の説明（その六）

巳二　破成立依他起有自性之量分四，午一　破成立依他起之自證，午二明唯識宗失壞二諦，午三　唯龍猛宗應隨修學，午四　明破依他起與破世間名言不同。初中又四，未一　徵依他起之能立明其非理，未二　破救。未三以餘正理明自證非理，未四　明依他起有自性同石女兒。今初

> まず、「他に依って生じるもの（依他起）」が自性（固有の本質）を持つという主張を証明する論証について考察します。この部分は四つの項目に分けられます： 第一に、依他起が自証（自己認識）によって成立するという考えを否定します。 第二に、唯識宗が二諦（世俗諦と勝義諦）を損なうことを明らかにします。 第三に、龍猛（ナーガールジュナ）の教えに従うべきであると示します。 第四に、依他起を否定することは、世間の言葉や概念を否定することとは異なることを説明します。 その中の最初の項目について、さらに四つの細かい点に分けて考察します： 1. 依他起を証明するための根拠（能立）を検討し、それが不合理であることを示します。 2. 反論（救）に対して答え、その反論が成立しないことを示します。 3. 他の正しい論理を用いて、自証が不合理であることを明らかにします。 4. 依他起が自性を持つと主張することは、石女の子（存在しないもの）を実在すると言うのと同じ誤りであると示します。 まず、この最初の部分について考えます。

如是已說若離外境定無內識。今當更破不加無外境之簡別，依他起唯事是有自性。頌曰：

> 如是已述，若離外境，內識亦無。然今更進一步，破除不加「無外境」之區別，而主張依他起性唯事有自性之說。頌曰：

『若離所取無能取，而有二空依他事，此有由何能證知，未知云有亦非理。』

> 『もし取られる対象（所取）を離れて、取る主体（能取）が存在せず、それでも二つの空（能取・所取の空）に基づく依他起の事柄があるならば、この存在は何によって知ることができるのか。知らないのに「ある」と言うのも理にかなわない。』

若謂離外所取亦無異體之能取，異體二取空之依他起是實有者。今當問彼此依他起之有，是由何識證知耶？若謂由彼自識證知自識。不應道理。自之作用於自體轉成相違故。如刀不自割，指不自觸，輕捷技人不能自乘己肩，火不自燒，眼不自見。許自識知自識之敵宗，至下當說。彼識亦非餘識能知，唯識自宗相違故。唯識教說：未得轉依果之前，若有他識能為此識所見境者，即失壞唯識宗也。以是若依唯識宗義，則彼能知畢竟非有。識未知者，而說境有，亦非道理。中觀師如是破已，唯識師曰：雖無餘識能知，然有自證。唯由自證知有依他起，故此得有。破彼頌曰：

> もし、「外なる所取を離れて、異なる体の能取も存在せず、異なる体の二取が空である依他起は実有である」と言うならば、今この依他起の存在は、いかなる識によって知られるのかを問うべきである。もし「その自らの識によって自らを知る」と言うならば、それは道理にかなわない。なぜなら、自己の働きが自己自身に及ぶことは矛盾するからである。例えば、刀は自分自身を切ることができず、指は自分自身に触れることができず、軽快な技を持つ人は自分の肩に乗ることができず、火は自分自身を焼かず、眼は自分自身を見ない。自識が自識を知ると認める敵宗の主張については、後で述べるであろう。また、その識は他の識によっても知られ得ない。なぜなら、唯識宗自身の立場に反するからである。唯識の教えによれば、転依の果を得る以前に、もし他の識がこの識の見る対象となり得るならば、唯識宗は破壊されてしまう。それゆえ、唯識宗の義に従えば、その能知は結局存在しない。識が未だ知らないのに、境が存在すると言うことも道理にかなわない。中観師がこのように破ったならば、唯識師は言う、「他の識が知ることがなくても、自証は存在する。ただ自証によってのみ依他起の存在が知られ、これによってその存在が成立する」。これを破るための頌が次のようにある。

『彼自領受不得成。』

> 「それを受け取ったとしても、現実には成就することはできない。」

若謂即彼自識領受自體，亦不成立。今當略說唯識宗自證之依據。如分別熾然論云：「唯識師說，識見二事，謂見自及見境。見境之識，變似外境相已，復為見自識之境。答曰：除見境所餘，如何見自心。」此說除見境所餘，謂離彼之外，未見有能見自體者。故唯識師說向內觀識全無二相。復說彼識自見自體為之自證，然不許彼識有能證所證之異相。二諦論釋破自證時亦云：「遠離識二性，要有能證者，乃能知無彼。若不爾者亦不應理故。」此說唯識師，成立依他起為異體二取徧計執空時，其依他起識遠離二取之自性，要先以能知之自證成立。乃可以彼為所依事，知彼無有異體二取。若先未以自證成立彼所依事，則不可以彼為所依事，成立徧計執空。此是破云：如汝所許，須以離二取相之自證，成立依他起。然彼亦不成也。有說由破如是自證故亦破諸瑜伽師各別內證之自證。及破世人名言義云我自見之自證者，實屬愚談。

