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title: "大般涅槃經 · 15 月喻品"
description: "大般涅槃经由南朝宋慧严、谢灵运等依据法显所译六卷本泥洹经与昙无谶所译北本涅槃经对照修订而成。本经详述释迦牟尼佛入灭前的教法，系统阐述如来藏思想、众生皆有佛性及一阐提亦可成佛的核心理念。作为大乘佛教的重要经典，它确立了中国佛教心性论的理论基础，对天台宗、华严宗等宗派教义形成具有深远影响，被誉为大乘佛教的终极教典之一。"
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## 大般涅槃經卷第九

> 大般涅槃経 巻第九

宋代沙門慧嚴等依泥洹經加之

> 宋の沙門慧厳らが『泥洹経』に依って加えたもの

### 月喻品第十五

> 第十五章 月のたとえ

佛告迦葉：「譬如有人見月不現，皆言：『月沒。』而作沒想，而此月性實無沒也。

> 仏が迦葉に告げられた。「例えば、ある人が月が見えないのを見て、皆が『月が沈んだ』と言い、沈んだと思い込むが、月の本性には実は沈むことはないのと同じだ。」

「轉現他方，彼處眾生復謂：『月出。』而此月性實無出也。何以故？以須彌山障故不現。其月常生，性無出沒。如來、應供、正遍知亦復如是，出現三千大千世界或閻浮提，示有父母，眾生皆謂：『生閻浮提。』或閻浮提示現涅槃，如來之性實無涅槃，而諸眾生皆謂：『如來實般涅槃。』譬如月沒。善男子！如來之性實無生、滅，為化眾生示有生、滅。

> 他方の世界に現れれば、そこの衆生はまた「月が出た」と言います。しかし、この月の本質には、実際には出ることはないのです。なぜなら、須弥山に遮られて見えないだけで、月は常に存在し、その性質に出現も消滅もないからです。 如来、応供、正遍知もまた同じです。三千大千世界、あるいは閻浮提に現れて、父母があることを示すと、衆生はみな「如来は閻浮提に生まれた」と言います。あるいは閻浮提で涅槃に入ることを示せば、如来の本質には実際には涅槃はないのに、衆生はみな「如来は真に般涅槃した」と言います。それはちょうど月が没したように見えるのと同じです。 善男子よ、如来の本質には、実際には生も滅もありません。ただ衆生を教化するために、生と滅があるかのように示しているのです。

「善男子！如此滿月，餘方見半；此方半月，餘方見滿。閻浮提人若見月初，皆謂一日，起初月想；見月盛滿，謂十五日，生盛滿想。而此月性實無虧盈，因須彌山而有增減。善男子！如來亦爾，於閻浮提或現初生、或現涅槃。現始生時猶如初月，一切皆謂：『童子初生，行於七步。』如二日月，或復示現入於書堂。如三日月，示現出家。如八日月，放大智慧微妙光明，能破無量眾生魔眾。如十五日盛滿之月，或復示現三十二相、八十種好以自莊嚴。而現涅槃喻如月蝕。如是，眾生所見不同，或見半月、或見滿月、或見月蝕，而此月性實無增、減、侵蝕之者，常是滿月。如來之身亦復如是，是故名為常住不變。

> 「善男子。この満月も、別の場所からは半分に見える。こちらでは半月だが、向こうでは満月だ。閻浮提の人が月の初めを見れば、皆これを一日と思い、月が昇り始めたと考える。月が満ち盛んになるのを見れば、十五日と思い、満ち盛んになったと考える。しかし、月の本質には実は欠けたり満ちたりはなく、須弥山によって増減があるように見えるだけだ。善男子。如来もまた同じである。閻浮提において、ある時は生まれた姿を現し、ある時は涅槃に入る姿を現す。生まれ始めた姿を現す時は、ちょうど新月のように、皆が『童子が初めて生まれ、七歩を歩んだ』と言う。これは二日月のようである。あるいは、学び舎に入る姿を示す。これは三日月のようである。出家の姿を示す。これは八日月のように、大きな智慧と微妙な光明を放ち、無数の衆生の魔の群れを打ち破ることができる。十五夜の満月のように、あるいは三十二相、八十種好を現し、自らを荘厳する。そして、涅槃に入る姿を示すのは、月食のようなものである。このように、衆生が見るものは同じではなく、ある者は半月を見、ある者は満月を見、ある者は月食を見る。しかし、月の本質には実は増減も欠損もなく、常に満月なのである。如来の身もまた、このようである。故に、常住不変と名づけるのである。」

