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title: "出三藏記集 · 2 安般守意經序"
description: "出三藏记集是中国佛教史上第一部系统的佛教经录由南朝梁代高僧僧祐编撰成书于天监年间该书在道安综理众经目录基础上增补完善记载东汉至梁代所译经律论目录并保存大量译经文献及高僧传记其内容分为撰缘起诠名录总经序述列传四部分不仅梳理了汉译佛典源流更收录众多珍贵序跋和僧传是研究中国佛教早期传播与经典翻译不可或缺的权威史料在佛教文献学与目录学领域具有开创性地位被誉为现存最古的佛教经录对后世大藏经的形成影响深远"
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### 安般守意經序第二

> 安般守意経 序 第二

康僧會

> 康僧会

夫安般者。諸佛之大乘。以濟眾生之漂流也。其事有六。以治六情。情有內外。眼耳鼻口身心。謂之內矣。色聲香味細滑邪念。謂之外也。經曰。諸海十二事。謂內外六情之受邪行猶海受流。餓夫夢飯。蓋無滿足也心之溢盪無微不浹。怳惚髣髴出入無間。視之無形。聽之無聲。逆之無前。尋之無後。深微細妙形無絲髮。梵聲僊聖所不能照。明默種于此化生乎。彼非凡所覩謂之陰也。猶以晦曀種夫粢芥。闓手覆種孳有萬億。旁人不覩其形。種家不知其數也。一朽乎下。萬生乎上。彈指之間。心九百六十轉。一日一夕十三億意。意有一身。心不自知。猶彼種夫也。是以行寂繫意著息數一至十。十數不誤。意定在之。小定三日。大定七日。寂無他念。泊然若死。謂之一禪。禪棄也。棄十三億穢念之意。已獲數定。轉念著隨蠲除其八。正有二意。意定在隨。由在數矣。垢濁消滅心稍清淨謂之二禪也。又除其一。注意鼻頭。謂之止也。得止之行三毒四走五陰六冥。諸穢滅矣。昭然心明踰明月珠。婬邪洿心猶鏡處泥。穢垢洿焉。偃以照天。覆以臨土。聰叡聖達萬土臨照。雖有天地之大。靡一大而能覩。所以然者。由其垢濁眾垢洿心有踰彼鏡矣。若得良師剗刮瑩磨。薄塵微曀蕩使無餘。舉之以照。毛髮面理無微不察。垢退明存使其然矣。情溢意散。念萬不識一矣。猶若於市馳心放聽廣採眾音。退宴存思不識一夫之言。心逸意散濁翳其聰也。若自閑處心思寂寞志無邪欲側耳靖聽。萬句不失片言斯著。心靖意清之所由也。行寂止意懸之鼻頭。謂之三禪也還觀其身。自頭至足反覆微察內體洿露森楚毛竪猶覩膿涕於斯具照天地人物。其盛若衰無存不亡。信佛三寶眾冥皆明。謂之四禪也。攝心還念諸陰皆滅。謂之還也。穢欲寂盡其心無想。謂之淨也。得安般行者厥心即明。舉眼所觀無幽不覩。往無數劫方來之事。人物所更現在諸剎。其中所有世尊法化弟子誦習。無遐不見。無聲不聞怳惚髣髴存亡自由。大彌八極細貫毛氂。制天地住壽命。猛神德壞天兵。動三千移諸剎。八不思議。非梵所測。神德無限。六行之由也。世尊初欲說斯經時大千震動人天易色。三日安般無能質者。於是世尊化為兩身。一曰何等。一尊主。演于斯義出矣。大士上人六雙十二輩。靡不執行。有菩薩者。安清字世高。安息王嫡后之子。讓國與叔。馳避本土翔而後進。遂處京師。其為人也。博學多識貫綜神模七正盈縮。風氣吉凶山崩地動。鍼䘑諸術覩色知病。鳥獸鳴啼無音不照。懷二儀之弘仁。愍黎庶之頑闇。先挑其耳却啟其目。欲之視聽明也。徐乃陳演正真之六度。譯安般之祕奧。學者塵興。靡不去穢濁之操。就清白之德者也。余生末蹤。始能負薪。考妣殂落。三師凋喪。仰瞻雲日悲無質受。睠言顧之澘然出涕。宿祚未沒。會見南陽韓林頴川皮業會稽陳慧。此三賢者。信道篤密執德弘正。烝烝進進志道不倦。余之從請問。規同矩合。義無乖異。陳慧注義。余助斟酌。非師不傳。不敢自由也。言多鄙拙不究佛意。明哲眾賢願共臨察。義有肬腨。加聖刪定。共顯神融矣。

