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title: "大唐西域記 · 迦濕彌羅國"
description: "大唐西域记由唐代高僧玄奘口述，辩机执笔编纂，成书于贞观二十年（646年）。全书十二卷，详实记录了玄奘西行求法十九年间游历西域、印度等一百三十八国的地理风貌、政治制度、宗教文化及佛教遗迹。作为古代中外交通史的重要文献，该书保存了7世纪中亚南亚的珍贵史料，对研究佛教传播、丝路文明具有不可替代的学术价值。书中对那烂陀寺等佛教圣地的记载尤为详尽，是考证印度佛教史的核心依据，被列为汉传佛教四大旅行记之首，在世界宗教史与地理学领域享有崇高地位。"
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迦濕彌羅國，周七千餘里。四境負山，山極陗峻，雖有門徑，而復隘狹，自古隣敵無能攻伐。國大都城西臨大河，南北十二三里，東西四五里。宜稼穡，多花果，出龍種馬及欝金香、火珠、藥草。氣序寒勁，多雪少風。服毛褐，衣白㲲。土俗輕僄，人多怯懦。國為龍護，遂雄隣境。容貌妍美，情性詭詐。好學多聞，邪正兼信。伽藍百餘所，僧徒五千餘人。有四窣堵波，並無憂王建也，各有如來舍利升餘。

> 迦湿弥罗国，方圆七千多里。四境环绕高山，山势极为陡峭险峻，虽然有山口通道，但又狭窄险要，自古以来邻国敌军都无法攻伐。国中大都城西临大河，南北长十二三里，东西宽四五里。此地适宜耕种，花果繁多，出产龙种马以及郁金香、火珠、药草。气候寒冷凛冽，多雪少风。民众身穿毛褐，也穿白棉布。当地风俗轻浮急躁，人们大多胆小怯懦。此国因受龙神护佑，因而称雄于邻境。民众容貌俊美，性情诡诈。好学多闻，正邪之教都兼信奉。境内有一百多所寺院，僧徒五千余人。有四座窣堵波，都是无忧王（阿育王）所建造，每座都藏有如来舍利约一升有余。

《國志》曰：國地本龍池也。昔佛世尊自烏仗那國降惡神已，欲還中國，乘空當此國上，告阿難曰：「我涅槃之後，有末田底迦阿羅漢，當於此地建國安人，弘揚佛法。」如來寂滅之後第五十年，阿難弟子末田底迦羅漢者，得六神通，具八解脫，聞佛懸記，心自慶悅，便來至此，於大山嶺，宴坐林中，現大神變。龍見深信，請資所欲。阿羅漢曰：「願於池內，惠以容膝。」龍王於是縮水奉施。羅漢神通廣身，龍王縱力縮水，池空水盡，龍飜請地。阿羅漢於此西北為留一池，周百餘里；自餘枝屬，別居小池。龍王曰：「池地總施，願恒受供。」末田底迦曰：「我今不久無餘涅槃，雖欲受請，其可得乎？」龍王重請：「五百羅漢常受我供，乃至法盡，法盡之後，還取此國以為居池。」末田底迦從其所請。時阿羅漢既得其地，運大神通力，立五百伽藍。於諸異國買鬻賤人，以充役使，以供僧眾。末田底迦入寂滅後，彼諸賤人自立君長，隣境諸國鄙其賤種，莫與交親，謂之訖利多唐言買得。今時泉水已多流濫。