> また、「その識が自己自身を領受する」ということも成立しない。ここで、唯識宗の自証の根拠について簡潔に述べよう。 『分別熾然論』にこうある。「唯識師は説く、識には見る対象が二つある、すなわち自己を見ることと境を見ることである、と。境を見る識は、外境の相に似たものを変現してから、さらに自己を見る識の境となる。答えて言う、境を見ることを除いた他のものによって、どうして自己の心を見ることができようか、と。」この「境を見ることを除いた他のもの」というのは、その外に自己の体を見ることができるものは見出されないという意味である。ゆえに唯識師は、内に向かって識を観察すると、まったく二相がないと説く。さらに、その識が自己自身を見ることを自証と説くが、その識に能証と所証という異なる相があるとは認めない。 『二諦論釈』が自証を破する際にもこう言っている。「識の二つの性質を離れるには、能証者が存在して初めて、その無を知ることができる。もしそうでなければ道理に合わないからである。」これは、唯識師が依他起を、異体の二取が遍計執された空であると成立させる際に、その依他起の識が二取の自性を離れていることを、まず能知の自証によって成立させる必要があるということを説いている。それによって初めて、それを所依の事として、その識に異体の二取がないことを知ることができる。もし最初に自証によってその所依の事を成立させなければ、それを所依の事として遍計執の空を成立させることはできない。この破斥はこうである——あなたがたが認めるように、二取の相を離れた自証によって依他起を成立させる必要があるが、その自証自体も成立しないのだ、と。 このような自証を破ることによって、瑜伽師たちが各々内証する自証までも破られるとか、世人の名言の意味で「私は自分で見た」という自証が破られるとか主張する者があるが、それはまったく愚かな議論である。

未二　破救分二，申一　敘計，申二　破執。今初

> 未第二段、救いを破る部分を二つに分ける。まず一つ目に、考えを述べることを示し、二つ目に、執着を破ることを示す。ここではまず初めの部分を説明する。

此中唯識師，許經部計，為成立自證故，作如是言：如火生時，非漸照自體及瓶等，是頓時俱照。說瓶聲時頓緣彼聲及所詮瓶。如是識生時，亦非各別漸知，是頓了自體及境。故定有自證也。其不許自證者，亦定當許有自證，若不許彼，則後時憶念境謂先見此事，及憶念能領受境者，謂我先見，皆不應理。何以故？先未領受念必不生，念心唯緣曾領受境。汝既不許自證，如前見青識當時不曾有領受故，後時有念則不得成。此是以後念為因，成立前見青識有能領受。若成立前見青識有自領受之自證者，則不得他極成之同喻，故不作如是成立也。若已成立見青識有能領受者，則此領受，不出自領受與他領受之二類。初非汝宗所許，次為自宗所破。既破領受之能遍，則領受亦不成也。此破即是成立自證最有力之正理。又此見青識，由餘識領受亦不應道理。此有二過。一應成無窮，謂若見青識，由後起之餘識知者，則彼後識，須否更由餘識證知？若不須者，前識亦應爾。若更須者，彼識亦應更須餘知。故成無窮過。成無窮者，初見青識便有領受不成之過也。二應不見餘境，謂若前識由後識知，則應不知餘色等境，不於後轉。以識相續，唯緣前識為境故。此非不定，以前前識為後後識知，則以前識為所取義而生後識。爾時不應捨內近所取義，而趣外遠事故。若謂能證前見青識之後見青識，與觀青色之見青識同時生起，無不於境轉之過者，則一補特伽羅身中，應有同類異體之二眼識，同時生起。若許爾者，經說：「諸有情類各一識相續。」則成相違。

