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title: "大般涅槃經 · 5"
description: "大般涅槃经由南朝宋慧严、谢灵运等依据法显所译六卷本泥洹经与昙无谶所译北本涅槃经对照修订而成。本经详述释迦牟尼佛入灭前的教法，系统阐述如来藏思想、众生皆有佛性及一阐提亦可成佛的核心理念。作为大乘佛教的重要经典，它确立了中国佛教心性论的理论基础，对天台宗、华严宗等宗派教义形成具有深远影响，被誉为大乘佛教的终极教典之一。"
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## 大般涅槃經卷第二十三

> 大般涅槃経 第二十三巻

宋代沙門慧嚴等依泥洹經加之

> 宋の沙門慧厳らが『泥洹経』に依って加えたもの

### 光明遍照高貴德王菩薩品之五

> 光明遍照高貴徳王菩薩品 第五

「復次，善男子！云何菩薩摩訶薩修大涅槃微妙經典具足成就第七功德？善男子！菩薩摩訶薩修大涅槃微妙經典，作是思惟：『何法能為大般涅槃而作近因？』菩薩即知有四種法為大涅槃而作近因。若言：『勤修一切苦行是大涅槃近因緣。』者，是義不然。所以者何？若離四法得涅槃者，無有是處。

> 「また、善き男子よ。菩薩摩訶薩が大涅槃の微妙な経典を修め、第七の功徳を完全に成就するとは、どのようなことか。善き男子よ。菩薩摩訶薩は大涅槃の微妙な経典を修める際、次のように考える。『いったい何の法が、大般涅槃にとって直接の原因となるのだろうか？』と。すると菩薩は、四つの法が大涅槃の直接の因であると知る。もし『あらゆる苦行に励むことが大涅槃の直接の因縁である』と言うなら、それは正しくない。なぜなら、これらの四つの法から離れて涅槃を得ることは、決してありえないからである。」

「何等為四？一者、親近善友，二者、專心聽法，三者、繫念思惟，四者、如法修行。

> その四つとは何か。 一つ目は、善き友人に親しく近づくこと。 二つ目は、心を集中して教えを聴くこと。 三つ目は、心にしっかりととどめて深く考えること。 四つ目は、教えの通りに実践すること。

「善男子！譬如有人身遇眾病——若熱、若冷、虛勞、下瘧、眾邪、鬼毒——到良醫所，良醫即為隨病說藥。是人至心善受醫教，隨教合藥，如法服之。服已病愈，身得安樂。有病之人，譬諸菩薩；大良醫者，譬善知識；良醫所說，譬方等經；善受醫教，譬善思惟方等經義；隨教合藥，譬如法修行三十七助道之法；病除愈者，譬滅煩惱；得安樂者，喻得涅槃，常、樂、我、淨。

> 「善き男子よ、たとえば、ある人が熱病、寒気、衰弱、マラリア、さまざまな邪気や毒によって病に苦しみ、名医の元を訪れるとする。名医はその病に応じて薬を処方する。その人が心を込めて医師の指示を受け入れ、その教えに従って薬を調合し、処方通りに服用すれば、病は癒え、身体は安楽を得る。 病に苦しむ人は菩薩にたとえられる。名医は善知識（善き指導者）にたとえられる。医師の処方は方等経（大乗経典）にたとえられる。医師の指示をよく受けることは、方等経の意味をよく思惟することにたとえられる。教えに従って薬を調合することは、三十七の悟りへの道を修行することにたとえられる。病が治ることは煩悩を滅ぼすことにたとえられる。安楽を得ることは、涅槃の境地である常・楽・我・浄を得ることにたとえられる。」

「善男子！譬如有王欲如法治，令民安樂，諮諸智臣其法云何？諸臣即以先王舊法而為說之。王既聞已，至心信行，如法治國，無諸怨敵，是故令民安樂無患。善男子！王者，譬諸菩薩；諸智臣者，譬善知識；智臣為王所說治法，譬十二部經；王既聞已，至心信行，譬諸菩薩繫心思惟十二部經所有深義；如法治國，譬諸菩薩如法修行——所謂六波羅蜜——以能修習六波羅蜜故，無諸怨敵，譬諸菩薩已離諸結、煩惱惡賊；得安樂者，譬諸菩薩得大涅槃，常、樂、我、淨。

> 「善き者よ。例えば、ある王様が正しい道によって国を治め、民を安楽にしようと思い、賢明な家臣たちに『その方法とはどのようなものか』と尋ねました。家臣たちは、先代の王の古い法を王に説明しました。王はそれを聞き、真心から信じて実践し、その法に従って国を治めたので、怨み敵はおらず、民は安楽で憂いがありませんでした。善き者よ。この王様とは、諸々の菩薩のことです。賢明な家臣たちとは、善き知識（善知識）のことです。家臣が王に説いた治国の法とは、十二部経のことです。王がそれを聞き、真心から信じて実践したとは、諸々の菩薩が心を込めて十二部経の深い意味を考え思惟することです。法に従って国を治めるとは、諸々の菩薩が法の通りに修行すること、すなわち六波羅蜜のことです。この六波羅蜜を修習するゆえに、怨み敵がいないとは、諸々の菩薩がすでにすべての束縛や煩悩という悪い賊を離れたことです。安楽を得るとは、諸々の菩薩が大涅槃（大きな悟りの安らぎ）を得て、常・楽・我・浄（永遠・真の安らぎ・真の自己・清らかさ）を具えていることです。」

「善男子！譬如有人遇惡癩病，有善知識而語之言：『汝若能到須彌山邊，病可得差。所以者何？彼有良藥，味如甘露，若能服者，病無不愈。』其人至心信是事已，即往彼山採服甘露，其病除愈，身得安樂。惡癩病者，譬諸凡夫；善知識者，譬諸菩薩摩訶薩等；至心信受，譬四無量心；須彌山者，譬八聖道；甘露味者，譬於佛性；癩病除愈，譬滅煩惱；得安樂者，譬得涅槃，常、樂、我、淨。

> 「善き男子よ。例えば、ある人が重いハンセン病を患っているとしよう。そこに良き友（善知識）が現れて言うには『もしあなたが須弥山のふもとまで行くことができれば、その病は治るだろう。なぜなら、そこには甘露のような味がする良薬があり、それを服用すればどんな病気も癒えるからだ』と。その人が心からこの話を信じ、その山へ行き甘露を服用したところ、病気は治り、身体は安楽を得た。 この重いハンセン病というのは、凡夫たちにたとえられる。良き友とは、菩薩や大菩薩たちのことである。心から信じて受け入れることは、四無量心にたとえられる。須弥山は八つの聖なる道（八聖道）に、甘露の味は仏性（仏になる性質）にたとえられる。ハンセン病が治ることは煩悩を滅ぼすことに、安楽を得ることは涅槃（完全な悟りの境地）を得て、常住・至福・真我・清浄の状態になることにたとえられる。」

「善男子！譬如有人畜諸弟子聰明大智，是人晝夜常教不惓。諸菩薩等亦復如是，一切眾生——有信、不信——而常教化，無有疲厭。

> 「善き男たちよ。例えば、ある人が多くの弟子たちを抱え、その弟子たちはみな賢く優れた知恵を持っているとしよう。その人は昼夜を問わず、疲れることなく教え続ける。菩薩たちもまた同じである。すべての衆生――信仰する者も、しない者も――に対して、常に教え導き、疲れ果てることがないのだ。

「善男子！善知識者，所謂佛、菩薩、辟支佛、聲聞、人中信方等者。何故名為善知識耶？善知識者，能教眾生遠離十惡、修行十善。以是義故，名善知識。

> 「善き人々よ。善知識とは、すなわち仏、菩薩、縁覚、声聞、そして人の中で方等経典を信じる者たちのことをいいます。では、なぜ彼らを善知識と名付けるのでしょうか。善知識とは、あらゆる生きとし生けるものに十の悪から遠ざかり、十の善行を実践するよう教え導く存在だからです。このような理由から、善知識と呼ばれるのです。」

「復次，善知識者，如法而說，如說而行。云何名為如法而說，如說而行？自不殺生，教人不殺，乃至自行正見，教人正見。若能如是，則得名為真善知識。自修菩提，亦能教人修行菩提。以是義故，名善知識。自能修行信、戒、布施、多聞、智慧，亦能教人信、戒、布施、多聞、智慧。復以是義，名善知識。

> さらに、善知識とは、教えに従って説き、説いた通りに行う人のことです。どのように「教えに従って説き、説いた通りに行う」というのでしょうか。自ら殺生せず、他人にも殺生させないこと。自ら正しい見解を持ち、他人にも正しい見解を教えること。このようにできるならば、それを真の善知識と呼びます。自ら悟りを修行し、また他人にも悟りの修行を教えることができます。このような理由から、善知識と呼ばれます。自ら信仰、戒律、施し、多くの学び、智慧を修行し、また他人にも信仰、戒律、施し、多くの学び、智慧を教えることができます。さらにこのような理由から、善知識と呼ばれます。

「善知識者，有善法故。何等善法？所作之事不求自樂，常為眾生而求安樂；見他有過不說其短，口常宣說純善之事。以是義故，名善知識。

> 善知識とは、善い法（教え）を持っている人のことです。では、その善い法とは何でしょうか。それは、自分の行いにおいて常に自分の楽しみを求めず、常に人々のために安楽を求めること。他の人の過ちを見てもその短所を言い立てず、口には常に純粋に善いことだけを語ること。このような理由から、善知識と呼ぶのです。

「善男子！如空中月，從初一日至十五日漸漸增長。善知識者亦復如是，令諸學人漸遠惡法、增長善法。

> 善男子（善き男子よ）！たとえば、新月から満月へと日を追うごとに少しずつ大きくなるように、善知識（善き指導者）もまた同じだ。学び求める人びとをして、次第に悪しき行いから遠ざけ、善い行いを育てるのだ。

「善男子！若有親近善知識者，本未有戒、定、慧、解脫、解脫知見即便有之，未具足者則得增廣。何以故？以其親近善知識故。因是親近，復得了達十二部經甚深之義。若能聽是十二部經甚深義者，名為聽法。

> 善男子よ、もし善知識に親しむ者がいれば、これまで戒・定・慧・解脱・解脱知見がなかったとしても、すぐにそれらが備わります。十分にそろっていなければ、さらに広げられるのです。なぜでしょうか？それは善知識に親しむからです。その親しみによって、さらに十二部経の非常に深い意味を理解できるようになります。もしこの十二部経の深い意味を聞くことができれば、それを「法を聴く」と言います。

「聽法者則是大乘方等經典，聽方等經名真聽法，真聽法者即是聽受《大涅槃經》。《大涅槃》中聞有佛性、如來畢竟不般涅槃，是故名為專心聽法。

> 法を聴く者こそ、大乗の方等経典を聴くのであり、方等経を聴くことを真の法を聴くと言います。真の法を聴く者とは、すなわち『大涅槃経』を聴き受けることです。『大涅槃経』の中では、仏性が存在すること、如来が決して涅槃に入らないことを聴くことから、これを専心に法を聴くと言うのです。

「專心聽法名八聖道，以八聖道能斷貪欲、瞋恚、愚癡，故名聽法。

> 法に専心して聴くことを、八聖道（はっしょうどう）と言います。この八聖道によって、貪欲（とんよく）・怒り・愚かさを断ち切ることができるので、「法を聴く」と名づけられたのです。

「夫聽法者名十一空，以此諸空於一切法不作相貌。

> 法を聞く者とは、十一の空（くう）を名づけるものであり、これらの空によって、すべての法に対して、いかなる形も作り出さない。

「夫聽法者，名初發心乃至究竟阿耨多羅三藐三菩提心，以因初心得大涅槃、不以聞故得大涅槃、以修習故得大涅槃。

> 法を聞くということは、初めて発心してから、最終的に無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）の心に至るまでのことを指します。その初めの心があるからこそ大涅槃を得られるのであり、ただ聞いたから大涅槃を得られるのではありません。修行を積むことによって、大涅槃を得られるのです。

「善男子！譬如病人，雖聞醫教及藥名字不能愈病，要以服故乃得除差。雖聽十二深因緣法不能斷滅一切煩惱，要以繫念善思惟故能得除斷，是名第三繫念思惟。

> 善男子（よき人々よ）たとえば病人が、医者の教えや薬の名前を聞いただけでは病気は治らず、実際に薬を服用して初めて治るように、たとえ十二因縁の深い教えを聞いても、それだけではあらゆる煩悩を断ち滅ぼすことはできません。心を集中して正しくよく考えることによって、はじめてそれを断ち除くことができるのです。これが第三の「繫念思惟」（心をひとつに定めてよく考えること）と呼ばれるものです。

「復以何義名繫念思惟？所謂三三昧：空三昧、無相三昧、無作三昧。空者，於二十五有不見一實；無作者，於二十五有不作願求；無相者，無有十相，所謂色相、聲相、香相、味相、觸相、生相、住相、滅相、男相、女相。修習如是三三昧者，是名菩薩繫念思惟。

> また、どのような意味で「繫念思惟」と名づけるのか。それは、三つの三昧、すなわち空三昧、無相三昧、無作三昧をさす。空とは、二十五有において、一つとして実体のあるものを見ないことである。無作とは、二十五有において、願いや求めを起こさないことである。無相とは、十の相がないこと、すなわち色相、声相、香相、味相、触相、生相、住相、滅相、男相、女相のないことである。この三つの三昧を修習することを、菩薩の繫念思惟と名づけるのである。

