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title: "大般涅槃經 · 17 一切大眾所問品"
description: "大般涅槃经由南朝宋慧严、谢灵运等依据法显所译六卷本泥洹经与昙无谶所译北本涅槃经对照修订而成。本经详述释迦牟尼佛入灭前的教法，系统阐述如来藏思想、众生皆有佛性及一阐提亦可成佛的核心理念。作为大乘佛教的重要经典，它确立了中国佛教心性论的理论基础，对天台宗、华严宗等宗派教义形成具有深远影响，被誉为大乘佛教的终极教典之一。"
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## 大般涅槃經卷第十

> 大般涅槃経 巻第十

宋代沙門慧嚴等依泥洹經加之

> 宋の沙門慧厳らが『泥洹経』に依って加えたもの

### 一切大眾所問品第十七

> 第17章 すべての大衆が問うたこと

爾時，世尊從其面門放種種色——青、黃、赤、白、紅、紫——光明，照純陀身。純陀遇已，與諸眷屬持諸餚饍疾往佛所，欲奉如來及比丘僧最後供養。種種器物充滿具足，持至佛所。

> その時、世尊は御自身の口から、青、黄、赤、白、紅、紫など様々な色の光明を放ち、純陀（じゅんだ）の身体を照らされました。その光を受けた純陀は、眷属（家族や従者）たちと共に、様々な料理や飲み物を携えて急いで仏のもとへ向かい、如来と比丘僧伽（修行者の集い）に最後の供養を捧げようとしました。彼らはあらゆる種類の器を満たし、仏のもとへと持参したのです。

爾時，有大威德天人而遮其前，周匝圍遶，謂純陀言：「且止，純陀！勿便奉施。」爾時，如來復放無量無邊種種光明。諸天大眾遇斯光已，尋聽純陀前至佛所奉其所施。

> その時、偉大なる力を持つ天人が前に立ちはだかり、周りを囲んで純陀に言いました。「待ちなさい、純陀よ。今、施しを捧げてはいけません。」するとその時、如来さまは限りなく広がる様々な光明を放たれました。天や人々はその光に触れて、すぐに純陀が如来さまのもとへ進み、施しを捧げるのを許しました。

爾時，天人及諸眾生各各自取所持供養至於佛前，長跪白佛：「唯願如來聽諸比丘受此供養。」時諸比丘知是時故，執持衣鉢，一心安詳。

> その時、天の人々や多くの生きとし生けるものたちは、それぞれに持っていた供え物を携えて仏のもとに進み、ひざまずいて仏に申し上げました。「どうか、如来様、比丘たちがこの供え物を受け取ることをお許しください。」そこで比丘たちは、その時が来たと知り、衣と鉢をしっかりと持ち、心を一つに落ち着いて振る舞いました。

爾時，純陀為佛及僧布置種種師子寶座，懸繒幡蓋、花香、瓔珞。

> その時、純陀（じゅんだ）は仏と僧侶たちのために、さまざまな獅子の宝座を設け、色とりどりの絹の旗や天蓋を飾り、花や香り、宝玉の飾りを備えました。

爾時，三千大千世界莊嚴微妙，猶如西方安樂國土。

> そのとき、三千大千世界は荘厳で微細な美しさに満ち、まるで西方の安楽浄土のようでありました。

爾時，純陀住於佛前，憂悲悵怏，重白佛言：「唯願如來猶見哀愍，住壽一劫、若減一劫。」

> その時、純陀（じゅんだ）は仏の前に立ち、深い悲しみと嘆きの内に、重ねて仏に申し上げた。 「どうか、如来よ、変わらず慈しみのまなざしを向けてください。どうかお命を、一劫（こう）、あるいはそれよりも短い期間でも構いませんので、お延ばしくださいませ。」

佛告純陀：「汝欲令我久住世者，宜當速奉最後，具足檀波羅蜜。」

> 仏が純陀に告げられた。「あなたが私を長くこの世にとどまらせたいと望むなら、速やかに最後の完全な布施を行うべきである。それによって布施の完成（檀波羅蜜）が満たされるのだ。」

爾時，一切菩薩摩訶薩、天人雜類，異口同音唱如是言：「奇哉，純陀！成大福德，能令如來受其最後無上供養。我等無福，所設供具則為唐捐。」

> その時、あらゆる大菩薩や天人は、声を一つにしてこう言いました。「なんと素晴らしいことだ、純陀よ。あなたは大いなる福徳を成し遂げ、如来に最後の最高の供養を受けていただくことができた。我々にはそのような福徳がなく、用意した供え物は無駄になってしまったのだ。」

爾時，世尊欲令一切眾望滿足，於自身上一一毛孔化無量佛，一一諸佛各有無量諸比丘僧。是諸世尊及無量眾，悉皆示現受其供養。釋迦如來自受純陀所奉設者。爾時，純陀所持粳糧成熟之食，摩伽陀國滿足八斛，以佛神力皆悉充足一切大會。

> その時、世尊はすべての者たちの願いを叶えようと、自らの体の一つ一つの毛孔から無数の仏を現し、その一つ一つの仏にはまた無数の比丘たちが従っていました。それらの世尊と無数の人々は、皆、供養を受けている姿を示しました。そして、釈迦如来ご自身は純陀が差し出した供物をお受けになりました。その時、純陀が用意したモガダ国産の精米のご飯（八斗）は、仏の力によって、その集まり全体に行き渡り、すべての人が満たされました。

爾時，純陀見是事已，心生歡喜，踊躍無量；一切大眾亦復如是。爾時，大眾承佛聖旨，各作是念：「如來今已受我等施，不久便當入於涅槃。」作是念已，心生悲喜。

> その時、純陀（じゅんだ）はこの様子を見て、心から喜び、この上ない歓喜に踊りました。集まった大衆もみな同じようでした。その時、大衆は仏の聖なるお心を受け、それぞれにこう思いました。「如来は今、私たちの供養をお受けになった。間もなく涅槃に入られるであろう。」こう思うと、彼らの心には悲しみと喜びが同時に湧き上がりました。

爾時，樹林其地狹小，以佛神力，如針鋒處皆有無量諸佛世尊及其眷屬等坐而食，所食之物亦無差別。

> その時、樹林のある場所は狭かったが、仏の神通力によって、針の先ほどの場所にも数え切れないほどの多くの仏様とそのお供の者たちが座って食事をされ、食べ物にも何の違いもありませんでした。

是時，天、人、阿修羅等啼泣悲歎，而作是言：「如來今日已受我等最後供養，受供養已當般涅槃，我等當復更供養誰？我今永離無上調御，盲無眼目。」

> そのとき、天・人・阿修羅たちは泣き悲しんで、こう言いました。 「如来は今日、私たちの最後の供養をお受けになりました。供養をお受けになった後、まもなく涅槃に入られるのです。これから私たちは、誰に供養すればよいのでしょう。私たちは永遠に、尊い老師（調御師）を失い、目の見えない者のようになってしまいました。」