> 安般（呼吸瞑想）とは、諸仏が用いる大いなる乗り物であり、迷いの世界を漂流する衆生を救い渡すためのものである。その修行には六つの段階があり、六根（六つの感覚器官）を調御するためのものである。根には内と外がある。眼・耳・鼻・舌・身・意を内と謂う。色・声・香・味・触・法（対象や想念）を外と謂う。経典に曰く、「諸々の海、すなわち十二の事柄」とは、内と外の六根が邪な対象を受け入れる様を、海が流れを受け入れるのに例えたものである。飢えた人が夢の中でご飯を食べるようなもので、そこには満足というものが無い。心の揺れ動きは、極めて微細なところにまで浸透し、有り無しの間を出入りしてとどまることがない。姿を見ようとしても形はなく、声を聴こうとしても音はない。向かおうとしても先はなく、追おうとしても後ろはない。深く、微かで、細やかであり、その形は髪の毛一本分もない。梵天や仙人、聖者でさえも照らし見ることはできない。暗闇の中で種をまけば、それが育って花開くように、凡夫の目には見えないものが、ここに陰（五蘊）として存在するのである。これは、ちょうど曇った暗い日に、キビやアブラナの種をまくようなものである。手を開いて種をまけば、そこから無数の芽が生えるが、傍らの人はその種の形を見ることはできず、蒔いた本人もその数を知ることはできない。一つが下で朽ちれば、万のものが上に生まれる。指を弾くほどの間に、心は九百六十回転する。一日一晩で、十三億の意（心の働き）がある。一つの意が一つの世界を持つが、心自身はそのことを知らない。それは、あの種を蒔く者と同じである。それ故に、静寂の修行に徹し、心を呼吸に結びつけ、息の数を一から十まで数える。十まで数え誤りがなければ、心はそこに定まる。小さな定めは三日、大きな定めは七日続く。静寂であり他の念はなく、澄み切って死人のようになる。これを一禅という。禅とは、捨てるという意味である。十三億の汚れた念の意を捨てるのだ。すでに数による定を得たならば、心を転じて呼吸に随うことに専念し、八つのものを除き去る。正しくは二つの意だけが残る。意は呼吸に随うことに定まり、それは数を数えている状態に似ている。汚れや濁りは消え去り、心は次第に清らかになる。これを二禅という。さらにその一つを除き、心の注意を鼻先に集中させる。これを止という。この止の修行を得れば、三毒（貪・瞋・癡）、四奔（四つの動き？）、五陰、六冥（六つの暗闇？）といった諸々の汚れはすべて滅する。心は明らかに照らされ、明月の珠よりも明らかになる。淫らで邪な思いが心を汚すのは、鏡が泥の中にあるようなものである。汚れがそこに付着する。それを休めて天を映し、伏せて地を照らすならば、その聡明さと聖なる智慧は、あらゆる世界を照らし出す。たとえ天地のように大きくとも、その大きくてはっきりと見えるものはない。そうなる理由は、心にある汚れや濁りが、その鏡よりも甚だしいからである。もし良き指導者を得て、その鏡を削り磨き、わずかな塵や曇りさえもすべて洗い流せば、それを持って照らすとき、毛髪や顔のしわの一つに至るまで、微細なものを見逃すことはない。汚れが退き、明るさが残るから、そうなるのである。感情が溢れ、心が散乱すれば、一万の念があっても一つとして正しく認識することはできない。例えるなら、市場に出て心を散漫にし、耳を放って様々な音を広く集めるようなものである。家に帰って静かに思い返しても、一人の言葉すら覚えてはいない。心が逸れ、意が散れば、濁りがその聴覚を覆い隠すからである。もし自ら閑静な場所にいて、心を静寂に向け、邪な欲望無く、耳を傾けて静かに聴くならば、一万の言葉の中から一片の言葉も聞き漏らさない。