「云何名為如法修行？如法修行即是修行檀波羅蜜乃至般若波羅蜜，知陰、入、界真實之相，亦知聲聞、緣覺、諸佛同於一道而般涅槃。法者，即是常、樂、我、淨，不生、不老、不病、不死，不飢、不渴，不苦、不惱，不退、不沒。善男子！解《大涅槃》甚深義者，則知諸佛終不畢竟入於涅槃。

> 「どのような修行を『法のままの修行』というのでしょうか。法のままの修行とは、すなわち布施の完成から智慧の完成に至るまでを修行し、五蘊・十二処・十八界の真実の姿を理解するとともに、声聞・縁覚・諸仏がみな同一の道によって涅槃に至ることを知ることです。ここでいう『法』とは、すなわち常住・楽・我・浄であり、生まれず、老いず、病まず、死せず、飢えず、渴せず、苦しまず、悩まず、退かず、没しないことです。善き人よ、『大涅槃』の深遠な義を解するならば、諸仏が決して最終的に涅槃に入ることはないと知るのです。」

「善男子！第一真實善知識者，所謂菩薩、諸佛世尊。何以故？常以三種善調御故。何等為三？一者、畢竟軟語，二者、畢竟呵責，三者、軟語呵責。以是義故，菩薩、諸佛即是真實善知識也。

> 「善き人よ。真の善知識とは、すなわち菩薩と仏世尊のことである。なぜか。常に三つの巧みな導き方で調御するからである。その三つとは、第一に、徹底して優しい言葉を用いること、第二に、徹底して厳しく叱ること、第三に、優しい言葉と叱りを併せ用いることである。このゆえに、菩薩と仏こそが真の善知識なのである。」

「復次，善男子！佛及菩薩為大醫，故名善知識。何以故？知病、知藥，應病授藥，故譬如良醫。善八種術，先觀病相。相有三種。何等為三？謂風、熱、水。有風病者，授之酥油；熱病之人授之石蜜；水病之人授之薑湯。以知病根，授藥得差，故名良醫。佛及菩薩亦復如是，知諸凡夫病有三種：一者、貪欲，二者、瞋恚，三者、愚癡。貪欲病者，教觀骨相；瞋恚病者，觀慈悲相；愚癡病者，觀十二緣相。以是義故，諸佛、菩薩名善知識。

> さらに、善男子よ。仏と菩薩は偉大な医者である。ゆえに善知識と呼ばれる。なぜなら、病を知り、薬を知り、病に応じて薬を与えるからである。例えば、名医が八つの術に通じ、まず病の相を観察するようなものだ。その相には三種ある。何が三種か。風、熱、水である。風の病には酥油を与え、熱の病には石蜜を与え、水の病には薑湯を与える。病の根を知って薬を与え、治癒させるから名医と呼ばれる。仏と菩薩もまた同じである。凡夫の病には三種あることを知っている。一つは貪欲、二つは瞋恚、三つは愚痴である。貪欲の病には骨の相を観察することを教え、瞋恚の病には慈しみの相を観察することを教え、愚痴の病には十二縁起の相を観察することを教える。このゆえに、諸仏・菩薩は善知識と呼ばれるのである。

「善男子！譬如船師，善渡人故，名大船師。諸佛、菩薩亦復如是，度諸眾生生死大海。以是義故，名善知識。

> 「善男子（ぜんなんし）よ。例えば、船頭（せんどう）が人々をうまく渡すことから『大いなる船頭』と呼ばれるように、仏や菩薩（ぼさつ）もまた、生きとし生ける者を生死（しょうじ）の大海（おおうみ）から渡すのです。そのため、彼らは『善知識（ぜんちしき）』と呼ばれるのです。」

「復次，善男子！因佛、菩薩令諸眾生具足修得善法根故。

> また、善き息子たちよ。仏と菩薩によって、すべての生きとし生けるものが善い行いの根を完全に身につけ、育てることができるのです。

「善男子！譬如雪山乃是種種微妙上藥根本之處。佛及菩薩亦復如是，悉是一切善根本處。以是義故，名善知識。

> 善男子（ぜんなんし）よ、たとえば雪山（せつせん）は様々なすぐれた薬の根源の場所であるように、仏や菩薩もまた、すべての善の根本の場所なのです。このような理由から、「善知識（ぜんちしき）」と呼ばれます。

「善男子！雪山之中有上香藥名曰娑呵，有人見之得壽無量、無有病苦，雖有四毒不能中傷；若有觸者，增長壽命滿百二十；若有念者，得宿命智。何以故？藥勢力故。諸佛、菩薩亦復如是，若有見者，即得斷除一切煩惱，雖有四魔不能干亂；若有觸者，命不可夭，不生、不死，不退、不沒——所謂觸者，若在佛邊聽受妙法——若有念者，得阿耨多羅三藐三菩提。以是義故，諸佛、菩薩名善知識。

> 「善男子よ。雪山の中に、『娑呵』という名の最上の薬草がある。これを見た者は、寿命が限りなく長くなり、病の苦しみもなく、四毒があっても害されることがない。もしこれに触れた者は、寿命が延びて百二十歳を全うする。もしこれを念じる者は、前世の記憶の智慧を得る。なぜか。その薬の力によるからである。 諸仏や菩薩もまた、これと同じである。もし彼らを見た者は、すぐに一切の煩悩を断ち切ることができ、四魔があっても乱されることがない。もし彼らに触れた者は、命が夭折することがなく、生まれず、死なず、退かず、没しない——ここで『触れる』とは、仏のそばで素晴らしい教えを聴き受けることを言う。もし彼らを念じる者は、無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）を得る。 このような理由により、諸仏や菩薩を善知識と名付けるのである。」

「善男子！如香山中有阿耨達池，由是池故，有四大河，所謂恒河、辛頭、私陀、博叉。世間眾生常作是言：『若有罪者，浴此四河，眾罪得滅。』當知此言虛妄不實。除此已往，何等為實？諸佛、菩薩是乃為實。所以者何？若人親近，則得滅除一切眾罪。以是義故，名善知識。

> 「善き人よ。例えば雪山の中に阿耨達池という池がある。この池から、ガンジス川、インダス川、シルダリヤ川、 オクサス川という四大河が流れ出ている。世の人々はよくこう言う。『罪を犯した者がこの四つの川で沐浴すれば、あらゆる罪が清められる』と。しかし、そう言うのは虚偽であり、真実ではないと知るべきだ。では、何が真実なのか。諸仏や菩薩こそが真実なのである。なぜなら、彼らに親しく近づけば、あらゆる罪を消し去ることができるからだ。このような理由から、彼らは善き友（善知識）と呼ばれるのである。」

「復次，善男子！譬如大地，所有藥木、一切叢林、百穀、甘蔗、花菓之屬，值天炎旱將欲枯死，難陀龍王及婆難陀憐愍眾生，從大海出降澍甘雨，一切叢林、百穀、草木滋潤還生。一切眾生亦復如是，所有善根將欲消滅，諸佛、菩薩生大慈悲，從智慧海降甘露雨，令諸眾生具足，還得十善之法。以是義故，諸佛、菩薩名善知識。

> 「また、善き人よ。例えば、大地に生える草木やあらゆる林、穀物、砂糖黍、花や果実などが、干ばつの暑さで枯れかかっているところに、ナンダ竜王とウパナンダ竜王が衆生を哀れんで、大海から湧き出て甘露の雨を降らせ、すべての林や穀物、草木が潤って再び生き返るように、すべての衆生もまた同じである。善い根が消えようとしている時、諸仏や菩薩は大いなる慈悲を起こし、智慧の海から甘露の雨を降らせて、すべての衆生に十善の法を再び備えさせるのである。この故に、諸仏や菩薩を善き知識（善友）と呼ぶのである。」

「善男子！譬如良醫善八種術，見諸病人，不觀種姓、端正、醜陋、錢財、寶貨，悉為治之，是故世稱為大良醫。諸佛、菩薩亦復如是，見諸眾生有煩惱病，不觀種姓、端正、醜陋、錢財、寶貨，生慈愍心，悉為說法。眾生聞已，煩惱病除。以是義故，諸佛、菩薩名善知識。以是親近善友因緣則得近於大般涅槃。

> 「善きかな、男子よ。例えば、名医が八つの術に精通していて、病人を見るとき、その家柄や容姿の優劣、財産の有無を顧みず、皆を治療するからこそ、世間から大いなる名医と称えられる。諸仏や菩薩もまた同様である。衆生に煩悩という病があるのを見れば、家柄や容貌の美醜、財産の有無を気にせず、慈しみの心を起こして、皆に教えを説く。衆生がその教えを聞けば、煩悩の病は除かれる。このような理由から、諸仏と菩薩は善き友（善知識）と呼ばれるのである。この善き友に親しむ因縁によって、大般涅槃に近づくことができるのだ。」

「云何菩薩聽法因緣而得近於大般涅槃？一切眾生以聽法故則具信根，得信根故，樂行布施、戒、忍、精進、禪定、智慧，得須陀洹果乃至佛果。是故當知：得諸善法皆是聽法因緣勢力。

> 菩薩がどのようにして法を聴く因縁によって大般涅槃に近づくことができるのでしょうか。 すべての生きとし生けるものは、法を聴くことによって信の根を具え、信の根を得たことにより、喜んで布施、戒律、忍耐、精進、禅定、智慧を行い、須陀洹果から仏果に至るのです。 それゆえ、知るべきです。あらゆる善い法を得ることは、すべて法を聴く因縁の力によるものだと。

「善男子！譬如長者唯有一子，遣至他國市易所須，示其道路通塞之處，而復誡之：『若遇婬女，慎莫親愛。若親愛者，喪身殞命及以財寶。弊惡之人亦莫交遊。』其子敬順父之教勅，身心安隱，多獲寶貨。菩薩摩訶薩為諸眾生敷演法要亦復如是，示諸眾生及四部眾諸道通塞。是諸眾等以聞法故，遠離諸惡，具足善法。以是義故，聽法因緣則得近於大般涅槃。

> 「善き人よ。たとえば、ある長者に一人の息子がいて、他国に交易のために遣わす際、行くべき道の安全な場所と危険な場所を示し、こう戒めたとしよう。『もしも淫らな女に出会ったなら、決して親しくしてはならない。もし親しくすれば、身を滅ぼし、命を失い、財宝も失うことになる。また、悪しき者たちとも交わってはならない。』その息子は父の教えを敬い従ったので、心身ともに安稳で、多くの財宝を得ることができた。 菩薩摩訶薩が衆生のために法の要を説き示すのも、また同じである。衆生や四部の衆に、諸々の道の通じるところと塞がるところを示すのである。これらの人々は法を聞くことによって、諸々の悪を遠ざけ、善い法を具足する。このような理由から、法を聞く因縁によって、大般涅槃に近づくことができるのである。」

「善男子！譬如明鏡，照人面像無不明了。聽法明鏡亦復如是，有人照之則見善惡，明了無翳。以是義故，聽法因緣則得近於大般涅槃。

> 善男子（ぜんなんし）よ。例えば、明るい鏡は人の顔を映し出すとき、はっきりとくっきりと映し出します。法（ほう）を聞くという明るい鏡もまた、これと同じです。人がその鏡に映せば、善悪を見ることができ、曇りなく明らかに映し出されます。このような理由から、法を聞くという縁（えん）によって、大般涅槃（だいはつねはん）に近づくことができるのです。

「善男子！譬如商人欲至寶渚，不知道路。有人示之，其人隨語即至寶渚，多獲諸珍不可稱計。一切眾生亦復如是，欲至善處採取道寶，不知其路通塞之相。菩薩示之，眾生隨已，得至善處獲得無上大涅槃寶。以是義故，聽法因緣則得近於大般涅槃。

> 善男子（ぜんなんし）よ。 例えば、商人が宝の島へ行こうとしても道がわからなかったとしましょう。そこである人が道を教えたなら、その商人は教えの通りに進み、ついに宝の島にたどり着き、数えきれないほどの多くの宝物を得ることができます。 すべての生きとし生けるものも、まったく同じです。 善い境地に至り、道という宝を手に入れようとしながらも、その道が通じているのか塞がっているのかがわからないのです。 そこで菩薩が道を示すと、生きとし生けるものはその教えに従い、善い境地に至り、至上の大いなる涅槃という宝を得ることができます。 このような理由から、教えを聴くという縁によって、大いなる般涅槃に近づくことができるのです。

「善男子！譬如醉象，狂逸暴惡，多欲殺害。有調象師以大鐵鉤鉤斵其頂，即時調順，惡心都盡。一切眾生亦復如是，貪欲、瞋恚、愚癡醉故，欲多造惡。諸菩薩等以聞法鉤斵之令住，更不得起造諸惡心。以是義故，聽法因緣則得近於大般涅槃。

> 「善き人よ。例えば酔った象が、荒れ狂い乱暴で、多くのものを殺そうとする様子を思い浮かべてほしい。そこに調象師が現れ、大きな鉄の鉤でその頭を打つ。すると象はたちまち従順になり、悪心はすっかり消え去る。 すべての生きとし生ける者もまた同じである。貪り（むさぼり）、怒り、愚かさに酔っているために、多くの悪を起こそうとする。しかし諸々の菩薩（ボサツ）たちは、法を聞くという鉤を用いてそれらを打ち、心を落ち着かせ、悪い心を再び起こさせないようにするのである。 このような理由から、法を聞くという縁によって、大いなる涅槃（ネハン）に近づくことができるのだ。」