爾時，世尊為欲安慰一切大眾而說偈言：

> その時、世尊はすべての大衆を慰めようとして、次のような偈（うた）を説かれました。

「汝等莫悲歎， 諸佛法應爾。我入於涅槃， 已經無量劫，常受最勝樂， 永處安隱處。汝今至心聽， 我當說涅槃。我已離食想， 終無飢渴患，今當為汝等， 說其隨順願，令諸一切眾， 咸得安隱樂，汝聞應修行， 諸佛法常住。假使烏與梟， 同共一樹棲，猶如親兄弟， 爾乃永涅槃。如來視一切， 猶如羅睺羅，常為眾生尊， 云何永涅槃？假使蛇、鼠、狼， 同處一穴遊，相愛如兄弟， 爾乃永涅槃。如來視一切， 猶如羅睺羅，常為眾生尊， 云何永涅槃？假使七葉花， 轉為婆師香，迦留為鎮頭， 爾乃永涅槃。如來視一切， 猶如羅睺羅，云何捨慈悲， 永入於涅槃？假使一闡提， 現身成佛道，永處第一樂， 爾乃入涅槃。如來視一切， 皆如羅睺羅，云何捨慈悲， 永入於涅槃？假使一切眾， 一時成佛道，遠離諸過患， 爾乃入涅槃。如來視一切， 皆如羅睺羅，云何捨慈悲， 永入於涅槃？假使蚊蚋水， 浸壞於大地，川、谷、海盈滿， 爾乃入涅槃。悲心視一切， 皆如羅睺羅，常為眾生尊， 云何永涅槃？以是故汝等， 應深樂正法，不應生憂惱， 號泣而啼哭。若欲自正行， 應修如來常，當觀如是法， 長存不變易。復應生是念： 『三寶皆常住。』是則獲大護， 如呪枯生果。是名為三寶， 四眾應善聽；聞已應歡喜， 即發菩提心。若能計三寶， 常住同真諦，此則是諸佛， 最上之誓願。

> 「あなたがた、嘆き悲しんではならない。諸仏の法は本来そういうものなのだ。 私は涅槃に入ってから、すでに無量の劫を経てきた。 そして常に最上の楽しみを受け、永遠に安らかな場所にいる。 今こそ、あなたがたは心を込めて聞きなさい。私は涅槃について説こう。 私はすでに食べ物への執着を離れ、飢えや渇きの苦しみはまったくない。 今、あなたがたのために、その願いに沿った教えを説こう。 すべての生きとし生けるものを、安らぎと楽しみを得させよう。 あなたがたはこれを聞いて修行すべきだ。諸仏の法は常住である。 たとえ烏と梟が同じ一本の木に止まり、 親しい兄弟のように仲良く暮らすことがあるなら、その時にこそ私は永遠に涅槃に入ろう。 如来はすべての生きとし生けるものを、我が子ラーフラのように見ている。 常に衆生の尊崇を受ける存在である如来が、どうして永遠に涅槃に入ることがあろうか？ たとえ蛇、鼠、狼が同じ穴に一緒に住み、 互いに兄弟のように愛し合うことがあるなら、その時にこそ私は永遠の涅槃に入ろう。 如来はすべての生きとし生けるものを、ラーフラのように見ている。 常に衆生の尊崇を受ける存在である如来が、どうして永遠に涅槃に入ることがあろうか？ たとえ七葉花が婆師香に変わり、 迦留が鎮頭果に変わることがあるなら、その時にこそ私は永遠の涅槃に入ろう。 如来はすべての生きとし生けるものを、ラーフラのように見ている。 どうして慈悲を捨てて、永遠に涅槃に入ることがあろうか？ たとえ一闡提（仏性を否定する者）がその身のままで仏道を成就し、 永遠に最上の楽しみに留まることがあるなら、その時にこそ私は涅槃に入ろう。 如来はすべての生きとし生けるものを、みなラーフラのように見ている。 どうして慈悲を捨てて、永遠に涅槃に入ることがあろうか？ たとえすべての生きとし生けるものが、一度にみな仏道を成就し、 すべての過ちや悩みから遠く離れることがあるなら、その時にこそ私は涅槃に入ろう。 如来はすべての生きとし生けるものを、みなラーフラのように見ている。 どうして慈悲を捨てて、永遠に涅槃に入ることがあろうか？ たとえ蚊が吸うほどの水で大地を浸し壊し、 川や谷、海を満たすことがあるなら、その時にこそ私は涅槃に入ろう。 すべての生きとし生けるものをラーフラのように悲しみの心で見つめる存在、 常に衆生の尊崇を受ける如来が、どうして永遠に涅槃に入ることがあろうか？ だからこそ、あなたがたは正しい教えを深く喜び、 憂い悩んだり、泣き叫んだりしてはならない。 もし自らを正しく行い、戒めたいと思うなら、如来の常住という教えを修めるべきである。 このような法は長く存続し、変わらないものと観じなさい。 さらに、このように考えるべきである。『三宝（仏・法・僧）はすべて常住である。』と。 これこそが大きな守護を得ることであり、まるで呪文によって枯れ木に実が生るようなものである。 これを三宝と呼ぶ。四衆（比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷）はよく聞きなさい。 聞いたならば喜び、直ちに菩提心（悟りを求める心）を起こしなさい。 もし三宝を真実の教えと等しく常住であると確かに観じることができれば、 これこそが諸仏の、最も優れた誓願なのである。」

「若有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷能以如來最上誓願而發願者，當知是人無有愚癡，堪受供養。以此願力功德果報，於世最勝，如阿羅漢。若有不能如是觀了三寶常者是旃陀羅；若有能知三寶常住實法因緣，離苦安樂，無有嬈害、能留難者。」

> もし比丘、比丘尼、優婆塞（在家の男性信徒）、優婆夷（在家の女性信徒）がいて、如来の最も優れた誓願のようにして誓いを立てるなら、その人は愚かさがなく、供養を受けるにふさわしいと知るべきです。この誓いの力による功徳の報いによって、世の中で最も優れた存在となり、阿羅漢のようになるのです。もし、三宝が常住であることをこのように観察し理解できない人は、旃陀羅（最下層の人）です。もし三宝が常住であるという真実の法と因縁を理解し、苦しみから離れて安楽を得、害されることや妨げられることがないと知るならば、その人を妨げることはできません。

爾時，人天大眾、阿修羅等聞是法已，心生歡喜，踊躍無量。其心調柔，善滅諸蓋，心無高下，威儀清淨，顏貌怡悅，知佛常住。是故施設諸天供養——散種種花、末香、塗香，鼓天伎樂——以供養佛。

> その時、人間と天人の大いなる集い、阿修羅たちはこの法を聞いて、心に喜びが生まれ、限りなく湧き上がりました。 彼らの心は柔らかくなり、善くすべての煩悩の覆いが滅し、心に上下の差はなく、行儀作法は清らかで、顔つきは穏やかに喜び、仏が常住であることを知りました。 そこで、彼らは天人の供養を整え、様々な花、抹香、塗香を散らし、天人の楽器を奏でて、仏に供養したのでした。

爾時，佛告迦葉菩薩言：「善男子！汝見是眾希有事不？」

> その時、仏は迦葉菩薩に告げて言われた。「善き男子よ、あなたはこの人々の稀有なる出来事を見たか。」

迦葉答言：「已見。世尊！見諸如來無量無邊不可稱計，受諸大眾人天所奉飯食供養。又見諸佛大身莊嚴，所坐之處如一針鋒，多眾圍遶，不相障礙。復見大眾悉發誓願說十三偈。亦知大眾各心念言：『如來今者獨受我供。』假使純陀所奉飯食碎如微塵，一塵一佛猶不周遍，以佛神力，悉皆充足一切大眾。唯諸菩薩摩訶薩、文殊師利法王子等能知如是希有事耳，悉是如來方便示現，聲聞大眾及阿修羅等皆知如來是常住法。」