「復次，善男子！譬如滿月，一切悉現，在在處處——城邑、聚落、山澤水中、若井、若池、及諸水器——一切皆現。有諸眾生行百由旬、百千由旬，見月常隨，凡夫愚人妄生憶想言：『我本於城邑屋宅見如是月，今復於此空澤見之。為是本月？為異於本？』各作是念月形大小，或言：『如鍑口。』或言：『如車輪。』或言：『如四十九由旬。』一切皆見月之光明，或見團圓猶如金盤。是月性一，種種眾生各見異相。善男子！如來亦爾，出現於世，或有人天而作是念：『如來今者在我前住。』復有畜生亦生是念：『如來今者在我前住。』或有聾瘂亦見如來有聾瘂相。眾生雜類言音各異，皆謂如來悉同己語，亦各生念：『在我舍宅受我供養。』或有眾生見如來身廣大無量、或見微小。或有見佛是聲聞像、或復有見為緣覺像。有諸外道復各念言：『如來今者在我法中出家學道。』或有眾生復作是念：『如來今者獨為我故出現於世。』如來實性喻如彼月，即是法身、是無生身、方便之身，隨順於世，示現無量本業因緣，在在處處示現有生，猶如彼月。以是義故，如來常住，無有變異。

> 「さらに、善き男子よ。例えば、満月があるとする。その月は至る所に映る。町々、村々、山や沢の水の中、井戸や池、あるいは様々な水がめに至るまで、すべての場所に映り現れる。 ある人々が百由旬、あるいは百千由旬も旅をすると、月は常に自分についてくるように見える。愚かな凡夫は、誤った思いを抱いて言う。『私は以前、町の家々でこの月を見た。今、この広い沢でも再び見ている。これはあの時の同じ月なのだろうか、それとも別の月なのだろうか。』と。 それぞれが月の形や大きさについて思い巡らせ、ある者は『鍋の口のようだ』と言い、またある者は『車輪のようだ』と言い、またある者は『四十九由旬もの大きさだ』と言う。皆が月の光を見るが、ある者は黄金の皿のように円く見える。しかし、月の本性はただ一つであり、様々な者が異なる姿を見るのである。 善き男子よ。如来もまた同じである。世に現れると、ある天人や人間は『如来が今、私の前に立っていらっしゃる』と思う。また、動物たちも『如来が今、私の前にいらっしゃる』と思う。あるいは、耳の聞こえない者や口のきけない者も、如来に自分と同じような姿を見る。様々な種類の生きとし生けるものは、それぞれ異なる言葉を話すが、皆、如来が自分と同じ言葉を話すと思い、また『私の家にいて、私の供養を受けていらっしゃる』とそれぞれに思う。 ある者は、如来の御身が限りなく広大であると見、またある者は微小であると見る。ある者は仏を声聞の姿で見、またある者は縁覚の姿で見る。様々な外道たちもそれぞれに『如来は今、私の教えの中で出家して修行しておられる』と思う。またある者は『如来はただ私一人のために世に現れたのだ』と思う。 如来の真実の姿は、あの月に例えられる。すなわち、それが法身であり、生まれざる身であり、方便の身である。世に従って、無数の過去の因縁を現し、至る所に生を受けて現れる。それはあの月のようなのである。このような理由から、如来は常住であり、変異することがないのである。」

