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title: "成實論 · 130 身見品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
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### 身見品第一百三十

> 身見品 第百三十

五陰中我心名為身見，實無我故說緣五陰。五陰名身，於中生見名為身見。於無我中而取我相，故名為見。

> 五つの集まり（五陰）の中に「自分」という思いを抱くことを「身見」と呼びます。実際には自分など存在しないため、五陰に基づいてこの見解が生じると説かれているのです。五陰を「身」と名づけ、その中に自分という見解が生じるから「身見」と呼びます。自分が存在しないところに、あたかも自分という姿があると捉えることから、「見」と名づけられるのです。

問曰：於五陰中作我名字有何咎耶？如瓶等物各自有相，是中無過，我亦如是。又若說離陰有我，是應有咎。答曰：雖不離陰說我，是亦有過。所以者何？諸外道輩說我是常，以今世起業後受報故。若如是說，五陰應即是常。又說我者以我為一，然則五陰即應是一，是名為過。又我即是過。所以者何？以我心故有我所，有我所故起貪恚等一切煩惱，故知我心是煩惱生處。又此人雖不離陰說我，以取陰相故不行於空，不行於空故生煩惱，從煩惱生業，從業生苦，如是生死相續不斷。又是人以計我故，尚不能得麁分別身頭目手足，況能分別諸陰。以受我一我常故，若不分別，何能入空？又若見我則畏泥洹，以我當無故。如經中說：凡夫聞空無我，生大怖畏，以我當無故都無所得。如是凡夫乃至貪求癩野干身，不用泥洹。若得空智則不復畏也，如《憂波斯那經》說：清淨持戒人，善修八聖道，命終時心喜，猶如破毒器。又若說有我即墮邪見，若我是常則苦樂不變，若不變則無罪福。若我無常則無後世，自然解脫亦無罪福，故知身見是重罪也。又身見者名為甚癡，一切凡夫皆以身見亂心，深著有故往來生死，若見無我往來則斷。

> 問い：五陰の中に「我」という名前を立てることに、いったい何の過ちがあるのでしょうか。例えば瓶などの物にはそれぞれ固有の性質があり、そこに過ちはありません。私も同じことではないでしょうか。また、陰を離れて我があると言うなら、それは過ちであるべきでしょう。 答え：たとえ陰を離れずに我を説くとしても、それにも過ちがあります。なぜなら、諸々の外道の人々は我は常住であると説き、現在世で業を起こして後世に報いを受けるからです。もしそう説くならば、五陰もまた常住であるべきことになります。また、我を説く人は我を一つのものとしますが、そうであれば五陰もまた一つであるべきことになり、これを過ちと呼びます。 また、我という考えそのものが過ちです。なぜなら、我という心があるから我所（私のもの）があり、我所があるから貪りや怒りなどの一切の煩悩が生じるからです。ゆえに我という心が煩悩の生じる場所であると知るべきです。 また、この人は陰を離れずに我を説くとはいえ、陰の相を捉えるために空を行じることができません。空を行じないがゆえに煩悩が生じ、煩悩から業が生じ、業から苦が生じ、このように生死が絶え間なく続いていくのです。 また、この人は我を計るがゆえに、粗い分別でさえ身体の頭・目・手足を分けて見ることができず、ましてや諸陰を分別することなどできません。「我」は一つであり常住であると受け取るがゆえに、もし分別しなければ、どうして空に入ることができるでしょうか。 また、もし我を見るならば涅槃を畏れることになります。我が無くなるであろうからです。経典に説かれるように、凡夫は「空・無我」を聞いて大きな恐怖を生じます。我が無くなり、まったく得るものがなくなるであろうからです。このように凡夫は、たとえ癩病の野干の身を貪り求めることがあっても、涅槃を用いることを望みません。もし空の智慧を得るならば、もはや畏れることはありません。『憂波斯那経』に説かれるように――「清らかに戒を保つ人は、よく八聖道を修め、命終わるとき心は喜ぶ。毒の器を破ったかのように」。 また、もし我があると説くならば邪見に堕ちます。もし我が常住であるならば苦楽は変わらず、変わらないならば罪も福もありません。もし我が無常であるならば後世もなく、自然に解脱してしまい、これまた罪も福もありません。それゆえ身見は重い罪であると知るべきです。 また、身見とは甚だしい愚かさと呼ばれます。一切の凡夫はみな身見によって心を乱され、深く執着するゆえに生死を往来します。もし無我を見るならば、往来は断たれるのです。