> 『国志』に曰く、この国の地はもともと龍の池であった。昔、仏世尊が烏仗那国から悪神を降伏させた後、中国に帰ろうとされた際、この国の上空を飛行された。そのとき阿難に告げられた：「我が涅槃の後、末田底迦阿羅漢がこの地に国を建て、人々を安んじ、仏法を広めるであろう。」如来が寂滅に入られてから五十年後、阿難の弟子である末田底迦羅漢は、六神通を得て、八解脱を具えていた。彼は仏の予言を聞いて心から喜び、この地にやって来た。そして大山の嶺に至り、林の中で座禅し、大神変を示した。龍はこれを見て深く信心を起こし、望みのものを捧げることを請うた。阿羅漢が言った：「願わくば、池の中で膝を置くほどの場所を恵んでください。」龍王はそこで水を縮めて差し出した。阿羅漢は神通力で身を広げた。龍王は力を尽くして水を縮めたが、池は空になり水は尽きた。龍は翻って地を請うた。阿羅漢はこの西北に一つの池を残し、周囲は百余里あった。その他の支流は別々に小さな池に住んだ。龍王が言った：「池の地はすべて施します。どうか常に供養を受け続けてください。」末田底迦が言った：「私はまもなく無余涅槃に入る。供養を受けたいと思っても、それが可能であろうか。」龍王は重ねて請うた：「五百羅漢に常に私の供養を受けさせてください。法が尽きるまで、そして法が尽きた後は、この国を取り戻して池とします。」末田底迦はその請いを許した。そのとき阿羅漢はすでにその地を得て、大力の神通を用いて五百の伽藍を建てた。諸々の異国から安い値で賤しい人々を買い求め、労役に使役し、僧侶たちに供養させた。末田底迦が寂滅に入った後、その賤しい人々は自ら君長を立てた。隣接する諸国はその賤しい種族を軽蔑し、誰も交わりを結ばなかった。これを訖利多（唐で買得という）と呼んだ。今では泉水がすでに多く流れ出している。

摩揭陀國無憂王以如來涅槃之後第一百年，命世君臨，威被殊俗。深信三寶，愛育四生。時有五百羅漢僧、五百凡夫僧，王所敬仰，供養無差。有凡夫僧摩訶提婆唐言大天，闊達多智，幽求名實，潭思作論，理違聖教，凡有聞知，群從異議。無憂王不識凡、聖，同情所好，黨援所親，召集僧徒赴殑伽河，欲沈深流，總從誅戮。時諸羅漢既逼命難，咸運神通，凌虛履空，來至此國，山棲谷隱。時無憂王聞而懼，躬來謝過，請還本國。彼諸羅漢確不從命。無憂王為羅漢建五百僧伽藍，總以此國持施眾僧。

> 摩揭陀国の無憂王は、如来が涅槃に入られた後の第一百年に、世に君臨し、その威光は遠く異国にまで及んだ。彼は深く三宝を信じ、すべての生きとし生けるものを慈しみ育てた。 その当時、五百人の阿羅漢の僧侶と五百人の凡夫の僧侶がいた。王は彼らを敬い慕い、平等に供養を捧げた。 ところが、凡夫の僧侶の一人にマハーデーヴァという者がいた。中国語で「大天」と訳される。彼は度量が大きく聡明で、深く真理を探求し、思索を重ねて論を著したが、その内容は聖者の教えに反するものであった。これを聞いた者たちは、こぞって異議を唱えた。 しかし、無憂王は凡夫と聖者の区別ができず、自分の好みに従い、身近な者を贔屓した。彼は僧侶たちをガンジス川の畔に集めさせ、深みに沈めて全てを殺そうとした。 その時、阿羅漢たちは命の危険に瀕し、神通力を発揮して、虚空を飛び越え、この国にやって来て、山や谷に隠れて暮らした。 無憂王はこれを聞いて恐怖し、自ら訪れて謝罪し、本国へ戻るよう懇願した。しかし、阿羅漢たちは頑として応じなかった。 そこで無憂王は阿羅漢たちのために五百の僧院を建て、この国全体を僧侶たちに布施として捧げたのである。