> 迦葉が答えた。「すでに拝見いたしました、世尊よ。数えきれないほどの無量無辺の如来方が、多くの天や人の衆生から捧げられる飲食の供養を受けられているのを拝見しました。また、諸仏の荘厳な大きな御姿や、お座りになっている場所が針の先ほどであっても、大勢の群衆が取り巻きながらも互いに妨げ合わない様子も見ました。さらに、大衆が皆、誓いを立てて十三の偈を唱えるのも聞きました。また、大衆がそれぞれ心の中で『如来は今、ただ私だけの供養をお受けになっている』と考えているのも知りました。たとえ純陀が捧げた食べ物を微塵のように細かく砕き、その一粒一粒に一仏をお迎えしても、なおすべてを満たすことはできませんが、仏の神通力によって、すべての大衆が十分に満たされています。ただ、文殊師利法王子などの大菩薩だけが、このような希有な事柄を知ることができるのです。これらはすべて如来の方便による示現であり、声聞の大衆や阿修羅なども、如来が常住の法であることを知っています。」

爾時，世尊告純陀言：「汝今所見為是希有奇特事不？」

> その時、世尊は純陀に告げて言いました。「あなたが今見ているものは、めったにない特別なことだと思うか？」

「實爾。世尊！我先所見無量諸佛，三十二相、八十種好莊嚴其身。今悉見為菩薩摩訶薩，巨身殊異，顏貌無比。唯見佛身譬如藥樹，為諸菩薩摩訶薩等之所圍遶。」

> 「その通りです、世尊よ。私がかつて見た無数の仏さま方は、みな三十二相や八十種の好をもってその身を飾っておられました。しかし今、ここにおられる方々は皆、菩薩摩訶薩であり、その身は大きくて特別で、顔つきも比べるものがないほどです。ただ、仏さまのお姿だけは、まるで薬の木のように、多くの菩薩摩訶薩たちに囲まれているのを見ております。」

佛告純陀：「汝先所見無量佛者是我所化，為欲利益一切眾生，令得歡喜。如是，菩薩摩訶薩等所可修行不可思議能作無量諸佛之事。純陀！汝今皆已成就菩薩摩訶薩行，得住十地，菩薩所行具足成辦。」

> 仏は純陀に告げられた。「あなたが先に見た無数の仏たちは、すべて私が教化のために現した姿である。それは、すべての生きとし生けるものを利益し、喜びを得させるためである。このように、菩薩たちの修行は実に不可思議であり、無数の仏の働きを成し遂げることができる。純陀よ、あなたは今や菩薩としての修行を完成し、十地の位に達し、菩薩の行いを完璧に成就したのである。」

迦葉菩薩白佛言：「世尊！如是如是，如佛所說，純陀所修成菩薩行我亦隨喜。今者如來欲為未來無量眾生作大明故，說是大乘《大涅槃經》。世尊！一切契經說有餘義？無餘義耶？」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げました。「世尊、その通りでございます。仏がお説きになった通り、純陀が成就した菩薩の行いを、私も共に喜びます。ただ今、如来は未来の無数の衆生のために大いなる光明を与えようと、この大乗の『大涅槃経』をお説きになりました。世尊、すべての経典には、さらなる意味があるのでしょうか？それとも、それ以上の意味はないのでしょうか？」

「善男子！我所說者，亦有餘義、亦無餘義。」

> 「善き人よ、私が説いたことには、さらに深い意味がある場合もあれば、それ以上の意味がない場合もあるのです。」

純陀白佛言：「世尊！如佛所說：

> 純陀が仏に申し上げました。「世尊よ、あなたがおっしゃった通り…」

「『所有之物， 布施一切， 唯可讚歎，無可毀損。』

> 「持っているものをすべて施し与えることこそ、称賛されるべきであり、非難されるべきものではありません。」

「世尊！是義云何？持戒、毀戒，有何差別？」

> 「世尊よ、これはどういう意味でしょうか。戒律を守ることと破ることには、どのような違いがあるのでしょうか。」

佛言：「唯除一人，餘一切施皆可讚歎。」

> 仏は言われた。「ただ一人を除いては、その他のすべてへの施しは称賛に値する。」

純陀問言：「云何名為唯除一人？」

> 純陀が尋ねました。「ただ一人を除くとは、いったいどういうことでしょうか？」

佛言：「如此經中所說破戒。」

> 仏はおっしゃいました。「この経典で説かれているように、戒律を破ることについてです。」

純陀復言：「我今未解，唯願說之。」

> 純陀が再び言いました。「私はまだ理解できません。どうかお話しください。」

佛告純陀：「言破戒者，謂一闡提。其餘在所一切布施，皆可讚歎，獲大果報。」

> 仏は純陀に告げられた。「『戒を破る者』とは、一闡提（いっせんだい）のことを指す。それ以外の人々に対して行うどんな施しも、すべて称賛されるべきであり、大きな果報を得ることができる。」

純陀復問：「一闡提者，其義云何？」

> 純陀がまた尋ねました。「一闡提（いっせんだい）とは、どのような意味ですか？」

佛告純陀：「若有比丘及比丘尼、優婆塞、優婆夷，發麁惡言誹謗正法，造是重業，永不改悔、心無慚愧，如是等人名為趣向一闡提道。若犯四重、作五逆罪，自知定犯如是重事，而心初無怖畏、慚愧，不肯發露，於佛正法永無護惜、建立之心，毀呰、輕賤、言多過咎，如是等人亦名趣向一闡提道。若復說言：『無佛、法、僧。』如是等人亦名趣向一闡提道。唯除如此一闡提輩，施其餘者一切讚歎。」

> 仏が純陀に告げられた。「比丘や比丘尼、優婆塞や優婆夷の中に、荒々しい悪口を発して正法を誹謗し、この重い業を造りながら、決して悔い改めず、心に慚愧の念もない者たちがいる。そのような人々は、一闡提の道に向かう者と名づける。また、四重禁を犯し、五逆罪を造りながら、自らそのような重い事を犯したと知りながら、心に少しも怖れや慚愧の念がなく、発露しようとせず、仏の正法に対して永遠に守り惜しみ、確立する心がなく、誹謗し、軽んじ、多くの過ちがあると言う者たちも、一闡提の道に向かう者と名づける。さらに、『仏も法も僧もない』と言う者たちも、一闡提の道に向かう者と名づける。このような一闡提の者たちを除いて、それ以外の者に施しを行うことは、すべて称賛される。」

爾時，純陀復白佛言：「世尊！所言破戒，其義云何？」

> そのとき、チュンダは再び仏に向かって申し上げた。「世尊よ、おっしゃるところの『戒を破る』とは、その意味はいかなるものでございましょうか。」

佛告純陀：「若犯四重，及五逆罪、誹謗正法，如是等人名為破戒。」

> 仏はじゅんだに告げられた。「もし四重の罪や五逆の罪を犯し、正しい教えを誹謗するならば、そのような人々を『戒を破る者』と呼ぶ。」

純陀復問：「如是破戒可拔濟不？」

> 純陀が再び尋ねた。「そのように戒を破った者でも、救い導くことはできるのでしょうか？」

佛告純陀：「有因緣故則可拔濟。若被法服、猶未捨遠，其心常懷慚愧、恐怖，而自考責：『咄哉！何為犯斯重罪？何其怪哉！造斯苦業。』深自改悔，生護法心，欲建正法：『有護法者，我當供養。若有讀誦大乘典者，我當諮問、受持、讀誦。既通利已，復當為他分別廣說。』我說是人不為破戒。何以故？善男子！譬如日出能除一切塵翳、闇冥；是大涅槃微妙經典出興於世亦復如是，能除眾生無量劫中所作眾罪。是故，此經說護正法得大果報，拔濟破戒。若有毀謗是正法者能自改悔，還歸於法，自念所作一切不善，如人自害心生恐怖、驚懼、慚愧：『除此正法更無救護，是故應當還歸正法。』若能如是如說歸依，布施是人得福無量，亦名世間應受供養。若犯如上惡業之罪，若經一月、或十五日，不生歸依發露之心。若施是人，果報甚少。犯五逆者亦復如是，能生悔心，內懷慚愧：『今我所作不善之業甚為大苦，我當建立、護持正法。』是則不名五逆罪也。若施是人，得福無量。犯逆罪已，不生護法、歸依之心。有施是者，福不足言。