これは、心が静かで意が清らかであることによるのである。静寂の修行を続け、心を鼻先にとどめる。これを三禅という。さらに、自身の身体を観察する。頭から足の先まで、繰り返し細かく観察し、内なる体の汚れが露わになり、毛が逆立つ様を見る。それは、膿や鼻水を見るかのようである。ここにおいて、天地・人・物のすべてを明らかに見渡す。それらは盛んであるように見えても衰え、存在しても滅びないものはない。仏・法・僧の三宝を信じれば、すべての暗闇が明るくなる。これを四禅という。心を摂めて念を返せば、五陰はすべて滅する。これを還という。汚れた欲望は寂滅し、その心には何の想念もない。これを浄という。安般の修行を得た者は、その心は直ちに明らかになる。眼を上げて観るものは、暗いところもなく全てを見通す。過ぎ去った無数の劫の出来事、未来に起こる事柄、人や物が経てきた変化、現在のあらゆる世界、その中にある世尊の教えや弟子たちの誦習、遠くないものはなく、見えないものはない。音も、聞こえないものはない。有無の間を自由に行き来し、生きるも死ぬも自在である。その大きさは八極（全世界）に満ち、微細には毛の先にまで貫く。天地を制し、寿命を自在にし、神々しい徳は天の軍隊を打ち負かし、三千世界を動かし、あらゆる世界を移す。八種の不可思議な力は、梵天すら測り知れない。この神々しい無限の徳は、すべて六行（六つの修行段階）によって生じるのである。世尊が最初にこの経典を説こうとした時、大千世界は震動し、人間や天人は顔色を変えた。三日の間、安般について問うことのできる者はいなかった。そこで世尊は姿を二つに変えた。一つは「何を問うのか」と問う者、もう一つは「尊い主」と称する者であり、ここにおいてこの義が説き明かされたのである。大士（菩薩）や上人（上首の弟子）、六双十二輩の者たちは、皆この修行を行わない者はなかった。菩薩の中に、安清（字は世高）という者がいた。彼は安息国の王の正嫡の后の子であったが、王位を叔父に譲り、故国を逃れて広く飛翔し、後に入京して洛陽に住んだ。その人物は、博学で多くのことを知り、神妙な模範や、七曜（日月五星）の運行、風や気の吉凶、山崩れや地震、鍼灸や諸々の術、色を見て病を知る術、鳥獣の鳴き声など、音の無いものはなかったという。天地の広大な仁愛を胸に抱き、民衆の愚かで暗いことを哀れみ、まずその耳を澄まさせ、次にその目を開かせようとした。彼らの見聞を明らかにしようとしたのである。そして徐ろに、真実正しい六度（六波羅蜜）を説き、安般の秘密の奥義を翻訳した。学ぶ者は雲が湧くように集まり、汚れた行いを捨て、清らかな徳に就かない者はなかった。私は末流の身で、やっと薪を背負える年齢になった頃、父母が亡くなり、三人の師もまた世を去った。仰ぎ見る雲や日を眺めては、直接教えを受けられないことを悲しみ、振り返って顧みるたびに涙がこぼれた。しかし幸運なことに、南陽の韓林、潁川の皮業、会稽の陳慧という方々に出会うことができた。この三人の賢者たちは、道を信じる心篤く、徳を執ること広く正しく、精進努力し、道を志して倦むことがなかった。私が師事して問い質したところ、その教えは寸分違わず、義に矛盾するところはなかった。陳慧が注釈を施し、私はその検討を助けた。師から伝えられたものではなく、勝手に作ったものではない。言葉は多くが鄙びて拙く、仏の御意を究めていないが、賢明な諸賢の皆様には、どうか共に見守り、検討していただきたい。義に瑕疵があれば、聖なる御手によって刪定を加え、共にその神明なる調和を顕わしていただきたいと願う次第である。