> ここで唯識派の論師は、経量部の考えを認めた上で、自己認識（自証）を成立させるために、次のように主張する。火が生じる時、自分自身と瓶などを徐々に照らすのではなく、一瞬に同時に照らすように、「瓶」という声が発せられる時、その声と、その声が指し示す瓶の両方を瞬時に捉える。同じように、認識が生じる時も、個々に徐々に知るのではなく、自分自身と対象とを瞬時に了知する。それゆえ、自己認識は確かに存在するのである。 また、自己認識を認めない者も、実は自己認識の存在を認めざるを得ない。もしそれを認めなければ、後に「私はこのことを先に見た」と対象を記憶することや、「私は先に見た」という経験の記憶も、すべて道理に合わなくなるからである。なぜなら、先に経験していなければ記憶は生じないし、記憶の心は経験した対象だけを縁とするからである。あなたは自己認識を認めないので、例えば先に見た青い認識が、その当時何の経験も持たなかったなら、後の記憶は成立し得ない。これは、後の記憶を根拠として、先の青い認識が経験の働きを持つことを成立させるものである。 もし先の青い認識が自分自身を経験する自己認識を持つことを成立させようとするなら、相手にも認められる共通の喩えが得られないので、そのような成立は試みないのである。しかし、若し青い認識が経験の働きを持つことが成立すれば、この経験は、自己経験と他者による経験の二つに限られる。前者（自己経験＝自己認識）はあなたの宗派では認めておらず、後者（他者による経験）は我々の立場で否定される。経験全体を否定するこの論法こそが、自己認識を成立させる最も有力な正しい道理なのである。 さらに、この青い認識が他の認識によって経験されるとすることも道理に合わない。これには二つの過失がある。第一に無限遡及の過失である。もし青い認識が後から生じる他の認識によって知られるとするなら、その後の認識もまた、さらに別の認識によって知られる必要があるのか？もし必要ないなら、先の認識も同様にその必要がないだろう。もし必要なら、その後の認識もさらに別の認識を必要とすることになり、無限に遡及してしまう。無限遡及になる場合、最初の青い認識には経験が成立しないという過失が生じる。 第二に、他の対象を見ないという過失がある。もし先の認識が後の認識によって知られるとするなら、他の色などの対象を知ることができず、後の認識はそちらに向かわないはずである。なぜなら、認識の流れは前の認識だけを対象とするからである。これは不定の過失ではない。前の前の認識が後ろの後ろの認識に知られるとするなら、前の認識を捉える対象として、後の認識が生じることになる。その時、心の内側にある近い対象を捨てて、外側の遠い事柄に向かうべきではないからである。 もし「先の青い認識を証明する後の認識が、青色を見る認識と同時に生じ、対象に向かわないという過失はない」と主張するなら、一人の人の身体の中に、同じ種類で異なる二つの眼識が同時に生じることになってしまう。もしそれを認めるなら、経典に「すべての有情はそれぞれ一つの識の流れを持つ」と説かれていることと矛盾することになる。

釋論云：「諸識次第起者，如刺青蓮百瓣，由速轉故，現似頓起。」疏論解云：「如入舞場，觀舞人面，聽歌樂聲等頓緣五境云何五識不能頓起？曰：緣五境之諸識，雖次第生起，由速轉故現似頓起。」此極不應理，成立有自證之經部師及唯識師，解經說諸有情類各一識相續之義，如釋量論云：「彼等從同類，功能成决定。」是許一補特伽羅，諸同類識不能頓生。非許異類識不能頓生也。藏人多說：「如觀彩縀時，緣赤色白色等多識，豈非頓生。曰：彼諸識實是次第生，而似頓生。」此是不知經說：「各一識相續。」意說同類心王。復不知一眼識能緣多色。更不知有緣雜色之眼識也。故應解為：「他問同類識應頓生，答曰：彼等由速轉故，雖次第生現似頓生。」然說成立有自證之二宗，以速疾轉為誤認頓生之因。釋量論中已廣破斥。則此論文難以立為彼二宗義。似是梵本有誤，諸有智者更當觀察。為免無窮過，與不見餘境過故，决定當許有自證分。由境心俱能引生後念，故能比知前見青時，有領受境時與領受心者，既有自領受之自證，由此自證亦能成立有依他起。汝中觀師問：「此有由何能證知？」故如上答。

申二　破執分三，酉一　正破他宗，酉二　自宗不許自證亦有念生，酉三釋難。今初

頌曰：

『若由後念而成立，立未成故所宣說，此尚未成非能立。』

若依有自相說由後念，成立所念境之前識有自證者，則為成立所未成立之自證故，汝所宣說有自性之念。此於敵者尚未極成，非是自證之能立。如為成立聲是無常，云眼所見性。若依世間名言而說，亦無自證之果念。何以故？如火先成立，方知煙是彼果。如是要先成立自證，及念從彼生之關係，乃能由念比知自證為有。今彼自證於敵者宗尚未成立，寧得有念為自證之果。此關係不成之喻，謂如見有水火，不能比知定有水珠火珠，即無彼珠，由降雨鑽木等，亦有水火故，如是雖無自證亦有念生。下當廣說。

此非說念與自證如煙與火，從因果門由念比度自證。是如前說，由念比度前識有能領受。此復定為自領受與他領受二門，破他領受，成立為自領受，然許識為能證之經部師與唯識師所立二門寔不决定，如燈不自照。仍不失其為能照。如是內識雖不如敵宗所計能自領受，亦不失其為能領受也。若謂燈能自照者，闇亦應能自蔽。若爾如瓶在闇中不可見，闇亦應不可見矣。如中論云：「若燈能自照，亦能照於彼，闇亦應自蔽，亦能蔽於彼。」即不作如是推察，亦不應理。頌曰：

『縱許成立有自證，憶彼之念亦非理，他故如未知身生，此因亦破諸差別。』

縱許內識能自證及了境，然說念心憶彼心境亦不應理，汝許後時念心與前領受境之識，是有自性之他故。如慈氏識之自證與領受境，近密之識，先未領受不能憶念。如是自身後時所生識，亦應不能念未曾領受之心境，是自性他故，如先未知未曾領受者身中所生之識。

