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title: "大唐西域記 · 劫比羅伐窣堵國"
description: "大唐西域记由唐代高僧玄奘口述，辩机执笔编纂，成书于贞观二十年（646年）。全书十二卷，详实记录了玄奘西行求法十九年间游历西域、印度等一百三十八国的地理风貌、政治制度、宗教文化及佛教遗迹。作为古代中外交通史的重要文献，该书保存了7世纪中亚南亚的珍贵史料，对研究佛教传播、丝路文明具有不可替代的学术价值。书中对那烂陀寺等佛教圣地的记载尤为详尽，是考证印度佛教史的核心依据，被列为汉传佛教四大旅行记之首，在世界宗教史与地理学领域享有崇高地位。"
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劫比羅伐窣堵國，周四千餘里。空城十數，荒蕪已甚。王城頹圮，周量不詳。其內宮城周十四五里，壘甎而成，基跡峻固。空荒久遠，人里稀曠。無大君長，城各立主。土地良沃，稼穡時播。氣序無愆，風俗和暢。伽藍故基千有餘所，而宮城之側有一伽藍，僧徒三千餘人，習學小乘正量部教。天祠兩所，異道雜居。

> 劫比羅伐窣堵国は、周囲が四千余里ある。空になった城が十数あり、荒れ果ててひどく荒廃している。王城は崩れ落ちており、周囲の長さは詳らかではない。その内側の宮城は周囲が十四五里で、煉瓦を積み重ねて造られており、基礎の跡は高くしっかりとしている。空き地となり荒れ果てて久しく、人の住まいはまばらである。大いなる君主はおらず、それぞれの城に主が立っている。土地は良く肥沃で、農作物は季節に合わせて蒔かれる。気候は順調で乱れがなく、風俗は穏やかである。伽藍の古い跡は千余りあるが、宮城の側に一つの伽藍があり、僧侶たち三千余人が住み、小乗の正量部の教えを学び習っている。天祠は二つあり、異教の者たちが雑居している。

宮城內有故基，淨飯王正殿也。上建精舍，中作王像。其側不遠有故基，摩訶摩耶唐言大術夫人寢殿也。上建精舍，中作夫人之像。其側精舍，是釋迦菩薩降神母胎處，中作菩薩降神之像。上座部菩薩以嗢呾羅頞沙荼月三十日夜降神母胎，當此五月十五日；諸部則以此月二十三日夜降母胎，當此五月八日。菩薩降神東北，有窣堵波，阿私多仙相太子處。菩薩誕靈之日，嘉祥輻湊。時淨飯王召諸相師而告之曰：「此子生也，善惡何若？宜悉乃正，明言以對。」曰：「依先聖之記，考吉祥之應，在家作轉輪聖王，捨家當成等正覺。」是時阿私多仙自遠而至，叩門請見。王甚慶悅，躬迎禮敬，請就寶座，曰：「不意大仙今日降顧。」仙曰：「我在天宮安居宴坐，忽見諸天群從蹈舞，我時問言：『何悅豫之甚也？』曰：『大仙當知，贍部洲中釋種淨飯王第一夫人，今產太子，當證三菩提，圓明一切智。』我聞是語，故來瞻仰。所悲朽耄，不遭聖化。」

