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title: "補續高僧傳 · 徧融師傳"
description: "明河法师所撰《補續高僧傳》是明代重要的佛教史傳著作。該書接續梁唐宋歷代高僧傳傳統，廣泛搜集唐代以後至明代的高僧事跡，尤其注重禪宗與淨土宗人物的記載。內容涵蓋高僧的行誼、教化與修行成就，具有極高的史料價值。此傳不僅填補了明代之前僧傳的空白，更成為研究中國佛教史特別是明清佛教發展的重要文獻，在佛教傳承與歷史研究中佔有不可替代的權威地位。"
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### 徧融師傳

> 徧融大師伝

真圓。字大方。徧融其別號也。蜀之營山人。姓鮮氏。幼業儒。身長七尺餘。音吐洪亮。年將立。感生死無常。遂捨家入雲華山。禮可和尚為師。落髮受具。一鉢東下。至洪州。葺馬祖庵居之。復捨庵入京師。徧游講席。深入華嚴法界。心念口演。不離此經。復束鉢入匡山。值歲㐫。鬻薪度日。採薪遇有材堅寔可為器杖者。輒削成。襍薪中。賣之不論價。隨得錢米無多少。一以供眾。為之不避風雨寒暑。如是二十餘年。庵居獅子巖。地幽僻多魈倀。常橫一棒坐巖口。行脚僧來。輒棒之出。竟無契其機者。前後四入京師。初住龍華寺。聽通公講法。次住柏林閱藏。又移世剎海。接待雲水。最後慈聖太后。建千佛叢林。請師居之。陳文端趙文肅二公。為護持。道望赫然。甞在杲日寺。講華嚴經。有狂僧。觸太宰下獄。詞連師。因併逮師下獄。兩獄卒甚苦患師。置師于㭱。師不勝苦。口稱大方廣佛華嚴經。鐵栓檀㭱。轟然盡裂。獄卒駭異感化。因不復為獄卒。師在獄時。送供入獄者甚眾。然必獄眾均沾。精好一如始受。否即力却。終不獨入口。獄眾以此感動。相率皈依。圜扉之中。佛聲浩浩矣。師在獄凡三閱月。文肅公疏請。得免。師念苦緣當百日。今未滿。且不能捨獄眾。堅不肯出。比出。隱穀積山。塊然獨坐。見人不起。亦不舉手。會中貴楊某。奉　慈聖命。請居世剎海。　賜內帑紫衣寶旛龍藏。時江陵方柄國。甞詣師。侍者屢促師迎。不應。江陵至榻前。始徐起。執其手曰。公來何為。曰來問佛法。師曰。盡心佐理　朝廷。此真佛法。舍此俱為戲論耳。張默然。張。又甞偕文肅謁師。問如何是文殊智。曰。不隨心外境。如何是普賢行。曰。調理一切心。師性耿直。高聲硬語。聞者凜然。不能為豪貴人溫愞。此亦其槩也。初師法軀修偉。而不甚肥大。自住剎海。日漸豐碩。至須人扶掖始得行。隆冬沍寒。日必數浴。居恒危坐。默持法界觀。或誦華嚴無停󳫴。甲申九月。師命梓人造龕。促其期曰。宜速成。緩無及也。前三日。孤雁集方丈。師撫之點頭曰。爾來乎。葢雁去而師滅。師原無疾。獨覺氣力漸微弱。至重九日。尚坐繩床。聽誦晚課。聞願生西方句。泊然而化。世壽七十九。僧臘五十。全身瘞德勝門外。普同塔。