> 佛は純陀に告げられた。「縁（条件）があれば、救い助けることができるのである。もし法衣（僧侶の衣服）を身にまとっていても、まだそれを捨て去らず、その心に常に慚愧（はじいる心）と恐怖を抱き、自らを責めて『ああ、何が故にこの重罪を犯してしまったのか。何と不思議なことか、この苦しみの業を造ってしまったものだ』と深く悔い改め、法を護ろうという心を生じ、正法を打ち立てようと願い、『法を護る者がいれば、私は供養しよう。大乗の経典を読誦する者がいれば、私は教えを請い、受け持って読み唱えよう。よく通達したならば、さらに他の人のために説き明かそう』と言うならば、私はこの人を破戒とは言わない。なぜか。善男子よ、例えば太陽がのぼれば、全ての塵や翳（かげ）や暗闇を取り除くことができる。この大般涅槃の微妙な経典が世に現れることもまた同じであり、衆生が無量の劫（長い年月）の間に造ってきた数々の罪を除くことができるのである。ゆえに、この経典は、正法を護ることが大きな果報を得させ、破戒の者を救い助けると説くのである。もしこの正法を誹謗する者でも、自ら悔い改めて法に立ち返り、自らの為した全ての不善（良くない行い）を、人が自らを傷つけて恐怖し、驚き、慚愧するように思い、『この正法の他に救いはない。ゆえに、まさに正法に立ち返るべきだ』と願うならば、このように教えの通りに帰依する者に施しを与えれば、その人は無量の福徳を得、世間から供養を受けるに値する者とも呼ばれる。もし上に挙げたような悪業の罪を犯しても、一月、あるいは十五日を経ても、帰依し懺悔する心を起こさないならば、そのような者に施しを与えても、その果報は極めて少ない。五逆罪を犯す者もまた同じである。もし悔いる心を生じ、心の内に慚愧を抱いて『今、私の為した不善の業は非常に大きな苦しみである。私は、正法を打ち立て護持しよう』と願うならば、これは五逆罪とは呼ばれない。もしこのような者に施しを与えるならば、無量の福徳を得るのである。逆罪を犯した後、法を護り帰依する心を生じなければ、その者に施す者は、福徳は言うに足りないほどわずかである。」

「又，善男子！犯重罪者——汝今諦聽，我當為汝分別廣說——應生是心：『謂正法者，即是如來微密之藏。是故，我當護持、建立。』施是人者，得勝果報。

> また、善き男子よ。重い罪を犯した者があっても——あなたは今、よく聞きなさい。私があなたのために詳しく説き明かそう——次のように心を起こすべきである。 『正しい教えとは、すなわち如来の微細で秘められた宝である。ゆえに、私はこれを護り保ち、確立すべきである。』 このような者に施しを行う人は、優れた果報を得るのである。

「善男子！譬如女人懷妊垂產，值國荒亂，遠至他土，在一天廟即便產育。後聞舊邦安隱豐熟，携持其子欲還本土。路經恒河，水漲暴急，荷負是兒不能得渡。即自念言：『我寧與子一處併命，終不捨棄而獨濟也。』作是念已，與子俱沒。命終之後尋生天中，以慈念子欲令得渡。而是女人本性弊惡，以愛子故得生天中。犯四重禁、五無間罪生護法心亦復如是，雖復先為不善之業，以護法故，得為世間無上福田。是護法者有如是等無量果報。」

> 「善き人よ。たとえば、女が妊娠して出産間近のとき、国に戦乱が起き、遠く他国へ逃れ、ある祠で子を産んだとしよう。後に故国が安定し豊かになったと聞き、子を連れて帰国しようとする。しかし道中、大河が増水して激しく流れており、子を背負っては渡れない。そこで彼女は考える。『私は子と共に死んでも、決して捨てて一人で渡ったりしない』と。そう思い、子と共に川に身を投げる。命終えた後、たちまち天に生まれた。これは子を慈しみ、渡らせたいと願ったからである。この女は元々性質が悪かったが、子を愛したゆえに天に生まれたのだ。四重禁や五無間罪を犯した者でも、法を護ろうと心を起こせば、それと同じである。たとえ先に不善の業をなしても、法を護るゆえに、世間における無上の福田となる。このように法を護る者には、かくも無量の果報があるのだ。」

純陀復言：「世尊！若一闡提能自改悔，恭敬、供養、讚歎三寶，施如是人得大果不？」

> 純陀がまた問うた。「世尊よ。もし一闡提が自ら改心し、三宝を敬い、供養し、称賛するならば、そのような人に施しをすれば、大きな果報が得られるのでしょうか。」

佛言：「善男子！汝今不應作如是說。善男子！譬如有人食菴羅果，吐核置地，而復念言：『是果核中應有甘味。』即復還取，破而甞之。其味極苦，心生悔恨。恐失果種，即還收拾。種之於地，勤加修治，以蘇油、乳隨時溉灌。於意云何？寧可生不？」

> 佛がおっしゃった。「善男子よ、あなたは今、そのように言うべきではない。善男子よ、たとえばある人がアンマンゴーを食べ、その種を地面に吐き出した後、『この種の中に甘い味があるはずだ』と思い、再び拾い上げて割って味わった。その味は非常に苦く、心に悔いと恨みが生じた。しかし種を失うのを恐れて、すぐにそれを拾い集め、地面に蒔き、熱心に手入れをし、バターや油、乳でいつも水を与えた。どう思うか。それでも芽は出るだろうか？」

「不也。世尊！假使天降無上甘雨猶亦不生。」

> 「いいえ、世尊よ。たとえ天からこの上ない甘露の雨が降り注いでも、やはり生えることはありません。」

「善男子！彼一闡提亦復如是，燒滅善根，當於何所而得除罪？善男子！若生善心，是則不名一闡提也。善男子！以是義故，一切所施所得果報非無差別。何以故？施諸聲聞所得報異、施辟支佛得報亦異，唯施如來獲無上果。是故說言：『一切所施非無差別。』」

> 「善き者よ！一闡提（不信の人）もまた同じだ。善い根を焼き尽くしてしまえば、どこで罪を除けるというのか？善き者よ、もしも善い心を起こせば、その人はもはや一闡提とは呼ばない。善き者よ、このようなわけで、すべての施しによって得られる果報には、違いがないわけではない。なぜか？声聞（修行者に施す）の報いと、独覚（縁覚に施す）の報いとは異なり、如来に施すことで得られる果報は最上であるからだ。ゆえに『すべての施しには違いがないわけではない』と説くのである。」

純陀復言：「何故如來而說此偈？」

> 純陀が再び尋ねました。「なぜ如来はこの偈を説かれたのですか？」

佛告純陀：「有因緣故，我說此偈。王舍城中，有優婆塞心無淨信，奉事尼犍，而來問我布施之義。以是因緣故說斯偈，亦為菩薩摩訶薩等說祕藏義。如斯偈者，其義云何？一切者，少分一切。當知：菩薩摩訶薩人中之雄，攝取持戒，施其所須，捨棄破戒如除稊稗。