> 宮殿の城内に古い基壇があり、これは浄飯王の正殿の跡である。その上に精舎が建てられ、中に王の像が安置されている。その傍らにほど近い場所に、また古い基壇があり、これは摩訶摩耶夫人（唐の言葉で「大術」という）の寝室の跡である。その上に精舎が建てられ、中に夫人の像が安置されている。その隣の精舎は、釈迦菩薩が母胎に降り立った場所であり、中に菩薩が降臨する姿の像が安置されている。上座部の伝承によれば、菩薩は嗢呾羅頞沙荼月の三十日の夜に母胎に降り立ったといい、これはこの地の五月十五日にあたる。他の諸部派は、この月の二十三日の夜に母胎に降り立ったとし、これはこの地の五月八日にあたる。菩薩が降臨した場所の東北に、窣堵波があり、阿私多仙が太子の相を見た場所である。菩薩が誕生された日、めでたい瑞兆が四方から集まった。その時、浄飯王は多くの相師を召し寄せて告げられた。「この子が生まれたことについて、その善悪はどうであろうか。正しく判断し、はっきりと述べて答えよ。」相師たちは答えた。「先聖の記録に基づき、吉祥の兆しを考察しますに、この子は在家にいれば転輪聖王となり、出家すれば正等覚を成就するでしょう。」その時、阿私多仙は遠くから自ら訪れ、門を叩いて拝謁を願い出た。王は大変喜び、みずから迎えて敬礼し、宝座に着くよう請じて言われた。「大仙が今日、思いがけずお越しくださったとは。」仙は言った。「私は天宮に安住して静かに坐しておりましたが、ふと多くの天人が群れをなして舞い踊っているのを見ました。その時、私は尋ねました。『どうしてこれほど喜びにあふれているのですか。』天人は答えました。『大仙はご存知でしょう。贍部洲において、釈迦種の浄飯王の第一夫人が、今まさに太子を出産されました。この太子は必ず三菩提を証得し、一切智を円満に成就されるでしょう。』私はこの言葉を聞いて、それで参上して拝謁した次第です。ただ悲しいのは、私が老いさらばえて、聖なる教化に遇えないことです。」

城南門有窣堵波，是太子與諸釋角力擲象之處。太子伎藝多能，獨拔倫匹。淨飯大王懷慶將返，僕夫馭象，方欲出城。提婆達多素負強力，自外而入，問馭者曰：「嚴駕此象，其誰欲乘？」曰：「太子將還，故往奉馭。」提婆達多發憤引象，批其顙，蹴其臆，僵仆塞路，杜絕行途，無能轉移，人眾填塞。難陀後至，而問之曰：「誰死此象？」曰：「提婆達多。」即曳之避路。太子至，又問曰：「誰為不善，害此象耶？」曰：「提婆達多害以杜門，難陀引之開徑。」太子乃舉象高擲，越度城塹，其象墮地，為大深阬，土俗相傳為象墮阬也。其側精舍中作太子像。其側又有精舍，太子妃寢宮也，中作耶輸陀羅，并有羅怙羅像。宮側精舍作受業之像，太子學堂故基也。

> 城南の門のそばに卒塔婆（ストゥーパ）があります。ここは太子が諸々の釈迦族の人々と力比べをし、象を投げ上げた場所です。太子はあらゆる技芸に秀で、特に誰よりも優れていました。浄飯王は喜びのあまり帰路につこうとしていましたが、従者が象を引いて城を出ようとしていました。提婆達多はかねてから大力の持ち主で、外からやって来て従者に尋ねました。「この象を整えて、誰が乗ろうとしているのか？」従者は答えました。「太子がお帰りになるので、お迎えのために用意しています。」提婆達多は怒りを発して象を引き寄せ、その額を打ち、胸を蹴りました。象は倒れて道を塞ぎ、通行ができなくなり、誰も動かすことができず、人々が道に溢れかえりました。難陀が後からやって来て尋ねました。「誰がこの象を死なせたのか？」答えは「提婆達多です。」そこで難陀は象を引いて道を避けました。太子が来て、また尋ねました。「誰が悪事をして、この象を傷つけたのか？」答えは「提婆達多が傷つけて門を塞ぎました。難陀が象を引いて道を開きました。」太子は象を持ち上げて高く投げ、都市の堀を越えさせました。象は地面に落ちて大きな深い穴ができました。土地の言い伝えでは、これが「象の落ちた穴」とされています。そのそばの精舎には太子の像が安置されています。その隣にも精舎があり、太子妃の寝室で、中には耶輸陀羅と羅怙羅の像があります。宮殿の隣の精舎には師に学ぶ太子の像があり、太子の学堂の旧跡です。