「復次，善男子！如羅睺羅阿修羅王以手遮月，世間諸人咸謂月蝕。阿修羅王實不能蝕，以阿修羅障其明故。是月團圓，無有虧損，但以手障故使不現。若攝手時，世間咸謂月復還生，皆言：『是月多受苦惱。』假使百千阿修羅王，不能惱之。如來亦爾，示有眾生於如來所生麁惡心、出佛身血、起五逆罪至一闡提。為未來世諸眾生故，如是示現壞僧斷法而作留難，假使無量百千諸魔，不能侵出如來身血。所以者何？如來之身無有血、肉、筋、脈、骨、髓，如來真實，實無惱壞。眾生皆謂：『法、僧毀壞，如來滅盡。』而如來性真實無變、無有破壞，隨順世間如是示現。

> 「さらに、善き男子よ。例えば羅睺羅阿修羅王が手で月を覆い隠すと、世の人々は皆、月食が起きたと言います。しかし、阿修羅王が実際に月を蝕むことはできません。阿修羅がその光を遮っているからです。月そのものは満ち欠けも損なわれることもなく、ただ手で遮られたために姿が見えないだけです。阿修羅が手を引くと、世の人々は月が再び現れたと言い、『月は大きな苦しみを受けた』と言います。たとえ百千の阿修羅王がいても、月を悩ませることはできません。 如来もまた同じです。衆生の中に、如来に対して粗悪な心を起こし、仏の身から血を出させ、五逆の罪を犯し、一闡提に至る者たちがいることを示します。未来の世の衆生のため、このように僧団を壊し、法を断ち、妨害を作り出すかのように示現します。たとえ無量百千の魔がいても、如来の身から血を出すことはできません。なぜなら、如来の身には血も肉も筋も脈も骨も髄もなく、如来の真実の姿には、悩まされたり壊されたりすることがないからです。 しかし、衆生は皆、『法や僧団が壊れ、如来が滅尽された』と言います。けれども如来の本性は真実であり、変わることがなく、壊されることもありません。世間に随順して、このように示現するのです。」

「復次，善男子！如二人鬪，若以刀杖傷身出血，雖至於死，不起殺想，如是業相輕而不重。於如來所本無殺心，雖出身血，是業亦爾，輕而不重。如來如是於未來世為化眾生示現業報。

> 「さらに、善き人よ。二人が闘うようなものだ。刀や棒で傷つけられて血を流し、たとえ死に至っても、殺そうという心がなければ、その業の形は軽く、重くはない。如来に対して、もともと殺そうという心がなければ、たとえ血を出させても、その業もまた同じで、軽くて重くない。如来はこのように、未来世において衆生を教化するために、業報を仮に示されるのである。

「復次，善男子！猶如良醫勤教其子醫方根本：『此是根藥、此是莖藥、此是色藥，種種相貌汝當善知。』其子敬奉父之所勅，精勤習學，善解諸藥。是醫後時壽盡命終，其子號慕而作是言：『父本教我根藥如是、莖藥如是、花藥如是、色相如是。』如來亦爾，為化眾生示現制戒：『應當如是受持，莫犯作五逆罪、誹謗正法及一闡提。』為未來世起是事者是故示現，欲令比丘於佛滅後作如是知：『此是契經甚深之義、此是戒律輕重之相、此是阿毘曇分別法句。』如彼醫子。

> 「また、善男子よ。ちょうど優れた医者が、自分の子に熱心に医術の基本を教えるようなものだ。『これは根の薬、これは茎の薬、これは色の薬であり、様々な特徴をよく知っておきなさい』と。その子は父の教えを敬い従い、熱心に学んで、すべての薬についてよく理解した。その後、医者が寿命を終えて亡くなると、その子は父を慕い泣きながら言った。『父はもともと私に、根の薬はこう、茎の薬はこう、花の薬はこう、色の特徴はこうであると教えてくれた』と。 如来もまた同じである。衆生を導くために戒律を示し、『こうして受け持ち守りなさい。五逆罪を犯したり、正しい教えを誹謗したり、一闡提（いっせんだい）になってはならない』と教えられた。未来にそのようなことが起こるのを防ぐために、如来は戒律を示されたのである。比丘たちが仏の入滅後に、『これが経典の深い意味であり、これが戒律の軽重の区別であり、これが阿毘曇（あびどん）において法の言葉を分別したものである』と正しく知るために。 それは、あの医者の子の話と同じである。」