健馱邏國迦膩色迦王，以如來涅槃之後第四百年，應期撫運，王風遠被，殊俗內附。機務餘暇，每習佛經，日請一僧入宮說法，而諸異議部執不同。王用深疑，無以去惑。時脇尊者曰：「如來去世，歲月逾邈，弟子部執，師資異論，各據聞見，共為矛楯。」時王聞已，甚用感傷，悲歎良久，謂尊者曰：「猥以餘福，聿遵前緒，去聖雖遠，猶為有幸，敢忘庸鄙，紹隆法教，隨其部執，具釋三藏。」脇尊者曰：「大王宿殖善本，多資福祐，留情佛法，是所願也。」王乃宣令遠近，召集聖哲。於是四方輻湊，萬里星馳，英賢畢萃，叡聖咸集。七日之中，四事供養。既欲法議，恐其諠雜。王乃具懷白諸僧曰：「證聖果者住，具結縛者還。」如此尚眾。又重宣令：「無學人住，有學人還。」猶復繁多。又更下令：「具三明、備六通者住，自餘各還。」然尚繁多。又更下令：「其有內窮三藏、外達五明者住，自餘各還。」於是得四百九十九人。王欲於本國，苦其暑濕，又欲就王舍城大迦葉波結集石室。脇尊者等議曰：「不可。彼多外道，異論糺紛，酬對不暇，何功作論？眾會之心，屬意此國。此國四周山固，藥叉守衛，土地膏腴，物產豐盛，賢聖之所集往，靈僊之所遊止。」眾議斯在，僉曰：「允諧。」其王是時與諸羅漢自彼而至，建立伽藍，結集三藏，欲作《毘婆沙論》。是時尊者世友，戶外納衣。諸阿羅漢謂世友曰：「結使未除，淨議乖謬，爾宜遠迹，勿居此也。」世友曰：「諸賢於法無疑，代佛施化，方集大義，欲製正論。我雖不敏，粗達微言，三藏玄文、五明至理，頗亦沈研，得其趣矣。」諸羅漢曰：「言不可以若是。汝宜屏居，疾證無學，已而會此，時未晚也。」世友曰：「我顧無學，其猶涕唾，志求佛果，不趨小徑。擲此縷丸，未墜于地，必當證得無學聖果。」時諸羅漢重訶之曰：「增上慢人，斯之謂也。無學果者，諸佛所讚，宜可速證，以決眾疑。」於是世友即擲縷丸，空中諸天接縷丸而請曰：「方證佛果，次補慈氏，三界特尊，四生攸賴，如何於此欲證小果？」時諸羅漢見是事已，謝咎推德，請為上座，凡有疑議，咸取決焉。是五百賢聖，先造十萬頌《鄔波第鑠論》舊曰《優波提舍論》，訛也。釋《素呾纜藏》舊曰《修多羅藏》，訛也。次造十萬頌《毘柰耶毘婆沙論》，釋《毘奈耶藏》舊曰《毘那耶藏》，訛也。後造十萬頌《阿毘達磨毘婆沙論》，釋《阿毘達磨藏》或曰《阿毘曇藏》，略也。凡三十萬頌，九百六十萬言，備釋三藏，懸諸千古，莫不窮其枝葉，究其淺深，大義重明，微言再顯，廣宣流布，後進賴焉。迦膩色迦王遂以赤銅為鍱，鏤寫論文，石函緘封，建窣堵波，藏於其中。命藥叉神周衛其國，不令異學持此論出，欲求習學，就中受業。於是功既成畢，還軍本都。出此國西門之外，東面而跪，復以此國總施僧徒。

