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title: "大般涅槃經 · 21 嬰兒行品"
description: "大般涅槃经由南朝宋慧严、谢灵运等依据法显所译六卷本泥洹经与昙无谶所译北本涅槃经对照修订而成。本经详述释迦牟尼佛入灭前的教法，系统阐述如来藏思想、众生皆有佛性及一阐提亦可成佛的核心理念。作为大乘佛教的重要经典，它确立了中国佛教心性论的理论基础，对天台宗、华严宗等宗派教义形成具有深远影响，被誉为大乘佛教的终极教典之一。"
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## 大般涅槃經卷第十八

> 大般涅槃経 巻第十八

宋代沙門慧嚴等依泥洹經加之

> 宋の沙門慧厳らが『泥洹経』に依って加えたもの

### 梵行品之第五

> 梵行品 第五

爾時，世尊在雙樹間見阿闍世悶絕躄地，即告大眾：「我今當為是王住世至無量劫不入涅槃。」

> そのとき、世尊は双樹の間で阿闍世王が気を失って地面に倒れるのをご覧になり、すぐに集まった人々に告げられました。「私は今、この王のために、この世にとどまり、無量の劫を経ても涅槃に入るまい。」

迦葉菩薩白佛言：「世尊！如來當為無量眾生不入涅槃，何故獨為阿闍世王？」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げた。「世尊、如来は無量の衆生のために涅槃に入らないはずです。なぜただ阿闍世王のためだけなのですか。」

佛言：「善男子！是大眾中無有一人謂我畢定入於涅槃。阿闍世王定謂我當畢竟永滅，是故悶絕，自投於地。

> 仏がおっしゃいました。「善男子よ、この大衆の中には、私が必ず涅槃に入ると言う者は一人もいない。しかし阿闍世王は、私が必ず永遠に滅してしまうと決め込んでいるので、気を失って地面に倒れてしまったのだ。」

「善男子！如我所言：『為阿闍世不入涅槃。』如是密義汝未能解。何以故？我言為者，一切凡夫；阿闍世者，普及一切造五逆者。又復，為者，即是一切有為眾生。我終不為無為眾生而住於世。何以故？夫無為者，非眾生也。阿闍世者，即是具足煩惱等者。又復，為者，即是不見佛性眾生。若見佛性，我終不為久住於世。何以故？見佛性者，非眾生也。阿闍世者，即是一切未發阿耨多羅三藐三菩提心者。又復，為者，即是阿難、迦葉二眾。阿闍世者，即是阿闍世王後宮妃后及王舍城一切婦女。又復，為者，名為佛性；言阿闍者，名為不生；世者，名怨。以不生佛性故，則煩惱怨生；煩惱怨生故，不見佛性。以不生煩惱故，則見佛性；以見佛性故，則得安住大般涅槃，是名不生。是故，名為為阿闍世。善男子！阿闍者，名不生；不生者，名涅槃。世，名世法；為者，名不污；以世八法所不污故，無量無邊阿僧祇劫不入涅槃。是故，我言為阿闍世無量億劫不入涅槃。

> 善男子よ、私が「阿闍世のために涅槃に入らない」と言ったことには、深い意味がある。あなたはまだそれを理解できていない。なぜか。私が「のために」と言うとき、それはすべての凡夫を指している。阿闍世とは、五逆罪を犯すすべての者を表している。 また「のために」とは、すべての因縁によって生じる存在（有為の衆生）のことである。私は決して、無為の衆生のために世にとどまるのではない。なぜなら、無為とは衆生ではないからである。阿闍世とは、煩悩をそなえた者たちのことである。 また「のために」とは、仏性を見ることができない衆生のことである。もし仏性を見るなら、私は決して長く世にとどまることはない。なぜなら、仏性を見る者は衆生ではないからである。阿闍世とは、まだ悟りを求める心（阿耨多羅三藐三菩提心）を起こしていないすべての者のことである。 また「のために」とは、阿難と迦葉の二つの集団のことである。阿闍世とは、阿闍世王の後宮の妃たち、そして王舎城のすべての女性たちのことである。 さらに、「のために」とは仏性を意味する。「阿闍」とは不生を意味し、「世」とは怨みを意味する。仏性が生じないために、煩悩という怨みが生じる。煩悩という怨みが生じるために、仏性を見ることができない。煩悩が生じないために、仏性を見ることができる。仏性を見るために、大般涅槃に安らかにとどまることができる。これを不生という。それゆえ、<note>名づけて</note>阿闍世のためにと言うのである。 善男子よ、「阿闍」とは不生を意味し、不生とは涅槃を意味する。「世」とは世間の法を意味し、「のために」とは汚されないことを意味する。世の八つの法に汚されないために、無量無辺阿僧祇劫のあいだ涅槃に入らない。それゆえ、私は「阿闍世のために無量億劫のあいだ涅槃に入らない」と言うのである。

「善男子！如來密語不可思議，佛法、眾僧亦不可思議，菩薩摩訶薩亦不可思議，《大涅槃經》亦不可思議。」

> 善男子よ、如来の秘密の言葉は不思議であり、法も僧も不思議であり、菩薩摩訶薩も不思議であり、『大涅槃経』もまた不思議である。

爾時，世尊——大悲導師——為阿闍世王入月愛三昧。入三昧已，放大光明。其光清涼，往照王身，身瘡即愈，欝蒸除滅。王覺瘡愈，身體清涼，語耆婆言：「曾聞人說：『劫將欲盡，三月並現。當是之時，一切眾生患苦悉除。』時既未至，此光何來照觸吾身，瘡苦除愈，身得安樂？」

> そのとき、世尊──大いなる慈悲の導き手──は、阿闍世王のために月愛三昧に入られた。三昧に入られると、大きな光明を放たれた。その光は清らかで涼しく、王の身を照らし、体の傷はただちに癒え、わずらいは消え去った。王は傷が癒え、体が清涼になったのを感じて、耆婆にこう言った。「かつて人がこう話すのを聞いたことがある。『劫が尽きようとするとき、三つの月が同時に現れる。そのとき、すべての生きとし生けるものの苦しみはことごとく除かれる。』と。しかし、その時はまだ来ていないのに、この光はどこから来て私の身を照らし、傷の苦しみを癒し、身に安楽を得させたのか。」

耆婆答言：「此非劫盡三月並照，亦非火、日、星宿、藥草、寶珠天光。」

> 耆婆が答えました。「これは劫の尽きる時の三月がともに照らすものではなく、火でも、太陽でも、星々でも、薬草でも、宝珠の天の光でもありません。」

王又問言：「此光若非三月並照、寶珠明者，為是誰光？」

> 王はまた尋ねました。「この光が、もし三つの月が同時に照らすのでもなく、宝珠の輝きでもないのなら、それは一体誰の光なのですか？」

「大王當知：是天中天所放光明。是光無根、無有邊際，非熱、非冷，非常、非滅，非色、非無色，非相、非無相，非青、非黃、非赤、非白。欲度眾生，故使可見有相，可說有根、有邊，有熱、有冷，青、黃、赤、白。大王！是光雖爾，實不可說、不可覩見，乃至無有青、黃、赤、白。」

> 大王よ、ご存じください。これは天の中の天が放たれた光明です。この光には根もなく、限りもなく、熱くもなく冷たくもなく、常住でもなく滅することもなく、色でもなく無色でもなく、相でもなく無相でもなく、青でもなく黄でもなく赤でもなく白でもありません。しかし衆生を救うために、見えるものとされ、相あるものとされ、根があり限りがあると言われ、熱があり冷たさがあり、青・黄・赤・白があると説かれるのです。大王よ、この光はそのようでありながら、実に説くことができず、見ることもできず、青・黄・赤・白さえもないのです。

王言：「耆婆！彼天中天以何因緣放斯光明？」

> 王様が言いました。「耆婆よ、あの天の中の天は、どんな理由でこの光を放たれたのですか？」

耆婆答言：「今是瑞相將為大王。以王先言：『世無良醫療治身心。』故放此光先治王身，然後及心。」

> 耆婆が答えました。「この瑞相は、きっと大王のためでございます。王が以前、『世には身心を治す良医がいない』とおっしゃいましたので、そのためこの光をお放ちになり、まず王の身体をお治めになり、それから心をお治めになるのです。」

王言：「耆婆！如來世尊亦見念耶？」

> 王よ、「耆婆よ、如来・世尊もまた、私たちを心に留めておられるのでしょうか」

耆婆答言：「譬如一人而有七子，是七子中一子遇病，父母之心非不平等，然於病子心則偏多。大王！如來亦爾，於諸眾生非不平等，然於罪者心則偏重。於放逸者，佛則慈念；不放逸者，心則放捨。何等名為不放逸者？謂六住菩薩。大王！諸佛世尊於諸眾生不觀種姓、老、少、中年、貧、富、時節、日、月、星宿、工巧、下賤、僮僕、婢使，唯觀眾生有善心者。若有善心，則便慈念。大王當知：如是瑞相即是如來入月愛三昧所放光明。」

> 耆婆が答えました。「たとえば、一人の人が七人の子どもを持つとします。その七人のうち一人が病にかかると、父母の心は平等でないわけではありませんが、病の子に対しては心が特に傾きます。大王よ、如来も同じです。すべての衆生に対して平等でないわけではありませんが、罪を犯した者には心が特に重く傾きます。怠け放逸な者には、仏は慈しみの心を向け、怠らず精進する者には、心を捨て置かれます。何を怠らず精進する者というのでしょうか。それは六住の菩薩です。大王よ、諸仏世尊は衆生に対して、種姓、老い、若さ、中年、貧しさ、豊かさ、時節、日、月、星宿、工芸の巧みさ、身分の低さ、召使い、下女などを問いません。ただ衆生に善い心があるかどうかを見るだけです。もし善い心があれば、すぐに慈しみの心を向けられます。大王よ、知っておいてください。このような瑞相こそ、如来が月愛三昧に入って放たれた光明なのです。」