「復次，善男子！如人見月六月一蝕，而上諸天須臾之間已見月蝕。何以故？彼天日長，人間短故。善男子！如來亦爾，天人咸謂如來短壽，如彼天人須臾之間頻見月蝕。如來又於須臾之間示現百千萬億涅槃，斷煩惱魔、陰魔、死魔。是故，百千萬億天魔悉知如來入般涅槃。又復示現無量百千先業因緣，隨順世間種種性故，示現如是無量無邊不可思議。是故，如來常住無變。

> 「また、善き男子よ。例えば、人が月を見るとき、地上では年に一度の月食を六月に一度見るが、天人はほんの一瞬のうちに月食を見る。それはなぜか。天界の一日は長く、人間の一日は短いからである。善き男子よ、如来もまた同じである。天人たちは皆、如来の寿命は短いと言うが、それは天人たちが一瞬のうちに何度も月食を見るようなものである。如来もまた、一瞬のうちに百千万億の涅槃を現し示し、煩悩の魔、陰の魔、死の魔を断つのである。それゆえ、百千万億の天魔が皆、如来が般涅槃に入ったことを知るのである。また、如来は無量百千の先世の業の因縁を現し示し、世間の様々な性質に従って、このように無量無辺、不可思議なものを示すのである。このゆえに、如来は常住にして変わることない。」

「復次，善男子！譬如明月，眾生樂見，是故稱月號為樂見。眾生若有貪、恚、愚癡，則不得稱為樂見也。如來如是，其性純善，清淨無垢，是最可稱為樂見也。樂法眾生視之無厭，惡心之人不憙瞻覩。以是義故，故言如來譬如明月。

> また、善き男子よ。たとえば、明月を衆生は見ることを喜ぶ。ゆえに月を「楽見（見ることを喜ばせるもの）」と呼ぶ。もし衆生に貪り・怒り・愚かさがあれば、これを「楽見」とは呼べない。如来もまた同じであり、その本性は純粋な善であり、清らかで汚れがないゆえに、まことに「楽見」と呼ぶにふさわしい。法を喜ぶ衆生は、如来を飽きることなく見つめるが、悪しき心を持つ者は、喜んで眺めようとはしない。このような理由により、如来を明月にたとえるのである。

「復次，善男子！譬如日出有三時異，謂春、夏、冬，冬日則短、春日處中、夏日極長。如來亦爾，於此三千大千世界，為短壽者及諸聲聞示現短壽，斯等見已，咸謂如來壽命短促，喻如冬日。為諸菩薩示現中壽，若至一劫、若減一劫，喻如春日。唯佛覩佛其壽無量，喻如夏日。

> 「さらに、善き者たちよ。たとえば、太陽の昇るには、春、夏、冬の三つの季節による違いがある。冬の日は短く、春の日は中ほど、夏の日は最も長い。如来もまた同じく、この三千大千世界において、短命な者や声聞たちには短い寿命を示し、彼らはそれを見て、『如来の寿命は短く、冬の日のようだ』と思う。菩薩たちには中程度の寿命を示し、一劫あるいは一劫に満たないほどで、春の日のようである。ただ仏のみが仏を見て、その寿命は量り知れず、夏の日のようである。」

「善男子！如來所說方等大乘微密之教示現世間，雨大法雨。於未來世若有人能護持是典、開示分別利益眾生，當知是輩是真菩薩，喻如盛夏天降甘雨。若有聲聞、緣覺之人，聞佛如來微密之教，喻如冬日多遇冷患。菩薩之人若聞如是微密教誨——如來常住，性無變易——喻如春日萌芽開敷。而如來性實無長短，為世間故示現如是，即是諸佛真實法性。