城東南隅有一精舍，中作太子乘白馬凌虛之像，是踰城處也。城四門外各有精舍，中作老、病、死人、沙門之像。是太子遊觀，覩相增懷，深厭塵俗，於此感悟，命僕迴駕。

> 城の東南の隅に一つの精舎（修行所）があり、その中には太子が白馬に乗って虚空を駆ける像が祀られている。これは太子が城を越えて出家した場所である。城の四つの門の外にはそれぞれ精舎があり、中には老人、病人、死人、僧侶の像が安置されている。これは太子が城外を遊覧し、これらの姿を見て感慨を深め、世俗を深く厭い、ここで悟りを得て、従者に命じて車を引き返させた所である。

城南行五十餘里，至故城，有窣堵波，是賢劫中人壽六萬歲時，迦羅迦村馱佛本生城也。城南不遠有窣堵波，成正覺已見父之處。城東南窣堵波，有彼如來遺身舍利。前建石柱，高三十餘尺，上刻師子之像，傍記寂滅之事，無憂王建焉。

> 南へ五十里余り行くと、昔の城があり、そこにストゥーパ（仏塔）がある。これは賢劫の時代、人の寿命が六万歳であった時に、迦羅迦村駄仏が生まれた城である。城の南から遠くない場所に、ストゥーパがあり、これは成道の後に父と対面した場所である。城の南東にあるストゥーパには、その如来の遺身舎利が安置されている。その前に石柱が建てられており、高さは三十尺余り、上には獅子の像が刻まれ、側面には涅槃の事績が記されている。これはアショーカ王が建てたものである。

迦羅迦村馱佛城東北行三十餘里，至故大城，中有窣堵波，是賢劫中人壽四萬歲時，迦諾迦牟尼佛本生城也。東北不遠有窣堵波，成正覺已度父之處。次北窣堵波，有彼如來遺身舍利，前建石柱，高二十餘尺，上刻師子之像，傍記寂滅之事，無憂王建也。

> 迦羅迦村駄佛の城から東北に三十余里進むと、かつての大城に至る。その中にストゥーパ（仏塔）があり、これは賢劫の時代、人の寿命が四万歳であった頃の迦諾迦牟尼仏の生誕の地である。その東北ほど近くに、成道の後に父を教化した地を示すストゥーパがある。さらに北のストゥーパには、その如来の遺身舍利が祀られており、その前に石柱が建てられている。高さは二十余尺あり、上部には獅子の像が彫られ、側面には仏の涅槃の事績が記されている。これはアショーカ王によって建てられたものである。

城東北四十餘里，有窣堵波，是太子坐樹陰，觀耕田，於此習定，而得離欲。淨飯王見太子坐樹陰，入寂定，日光逈照，樹影不移，心知靈聖，更深珍敬。

> 城の東北四十余里のところにストゥーパ（仏塔）がある。ここは太子が木陰に坐り、農耕の様子を観ながら、禅定を修め、欲望を離れる境地を得た場所である。浄飯王は太子が木陰に坐って深い禅定に入り、日光が照らしても木陰が動かないのをご覧になり、その霊妙さと聖なる姿を悟り、いっそう深い尊敬の念を抱かれた。

大城西北，有數百千窣堵波，釋種誅死處也。毘盧釋迦王既克諸釋，虜其族類，得九千九百九十萬人，並從殺戮，積尸如莾，流血成池。天警人心，收骸瘞葬。

> 大城の西北に、数百千の卒塔婆（そとば）がある。これは釈迦族が殺害された場所である。毘盧釈迦王（びるしゃかおう）は諸々の釈迦族を滅ぼした後、その一族を捕らえ、九千九百九十万人を得た。そして皆を殺戮し、屍は草のように積み重なり、血は池となって流れた。天は人々の心を戒め、遺骨を集めて埋葬したのである。