王即問言：「何等名為月愛三昧？」

> 王はすぐに尋ねました。「月愛三昧とは、どのようなものなのでしょうか。」

耆婆答言：「譬如月光能令一切優鉢羅花開敷鮮明；月愛三昧亦復如是，能令眾生善心開敷。是故，名為月愛三昧。

> 耆婆が答えました。「たとえば月の光は、すべての優鉢羅の花を開かせ、みずみずしく輝かせます。月愛三昧もまた同じように、生きとし生けるものの善い心を開かせてくれます。それゆえ、月愛三昧と名づけるのです。」

「大王！譬如月光能令一切行路之人心生歡喜；月愛三昧亦復如是，能令修習涅槃道者心生歡喜。是故，復名月愛三昧。

> 大王よ、たとえば月の光がすべての道行く人々の心を喜ばせるように、月愛三昧もまた同じです。涅槃の道を修める者の心を喜ばせるのです。それゆえ、また月愛三昧と名づけられます。

「大王！譬如月光，從初一日至十五日，形色、光明漸漸增長。月愛三昧亦復如是，令初發心諸善根本漸漸增長，乃至具足大般涅槃。是故，復名月愛三昧。

> 大王よ、たとえば月の光は、一日目から十五日目にかけて、その形も輝きも少しずつ増していきます。月愛三昧も同じです。初めて菩提心を起こした人々の善の根は、少しずつ育ち、やがて大きな涅槃にまで至るのです。ですから、これは月愛三昧とも名づけられるのです。

「大王！譬如月光從十六日至三十日，形色、光明漸漸損減。月愛三昧亦復如是，光所照處，所有煩惱能令漸減。是故，復名月愛三昧。

> 大王よ、たとえば月の光は十六日から三十日にかけて、その形や輝きが少しずつ減っていきます。月愛三昧も同じです。この光が照らすところでは、すべての煩悩を少しずつ減らしていくことができます。ですから、またの名を月愛三昧というのです。

「大王！譬如盛熱之時，一切眾生常思月光；月光既照，欝熱即除。月愛三昧亦復如是，能令眾生除貪惱熱。

> 「大王よ、たとえば酷暑のとき、すべての生きとし生けるものはいつも月の光を恋い慕います。月の光が照らせば、むしむしとした暑さはたちまち消え去ります。月愛三昧もまた同じです。生きとし生けるものの貪りの悩みと熱を除くことができるのです。

「大王！譬如滿月，眾星中王，為甘露味，一切眾生之所愛樂。月愛三昧亦復如是，諸善中王，為甘露味，一切眾生之所愛樂。是故，復名月愛三昧。」

> 大王よ、たとえば満月は、多くの星々の中で王であり、甘露のような味わいがあって、すべての生きとし生けるものに愛されるものです。月愛三昧も同じです。すべての善の中で王であり、甘露のような味わいがあって、すべての生きとし生けるものに愛されるのです。それゆえ、また月愛三昧と名づけられます。

王語耆婆：「我聞如來不與惡人同止、坐、起、語言談論。猶如大海不宿死屍、如鴛鴦鳥不住圊廁、釋提桓因不與鬼住、鳩翅羅鳥不棲枯樹，如來亦爾。我當云何而得往見？設其見者，我身將不陷入地耶？我觀如來寧近醉象、師子、虎、狼、猛火絕焰，終不近於重惡之人。是故，我今思忖是已，當有何心往見如來？」

> 王は耆婆に言いました。「私は、如来は悪人と同じ場所に留まったり、座ったり、立ったり、話したりすることはないと聞いています。それはまるで、大海が死体をとどめないように、鴛鴦の鳥が便所に住まないように、帝釈天が鬼と共に住まないように、鳩翅羅鳥が枯れ木に棲まないようなものです。如来もまた同じです。どうすれば私は会いに行くことができるでしょう。もし会ったとして、私の体は地面に沈んでしまわないでしょうか。私が思うに、如来は酔った象や獅子、虎、狼、燃え盛る猛火に近づくことはあっても、重い罪を犯した人には決して近づきません。ですから、私は今こう考えて、どんな心で如来に会いに行くべきでしょうか。」

耆婆答言：「大王！譬如渴人速赴清泉、飢者求食、怖者求救、病求良醫、熱求蔭涼、寒者求火，王今求佛亦應如是。大王！如來尚為一闡提等演說法要，何況大王非一闡提而當不蒙慈悲救濟？」

> 耆婆がお答えしました。「大王さま、たとえば喉が渇いた人が急いで清らかな泉に向かい、飢えた人が食べ物を求め、恐れる人が救いを求め、病む人が良き医者を求め、暑さに苦しむ人が木陰の涼を求め、寒い人が火を求めるように、大王さまが今、仏を求めるのも、まさに同じでございます。大王さま、如来は一闡提のような者にさえ法を説いてくださいます。ましてや大王さまは一闡提ではございません。慈悲の救済をいただけないはずがありましょうか。」

王言：「耆婆！我昔曾聞：『一闡提者，不信、不聞、不能觀察、不得義理。』何故如來而為說法？」

> 王が言った。「耆婆よ、私は以前こう聞いたことがある。『一闡提の者とは、信じることもなく、聞くこともなく、観察することもできず、真理を得ることもない』と。なぜ如来はそのような者たちのために法を説かれるのか」

耆婆答言：「大王！譬如有人身遇重病，是人夜夢昇一柱殿，服蘇油脂及以塗身，臥灰、食灰、攀上枯樹。或與獼猴遊行坐臥，沈水沒泥，墮墜樓殿、高山、樹木、象、馬、牛、羊，身著青、黃、赤、黑色衣，喜笑歌舞。或見烏、鷲、狐狸之屬，齒髮墮落，裸形枕狗，臥糞穢中。復與亡者行、住、坐、起，携手食噉，毒蛇滿路而從中過。或復夢與被髮女人共相抱持，多羅樹葉以為衣服，乘壞驢車正南而遊。是人夢已，心生愁惱。以愁惱故，身病愈增。以病增故，諸家親屬遣使命醫。所可遣使，形體缺短、根不具足、頭蒙塵土、著弊壞衣、載故壞車，語彼醫言：『速疾上車。』爾時，良醫即自思惟：『今見是使相貌不吉，當知病者難可療治。』復作是念：『使雖不吉，復當占日，為可治不？若四日、六日、八日、十二日、十四日，如是日者，病亦難治。』復作是念：『日雖不吉，復當占星，為可治不？若是火星、金星、昴星、閻羅王星、濕星、滿星，如是星時，病亦難治。』復作是念：『星雖不吉，復當觀時。若是秋時、冬時，及日入時、夜半時、月入時，當知是病亦難可治。』復作是念：『如是眾相雖復不吉，或定、不定，當觀病人。若有福德，皆可療治；若無福德，雖吉何益？』

> 耆婆が答えて言った。「大王よ、たとえば人が重い病にかかったとします。その人は夜、夢の中で一本の柱の宮殿に昇り、酥油や脂を服し、また体に塗り、灰の上に臥し、灰を食し、枯れ木に攀じ登ります。あるいは猿とともに歩き回り、座り臥し、水に沈み泥に没し、楼殿や高山、樹木、象、馬、牛、羊から堕ち落ちます。青、黄、赤、黒の衣を身に着け、笑い喜び歌い舞います。あるいは烏、鷲、狐の類を見、歯や髪が脱落し、裸で狗を枕とし、糞穢の中に臥します。また死者とともに行き、住み、座り、起ち、手を携えて食い、毒蛇が道に満ちる中を通り抜けます。あるいはまた、髪を振り乱した女と互いに抱き合い、多羅樹の葉を衣服とし、壊れた驢馬車に乗って真南へと遊びに出る夢を見ます。この人は夢から覚めて、心に愁い悩みを生じます。愁い悩むために、体の病はますます増します。病が増すために、もろもろの家の親族は使いを遣わして医者を呼び寄せます。遣わされる使いは、体が欠け短く、諸根が具わらず、頭に塵土をかぶり、破れ壊れた衣を着て、古く壊れた車に載せられ、その医者にこう言います。『速やかに車にお乗りください。』そのとき、良医はすぐにこう思います。『今、この使いの相貌を見るに不吉である。病者は治しがたいと知るべきである。』またこう思います。『使いは不吉であっても、さらに日を占おう。治せるかどうか。もし四日、六日、八日、十二日、十四日、このような日ならば、病もまた治しがたい。』またこう思います。『日は不吉であっても、さらに星を占おう。治せるかどうか。もし火星、金星、昴星、閻羅王星、湿星、満星、このような星の時ならば、病もまた治しがたい。』またこう思います。『星は不吉であっても、さらに時を観よう。もし秋の時、冬の時、および日の入る時、夜半の時、月の入る時ならば、この病もまた治しがたいと知るべきである。』またこう思います。『このようなもろもろの相は、たとえ不吉であっても、あるいは定まり、あるいは定まらない。病人を観よう。もし福德があれば、みな治すことができる。もし福德がなければ、吉であっても何の益があろうか。』」

「思惟是已，尋與使俱，在路復念：『若彼病者有長壽相則可療治，短壽相者則不可治。』即於前路見二小兒相牽鬪諍、捉頭拔髮，瓦石、刀杖共相撩打。見人持火，自然殄滅。或見有人斫伐樹木。或復見人手曳皮革，隨路而行。或見道路有遺落物。或見有人執持空器。或見沙門獨行無侶。復見虎、狼、烏、鷲、野狐。見是事已，復作是念：『所遣使人乃至道路所見諸相悉皆不祥，當知病者定難療治。』復作是念：『我若不往，則非良師；如其往者，不可救療。』復更念言：『如是眾相雖復不祥，且當捨置，往至病所。』