若謂一相續所攝者是因果法故有可念者，亦不應理。以此「是自相他故」之因，亦能破彼一相續所攝，及因果等諸差別故。此於前：「如依慈氏近密法」時，已廣論訖。

酉二　自宗不許自證亦有念生分二，戌一　此論所說，戊二　餘論所說。今初

汝既不許自證，生念之理云何？頌曰：

『由離能領受境識，此他性念非我許，故能憶念是我見，此復是依世言說。』

由離前能領受境之識，說此能憶念識是有自相他者，非我宗所許有如上已說。如種芽等親因果法，其執為自相之他者，世人通常心中無有此執，亦如前說。故前領受境，與後憶念之因果。世人俱生心，亦不執為有自相之他。非但不執，且於後時憶念前緣境識所見之境時，并可說言，我先亦見此境。故領受與念，及彼時二境，世間常心不執為名言有自相。若不爾者，則他人所領受，自亦應能念也。由前領受青識所受所了，後憶彼之識非不受不了。故能生念心，謂我先亦見此。此復是世間之言說也。不可唯以假名猶覺不足，必要推求假名立義觀察而立。以推求假立都無可得虛妄之義，即世間名言故。釋論於破自相實者之自證與念後，又云：「若依世間名言增上，亦無以自證為因之念。」此說不但勝義，即於名言亦破自證。又云：「無自證分念如何生，至下當說。」是指此段雖無自證，然由領受即能生念之理也。若念云：「我見。」是憶能見。若念云：「見此青等。」是憶彼境。若念云：「以前我自見者，我自憶念。」此是特殊憶念。他宗意謂，若有此種念心，則如見慈氏之識，應自領受。以念心是隨領受境起故。自宗雖許世間之憶念，然說能如是憶念者，非由前領受境識能自證故而起。是因前領受所了者，後念亦能了別。由境是一，故起念心謂「我以前亦曾見此慈氏」也。以是當知，如云：「我自見者，我自憶念。」此類名言自宗亦許。然此與所破之自證全不相同。

他宗安立領受與念，及彼時二境，皆是有自相之他。彼雖亦說領受與念同緣一境，及許彼二為一相續，然實不能如是安立。前已廣說。

又雖念云：「見此慈氏。」然非執此時此處所差別之慈氏，是先所見。是緣總慈氏而說。反觀內心便可了知。

戌二　餘論所說

說無自證能生念心之兩大派中，靜天論師意，如入行論云：「若無自證分，云何能念識。」此敵者宗如前廣說。於敵者宗所出之過，答云不定。自宗既無自證，念云何生耶？曰：「由念餘相連，能念如鼠毒。」由能取心領受餘所取境事，即由領受境識，引生憶識之念也。若謂由領受餘境，能引生憶內心之念，不應道理，太過失故。答曰無過，言由領受境引生憶內心之念者，非離識而念。如念：「昔見此色。」是由心境相連，憶念相連也。如於冬季身被鼠咬中毒，只覺被咬不知中毒。後聞雷聲毒發，雖亦能憶念是被咬時中毒，然非前時已覺中毒也。此中鼠咬，喻緣青識領受青境。咬時中毒，喻緣境時有能領受心。爾時自心不自領受，如被咬時不知中毒。後時憶被咬，喻憶領受境，昔能緣心雖不自證，然由憶念領受境時，即能憶念，如由憶念被咬之力，即能憶念昔時中毒也。此是論師證明無自證分而能生念之最妙道理。然諸解入行論者，似皆未能如實闡明也。

他難：後憶識之念，應非道理，前識不能自領受故。此既總答不定，故有說入行論於名言中不破自證者，非此大論師所許也。

酉三　釋難分二，戊一　釋餘現量及比量難，戊二　釋餘意識難。今初

問：自宗既亦許有緣青等識。如破他時說：「此有由何能證知，未知云有亦非理。」自宗亦應犯過。以此青識，若自知為有，應許自證。若由餘識證知，亦非理故。答：此是最難解處，若以憶念心境為喻，則易了知。如由憶境之力，即能憶內心，不須別憶內心。如是由成立青境之力，即能成立有能緣之心，離成立青境，不須別成立能緣青之心也。此復由青色境於緣青識印現有自相之力，成立青色為有，與他宗相同。其不同者，為成立此緣青內識。他宗說是，由離二取相純能取相之自證成立。復說一切識皆同。自宗則如中觀心論與二諦論本釋所說，如斯單純之能取相决定非有。故彼青識，非由自證成立。是由成立青境之力，即成立彼青識。如由憶境，即能憶心，非如他宗所許，要彼前心能自證之力，乃能憶念也。此如顯句論云：「能量之數是由所量增上决定，唯隨所量行相，安立能量之體性故。」此說能量决定為二者，是由所量决定為二增上之力而安立故。及說能量由現所量行相增上之力，安立能量自體為有。唯字是遮，如唯識與經部所許，由能量心隨所量行相轉故，成立所量，次成立能量時，捨棄前理，別說能量自體，由離二取相純能取相之自證成立。義說唯由成立所量即能成立能量也。聖者亦云：「若量自成者，則應汝能量，不待所量成，皆不待他成。」此謂若如他宗成立能量時，唯由成立所量猶嫌不足，必要能量自成立為量者，則應不待所量，成立為能量。若許爾者，一切諸法皆應不待因緣各自成立。此亦反顯，唯由成立所量，即能成立能量也。以是當知青識，非如他宗由自證成立，是由根現量成立。由緣青識成立所量，即能通達有彼識故。故一切量，皆是由成立所量即各自成立也。