> 健驮邏国の迦膩色迦王は、如来の涅槃から四百年後に生まれ合わせ、時勢に応じて国を治め、その王の威徳は遠くまで及んだ。異なる風俗の者たちも皆、内附して従った。王は政務の合間の暇に、常に仏経を学び、毎日一人の僧を宮中に招いて説法を請うた。しかし、諸派の宗義はそれぞれ異なり、同じではない。王は深く疑問を抱き、その惑いを晴らす術がなかった。 その時、脇尊者が言った。「如来が世を去られてから、月日は遠く経過しました。弟子たちの宗派はそれぞれ異なり、師と弟子の間でも教えの解釈が分かれ、各自が見聞きしたところに基づいて、互いに矛盾し合っております。」 これを聞いた王は大いに心を痛め、長く悲しみ嘆いて、尊者に言った。「私は微かな福徳により、かろうじて先人の事業を継いでおります。聖者を離れること遠いとはいえ、なお幸いに恵まれております。どうして凡庸な身であることを顧みず、仏法を興隆させることを怠りましょう。諸派の宗義に従って、三蔵をすべて解釈せしめたいと思います。」 脇尊者が言った。「大王は前世から善根を植え、多くの福徳を積まれ、仏法に心を留められています。それはまさに私が望むところであります。」 そこで王は遠近に令を布告し、聖なる智者たちを召集した。すると四方から人々が車輪の輻のように集まり、万里を星のように疾駆して、優れた賢者たちが皆集まり、聡明な聖者たちがすべて参集した。七日間にわたり、衣服・飲食・臥具・薬の四事で供養した。 いよいよ法義の議論を行おうとしたが、雑踏して喧騒になるのを懸念した。王は僧たちに告げた。「聖果を証得した方は留まり、煩悩の絆にとどまる者は帰ってください。」 しかし、このように言ってもなお大勢いた。王は再び命じた。「無学の位に達した者は留まり、有学の者は帰ってください。」 それでもまだ多かった。さらに命じた。「三明を具え、六通を備えた者は留まり、そのほかの者はそれぞれ帰るように。」 しかし、それでもなお多い。さらに命じた。「内には三蔵を究め、外には五明に通じた者は留まり、そのほかの者はそれぞれ帰るように。」 こうして四百九十九人が選ばれた。王は自国の暑さや湿気を苦にして、王舎城の大迦葉波が結集した石室で行おうとした。しかし脇尊者らは議して言った。「それはならない。あの地には外道が多く、異論が入り乱れており、応酬する暇もなく、どうして論を作る功績が上げられましょうか。衆会の心は、この国に留まるべきだと向いております。この国は四方を山で囲まれ、薬叉が守護し、土地は肥沃で、物産は豊かであり、賢聖たちが集まり往来し、霊仙が遊び住むところであります。」 衆議はそこにあり、皆が「それは妥当である」と言った。そこで王は羅漢たちと共にそこからその地に赴き、伽藍を建立し、三蔵を結集し、『毘婆沙論』を作ろうとした。 その時、尊者世友は戸外で衣を掛けていた。阿羅漢たちが世友に言った。「あなたは煩悩の結使をまだ除いておらず、清らかな議論を妨げる恐れがある。あなたは遠くへ去って、ここに留まらない方がよいでしょう。」 世友が言った。「皆さんは法について疑いなく、仏に代わって教化を示し、今まさに大義を集めて正しい論を製そうとされている。私は賢明ではありませんが、粗方微細な言葉を理解し、三蔵の深遠な文、五明の至理についても、かなり深く研究し、その趣旨を得ております。」 羅漢たちが言った。「言葉はそのようであるべきではない。あなたは隠居して、速やかに無学の果を証得し、その後ここに会するのでも遅くはないでしょう。」 世友が言った。「私にとって無学の果を得ることは、鼻水や唾を吐くようなものであります。私は仏果を求める志を持ち、小径を急ぎません。この糸の玉を投げ上げ、地に落ちないうちに、必ず無学の聖果を証得してみせましょう。」 その時、羅漢たちは重ねて叱った。「増上慢の人とは、まさにこのことを言うのだ。無学の果は、諸仏が讃嘆するところである。速やかに証得して、衆人の疑いを決するべきである。」 そこで世友は即座に糸の玉を投げ上げると、空中の天人が糸の玉を受け取って請うた。「あなたはまさに仏果を証得する方であり、次に慈氏（弥勒）の補処となる方です。三界において特に尊く、四生が頼りとするところです。どうしてここで小さな果を証得しようとするのですか。」 羅漢たちがこの事を見て、過ちを謝し、徳を推し讃え、世友を上座に請じた。疑義議論があれば、すべて彼の決定を仰いだ。 この五百人の賢聖たちは、まず十万頌の『鄔波第鑠論』（旧には『優波提舍論』といったが、誤りである）を作り、『素呾纜藏』（旧には『修多羅藏』といったが、誤りである）を釈し、次に十万頌の『毘奈耶毘婆沙論』を作り、『毘奈耶藏』（旧には『毘那耶藏』といったが、誤りである）を釈し、後に十万頌の『阿毘達磨毘婆沙論』を作り、『阿毘達磨藏』（あるいは『阿毘曇藏』ともいい、省略である）を釈した。 合わせて三十万頌、九百六十万言で、三蔵をすべて解釈し、千古に伝えた。その枝葉を窮め、その深浅を究め、大義は再び明らかになり、微細な言葉も再び顕れた。広く流布し、後進の者たちはそれに頼ったのである。 迦膩色迦王はついに赤銅の薄板に論の文を彫り写し、石の箱に封じて、窣堵波（卒塔婆）を建ててその中に収めた。薬叉神に国の周囲を守らせ、異学派の者がこの論を外に持ち出さないようにした。学び求めんとする者は、その中に入って教えを受けることを許した。 こうして事業が成り終わると、王は軍を率いて本都に帰還した。この国の西門の外に出て、東に向かって跪き、再びこの国を僧徒に総べて施与したのである。