> こう考えてから、すぐに使者とともに出発し、道中でまた思った。「もしあの病人に長寿の相があれば治せるが、短寿の相なら治せない。」そして道の途中で、二人の子供が互いに引っ張り合い、頭をつかみ髪を引き抜き、瓦や石、刀や杖で打ち合っているのを見た。火を持つ人を見れば、火は自然と消えた。あるいは木を切り倒す人を見た。また、革を手で引いて道に沿って歩く人を見た。また、道に落ちている物を見た。また、空の器を持っている人を見た。また、沙門が一人で連れもなく歩いているのを見た。さらに虎、狼、鴉、鷲、野狐を見た。これらの事を見てから、またこう思った。「派遣した使者が道中で見たさまざまな相はすべて不吉だ。これで病人はきっと治し難いとわかった。」またこう思った。「私が行かなければ、良い師とは言えない。もし行けば、救い治せない。」さらにまたこう思った。「このようなさまざまな相は不吉ではあるが、しばらく心に置かず、病人のもとへ行こう。」

「思惟是已，復於前路聞如是聲，所謂亡失、死喪、崩破、壞折、剝脫、墮墜、焚燒、不來，不可療治、不能拔濟。復聞南方有飛鳥聲，所謂烏、鷲、舍利鳥聲，若狗、若鼠、野狐、猪、兔。聞是聲已，復作是念：『當知病者難可療治。』

> こう考えたあと、さらに道の先で、次のような声を聞きました。それは「失った」「死んだ」「崩れた」「壊れた」「折れた」「剥がれた」「落ちた」「焼けた」「もう来ない」「治せない」「救えない」という声でした。また南の方からは、鳥の声が聞こえてきました。カラス、ハゲタカ、ムクドリなどの声、そして犬、ネズミ、野ギツネ、豚、ウサギの声でした。これらの声を聞いて、さらにこう思いました。「この病人は、もう治すのが難しいに違いない。」

「爾時即入病人舍宅，見彼病人數寒、數熱，骨節疼痛，目赤流淚，耳聲聞外，咽喉結痛，舌上裂破，其色正黑，頭不自勝，體枯無汗，大小便利擁隔不通，身卒肥大，紅赤異常，語聲不均，或麁、或細，舉體斑駁，異色、青、黃，其腹脹滿，言語不了。醫見是已，問瞻病言：『病者昨來意志云何？』答言：『大師！其人本來敬信三寶及以諸天，今者變異，敬信情息。本憙惠施，今者慳悋。本性少食，今則過多。本性敝惡，今則和善。本性慈孝、恭敬父母，今於父母無恭敬心。』醫聞是已，即前嗅之，優鉢羅香、沈水雜香、畢迦多香、多伽羅香、多摩羅跋香、欝金香、栴檀香，炙肉臭、蒱桃酒臭、燒筋骨臭、魚臭、糞臭。知香臭已，即前觸身，覺身細軟，猶如繒綿、劫貝、𦀟花，或䩕如石、或冷如氷、或熱如火、或澁如沙。

> そのとき、ただちに病人の家に入り、その病人を見ると、何度も寒くなったり熱くなったりし、骨節が痛み、目は赤く涙を流し、耳は外の音を聞き、咽喉が詰まって痛み、舌の上は裂けて破れ、その色は真っ黒で、頭は自分で支えられず、体は枯れて汗がなく、大小便は詰まって通じず、体はにわかに肥え太り、赤く異様で、語る声は均一でなく、あるいは粗く、あるいは細く、全身にまだら模様があり、異なる色の青や黄があり、その腹は膨れ満ち、言葉ははっきりしない。医師はこれを見て、看病する者に問うた。「病人は昨日から、心の持ちようはどうか。」答えて言った。「大師よ。この人はもともと三宝と諸天を敬い信じておりましたが、今は変わり果て、敬い信じる心が消えております。もともとは施しを喜んでおりましたが、今は物惜しみしております。もともとは少食でありましたが、今は食べ過ぎております。もともとは気が荒く悪かったのですが、今はおだやかで善良であります。もともとは親を慈しみ孝み、父母を敬っておりましたが、今は父母に敬う心がありません。」医師はこれを聞いて、ただちに進み出てその匂いを嗅いだ。優鉢羅の香り、沈水の混じった香り、畢迦多の香り、多伽羅の香り、多摩羅跋の香り、欝金の香り、栴檀の香り、焼き肉の臭い、蒲桃酒の臭い、筋骨を焼く臭い、魚の臭い、糞の臭い。香りと臭いを知って、ただちに進み出てその体に触れ、体が細く柔らかく、絹や綿、劫貝や𦀟花のようであるか、あるいは硬く石のようであり、あるいは冷たく氷のようであり、あるいは熱く火のようであり、あるいはざらざらと砂のようであると感じた。

「爾時，良醫見如是等種種相已，定知病者必死不疑，然不定言是人當死。語瞻病者：『吾今遽務，明當更來。隨其所須，恣意勿遮。』即便還家。明日使到，復語使言：『我事未訖，兼未合藥。』智者當知如是病者必死不疑。

> そのとき、名医はこのようないろいろな様子を見て、この病人は必ず死ぬに違いないと確信した。しかし、はっきりと「この人は死ぬ」とは言わなかった。看病する人にこう告げた。「私は今、急ぎの用事がある。明日また来よう。病人が求めるものがあれば、思うままに与えて、止めてはならない。」そう言って家に帰った。翌日、使いの者が来ると、また使いの者に言った。「私の用事はまだ終わっていないし、薬もまだ調合していない。」賢い人なら、このような病人は必ず死ぬに違いないと知るだろう。

「大王！世尊亦爾，於一闡提輩善知根性而為說法。何以故？若不為說，一切凡夫當言：『如來無大慈悲。』有慈悲者，名一切智；若無慈悲，云何說言一切智人？是故，如來為一闡提而演說法。

> 大王よ、世尊もまた同じです。一闡提のような者たちの性質をよく見極めた上で、法を説かれるのです。なぜでしょうか。もし説かなければ、すべての凡夫はこう言うでしょう――『如来には大きな慈悲がない』と。慈悲のある者を、一切智ある者と呼びます。もし慈悲がなければ、どうして一切智の人と言えるでしょうか。ですから、如来は一闡提のためにも法を説かれるのです。

「大王！如來世尊見諸病者常施法藥。病者不服，非如來咎。

> 大王よ、如来世尊は病める者たちを見て、常に法の薬をお与えになります。しかし病者がそれを飲まなければ、それは如来の責めではありません。

「大王！一闡提輩分別有二：一者、得現在善根，二者、得後世善根。如來善知一闡提輩能於現在得善根者則為說法；後世得者亦為說法，今雖無益作後世因。是故，如來為一闡提演說法要。一闡提者復有二種：一者、利根，二者、中根。利根之人於現在世能得善根，中根之人後世則得。諸佛世尊不空說法。大王！譬如淨人墜墮圊廁，有善知識見而愍之，尋前捉髮而拔出之。諸佛如來亦復如是，見諸眾生墮三惡道，方便救濟令得出離。是故，如來為一闡提而演說法。」

> 大王よ、一闡提の人々には二つの種類があります。一つは、現世で善根を得る人。もう一つは、来世で善根を得る人です。如来は、一闡提の人々の中で現世で善根を得ることができる者には法を説き、来世で得る者にもまた法を説かれます。たとえ今は益がなくても、来世の因となるからです。ですから、如来は一闡提のために法の要を説かれるのです。 一闡提にはまた二つの種類があります。一つは利根の人、二つは中根の人です。利根の人は現世で善根を得ることができ、中根の人は来世で得るのです。諸仏世尊は空しく法を説かれることはありません。 大王よ、たとえば清らかな人が便所に落ちてしまったとき、善き友人がそれを見て哀れに思い、すぐに髪をつかんで引き上げるようなものです。諸仏如来もまた同じです。すべての衆生が三悪道に堕ちるのを見て、方便をもって救い、離れさせようとされます。ですから、如来は一闡提のために法を説かれるのです。

王語耆婆：「若使如來審如是者，明當選擇良日吉星，然後乃往。」

> 王は耆婆に言いました。「もし如来が本当にそのようなお方であるなら、きちんと良き日と吉なる星を選んでから、参ることにしよう。」

耆婆白王：「大王！如來法中無有選擇良日吉星。大王！如重病人猶不看日、時節吉凶，唯求良醫。王今病重，求佛良醫不應選擇良時好日。大王！如栴檀火及𦭽蘭火，二俱燒相，無有異也。吉日、凶日亦復如是，若到佛所，俱得滅罪。唯願大王今日速往。」

> 耆婆が王に申し上げました。「大王さま、如来の教えには、よい日や吉星を選ぶということはありません。大王さま、重い病の人が日や時節の吉凶を見ず、ただ良い医者だけを求めるのと同じです。大王さまは今、病が重く、仏という良医を求めておられるのですから、良い時や日を選ぶべきではありません。大王さま、栴檀の火と𦭽蘭の火は、どちらも同じように燃えるだけで、違いはありません。吉日も凶日も同じことで、仏のもとへ行けば、どちらでも罪は滅びるのです。どうか大王さま、今日すぐにいらしてください。」

爾時，大王即命一臣名曰吉祥而告之言：「大臣當知：吾今欲往佛世尊所，速辦所須供養之具。」

> そのとき、大王は吉祥という名の家臣を呼んで言いました。「大臣よ、よく聞きなさい。私は今、仏世尊のもとへ参りたい。供養のための品々をすぐに用意しなさい。」

臣言：「大王！善哉，善哉。所須供具一切悉有。」

> 臣が申し上げます。「大王、よくぞお尋ねくださいました。必要な供物はすべて揃っております。」

阿闍世王與其夫人嚴駕車乘一萬二千。姝壯大象其數五萬，一一象上各載三人，齎持幡蓋、花香、伎樂，種種供具無不備足。導從馬騎有十八萬，摩伽陀國所有人民尋從王者，其數足滿五十八萬。爾時，拘尸那城所有大眾——滿十二由旬——悉皆遙見阿闍世王與其眷屬尋路而來。