> 仏は淳陀に告げられた。「ある因縁があって、私はこの偈を説いた。王舎城に、清らかな信心を持たずにニガンタ（尼犍）に仕える在家信者がいて、私に布施の意味を尋ねてきた。その因縁によってこの偈を説いたのであり、また菩薩や大菩薩たちのために秘密の教えの意味を説くためでもある。このような偈の意味は何であろうか。『一切』とは、一部の一切のことである。知るがよい。菩薩や大菩薩たちは人の中の雄であり、戒律を守る者を受け入れ、その必要なものを施し、戒律を破る者はあたかも雑草の稗（ひえ）を取り除くように捨て去るのである。」

「復次，善男子！如我昔日所說偈言：

> また、善き男子よ。私がかつて説いた偈のとおりです。

「『一切江河， 必有迴曲； 一切叢林，必名樹木； 一切女人， 必懷諂曲；一切自在， 必受安樂。』」

> 「あらゆる川には、必ず曲がりくねった所がある。 あらゆる森は、必ず木々と呼ばれる。 あらゆる女性は、必ずお世辞や曲がった心を抱く。 あらゆる自由な境遇は、必ず安らぎと楽しみを受けるものだ。」

爾時，文殊師利菩薩摩訶薩即從座起，偏袒右臂，右膝著地，前禮佛足而說偈言：

> その時、文殊師利菩薩摩訶薩は席を立ち、右肩をあらわにして右膝を地面につけ、仏の足もとに礼拝して、次の偈を唱えました。

「非一切河， 必有迴曲； 非一切林，悉名樹木； 非一切女， 必懷諂曲；一切自在， 不必受樂。

> すべての川が曲がりくねっているわけではない。 すべての林が、みな「樹木」と呼ばれるわけではない。 すべての女が、かならず心にへつらいやねじくれを抱くわけではない。 すべての自由な者が、かならずしも楽しみを受けているわけではない。

「佛所說偈，其義有餘。唯垂哀愍，說其因緣。何以故？世尊！於此三千大千世界有洲名拘耶尼。其洲有河，端直不曲，名娑婆耶，猶如直繩入於西海。如是河相於餘經中佛未曾說，唯願如來因此方等《阿含經》中說有餘義，令諸菩薩深信解之。世尊！譬如有人先識金鑛，後不識金。如來亦爾，盡知法已，而所演說有餘不盡。如來雖作如是餘說，應當方便解其意趣。一切叢林必是樹木，是亦有餘。何以故？種種金、銀、琉璃寶樹，是亦名林。一切女人必懷諂曲，是亦有餘。何以故？亦有女人善持禁戒，功德成就，有大慈悲。一切自在必受安樂，是亦有餘。何以故？有自在者，轉輪聖帝；如來法王不屬死魔，不可滅盡；梵、釋諸天雖得自在，悉是無常。若得常住、無變易者，乃名自在，所謂大乘大般涅槃。」

> 仏がお説きになった偈には、余すところある意味が含まれています。どうか慈悲をもって、その因縁をお教えください。なぜかと申しますと、世尊よ、この三千大千世界には、拘耶尼という洲がございます。その洲に、まっすぐに曲がらず、娑婆耶と名づけられた川があり、あたかも張った綱のように西海へと流れ込んでいます。このような川の相については、他の経典では仏はまだお説きになっていません。どうか如来が、この方等『阿含経』の中で余すところある意味を説き、諸菩薩が深く信解できるようにしてくださいますよう。 世尊よ、たとえば、ある人が初めは金鉱を知っていたのに、後には金がわからなくなるようなものです。如来もまた同様に、すべての法を知り尽くした後に、説かれた教えに余すところがあって完全ではありません。如来がこのような余すところある説き方をされても、私たちは方便を用いてその意図するところを解さねばなりません。 「すべての叢林は必ず樹木である」というのも、余すところある言葉です。なぜか。様々な金、銀、瑠璃の宝樹もまた「林」と名づけられるからです。「すべての女人は必ず諂い曲がった心を持つ」というのも、余すところある言葉です。なぜか。戒律をよく守り、功徳を成就し、大慈悲を持つ女人もいるからです。「すべて自在なる者は必ず安楽を受ける」というのも、余すところある言葉です。なぜか。自在なる者には、転輪聖王がいます。如来法王は死魔の支配を受けず、滅びることがありません。梵天や帝釈天などの諸天は自在を得ていても、すべて無常です。常住で変異することのないものを得て、初めて自在と名づけるのです。これこそが、大乗の大般涅槃というものです。

佛言：「善男子！汝今善得樂說之辯，且止，諦聽。文殊師利！譬如長者身嬰病苦，良醫診之，為合膏藥。是時病者貪欲多服。醫語之言：『若能消者則可隨意，汝今體羸，不應多服。當知是膏亦名甘露、亦名毒藥，若多服不消則名為毒。』

> 仏が仰せになった。「善男子よ、汝は今、よく説法の弁才を得た。その言葉を一旦とどめ、よく聞きなさい。文殊師利よ、例えば長者が病に苦しみ、良医がそれを診て膏薬を調合したとする。その時、病者は欲深く多く服用しようとした。医者はこう言った。『もし消化できるならば、随意に服してよい。しかし汝の体は弱っているから、多く服すべきではない。この膏薬は甘露とも呼ばれ、また毒薬とも呼ばれる。もし多く服して消化しなければ、それは毒となることを知りなさい。』」

「善男子！汝今勿謂是醫所說違於義理、損失膏勢。善男子！如來亦爾，為諸國王、后妃、太子、王子、大臣，因波斯匿王、王子、后妃憍慢心故，為欲調伏，示現恐怖，如彼良醫，故說此偈：

> 「善男子よ、医者の言葉を道理に反し、膏薬の効能を損なうものと思ってはならない。善男子よ、如来もまた同じである。諸王や后妃、太子、王子、大臣たちのために、また波斯匿王やその王子、后妃たちの驕り高ぶる心を調伏しようとして、彼らに恐怖を示し、あたかもかの名医のように、この偈を説いたのである。」

「『一切江河， 必有迴曲； 一切叢林，必名樹木； 一切女人， 必懷諂曲；一切自在， 必受安樂。』

> 「すべての大河には、必ず曲がりくねったところがある。 すべての林は、必ず木々によって成り立っている。 すべての女性は、必ずお世辞やごまかしの心を持つものだ。 すべての自由には、必ず安らぎと楽しみが伴う。」

「文殊師利！汝今當知：如來所說無有漏失。如此大地可令反覆，如來之言終無漏失。以是義故，如來所說一切有餘。」

> 文殊師利よ、あなたは今、知るがよい。 如来の説かれたことには、決して漏れや欠けはない。 この大地さえも、ひっくり返すことはできるかもしれないが、 如来の言葉に、漏れや欠けは決してないのである。 それゆえに、如来の説かれたことは、すべて余すところなく完全なのである。

爾時，佛讚文殊師利：「善哉，善哉。善男子！汝已久知如是之義，愍哀一切、欲令眾生得智慧故，廣問如來如是偈義。」

> その時、仏は文殊師利をほめて言われた。「善いかな、善いかな。善き人よ、あなたはすでに長くこのような意味を知っていた。すべての生きとし生けるものを哀れみ、彼らに智慧を得させたいと願って、如来にこのような偈の意味を広く問うのである。」