「是故，我於處處經中說我弟子專心聽受十二部經則離五蓋、修七覺分。以是修習七覺分故，則得近於大般涅槃。

> このようなわけで、私は様々な経典の中で、私の弟子たちが心を集中して十二部経を聴き受けるならば、五つの障り（五蓋）から離れ、七つの覚りの要素（七覚支）を修められると説いています。この七覚支を修めることによって、大いなる涅槃（大般涅槃）に近づくことができるのです。

「以聽法故，須陀洹人離諸恐怖。所以者何？須達長者身遭重病，心大愁怖，聞舍利弗說須陀洹有四功德、十種慰喻，聞是事已，恐怖即除。以是義故，聽法因緣則得近於大般涅槃。何以故？開法眼故。世有三人：一者、無目，二者、一目，三者、二目。言無目者，常不聞法；一目之人，雖暫聞法，其心不住；二目之人專心聽受，如聞而行。以聽法故，得知世間如是三人。以是義故，聽法因緣則得近於大般涅槃。

> 「法を聞くことによって、須陀洹（しゅだおん）の人は様々な恐怖から離れます。なぜでしょうか？須達長者が重い病にかかり、心は大きな憂いと恐れで満ちていましたが、舎利弗が須陀洹には四つの功徳と十の慰めがあると説くのを聞いて、その恐怖はすぐに消え去りました。このことから、法を聞くという縁によって、大般涅槃に近づくことができるのです。どうしてでしょうか？法の眼が開かれるからです。 世の中には三種類の人がいます。第一に、目のない人。第二に、片目だけの人。第三に、両目を持つ人です。 「目のない人」とは、常に法を聞こうとしない人のことです。「片目だけの人」とは、たとえ一時的に法を聞いても、その心がとどまらない人のことです。「両目を持つ人」とは、心を集中して法を受け聴き、聞いた通りに行う人のことです。法を聞くことによって、世の中にこの三種類の人がいることを知ることができます。このことから、法を聞くという縁によって、大般涅槃に近づくことができるのです。」

「善男子！如我昔於拘尸那城，時舍利弗身遇病苦。我時顧命阿難比丘廣為說法。時舍利弗聞是事已，告四弟子：『汝舉我床往至佛所，我欲聽法。』時四弟子奉命舁往。既得聞法，聞法力故，所苦除差，身得安隱。以是義故，聽法因緣則得近於大般涅槃。

> 「善き人よ。かつて私がクシナガラにいた時、舎利弗が病の苦しみに遭いました。その時、私は阿難比丘に命じて広く説法をさせました。舎利弗がこれを聞いて、四人の弟子に告げました。『私の床を担いで仏のもとへ連れて行きなさい。私は法を聞きたいのです。』すると四人の弟子は命に従って担いで行きました。法を聞き終えると、その力によって病の苦しみは除かれ、身は安らかになりました。このことから、法を聞く因縁によって、人は大般涅槃に近づくことができるのです。」

「云何菩薩思惟因緣而得近於大般涅槃？因是思惟，心得解脫。何以故？一切眾生常為五欲之所繫縛，以思惟故，悉得解脫。以是義故，思惟因緣則得近於大般涅槃。

> 菩薩はどのように因縁を思惟して大般涅槃に近づくのでしょうか。この思惟によって、心は解脱を得ます。なぜなら、すべての衆生は常に五欲に縛られているからです。しかし、この思惟によって、すべてが解脱を得ることができるのです。この意味から、因縁を思惟することこそが、大般涅槃に近づく道なのです。

「復次，善男子！一切眾生常為常、樂、我、淨四法之所顛倒。以思惟故，得見諸法無常、無樂、無我、無淨。如是見已，四倒即斷。以是義故，思惟因緣則得近於大般涅槃。

> また、善き人よ。すべての生きとし生けるものは、常に「常・楽・我・浄」という四つの捉え方によって、真理を見誤っているものです。しかし、よく考えを巡らせることによって、すべてのものは無常であり、真の楽しみはなく、本当の自分などなく、清らかでもないと気づくことができます。そうして見極めれば、四つの誤った見方は断ち切られます。このようなわけで、正しく思惟する因縁によって、大般涅槃に近づくことができるのです。

「復次，善男子！一切諸法有四種相。何等為四？一者、生相，二者、老相，三者、病相，四者、滅相。以是四相，能令一切凡夫眾生至須陀洹生大苦惱。若能繫念善思惟者，雖遇此四，不生眾苦。以是義故，思惟因緣則得近於大般涅槃。

> さらに、善き人よ。すべての存在には四つの特徴がある。その四つとは何か。第一に生まれるという特徴、第二に老いるという特徴、第三に病むという特徴、第四に滅びるという特徴である。この四つの特徴によって、すべての凡夫や修行者は大きな苦しみを生じるのである。しかし、よく心をとどめ、正しく考えることができるならば、この四つに遭っても、苦しみを生じることはない。このような理由から、原因と条件について正しく考えることで、大いなる涅槃に近づくことができるのである。

「復次，善男子！一切善法無不因是思惟而得。何以故？有人雖於無量無邊阿僧祇劫專心聽法，若不思惟，終不能得阿耨多羅三藐三菩提。以是義故，思惟因緣則得近於大般涅槃。

> 「さらに、善き男子よ。あらゆる善い教えは、この『よく考える』という行いによって得られるものなのです。なぜなら、たとえ人が無限とも言える長い長い時間をかけてひたすら教えを聞き続けても、もし自らよく考えなければ、ついに最高の悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を得ることはできないからです。ですから、この『よく考える』という縁によって、大いなる悟りの境地（大般涅槃）に近づくことができるのです。」

「復次，善男子！若有眾生信佛、法、僧無有變易而生恭敬，當知皆是繫念思惟因緣力故，因得斷除一切煩惱。以是義故，思惟因緣則得近於大般涅槃。

> 「さらに、善き者よ。もし仏・法・僧を疑いなく敬う者がいれば、それはすべて、心を落ち着けて深く考えるという因縁の力によるものだと知るべきである。その力によって、あらゆる煩悩を断ち切ることができるのだ。この意味において、因縁を正しく思惟することは、大いなる涅槃に近づく道なのである。」

「云何菩薩如法修行？善男子！斷諸惡法，修習善法，是名菩薩如法修行。

> 「では、菩薩の正しい修行とはどのようなものなのでしょうか。善き人よ。あらゆる悪しき行いを断ち、善い行いを修め励むこと、これを菩薩の正しい修行といいます。」

「復次，云何如法修行？見一切法空無所有，無常、無樂、無我、無淨。以是見故，寧捨身命不犯禁戒，是名菩薩如法修行。

> さらに、どのような修行が正しい修行法（如法修行）なのでしょうか。すべての現象には実体がなく、永遠ではなく、真の安らぎもなく、固定した自己もなく、清らかでもないと見極めることです。この洞察ゆえに、たとえ命を落とすことになっても、決して戒律を破らない。これこそが、菩薩の正しい修行法なのです。

「復次，云何如法修行？修有二種：一者、真實，二者、不實。不實者，不知涅槃、佛性、如來、法、僧實相、虛空等相，是名不實。云何真實？能知涅槃、佛性、如來、法、僧實相、虛空等相，是名真實。云何名為知涅槃相？涅槃之相凡有八事。何等為八？一者、盡，二、善性，三、實，四、真，五、常，六、樂，七、我，八、淨，是名涅槃。復有八事。何等為八？一者、解脫，二者、善性，三者、不實，四者、不真，五者、無常，六者、無樂，七者、無我，八者、無淨。復有六相：一者、解脫，二者、善性，三者、不實，四者、不真，五者、安樂，六者、清淨。若有眾生依世俗道斷煩惱者，如是涅槃則有八事解脫不實。何以故？以不常故。以無常故，則無有實；無有實故，則無有真。雖斷煩惱，以還起故，無常、無我、無樂、無淨。是名涅槃解脫八事。

> では、どのようにして正しく法に従い修行するのか。修行には二種類ある。一つは「真実の修行」、もう一つは「真実ではない修行」である。 真実ではない修行とは、涅槃（ねはん）、仏性（ぶっしょう）、如来（にょらい）、法（ほう）、僧（そう）の真実の姿、そして虚空（こくう）などの真理を理解しないことである。これを真実ではない修行という。 では、真実の修行とは何か。涅槃、仏性、如来、法、僧の真実の姿、虚空などの真理を理解することである。これを真実の修行という。 では、涅槃の姿を理解するとはどういうことか。涅槃の姿には、全部で八つの要素がある。その八つとは、第一に「尽（尽きること）」、第二に「善性（善い性質）」、第三に「実（真実）」、第四に「真（真実そのもの）」、第五に「常（永遠）」、第六に「楽（やすらぎ）」、第七に「我（真の自己）」、第八に「浄（清らかさ）」である。これらを涅槃と名付ける。 さらに、別の八つの要素もある。その八つとは、第一に「解脱（解放）」、第二に「善性」、第三に「不実（真実でないこと）」、第四に「不真（真実そのものでないこと）」、第五に「無常（永遠ではないこと）」、第六に「無楽（やすらぎがないこと）」、第七に「無我（真の自己がないこと）」、第八に「無浄（清らかさがないこと）」である。 また、六つの特徴もある。第一に「解脱」、第二に「善性」、第三に「不実」、第四に「不真」、第五に「安楽（やすらぎ）」、第六に「清浄（清らかさ）」である。 もし、世間的な手段に頼って煩悩（ぼんのう）を断ち切っている者がいれば、その者の得る涅槃には、上記の八つの要素のうち「解脱」と「不実」が含まれることになる。なぜなら、それは永遠ではないからである。永遠でなければ、真実ではなく、真実でなければ、真実そのものでもない。たとえ煩悩を断ち切っても、再び煩悩が湧き起こるため、無常であり、無我であり、無楽であり、無浄である。これを「涅槃における八つの要素（解脱と不実）」という。

「云何六相？聲聞、緣覺斷煩惱故，名為解脫；而未能得阿耨多羅三藐三菩提故，名為不實；以不實故，名為不真；未來之世當得阿耨多羅三藐三菩提，故名無常；以得無漏八聖道故，名為淨樂。

> 六つの相とは何でしょうか。声聞（しょうもん）と縁覚（えんがく）は煩悩を断ち切ったので「解脱」と呼ばれます。しかし、まだ阿耨多羅三藐三菩提（あのくたらさんみゃくさんぼだい）を得ていないため「不実」と呼ばれます。不実であるがゆえに「不真」と呼ばれます。未来の世において、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得るであろうことから「無常」と呼ばれます。また、無漏の八聖道（はっしょうどう）を得たことから「浄楽」と呼ばれます。

「善男子！若如是知，是知涅槃，不名佛性、如來、法、僧實相、虛空。

> 善男子よ、もしこのように知っても、それは涅槃を知るだけであって、仏性、如来、法、僧、真実の相、虚空とは呼べない。

「云何菩薩知於佛性？佛性有六。何等為六？一、常，二、淨，三、實，四、善，五、當見，六、真。復有七事：一者、可證，餘六如上。是名菩薩知於佛性。

> 菩薩が仏性を知るとはどういうことか。仏性には六つの性質がある。その六つとは何か。第一に「常」（永遠不変）、第二に「浄」（清らか）、第三に「実」（真実）、第四に「善」（善いこと）、第五に「当見」（必ず顕れる）、第六に「真」（真実そのもの）である。さらに、七つ目の性質として「可証」（悟りによって証明できる）が加わる。残りの六つは先ほどと同じである。これが菩薩が仏性を知るということである。

「云何菩薩知如來相？如來即是覺相、善相，常、樂、我、淨、解脫、真實，示道可見，是名菩薩知如來相。

> 菩薩はどのように如来の特徴を理解するのでしょうか。 如来とは、目覚めた姿、善き姿、常に変わらず、安らかで、本当の自分そのものであり、清らかで、解放されており、真実であり、はっきりと示された道そのもののことです。 これを、菩薩が如来の特徴を理解するということです。

「云何菩薩知於法相？法者，若善、不善，若常、不常，若樂、不樂，若我、無我，若淨、不淨，若知、不知，若解、不解，若真、不真，若修、不修，若師、非師，若實、不實，是名菩薩知於法相。

> 「では、菩薩はどのようにして「法の相」を知るのでしょうか。法とは、善いもの、善くないもの、永遠のもの、永遠でないもの、楽しいもの、楽しくないもの、自己があるもの、自己がないもの、清らかなもの、清らかでないもの、知っているもの、知らないもの、理解しているもの、理解していないもの、真実のもの、真実でないもの、修行するもの、修行しないもの、師であるもの、師でないもの、実在するもの、実在しないもの、これらのすべてをあるがままに知ることを、菩薩は法の相を知ると言うのです。」

「云何菩薩知於僧相？僧者，若常、樂、我、淨，是弟子相、可見之相，善、真、不實。何以故？一切聲聞得佛道故。何故名真？悟法性故。是名菩薩知於僧相。

> 「菩薩はどのように僧の相（すがた）を理解するのでしょうか。 僧とは、常・楽・我・浄の四つの性質を持つもの、つまり修行する者（弟子）の相であり、見ることのできる相です。それは善く、真実でありながら、実体ではありません。 なぜなら、すべての声聞（修行者）は、最終的に仏の道を得るからです。 では、なぜ「真実」というのか。それは、法の本性を悟るからです。 これが菩薩による僧の相の理解です。」