> 阿闍世王とその夫人は、一万二千の車を整えて出発しました。若く立派な象は五万頭、その一頭一頭に三人ずつが乗り、幡や蓋、花や香、音楽など、さまざまな供物をすべて用意していました。先導する騎馬は十八万騎、マガダ国のすべての人々が王に従い、その数は五十八万に達しました。そのとき、クシナガラの城にいたすべての人々――十二由旬にわたって埋め尽くしていた――は、はるか遠くに阿闍世王とその一行が道をたどって来るのを見ました。

爾時，佛告諸大眾言：「一切眾生為阿耨多羅三藐三菩提近因緣者，莫先善友。何以故？阿闍世王若不隨順耆婆語者，來月七日必定命終墮阿鼻獄。是故，近因莫若善友。」

> そのとき、仏は大衆に告げて言われた。「すべての衆生にとって、阿耨多羅三藐三菩提を成就するための身近な縁として、善き友に勝るものはない。なぜならば、阿闍世王がもし耆婆の言葉に従わなかったならば、来月七日には必ず命を終えて阿鼻地獄に堕ちていたであろう。それゆえ、最も近い縁は善き友に如くものはないのである。」

阿闍世王復於前路聞舍婆提毘流離王乘船入海，遇火而死；瞿伽離比丘生身入地至阿鼻獄；須那剎多作種種惡，到於佛所眾罪得滅。聞是語已，語耆婆言：「吾今雖聞如是二言，猶未審定。汝來，耆婆！吾欲與汝同載一象。設我當入阿鼻地獄，冀汝捉持，不令我墮。何以故？吾昔曾聞得道之人不入地獄。」

> 阿闍世王はまた、道中で次のように聞いた。舍婆提の毘流離王は船に乗って海に入り、火に遭って死んだということ。瞿伽離比丘は生きたまま地中に入って阿鼻地獄に至ったということ。須那剎多はさまざまな悪を行ったが、仏のもとに至って多くの罪が滅びたということ。これらの話を聞いて、耆婆にこう言った。「私は今、この二つの話を聞いたが、まだはっきりと確信できない。耆婆よ、来なさい。私はあなたと一頭の象に同乗したい。もし私が阿鼻地獄に落ちることになっても、あなたに支えてもらい、私を堕ちさせないでほしい。なぜかというと、私はかつて道を得た人は地獄に入らないと聞いたからだ。」

爾時，佛告諸大眾言：「阿闍世王猶有疑心，我今當為作決定心。」

> そのとき、仏は大衆に告げられた。「阿闍世王にはまだ疑いの心がある。私が今、彼のために心を決定づけてあげよう。」

爾時，會中有一菩薩名持一切，白佛言：「世尊！如佛先說：『一切諸法皆無定相，所謂色無定相乃至涅槃亦無定相。』如來今者云何而言為阿闍世作決定心？」

> そのとき、集まった人々の中に「持一切（じせつ）」という名の菩薩がいて、仏にこう申し上げました。「世尊よ、仏は以前こうお説きになりました。『すべてのものごとには決まった姿というものがない。色（肉体や物質）にも決まった姿はなく、涅槃にさえも決まった姿はない』と。それなのに、如来であるあなたは今、どうして阿闍世（あじゃせ）のために『心を決める』とおっしゃるのですか。」

佛言：「善哉，善哉。善男子！我今定為阿闍世王作決定心。何以故？若王疑心可破壞者，當知諸法無有定相。是故，我為阿闍世王作決定心，當知是心為無決定。善男子！若彼王心是決定者，王之逆罪云何可壞？以無定相，其罪可壞。是故，我為阿闍世王作決定心。」

> 仏がおっしゃいました。「善いかな、善いかな。善男子よ。私は今、阿闍世王のために、揺るがない心を定めよう。なぜかといえば、もし王の疑いの心が打ち消せるものならば、すべてのものごとには決まった姿などないと知るべきである。それゆえ、私は阿闍世王のために揺るがない心を定めるのだが、この心こそ決まったものではないと知るべきである。善男子よ。もしあの王の心が決まったものであるなら、王の逆罪はどうして消え去ることがあろうか。決まった姿がないからこそ、その罪は消え去ることができるのである。それゆえ、私は阿闍世王のために揺るがない心を定めるのだ。」

爾時，大王即到娑羅雙樹間，至於佛所，仰瞻如來三十二相、八十種好，猶如微妙真金之山。

> そのとき、大王はただちに娑羅双樹の間へと赴き、仏のもとへ参りました。如来の三十二の相と八十の好を仰ぎ見ると、それはまるで微妙に輝く真金の山のようでありました。

爾時，世尊出八種聲告言：「大王！」

> そのとき、仏陀は八つのすぐれた声を出してこう告げられました。「大王よ。」

時阿闍世左右顧視：「此大眾中誰為大王？我既罪逆，又無福德，如來不應稱為大王。」

> そのとき、阿闍世は左右を見回して言った。「この大衆の中で、誰が大王なのか。私は罪深い逆罪を犯し、福徳もない。如来を大王と呼ぶべきではない。」

爾時，如來即復喚言：「阿闍世大王！」

> そのとき、如来はふたたび呼びかけられた。「阿闍世大王よ。」

時王聞已，心大歡喜，即作是言：「如來今日顧命語言，真知如來於諸眾生大悲憐愍，等無差別。」白佛言：「世尊！我今疑心永無遺餘，定知如來真是眾生無上大師。」

> そこで王はこの言葉を聞くと、たいそう喜び、こう言いました。「如来が今日、私にお言葉をかけてくださった。これで、如来がすべての生きとし生けるものに対して、大きな慈悲と哀れみを平等に注いでおられることが、よくわかりました。」そして、仏に申し上げました。「世尊よ。私の疑いは今、すっかり消え去り、何も残っておりません。如来こそ、まさに生きとし生けるものの、この上ない師であると確信いたしました。」

爾時，迦葉菩薩語持一切菩薩言：「如來已為阿闍世王作決定心。」

> そのとき、迦葉菩薩は持一切菩薩にこう言いました。「如来はすでに阿闍世王のために、揺るぎない心をお定めになった。」

爾時，阿闍世王即白佛言：「世尊！假使我今得與梵王釋提桓因坐起飲食，猶不欣悅；得遇如來一言顧命，深以欣慶。」爾時，阿闍世王即以所持幡蓋、香花、伎樂供養，前禮佛足，右繞三匝。禮敬畢已，却坐一面。

> そのとき、阿闍世王はすぐに仏に申し上げました。「世尊よ、たとえ私が今、梵王や帝釈天と一緒に座り食事を共にできたとしても、決して嬉しくは思いません。しかし、如来からひと言でもお言葉をいただけたなら、心から喜ばしく思います。」そのとき、阿闍世王は持っていた幡や蓋、香や花、音楽を供養として捧げ、仏の足を礼拝し、右に三度回りました。礼拝が終わると、少し離れた場所に座りました。

爾時，佛告阿闍世王言：「大王！今當為汝說正法要，汝當一心諦聽諦聽。凡夫常當繫心觀身有二十事：一、謂我此身中空、無無漏；二、無諸善根本；三、我此生死未得調順；四、墮墜深坑，無處不畏；五、以何方便得見佛性？六、云何修定得見佛性？七、生死常苦，無常、我、淨；八、八難之難難得遠離；九、恒為怨家之所追逐；十、無有一法能遮諸有；十一、於三惡趣未得解脫；十二、具足種種諸惡邪見；十三、亦未造立渡五逆津；十四、生死無際，未得其邊；十五、不作諸業不得果報；十六、無有我作他人受果；十七、不作樂因，終無樂果；十八、若有造業，果終不失；十九、因無明生，亦因而死；二十、去、來、現在常行放逸。

> そのとき、仏は阿闍世王に告げて言われた。「大王よ、今あなたのために正しい法の要点を説きましょう。よく心を一つにして、注意深く聞きなさい。凡夫は常に心を集中して、自分の身体について二十のことを観察すべきです。 一、このわが身は空であって、無漏ではないこと。 二、諸々の善根がないこと。 三、この生死はまだ調えられていないこと。 四、深い穴に落ちて、恐れない場所がないこと。 五、どのような方法で仏性を見ることができるのか。 六、どう修行して定を得れば、仏性を見ることができるのか。 七、生死は常に苦であり、無常・無我・不浄であること。 八、八難の難から遠く離れることは難しいこと。 九、常に怨敵に追い求められていること。 十、いかなる法も諸々の生存を遮ることができないこと。 十一、三悪道からまだ解脱していないこと。 十二、さまざまな悪しき邪見を具えていること。 十三、五逆を渡る渡し場もまだ造っていないこと。 十四、生死は際限がなく、その果てを得ていないこと。 十五、業を造らなければ果報を得ないこと。 十六、私が造った業を他人が受けることはないこと。 十七、楽の因を造らなければ、ついに楽の果はないこと。 十八、もし業を造れば、その果はついに失われないこと。 十九、無明によって生まれ、また無明によって死ぬこと。 二十、過去・未来・現在において、常に放逸にふるまっていること。

「大王！凡夫之人常於此身當作如是二十種觀。作是觀已，不樂生死；不樂生死，則得止觀。爾時次第觀心生相、住相、滅相。次第觀心生、住、滅相，定、慧、進、戒亦復如是。觀生、住、滅已，知心相乃至戒相，終不作惡，無有死畏、三惡道畏。若不繫心觀察如是二十事者，心則放逸，無惡不造。」