戌二　釋餘意識難

問：此宗既如上說，影像與谷響等亦是色聲等處所攝。顯句論亦說：「第二月等，待無翳識，非是現事，待有翳識唯是現事。」此宗於說明現字，為色聲等境之寔名，為緣彼心之假名時，說第二月等，待世常人，雖有是否現事之別。然自宗則許，第二月等亦是所量現事。故諸根識，不論待世常人為錯不錯亂，但由成立各自所量，即能成立為內心也。然則不許自證者，應不能安立因位，於所見境及所著境之錯亂意識，以彼諸識，不能由成立各自所量，而成立內心故。答：此宗離六識外，不許更有異識，故除依止色根與唯依止意根之二種量外，亦不許餘量。顯句論說：現比二量與聖教量，譬喻量之四量者，是依迴諍論本釋而說。其後二量亦比量攝。四百論釋云：「非一切法皆是現識所了，亦有比量所通達者。」又現量中，他宗說有四種現量，自證現量是此所破。意識現量亦與因明中所說者不同。四百論釋中解釋對法所說色等五處，各為根識意識所了時，云：「非由二識共知一境，是先起一識，親了境相，次第二識，非親知彼相，由根識之力，起如是分別，即安立彼識為了知彼境。」此說先起根識，親了色等境義，由根識力意識亦了，然非如根識親了也。說念亦爾。四百論釋又云：「非如受等領納行相，亦非如色聲等，由諸根親知。」此說量度現事僅有二種，一如根識親見色等，二如受苦樂等，由內心領納而知。此後者，因位亦許有。但離四現量外，此宗未說更有現量。然不可立為瑜伽現量與根現量及自證現量。故當立為意現量攝。雖說意現量與因明論者不同，然非不許意現量也。如是受字，可通作者，作用，作業。如云此人受，由此受，受此事。其第二種屬於能量即受心所。第三是所量，有苦樂捨，此是依意識增上而說。根識之三受則能親知色聲等境，成立之理如上已說。

若意識受，能現知苦樂等，寧非自證耶？曰不然。所破之自證，是一切識唯向內緣，永離能證所證之異相，係單純之能取相。此是經說以領納為相之受心。世間名言亦說受苦樂故。此有能受所受之異相，故與自證不同。由能成立受苦樂等，即能成立能受心也。

又如意識見骨鎖等法處色時，由於意識現彼等相，即由意識成立彼等。成立緣彼之識，與前理同，彼境亦與意識各異。

又如二種我執之意識，成立之理，如顯句論云：「隨是所相，自相，共相，凡世間所有者，一切皆是現可得故非不現事。故與彼能緣識同安立為現事。」此說能相所相一切皆是現可得者，是明四量中之現量時說，故非是說由一切種智現前可得。又云：「緣不現境，從不錯因所生之識是名比量。」故亦非說一切自相共相，唯是現事無不現事也。以是當知，若識緣於自相共相，彼識即有二相之相現。其所現相即彼識之現境。安立彼境與彼識俱為現事。故許現字，為彼境之實名，為彼心之假名。若於此識有彼相現，即說彼相為此識現境。彼現境於此識為現見事，此識於彼境為不欺誑識。世間共許不欺誑識為能量，故此識亦是能量，爾時彼所量相，即由此識而得成立。其成立此識之理亦同上說。故二種我執亦是現見二種我相，彼所量現相，即由此二執成立等，亦同上說。其餘於所著境錯亂之內識，皆當如是了知。

如是諸識，雖於所現境同是現量，然於二我，二無我，及色常無常等，是量非量，則大有差別。故內心是量非量之建立，亦皆能成立也。如上所說，於所現境為能量之意識，當知是於彼現境之意現量，以是餘量皆已遮故。不可說是自證現量，以於彼境有二取相故。根本無漏智，離二取相，而與法性，有能證所證。與一切諸識唯向內觀，離二取相仍有能證所證者，全不相同。後者唯是宗派假立之能證所證，即以觀慧審諦觀察，終不見有能證所證之二相。前者不然，只要用意觀察，能證之智與所證之法性境，即各別現故。由根本無分別智成立所量之法性時，即由此力便能成立能緣之智。此智離能證所證之二相，與他宗所說，一切諸識唯向內觀永離二相純能取相之差別，後果地時當廣說。

