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title: "成實論 · 34 無我品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 無我品第三十四

> 第三十四章 無我

論者言：犢子道人說有我，餘者說無。

> 論者の言うには、「犢子道人は我があると説き、その他の者たちは我がないと説く」。

問曰：何者為實？答曰：實無我法。所以者何？如經中佛語比丘：但以名字但假施設，但以有用故名為我。以但名字等，故知無真實。又經中說：若人不見苦，是人則見我。若如實見苦，則不復見我。若實有我，見苦者亦應見我。又說聖人但隨俗故說言有我。又經中佛說：我即是動處。若實有者，不名動處，如眼有故不名動處。又處處經中皆遮計我，如聖比丘尼語魔王言：汝所謂眾生，是即為邪見，諸有為法聚，皆空無眾生。又言：諸行和合相續故有，即是幻化誑惑凡夫。皆為怨賊、如箭入心，無有堅實。又言：無我無我所，無眾生無人，但是空五陰，生滅壞敗相。有業有果報，作者不可得，眾緣和合故，有諸法相續。以是等緣故，佛種種經中皆遮計我，是故無我。又經中解識義：何故名識？謂能識色乃至識法。不說識我，是故無我。群那比丘問佛：誰食識食？佛言：我不說有食識食者，若有我應說我食識食。以不說故，當知無我。又洴沙王迎佛經中，佛語諸比丘：汝觀凡夫隨逐假名謂為有我，是五陰中實無我無我所。又說：因五陰故有種種名。謂我、眾生、人天等如是無量名字，皆因五陰有，若有我者應說因我。又長老弗尼迦謂外道言：若人邪見，無而謂有。佛斷此邪慢、不斷眾生，是故無我。又《炎摩伽經》中，舍利弗語炎摩伽言：汝見色陰是阿羅漢耶？答言：不也。見受想行識是阿羅漢耶？答言：不也。見五陰和合是阿羅漢耶？答言：不也。見離五陰是阿羅漢耶？答言：不也。舍利弗言：若如是推求不可得者，應當言阿羅漢死後無耶？答言：舍利弗！我先有惡邪見，今聞此義，是見即滅。若有我者，不名惡耶？又四取中說我語取，若有我者應言我取，如欲取等，不應言我語取。又《先尼經》說：於三師中若有不得現我後我，我說是師則名為佛。以佛不得，故知無我。又無我中我想名為顛倒，若汝意謂我中我想非顛倒者，是事不然。所以者何？佛說眾生所有見我皆見五陰，是故無我。又說眾生種種憶念宿命，皆念五陰。若有我者亦應念我，以不念故當知無我。若汝意謂亦有經說憶念眾生，如某眾生中我名某者。是事不然，此為世諦分別故說，實念五陰非念眾生。所以者何？以意識念意識但緣於法，是故無有念眾生念。又若人說決定有我，於六邪見中必墮一見。若汝意謂無我亦是邪見者，此事不然。所以者何？以二諦故。若以世諦說無我、第一義諦說有我，是則有過。我今說第一義故無、世諦故有，是故無咎。又佛說拔我見根，如癡王問中佛答癡王：若人以一心觀諸世間空，則拔我見根，不復見死王。又諸說有我因緣憂喜等事，皆在五陰。又以破諸外道我見因緣，是故無我。