「云何菩薩知於實相？實相者，若常、無常，若樂、無樂，若我、無我，若淨、無淨，若善、不善，若有、若無，若涅槃、非涅槃，若解脫、非解脫，若知、不知，若斷、不斷，若證、不證，若修、不修，若見、不見，是名實相，非是涅槃、佛性、如來、法、僧、虛空。

> 「菩薩はどのようにして実相を知るのでしょうか。実相とは、常住か無常か、楽か無楽か、我か無我か、浄か不浄か、善か不善か、有か無か、涅槃か非涅槃か、解脱か非解脱か、知るか知らないか、断つか断たないか、証するか証しないか、修行するか修行しないか、見るか見ないか――こうした一切の対立を超えたもの、それが実相です。それは涅槃や仏性、如来、法、僧、虚空という名でさえないのです。」

「是名菩薩因修如是大涅槃故知於涅槃、佛性、如來、法、僧實相、虛空等法差別之相。

> このように、菩薩は大涅槃を修習することによって、涅槃・仏性・如来・法・僧・実相・虚空などの諸法の差別相を知るのである。

「善男子！菩薩摩訶薩修大涅槃微妙經典不見虛空。何以故？佛及菩薩雖有五眼所不見故，唯有慧眼乃能見之。慧眼所見無法可見，故名為見。若見無物名虛空者，如是虛空乃名為實。以是實故，則名常無；以常無故，無樂、我、淨。善男子！空名無法，無法名空。譬如世間，無物名空；虛空之性亦復如是，無所有故，名為虛空。

> 「善き男子よ。菩薩摩訶薩が大涅槃という微妙な経典を修めても、虚空を見ることはない。なぜか。仏や菩薩は五つの眼を持っていても、虚空は見えないからだ。ただ慧眼によってのみ、虚空を見ることができる。しかし慧眼が見るものは、そもそも見る対象がない。それゆえに『見る』と言うのだ。もし何もないものを虚空と呼ぶなら、そのような虚空こそが実在である。実在であるから、それは常に無と名づけられる。常に無であるから、そこに楽・我・浄はない。善き男子よ。空とは、あらゆるものが存在しないことである。存在しないものがあることを空と呼ぶ。例えば、この世で何もないことを空と言うのと同じだ。虚空の本質もまた同じで、何ひとつ実体として存在しないから、虚空と呼ばれるのである。」

「善男子！眾生之性與虛空性俱無實性。何以故？如人說言：『除滅有物，然後作空。』而是虛空實不可作。何以故？無所有故。以無有故，當知無空。是虛空性若可作者則名無常；若無常者，不名虛空。

> 「善男子よ。生きとし生けるものの本質も、虚空の本質も、共に確かな実体はありません。なぜなら、例えば人が『何か物を取り除いてから、空を作り出す』と言うようなものですが、その虚空は実際には作り出せるものではないからです。なぜなら、虚空には何も存在しないからです。何も存在しない以上、空というものもないと知るべきです。もし虚空という性質が作り出せるものなら、それは無常と呼ばれます。もし無常なら、それを虚空とは呼べません。」

「善男子！如世間人說言：『虛空無色、無礙，常、不變易。』是故世稱虛空之法為第五大。善男子！而是虛空實無有性。以光明故，故名虛空，實無虛空。猶如世諦實無其性，為眾生故，說有世諦。

> 「善き男子よ。世の人が『虚空には色がなく、障りもなく、常に変わらない』と言うように、そのため世の中では虚空の法を第五の大元素と呼ぶ。しかし善き男子よ、その虚空には実体がない。ただ光があるから虚空と名付けるのであって、実際には虚空など存在しない。ちょうど世俗の真理にも実体がないのに、衆生のために世俗の真理があると説くのと同じである。」

「善男子！涅槃之體亦復如是，無有住處，直是諸佛斷煩惱處，故名涅槃。涅槃即是常、樂、我、淨。涅槃雖樂，非是受樂，乃是上妙寂滅之樂。諸佛如來有二種樂：一、寂滅樂，二、覺知樂。實相之體有三種樂：一者、受樂，二、寂滅樂，三、覺知樂。佛性一樂，以當見故，得阿耨多羅三藐三菩提時名菩提樂。」

> 「善男子よ。涅槃の本体もまた同じである。どこかに定まった住処があるわけではなく、まさに諸仏が煩悩を断ち切ったところ、それを涅槃と名付けるのである。涅槃とはすなわち、常住、安楽、真我、清浄である。涅槃には楽しみがあるが、それは感覚的な楽しみを受け取るようなものではない。それは優れて微細な、煩悩の消え去った寂静の楽しみである。諸仏、如来には二種類の楽しみがある。第一に寂滅の楽しみ、第二に覚知の楽しみである。実相の本体には三種類の楽しみがある。第一に受楽（感覚的な楽しみを受け取ること）、第二に寂滅の楽しみ、第三に覚知の楽しみである。仏性は一つの楽しみである。それは将来必ず見ることができるからであり、阿耨多羅三藐三菩提を成就した時、それを菩提の楽しみと名付けるのである。」

爾時，光明遍照高貴德王菩薩摩訶薩白佛言：「世尊！若煩惱斷處是涅槃者，是事不然。何以故？如來往昔初成佛道，至尼連禪河邊。爾時，魔王與其眷屬到於佛所而作是言：『世尊！涅槃時到，何故不入？』佛告魔王：『我今未有多聞弟子善持禁戒、聰明利智、能化眾生，是故不入。』若言煩惱斷處是涅槃者，諸菩薩等於無量劫已斷煩惱，何故不得稱為涅槃？俱是斷處，何緣獨稱諸佛有之，菩薩無耶？若斷煩惱非涅槃者，何故如來昔告生名婆羅門言：『我今此身即是涅槃。』如來又時在毘舍離國，魔復啟請如來：『昔以未有弟子多聞、持戒、聰明利智、能化眾生，不入涅槃。今已具足，何故不入？』如來爾時即告魔言：『汝今莫生悒遲之想，却後三月吾當涅槃。』世尊！若使滅度非涅槃者，何故如來自期三月當般涅槃？世尊！若斷煩惱是涅槃者，如來往昔初在道場菩提樹下斷煩惱時便是涅槃。何故復言：『却後三月當般涅槃。』世尊！若使爾時是涅槃者，云何方為拘尸那城諸力士等說言：『後夜當般涅槃。』如來誠實，云何發是虛妄之言？」

> 爾時、光明遍照高貴徳王菩薩摩訶薩が仏に申し上げた。「世尊よ、もし煩悩を断ち切ったところが涅槃であるというならば、それは正しくありません。なぜなら、如来がかつて初めて仏道を成就された時、尼連禅河のほとりにおられた際、魔王がその眷属と共に仏のもとに来て申しました。『世尊よ、涅槃に入る時が来ました。なぜお入りにならないのですか？』仏は魔王に答えられました。『私はまだ、多くの教えを聞き、戒律をよく守り、聡明で知恵があり、众生を教化できる弟子を多く持っていない。それゆえに涅槃に入らないのだ。』もし煩悩を断ち切ったところが涅槃であるならば、諸々の菩薩は無量の劫の間すでに煩悩を断ってきたのに、なぜ涅槃と呼ばれないのでしょうか？どちらも煩悩を断ったところであるのに、なぜ仏だけが涅槃を持ち、菩薩にはないと特別に言うのでしょうか？もし煩悩を断つことが涅槃でないならば、なぜ如来はかつて生名というバラモンに『今、この身こそが涅槃である』とお告げになったのですか？また、如来が毘舎離国におられた時、魔王が再び如来に願い出ました。『昔は、多くの教えを聞き、戒律を守り、聡明で众生を教化できる弟子がいないために涅槃に入られなかった。今はその条件が整っている。なぜ涅槃に入らないのですか？』その時、如来は魔王に告げられました。『あなたは今、落胆してはならない。三ヶ月後に、私は涅槃に入るであろう。』世尊よ、もし滅度が涅槃でないならば、なぜ如来は自ら三ヶ月後に般涅槃に入ると約束されたのですか？世尊よ、もし煩悩を断つことが涅槃であるならば、如来がかつて初めて道場の菩提樹の下で煩悩を断った時こそ涅槃であったはずです。なぜ改めて『三ヶ月後に般涅槃に入る』と言われたのですか？世尊よ、もしその時がすでに涅槃であったならば、どうして後に拘尸那城の力士たちに『後夜に般涅槃に入る』とお告げになったのですか？如来は誠実な方であるのに、どうしてこのような虚偽の言葉を発せられたのですか？」

爾時，世尊告光明遍照高貴德王菩薩摩訶薩言：「善男子！若言如來得廣長舌，當知如來於無量劫已離妄語。一切諸佛及諸菩薩凡所發言誠諦無虛。善男子！如汝所言，波旬往昔啟請於我入涅槃者，善男子！而是魔王真實不知涅槃定相。何以故？波旬意謂不化眾生、默然而住便是涅槃。善男子！譬如世人，見人不言、無所造作，便謂是人如死無異。魔王波旬亦復如是，意謂如來不化眾生、默無所說，便謂如來入般涅槃。

> その時、世尊は光明遍照高貴徳王菩薩摩訶薩に告げられた。「善き者よ、『如来が広長舌相を備えている』と言うならば、如来が無量の劫の昔から既に虚偽の言葉を離れていると知るべきである。一切の諸仏や諸菩薩が発する言葉は、すべて真実であり虚偽はない。善き者よ、あなたが言うように、魔王波旬がかつて私に涅槃に入るよう請うたことについてであるが、善き者よ、あの魔王は涅槃の定まった姿を真実には知らないのである。なぜなら、波旬は『衆生を教化せず、沈黙して留まること』こそが涅槃であると思い込んでいるからだ。善き者よ、たとえば世の人々が、言葉を発さず何も行わない者を見て、『この人は死んだ者と変わらない』と言うようなものである。魔王波旬もまたこれと同じで、『如来が衆生を教化せず、黙して何も語らないならば、如来は涅槃に入ったのだ』と考えるのである。」

「善男子！如來不說佛、法、眾僧無差別相，唯說常住、清淨二法無差別耳。善男子！佛亦不說佛及佛性涅槃無差別相，唯說常、恒不變無差別耳。善男子！佛亦不說涅槃、實相無差別相，唯說常有、實不變易無差別耳。

> 善き男子よ。如来は、仏・法・僧の三宝に区別がないとは説かない。ただ、「常住」と「清浄」の二つの法には区別がないと説くのである。善き男子よ。仏はまた、仏と仏性と涅槃に区別がないとも説かない。ただ、「常」、「恒」、「不変」には区別がないと説くのである。善き男子よ。仏はまた、涅槃と実相に区別がないとも説かない。ただ、「常有」、「実」、「不変易」には区別がないと説くのである。

「善男子！爾時，我諸聲聞弟子生於諍訟。如拘睒彌諸惡比丘違反我教，多犯禁戒，受不淨物，貪求利養。向諸白衣而自讚歎：『我得無漏，謂須陀洹果。』乃至『我得阿羅漢果。』毀辱他人，於佛、法、僧、戒律、和上不生恭敬。公於我前言：『如是物佛所聽畜，如是等物佛不聽畜。』我亦語言：『如是等物我實不聽。』復反我言：『如是等物實是佛聽。』如是惡人不信我言，為是等故，我告波旬：『汝莫悒遲，却後三月當般涅槃。』

> 「善き人よ、その時、私の声聞たちの弟子たちは争いを生じさせた。拘睒彌の悪しき比丘たちが私の教えに背き、多くの戒律を犯し、清らかでない物を受け取り、利得や供養を貪り求めたように。彼らは在家の者たちに向かって自らを褒め称え、『私は煩悩を離れた者となり、須陀洹果を得た』などと言い、さらには『私は阿羅漢果を得た』とまで言った。また他人を辱め、仏・法・僧・戒律・師に対して敬意を払わなかった。公然と私の前で、『こうした物は仏が許したものである』と言い、『こうした物は仏が許さないものである』と言った。私もまた『こうした物は確かに私は許さない』と言った。ところが彼らは私の言葉に逆らって、『こうした物は実に仏が許したものである』と言った。このような悪人たちは私の言葉を信じず、そのために私は波旬に告げた。『あなたは焦る必要はない。三か月後には私が般涅槃に入るであろう』と。」

「善男子！因如是等惡比丘故，令諸聲聞受學弟子不見我身、不聞我法，便言如來入於涅槃；唯諸菩薩能見我身、常聞我法，是故不言我入涅槃。聲聞弟子雖復發言如來涅槃，而我實不入於涅槃。

> 「善男子（善き者たちよ）。このような悪しき比丘たちがいるために、声聞の教えを受け継ぐ弟子たちは、私の身体を見ることも、私の教えを聞くこともできなくなります。そして、『如来は涅槃に入った』と言うのです。しかし、菩薩たちだけは、私の身体を見ることができ、常に私の教えを聞くことができます。そのため、彼らは『如来が涅槃に入った』とは言いません。声聞の弟子たちは、『如来は涅槃に入った』と言いますが、実際のところ、私は涅槃に入ってはいないのです。」