> 大王よ、凡夫は常にこの身について、次の二十種類の観察を行うべきです。この観察を終えると、生死を楽しみに思わなくなります。生死を楽しみに思わなくなれば、止と観を得ます。そのとき、心の生じる相、とどまる相、滅する相を順に観ます。心の生・住・滅の相を順に観るように、定・慧・進・戒についても同じです。生・住・滅を観終わると、心の相から戒の相に至るまでを知り、決して悪を行わず、死の恐れも、三悪道の恐れもなくなります。もし心を繋ぎとめてこの二十の事柄を観察しなければ、心は放逸になり、悪を行わないことはありません。

阿闍世言：「如我解佛所說義者，我從昔來初未曾觀是二十事，故造眾惡。造眾惡故，則有死畏、三惡道畏。世尊！自我招殃，造茲重惡，父王無辜，橫加逆害。是二十事設觀、不觀，必定當墮阿鼻地獄。」

> 阿闍世が申しました。「私が仏の説かれた意味を理解するかぎり、私はこれまでずっと、この二十のことをよく見つめてきませんでした。だからこそ、さまざまな悪を行ってきたのです。悪を行えば、死の恐れがあり、三悪道に堕ちる恐れがあります。世尊よ、私が自ら災いを招き、この重い悪を犯しました。父王は何の罪もないのに、理不尽にも殺害してしまいました。この二十のことを見ようと見まいと、私は必ず阿鼻地獄に堕ちるにちがいありません。」

佛告大王：「一切諸法性相無常、無有決定，王云何言必定當墮阿鼻地獄？」

> 仏は大王に告げられました。「すべてのものは無常であり、決まった形はありません。大王よ、どうして必ず阿鼻地獄に堕ちると言えるのでしょうか。」

阿闍世王白佛言：「世尊！若一切法無定相者，我之殺罪亦應不定。若殺定者，一切諸法則非不定。」

> 阿闍世王が仏に申し上げました。「世尊、もしすべての法に定まった姿がないのなら、私が犯した殺しの罪もまた定まったものではないはずです。もし殺しが定まったものであるなら、すべての法は定まっていないということにはならないでしょう。」

佛言：「大王！善哉，善哉。諸佛世尊說一切法悉無定相，王復能知殺亦不定。是故當知：殺無定相。

> 仏がおっしゃいました。「大王よ、よくぞ問われました。諸仏世尊は、すべてのものごとには決まった形はないと説かれます。大王はまた、殺すことにも決まった形はないとお気づきになりました。ですから、こう知るべきです。殺すことにも決まった形はないのだと。」

「大王！如汝所言：『父王無辜，橫加逆害。』者，何者是父？但於假名眾生五陰妄生父想。於十二入、十八界中，何者是父？若色是父，四陰應非；若四是父，色亦應非。若色、非色合為父者，無有是處。何以故？色與非色性無合故。大王！凡夫眾生於是色陰妄生父想，如是色陰亦不可害。何以故？色有十種。是十種中，唯色一種可見、可持，可稱、可量，可牽、可縛。雖可見、縛，其性不住。以不住故，不可得見、不可捉持、不可稱量、不可牽縛。色相如是，云何可殺？若色是父，可殺、可害、獲罪報者，餘九應非；若九非者，則應無罪。

> 大王！あなたがおっしゃるには、『父である王は罪もないのに、理不尽に逆害された』と。しかし、そもそも何が父なのでしょうか。ただ仮の名としての衆生、五陰に対して、誤って父という想いを生じているにすぎません。十二入、十八界の中で、どれが父なのでしょうか。もし色が父であるなら、残りの四つの陰は父ではないことになります。もし四つの陰が父であるなら、色もまた父ではないことになります。色と非色が合わさって父となるというのは、ありえません。なぜなら、色と非色はその本性上、合一しないからです。大王！凡夫の衆生はこの色陰に対して誤って父という想いを生じますが、その色陰もまた害することはできません。なぜなら、色には十種あります。この十種の中で、ただ色という一種だけが、見ることができ、持つことができ、称えることができ、量ることができ、引くことができ、縛ることができます。しかし見たり縛ったりできても、その本性はとどまることがありません。とどまらないがゆえに、見ることもできず、捉えることもできず、量ることもできず、引くことも縛ることもできません。色のありようがこのようであるのに、どうして殺すことができましょうか。もし色が父であって、殺すことができ、害することができ、罪の報いを得るというのなら、残りの九種は父ではないことになります。もし九種が父でないのなら、罪はないはずです。

「大王！色有三種：過去、未來、現在。過去、現在則不可害。何以故？過去過去故，現在念念滅故。遮未來故，名之為殺。如是一色，或有可殺、或不可殺。有殺、不殺，色則不定。若色不定，殺亦不定；殺不定故，報亦不定。云何說言定入地獄？

> 大王よ、色には三つの種類があります。過去、未来、現在です。過去と現在は害することができません。なぜでしょうか。過去はすでに過去となったからであり、現在は念念に滅していくからです。未来を遮ることを、殺と呼びます。このように一つの色に、殺せるものもあれば、殺せないものもあります。殺すことと殺さないことがあるため、色は定まっていません。色が定まらないなら、殺もまた定まりません。殺が定まらないゆえに、報いもまた定まりません。どうして「必ず地獄に堕ちる」と言えるでしょうか。

「大王！一切眾生所作罪業凡有二種：一者、輕，二者、重。若心、口作，則名為輕；身、口、心作，則名為重。大王！心念、口說、身不作者，所得報輕。

> 大王よ、すべての生きとし生けるものが作る罪には、二つの種類があります。一つは軽い罪、二つは重い罪です。心と口で作るなら、それは軽い罪と呼ばれます。身と口と心で作るなら、それは重い罪と呼ばれます。大王よ、心に思い、口で語っても、身で行わなければ、受ける報いは軽いのです。

「大王！昔日口不勅殺，但言刖足。大王！若勅侍臣立斬王首，坐時乃斬猶不得罪，況王不勅，云何得罪？王若得罪，諸佛世尊亦應得罪。何以故？汝父先王頻婆娑羅曾於諸佛種諸善根，是故今日得居王位。諸佛若不受其供養，則不為王；若不為王，汝則不得為國生害。若汝殺父當有罪者，我等諸佛亦應有罪。若諸佛世尊無得罪者，汝獨云何而得罪耶？

> 大王よ、昔、口で殺せと命じないで、ただ足を切れと言っただけです。大王よ、もし侍臣に命じて王の首をすぐに斬らせたとしても、座っている時に斬ったのなら、まだ罪にはなりません。ましてや王が命じていないのに、どうして罪になりましょうか。もし王に罪があるなら、諸仏世尊にも罪があるはずです。なぜなら、あなたの父である先王頻婆娑羅は、かつて諸仏に善根を植えたので、今日、王位に就くことができたのです。もし諸仏がその供養を受けなければ、王にはなれませんでした。もし王でなければ、あなたは国に害を生じさせることもできなかったでしょう。もしあなたが父を殺したことに罪があるなら、私たち諸仏にも罪があるはずです。もし諸仏世尊に罪がないのなら、あなただけがどうして罪を得るのでしょうか。

「大王！頻婆娑羅往有惡心，於毘富羅山遊行獵鹿，周遍壙野悉無所得，唯見一仙五通具足。見已，即生瞋恚惡心：『我今遊獵所以不得，正坐此人。』驅逐令去，即勅左右而令殺之。其人臨終生瞋惡心，退失神通而作誓言：『我實無辜，汝以心、口橫加戮害。我於來世亦當如是，還以心、口而害於汝。』時王聞已，即生悔心，供養死屍。是王如是尚得輕受，不墮地獄。況王不爾而當地獄受果報耶？先王自作還自受之，云何令王而得殺罪？

> 大王よ、頻婆娑羅王はかつて悪い心を抱き、毘富羅山で鹿を狩りに出かけました。しかし、野原をくまなく探しても何も得られず、ただ五つの神通を備えた一人の仙人を見つけただけでした。それを見て、王はすぐに怒りの悪心を起こしました。「私が狩りをしても獲物が得られないのは、この者のせいだ。」と。そして、その仙人を追い払い、すぐに側近に命じて殺させました。その人は死ぬ間際に怒りの悪心を起こし、神通力を失ってこう誓いました。「私は本当に無実なのに、あなたは心と口で理不尽に殺した。来世では私も同じように、心と口であなたを害してやる。」王はこれを聞いてすぐに後悔の心を起こし、死体を供養しました。この王はこのようにしてなお軽く報いを受けるだけで、地獄に堕ちることはありませんでした。ましてや、王がそうでなければ地獄に堕ちて果報を受けるでしょうか。先の王が自ら行ったことは自らが受けるのです。どうして王に殺人の罪があると言えるでしょうか。

「如王所言：『父王無辜』者，大王云何言無？夫有罪者則有罪報，無惡業者則無罪報。汝父先王若無辜，罪云何有報？頻婆娑羅於現世中亦得善果及以惡果，是故，先王亦復不定；以不定故，殺亦不定；殺不定故，云何而言定入地獄？

> 王がおっしゃる『父王は無実だ』という言葉について、大王よ、どうして無実と言えるのでしょうか。罪を犯した者には必ず罪の報いがあり、悪業のない者には罪の報いはありません。あなたの父である先王がもし無実であるなら、どうして罪の報いがあるでしょうか。頻婆娑羅は現世においても善い結果と悪い結果の両方を受けました。ですから、先王もまた定まった存在ではありません。定まっていないからこそ、殺すこともまた定まってはいません。殺すことが定まっていないのなら、どうして必ず地獄に堕ちると言えるでしょうか。