> 「善きかな、男子よ。如来が説くところの大乗の深遠なる教えは、世に現れて大いなる法の雨を降らせる。未来の世において、この教えを護り、説き明かし、人々を利益する者がいれば、彼らこそ真の菩薩であると知るべきだ。それは、ちょうど盛夏に恵みの雨が降るようなものだ。声聞や縁覚の者が如来の深遠な教えを聞けば、それは冬に冷えの悩みに遭うようなものだ。しかし菩薩がこの深遠な教え——如来は常住で、その性質は変わることがない——を聞けば、それは春に芽が吹き出で花開くようなものだ。そして如来の性質には実際には長短はなく、世のためにはからってこのように示されるのである。これこそが諸仏の真実の法の性質なのだ。」

「復次，善男子！譬如眾星晝則不現，而人皆謂晝星滅沒。其實不沒，所以不現，日光映故。如來亦爾，聲聞、緣覺不能得見，猶如世人不見晝星。

> さらに、善き人よ。たとえば、星々は昼間には見えませんが、人々は昼間に星が消えたと思っています。実際には消えておらず、見えないのは太陽の光に隠されているからです。如来も同じように、声聞や縁覚には見ることができません。それは、世の人々が昼間の星を見られないのと同じです。

「復次，善男子！譬如陰闇，日、月不現，愚人謂言：『日、月失沒。』而是日、月實無失沒。如來正法滅盡之時，三寶現沒亦復如是，非為永滅。是故，當知如來常住，無有變易。何以故？三寶真性不為諸垢之所染故。

> 「さらに、善き男子よ。たとえば、闇が深ければ太陽も月も見えなくなり、愚かな人は『太陽や月が失われた』と言います。しかし実際には、太陽や月は決して失われたわけではありません。如来の正法が尽き果てようとする時、三宝が隠れて見えなくなるのも同じことです。決して永遠に滅びてしまうわけではありません。だから知るべきです。如来は常住であり、変化することがないと。なぜなら、三宝の真実の性質は、あらゆる汚れによって染められることがないからです。」

「復次，善男子！譬如黑月，彗星夜現，其明炎熾，暫出還沒，眾生見已生不祥想。諸辟支佛亦復如是，出無佛世，眾生見已，皆謂如來真實滅度，生憂悲想。而如來身實不滅度，如彼日月無有滅沒。

> 「また、善き人よ。たとえば、新月の夜に彗星が現れて、明るく燃え盛るように輝いたかと思うと、すぐに再び消え去ってしまう。人々はそれを見て不吉に思う。それと同じように、辟支仏たちもまた、仏のいない世に現れては、人々から見れば、如来が実際に涅槃に入られたと思わせて、悲しみや憂いを抱かせる。しかし、如来の本質は決して滅びることなく、あたかも太陽や月が消えたり無くなったりしないのと同じである。」

「復次，善男子！譬如日出，眾霧悉除。此大涅槃微妙經典亦復如是，出興於世，若有眾生一經耳者，悉能滅除一切諸惡、無間罪業。是大涅槃甚深境界不可思議，善說如來微密之性。以是義故，諸善男子、善女人等應於如來生常住心、無有變易，正法不斷、僧寶不滅，是故，應當多修方便，勤學是典。是人不久當得阿耨多羅三藐三菩提。是故，此經名為無量功德所成，亦名菩提不可窮盡。以不盡故，故得稱為大般涅槃。有善光故，猶如夏日。身無邊故，名大涅槃。

> 「また、善男子よ。たとえば、日が昇れば霧がすべて晴れるように、この大涅槃の微妙な経典もまた世に現れる。もし衆生がこの経を一度でも耳にすれば、あらゆる悪や無間の罪業をことごとく滅ぼすことができる。この大涅槃の深遠な境地は、はかり知れないほど不思議であり、如来の秘密の本性を巧みに説いている。このような理由から、善男子・善女人たちは、如来に対して常住の心を起こし、変わることのないものとし、正法が断絶せず、僧宝が滅びないようにすべきである。ゆえに、さまざまな方便を多く修し、この経典を熱心に学ぶべきである。そうすれば、その人はまもなく阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。したがって、この経は無量の功德によって成り立つものと呼ばれ、また菩提は尽きることがないとも名づけられる。尽きることがないからこそ、大般涅槃と称されるのである。善き光があることから、夏の日のようなものである。身に限りがないことから、大涅槃と名づけられるのである。」