「善男子！若我所有聲聞弟子說言如來入涅槃者，當知是人非我弟子，是魔伴黨、邪見惡人，非正見也。若言如來不入涅槃，當知是人真我弟子、非魔伴黨、正見之人，非惡邪也。

> 「善き人よ。もし私の声聞の弟子たちの中に『如来は涅槃に入った』と言う者がいるなら、その人は私の弟子ではなく、悪魔の仲間であり、誤った見解を持つ悪人であって、正しい見解を持つ者ではないと知るべきだ。もし『如来は涅槃に入らない』と言うなら、その人は本当に私の弟子であり、悪魔の仲間ではなく、正しい見解を持つ人であって、悪人でも邪見でもない。」

「善男子！我初不見弟子之中有言：『如來不化眾生，默然而住，名般涅槃。』也。善男子！譬如長者，多有子息，捨至他方。未得還頃，諸子咸謂父已長逝，而是長者實不終沒，諸子顛倒皆生沒想。聲聞弟子亦復如是，不見我故，便謂如來已於拘尸那城娑羅雙樹間而般涅槃，而我實不般涅槃也，聲聞弟子生涅槃想。

> 「善き男子よ。私はこれまで、弟子たちの中で『如来は衆生を導かず、沈黙のまま留まり、それを涅槃と呼ぶ』と言う者を一度も見たことがない。 善き男子よ。たとえば、ある長者に多くの子供たちがいたとする。彼が遠くへ旅立ち、まだ戻らぬうちに、子供たちはみな父親はもう死んでしまったと思い込む。しかし実際には、長者は決して死んではいない。子供たちの誤った思い込みによるものだ。 声聞の弟子たちもまた同じである。私を見ることができないがゆえに、『如来はすでにクシナガラの娑羅双樹の間で涅槃に入った』と思い込む。しかし実際には、私は決して涅槃に入ってはいない。声聞の弟子たちが、誤って涅槃に入ったと思い込んでいるのである。」

「善男子！譬如明燈，有人覆之，餘不知者謂燈已滅，而是明焰實亦不滅。以不知故，生於滅想。聲聞弟子亦復如是，雖有慧眼，以煩惱覆令心顛倒，不見真身而便妄生滅度之想，而我實不畢竟滅度。

> 「善男子（ぜんなんし）！例えば明るい灯明があっても、誰かがそれを覆い隠せば、知らない人は灯が消えたと思うでしょう。しかし、その明るい炎は実際には消えてはいないのです。知らないがゆえに、消えたという思いを起こすのです。声聞（しょうもん）の弟子たちもこれと同じです。智慧の眼を持ちながらも、煩悩に覆われて心が逆転し、真実の姿を見ることができずに、私が滅度したという思いを起こすのです。しかし私は実際には、永遠に滅度することはありません。

「善男子！如生盲人不見日、月，以不見故，不知晝夜、明闇之相；以不知故，便說無有日、月之實。實有日、月，盲者不見；以不見故，而生倒想，言無日、月。聲聞弟子亦復如是，如彼生盲，不見如來便謂如來入於涅槃。如來實不入於涅槃，以倒想故生如是心。

> 「善き人よ。例えば生まれつき目の見えない人は、太陽や月を見ることができません。見えないがゆえに、昼と夜、明るさと暗さの区別もわかりません。わからないがゆえに、太陽や月など実在しないと主張します。実際には太陽や月は存在するのですが、目の見えない人には見えず、見えないがゆえに誤った考えを起こして、太陽や月はないと言うのです。声聞の弟子たちも同じです。この生まれつき目の見えない人のように、如来を見ることができないと、如来は涅槃に入られたのだと言います。しかし実際には、如来は決して涅槃には入られません。誤った考えがあるから、そのような心が生じるのです。」

「善男子！譬如雲霧覆蔽日、月，癡人便言無有日、月。日、月實有，直以覆故，眾生不見。聲聞弟子亦復如是，以諸煩惱覆智慧眼，不見如來，便言如來入於滅度。善男子！直是如來現嬰兒行，非滅度也。

> 「善男子（ぜんなんし）！例えば、雲や霧が太陽や月を覆い隠すと、愚かな人は『太陽も月もない』と言うものです。しかし実際には、太陽も月も確かに存在しているのです。ただ覆い隠されているために、人々が見えないだけなのです。声聞（しょうもん）の弟子たちもまた同じです。煩悩（ぼんのう）によって智慧の目が覆われ、如来（にょらい）を見ることができず、『如来は滅度（めつど）に入られた』と言うのです。善男子よ、これは如来が嬰児行（えにぎょう）を現されているのであって、滅度に入られたわけではないのです。」

「善男子！如閻浮提，日入之時眾生不見，以黑山障故，而是日性實無沒入。眾生不見，生沒入想。聲聞弟子亦復如是，為諸煩惱山所障故，不見我身。以不見故，便於如來生滅度想，而我實不畢竟永滅。是故，我於毘舍離國告波旬言：『却後三月我當涅槃。』

> 「善男子（ぜん なんし）よ。たとえば、この閻浮提（えんぶだい）の世界で、太陽が沈む時に人々はそれを見ることができません。黒い山に遮られているからです。しかし、太陽の本性には本当は沈むということがありません。人々は見えないので、『沈んだ』と思い込んでしまうのです。 声聞（しょうもん）の弟子たちもまた、これと同じです。煩悩という山に遮られているので、わたしの本体を見ることができません。見えないがゆえに、如来が『滅度（めつど）に入った』と思い込んでしまうのです。しかし、わたしは実際には永遠に滅び尽きることは決してありません。 それゆえ、わたしはヴァイシャーリーの国で、波旬（はじゅん）にこう告げたのです——『あと三か月で、わたしは涅槃に入るだろう』と。」

「善男子！如來玄見迦葉菩薩却後三月善根當熟；亦見香山須跋陀羅竟安居已，當至我所。是故，我告魔王波旬：『却後三月當般涅槃。』

> 「善き人よ。如来は、迦葉菩薩が三か月後に善根を成熟させることを予見しておられた。また、香山の須跋陀羅が安居を終えた後、私の元に来るであろうことも見抜いておられた。それゆえ、私は魔王波旬に告げたのだ。『三か月後、私は涅槃に入ろう』と。」

「善男子！有諸力士，其數五百，終竟三月亦當得發阿耨多羅三藐三菩提心。我為是故，告波旬言：『却後三月當般涅槃。』

> 善き人よ、五百の大力者たちがいる。彼らは三か月後には、必ず無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）の心を起こすであろう。そのために、わたしは波旬に告げたのだ。「三か月後には涅槃に入る」と。

「善男子！如純陀等及五百梨車菴羅果女，却後三月無上道心善根成熟。為是等故，我告波旬：『却後三月當般涅槃。』

> 「善き者よ。純陀や五百人の梨車族の娘たちのように、三か月後には無上の悟りを求める心が善き根と共に成熟する者たちがいる。彼らのために、私は波旬に告げた——『三か月後、涅槃に入ろう』と。」

「善男子！須那剎多親近外道尼乾子等，我為說法滿十二年。彼人邪見，不信、不受。我知是人邪見根栽却後三月定可拔斷，我為是故告波旬言：『却後三月當般涅槃。』

> 「善男子よ。スナサッタ（須那剎多）は、外道の尼乾子（ニガンダ派）などに親しんでいた。私は彼のために十二年にわたって説法をした。しかし、その人は邪見にとらわれ、私の教えを信じず、受け入れなかった。私は、その人の邪見の根が、三か月後には必ず断ち切られることを知っていた。そのため、私は波旬（悪魔）に告げたのだ——『三か月後、私は涅槃に入るだろう』と。」

「善男子！何因緣故，我於往昔尼連河邊告魔波旬：『我今未有多智弟子，是故不得入涅槃。』者？我時欲為五比丘等於波羅㮈轉法輪故，次復欲為五比丘等——所謂耶奢、富那、毘摩羅闍、憍梵波提、須婆睺——次復欲為郁伽長者等五十人，次復欲為摩伽陀國頻婆娑羅王等無量人天，次復欲為優樓頻螺迦葉門徒五百比丘，次復欲為那提迦葉、伽耶迦葉兄弟二人及五百弟子，次復欲為舍利弗、大目犍連等二百五十比丘轉妙法輪。是故，我告魔王波旬不般涅槃。

> 「善男子。なぜ私がかつてネーランジャナー川のほとりで悪魔の波旬（マーラ）にこう言ったのか？『私は今、智慧を備えた弟子がまだ十分にいない。だから涅槃に入るわけにはいかない』と。それは、まず私が五人の比丘たちのためにバーラーナシーで法輪を転じるためであり、次に五人の比丘たち――すなわちヤソ、プンナ、ビマラージャ、ガビマン、スパホーのため、さらにウパーカ家長ら五十人のため、続けてマガダ国のビンビサーラ王をはじめとする無数の天や人のため、またウルヴェーラ・カッサパのもとにいる五百人の弟子たちのため、そしてナディー・カッサパとガヤー・カッサパの兄弟とその五百人の弟子のため、最後に舎利弗と大目犍連ら二百五十人の比丘たちのために、素晴らしい法輪を説くためであった。だからこそ、私は魔王波旬に『涅槃に入ることはない』と告げたのだ。」

「善男子！有名涅槃，非大涅槃。云何涅槃非大涅槃？不見佛性而斷煩惱，是名涅槃，非大涅槃。以不見佛性故，無常、無我，唯有樂、淨。以是義故，雖斷煩惱，不得名為大般涅槃也。若見佛性能斷煩惱，是則名為大般涅槃。以見佛性故，得名為常、樂、我、淨。以是義故，斷除煩惱亦得稱為大般涅槃。

> 「善男子よ。涅槃というものがあるが、それは大涅槃ではない。どのような涅槃が涅槃であって大涅槃ではないのか。仏性を見ずに煩悩を断ち切ったもの、これを涅槃といい、大涅槃ではない。仏性を見ないがゆえに、無常・無我であり、ただ楽と浄のみがある。この理由により、煩悩を断ち切っても、大般涅槃と名づけることはできない。もし仏性を見て煩悩を断ち切ることができれば、これを大般涅槃と名づける。仏性を見るがゆえに、常・楽・我・浄と名づけられる。この理由により、煩悩を断ち切ることもまた大般涅槃と称することができるのである。」

「善男子！涅者言不，槃者言滅，不滅之義名為涅槃。槃又言覆，不覆之義乃名涅槃。槃言去、來，不去、不來乃名涅槃。槃者言取，不取之義乃名涅槃。槃言不定，定無不定乃名涅槃。槃言新故，無新故義乃名涅槃。槃言障礙，無障礙義乃名涅槃。

> 「善男子よ。『涅』は『ない』という意味であり、『槃』は『滅する』という意味です。『ない』と『滅する』というこの二つの意味を合わせて『涅槃』と呼ぶのです。 また、『槃』には『覆い隠す』という意味もありますが、『覆い隠されない』という意味こそが涅槃なのです。 『槃』には『去る』と『来る』という意味もありますが、『去ることも来ることもない』という意味こそが涅槃なのです。 『槃』には『取る』という意味もありますが、『取らない』という意味こそが涅槃なのです。 『槃』には『定まっていない』という意味もありますが、『定まっていることも定まっていないこともない』という意味こそが涅槃なのです。 『槃』には『新しい』『古い』という意味もありますが、『新しくも古くもない』という意味こそが涅槃なのです。 『槃

「善男子！有優樓迦、迦毘羅弟子等言：『槃者名相，無相之義乃名涅槃。』善男子！槃者言有，無有之義乃名涅槃。槃名和合，無和合義乃名涅槃。槃者言苦，無苦之義乃名涅槃。

> 「善男子、善女人よ。優樓迦や迦毘羅の弟子たちがこう言います——『槃とは形やはたらき（相）を指し、形なき意味こそが涅槃である』と。 善男子、善女人よ。しかし、『槃』というのは『有る』ことを意味し、『有る』ことがないという意味こそが涅槃なのです。 『槃』とは寄り集まり（和合）を意味し、寄り集まりがないという意味こそが涅槃なのです。 『槃』とは苦しみを意味し、苦しみがないという意味こそが涅槃なのです。」

「善男子！斷煩惱者不名涅槃，不生煩惱乃名涅槃。

> 「善男子よ。煩悩を断ち切ることを涅槃とは言いません。煩悩が生じなくなることこそが、涅槃なのです。」

「善男子！諸佛如來煩惱不起，是名涅槃。所有智慧於法無礙是為如來，如來非是凡夫、聲聞、緣覺、菩薩，是名佛性。如來身、心、智慧遍滿無量無邊阿僧祇土，無所障礙，是名虛空。如來常住，無有變易，名曰實相。以是義故，如來實不畢竟涅槃。

> 「善男子よ。如来たちには煩悩の生じることがなく、これを涅槃と名づける。すべての智慧が法において障りなくはたらくこと、これを如来と名づける。如来は凡夫でも声聞でも縁覚でも菩薩でもない。これを仏性と名づける。如来の身、心、智慧は無量無辺の阿僧祇の世界に満ちわたり、何の障りもなく、これを虚空と名づける。如来は常住であり、変わることなく、これを実相と名づける。ゆえに、如来は実際には決して究極の涅槃に入ることはないのである。」

