---
title: "出三藏記集 · 8 法華宗要序"
description: "出三藏记集是中国佛教史上第一部系统的佛教经录由南朝梁代高僧僧祐编撰成书于天监年间该书在道安综理众经目录基础上增补完善记载东汉至梁代所译经律论目录并保存大量译经文献及高僧传记其内容分为撰缘起诠名录总经序述列传四部分不仅梳理了汉译佛典源流更收录众多珍贵序跋和僧传是研究中国佛教早期传播与经典翻译不可或缺的权威史料在佛教文献学与目录学领域具有开创性地位被誉为现存最古的佛教经录对后世大藏经的形成影响深远"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcvhzmqg0comli04ad2g1plh"
---

### 法華宗要序第八

> 法華宗要序 第八

釋慧觀

> 慧観

夫本際冥湛則神根凝一。涉動離淳則精麁異陳。於是心轡競策塵想諍馳。翳有淺深則昏明殊鏡。是以從初得佛暨于此經。始應物開津。故三乘別流。別流非真則終期有會。會必同源。故其乘唯一。唯一無上。故謂之妙法。頌曰。是乘微妙。清淨第一。於諸世間。最無有上。夫妙不可明。必擬之有像。像之美者蓮華為上。蓮華之秀分陀利為最。妙萬法而為言。故喻之分陀利。其為經也。明發矇不可以語極。釋權應之所由。御終不可以祕深則開實以顯宗。權應既彰則扃心自廢。宗致既顯則真悟自生。故能令萬流合注。三乘同往。同往之三會而為一乘之始也。覺慧成滿乘之盛也。滅景澄神乘之終也。雖以萬法為乘。然統之有主。舉其宗要則慧收其名。故經以真慧為體。妙一為稱。是以釋迦玄音始發讚佛智甚深。多寶稱善歎平等大慧。頌曰。為說佛慧故。諸佛出世間。唯此一事實。餘二則非真。然則佛慧乃一之正實。乘之體成。妙之至足。華之開秀者也。雖寄華宣微而道玄像表。稱之曰妙。而體絕精麁。頌曰。是法不可示。言辭相寂滅。二乘所以息慮。補處所以絕塵。唯佛與佛乃能究焉。故恒沙如來。感希聲以靈萃。已逝之聖。振餘靈而現證。信佛法之奧區。窮神之妙境。其此經之謂乎。此經之謂乎。觀少習歸一之言。長味會通之要。然緬思愈勤而幽旨彌潛。未嘗不面靈鷲以遐想。臨辭句而增懷。諒由枝說差其本。謬文乖其正也。有外國法師鳩摩羅什。超爽俊邁奇悟天拔。量與海深辯流玉散。繼釋蹤以嗣軌。秉神火以霜燭。紐頹綱於將絕。拯漂溺於已淪。耀此慧燈來光斯境。秦弘始八年夏。於長安大寺集四方義學沙門二千餘人。更出斯經。與眾詳究。什自手執胡經口譯秦語。曲從方言而趣不乖本。即文之益亦已過半。雖復霄雲披翳陽景俱暉。未足喻也。什猶謂語現而理沈。事近而旨遠。又釋言表之隱。以應探賾之求。雖冥扉未開。固已得其門矣。夫上善等潤靈液尚均。是以仰感囑累俯慨未同。故採述旨要流布未聞。庶法輪遐軫往所未往。十方同悟究暢一乘。故序之云爾。