迦膩色迦王既死之後，訖利多種復自稱王，斥逐僧徒，毀壞佛法。覩貨邏國呬摩呾羅王唐言雪山下，其先釋種也。以如來涅槃之後第六百年，光有疆土，嗣膺王業，樹心佛地，流情法海。聞訖利多毀滅佛法，招集國中敢勇之士，得三千人，詐為商旅，多齎寶貨，挾隱軍器，來入此國。此國之君，特加賓禮。商旅之中，又更選募，得五百人，猛烈多謀，各袖利刃，俱持重寶，躬齎所奉，持以獻上。時雪山下王去其帽，即其座，訖利多王驚懾無措，遂斬其首，令群下曰：「我是覩邏國雪山下王也。怒此賤種公行虐政，故於今者誅其有罪。凡百眾庶，非爾之辜。」然其國輔宰臣，遷於異域。既平此國，召集僧徒，式建伽藍，安堵如故。復於此國西門之外，東面而跪，持施眾僧。其訖利多種屢以僧徒覆宗滅祀，世積其怨，嫉惡佛法。歲月既遠，復自稱王。故今此國不甚崇信，外道天祠，特留意焉。

> 迦膩色迦王が亡くなった後、訖利多（キリタ）の種族が再び王を自称し、僧侶たちを追放し、仏法を破壊した。 睹貨邏（トカラ）国の呬摩呾羅王（雪山の下という意味）は、その先祖が釈迦の種族であった。如来の涅槃後第六百年に、疆土を広く領有し、王業を継いだ。心を仏の地に定め、情を法の海に注いだ。 訖利多が仏法を滅ぼしたと聞き、国中の勇敢な者たちを招集し、三千人を得た。彼らに商人を装わせ、多くの財宝を携えさせ、武器をひそかに身に隠して、この国に入った。 この国の王は、特に賓客の礼をもってこれらを遇した。商人たちの中からさらに選び募り、五百人を得た。剛勇で多く謀略に長けた者たちで、それぞれ鋭い刃を袖に隠し、みな重い宝を携え、自ら捧げる品を携えて王に献上した。 この時、雪山下王は帽子を脱ぎ、その座に就いた。訖利多王は驚き恐れてなす術もなく、ついにその首を斬られた。王は群臣に命じて言った、「我は睹貨邏国雪山下王である。この賤しい種族が公に暴政を行ったことに怒り、故に今、有罪の者を誅したのだ。すべての民衆よ、あなたたちに罪はない。」 しかし、その国の宰相や重臣たちは、他国へ移された。 この国を平定した後、僧侶たちを招集し、伽藍を建立し、以前のように安堵させた。また、この国の西門の外で、東に向かって跪き、僧侶たちに布施を行った。 訖利多の種族はたびたび僧侶たちによって宗族を滅ぼされ、永遠に祭祀を絶たれた。長い年月の間に恨みを積み重ね、仏法を憎悪した。歳月が遠く過ぎると、再び王を自称した。 それゆえ、今この国はあまり仏法を尊ばず、外道の天祠に特に注意を払っているのである。

新城東南十餘里，故城北，大山陽，有僧伽藍，僧徒三百餘人。其窣堵波中有佛牙，長可寸半，其色黃白，或至齋日時放光明。昔訖利多種之滅佛法也，僧徒解散，各隨利居。有一沙門，遊諸印度，觀禮聖迹，申其至誠。後聞本國平定，即事歸途，遇諸群象，橫行草澤，奔馳震吼。沙門見已，昇樹以避。是時群象相趨奔赴，競吸池水，浸漬樹根，互共排掘，樹遂蹎仆。既得沙門，負載而行，至大林中，有病象瘡痛而臥，引此僧手，至所苦處，乃枯竹所刺也。沙門於是拔竹傅藥，裂其裳，裹其足。別有大象，持金函授與病象，象既得已，轉授沙門，沙門開函，乃佛牙也。諸象圍繞，僧出無由。明日齋時，各持異果，以為中饌。食已，載僧出林，數百里外，方乃下之，各跪拜而去。沙門至國西界，渡一駛河，濟乎中流，船將覆沒。同舟之人互相謂曰：「今此船覆，禍是沙門；必有如來舍利，諸龍利之。」船主檢驗，果得佛牙。時沙門舉佛牙俯謂龍曰：「吾今寄汝，不久來取。」遂不渡河，迴船而去，顧河歎曰：「吾無禁術，龍畜所欺！」重往印度，學禁龍法。三歲之後，復還本國，至河之濱，方設壇場，其龍於是捧佛牙函以授沙門。沙門持歸，於此伽藍，而修供養。