「是名菩薩修大涅槃微妙經典具足成就第七功德。

> これこそが、菩薩が大涅槃の微妙な経典を修し、第七の功徳を完全に成就することを名づけるのです。

「善男子！云何菩薩摩訶薩修大涅槃微妙經典具足成就第八功德？善男子！菩薩摩訶薩修大涅槃，除斷五事、遠離五事、成就六事、修習五事、守護一事、親近四事、信順一實心、善解脫慧、善解脫。

> 「善男子よ。菩薩摩訶薩が大涅槃の微細なる経典を修め、第八の功徳を具足して成就するとは、どのようなことか。善男子よ。菩薩摩訶薩は大涅槃を修めるにあたり、五つのことを断ち除き、五つのことを遠ざけ、六つのことを成就し、五つのことを修習し、一つのことを守護し、四つのことに親しみ、一つの真実を心から信じ従い、よく解脱の智慧を理解し、よく解脱するのである。」

「善男子！云何菩薩斷除五事？所謂五陰：色、受、想、行、識。

> よき人々よ。菩薩が断ち切るべき五つのものとは何か。それは五蘊（ごうん）と呼ばれるものである。すなわち、色（かたち）・受（うけとり）・想（そうぞう）・行（おもい）・識（認識）である。

「所言陰者，其義何謂？能令眾生生死相續，不離重擔，分散聚合，三世所攝，求其實義了不可得。以是諸義，故名為陰。

> 「陰（かげ）と言うが、その意味は何か。それは、生きとし生けるものを生死の繰り返しに結びつけ、重い荷から離れさせず、散らばり集まりを繰り返させ、過去・現在・未来の三つの時代に捉えられている。しかし、その実体をどこかに求めても、ついに捉えることはできない。これらの理由によって、陰と呼ばれるのである。」

「菩薩摩訶薩雖見色陰，不見其相。何以故？於十色中推求其性悉不可得，為世界故，說言為陰。

> 菩薩摩訶薩は、色陰を見るけれども、その形相を見ることはありません。なぜなら、十の色の要素の中にその本性を探し求めても、すべて得ることができないからです。世界（この世のあり方）のために、仮に「陰」と言い表しているのです。

「受有百八，雖見受陰，初無受相。何以故？受雖百八，理無定實，是故菩薩不見受陰；想、行、識等亦復如是。

> 受には百八種ありますが、受陰を観察しても、そもそも「受」という実体はありません。なぜなら、百八種の受があるとはいえ、その本質には確かな実体がないからです。そのため菩薩は、受陰を実体としては見ません。想陰、行陰、識陰についても同様です。

「菩薩摩訶薩深見五陰是生煩惱之根本也。以是義故，方便令斷。

> 菩薩摩訶薩は、五陰（色・受・想・行・識）が煩悩を生む根本であると深く見極めます。そのため、智慧ある方法を用いて、それを断ち切らせようとするのです。

「云何菩薩遠離五事？所謂五見。何等為五？一者、身見，二者、邊見，三者、邪見，四者、戒取，五者、見取。因是五見生六十二見，因是諸見生死不絕，是故菩薩防護不近。

> 菩薩が避けるべき五つのこととは何でしょうか。それは五つの「見解（見）」です。その五つとは、第一に「身見（自己への固執）」。第二に「辺見（極端な考え）」。第三に「邪見（間違った見解）」。第四に「戒取（誤った修行の執着）」。第五に「見取（自分の見解に固執すること）」です。これらの五つの見解から、六十二もの様々な見解が生まれます。そして、これらの見解のために、生まれ変わりと死に苦しみ続けることになります。ですから、菩薩はこれらの見解をしっかりと防ぎ、近づかないのです。

「云何菩薩成就六事？謂六念處。何等為六？一者、念佛，二者、念法，三者、念僧，四者、念天，五者、念施，六者、念戒，是名菩薩成就六事。

> 菩薩が六つのことを成就するとは、すなわち六念処のことです。その六つとは何か。第一に仏を念じること、第二に法を念じること、第三に僧を念じること、第四に天を念じること、第五に施しを念じること、第六に戒めを念じることです。これを菩薩が六つのことを成就すると言います。

「云何菩薩修習五事？所謂五定：一者、知定，二者、寂定，三者、身心受快樂定，四者、無樂定，五者、首楞嚴定。修習如是五種定心則得近於大般涅槃，是故菩薩勤心修習。

> 「菩薩がどのように五つのことを修行するのでしょうか。それは五つの定（心の集中）です。第一に、智慧をもって物事を正しく見極める『知定』。第二に、心が静まり煩悩がおさまる『寂定』。第三に、心と体がともに楽になる『身心受快樂定』。第四に、楽への執着さえも超えた『無楽定』。第五に、すべてを貫く確固たる智慧の『首楞厳定』です。この五つの心の定めを修行すれば、大いなる悟り（大般涅槃）に近づくことができます。ですから、菩薩は努力を惜しまずこの修行に励むのです。」

「云何菩薩守護一事？謂菩提心。菩薩摩訶薩常勤守護是菩提心，猶如世人守護一子、亦如瞎者護餘一目。如行曠野守護導者，菩薩守護菩提之心亦復如是。因護如是菩提心故，得阿耨多羅三藐三菩提；因得阿耨多羅三藐三菩提故，常、樂、我、淨具足而有，即是無上大般涅槃。是故，菩薩守護一法。

> 菩薩が「ただ一つのこと」を守るとは、どういうことでしょうか。それは「菩提心」です。菩薩摩訶薩は、この菩提心を常に熱心に守り続けます。まるで世の人が一人のわが子を守るように、また、目の見えない人が残った一つの目を守るように。荒野を行く者が先導者を守るように、菩薩が菩提心を守るのもまた同じです。この菩提心を守るがゆえに、最高の悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を得ることができます。その最高の悟りを得るがゆえに、永遠・至福・真我・清浄（常・楽・我・浄）が完全にそろい、それは他ならぬ無上の大涅槃なのです。それゆえ、菩薩はただ一つの法を守るのです。

「云何菩薩親近四事？謂四無量心。何等為四？一者、大慈，二者、大悲，三者、大喜，四者、大捨。因是四心能令無量無邊眾生發菩提心，是故菩薩繫心親近。

> 菩薩が親しむべき四つのこととは何でしょうか。それは四つの無量心です。その四つとは、第一に大いなる慈しみ、第二に大いなる悲しみ、第三に大いなる喜び、第四に大いなる捨てる心です。この四つの心によって、数え切れないほどの多くの生きとし生けるものに菩提心を起こさせることができるのです。ですから菩薩は、心をこれらに結びつけて親しむのです。

「云何菩薩信順一實？菩薩了知一切眾生皆歸一道，一道者謂大乘也。諸佛、菩薩為眾生故分之為三，是故菩薩信順不逆。

> いかなる菩薩が一つの真実を信じ従うのか。菩薩は、すべての衆生が一つの道に帰することを悟っている。その一つの道とは、大乗のことである。諸仏や菩薩は、衆生のためにこれを三つに分けたのである。ゆえに菩薩は、これを信じ従って疑わない。

「云何菩薩心善解脫？貪、恚、癡心永斷滅故，是名菩薩心善解脫。

> 菩薩の心が善く解脱しているとはどういうことか？それは、貪り・怒り・無知の心を完全に断ち滅ぼしているからである。これを菩薩の心の善く解脱した状態という。

「云何菩薩慧善解脫？菩薩摩訶薩於一切法知無障礙，是名菩薩慧善解脫。因慧解脫，昔所不聞而今得聞、昔所不見而今得見、昔所不到而今得到。」

> 「菩薩の智慧による善き解脱とは何か。大乗の菩薩は、あらゆる存在（法）について、障りなく知り尽くす。これを、菩薩の智慧による善き解脱という。この智慧による解脱によって、かつて聞いたことのないものを今聞き、かつて見たことのないものを今見、かつて達したことのないところに今達することができるのである。」

爾時，光明遍照高貴德王菩薩摩訶薩言：「世尊！如佛所說心解脫者，是義不然。何以故？心本無繫。所以者何？是心本性不為貪欲、瞋恚、愚癡、諸結所縛。若本無繫，云何而言心善解脫？世尊！若心本性不為貪結之所繫者，何等因緣而能得繫？如人𤚲角，本無乳相，雖加功力，乳無由出。𤚲於乳者則不如是，加功雖少，乳則多出。心亦如是，本無貪者，今云何有？若本無貪、後方有者，諸佛、菩薩本無貪相，今悉應有。

> 爾の時、光明遍照高貴徳王菩薩摩訶薩が言った。「世尊よ、如来がお説きになった『心が解脱する』という教えは、道理に適いません。なぜなら、心には本来、束縛がないからです。どうしてかといえば、この心の本性は、貪欲・瞋恚・愚癡などのあらゆる煩悩に束縛されるものではないからです。もし本来、束縛がないのなら、どうして『心がよく解脱した』と言えるのでしょうか？世尊よ、もし心の本性が貪りの煩悩に束縛されるものでないなら、どのような原因によって束縛されるようになるのでしょうか？ちょうど、人の角を搾っても、もともと乳の性質がないので、いくら力を尽くしても乳が出てこないのと同じです。しかし、乳房を搾る場合はそうではなく、少し力を加えるだけで多くの乳が出てきます。心もこれと同じで、もともと貪りがないのに、今、どうして貪りがあると言えるのでしょう？もしもともと貪りがなく、後に生じるものなら、諸仏や菩薩ももともと貪りの相がなかったのだから、今はみな貪りを持つべきことになります。」

「世尊！譬如石女，本無子相，雖加功力、無量因緣，子不可得；心亦如是，本無貪相，雖造眾緣，貪無由生。世尊！如鑽濕木，火不可得；心亦如是，雖復鑽求，貪不可得。云何貪結能繫於心？

> 世尊よ、たとえば石女（子供を産めない女性）には、もともと子供の形がありません。どんなに力を尽くし、多くの縁（条件）を整えても、子供を得ることはできません。心も同じです。もともと貪りの形はありません。たとえ様々な縁を整えても、貪りが生じることはないのです。 世尊よ、たとえば湿った木を掘って火を起こそうとしても、火を得ることはできません。心も同じです。いくら掘り求めたところで、貪りを得ることはできません。では、どうして貪りの束縛が心を縛ることができるのでしょうか。

「世尊！譬如壓沙，油不可得；心亦如是，雖復壓之，貪不可得。當知：貪、心，二理各異，設復有之，何能污心？世尊！譬如有人安橛於空，終不得住：安貪於心亦復如是，種種因緣不能令貪繫縛於心。

> 世尊（せそん）たとえば砂を押しても油を得ることはできません。心も同じで、いくら押しつぶそうとしても、貪り（むさぼり）を得ることはできません。知るべきです──貪りと心は、その理（ことわり）が別々のものです。たとえ貪りがあったとしても、どうして心を汚すことができるでしょうか。世尊、たとえば誰かが虚空（こくう）に杭（くい）を打とうとしても、決して留まることがありません。貪りを心に結びつけようとするのも同じで、さまざまな因縁（いんねん）によっても、貪りが心を縛ることはできません。

「世尊！若心無貪名解脫者，諸佛、菩薩何故不拔虛空中刺？世尊！過去世心不名解脫、未來世心亦無解脫、現在世心不與道共，何等世心名得解脫？

> 世尊よ。もし心に貪りがないことを「解脱」と呼ぶならば、なぜ諸仏や菩薩たちは虚空の棘を抜かないのでしょうか。世尊よ。過去の心は解脱とは呼べません。未来の心にも解脱はありません。現在の心も道と共にあるのではありません。では、いったいどの世の心を「解脱を得た」と言うのでしょうか。

「世尊！如過去燈不能滅闇、未來世燈亦不滅闇、現在世燈復不滅闇。何以故？明之與闇二不並故。心亦如是，云何而言心得解脫？

> 世尊よ、過去の灯りが闇を滅することができず、未来の灯りも闇を滅することができず、現在の灯りもまた闇を滅することができないのは、なぜでしょうか？光と闇は同時に存在することがないからです。心もまた同じです。どうして心が解脱を得たと言えるのでしょうか？

「世尊！貪亦是有。若貪無者，見女相時不應生貪。若因女相而得生者，當知是貪真實而有。以有貪故，墮三惡道。

> 世尊、貪欲もまた確かに存在します。もし貪欲がなければ、女の姿を見たときに欲が生じるはずがありません。女の姿を因として欲が生じるなら、この貪欲は真実に存在するものと知るべきです。貪欲があるからこそ、三悪道に堕ちるのです。

「世尊！譬如有人見畫女像亦復生貪，以生貪故得種種罪。若本無貪，云何見畫而生於貪？若心無貪，云何如來說言菩薩心得解脫？若心有貪，云何見相然後方生？不見相者則不生耶？我今現見有惡果報，當知有貪、瞋恚、愚癡亦復如是。

> 世尊よ。たとえば人が、描かれた女の像を見て、欲の心を起こし、その欲によってさまざまな罪を積むことがあります。そもそも心に欲がなければ、どうして絵を見て欲が生まれるのでしょう。もし心に欲がなければ、どうして如来は「菩薩は心の解脱を得る」と説かれるのでしょう。また、もし心に欲があるなら、どうして対象（相）を見た後に初めて欲が生じるのでしょう。対象を見なければ欲は生じないのではありませんか。私は今、実際に悪い結果（果報）があるのを見ています。したがって、欲（貪）、怒り（瞋恚）、愚かさ（愚癡）もまた同じであると知るべきです。