誅釋西南，有四小窣堵波，四釋種拒軍處。初，勝軍王嗣位也，求婚釋種。釋種鄙其非類，謬以家人之女，重禮娉焉。勝軍王立為正后，其產子男，是為毘盧釋迦王。毘盧釋迦欲就舅氏請益受業，至此城南，見新講堂，即中憩駕。諸釋聞之，逐而詈曰：「卑賤婢子，敢居此室！此室諸釋建也，擬佛居焉。」毘盧釋迦嗣位之後，追復先辱，便興甲兵，至此屯軍。釋種四人躬耕畎畝，便即抗拒，兵寇退散，已而入城。族人以為承輪王之祚胤，為法王之宗子，敢行凶暴，安忍殺害，污辱宗門，絕親遠放。四人被逐，北趣雪山，一為烏仗那國王，一為梵衍那國王，一為呬摩呾羅國王，一為商彌國王，奕世傳業，苗裔不絕。

> 西南の方角に誅釋（印度の釈迦族を攻めた者のこと）に関わる四つの小ストゥーパ（仏塔）があり、これは四人の釈迦族の者が敵軍を防いだ場所です。 昔、勝軍王（プラセーナジット王）が即位した時、釈迦族に縁談を申し込みました。しかし釈迦族は彼の家柄を卑しみ、偽って家来の娘を重い結納とともに嫁がせました。勝軍王はその娘を正后とし、生まれた男の子が毘盧釋迦王（琉璃王）となりました。 毘盧釋迦王は母方の親戚のもとで学問を受けようと、この城の南に来た時、新しい講堂を見つけ、そこで休息しました。釈迦族の人々はこれを聞いて、彼を追い出し罵りました：「賤しい婢の子が、よくもこの部屋に居られたものだ！この部屋は釈迦族が建て、仏陀がお過ごしになるために用意したものだ。」 毘盧釋迦王は即位した後、以前の侮辱を思い出し、軍を率いてこの地に駐屯しました。その時、釈迦族の若者四人が田畑で農作業をしていましたが、すぐに立ち上がって抵抗し、敵軍を撃退しました。その後、彼らは城に戻りましたが、族人たちは彼らが転輪聖王の子孫であり、法王（仏陀）の一族であるにもかかわらず、暴行を働き、殺害を行い、宗門の名誉を汚したとして、彼らを追放しました。 四人は追放され、北の雪山へ向かいました。一人は烏仗那国の王となり、一人は梵衍那国の王となり、一人は呬摩呾羅国の王となり、一人は商弥国の王となりました。彼らの子孫は代々その国を治め、絶えることはありませんでした。

城南三四里尼拘律樹林，有窣堵波，無憂王建也。釋迦如來成正覺已，還國見父王，為說法處。淨飯王知如來降魔軍已，遊行化導，情懷渴仰，思得禮敬。乃命使請如來曰：「昔期成佛，當還本生。斯言在耳，時來降趾。」使至佛所，具宣王意。如來告曰：「却後七日，當還本生。」使臣還以白王，淨飯王乃告命臣庶，灑掃衢路，儲積華香，與諸群臣四十里外佇駕奉迎。是時如來與大眾俱，八金剛周衛，四天王前導，帝釋與欲界天侍左，梵王與色界天侍右，諸苾芻僧列在其後。維佛在眾，如月映星，威神動三界，光明踰七曜，步虛空，至生國。王與從臣禮敬已畢，俱共還國，止尼拘盧陀僧伽藍。其側不遠有窣堵波，是如來於大樹下，東面而坐，受姨母金縷袈裟。次此窣堵波，是如來於此度八王子及五百釋種。