問曰：若五陰無我，眾生何故於中生我心耶？答曰：若聞人天男女名相，想分別故則生我心。亦以非因似因故生我心，所謂若無我者，誰受苦樂威儀語言、起罪福等受果報耶？又於無始生死久集我相，則成其使，如瓶等相，故生我心。又於諸受陰中我心生，非不受中，故謂生我心處此中有我。所以者何？不一切處生我心故。又以愚癡故生我心，猶如盲人得瓦石等生金玉想。又是人未得分別空智，癡故見我，如於幻、夢、乾闥婆城、火輪等中而生有想。

> 問う：もし五陰に我がないのなら、なぜ衆生はその中に「我」という心を生じるのでしょうか。 答える：人は天・人・男・女などの名や姿を聞くと、それに対して分別の想いを起こすため、「我」という心を生じるのです。また、真の因ではないものを因のように見なすことによっても、「我」という心が生じます。すなわち、「もし我がなければ、誰が苦楽や所作・言語・善悪の業を受け、その果報を受けるのか」と考えるからです。また、限りない過去からの生死の中で、長い間「我」というイメージを積み重ねてきたために、それが煩悩の働き（使）となって、「我」の心を生じさせます。例えば壺などの形に対して「瓶がある」と思うのと同じです。さらに、諸々の受陰（感受の集まり）の中にこそ「我」の心は生じますが、受のない所には生じません。それゆえ、「我」の心が生じるその所に「我」があるのだと考えるのです。なぜそう言えるかといえば、すべての所で「我」の心が生じるわけではないからです。また、愚かさによって「我」の心が生じます。ちょうど盲人が瓦や石に触れて、それを金や玉だと思い込むようなものです。また、その人は未だ空を分別する智慧を得ていないため、愚かさゆえに「我」を見るのです。ちょうど幻、夢、乾闥婆の城（蜃気楼）、火の輪などに対して、実在するものと思い込むのと同じです。

問曰：現見色身髮毛爪等諸分各異，云何智者以之為我？答曰：有人見神，如麥如芥子等住於心中。婆羅門神白、剎利神黃、違舍神赤、首陀羅神黑。又違陀中說：冥初時大丈夫神色如日光，若人知此能度生死，更無餘道。小人則小，大人則大，住身窟中。有坐禪人得光明相，見身中神如淨珠中縷，如是等人計色為我。麁思惟者說受是我，以木石等中無受故，可知受即是我。中思惟者說想是我，以苦樂雖過，猶有想我心故。細思惟者說行為我，以瓶等想雖過，猶有思我心故。深細思者說識為我，知思亦麁，是思雖過，猶故有識我心故。又於五陰中生我心，是人不能分別受等諸陰，於色心中合生我想，如於色等四法總生瓶想。以色等差別有二十分，見色是我。所以者何？色是我了法，受等所依，此諸受等繫在於色，故謂色為我。有人見色住受等中，受等是不了法故，色所依止；如虛空不了故，地等依止。如是二十分皆由癡生。

> 問う：人の目には、髪や毛、爪などの身体の各部分がそれぞれ異なって見える。それなのに、どうして賢者がこれを「私」だと見なすことができるのか？ 答える：ある人は「神（魂）」というものを見る。それは麦粒や芥子粒ほどの大きさで、心の中に宿っているという。バラモンの神は白く、クシャトリアの神は黄、ヴァイシャの神は赤、シュードラの神は黒だと説く。またヴェーダにはこうある：「冥初の時、大いなる者（原人）の色は日光のようである。もしこの理を知れば生死を超えられる。他に道はない」と。小さな者は小さく、大きな者は大きく、身体という洞窟に住む。坐禅を修める者の中には、光明の相を得て、身体の中の神が清らかな珠の中の糸のように見える者もいる。このような人々は「色」を「私」であると計る。 粗い思考をする者は「受（感じ取り）」を私であると説く。木や石などには受がないから、受こそが私であると知れる。中程度の思考をする者は「想（表象）」を私であると説く。苦楽は過ぎ去っても、なお想う心が私として残るからだ。細かい思考をする者は「行（意思）」を私であると説く。瓶などの想いは過ぎ去っても、なお思う心が私として残るからだ。さらに深く細やかに思考する者は「識（認識）」を私であると説く。思うこともまた粗いと知るが、その思うことが過ぎ去っても、なお識る心が私として残るからだ。 また、五つの集まり（五陰）の中に「私」という心を生じる者がいる。その人は感受などの諸々の集まりを区別できず、色と心とを合わせて「私」という思いを生じる。ちょうど色などの四つの要素を総合して「瓶」という思いを生じるようなものである。色などの差別には二十分の種類がある。そして「色は私である」と見る。なぜなら、色は私が明らかに知るものであり、感受などが依りかかる基盤だからである。これらの感受などはすべて色に結びついている。だから色を私であると見なすのである。 ある人は色が感受などの中に住していると見る。感受などは明らかでない法であり、色がそれに依りかかる。例えば虚空は明らかでないから、地などがそれに依りかかるのと同じである。このように二十分の見解は、すべて無明（愚かさ）から生じるのである。