「大王！眾生狂惑凡有四種：一者、貪狂，二者、藥狂，三者、呪狂，四者、本業緣狂。大王！我弟子中有是四狂，雖多作惡，我終不記是人犯戒。是人所作不至三惡，若還得心亦不言犯。王本貪國，逆害父王。貪狂心作，云何得罪？

> 大王よ、衆生が心を狂わせる原因は四つあります。一つには貪りによる狂い、二つには薬による狂い、三つには呪いによる狂い、四つには過去の業の縁による狂いです。大王よ、私の弟子たちの中にもこの四つの狂いにとらわれた者はいますが、たとえ多くの悪を行ったとしても、私はその人を戒を犯した者とは決して申しません。その人の行いは三悪道に至ることはなく、もし正気を取り戻せば、戒を犯したとも申しません。大王はもともと国を貪る心から、父王を逆害されました。貪りの狂った心による行いで、どうして罪を得ることがありましょうか。

「大王！如人酒醉，逆害其母。既醒寤已，心生悔恨。當知是業亦不得報。王今貪醉，非本心作。若非本心，云何得罪？

> 大王よ、人が酒に酔って、母に逆らって害したとします。しかし酔いが覚めた後、心に悔恨が生じます。このような業も、果報を得ることはないと知るべきです。王は今、貪りに酔っていますが、本来の心で行ったのではありません。本来の心でないのなら、どうして罪を得ることがありましょうか。

「大王！譬如幻師，四衢道頭幻作種種男、女、象、馬、瓔珞、衣服。愚癡之人謂為真實，有智之人知非真有。殺亦如是，凡夫謂實，諸佛世尊知其非真。

> 大王よ、たとえば幻術師が四つ辻でさまざまな男や女、象や馬、宝石の飾りや衣服を幻として作り出すとします。愚かな人はそれを本当だと思い、賢い人は本当ではないと知っています。殺すことも同じです。凡夫は本当だと思い、仏陀（諸仏世尊）はそれが本当ではないとご存じです。

「大王！譬如山間響聲，愚癡之人謂之實聲，有智之人知其非真。殺亦如是，凡夫謂實，諸佛世尊知其非真。

> 大王よ、たとえば山のこだまのようなものです。愚かな人はそれを本当の声だと思いますが、知恵のある人はそれが真実でないと知っています。殺すことも同じです。凡夫はそれを実在だととらえますが、諸仏世尊はそれが真実でないとご存じなのです。

「大王！如人有怨，詐來親附。愚癡之人謂為實親，智者了達乃知虛詐。殺亦如是，凡夫謂實，諸佛世尊知其非真。

> 大王よ、人の敵が親しげに近づいてくるようなものです。愚かな人はそれを本当の友だちだと思い込みますが、賢い人はそれが偽りだと見抜きます。殺すことも同じです。普通の人はそれを real だと考えるけれど、諸仏世尊はそれが真実ではないと知っておられます。

「大王！如人執鏡自見面像，愚癡之人謂為真面，智者了達知其非真。殺亦如是，凡夫謂實，諸佛世尊知其非真。

> 大王よ、鏡を持って自分の顔を映すとき、愚かな人はそれを本当の顔だと思い込み、賢い人はそれが本当の顔ではないと理解しています。殺すことも同じです。凡夫はそれを実在だととらえ、諸仏世尊はそれが実在ではないとご存知なのです。

「大王！如熱時炎，愚癡之人謂之是水，智者了達知其非水。殺亦如是，凡夫謂實，諸佛世尊知其非真。

> 大王よ、陽炎のように、愚かな人はそれを水だと思い、賢い人は水ではないと見抜きます。殺すことも同じです。凡夫は実在すると考えますが、諸仏世尊はそれが真実ではないとご存じです。

「大王！如乾闥婆城，愚癡之人謂為真實，智者了達知其非真。殺亦如是，凡夫謂實，諸佛世尊知其非真。

> 大王よ、乾闥婆城のように、愚かな人はそれを実在だと信じますが、智慧ある人はそれが本当ではないと見抜きます。殺すことも同じです。凡夫は実在だととらえますが、諸仏世尊はそれが本当ではないとご存じです。

「大王！如人夢中受五欲樂，愚癡之人謂之為實，智者了達知其非真。殺亦如是，凡夫謂實，諸佛世尊知其非真。

> 大王よ、人が夢の中で五つの欲望の楽しみを受けるとき、愚かな人はそれを現実だと思い、賢い人はそれが真実でないと悟ります。殺すことも同じです。凡夫はそれを現実だと思い、諸仏世尊はそれが真実でないとご存じなのです。

「大王！殺法、殺業、殺者、殺果及以解脫，我皆了之，則無有罪。王雖知殺，云何有罪？

> 「大王よ、殺すという法、殺すという業、殺す者、殺す結果、そして解脱について、私はすべてを理解しています。そこには罪はありません。王が殺すことを知っていても、どうして罪があるでしょうか。

「大王！譬如有人主知典酒，如其不飲則亦不醉；雖復知火，亦不燒燃。王亦如是，雖復知殺，云何有罪？

> 大王よ、たとえば酒の管理を任された人がいて、その人が酒を飲まなければ酔うこともありません。火を知っていても、実際に焼かれることもありません。大王も同じです。殺すことを知っていても、どうして罪があるでしょうか。

「大王！有諸眾生於日出時作種種罪，於月出時復行劫盜，日、月不出則不作罪。雖因日、月令其作罪，然此日、月實不得罪。殺亦如是，雖復因王，王實無罪。

> 大王よ、多くの人々は日の出のときにさまざまな罪を犯し、月の出るときにもまた盗みを働きますが、日や月が昇らなければ罪を犯すことはありません。日や月が原因で罪を犯すことになっても、その日や月そのものに罪があるわけではありません。殺しについても同じです。たとえ王が原因であっても、王そのものに罪があるわけではありません。

「大王！如王宮中常勅屠羊，心初無懼，云何於父獨生懼心？雖復人畜尊卑差別，寶命重死，二俱無異。何故於羊心輕無懼，於父先王生重憂苦？大王！世間之人是愛僮僕，不得自在，為愛所使而行殺害。設有果報，乃是愛罪。王不自在，當有何咎？

> 「大王よ、王宮でいつも羊を屠るよう命じられても、心に少しも恐れが生じないのに、どうして父に対してだけ恐れの心が生じるのですか。人と畜獣には尊卑の差があっても、命の尊さと死の重さにおいては、両者に違いはありません。なぜ羊には心が軽く恐れもないのに、父である先王には重い憂いと苦しみを生じるのですか。大王よ、世間の人々は愛に仕える僕であり、自由になれず、愛に使われて殺害を行います。たとえ果報があるとしても、それは愛の罪なのです。王が自由になれないのなら、どんな咎がありましょうか。」

「大王！譬如涅槃，非有、非無，而亦是有。殺亦如是，雖非有、無，而亦是有。慚愧之人則為非有，無慚愧者則為非無。受果報者名之為有，空見之人則為非有。有見之人則為非無，有有見者亦名為有。何以故？有有見者得果報故，無有見者則無果報。常見之人則為非無，無常見者則為非有，常常見者不得為無。何以故？常常見者有惡業果故，是故常常見者不得為無。以是義故，雖非有、無，而亦是有。

> 大王よ、たとえば涅槃は、有でもなく無でもありませんが、また有でもあります。殺すことも同じです。有でも無でもありませんが、また有でもあります。慚愧の心のある人は有ではなく、慚愧の心のない人は無でもありません。果報を受ける人は有といい、空の見解を持つ人は有ではありません。有の見解を持つ人は無ではなく、有の見解を持つ人もまた有といいます。なぜでしょうか。有の見解を持つ人は果報を得るからです。有の見解のない人は果報がありません。常見の人は無ではなく、無常見の人は有ではありません。常常見の人は無であるはずがありません。なぜでしょうか。常常見の人は悪業の果を受けるからです。それゆえ常常見の人は無であるはずがありません。この意味によって、有でも無でもありませんが、また有でもあるのです。

「大王！夫眾生者，名出入息。斷出入息，故名為殺，諸佛隨俗亦說為殺。

> 大王よ、生きとし生けるものとは、すなわち出入りの息のことです。出入りの息を断つことを殺すと呼び、諸仏も世間の慣わしに従って殺すとおっしゃるのです。

「大王！色是無常，色之因緣亦是無常。從無常因生，色云何常？乃至識是無常，識之因緣亦是無常。從無常因生，識云何常？以無常故苦，以苦故空，以空故無我。若是無常、苦、空、無我，為何所殺？殺無常者得常涅槃，殺苦得樂，殺空得實，殺於無我而得真我。大王！若殺無常苦、空、無我者，則與我同。我亦殺於無常苦、空、無我，不入地獄。汝云何入？」

> 大王よ、色は無常であり、色の原因と条件もまた無常です。無常の原因から生じたものが、どうして常でありえましょうか。同じく、識も無常であり、識の原因と条件もまた無常です。無常の原因から生じたものが、どうして常でありえましょうか。無常であるがゆえに苦であり、苦であるがゆえに空であり、空であるがゆえに無我です。もしそれが無常・苦・空・無我であるなら、いったい何を殺すというのでしょう。無常を殺せば常の涅槃を得、苦を殺せば楽を得、空を殺せば実を得、無我を殺せば真我を得るのです。大王よ、もし無常・苦・空・無我を殺すなら、それは私と同じです。私もまた無常・苦・空・無我を殺しており、地獄に堕ちません。あなたはどうして地獄に堕ちるのでしょう。