> 城の南三四里のところに尼拘律樹の林があり、そこにストゥーパがある。これは阿育王が建てたものである。釈迦如来が悟りを開かれた後、故国に帰って父王にお会いになり、説法された場所である。 浄飯王は、如来が悪魔の軍団を降伏させ、遊行して人々を導いておられることを知り、心から敬慕の念を抱き、礼拝したいと願われた。そこで使いを遣わして如来にこう伝えさせた。「かつて成仏されたならば、生まれ故郷に帰ると約束されました。その言葉は今も耳に残っております。どうかその時が来ましたので、お越しくださいませ。」 使いが仏のもとに到着し、王の言葉を詳しく伝えた。如来は告げられた。「七日の後、必ず生まれ故郷に帰ろう。」 使いの臣下が帰って王に報告すると、浄飯王は臣民たちに命じて、道を清め整え、花や香を備えさせた。そして諸々の群臣とともに四十里の彼方まで出向いて、車を留めて仏を奉迎された。 この時、如来は大衆とともにやって来られた。八人の金剛力士が周りを護衛し、四天王が先導した。帝釈天と欲界の天衆は左に侍し、梵王と色界の天衆は右に侍した。多くの比丘たちはその後ろに列をなした。 仏が大衆の中にいて、その姿はまるで星々を照らす月のようであり、その威神は三界を震動させ、光明は七つの星曜を超えていた。虚空を歩みながら、生まれ故郷に到着された。 王と従臣たちは礼拝を終えると、皆ともに国に帰り、尼拘盧陀僧伽藍にとどまった。 その近くに遠くない場所にストゥーパがあり、これは如来があの大きな木の下で、東を向いて座り、姨母から金糸で織った袈裟を受けられた場所である。 この次のストゥーパは、如来がここで八人の王子と五百人の釈迦族の人々を救済された場所である。

城東門內路左，有窣堵波，昔一切義成太子於此習諸技藝。門外有自在天祠，祠中石天像，危然起勢，是太子在襁褓中所入祠也。淨飯王自臘伐尼國迎太子還也，途次天祠。王曰：「此天祠多靈鑒，諸釋童稚求祐必効，宜將太子至彼修敬。」是時傅母抱而入祠，其石天像起迎太子。太子已出，天像復坐。

> 城の東門を入って道の左側に、ストゥーパ（仏塔）がある。昔、一切義成太子（釈迦牟尼仏）がここで様々な技芸を学ばれた。門の外には自在天（シヴァ神）の祠があり、祠の中には石造りの天像が高くそびえ立つような姿で祀られている。これは太子が幼児の頃にお入りになった祠である。 浄飯王がランピニー国から太子を迎えて帰る途中、この天祠に立ち寄った。王は言われた。「この天祠は霊験あらたかで、多くのシャーキヤ族の子供たちが祈りを捧げれば必ず効験があるという。太子を連れて行き、敬意を表すのがよいだろう。」その時、乳母が太子を抱いて祠に入ると、石造りの天像が立ち上がって太子を迎えた。太子が祠を出ると、天像は再び座ったのである。

城南門外路左，有窣堵波，是太子與諸釋角藝，射鐵鼓。從此東南三十餘里，有小窣堵波，其側有泉，泉流澄鏡，是太子與諸釋引強校能，弦矢既分，穿鼓過表，至池沒羽，因涌清流，時俗相傳，謂之箭泉。夫有疾病，飲沐多愈。遠方之人持泥以歸，隨其所苦，漬以塗額，靈神冥衛，多蒙痊愈。

> 城南の門の外、道の左側にストゥーパ（仏塔）がある。ここは太子（釈迦）が諸々の釈迦族の人々と技を競い、鉄の太鼓に矢を射抜かれた場所である。ここから東南に三十余里行くと、小さなストゥーパがある。その側に泉があり、泉の流れは澄んで鏡のようである。ここは太子が諸々の釈迦族の人々と力比べをし、技を競われた場所である。弦と矢が放たれると、矢は太鼓を貫き、的を越えて、池に至っては矢羽根まで沈んだ。その時、清らかな流れが湧き出たので、時の人々の言い伝えにより、「箭泉（せんせん）」と呼ばれた。病気にかかった人がこの水を飲んだり、これで沐んだりすると、多くは癒えた。遠方の人々は泥土を持ち帰り、それぞれの苦しみに応じて、水に浸して額に塗った。霊妙な神の加護により、多くの人が癒やされたのである。

箭泉東北行八九十里，至臘伐尼林，有釋種浴池，澄清皎鏡，雜華彌漫。其北二十四五步，有無憂華樹，今已枯悴，菩薩誕靈之處。菩薩以吠舍佉月後半八日，當此三月八日；上座部則曰以吠舍佉月後半十五日，當此三月十五日。次東窣堵波，無憂王所建，二龍浴太子處也。菩薩生已，不扶而行，於四方各七步，而自言曰：「天上、天下，唯我獨尊。今茲而往，生分已盡。」隨足所蹈，出大蓮花。二龍踊出，住虛空中，而各吐水，一冷一煖，以浴太子。