自破他云：「此有由何能證知」等，所說眾過。他反難時，其不知各宗微細建立者，復不能以自宗了義聖教最精微義，及最難通達之深細正理而釋他難。唯樂狡辯，云我宗無所許故不犯過者。實不需知如斯精微建立，然諸聰叡智士，若不見以精細正理，簡擇得失之正道，便不能信受。吾為此輩，故略示安立此宗無過之門徑也。

問：其念：「我見青色」，此我是補特伽羅，與緣青識相違。如是念時，如何是念緣青識耶？答：緣青眼識與見青之補特伽羅，雖屬相違。然以彼識見青為緣，即可安立是我見青，并不相違。如是由念緣青眼識見青為緣，云我先見青。說此補特伽羅，即念緣青眼識，何違之有。

未三　以餘正理明自證非理

由是因緣，頌曰：

『是故自證且非有，汝依他起由何知，作者作業作非一，故彼自證不應理。』

是故自證且非是有，汝唯識師所說依他起性，為由為識證知為有耶？又由能斫木之作者，與所斫之木，及斫木之作用，三非是一。故說彼識能自證知不應正理。此違害之理，如二諦論釋云：「於識自體，不見有諸極微及離二相之體性。不可見者即無言說。」安立諸識唯向內觀離二取相領受體性，自為能證所證。然以觀慧任何觀察，終不見有能證所證。若於彼上能安立能證所證者，則餘作者作業作用，皆應成一也。故智藏論師說：唯識宗之自證與小乘部之無方分極微，有無相等。以無方分極微，亦必有所在處。見彼相時離諸方分則無可見。故說彼二之能證所證與無方分，純屬宗派之假立也。

若說彼二是見而不定法，亦不應理。如二諦論釋云：「若謂此是見而不定。如是亦無言說。縱言可見，不可信故，唯可飲誓水。此謂唯有盟誓成立為可見。」又以楞伽經所說道理，亦能證明自證非有。經云：「如劍不自割，指亦不自觸，如是應知心，不自證亦爾。」

未四　明依他起有自性同石女兒

頌曰：

『若既不生復無知，謂有依他起自性，石女兒亦何害汝，由何謂此不應有。』

依他起性不從自他生，既如前說。今復宣說，無有能知彼之自證。若既不由自性生，又無量能知，而謂依他起事是有自性。則由何道理謂石女兒不應有。此石女兒，於汝唯識師復有何害。汝今亦可許彼為有。謂石女兒，離一切戲論，唯聖智所行，是離言自性也。

午二　明唯識宗失壞二諦

又汝前說：「是假有法所依因。」若依他起是有自性，雖可應理。頌曰：

『若時都無依他起，云何得有世俗因。』

若時依他起都無少分自性，則說名言世俗錯亂之因為寔物，云何得有也。此明由計依他起勝義有故，即失壞勝義諦。故唯識師所說世間名言之因，非有自性。頌曰：

『如他由著實物故，世間建立皆破壞。』

嗚呼可嘆，如他唯識師，由無簡擇究竟了義之慧力，執著依他起物，以為真實。矩知依他起法如未燒之泥瓶，非理觀察如注以水。由智慧惡劣故，例如觀待世間共許之建立，坐，去，作等，及諸外色與從外境所生之受等，皆被破壞。故唯識師唯護衰損，不能證得增上勝道。由破外境，乃破去坐等諸外事乎。此明唯識宗失壞世俗諦。