爾時，文殊師利法王子復於佛前而說偈言：

「於他語言， 隨順不逆， 亦不觀他，作以、不作， 但自觀身， 善、不善行。

> 他の者の言葉に、素直に従い逆らわず、 また、人の為すこと為さざることを気にせず、 ただ自分の行いをよく見つめて、 善い行いと悪い行いを省みよ。

「世尊！如是說此法藥非為正說。於他語言隨順不逆者，唯願如來垂哀正說。何以故？世尊常說一切外學九十五種皆趣惡道，聲聞弟子皆向正路。若護禁戒、攝持威儀、守慎諸根，如是等人深樂大法、趣向善道。如來何故於九部中見有毀他則便呵責？如是偈義為何所趣？」

> 「世尊よ、このように説かれた法の薬は、正しい説法とは言えません。他者の言葉にただ従い、それに逆らわないのであれば、どうか如来が慈しみをもって正しくお説きください。なぜなら、世尊は常に、すべての外道（九十五種）は悪道へと向かい、声聞の弟子たちは正しい道へ向かうと説かれます。戒律を守り、威儀を保ち、諸々の感覚を慎むような人々は、大いなる教えを深く愛し、善い道へと向かうものです。それなのに、どうして如来は九部の教えの中で、他人を誹謗する者があると、それを叱責されるのでしょうか。この偈の意味は、一体どこにあるのでしょうか。」

佛告文殊師利：「善男子！我說此偈亦不盡為一切眾生，爾時唯為阿闍世王。諸佛世尊若無因緣終不逆說，有因緣故乃說之耳。善男子！阿闍世王害其父已，來至我所欲折伏我，作如是問：『云何世尊是一切智？非一切智耶？若一切智，調達往昔無量世中常懷惡心，隨逐如來欲為逆害，云何如來聽其出家？』善男子！以是因緣，我為是王而說此偈：

> 仏は文殊師利に告げられた。「善男子よ、わたしがこの偈を説いたのは、すべての衆生のためというわけではない。その時はただ阿闍世王のためであった。諸仏・世尊は、因縁がなければ決して逆説されることはない。因縁があるからこそ、それを説かれるのだ。善男子よ、阿闍世王は父王を殺害した後、わたしのもとに来て、わたしを屈服させようとして、こう問うた。『世尊は一切智であるのか、それとも一切智ではないのか。もし一切智であるならば、調達は過去無量の世において常に悪心を抱き、如来の後を追いかけて害そうとしたのに、どうして如来は彼の出家をお許しになったのか。』善男子よ、この因縁によって、わたしはその王のためにこの偈を説いたのだ。」

「『於他語言， 隨順不逆， 亦不觀他，作以、不作， 但自觀身， 善、不善行。』

> 他人の言葉に対しては、素直に従い逆らわず、 また、他人が何をしたか、何をしなかったかを気にしない。 ただ自らの身を観察し、自分の行いが善いか不善かを省みるのである。

「佛告大王：『汝今害父，已作逆罪，最重無間。應當發露，以求清淨。何緣乃更見他過咎？』善男子！以是義故，我為彼王而說是偈。

> 仏が大王に告げられました。「あなたは今、父を害し、すでに逆罪を犯しました。これは最も重い無間地獄に落ちる罪です。ですから、心を開いて打ち明け、清らかになる道を求めるべきです。どうしてさらに他人の過ちを責め立てるのですか？」（そして尊者は続けて言われました）「善き人よ。そのような理由から、私はあの王のためにこの偈を説いたのです。」

「復次，善男子！亦為護持不毀禁戒、成就威儀、見他過者而說是偈。若復有人受他教誨遠離眾惡、復教他人令遠眾惡，如是之人則我弟子。」

> さらに、善き人よ。また、戒律を破らず守り、威儀を成就しながら、他人の過ちを見つめる者のために、この偈を説いた。もし、ある人が他者の教えを受けて、あらゆる悪から遠ざかり、さらに他の人々にも教えて悪から遠ざけさせるならば、そのような人が、まさに我が弟子である。

爾時，世尊為文殊師利復說偈言：

> その時、世尊は文殊師利に向かって、さらに次の偈を説かれました。

「一切畏刀杖、 無不愛壽命，恕己可為譬， 勿殺、勿行杖。」

> すべての生きものは刃や杖をおそれ、命を愛するものです。 自分を他人に置き換えて考えなさい。殺してはならず、また傷つけてはいけません。

爾時，文殊師利復於佛前而說偈言：

> その時、文殊師利（もんじゅしり）が、仏の前で改めて詩をもって述べました。

「非一切畏杖、 非一切愛命，恕己可為譬， 勤作善方便。

> すべての者が杖を怖れるわけではない。 すべての者が命を愛するわけではない。 己を基準に思いやり、善き道に励むがよい。

「如來說是法句之義亦是未盡。何以故？如阿羅漢、轉輪聖王、玉女、象、馬、主藏大臣，若諸天、人、及阿修羅執持利劍能害之者，無有是處。勇士、烈女、馬王、獸王、持戒比丘，雖復對至而不恐怖。以是義故，如來說偈亦是有餘。若言：『恕己可為譬』者，是亦有餘。何以故？若使羅漢以己喻彼，則有我想及以命想。若有我想及以命想，則應擁護。凡夫亦應見阿羅漢悉是行人，若如是者即是邪見。若有邪見，命終應生阿鼻地獄。又，阿羅漢設於眾生生害心者，無有是處；無量眾生亦復無能害羅漢者。」

> 例えば、如来が説いた法句の意味も、まだ完全に尽くされたものではありません。なぜなら、阿羅漢、転輪聖王、天女、象、馬、主蔵大臣、あるいは天、人、阿修羅のいずれもが、鋭い剣を持ってこれらの者を害することができるということは、決してありえないからです。また、勇士、貞節な女、馬の王、獣の王、戒律を守る比丘は、たとえ危難に直面しても恐怖しません。このような理由から、如来が説いた偈もまた、完全なものではないのです。「己を恕して譬えと為す」という言葉もまた、完全ではありません。なぜなら、もし阿羅漢が己を他者に譬えるならば、そこには「我」という想いと「命」という想いが生じるからです。もし「我」という想いと「命」という想いがあるならば、自らを守ろうとするでしょう。また、凡夫も阿羅漢をすべて修行者であると見なすならば、それは邪見となります。もし邪見があれば、命終の後に阿鼻地獄に生まれることになるでしょう。さらに、阿羅漢が衆生に対して害心を起こすことは決してありえません。また、無量の衆生であっても、阿羅漢を害することは決してできないのです。

佛言：「善男子！言我想者，謂於眾生生大悲心，無殺害想，謂阿羅漢平等之心。勿謂世尊無有因緣而逆說也。昔日於此王舍城中有大獵師，多殺群鹿，請我食肉。我於爾時雖受彼請，於諸眾生生慈悲心如羅睺羅，而說偈言：

> 仏がおっしゃいました。「善男子よ。『我という思い』とは、生きとし生けるものに対して大いなる慈悲の心を起こし、殺害の心を持たないことである。これは阿羅漢の平等な心をいうのである。世尊が理由もなく逆説を語られることはないと知るべきである。昔、この王舎城に一人の大猟師がいて、多くの鹿を殺していた。彼が私に肉を食べさせてほしいと請うた。その時、私はその請いを受けたが、すべての生きとし生けるものに対して、我が子ラーフラに対するような慈悲の心を起こし、次の偈を説いた――」