「世尊！譬如眾生有身無我，而諸凡夫橫計我想。雖有我想，不墮三趣。云何貪者於無女相而起女想，墮三惡道？

> 世尊よ、たとえば、衆生には身体があっても私（自我）は存在しません。それにもかかわらず、凡夫たちは無理に「私」という考えをいだきます。しかし、そうした「私」という考えがあっても、三悪趣に落ちることはありません。では、なぜ執着する者は、本来女性の本質がないのに女性という妄想を起こし、三悪道に堕ちてしまうのでしょうか。

「世尊！譬如鑽木而生於火，然是火性眾緣中無，以何因緣而得生耶？世尊！貪亦如是，色中無貪，香、味、觸、法亦復無貪。云何於色、香、味、觸、法而生貪耶？若眾緣中悉無貪者，云何眾生獨生於貪，諸佛、菩薩而不生耶？

> 世尊よ、例えば、木をこすって火を起こすとき、その火の性質は木やその他の材料の中には元々存在しません。それでは、どのような因縁によって火が生じるのでしょうか？ 世尊よ、貪りの心もまた同じです。色（形あるもの）の中に元々貪りはなく、香り、味、触れられるもの、そして心の対象（法）にも貪りはありません。では、どのようにして色、香り、味、触れられるもの、心の対象から貪りが生じるのでしょうか？もしすべての因縁の中に貪りが全くないのなら、なぜ凡夫だけが貪りを生じ、諸仏や菩薩は貪りを生じないのでしょうか？

「世尊！心亦不定。若心定者，無有貪欲、瞋恚、愚癡；若不定者，云何而言心得解脫？貪亦不定，若不定者，云何因之生三惡趣？貪者、境界，二俱不定。何以故？俱緣一色，或生於貪、或生於瞋、或生愚癡，是故，貪者及與境界二俱不定。若俱不定，何故如來說言：『菩薩修大涅槃，心得解脫。』」

> 世尊よ、心もまた定まるものではありません。もし心が定まるものならば、貪欲や瞋恚、愚痴は存在しないはずです。しかし、もし定まらないものならば、どうして心が解脱を得たと言えるのでしょうか。貪欲も定まっておらず、もし定まらないものならば、どうしてそれによって三悪趣が生まれるのでしょうか。貪欲も、その対象も、どちらも定まっていません。なぜなら、同じ一つの色に対しても、ある時は貪欲が生じ、ある時は瞋恚が生じ、ある時は愚痴が生じるからです。したがって、貪欲もその対象も、どちらも定まっていないのです。もし両方が定まっていないならば、なぜ如来は「菩薩が大涅槃を修して、心が解脱を得る」と説かれたのでしょうか。

爾時，世尊告光明遍照高貴德王菩薩摩訶薩言：「善哉，善哉。善男子！心亦不為貪結所繫、亦非不繫，非是解脫、非不解脫，非有、非無，非現在、非過去、非未來。何以故？善男子！一切諸法無自性故。

> その時、世尊は光明遍照高貴徳王菩薩摩訶薩に告げられた。「よきかな、よきかな。善き人よ。心は貪りの結びつきに縛られるのでもなく、また、縛られないのでもない。解脱しているのでもなく、解脱していないのでもない。存在するのでもなく、存在しないのでもない。現在にあるのでもなく、過去にあるのでもなく、未来にあるのでもない。なぜか。善き人よ。すべての諸法には、永遠の実体がないからである。」

「善男子！有諸外道作如是言：『因緣和合則有果生。』若眾緣中本無生性而能生者，虛空不生亦應生果。虛空不生非是因故，以眾緣中本有果性，是故合集而得生果。所以者何？如提婆達欲造牆壁則取泥土，不取彩色；欲造畫像則集彩色，不取草木；作衣取縷，不取泥木；作舍取泥，不取縷綖。以人取故，當知是中各能生果；以能生果故，當知因中必先有性。若無性者，一物之中應當出生一切諸物。若是可取、可作、可出，當知是中必先有果。若無果者，人則不取、不作、不出，唯有虛空——無取、無作故——能出生一切萬物。以有因故，如尼拘陀子住尼拘陀樹、乳有醍醐、縷中有布、泥中有瓶。

> 善男子よ。外道の中にはこう言う者たちがいる——「様々な縁（条件）が和合すれば、その結果として果（結果）が生じる」と。しかし、もし様々な縁の中に本来「生じる性質」が無いのに生じることができるなら、虚空（空間）は生じないのに、果を生じるはずである。虚空が生じないのは、それが因（原因）ではないからだ。様々な縁の中に元々果の性質があるからこそ、それらが集まって果が生じるのである。なぜか？例えば、提婆達（デーヴァダッタ）が壁を作ろうとする時には泥土を取り、絵の具は取らない。絵を描こうとする時には絵の具を集め、草木は取らない。衣服を作る時には糸を取り、泥土や木は取らない。家を作る時には泥土を取り、糸は取らない。人が取るという行為があるからこそ、それぞれの中に果を生じる性質があると知るべきである。果を生じることができるからこそ、因の中には必ず先に性質があると知るべきである。もし性質が無ければ、一つの物の中から全ての物が生じるはずである。もし取り、作り、出すことができるなら、その中には必ず先に果があると知るべきである。もし果が無ければ、人は取らず、作らず、出さない。ただ虚空だけが——取ることも作ることもないから——全ての万物を生じ出すことができる。因があるからである。例えば、尼拘陀（ニグローダ）の種子が尼拘陀の木の中にあり、乳には酥（バター）が、糸には布が、泥には瓶があるように。

「善男子！一切凡夫無明所盲作是定說：『色有著義、心有貪性。』復言：『凡夫心有貪性、亦解脫性。遇貪因緣，心則生貪；若遇解脫，心則解脫。』雖作此說，是義不然。

> 「善男子よ。全ての凡夫は無明に盲されて、次のように断言する。『色には執着する性質がある。心には貪りの本性がある。』また言う。『凡夫の心には貪りの本性と、同時に解脱の本性がある。貪りの因縁に出会えば心は貪りを生じ、もし解脱の因縁に出会えば心は解脱する。』このように説くが、その意味するところは正しくない。」

「有諸凡夫復作是言：『一切因中悉無有果。』因有二種：一者、微細，二者、麁大。細即是常，麁則無常。從微細因轉成麁因，從此麁因轉復成果。麁無常故，果亦無常。

> 「ある凡夫たちが、またこう言います。『すべての因（原因）の中には、実は果（結果）は存在しない。』と。 因には二種類ある。一つは微細なもの、もう一つは粗大なものである。 微細なものは常（不変）であり、粗大なものは無常（変化する）である。 微細な因が変化して粗大な因となり、その粗大な因がさらに変化して果を生じる。 粗大なものは無常であるから、その果もまた無常である。」

「善男子！有諸凡夫復作是言：『心亦無因、貪亦無因，以時節故則生貪心。』如是等輩以不能知心因緣故輪迴六趣，具受生死。

> 「善男子（善き男子たちよ）。凡夫の中には、さらにこう言う者もいる。『心にも原因はなく、貪りの心にも原因はない。ただ時期や節季によって、貪りの心が生じるのだ』と。このような人々は、心の因縁（原因と条件）を理解できないため、六つの迷いの世界を輪廻し、生死の苦しみをことごとく受けているのである。」

「善男子！譬如枷犬繫之於柱，終日繞柱不能得離。一切凡夫亦復如是，被無明枷繫生死柱，繞二十五有不能得離。

> 「善男子（ぜんなんし）たち、たとえて言うならば、鎖につながれた犬が柱に結ばれ、一日中その柱の周りを回っても離れられないようなものです。すべての凡夫（ぼんぶ）もまた同じで、無明（むみょう）という鎖で生死（しょうじ）の柱につながれ、二十五有（にじゅうごう）の世界を巡りながら、そこから離れることができないのです。」

「善男子！譬如有人墮於圊廁，既得出已而復還入；如人病差，還為病因；如人涉路值空曠處，既得過已而復還來；又如淨洗還塗泥土。一切凡夫亦復如是，已得解脫無所有處，唯未得脫非非想處，而復還來至三惡趣。何以故？一切凡夫唯觀於果，不觀因緣。如犬逐塊，不逐於人。凡夫之人亦復如是，唯觀於果，不觀因緣。以不觀故，從非想退還三惡趣。

> 「善き人よ、たとえるなら、ある人が汚物溜めに落ち、そこから這い出たのに、また再び戻っていくようなもの。または、病気が治ったのに、再び病因となるもの。あるいは、旅人が荒野を通り過ぎたのに、また引き返してくるようなもの。または、きれいに洗ったのに、再び泥を塗るようなもの。 すべての凡夫もまたこれと同じである。すでに無所有処（何もない境地）の解脱を得ているのに、ただ非非想処（あるようでない境地）だけはまだ脱していない。そして、再び三悪趣（地獄・餓鬼・畜生）に戻ってきてしまう。 なぜか？すべての凡夫は、ただ結果だけを見て、原因と縁（条件）を観じないからである。それはまるで、犬が人を追わずに、投げられた土くれを追うようなもの。凡夫の人々もまたこれと同じで、ただ結果だけを見て、原因と縁を観じない。そのため観じないがゆえに、非想（非非想処）から退いて、三悪趣に堕ちてしまうのである。」

「善男子！諸佛、菩薩終不定說因中有果、因中無果，及有無果、非有非無果。若言因中先定有果、及定無果、定有無果、定非有非無果，當知是等皆魔伴黨。繫屬於魔即是愛人，如是愛人不能永斷生死繫縛，不知心相及以貪相。

> 善き男子よ。諸仏や菩薩は、決して「因の中に果がある」とか「因の中に果はない」とか、あるいは「果があるともないとも言える」「果があるのでもなく、ないのでもない」とは、断定的に説かない。もし「因の中にあらかじめ確かに果がある」「確かに果はない」「確かに果があるともないとも言える」「確かに果があるのでもなく、ないのでもない」と説く者がいれば、そのような者たちはみな魔の仲間であると知るべきだ。魔に属する者は、すなわち愛に執着する者である。そのような愛に執着する者は、生死の束縛を永遠に断ち切ることができず、心のあり様や貪りの相を正しく知ることができない。

「善男子！諸佛菩薩顯示中道。何以故？雖說諸法非有、非無，而不決定。所以者何？因眼、因色、因明、因心、因念，識則得生。是識決定不在眼中、色中、明中、心中、念中，亦非中間、非有、非無。從緣生故，名之為有；無自性故，名之為無。是故，如來說言諸法非有、非無。

> 「善男子よ。諸仏・菩薩は中道（ちゅうどう）を示される。なぜか。さまざまな法（ものごと）は「存在する」とも「存在しない」とも、はっきり決められないからである。 その理由とは、眼・形・光・心・思考といった縁（条件）がそろって、はじめて認識が生まれるからだ。 この認識は、眼の中にも、形の中にも、光の中にも、心の中にも、思考の中にも決して存在しない。また、それらの間にもなく、「ある」とも「ない」とも言えない。 縁（条件）によって生じるから「ある」と名づけられるが、それ自体に固定した本質（じこせい）がないから「ない」とも名づけられる。 このように、如来は「すべての法は『ある』のでも『ない』のでもない」と説かれたのである。

「善男子！諸佛、菩薩終不定說心有淨性及不淨性，淨、不淨心無住處故。從緣生貪，故說非無；本無貪性，故說非有。

> 善男子よ。諸仏や菩薩は、心に清らかな性質があるとか、清らかでない性質があるとは、決して固定的に説きません。清らかな心も清らかでない心も、とどまる場所がないからです。縁によって貪りが生じるからこそ、「無いわけではない」と説き、本来貪りの性質がないからこそ、「有るわけではない」と説くのです。

「善男子！從因緣故，心則生貪；從因緣故，心則解脫。善男子！因緣有二：一者、隨於生死，二者、隨大涅槃。

> 善き男子よ、因縁によって心に貪りが生じ、また因縁によって心は解脱する。善き男子よ、因縁には二つの種類がある。一つは生死に従うもの、二つ目は大涅槃に従うものである。

「善男子！有因緣故，心共貪生共貪俱滅、有共貪生不共貪滅、有不共貪生共貪俱滅、有不共貪生不共貪滅。

> 善き男子よ。因縁によって、心は貪りと共に生じて共に滅することがあり、貪りと共に生じても共に滅しないことがあり、貪りと共に生じずに共に滅することがあり、貪りと共に生じず共に滅しないこともある。

「云何心共貪生共貪俱滅？善男子！若有凡夫未斷貪心修習貪心，如是之人心共貪生心共貪滅。一切眾生不斷貪心，心共貪生心共貪滅。如欲界眾生一切皆有初地味禪，若修、不修，常得成就，遇因緣故即便得之，言因緣者，謂火災也。一切凡夫亦復如是，若修、不修，心共貪生心共貪滅。何以故？不斷貪故。

> 「どのような心が貪りと共に生じ、貪りと共に滅するのでしょうか。善き人よ、およそ凡夫で、まだ貪りの心を断ち切っておらず、貪りの心を修習する者がいれば、その人の心は貪りと共に生じ、貪りと共に滅します。すべての生きとし生けるものは、貪りの心を断ち切っていないため、心は貪りと共に生じ、貪りと共に滅するのです。例えて言うなら、欲界の衆生はすべて、初めての地味の禅定（初禅）を有しています。修行しようとしまいと、常にそれを成就しており、縁に遇えばすぐにそれを得ます。その縁とは、火災のことを指します。すべての凡夫もまたこれと同じで、修行しようとしまいと、心は貪りと共に生じ、貪りと共に滅します。なぜでしょうか。貪りを断ち切っていないからです。」