> 問：何が本当の「私」なのか？ 答え：実際には「私」という実体は存在しない。なぜなら、経典の中で仏陀が比丘たちにこう語っているからだ。「『私』というのは、ただ名前があるだけで、仮に設けられたもの、ただ役に立つからそう呼ばれているに過ぎない。」名前だけのものであるから、真実の実体ではないと知るべきである。 また、経典にはこうある。「もし人が苦を観ないなら、その人は『私』を見ているのである。もし苦を如実に見るなら、もはや『私』を見ることはない。」もし本当に「私」が実在するなら、苦を見る人は「私」も見るはずである。 また、聖人はただ世俗に従って「私」と言うだけである。 また、経典で仏陀はこう言う。「『私』とは、すなわち動きが生じる場所である。」もし実在するものなら、動きの生じる場所とは呼ばれないだろう。例えば、眼は実在するから、動きの生じる場所とは呼ばれない。 さらに、多くの経典で仏陀は「私」という考えを否定している。例えば、聖なる比丘尼が悪魔にこう言った。「あなたが『衆生』と呼ぶものは、まさに誤った見解である。すべての形成されたものの集まりは、すべて空であり、衆生など存在しない。」また、「すべての行は、和合し相続するから存在するように見えるが、それは幻のようなものであり、凡夫を惑わすだけである。すべては怨敵のようなものであり、矢が心に刺さるようなもので、堅固な実体はない。」また、「『私』もなく、『私のもの』もなく、衆生もなく、人もない。ただ空の五蘊があり、生じ滅し壊れ去る様相があるだけである。業と果報はあるが、それを為す主体は見いだせない。縁が集まり和合するから、諸法が相続して存在するのである。」 このような理由から、仏陀は様々な経典で「私」という考えを否定している。ゆえに「私」は存在しない。 また、経典では「識」の意味を説く。「なぜ『識』というのか。色を知り、法を知るからである。」「私」を知ると言っているのではない。ゆえに「私」は存在しない。 群那比丘が仏陀に尋ねた。「誰が識食を食うのですか？」仏陀は言った。「私は識食を食う者はいるとは言わない。もし『私』が実在するなら、『私が識食を食う』と言えるはずである。そう言わないのだから、『私』が存在しないと知るべきである。」 また、「洴沙王が仏を迎える経典」の中で、仏陀は比丘たちにこう言った。「凡夫が名ばかりのものに従って『私』があると思いなすのを見なさい。この五蘊の中には、実に『私』もなく『私のもの』もないのである。」また、「五蘊があるからこそ、様々な名前がある。『私』『衆生』『人』『天』など、数え切れない名前はすべて五蘊に基づいてあるのだ。もし『私』が実在するなら、『私』に基づいて名前があるはずである。」 また、長老弗尼迦が外道にこう言った。「もし人が誤った見解を持ち、ないものをあると思いなすなら、仏陀はその誤った慢心を断つのであって、衆生を断つのではない。ゆえに『私』は存在しない。」 また、「炎摩伽経」の中で、舎利弗が炎摩伽に尋ねた。「あなたは色陰が阿羅漢だと見ますか？」答え：「いいえ。」「受・想・行・識が阿羅漢だと見ますか？」答え：「いいえ。」「五陰の和合が阿羅漢だと見ますか？」答え：「いいえ。」「五陰を離れたものが阿羅漢だと見ますか？」答え：「いいえ。」舎利弗は言った。「もしこのように探求しても得られないなら、阿羅漢は死んだ後には存在しないと言うべきですか？」炎摩伽は答えた。「舎利弗よ、私は以前、誤った悪い見解を持っていましたが、今この教えを聞いて、その見解は消え去りました。」もし「私」が実在するなら、それは誤った見解とは呼ばれないだろう。 また、「四取」の中で「我語取」が説かれている。もし「私」が実在するなら、「私が取る」と言うべきで、欲取などのように。わざわざ「我語取」と言う必要はないはずである。 また、「先尼経」にはこうある。「三師の中で、現在の『私』も未来の『私』も得られないならば、私はその師を仏と呼ぶ。」仏陀も得ることができないので、「私」は存在しないと知るべきである。 また、無我の中で「私」という思いは「顛倒」（逆さまの見方）と呼ばれる。もしあなたが「私」という思い自体は顛倒ではないと考えるなら、それは誤りである。なぜなら、仏陀は「衆生が持つ『私』という見解は、すべて五陰を見ているに過ぎない」と言ったからだ。ゆえに「私」は存在しない。 また、衆生が前世を様々に憶念しても、すべて五陰を憶念しているのである。もし「私」が実在するなら、「私」も憶念するはずだが、そうではないのだから、「私」は存在しないと知るべきである。 もしあなたが「衆生を憶念する」と経典に説かれている、例えば「ある衆生の中で私は某という名前だった」という場合があるではないか、と言うなら、それは誤りである。これは世俗の真理による区別として説かれたものであり、実際には五陰を憶念しているのであって、衆生を憶念しているのではない。なぜなら、意識が意識を憶念するとき、その対象はただ法（対象）だけであって、衆生を憶念することはないからである。 また、もし人が「決定的に『私』が存在する」と言うなら、六つの誤った見解のうちの一つに必ず落ちるであろう。もしあなたが「無我もまた誤った見解である」と言うなら、これも誤りである。なぜなら、二つの真理があるからだ。もし世俗の真理で「無我」と言い、第一義の真理で「有我」と言うなら、それは過ちである。私は今、第一義の真理では無く、世俗の真理では有ると説く。だから誤りはないのである。 また、仏陀は「『私』という見解の根を抜け」と説く。「愚かな王の問い」の中で、仏陀は愚かな王に答えて言った。「もし人が一心に諸々の世間を空と観じるなら、『私』という見解の根を抜き、もはや死王を見ることはないであろう。」 また、「私」が存在するとする様々な理由、例えば憂い喜びなども、すべて五陰の中にある。 また、あらゆる外道の「私」という見解を破るために、このように説いているのである。ゆえに「私」は存在しない。