「『當令汝長壽， 久久住於世，受持不害法， 猶如諸佛壽。』

> 「あなたに長寿を与え、長くこの世にとどまり、 害さないという教えを保ち続けますように、それはあたかも諸仏の寿命のように。」

「是故，我說此偈：

> 故に、私はこの偈を説く。

「『一切畏刀杖、 無不愛壽命，恕己可為譬， 勿殺、勿行杖。』」

> 「すべての生き物は刃や杖を恐れ、命を大切に思っている。 自分に置き換えて考えてみなさい。殺してはならない、傷つけてはならない。」

佛言：「善哉，善哉。文殊師利！為諸菩薩摩訶薩故，諮問如來如是密教。」

> 仏は言われた。「善きかな、善きかな。文殊師利よ。あなたは菩薩摩訶薩たちのために、如来にこのような密教を問うてくれた。」

爾時，文殊師利復說是偈：

> その時、文殊師利（もんじゅしり）が再びこの偈を説かれました。

「云何敬父母， 隨順而尊重？云何修此法， 墮於無間獄？」

> 父母を敬い、随順して尊重するとは、どのようなことでしょうか。 この法を修すると、どうして無間地獄に堕ちてしまうのでしょうか。

於是，如來復以偈答：

> そこで、如来は再び偈（うた）をもって答えた。

「若以貪愛母、 無明以為父，隨順尊重是， 則墮無間獄。」

> もし執着（貪愛）を母とし、 無明（無知）を父と見なし、 それに従い敬い重んじるならば、 必ず無間地獄に堕ちるであろう。

爾時，如來復為文殊師利重說偈言：

> その時、如来は文殊師利に向かって、再び偈を説かれました。

「一切屬他， 則名為苦； 一切由己，自在安樂。 一切憍慢， 勢極暴惡；賢善之人， 一切愛念。」

> 他に従うことは、苦しみと呼びます。 自分で決めることは、自由で安らかです。 すべての傲慢（ごうまん）は、勢いが激しく乱暴です。 賢く善い人は、すべてに愛され大切にされます。

爾時，文殊師利菩薩摩訶薩白佛言：「世尊！如來所說是亦不盡，唯願如來復垂哀愍，說其因緣。何以故？如長者子從師學時，為屬師不？若屬師者，義不成就；若不屬者，亦不成就；若得自在，亦不成就。是故，如來所說有餘。復次，世尊！譬如王子無所綜習，觸事不成，是亦自在、愚闇、常苦。如是，王子若言自在，義亦不成；若言屬他義，亦不成。以是義故，佛所說義名為有餘。是故，一切屬他不必受苦；一切自在不必受樂。一切憍慢勢極暴惡，是亦有餘。世尊！如諸列女，憍慢心故，出家學道，護持禁戒，威儀成就，守攝諸根不令馳散。是故，一切憍慢之結不必暴惡。賢善之人一切愛念，是亦有餘。如人內犯四重禁已，不捨法服，堅持威儀。護持法者見已不愛，是人命終必墮地獄。若有善人犯重禁已，護持法者見即驅出，罷道還俗。以是義故，一切賢善不必悉愛。」

> その時、文殊師利菩薩摩訶薩が仏に申し上げた。 「世尊よ、如来が説かれたことは、それで尽きているわけではありません。どうか如来の哀れみ深いお心を垂れ、その因縁をお説きください。なぜならば、例えば長者の子が師について学ぶ時、師に属するものでしょうか。もし師に属するならば、その義は成就しません。属さないとしても、成就しません。もし自在を得るとしても、成就しません。このように、如来の説かれたことには余すところがあります。 また、世尊よ。例えば王子が何も習い修めず、事に触れても成し遂げられないのは、これも自在であり、愚かで暗く、常に苦しみます。このように、王子が『自在である』と言っても、その義は成就しません。『他に属する』と言っても、その義は成就しません。この義によって、仏の説かれた義は『余りあり』と名づけられます。ですから、すべて他に属する者が必ずしも苦しむわけではなく、すべて自在である者が必ずしも楽を受けるわけではありません。すべての驕り高ぶる心の勢いは極めて暴悪ですが、これにも余すところがあります。 世尊よ。例えば多くの女性たちが、驕り高ぶる心ゆえに出家して学道し、戒律を護り保ち、威儀を成就し、諸々の感官を守り統制して散乱させません。ですから、すべての驕り高ぶりの結びつきが必ずしも暴悪であるとは限りません。賢く善い人はすべてを愛し念じますが、これにも余すところがあります。 例えば、人が内に四重の禁戒を犯した後でも、法衣を捨てずに威儀を堅持するならば、法を護る人がそれを見て愛さず、その人は命終わった後、必ず地獄に堕ちます。もし善い人が重い禁戒を犯した後、法を護る人がそれを見てすぐに追い出し、僧籍を捨てて俗に還らせるならば、この義によって、すべての賢く善い人が必ずしもすべて愛されるわけではありません。」

爾時，佛告文殊師利：「有因緣故，如來於此說有餘義。又有因緣，諸佛如來而說是法。時王舍城有一女人名曰善賢，還父母家，因至我所，歸依於我及法、眾僧，而作是言：『一切女人勢不自由，一切男子自在無礙。』我於爾時知是女心，即為宣說如是偈頌。文殊師利！善哉，善哉。汝今能為一切眾生問於如來如是密語。」

> その時、仏は文殊師利に告げられた。 「因縁があるので、如来はこの場で別の意味を含む教えを説いたのである。また別の因縁から、諸仏・如来はこの法を説くのである。 その時、王舎城に善賢という名の女がいた。彼女は実家に帰っていたが、私のところに来て、私と法と僧伽に帰依し、こう言った。『すべての女は力がなく自由ではない。すべての男は自由で妨げがない。』 私はその時、この女の心を知り、彼女のためにこのような偈を説いたのである。文殊師利よ、善きかな、善きかな。汝は今、一切の衆生のために、如来にこのような秘密の言葉を問うことができる。」

文殊師利復說偈言：

> 文殊師利が再び、偈を説いた。

「一切諸眾生， 皆依飲食存；一切有大力， 其心無嫉妬；一切因飲食， 而得諸病苦；一切修淨行， 而得受安樂。

> すべての生きとし生けるものは、食べ物に依存して生きている。 すべての力ある者は、その心に嫉妬の念がない。 すべてのものは食べ物ゆえに、さまざまな病の苦しみを受ける。 すべての清らかな行いを修める者は、穏やかな安らぎを得る。

「如是，世尊！今受純陀飲食供養，將無如來有恐怖耶？」

> 「そういうことでしょうか、世尊よ。今、純陀が飲食の供養を捧げましたが、もしかすると如来に苦しみが生じるのではございませんか？」

爾時，世尊復為文殊而說偈言：

> そのとき、世尊は再び文殊菩薩に向かって、次のような偈（詩句）を説かれました。

「非一切眾生， 盡依飲食存；非一切大力， 心皆無嫉妬；非一切因食， 而致諸病苦；非一切淨行， 悉得受安樂。

> 「すべての生きとし生けるものが、食べ物だけで生きているわけではない。」 「すべての力ある者が、心に嫉妬（ねたみ）を持たないわけではない。」 「すべての病（やまい）が、食べ物が原因で起こるわけではない。」 「すべての清らかな行いが、ただちに安らかな幸せをもたらすわけではない。」