問曰：眼等中何故不說我分？答曰：亦有，如經中說：若人說眼是我，是則不然。所以者何？眼是生滅，若眼是我，我則生滅。又眼等各各相別，若說眼是我、耳等非我，是則不然。若耳等復是，則一人多我。色等中有差別故，可得說色是我而非受等。

> 問う：眼などの五根の中に、なぜ「我」の部分があると言わないのか。 答える：それもまたある。例えば経典の中でこう説かれている。「もし人が『眼は我である』と言うならば、それは正しくない」と。なぜなら、眼は生滅するものであり、もし眼が我であるならば、我もまた生滅することになるからである。また、眼や耳などはそれぞれ異なる性質を持つ。もし「眼は我であり、耳などは我ではない」と言うならば、それは正しくない。もし耳などもまた我であると言うならば、一人の人間に多くの我があることになってしまう。色などの対象（五境）には違いがあるので、色は我であり、受などは我ではないと説くことは可能である。

問曰：若說無我亦是邪見。此事云何？答曰：有二諦。若說第一義諦，有我是為身見；若說世諦，無我是為邪見。若說世諦故有我，第一義諦故無我，是為正見。又第一義諦故說無，世諦故說有，不墮見中，如是有無二言皆通。如虎㗖子，若急則傷、若緩則失，如是若定說我則墮身見，定說無我則墮邪見。又過與不及二俱有過，若定說無是則為過，若定說有我是名不及，故經中說應捨二邊。若第一義諦故說無，世諦故說有，名捨二邊行於中道。又佛法名不可諍勝，若說第一義諦故無，則智者不勝；若說世諦故有，則凡夫不諍。又佛法名清淨中道非常非斷，第一義諦無故非常，世諦有故非斷。

> 問う：もし「無我」を説くのもまた邪見であるというならば、このことはどう理解すべきでしょうか。 答える：二つの真理（二諦）がある。もし第一義諦（最高の真理）に基づいて「我」があると説けば、それは身見（身体や自己への執着）となる。もし世俗諦（世間の真理）に基づいて「我」がないと説けば、それは邪見となる。世俗諦に基づいて「我」があると説き、第一義諦に基づいて「我」がないと説くならば、これが正しい見解である。また、第一義諦に基づいて「無」を説き、世俗諦に基づいて「有」を説くならば、二つの見解（極端な見方）に堕ちることはない。このように「有」と「無」の二つの言葉は、どちらも通じるのである。 ちょうど虎が子をくわえるようなもので、急ぎすぎれば子を傷つけ、緩めすぎれば子を落としてしまう。同じように、もし「我」があると固定して説けば身見に堕ち、「我」がないと固定して説けば邪見に堕ちるのである。 また、行き過ぎと及ばないことの二つには、どちらにも過ちがある。もし「無」を固定して説くならば、これは行き過ぎである。もし「我」があると固定して説くならば、これは及ばないことである。だから経典には「二辺を捨てるべきである」と説かれているのである。もし第一義諦に基づいて「無」を説き、世俗諦に基づいて「有」を説くならば、これを「二辺を捨てて中道を行く」と名づけるのである。 また、仏法は「争いを超えた勝れたもの」と呼ばれる。もし第一義諦に基づいて「無」を説くならば、智者は勝とうとしない。もし世俗諦に基づいて「有」を説くならば、凡夫は争わないのである。 また、仏法は「清浄なる中道」と呼ばれ、常ならず断ならずである。第一義諦に基づく「無」ゆえに常ならず、世俗諦に基づく「有」ゆえに断ではないのである。