爾時，阿闍世王如佛所說觀色乃至觀識。

> そのとき、阿闍世王は、仏が説かれたとおりに、色を観じ、識に至るまで観じた。

作是觀已，即白佛言：「世尊！我今始知色是無常乃至識是無常。我本若能如是知者，則不作罪。

> こう観じてから、仏に申し上げた。「世尊よ、私は今はじめて、色は無常であり、識に至るまで無常であることを知りました。もし私がもともとこのように知ることができていたなら、罪を犯すことはなかったでしょう。」

「世尊！我昔曾聞諸佛世尊常為眾生而作父母，雖聞是語猶未審定，今則定知。

> 「世尊！私は以前、諸仏世尊は常に衆生の父母となってくださると伺ったことがありますが、その言葉を聞いてもまだはっきりと確信できませんでした。しかし今、確かに知ることができました。」

「世尊！我亦曾聞須彌山王四寶所成——所謂金、銀、琉璃、頗梨——若有眾鳥，隨所集處則同其色。雖聞是言亦不審定。我今來至佛須彌山則與同色，與同色者則知諸法無常苦、空、無我。

> 「世尊！私もかつて、須弥山王は四つの宝でできていると聞いたことがあります。金、銀、瑠璃、水晶の四つです。そこにいる鳥たちは、集まった場所に応じてその色と同じになるといいます。その言葉を聞いても、まだはっきりとは分かりませんでした。しかし今、私は仏という須弥山に来て、同じ色になりました。同じ色になるということは、すなわち、すべてのものは無常であり、苦であり、空であり、無我であると知ることなのです。」

「世尊！我見世間從𦭽蘭子生𦭽蘭樹，不見𦭽蘭生栴檀樹。我今始見從𦭽蘭子生栴檀樹——𦭽蘭子者，我身是也；栴檀樹者，即是我心無根信也。無根者，我初不知恭敬如來，不信法、僧，是名無根。

> 「世尊！私は、世間では𦭽蘭の種から𦭽蘭の木が生じるのを見ておりましたが、𦭽蘭から栴檀の木が生じるのを見たことはありませんでした。しかし今日、はじめて𦭽蘭の種から栴檀の木が生じるのを見ました。𦭽蘭の種とは、この私の身のことです。栴檀の木とは、私の心に起こった根のない信のことです。根がないとは、私がはじめは如来を敬うことを知らず、法や僧を信じなかったことを、根がないと申すのです。

「世尊！我若不遇如來、世尊，當於無量阿僧祇劫在大地獄受無量苦。我今見佛，以是見佛所得功德，破壞眾生所有一切煩惱惡心。」

> 「世尊よ、もし私が如来・世尊にお会いできなかったなら、無量阿僧祇劫のあいだ、大地獄で無量の苦しみを受けることになったでしょう。しかし、私は今、仏にお会いしました。この仏にお会いしたことで得た功徳によって、すべての衆生の煩悩と悪しき心が打ち砕かれます。」

佛言：「大王！善哉，善哉。我今知汝必能破壞眾生惡心。」

> 仏がおっしゃいました。「大王よ、よくぞ申された。あなたがきっと人々の悪い心を打ち砕くことができると、私にはわかっています。」

「世尊！若我審能破壞眾生諸惡心者，使我常在阿鼻地獄，無量劫中為諸眾生受大苦惱不以為苦。」

> 世尊。もし私が本当にすべての生きとし生けるものの悪い心を打ち砕くことができるのなら、私をいつも阿鼻地獄に置いてください。数えきれないほどの長い年月、すべての生きとし生けるもののために大きな苦しみを受けても、苦しいとは思いません。

爾時，摩伽陀國無量人民悉發阿耨多羅三藐三菩提心。以如是等無量人民發大心故，阿闍世王所有重罪即得微薄。王、及夫人、後宮婇女悉皆同發阿耨多羅三藐三菩提心。

> そのとき、摩伽陀国の無数の人々が、みな菩提心を起こしました。これほど多くの人々が大きな心を起こしたため、阿闍世王の重い罪もたちまち軽くなりました。王も、夫人も、後宮の女官たちも、みな同じく菩提心を起こしました。

爾時，阿闍世王語耆婆言：「耆婆！我今未死已得天身、捨於短命而得長命、捨無常身而得常身，令諸眾生發阿耨多羅三藐三菩提心即是天身、長命、常身，即是一切諸佛弟子。」

> そのとき、阿闍世王は耆婆にこう言いました。「耆婆よ、私は今、まだ死んでいないのにすでに天の身を得た。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて常の身を得たのだ。すべての衆生に阿耨多羅三藐三菩提の心を起こさせること、これこそが天の身であり、長い命であり、常の身なのである。すなわち、これはすべての仏の弟子なのである。」

說是語已，即以種種寶幢、幡蓋、香花、瓔珞、微妙伎樂而供養佛。復以偈頌而讚歎言：

> こう説き終えると、さまざまな宝の幢や幡蓋、香花、瓔珞、微妙な伎楽をもって仏を供養しました。さらに偈頌をもってこう讃歎しました。

「實語甚微妙， 善巧於句義，甚深祕密藏， 為眾故顯示。所有廣博言， 為眾故略說，具足如是語， 善能療眾生。若有諸眾生， 得聞是語者，若信及不信， 定知是佛說。諸佛常軟言， 為眾故說麁，麁語及軟語， 皆歸第一義；是故我今者， 歸依於世尊。如來語一味， 猶如大海水，是名第一諦， 故無無義語。如來今所說， 種種無量法，男、女、大、小聞， 同獲第一義。無因亦無果， 無生及無滅，是名大涅槃， 聞者破諸結。如來為一切， 常作慈父母，當知諸眾生， 皆是如來子。世尊大慈悲， 為眾故苦行，如人著鬼魅， 狂亂多所作。我今得見佛， 所得三業善，願以此功德， 迴向無上道。我今所供養， 佛、法及眾僧，願以此功德， 三寶常在世。我今所當得， 種種諸功德，願以此破壞， 眾生四種魔。我遇惡知識， 造作三世罪，今於佛前悔， 願後更莫造。願諸眾生等， 悉發菩提心，繫心常思念， 十方一切佛。復願諸眾生， 永破諸煩惱，了了見佛性， 猶如妙德等。」

> 真実の言葉は、とても繊細で奥深く、 句の意味を巧みに説いています。 非常に深い秘密の教えも、 多くの人々のために示してくださいます。 すべての広く豊かな言葉を、 多くの人のために簡潔に説かれました。 このような言葉を完全に備えた方は、 生きとし生けるものをよく癒やしてくださいます。 ある人々が、 この言葉を聞くことができたなら、 信じる人も信じない人も、 きっとこれが仏の説かれた教えだと知るでしょう。 諸仏はいつも穏やかな言葉を使い、 多くの人のために粗い言葉も説かれます。 粗い言葉も穏やかな言葉も、 すべて究極の真理に帰着します。 ですから、私今、 世尊に帰依いたします。 如来の言葉は一つの味わいで、 まるで大海の水のようです。 これを第一の真理と名づけます。 ですから、意味のない言葉はありません。 如来が今説かれた、 さまざまな無量の教えを、 男も女も、大人も子どもも聞いて、 同じく究極の真理を得ます。 原因もなく、結果もなく、 生まれることもなく、滅することもない。 これを大いなる涅槃と名づけます。 聞く人はすべての束縛を打ち破ります。 如来はすべての人のために、 いつも慈しみの父母となってくださいます。 知るべきです。すべての生きとし生けるものは、 みな如来の子であることを。 世尊は大いなる慈悲をもって、 人々のために苦しい修行をされました。 まるで人が悪霊に取りつかれ、 狂い乱れて多くのことをするかのように。 私今、仏にお会いでき、 身・口・意の三つの行いの善きものを得ました。 この功德をどうか、 無上の道に振り向けますように。 私今、お供えしたものは、 仏と法と僧侶たちです。 この功德をどうか、 三宝がいつまでも世にありますように。 私今、これから得るであろう、 さまざまな功德をどうか、 生きとし生けるものの四つの魔を打ち破るために使えますように。 私が悪い友に出会い、 過去・現在・未来の罪を造ってきました。 今、仏の前で懺悔します。 どうか今後、二度と造りませんように。 どうかすべての生きとし生けるものが、 みな菩提心を起こし、 心をつなぎとめて常に思いを向けますように、 十方のすべての仏に。 さらに願います、すべての生きとし生けるものが、 永遠にすべての煩悩を打ち破り、 はっきりと仏性を見ることができますように、 妙徳菩薩のように。

爾時，世尊讚阿闍世王：「善哉，善哉。若有人能發菩提心，當知是人則為莊嚴諸佛大眾。大王！汝昔已於毘婆尸佛初發阿耨多羅三藐三菩提心，從是已來至我出世，於其中間未曾墮於地獄受苦。大王當知：菩提之心乃有如是無量果報。大王！從今已往常當勤修菩提之心。何以故？從是因緣當得消滅無量惡故。」

> そのとき、世尊は阿闍世王をほめて言われました。「善いかな、善いかな。もし菩提心を起こす人があれば、その人は諸仏の大衆を荘厳する者であると知るべきです。大王よ、あなたは昔、毘婆尸仏のもとで初めて阿耨多羅三藐三菩提の心を起こしました。それ以来、私がこの世に出現するまでの間、あなたは一度も地獄に堕ちて苦しむことはありませんでした。大王よ、知るべきです。菩提の心には、このような無量の果報があるのです。大王よ、今から後は、常に菩提の心を勤めて修めなさい。なぜなら、この因縁によって無量の悪を消し滅ぼすことができるからです。」