「文殊師利！汝若得病，我亦如是應得病苦。何以故？諸阿羅漢，及辟支佛、菩薩、如來，實無所食，為欲化彼，示現受用無量眾生所施之物，令其具足檀波羅蜜，拔濟地獄、畜生、餓鬼。若言：『如來六年苦行，身羸瘦。』者，無有是處。諸佛世尊獨拔諸有不同凡夫，云何而得身羸劣耶？諸佛世尊精勤修習獲金剛身，不同世人危脆之身。我諸弟子亦復如是，不可思議、不依於食。一切大力無嫉妬者，亦有餘義。如世間人，終身永無嫉妬之心而無大力。一切病苦因食得者，亦有餘義。亦見有人得客病者，所謂刺刺、刀、劍、鉾、槊。一切淨行受安樂者，是亦有餘。世間亦有外道之人，修於梵行，多受苦惱。以是義故，如來所說一切有餘，是名如來非無因緣而說此偈，有因故說。昔日於此優禪尼國，有婆羅門名羖羝德，來至我所欲受第四八戒齋法。我於爾時為說是偈。」

> 文殊師利よ。もしあなたが病にかかるならば、私もまた同じように病の苦しみを受けるべきであろう。なぜなら、すべての阿羅漢や辟支仏、菩薩、如来は、実際には何も食べるものではないが、彼らを教化しようとして、無量の衆生が施す物を受け取り、彼らに檀波羅蜜を具足させ、地獄・畜生・餓鬼を救い済うために、それを示し用いるのである。もし「如来は六年もの苦行によって身体が痩せ衰えた」と言うならば、それは正しくない。諸仏世尊は独りで諸々の存在を超え、凡夫とは異なる。どうして身体が痩せ衰えることがあろうか。諸仏世尊は精進して修行し、金剛の身を得ているのであり、世の人々のような脆い身ではない。私の弟子たちもまた同じである。不可思議であり、食物に依存しない。すべての大力の者は嫉妬心がないというのも、また別の意味がある。世間の人々の中には、生涯にわたって全く嫉妬の心がなくても、大力ではない者もいる。すべての病苦は食物によって生じるというのも、また別の意味がある。また、ある人の客病（外部から来る病）にかかるのを見ることがある。例えば、刺や刀、剣、矛、槍によるものである。すべての清らかな行いが安楽を受けるというのも、また別の意味がある。世間にはまた、外道の人々がいて、梵行を修しても多くの苦悩を受ける者もいる。このような理由から、如来の説くところはすべて余義（他に意味がある）があるのである。これを「如来は因縁なくしてこの偈を説いたのではなく、因があって説いた」というのである。かつてこの優禪尼国に、羖羝德というバラモンがいて、私のところに来て第四の八戒斎法を受けようとした。その時、私は彼のためにこの偈を説いたのである。

爾時，迦葉菩薩白佛言：「世尊！何等名為無餘義耶？云何復名一切義乎？」

> その時、迦葉菩薩が仏に申し上げました。 「世尊（お釈迦様）。『完全な意味』とはどのようなものなのでしょうか。そして『すべての意味』とは、どのようなことをいうのでしょうか。」

「善男子！一切者，唯除助道常樂善法，是名一切，亦名無餘。其餘諸法，亦名有餘亦名無餘，欲令樂法諸善男子知此有餘及無餘義。」

> 「善男子よ。『一切』とは、ただ修行を助ける道、常に善い法を楽しむものを除いたものを指す。これを『一切』ともいい、また『無余（なにものこりなくあること）』ともいう。それ以外の諸々の法は、『有余（あまりのあること）』とも『無余』とも呼ばれる。これは、法を喜ぶ善男子たちに、この有余と無余の意味を知らしめようがためである。」

迦葉菩薩心大歡喜，踊躍無量，前白佛言：「甚奇，世尊！等視眾生如羅睺羅。」

> 迦葉菩薩は心から大いに喜び、限りなく躍り上がって、仏の前に進み出て申し上げた。 「なんと素晴らしいことでございます、世尊よ。全ての生きとし生けるものを、我が子ラーフラのように等しくご覧になられるとは。」

爾時，佛讚迦葉菩薩：「善哉，善哉。汝今所見微妙甚深。」

> その時、仏は迦葉菩薩を褒めて言われた。「善いかな、善いかな。あなたが今見ているものは、まことに微妙で非常に深遠である。」

迦葉菩薩白佛言：「世尊！唯願如來說是大乘《大涅槃經》所得功德。」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げた。「世尊様、どうか如来様がこの大乗の『大涅槃経』によって得られる功徳についてお説きください。」

佛告迦葉：「善男子！若有得聞是經名字，所得功德非諸聲聞、辟支佛等所能宣說，唯佛能知。何以故？不可思議，是佛境界。何況受持、讀誦、通利、書寫經卷？」

> 釈尊は迦葉尊者に告げられた。「善きかな、善男子よ。もしも誰かがこの経典の名前を聞くことができたならば、その人が得る功徳は、声聞（しょうもん）や辟支仏（びゃくしぶつ）たちが説明できるものではなく、ただ仏のみが知ることができる。それはなぜか。この教えは不可思議であり、まさに仏の境界だからである。ましてや、この経典を受持し、読誦し、自在に理解し、書き写すことの功徳は、なおさら言うまでもない。」

爾時，諸天、世人及阿修羅即於佛前異口同音而說偈言：

> そのとき、天の神々、人間たち、そしてアシュラたちは、仏の前で声をそろえて、次のように詩を唱えました。

「諸佛難思議， 法、僧亦復然，是故今勸請， 唯願小停住。尊者大迦葉， 及以阿難等，二眾之眷屬， 不久須臾至；并及摩竭主， 阿闍世大王，至心敬信佛， 猶故未來此。唯願佛世尊， 少垂哀愍住，於此大眾中， 斷我諸疑網。」

> 諸仏の徳は、思い計ることさえできません。 法や僧もまた同様です。 それゆえ、今ここに切にお願い申し上げます。 どうかしばらくお留まりください。 尊き大迦葉さま、 そして阿難さまをはじめ、 その二つのお弟子方のご一行も、 間もなくまもなく到着いたします。 また、マガダ国の主である アジャータシャトル大王も、 心から仏を敬い信じておられますが、 まだこちらに到着しておりません。 どうか、仏さま。 少しの間、慈しみをもってお留まりいただき、 この集いの中で、 私たちの数々の疑問の網を断ち切ってください。

爾時，如來為諸大眾而說偈言：

> そのとき、如来は集まった大衆に向けて、次のように詩句をもってお説きになりました。

「我法最長子， 是名大迦葉；阿難勤精進， 能斷一切疑。汝等當諦觀， 阿難多聞士，自然能解了， 是常及無常；以是故不應， 心懷大憂惱。」

> 「わが教えの第一の継承者、これを大迦葉という。 アーナンダは精進にはげみ、あらゆる疑いを断ち切る。 汝ら、よく観察せよ。アーナンダは多聞の士（すぐれた聴聞者）である。 自然に悟り得るであろう、この常住と無常の理を。 それゆえに、大いに憂い悩む心を抱くべきではない。」

爾時，大眾以種種物供養如來。供養佛已，即發阿耨多羅三藐三菩提心，無量無邊恒河沙數諸菩薩等得住初地。

> その時、大勢の人々が様々な品々を如来に差し上げました。お釈迦様に供養を終えると、すぐに「この上なく完全な悟りを開こう」という心を起こしました。そして、数えきれないほど多くの菩薩たちが、修行の最初の段階である初地に達することができたのです。

爾時，世尊與文殊師利、迦葉菩薩及與純陀而受記莂。受記莂已，說如是言：「諸善男子！自修其心，慎莫放逸。我今背疾，舉體皆痛。我今欲臥，如彼小兒及常患者。文殊！汝等當為四部廣說大法。今以此法付囑於汝；乃至迦葉、阿難等至，復當囑付如是正法。」爾時，如來說是語已，為欲調伏諸眾生故，現身有疾，右脇而臥，如彼病人。