> 新城の東南十数里、昔の城の北、大きな山の南側に僧伽藍（僧院）があり、僧侶が三百余人いた。そのストゥーパ（仏塔）の中に仏牙（仏陀の歯）があり、長さはおよそ一寸半、色は黄白色で、斎日（精進の日）になると光を放つことがあった。 昔、訖利多（キリタ）という種族が仏法を滅ぼしたとき、僧侶たちは解散し、それぞれが利益に従って住んだ。一人の沙門（修行僧）がインド各地を巡錫し、聖跡を参拝して、その誠意を尽くした。後に本国が平定されたと聞き、帰途についた。すると、一群の象に出会った。象たちは草や沼地を縦横に走り回り、轟音とともに駆けていた。沙門はそれを見て、木に登って避けた。そのとき、象たちは一斉に駆け寄り、池の水を吸い上げて木の根を湿らせ、互いに押し合って掘り返し、ついに木は倒れてしまった。象たちは沙門を得ると、背に乗せて運び、大きな林の中へやって来た。そこには病気の象がいて、傷の痛みで横になっていた。その象はこの僧の手を引いて、痛む場所へ導いた。見ると、枯れた竹が刺さっていたのである。沙門はそこで竹を抜き、薬を塗り、衣を裂いてその足を包んでやった。別の大きな象が金の箱を持ってきて病の象に渡し、病の象はそれを受けると、沙門に手渡した。沙門が箱を開けると、そこには仏牙があった。象たちは取り巻いて、僧は出る方法がなかった。翌日の斎時になると、象たちはそれぞれ珍しい果物を持ってきて、昼の食事とした。食事が終わると、象たちは僧を載せて林を出て、数百里の彼方まで運び、そこでようやく下ろし、それぞれ跪拝して去っていった。 沙門は国の西の境界に着き、急流の川を渡ろうとした。川の中央にさしかかったとき、船は沈みかけた。同船の人々は互いに言った。「今この船が沈もうとしているのは、この沙門が原因だ。必ず如来の舎利（遺骨）を持っていて、竜たちがそれを欲しがっているのだ。」船主が調べると、果たして仏牙があった。そのとき沙門は仏牙を掲げて、竜に向かって言った。「私は今、これを汝に預ける。やがて取りに来る。」そこで川を渡らず、船を戻して去りながら、川を振り返って嘆いた。「私は禁術（呪法）を知らないので、竜のような畜生に欺かれてしまった！」 再びインドへ行き、竜を調伏する法を学んだ。三年の後、再び本国に帰り、川のほとりに来て壇場（修法の場）を設けた。するとその竜は仏牙の箱を捧げ持って、沙門に渡した。沙門はそれを持ち帰り、この伽藍で供養を修めたのである。

伽藍南十四五里，有小伽藍，中有觀自在菩薩立像。其有斷食誓死為期願見菩薩者，即從像中出妙色身。

> 伽藍の南、十四五里のところに小さな伽藍があり、その中に観自在菩薩の立像があります。もし断食して命を懸けて菩薩に会いたいと願う者がいれば、その像の中から美しい姿を現してくださいます。

小伽藍東南三十餘里，至大山，有故伽藍，形製宏壯，蕪漫良甚，今唯一隅起小重閣。僧徒三十餘人，並學大乘法教。昔僧伽跋陀羅唐言眾賢論師於此製《順正理論》。伽藍左右諸窣堵波，大阿羅漢舍利並在。野獸、山猨採華供養，歲時無替，如承指命。然此山中多諸靈迹，或石壁橫分，峯留馬迹。凡厥此類，其狀譎詭，皆是羅漢、沙彌，群從遊戲，手指麾畫，乘馬往來。遺迹若斯，難以詳述。

> 小伽藍の東南三十余里に至り、大山に至れば、旧伽藍がある。その形は壮大で、荒廃が甚だしいが、今はただ一角にだけ小さな重閣が建てられている。僧侶は三十余人おり、皆大乗の教えを学んでいる。昔、僧伽跋陀羅（衆賢と唐訳する）論師がここで『順正理論』を著した。伽藍の左右にある諸々の卒塔婆には、大阿羅漢の舎利がすべて安置されている。野獣や山の猿たちが花を摘んで供養し、季節を問わず絶えることなく、まるで指図に従うかのようである。また、この山の中には多くの霊跡がある。あるいは石壁が横に裂けていたり、峰に馬の蹄の跡が残っていたりする。およそこの類のものは、その様が不思議で奇妙であるが、いずれも阿羅漢や沙弥たちが群れを成して遊び戯れ、手指をかざして描き、馬に乗って往来した際の遺跡である。このような遺跡は、詳しく述べるには及ばない。