「云何心共貪生不共貪滅？聲聞弟子有因緣故生於貪心，畏貪心故修白骨觀，是名心共貪生不共貪滅。復有心共貪生不共貪滅，如聲聞人未證四果，有因緣故生於貪心，證四果時貪心得滅，是名心共貪生不共貪滅。菩薩摩訶薩得不動地時，心共貪生不共貪滅。

> 「どのような心が貪りと共に生じ、貪りと共に滅しないのか。声聞の弟子には、因縁があって貪りの心が生じることがある。貪りの心を畏れて白骨観を修行する。これを、心が貪りと共に生じ、貪りと共に滅しないという。また、心が貪りと共に生じ、貪りと共に滅しない場合がある。例えば、声聞の修行者がまだ四つの果報を悟っていない時、因縁があって貪りの心が生じる。四つの果報を悟った時、貪りの心は滅する。これを、心が貪りと共に生じ、貪りと共に滅しないという。また、大菩薩が動かない境地に達した時、心が貪りと共に生じ、貪りと共に滅しない。」

「云何不共貪生共貪俱滅？若菩薩摩訶薩斷貪心已，為眾生故，示現有貪。

> いかなるものが「共ならざる貪欲が生じ、共なる貪欲と共に滅する」のでしょうか。 菩薩摩訶薩が貪りの心を断ち切った後も、衆生のためには貪りがあるかのように現し示します。

「以示現故，能令無量無邊眾生諮受善法，具足成就，是名不共貪生共貪俱滅。

> 「現れ示すがゆえに、無数無限の生きとし生けるものたちに善い教えを問い求め、身につけ、完全に成就させることができる。これを『貪りとともに生まれず、貪りとともに滅することのない、独特のあり方』と名づける。」

「云何不共貪生不共貪滅？謂阿羅漢、緣覺、諸佛——除不動地其餘菩薩——是名不共貪生不共貪滅。以是義故，諸佛、菩薩不決定說心性本淨、性本不淨。

> 「共通しない貪りの生起と滅却とは何か。阿羅漢、縁覚、そして諸仏――ただし不動地を除く菩薩たち――これが共通しない貪りの生起と滅却である。この理由により、諸仏や菩薩は、心の本性がもともと清らかであるとか、もともと清らかでないとは、決定的には説かれないのです。」

「善男子！是心不與貪結和合，亦復不與瞋、癡和合。善男子！譬如日、月，雖為烟、塵、雲、霧、及阿修羅之所覆蔽，以是因緣，令諸眾生不能得見。雖不可見，日、月之性，終不與彼五翳和合。心亦如是，以因緣故生於貪結。眾生雖說心與貪合，而是心性實不與合。若是貪心即是貪性；若是不貪，即不貪性。不貪之心不能為貪，貪結之心不能不貪。善男子！以是義故，貪欲之結不能污心。

> 「善男子よ、この心は貪りの結びつきと結びついておらず、また怒りや無知の結びつきとも結びついていません。善男子よ、たとえて言うなら、太陽や月は、煙、塵、雲、霧、そして阿修羅に覆い隠されることがあり、そのために衆生はそれらを見ることができません。しかし、見えなくても、太陽や月の本質は、それらの五つの覆いと決して結びつくことはありません。心もこれと同じです。因縁によって貪りの結びつきが生じます。衆生は『心が貪りと結びついている』と言いますが、その心の本質は実際には結びついていないのです。もし貪りの心であれば、それは貪りの性質そのものです。もし貪りでなければ、それは貪らない性質です。貪らない心は貪ることはできません。貪りの結びつきがある心は、貪らないことはできません。善男子よ、このような理由から、貪欲の結びつきは心を汚すことができないのです。」

「諸佛、菩薩永破貪結，是故說言心得解脫。一切眾生從因緣故，生於貪結；從因緣故，心得解脫。

> 諸佛や菩薩は、貪りの結びつきを完全に打ち破っています。そのため、「心が解脱を得た」と説かれています。すべての生きとし生けるものは、因縁によって貪りの結びつきが生じ、また因縁によって心が解脱を得るのです。

「善男子！譬如雪山懸峻之處，人與獼猴俱不能行；或復有處，獼猴能行、人不能行；或復有處，人與獼猴二俱能行。善男子！人與獼猴能行處者，如諸獵師純以黐膠置之案上用捕獼猴。獼猴癡故，往手觸之，觸已粘手；欲脫手故，以脚蹋之，脚復隨著；欲脫脚故，以口齧之，口復粘著。如是五處悉無得脫，於是獵師以杖貫之，負還歸家。雪山嶮處，譬佛、菩薩所得正道；獼猴者，譬諸凡夫；獵師者，喻魔波旬；黐膠者，譬貪欲結。人與獼猴俱不行者，譬諸凡夫、魔王波旬俱不能行；獼猴能行人不能行者，譬諸外道有智慧者，諸惡魔等雖以五欲不能繫縛；人與獼猴俱能行者，一切凡夫及魔波旬常處生死，不能修行。凡夫之人五欲所縛，令魔波旬自在將去，如彼獵師擒捕獼猴，負之歸家。

> 「善男子。例えば、雪のように白くそびえる高山の険しい崖には、人間も猿も共に登ることができません。また、ある場所では猿は登れても人間は登れず、別の場所では人間も猿も共に登れます。善男子。人間と猿が共に登れる場所では、例えば狩人が粘りのある罠を台に置いて猿を捕らえます。愚かな猿はそれに手を触れ、触れると手がくっつき、手を離そうとして足で踏むと足もまたくっつき、足を離そうとして口で噛むと口もまたくっつきます。こうして五つの場所全てが離れず、そこで狩人は棒でそれを貫いて背負って家に帰ります。雪山の険しい場所は、仏や菩薩が得た正しい道に例えられます。猿は凡夫に例えられ、狩人は悪魔波旬に例えられ、粘りのある罠は貪欲の束縛に例えられます。人間も猿も共に行けない場所は、凡夫も魔王波旬も共に行けないことに例えられます。猿は行けても人間は行けない場所は、智慧ある外道たちに例えられ、悪魔たちは五欲によって縛ることができません。人間と猿が共に行ける場所は、凡夫も魔王波旬も常に生死の中にあり、修行できないことを表します。凡夫は五欲に縛られることで、魔王波旬が自在に連れ去ることを許し、まるで狩人が猿を捕らえて背負って家に帰るようなものです。」

「善男子！譬如國王安住己界，身心安樂；若至他界則得眾苦。一切眾生亦復如是，若能自住於己境界則得安樂；若至他界則遇惡魔，受諸苦惱。自境界者，謂四念處；他境界者，謂五欲也。

> 「善きかな、男子よ。例えば、国王が自らの領地に安らかにとどまれば、身も心も安楽である。しかし、他国の領地に行けば多くの苦しみを受ける。全ての衆生もまた同じである。自らの境地に安住することができれば安楽を得るが、他者の境地に赴けば悪魔に遭い、様々な苦悩を受ける。自らの境地とは、四念処（四つの気づきの実践）を指す。他者の境地とは、五欲（五つの感官の欲求）を指す。」

「云何名為繫屬於魔？有諸眾生無常見常、常見無常，苦見於樂、樂見於苦，不淨見淨、淨見不淨，無我見我、我見無我，非實解脫妄見解脫、真實解脫見非解脫，非乘見乘、乘見非乘，如是之人名繫屬魔。繫屬魔者，心不清淨。

> 「魔にとらわれるとは、どういうことか。ある人々は、無常であるものを常であると見、常であるものを無常と見る。苦しいものを楽しいと見、楽しいものを苦しいと見る。清らかでないものを清らかと見、清らかなものを清らかでないと見る。無我であるものを我と見、我であるものを無我と見る。本当の解脱ではないものを解脱と思い込み、本当の解脱を解脱でないと見る。真実の教え（乗）ではないものを教えと思い、真実の教えを教えでないと見る。このような人のことを、魔にとらわれた者という。魔にとらわれた者は、心が清らかではない。」

「復次，善男子！若見諸法真實是有總別定相，當知是人若見色時便作色相，乃至見識亦作識相、見男男相、見女女相、見日日相、見月月相、見歲歲相、見陰陰相、見入入相、見界界相。如是見者，名繫屬魔；繫屬魔者，心不清淨。

> 「さらに、善き男子よ。もし人があらゆる現象に実在する固定した性質や区別があると見なすなら、その人は色を見れば色に執着し、認識（識）を見れば認識に執着する。男性を見れば男性として、女性を見れば女性として、太陽、月、年、五蘊（ごうん）、十二処（じゅうにしょ）、十八界（じゅうはちかい）をそれぞれ固定的なものとして捉える。このような見方をする者は、悪魔に束縛されている。悪魔に束縛された者は、心が清らかではないのだ。

「復次，善男子！若見我是色、色中有我、我中有色、色屬於我，乃至見我是識、識中有我、我中有識、識屬於我，如是見者，繫屬於魔，非我弟子。

> 「さらに、善き男よ。もし『私』を姿かたちだと思い、姿かたちの中に『私』があり、『私』の中に姿かたちがあり、姿かたちは『私』に属すると見たり、乃至（ないし）『私』を認識だと思い、認識の中に『私』があり、『私』の中に認識があり、認識は『私』に属すると見るならば、そのように見る者は、悪魔に縛られた者であり、私の弟子ではない。」

「善男子！我聲聞弟子遠離如來十二部經，修習種種外道典籍，不修出家寂滅之業，純營世俗在家之事。何等名為在家之事？受畜一切不淨之物，奴婢、田宅、象馬車乘、駞、驢、雞、犬、獼猴、猪、羊、種種穀麥，遠離師僧，親附白衣，違反聖教，向諸白衣作如是言：『佛聽比丘受畜種種不淨之物。』是名修習在家之事。

> 「善男子よ、私の声聞の弟子たちは、如来の十二部経から遠ざかり、さまざまな外道の書物を学び、出家の寂滅の修行をせず、ひたすら在家の世俗的な行いに専念しています。では、在家の行いとは何でしょうか？それは、あらゆる不浄な物——奴婢や田畑、家屋、象、馬、車、駱駝、ロバ、鶏、犬、猿、豚、羊、さまざまな穀物や麦——を蓄え所有し、師や僧侶から離れて在家者に親しみ、聖なる教えに背いて、在家者に向かってこう言うことです。『仏は比丘がさまざまな不浄な物を蓄えることを許可した』と。これが在家の行いを修めることなのです。」

「有諸弟子不為涅槃、但為利養，親近聽受十二部經，招提僧物及僧鬘物，衣著食噉如自己有，慳惜他家，及以稱譽親近國王及諸王子，卜筮吉凶、推步盈虛、圍碁、六博、摴蒱、投壺，親比丘尼及諸處女，畜二沙彌，常遊屠獵、酤酒之家及旃陀羅所住之處，種種販賣手自作食，受使隣國通致信命，如是之人當知即是魔之眷屬，非我弟子。

> 「ある弟子たちは、涅槃（ねはん）のためではなく、ただ利益や供養のために、十二部経（じゅうにぶきょう）を親しく聞き受ける。また、招提僧物（しょうだいそうもつ）や僧鬘物（そうまんもつ）を、衣服や食物を自分のもののようにして使い、他人の物を惜しみ、あるいは国王や王子たちに近づき称賛する。さらに、占いや吉凶の判断、運命の推測、囲碁、双六（すごろく）、博打（ばくち）、投壺（とうこ）などを行い、比丘尼（びくに）や娘たちに親しみ、二人の沙弥（しゃみ）を従え、常に屠殺（とさつ）や狩猟、酒を売る家、そして旃陀羅（せんだら）の住む場所を訪れ、様々な商売をし、自らの手で食物を作り、隣国へ使者として使われて命令を伝える。このような人々は、まさに魔（ま）の眷属（けんぞく）であって、私の弟子ではないと知るべきである。」

「以是因緣，心共貪生心共貪滅，乃至癡心共生共滅亦復如是。

> このような因縁によって、心は貪りと共に生じ、貪りと共に滅する。さらには、無知な心も共に生じ共に滅することも、まったく同じである。

「善男子！以是因緣，心性不淨、亦非不淨。是故，我說心得解脫。

> 「善男子よ。このような理由によって、心の本性は清らかでもなく、また清らかでないのでもありません。それゆえに、私は心は解脱を得ると説くのです。」

「若有不受、不畜一切不淨之物，為大涅槃受持、讀誦十二部經、書寫、解說，當知是等真我弟子，不行惡魔波旬境界，即是修習三十七品。以修習故，不共貪生、不共貪滅。是名菩薩修大涅槃微妙經典具足成就第八功德。

> もしも人が、一切の不浄なる物を受けず、蓄えもせず、大涅槃のために十二部経を受持し、読誦し、書写し、解説するならば、知るがよい、これらの人々こそ真の我が弟子であり、悪魔マーラの領域には行かず、すなわち三十七菩提分法を修行しているのである。その修行のゆえに、貪りと共に生じず、貪りと共に滅することもない。これを、菩薩が大涅槃の微妙なる経典を修め、第八の功徳を具足して成就したというのである。

## 大般涅槃經卷第二十三

> 大般涅槃経 第二十三巻