> そもそも、真理の根源は深遠にして静寂であり、そこでは神妙なる根源が一体となって凝っている。しかし、動きに触れて純一さから離れると、精妙なものと粗雑なものが別々に現れる。そこで心という手綱は競い合って策を巡らせ、塵のような妄想は争って駆け回る。覆い隠すものには浅い深いがあり、それによって昏いのと明るいのとが鏡のように別れる。それゆえ、仏が初めて悟りを得てからこの経典に至るまで、まず衆生に応じて教えの門を開いたので、三乗という別々の流れが生じた。別々の流れは真実ではないから、最終的には一つの会するところがある。会すれば必ず同じ根源に至る。ゆえに、その乗り物はただ一つである。一つだけで、それ以上はない。だから、それを「妙法」という。讃頌に言う。「この乗り物は微妙にして、清浄第一、諸々の世間の中にあって、最も優れて、それを超えるものはない」。そもそも、「妙」とは明らかに示すことができない。必ず像によってそれに近づく。像の中で美しいものは蓮華が最も優れている。蓮華の最も秀でたものを分陀利という。あらゆる法を「妙」として説くので、それを分陀利にたとえたのである。この経典は、蒙りを開くことを明らかにするものであり、極致を語るには及ばない。権（仮の教え）が応じる所以を明かし、終わりを統べるにあたっては、深遠を秘めることなく、実（真実の教え）を開いて宗旨を顕わす。権（仮の教え）の働きが明らかになれば、心の閉ざしは自然と廃れる。宗旨が顕かになれば、真の悟りが自然と生じる。これにより、あらゆる流れが一つに合流し、三乗が共に同じ所へ向かうことができる。共に同じ所へ向かう三つのものが集まって、それが一乗の始まりとなる。覚りの智慧が成就し満ち足りることは、乗り物の盛んな状態である。そして、姿を滅し、心を澄ますことが、乗り物の終極である。たとえ万物を法として乗り物としながらも、それを統べる主体がある。その宗要を挙げれば、「智慧」という名に収まる。だから、この経典は真実の智慧を本体とし、「妙一」を名称とする。それゆえ、釈迦の玄妙な音声が初めて発せられ、仏の智慧が深いことを讃えた。多宝仏は「善し」と称賛し、平等の大慧を褒めたたえた。讃頌に言う。「仏の智慧を説くために、諸仏は世に出現する。ただこの一事だけが真実であり、残りの二つは真実ではない」。そうだとすれば、仏の智慧こそが「一」の正しい真実であり、乗り物の本体を成し、「妙」の極みであり、華の開き咲くものなのである。たとえ華に託して微細な法を説き示すとしても、道は像の表れを超えて玄妙である。それを「妙」と称するが、その本体は精妙・粗雑の区別を絶している。讃頌に言う。「この法は示すことができない。言葉や文字の相は寂滅している」。二乗はここで思慮を休め、補処の菩薩はここで塵の煩悩を断つのである。ただ仏と仏とのみが、これを究めることができる。それゆえ、恒河沙の数の如来が、希有の音声に感じて霊妙に集まり、すでに逝った聖者たちも、その余りの霊力を振るって現に証を示す。これはまさに、仏法の奥深いところ、神の妙境を窮めたものであると言えよう。この経典こそが、それである。この経典こそが、それである。 私（筆者）は若い頃から「帰一」の教えを学び、長じては「会通」の要を味わった。しかし、ますます努めれば努めるほど、幽遠な旨はますます深く隠れてしまった。かつて霊鷲山に思いを馳せ、経典の言葉の前にして感慨を深めないことはなかった。思うに、これは枝葉の説がその根本を誤らせ、誤った文がその正しさを損なっているからであろう。ここに、外国の法師・鳩摩羅什がいる。彼は非常にすぐれて俊敏で、その悟りは天賦のもので、その器量は海のように深く、その弁舌は玉が散るようである。彼は釈尊の跡を継ぎ、その軌範を嗣ぎ、神火を執って霜のように照らし、絶えようとする綱を繋ぎ、すでに溺れ漂っている者を救い、この智慧の燈明を輝かせて、この国に来て照らした。秦の弘始八年の夏、長安の大寺にて、四方から集まった義学の沙門二千余人と共に、改めてこの経典を出した。多くの者と共に詳しく究めた。羅什は自ら胡語の経典を手に取り、口で秦の言葉に翻訳した。方言に従いながらも、根本から外れることはなかった。文による利益もすでに過半に及んだ。たとえ雲が晴れて日光が共に輝くようなものでも、これに例えられるには足りない。羅什はなお、言葉は現れていても道理は沈み、事は近くとも旨は遠いと考え、さらに言葉の奥に隠れたものを解き明かして、深遠を探求する欲求に応えた。まだ冥い門は開かれていなくとも、すでにその門を得たのである。上善の水が等しく潤し、霊妙な液がなお均しくあるように、私は上の感化に託され、下の未だ同じでないものに慨嘆した。そこで、旨要を集めて記述し、未だ聞かぬところに流布することとした。願わくば、法輪が遠く巡り、いまだ往かざる所に往き、十方が共に悟り、一乗を暢達することを。よって、序文をここに記す。