佛牙伽藍東十餘里，北山崖間，有小伽藍，是昔索建地羅大論師於此作《眾事分毘婆沙論》。

> 仏牙伽藍の東十余里、北の山の崖の間に小さな伽藍がある。ここはかつて索建地羅（ソーケンチーラ）という大論師が、この地で『衆事分毘婆沙論』（しゅうじぶんびばしゃろん）を著した場所である。

小伽藍中有石窣堵波，高五十餘尺，是阿羅漢遺身舍利也。先有羅漢，形量偉大，凡所飲食，與象同等。時人譏曰：「徒知飽食，安識是非？」羅漢將入寂滅也，告諸人曰：「吾今不久當取無餘，欲說自身所證妙法。」眾人聞之，相更譏笑，咸來集會，共觀得失。時阿羅漢告諸人曰：「吾今為汝說本因緣。此身之前，報受象身，在東印度，居王內廐。是時此國有一沙門，遠遊印度，尋訪聖教諸經典論。時王持我，施與沙門，載負佛經，而至於此。是後不久，尋即命終。乘其載經福力所致，遂得為人，復鍾餘慶，早服染衣，勤求出離，不遑寧居，得六神通，斷三界欲。然其所食，餘習尚然，每自節身，三分食一。」雖有此說，人猶未信。即昇虛空，入火光定，身出煙焰，而入寂滅，餘骸墜下，起窣堵波。

> 小さな伽藍の中に石のストゥーパがあり、高さは五十余尺。これは阿羅漢の遺身舎利を納めたものである。昔、一人の阿羅漢がいた。その体躯は雄大で、飲食する量は象と同じほどであった。当時の人々はこれを嘲って言った。「ただ飽きるまで食べることを知るだけで、善悪をどうして知るものか」と。 この阿羅漢がまさに涅槃に入ろうとする時、人々に告げて言った。「私はまもなく無余涅槃に入る。自らが証得した妙法を説き示したいと思う」と。人々はこれを聞いて、ますます嘲笑し合い、皆集まって来て、その言葉の真偽を見届けようとした。 その時、阿羅漢は人々に告げて言った。「私は今、あなたたちに過去世の因縁を語ろう。この身が生まれる前、私は象の身を受け、東インドにいて、王の宮殿の厩舎にいた。その時、この国に一人の沙門がいて、遠くインドを遊行し、仏法の経典や論書を求めていた。その時、王は私を沙門に施与し、仏経を載せてこの地に至った。その後まもなく、私（象）は命終した。 その経典を載せた福力の功徳によって、ついに人間の身を得ることができた。そしてさらに余慶を受け、早くに出家して染衣を身に着け、ひたすら解脱を求めて修行し、安らかに休む暇もなかった。ついに六神通を得て、三界の煩悩を断ち切った。しかし、食べ物に対する習いはまだ残っているので、常に自らの身を戒め、三分の一だけを食べるようにしている」と。 このような説法があったが、人々はまだ信じなかった。すると阿羅漢は虚空に昇り、火光三昧に入った。身から煙と炎を放って、そのまま涅槃に入った。遺骨が地上に落ち、人々はストゥーパを建てて供養したのである。

王城西北行二百餘里，至商林伽藍，布剌拏唐言圓滿論師於此作《釋毘婆沙論》。

> 王城から北西に二百余里進むと、商林伽藍に至る。ここで布剌拏（プラーナ）論師——唐の言葉で「円満」という——が『釈毘婆沙論』を著した。

城西行百四五十里，大河北，接山南，至大眾部伽藍，僧徒百餘人。昔佛地羅論師於此作大眾部《集真論》。

> 西へ百四十五里ほど行くと、大河の北、山の南に接して、大衆部の伽藍がある。僧侶は百余人いる。かつて仏地羅論師がここで大衆部の『集真論』を著した。

從此西南，踰山涉險，行七百餘里，至半笯奴故反嗟國北印度境。

> ここより西南に、山を越え、険しい道をたどること七百余里にして、半嗟国（北インドの境）に至る。