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title: "成實論 · 77 想陰品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 苦諦聚中想陰品第七十七

> 苦諦聚中想陰品第七十七

問曰：何法為想？答曰：取假法相故名為想。所以者何？如經中說：有人少想、有人多想、有人無量想、無所有想。而實無此多少等諸法，故知想者取假法相。是想多在顛倒中說，如說無常中常想顛倒、苦中樂想顛倒、無我中我想顛倒、不淨中淨想顛倒，亦於信解觀一切入等中說。又以想三種差別取緣，謂怨、親、中人，於是緣中次生三受，受生三毒，故想有過。想有過故佛說應斷，如說眼見色莫取想，故知取假法相是名為想。

> 問い：いったい何を「想（そう）」というのですか？ 答え：仮の法（仮に立てられた現象）に形を取ること、これを「想」といいます。なぜかと言うと、経典の中でこう説かれているからです。「ある人は少ない想を持ち、ある人は多くの想を持ち、ある人は無量の想を持ち、ある人は何もないという想を持つ」と。しかし実際には、この多い少ないといった様々な法（現象）は実在しません。それゆえに、「想」とは仮の法に形を取ることだと知るべきです。 この「想」は、たいてい顛倒（あべこべな見方）の中で説かれます。例えば、「無常であるものに常があるという顛倒の想」「苦しみであるものに楽があるという顛倒の想」「我がないものに我があるという顛倒の想」「不浄なものに清らかであるという顛倒の想」と説かれます。また、信解や観（瞑想）の修行である「一切入」などの中でも説かれています。 また、「想」には三種類の区別された対象があります。すなわち、怨みの相手、親しい相手、どちらでもない相手です。そして、これらの対象に応じて、順に三つの感受（楽・苦・苦でも楽でもない感受）が生じます。さらに、その感受から三つの毒（貪欲・瞋恚・愚癡）が生じます。それゆえに、「想」には過ちがあるのです。 「想」に過ちがあるがゆえに、仏はそれを断つべきだと説かれました。例えば、「眼で色を見るときに、想を取ってはならない」と説かれています。それゆえに、仮の法に形を取ることが「想」であると知るべきです。

問曰：取假法為想，此義不然。所以者何？此想能斷煩惱。如經中說：善修無常想故，能斷一切欲染色染及無色染，一切戲掉我慢無明。故知非但取假法想，取假法想則不應能斷諸煩惱。答曰：此實智慧，以想名說。如說受者於一切得解脫，亦說以意斷諸煩惱。又如說以不黑不白業能盡諸業，亦說信能渡河、一心渡海、精進除苦、慧能清淨，而實以慧得渡，不以信等，如是智慧以想名說。又經中說以慧為刀，如說聖弟子以智慧刃斷諸煩惱，故知慧能斷結非是想也。又三十七聖道品中不說想名，故不斷結。又經中說知者見者能得漏盡，非不知見者。又三無漏根中說，未知欲知根、知根、知已根，皆以知為名。又佛說慧為慧品、解脫知見品。又說無禪不智、無智不禪。又《次第經》說：持淨戒者則心不悔，乃至攝心得如實知。又法智等皆以慧為名。又三學中慧學最勝，亦說智慧具足、解脫知見具足。又七淨中說知見淨。又佛說正知一切法故，名無上智慧，想無如是說。又理應用慧斷諸煩惱，不是想也。所以者何？如《大因緣經》說：若義入修多羅，不違法相、隨順比尼，是義應取。又說於正義中置隨義語，於正語中置隨語義，故經雖說無常想等能斷諸結，理應是慧。又說無明是煩惱根，離無明故慧得解脫，故以慧斷諸煩惱。

問曰：汝言諸想取假法相，以何為相？答曰：有人以假法為相，假法有五：一過去、二未來、三名字、四者相、五者人。是事不然。所以者何？人因五陰成，相無成因故非假名。

> 問い：あなたは「諸々の想いは仮の法の相を取る」と言われますが、では何をもって相とするのですか。 答え：ある人は、仮の法を相とします。仮の法には五つあります。一是れ過去、二未来、三名字、四者相、五者人。しかし、これは正しくありません。なぜなら、人は五蘊によって成り立つものであり、相には成る因がないからです。したがって、それは仮の名ではありません。

