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title: "成實論 · 95 業相品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 集諦聚業論中業相品第九十五

> 第九十五章 業相品

論者言：已說苦諦竟，集諦今當說。集諦者，諸業及煩惱，是業有三種，身業、口業、意業。身業者，身所作名身業。是業三種，奪命等不善，起迎禮拜等善，斷草等無記。

> 論者が言うには、苦諦について説き終えたので、次に集諦を説くべきである。集諦とは、諸々の業（行為）と煩悩のことである。この業には三種類ある。身業（身体の行為）、口業（言葉の行為）、意業（心の行為）である。身業とは、身体によってなされる行為を身業という。この業には三種類ある。殺生などの不善（悪い行い）、迎え礼拝するなどの善（良い行い）、草を断つなどの無記（善悪に分類されない行い）である。

問曰：若身所作名身業者，瓶等物亦應是身業，身所作故。答曰：瓶等是身業果，非是身業，因果異故。

問曰：不應有身業。所以者何？身所動作名為身業，有為法念念滅故不應有動。答曰：是事念念滅品中已答，所謂法於餘處生時損益他，是名身業。

> 問う：身体の行為（身業）というものは、あるべきではない。なぜか。身体の動きによってなされるものを身業と呼ぶが、すべてのつくられた現象（有為法）は、瞬間ごとに消え去るものであるから、動きなど存在し得ないはずである。 答える：この問題については、すでに「念念滅」の章で答えた通りである。つまり、ある現象が他の場所で生じるときに、他に対して利益や損害を与えること、これを身業と呼ぶのである。

問曰：若爾者，身即身業，以餘處生故，非身所作名為身業。答曰：身是作業之具，身於餘處生時集罪福名為業，是故身非業也。

> 問い：もしそうであるならば、身そのものが身業であるはずです。しかし、他の場所に生じるから、身が作ったものではないものを身業と呼ぶのですか。 答え：身は行為を起こすための道具です。身が他の場所に生まれるときに、罪や福を積み集めることを業と呼びます。ですから、身そのものは業ではありません。

問曰：集罪福是無作，身作云何？答曰：身餘處生時有所造作，名為身作。

> 問う：罪や福を集めることは「無作」であるのに、どうして身の所作（身体の行い）があるのか？ 答える：身体の他の部分が生じるときに何かを作り出すこと、これを「身の所作」という。

問曰：是身作或善或不善，而身不然，是故非身所作。答曰：隨心力故，身餘處生時能集業，是故集名善不善，非直是身。口業亦爾，非直音聲語言，以心力隨音聲語言所集善惡，是名口業。意業亦如是，若決定心我殺是眾生，爾時集罪福亦如是。

> 問う：この身は、善あるいは不善の業を作るが、身そのものはそうではない。ゆえに身が作ったものではないのでは？ 答える：心の力に従うからである。身は他のはたらきとして現れるとき、業を積むことができる。ゆえに積まれるものを善・不善と呼ぶのであり、単に身そのものを指すのではない。口の業も同じである。単に音声や言葉そのものが業なのではなく、心の力が音声や言葉にしたがって善悪を積むこと、これを口の業と名づける。意の業もまた同様である。もし「この生き物を殺そう」と決意の心をもってすれば、そのとき罪や福を積むのもまた同じである。

問曰：如從身口別有業，意與意業為即為異？答曰：二種，或意即意業、或從意生業。若決定意殺眾生，是不善意，亦是意業，是業能集罪勝身口業。若未決定心，是意則與業異。

> 問う。例えば、身や口とは別に業があるように、意と意業は、同じなのか、それとも異なるのか。 答える。二つの場合がある。あるいは意がそのまま意業である場合、あるいは意から業が生じる場合である。もし心が定まって衆生を殺そうと決意するならば、それは不善の意であり、また意業でもある。この業は罪を積む力が身業や口業よりも勝れている。もし心がまだ定まっていないならば、その意は業とは異なる。

問曰：已知作相從作生，異集業何者為相？答曰：是即名無作。

> 問い：すでに「作相」（作によって生じる相）を知ったが、異なる「集業」の相とは何か？ 答え：それはすなわち「無作」と呼ばれるものである。

問曰：但身口有無作，意無無作。答曰：不然。所以者何？是中無有因緣，但身口業有無作，而意無無作。又經中說二種業，若思、若思已。思即是意業，思已三種，從思集業及身口業。是意業最重，後當說。從重業所集名無作，常相續生，故知意業亦有無作。

> 問い：身体と口の行為には「無作」（意志を超えた潜在的な業）があるが、意（心）には「無作」がないのではないか。 答え：そうではない。なぜか。ここには、身体と口の業だけに「無作」があり、意の業には「無作」がないとする理由（因縁）は存在しないからである。 また、経典には二種類の業が説かれている。「思」（意志・意図すること）と「思已」（意志した後の行為）である。「思」すなわち意業、そして「思已」には三種があり、思から生じる業（心によって集められた業）と、身体と口の業である。 この意業が最も重いとされ、その詳細は後で述べる。最も重い業から集められたものを「無作」と名づけ、常に相続して生じ続ける。ゆえに、意業にも「無作」があると知るべきである。