午三　唯龍猛宗應隨修學

如是由師倒說不了義為了義，不得佛意，隨自分別妄造宗派。入彼道者，頌曰：

『出離龍猛論師道，更無寂滅正方便。』

出離龍猛菩薩所開之軌道，更無能得寂滅涅槃之正方便。何以故？頌曰：

『彼失世俗及真諦，失此不能得解脫。』

由出此外者，决定失壞世俗諦及勝義諦。失壞二諦者，至未捨盡彼執，决定不能證得解脫。何以故？頌曰：

『由名言諦為方便，勝義諦是方便生，不知分別此二諦，由邪分別入岐途。』

由不顛倒名言諦之建立，即是如寔通達勝義諦之方便。如寔通達勝義諦，是從上說方便生起之果。故不知此二諦之差別者，即由邪分別誤入歧途。此明未知無過失之名言建立，必不能如實通達真勝義諦。故唯當隨學龍猛菩薩所開闢之軌道也如見真實三摩地經（即寶積經見實會）云：「世間智者於寔法，不從他聞自然解，所謂世俗及真諦，離此更無第三法。」此明佛自力宣說二諦，及明一切所知，决定唯二諦所攝。次云：「眾生為求安樂故，於善逝所生信心，如來悲愍於一切，為利世間說俗諦。」此明說世俗諦之所為。又云：「人中獅子設世俗，顯示眾生為六趣，地獄畜生及餓鬼，阿修羅趣與人天，下賤種姓高貴族。大富家庭與貧舍，奴僕之屬及婢使，男女等類并二根，所有眾生諸差別，佛無比者為世說，智者了知世俗諦，佛為利人故宣說。」此明宣說世俗諦相。又云：「眾生著此淪生死，不能脫離世八法，所謂利衰及毀譽，所有稱譏并苦樂，得利即便生忻喜，失利便起瞋怒心，餘未說者皆應知，八病恆損於世間。」此明樂著世俗為實有者，便恆追求世間八法，為彼所惱流轉生死。及明八法中初二法，餘未說者亦當例知。又云：「誰說世俗為勝義，應知彼人慧顛倒。」此明若誰說世俗六道等法，為勝義實有，當知彼是具顛倒慧者。故說自教如是計者亦是錯謬宗派。又云：「不淨苦中說淨樂，於無我性說有我。無常法中說是常，住此相中而愛著。彼聞如來所說法，恐怖誹謗不信受，誹謗如來正法已，墮地獄中受劇苦，凡愚非理求安樂，轉受無量百千苦。」此明串習四倒及被成立四倒邪宗所迷之外道輩，聞佛聖教，憎背誹謗，由此力故墮地獄中。及明彼等以非理方便求解脫樂，非但不得，反受無量大苦。又云：「若有於佛正法中，如寔觀察不顛倒，超出諸有入湼槃，如蛇脫去其故皮。一切諸法自性離，空無有相第一義，若聞此法生愛樂，必得無上大菩提。佛見諸蘊皆空寂，諸界及處亦復然，諸根聚落咸離相，能仁皆悉如寔知。」此明無倒通達甚深教義，便能解脫生死。次問如何通達？謂聞一切諸法，皆離自性之教，心生愛樂，了達其義，必當證得大菩提也。前明世俗，此明勝義。界謂地等界，處謂色聲等處。故諸不知世俗假立，與勝義諦無自性者，寧得解脫。故唯識師皆是轉入歧途者也。

此說名言諦為方便者，如三摩地王經云：「無文字法中，何說何可聞？於不變增益，故有聞有說。」初二向明勝義無文字。於彼勝義無文字之法中，以分別心增益假立，故有聞有說。字之梵語為阿乂囉，通字與不變二義，此處若譯為無字尤妥。增益，雖多釋為：「於無計有，於非計是。」然不限於彼義。凡由分別假立者皆可謂增益也。唯依世俗諦，始可宣說勝義諦，由此乃能通達勝義而得勝義湼槃。如中論云：「若不依俗諦，不得第一義，不得第一義，則不得湼槃。」

午四　明破依他起與破世俗名言不同

若汝於我等極不顧忌，我今於汝亦不容忍。汝僅善破他宗，謂以正理觀察不應理故，破依他起自性。我今仍以破自他生等道理，破汝所許之世俗。曰：如無始以來，經百千艱苦所積財寶被他奪去，詐現親善，授以毒食，還奪其財，深心慶喜。我等奪汝依他起性寔執之境，寔為饒益，若汝於我以怨報德，深心歡喜者，可隨汝欲。我等自得勝善利益也。頌曰：

『如汝所計依他事，我不許有彼世俗，果故此等雖非有，我依世間說為有。』

如汝唯識師，計依他起事是有自性。三十論云：「非不見此彼。」是聖智所證。是自力許。是汝自宗許有。如是有自性之世俗，非我所許也。此蘊等諸法皆無自性，唯由世間共許為有。故我唯依世間說彼為有也。此中世俗蘊等，依世間名言安立，有二道理：一中觀師自宗所安立之世俗，是依名言量安立，非依理智安立。二有時為化導增上，安立蘊等有自性者，是唯就他力而立，非是自宗所許。故破此二各有不同。唯就他力而立者，論曰「果故」，是有所為而立者。為令所化捨棄邪宗，漸次通達真寔義之方便也。此文非說一切建立，皆就他立，自宗不許。由所引教證，亦可了知。如引三律儀經云：「世間與我諍，我不與世間諍，世間說有者我亦說有，世間說無者我亦說無。」七十空性論云：「生住滅有無，以及劣等勝，佛依世間說，非是依真寔。」此說安立有無等，皆是依世間共許之名言增上而立也。頌曰：

『如斷諸蘊入寂滅，諸阿羅漢皆非有，若於世間亦皆無，則我依世不說有。』

如諸阿羅漢，永斷諸蘊入無餘依妙湼槃界，則一切世俗法，皆悉非有。若此世俗法，於世間亦如是無者，則我依世間名言，亦不說為有。故我唯依世間名言增上，許有世俗法。非不依世間名言，由自力許有也。

又此，唯由世間先許為有，汝應唯待世間而破，不可待餘中觀師而破也。頌曰：

『若世於汝無妨害，當待世間而破此，汝可先與世間諍，後有力者我當依。』

我等為遣除自身之錯亂世俗境故，設大劬勞而修諸道。若世間於汝無妨害者，汝當唯待世間破此世俗。若汝之道理能破世俗，我亦當相助。然以世間寔相妨害，故我等不能助汝，唯當旁觀。汝可先與世間諍辯，諍辯之後誰強有力，我即當依止之。如果汝勝，我願依汝。若汝為世間所敗，則當依止有強力之世間。如是若無外境，則違害名言量。故不能成立外境非有。