問曰：若法第一義諦故無，便應是無，何為復說世諦故有？答曰：一切世間所有言說，謂業及業報、若縛若解等，皆從癡生。所以者何？是五陰空，如幻如炎，相續生故。欲度凡夫故隨順說有，若不說者，凡夫迷悶若墮斷滅，若不說諸陰則不可化，以罪福等業若縛若解皆不能成。若破此癡語，則自能入空，爾時無諸邪見，是故後說第一義諦。如初教觀身破男女相故，次以髮毛爪等分別身相但有五陰，後以空相滅五陰相，滅五陰相名第一義諦。又若說世諦故有，則不須復說第一義無。又經中說：若知諸法無自體性，則能入空。故知五陰亦無。又《第一義空經》中說：眼等以第一義諦故無，世諦故有。《大空經》中說：若言是老死，若言是人老死；若外道言身即是神，若言身異神異，是事義一而名異。若言身即是神，身異神異，是非梵行者。若遮是人老死即說無我，若遮是老死即破老死乃至無明，故知第一義中無老死等；言生緣老死，皆以世諦故說，是名中道。又《羅陀經》中說，佛語羅陀：色散壞破裂令滅不現，乃至識亦如是。如石壁等，以不實故可令不現。諸陰不現，亦以第一義無故。隨諸陰相在，則我心不畢竟斷，以因緣不滅故。如樹雖剪伐焚燒乃至灰炭，樹想猶隨；若此灰炭風吹水漂，樹想乃滅。如是若破裂散壞滅五陰相，爾時乃名空相具足。又如經說：羅陀！汝破裂散壞分析眾生令不現在。是經中說五陰無常眾生空無，先經中說五陰散滅是為法空。

> 問うていわく、もし諸法が第一義諦のゆえに無であるならば、まさに無であるべきです。どうしてまた世諦のゆえに有ると説くのですか。 答えていわく、すべての世間における言説、すなわち業や業報、束縛や解脱などは、すべて無明から生じるものです。なぜなら、この五蘊は空であり、幻や陽炎のようであり、相続して生じるからです。凡夫を救済しようとするがゆえに、それに随順して「有る」と説くのです。もし説かなければ、凡夫は迷い惑って断滅の見に堕ちてしまいます。もし諸蘊を説かなければ、教化することはできません。罪福などの業や、束縛や解脱も、すべて成り立たなくなります。もしこの愚痴の言葉を破れば、自然に空に入ることができ、そのとき諸々の邪見はありません。ゆえに後になって第一義諦を説くのです。 たとえば、初めに身を観察して男女の相を破り、次に髪・毛・爪などを用いて身の相を分別して、ただ五蘊があるだけであるとし、後に空の相をもって五蘊の相を滅するのです。五蘊の相を滅することを第一義諦と名づけます。 また、もし世諦のゆえに有ると説くならば、さらに第一義の無を説く必要はありません。 また経典に説かれています。「もし諸法に自性がないと知れば、空に入ることができる」と。ゆえに五蘊もまた無であると知るべきです。 また『第一義空経』に説かれています。「眼などは第一義諦のゆえに無であり、世諦のゆえに有である」と。 『大空経』に説かれています。「もし『これは老死である』と言い、もし『人は老死する』と言う。もし外道が『身はすなわち神である』と言い、もし『身は神と異なる』と言うならば、このことは意味は同じで名だけが異なる。もし『身はすなわち神である』と言い、『身は神と異なる』と言うならば、これは梵行を修める者ではない。もし『人は老死する』ということを遮するならば、すなわち無我を説くことになり、もし『これは老死である』ということを遮するならば、老死を破し、さらに無明に至るまで破する。ゆえに第一義の中には老死などはないと知るべきです。『生を縁として老死がある』と言うのは、すべて世諦のゆえに説くのであり、これを中道と名づけます。 また『羅陀経』に説かれています。仏は羅陀に告げられました。「色を散壊し破裂して、滅して現れないようにせよ。識もまたこのようである」と。石壁なども、実でないがゆえに現れないようにすることができます。諸蘊が現れないのも、また第一義には無いというゆえです。諸蘊の相が存在するかぎり、我心は畢竟断滅することはありません。因縁が滅しないからです。 たとえば木が、たとえ刈り伐られ焼かれ、灰や炭に至っても、木という想いはなお付き従います。もしこの灰や炭が風に吹かれ水に流されるならば、木という想いはついに滅します。このように、もし五蘊の相を破裂し散壊し滅するならば、そのときに初めて空の相が具足すると名づけます。 また経典に説かれています。「羅陀よ、あなたは衆生を破裂し散壊し分析して、現在に現れないようにせよ」と。この経典では五蘊の無常と衆生の空・無を説いています。先の経典では五蘊の散滅を説いて、これは法空としています。