爾時，阿闍世王及摩伽陀舉國人民從座而起，繞佛三匝，辭退還宮。

> そのとき、阿闍世王と摩伽陀国のすべての人々は座から立ち上がり、仏の周りを三度回ってから、辞去して宮殿へ帰っていきました。

天行品者如《雜花》說。

> 天行品については、『雑花』に説かれているとおりです。

### 大般涅槃經嬰兒行品第二十一

> 大般涅槃経 嬰児行品 第二十一

「善男子！云何名嬰兒行？善男子！不能起、住、來、去、語言，是名嬰兒。如來亦爾，不能起者，如來終不起諸法相；不能住者，如來不著一切諸法；不能來者，如來身行無有動搖；不能去者，如來已到大般涅槃；不能語者，如來雖為一切眾生演說諸法，實無所說。何以故？有所說者，名有為法；如來世尊非是有為，是故無說。又，無語者，猶如嬰兒言語未了，雖復有語，實亦無語。如來亦爾，語未了者即是諸佛祕密之言。雖有所說，眾生不解，故名無語。

> 善男子よ、何を嬰児行（ようじぎょう）というのか。善男子よ、起きることも、とどまることも、来ることも、去ることも、語ることもできない、これを嬰児という。如来もまた同じである。起きることができないとは、如来はけっして諸法の相を起こさないということ。とどまることができないとは、如来は一切の諸法に執着しないということ。来ることができないとは、如来の身の行いに動揺がないということ。去ることができないとは、如来はすでに大般涅槃に到達しているということ。語ることができないとは、如来はすべての衆生のために諸法を説いても、実に説くところがないということ。なぜか。説くところがあるものは、これを有為法という。如来世尊は有為ではない。それゆえ説くことがない。また、語ることがないとは、ちょうど嬰児が言葉をまだ十分に話せないようなもので、たとえ語ることがあっても、実に語ることがないのと同じである。如来もまた同じである。言葉がまだ十分でないとは、すなわち諸仏の秘密の言葉である。説くところがあっても、衆生が理解しないので、語ることがないというのである。

「又，嬰兒者，名、物不一，未知正語。雖名、物不一，未知正語，非不因此而得識物。如來亦爾，一切眾生方類各異，所言不同，如來方便隨而說之，亦令一切因而得解。

> また、赤ちゃんは、名前と物事が別々であることを理解しておらず、正しい言葉も知りません。名前と物事が別々であることを理解せず、正しい言葉を知らなくても、それによって物事を認識することができるのです。如来も同じです。すべての生きとし生けるものは種類も姿もそれぞれ異なり、話す言葉も違いますが、如来は巧みな方法でそれに応じて説き、すべてのものがそれによって理解を得ることができるようにされるのです。

「又，嬰兒者，能說大字。如來亦爾，說於大字，所謂婆啝。啝者，有為；婆者，無為。是名嬰兒。啝者，名為無常；婆者，名為有常。如來說常，眾生聞已，為常法故斷於無常，是名嬰兒行。

> また、赤ん坊は大きな字を話すことができる。如来もまた同じで、大きな字を説く。いわゆる「婆啝」である。「啝」とは、有為であり、「婆」とは、無為である。これを赤ん坊と呼ぶ。「啝」とは、無常という意味であり、「婆」とは、有常という意味である。如来が常を説くと、衆生はこれを聞いて、常という法のために無常を断つ。これを赤ん坊の行いと呼ぶ。

「又，嬰兒者，不知苦、樂，晝、夜，父、母。菩薩摩訶薩亦復如是，為眾生故，不見苦、樂，無晝夜相，於諸眾生其心平等，故無父母、親踈等相。

> また、赤ん坊は、苦しみや楽しみも、昼と夜の違いも、父と母の区別も知りません。菩薩摩訶薩も同じです。衆生のためであるがゆえに、苦しみや楽しみを見ず、昼と夜の相もなく、すべての衆生に対してその心は平等であるため、父や母、親しいか疎いかといった区別の相もありません。

「又，嬰兒者，不能造作大小諸事。菩薩摩訶薩亦復如是，菩薩不造生死作業，是名不作大事。大事者，即五逆也，菩薩摩訶薩終不造作五逆重罪。小事者，即二乘心，菩薩終不退菩提心而作聲聞、辟支佛乘。

> また、嬰児は大小のさまざまなことをなすことができない。菩薩摩訶薩もまた同じである。菩薩は生死の業をなさない。これを大事をなさないという。大事とは、すなわち五逆である。菩薩摩訶薩はついに五逆の重罪をなすことはない。小事とは、すなわち二乗の心である。菩薩はついに菩提心を退いて声聞・辟支仏乗をなすことはない。

「又，嬰兒行者，如彼嬰兒啼哭之時，父母即以楊樹黃葉而語之言：『莫啼，莫啼。我與汝金。』嬰兒見已，生真金想，便止不啼，然此楊葉實非金也。木牛，木馬、木男，木女，嬰兒見已，亦復生於男、女等想，即止不啼。實非男、女，以作如是男、女想故，名曰嬰兒。如來亦爾，若有眾生欲造眾惡，如來為說三十三天常、樂、我、淨，端正自恣，於妙宮殿受五欲樂，六根所對無非是樂。眾生聞有如是樂故，心生貪樂，止不為惡，勤作三十三天善業。實是生、死，無常、無樂、無我、無淨，為度眾生方便，說言常、樂、我、淨。

> また、赤ん坊のような修行者とは、赤ん坊が泣いているとき、両親が楊の木の黄葉を渡してこう言うようなものです。「泣かないで、泣かないで。金をあげよう。」赤ん坊はそれを見て、本物の金だと思い込み、泣きやみます。しかし、この楊の葉は実際には金ではありません。木でできた牛や馬、木の男や女を見ても、赤ん坊は男や女だと思い込み、泣きやみます。実際には男や女ではないのに、そのように男や女だと思うので、赤ん坊と呼ばれるのです。 如来も同じです。もし衆生が悪を行おうとするなら、如来は彼らのために、三十三天は常であり、楽であり、我であり、浄であり、端正で自由気ままに、すばらしい宮殿で五欲の楽しみを受け、六根が触れるものはすべて楽であると説きます。衆生はそのような楽があると聞いて、心に貪りの楽しみを生じ、悪を行わず、三十三天の善業に励みます。実際にはこれは生と死であり、無常であり、無楽であり、無我であり、無浄なのですが、衆生を救うための方便として、常であり、楽であり、我であり、浄であると説くのです。

「又，嬰兒者，若有眾生厭生死時，如來則為說於二乘。然實無有二乘之實，以二乘故，知生死過，見涅槃樂。以是見故，則能自知有斷、不斷，有真、不真，有修、不修，有得、不得。

> また、幼い子どもにたとえるならば、生き死にの苦しみに疲れ果てた人々には、如来は方便として二つの乗り物（声聞と縁覚）の教えを説かれます。しかし、本当のところ二乗という実体があるわけではありません。二乗の教えによって、生き死にの過ちを知り、涅槃の安楽を見ることができるのです。そのように見ることができれば、自分自身で、断つべきものと断たなくてよいもの、真実とそうでないもの、修行すべきものとそうでないもの、得られるものと得られないものを、自然と知ることができるのです。

「善男子！如彼嬰兒於非金中而生金想；如來亦爾，於不淨中而說為淨。如來已得第一義故，則無虛妄。

> 善男子よ、たとえばあの幼子が、金ではないものの中に金だと思うように、如来もまた同じです。不浄の中にあって、それを浄であると説かれるのです。如来はすでに第一義を得ておられるので、偽りはありません。

「如彼嬰兒於非牛馬作牛馬想，若有眾生於非道中作真道想，如來亦說非道為道。非道之中實無有道，以能生道微因緣故，說非道為道。

> まるで幼い子どもが、牛でも馬でもないものを牛や馬だと思い込むようなものです。同じように、もし生きる者が本当の道ではないものを真の道だと思うなら、如来もまた、その道でないものを道だと説かれます。道でないものの中に、実は道はありません。しかし、そこから道が生まれる小さなきっかけがあるために、道でないものを道だと説かれるのです。

「如彼嬰兒於木男女生男女想；如來亦爾，知非眾生說眾生相，而實無有眾生相也。若佛如來說無眾生，一切眾生則墮邪見。是故如來說有眾生。於眾生中作眾生相者，則不能破眾生相也；若於眾生破眾生相者，是則能得大般涅槃；以得如是大涅槃故，止、不啼哭。是名嬰兒行。

> たとえば、あの赤ん坊が木で作られた男や女を見て、本当の男や女だと思うようなものです。如来も同じです。本当は生きている者などいないと知りながら、生きている者の姿を説くのです。しかし実際には、生きている者という姿など何もありません。もし仏である如来が「生きている者などいない」と説けば、すべての生きとし生けるものは間違った見方に落ちてしまいます。ですから如来は「生きている者がいる」と説くのです。生きている者の中に生きている者という姿を作る人は、生きている者という姿を打ち破ることはできません。もし生きている者について生きている者という姿を打ち破るなら、その人は大いなる涅槃を得ることができます。この大いなる涅槃を得たからこそ、泣くことをやめ、泣かないのです。これを赤ん坊の行いと呼びます。

「善男子！若有男女受持、讀誦、書寫、解說是五行者，當知是人必定當得如是五行。」

> 善男子よ、もし男や女が、この五行を受け持ち、読み唱え、書き写し、説き明かすならば、その人はきっとこの五行を得ることができると知りなさい。

迦葉菩薩白佛言：「世尊！如我解佛所說義者，我亦定當得是五行。」

> 迦葉菩薩が仏に申し上げました。「世尊、私が仏の説かれた意味を理解するかぎり、私もきっとこの五行を得ることができるでしょう。」

佛言：「善男子！不獨汝得如是五行，今此會中九十三萬人亦同於汝得是五行。」

> 仏はおっしゃいました。「善男子よ、この五つの行をあなただけが得たのではありません。今この集まりの中にいる九十三万人も、あなたと同じようにこの五つの行を得ているのです。」

## 大般涅槃經卷第十八

> 大般涅槃経 巻第十八