問：諸唯識師，以無無方分之極微，破彼極微所合成之外境。此理，豈不能破無方分之外境耶？答：非說正量不能破彼等，然破彼等，不必無外境。由此當知，雖破無時分之內識，及彼識所續成之相續。然亦不必破內識也。他宗意謂，若能破無方分之外境，則亦能破，於所見境不錯亂之根識。錯亂根識，既不能安立其境為有，故亦破其外境也。此宗則謂，錯亂根識，雖不能安立其所量，為真實有，然安立其所量為虛妄，適成相宜。此亦是提婆菩薩之意趣，如四百論云：「謂一有一無，非真非世間。」此說分別心境有無，俱非二諦之建立。故如是分別，亦非龍猛菩薩所許也。

巳二　明說唯心非破外境分三，午一　解釋地經說唯心之密意，午二　明外境內心有無相同，午三　解楞伽經說唯心之密意。初又分三，未一　以釋地經成立唯字非破外境，未二　復以餘經成立彼義，未三　成立唯字表內為主。今初

問：若汝怖畏世間妨難，雖無觀察真實正理成立，而許有世俗者。亦應怖畏聖教妨難，而許唯識。如釋地經云：「如是三界皆唯有心。」答：佛所說經如琉璃寶地，汝不知彼是琉璃體，迷為寔事識水。今欲取彼寔事識水，汝之智慧如未燒瓶，試為汲浸必當碎成百片。徒為知彼體者之所恥笑。此經密意，非如汝慧之所解也。若爾經義云何？頌曰：

『現前菩薩已現證，通達三有唯是識，是破常我作者故，彼知作者唯是心。』

經說第六現前地，現證法界，由有思得一切種智菩提之心，故名菩薩。彼能通達三界諸有唯是識者，是令破除常我作者，通達世俗作者唯是心故。彼菩薩能通達世間作者唯是一心。如釋地經云：「隨順行相觀察緣起。如是但生純大苦蘊純大苦樹。其中都無作者受者。彼復作是念，由執作者，方有作業。既無作者，於勝義中業亦無得。彼復作是念，如是三界皆唯有心，如來分別演說十二有支，一切皆依一心而立。」乃至廣說。此經但成立無作者受者。解釋唯心之義，則說十二有支皆依一心。故此經之唯字，但遮離心之作者，不遮外境。此之敵宗，是如攝大乘論云：「此中教者，如釋地經，薄伽梵說，如是三界皆唯有心。」由教理比知唯識中，引此為教證。二十唯識論，亦引彼教。謂心字意取相應心心所法，唯字遮遣外境。如上破者，清辨論師曾先破，月稱論師亦隨破。

未二　復以餘經成立彼義

如是已說釋地經義，唯心之唯字是破餘作者。更以餘經顯示此義。頌曰：

『故為增長智者慧，徧智曾於楞伽經，以摧外道高山峯，此語金剛解彼意。』

由此唯字破餘作者，是釋地經義故。復為增長諸能通達真實義智者之慧故。佛一切智於楞伽經中，曾以如下所述此語金剛，摧壞外道身中，執我及自性等為世間作者之惡見高山，解釋餘經宣說唯心之密意。其語金剛，如楞伽經云：「餘說數取趣，相續蘊緣塵，自性自在作，我說唯是心。」此謂：餘人說補特伽羅，乃至大自在天以為作者。我說彼等皆非作者，作者唯是自心。今為解釋此經義故。頌曰：

『各如彼彼諸論中，外道說數取趣等，佛見彼等非作者，說作世者唯是心。』

各如外道自宗彼彼論中，說補特伽羅等以為作者。等取相續及蘊等。佛見彼等皆非作者，故說世間作者，唯是自心。頌言外道，意取多分。以內道佛弟子，亦假立補特伽羅及相續等，為作者故。或凡計補特伽羅等為作者者，即非內道佛弟子數，如同外道，不能無倒通達佛經之義，故外道言，能徧一切也。寶鬘論亦云：「凡說人蘊者，世間數論師，鵂鶹徒無衣，問彼離有無。故知唯佛教，宣說甘露法，離有無甚深，是正法殊勝。」此說，凡說補特伽羅與諸蘊為實物者，雖似宣說雙離有無二邊之義。應當問彼，彼必不能解說其義。是故當知永離有無二邊之教義，唯是正法差別，是為他宗所無之勝法。

由此生死無始故，諸惡分別何所不有，何不當有。即現在世，白淨斷等，亦計實有蘊等而為作者。有本作「白淨乞等」，疏中譯作：「苾芻白淨等」，釋彼義，謂諸露形苾芻。然斷是靜慮之名，故是內道說諸蘊實有為作者之一派，名白淨靜慮者也。

## 入中論善顯密意疏卷九終