> 真円。字は大方。徧融はその別号である。蜀の営山の人。姓は鮮氏。幼くして儒を学び、身長七尺余、声は大きく響き渡った。三十歳に近づき、生死の無常を感じ、ついに家を捨てて雲華山に入り、可和尚を礼して師とし、剃髪して具足戒を受けた。一鉢を携えて東下し、洪州に至り、馬祖庵を修復して住んだ。再び庵を捨てて京師に入り、諸方の講席を遍歴し、華厳法界の深義に入った。心に念じ口に演じ、この経を離れなかった。再び鉢をまとめて匡山に入り、凶年にあたり、薪を売って日を過ごした。薪を採る際、材質が堅く実直で器や杖にできるものがあれば、削り整えて薪の中に混ぜ、値段を問わずに売った。得た銭や米は多少にかかわらず、すべて大衆に供した。風雨寒暑を避けず、このように二十余年を過ごした。庵は獅子巖にあり、地は幽邃で僻遠、多く魈や倀がいた。常に一本の棒を横たえて巖の口に坐し、行脚僧が来れば、すぐに棒で追い出した。ついにその機に契う者はなかった。前後四回京師に入った。初めは龍華寺に住し、通公の法講を聴いた。次に柏林に住して蔵経を閲読し、また世刹海に移って雲水を接待した。最後に慈聖太后が千仏叢林を建立し、師を請じて住まわせた。陳文端・趙文肅の両公が護持し、道望は赫々とした。かつて杲日寺で華厳経を講じた時、狂僧が太宰に抵触して獄に入り、その言葉が師に連座し、師もまた捕らえられて獄に入った。二人の獄卒は師をひどく苦しめた。師を檻の中に置いたが、師は苦しみに耐えかね、口に「大方広仏華厳経」と称すると、鉄の栓や木の檻が轟然とことごとく裂けた。獄卒は驚き怪しみ感化され、その後獄卒をやめた。師が獄にいる間、獄に供物を送る者は非常に多かったが、必ず獄中の者全員が均しく沾い、精好は初めに受けたものと同じでなければならなかった。そうでなければ強く辞退し、ついに独りで口にすることはなかった。獄中の者たちはこれに感動し、相次いで帰依した。獄門の中に、仏の声が浩浩と響き渡った。師は獄中で凡そ三ヶ月を過ごし、文肅公が上疏して請うたため、赦免された。師は苦の縁は百日に及ぶべきであり、今は満ちておらず、また獄中の衆を捨てられないと思い、堅く出ることを肯んじなかった。出た後、穀積山に隠れ、塊然として独坐し、人を見ても起たず、また手を挙げもしなかった。折しも宦官の楊某が慈聖の命を奉じて、世刹海に住むことを請い、内帑の紫衣・宝旛・龍蔵を賜った。時に江陵（張居正）が国政を執っており、かつて師を訪ねた。侍者が繰り返し師を促して迎えさせようとしたが、応じなかった。江陵が榻の前に至って、初めて徐かに起き上がり、その手を執って言った。「公は何のために来られたのか。」「佛法を問うために来た。」師は言った。「心を尽くして朝廷を輔理すること、これが真の佛法である。これを捨ててはすべて戯論である。」張は黙然とした。張はまた文肅と共に師を謁し、問うた。「如何なるかこれ文殊の智。」曰く、「心外の境に随わず。」「如何なるかこれ普賢の行。」曰く、「一切の心を調理す。」師の性質は耿直で、声高く言葉は硬く、聞く者は凛然とし、豪貴の人に対して温順に振る舞うことはできなかった。これもその概略である。初め師の法躯は修長で偉岸であったが、甚だ肥大ではなかった。世刹海に住してから、日増しに豊満碩大となり、ついには人に扶掖されて初めて歩けるようになった。厳冬の極寒の日も、必ず日に数回浴した。常に危坐し、黙して法界観を修持し、あるいは華厳経を誦して停むことがなかった。甲申の九月、師は梓人に龕を作らせ、その期日を促して言った。「速やかに成すべし。緩んでいては及ばない。」三日前、孤雁が方丈に集まった。師はそれを撫でて頷き言った。「汝来たるか。」雁が去って師は滅した。師は元より病なく、ただ気力が次第に微弱になるのを覚え、重陽の日に至っても尚、縄床に坐して晩課の誦経を聴き、「願わくは西方に生まれん」の句を聞いて、泊然として化した。世寿七十九。僧臘五十。全身を徳勝門外の普同塔に葬った。