問曰：今相義云何？答曰：緣即是相。何以知之？如說師子獸王立河此岸，取彼岸相，截流而渡，若不相當則還此岸，至死不捨。是經中以樹木等為相。又說比丘示相，是中亦以衣等為相。又說世尊現如是相。又說宰人因王食故取所嗜相。又說明旦是日出相。又說三相，所謂攝相、發相、捨相。是中即以攝等為相，隨念何法心繫在緣是名攝相。又諸天退時先五相現，是中即以五法為相。故知不以假法為相，亦非行陰所攝。又舍利弗取富樓那面貌等相。又經中說眼見色不取相。又法印中說：若比丘自見斷色聲等相，我未說是人得清淨知見。以此故知緣即是相，非假法也。

> 問い：では、「相」とは何でしょうか。 答え：「縁」こそが「相」です。どうしてそう言えるのか。例えば、獣の王である獅子が川のこちら岸に立ち、向こう岸の様子を見定めてから、流れを断ち切って渡ります。もし見当違いであれば、またこちら岸に戻り、死ぬまで諦めません。この経典では、木や草などを「相」としています。また、比丘が「相」を示すという説もあり、そこでは衣などが「相」とされています。また、世尊がそのような「相」を示されたとも説かれています。また、料理人が王様の食事のために好みの「相」を取り分けるとも言います。また、明け方に太陽が昇るのが「相」であるとも説かれます。また、「摂相（とらえる相）」「発相（起こす相）」「捨相（手放す相）」の三つの相が説かれています。ここでは、これら「摂る」などの働きが「相」であり、何かの法を思い浮かべて心をその縁に留めることを「摂相」と呼びます。また、天人が衰退する時には、先に五つの相が現れますが、そこではこれら五つの法が「相」とされています。したがって、「相」が仮の法（実体のないもの）ではなく、また行陰（心の働き）に属するものでもないと知るべきです。また、舎利弗が富楼那の顔つきなどの「相」を捉えたとあります。また、経典には「眼で色を見ても、その相に執着しない」とあります。また、法印の教えには「もし比丘が自ら色や声などの相を断ち切ったとしても、私はその人が清らかな知見を得たとは言わない」とあります。これらのことから、「縁」すなわち「相」であって、仮の法ではないと知るのです。

問曰：緣非是相。所以者何？無相三昧亦有緣故。又說見色已不取相。若緣是相，云何取色而不取相？答曰：相有二種，有過相、無過相，遮過相故說見色不取相。無相者緣亦有過，後滅諦中當廣說，謂滅三心故名無相。初入行者非一切相盡是過也，若取攝相發捨相等是則無過。又涅槃名無法，故不應為難。如說若取法相不能為污，取假名相則生煩惱。所以者何？取怨親等差別相故生憂喜等，從此能生貪恚等過。故知取假法相是名為想也。

> 問い：縁は相ではないのではないか。なぜなら、無相三昧にも縁があるからである。また、「色を見て相を取らない」とも説かれている。もし縁が相であるならば、どうして色を取って相を取らないということがあり得るのか。 答え：相には二種類ある。過ちのある相と、過ちのない相である。過ちのある相を遮るために「色を見て相を取らない」と説かれたのである。無相の縁にも過ちがあるが、これについては後に滅諦のところで詳しく説かれるであろう。すなわち、三つの心を滅することを無相と名づけるのである。 最初に修行に入る者にとっては、すべての相が過ちであるとは限らない。もし摂相や捨相などの相を取るならば、それは過ちではない。 また、涅槃は「法なし」と名づけられるものであるから、それをもって難じるべきではない。例えば、法の相を取ることは汚れとはならないが、仮名の相を取ると煩悩が生じると説かれている。なぜなら、怨みや親しみなどの差別の相を取ることによって憂いや喜びなどが生じ、そこから貪りや怒りなどの過ちが生じるからである。それゆえ、仮の法の相を取ることを「想」と名づけるのである。