> 箭の泉から東北に八九十里行くと、臘伐尼林に至る。そこには釋種の浴池があり、水は澄み切って鏡のように明るく、様々な花が咲き乱れている。その北、二十四五歩のところに無憂華樹があるが、今はすでに枯れ果てている。ここが菩薩が誕生された聖地である。菩薩は吠舍佉月の後半八日、すなわちここの三月八日に誕生された。上座部では吠舍佉月の後半十五日、すなわち三月十五日であると言う。その東のストゥーパは、無憂王が建てたもので、二人の龍が太子に沐浴を施した場所である。菩薩が生まれた後、支えなしに歩き、四方にそれぞれ七歩ずつ進み、自ら言われた。「天上、天下、唯我独尊。今よりして、生の分は尽きたり」と。足の踏むところに、大きな蓮華が現れた。すると二匹の龍が踊り出て、虚空中に留まり、それぞれ水を吐いた。一つは冷たく、一つは温かく、太子を沐浴させたのである。

浴太子窣堵波東，有二清泉，傍建二窣堵波，是二龍從地踊出之處。菩薩生已，支屬宗親莫不奔馳，求水盥浴。夫人之前，二泉涌出，一冷一煖，遂以浴洗。其南窣堵波，是天帝釋捧接菩薩處。菩薩初出胎也，天帝釋以妙天衣，跪接菩薩。次有四窣堵波，是四天王抱持菩薩處也。菩薩從右脇生已，四大天王以金色㲲衣，捧菩薩，置金机上。至母前曰：「夫人誕斯福子，誠可歡慶。諸天尚喜，況世人乎？」

> 沐浴の太子窣堵波の東に、二つの清らかな泉がある。その傍らに二つの窣堵波が建てられており、これは二匹の龍が地から踊り出た場所である。菩薩がお生まれになると、親族や一族は皆、駆けつけて水を求め、沐浴の儀を行った。夫人の前に、二つの泉が湧き出た。一つは冷たく、一つは温かく、これを用いて沐浴を済ませたのである。その南の窣堵波は、天帝釈が菩薩を捧げ持って受け止めた場所である。菩薩がまさに胎から出でたとき、天帝釈は妙なる天衣をもって、ひざまずいて菩薩をお受けした。次に四つの窣堵波がある。これは四天王が菩薩を抱きかかえてお守りした場所である。菩薩が右脇からお生まれになると、四大天王は金色の衣で菩薩を包み、黄金の台の上に捧げて置いた。そして母のもとに行き、こう申し上げた。「夫人はこの福ある御子をお産みになられました。まことに喜び祝うべきことです。天の神々さえも喜んでいるのです。ましてや世の人々はなおさらのことでしょう」と。

四天王捧太子窣堵波側不遠，有大石柱，上作馬像，無憂王之所建也。後為惡龍霹靂，其柱中折仆地。傍有小河，東南流，土俗號曰油河。是摩耶夫人產孕已，天化此池，光潤澄淨，欲令夫人取以沐浴，除去風虛。今變為水，其流尚膩。從此東行曠野荒林中二百餘里，至藍摩國中印度境。

> 四天王が太子を捧げたストゥーパの傍らから遠くない所に、大きな石柱がある。上には馬の像が刻まれており、アショーカ王が建てたものである。後に悪龍が雷を放ち、その柱は真ん中で折れて地面に倒れた。傍らに小さな川があり、東南に流れている。土地の人々はこれを油河と呼んでいる。これは摩耶夫人が身ごもった後、天がこの池を化して作り出したもので、光り輝き潤って澄んでいた。夫人に取らせて沐浴させ、風の病を取り除かせようとしたのである。今は水に変わったが、その流れはなお脂っぽい。ここから東に進み、広野の荒れた林の中を二百余里行くと、藍摩国に至る〈中インドの境域〉。