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title: "十地經論 · 1"
description: "十地经论由古印度天亲菩萨（世亲）造，北魏时期菩提流支等译师译成汉文。本论是对《华严经·十地品》的释论，系统阐释了大乘菩萨修行成佛所必须经历的十个阶位（十地）的教义与实修方法。它奠定了瑜伽行派的理论基础，对汉传佛教地论宗的形成乃至华严宗、唯识宗的发展产生了深远影响，是研究大乘佛教菩萨道思想的核心典籍之一。"
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說此法門者， 及諸勸請法，分別義藏人， 受持流通等。法門等最勝， 頂禮解妙義，欲令法久住， 自利利他故。

> この法門を説く者、 また諸々の法を勧請する者、 義蔵を分別する人、 受持し流通させる者など。 法門など最も勝れたるものに、 頂礼して妙なる義を解き明かし、 法を久しく住まわしめんと欲し、 自ら利し他を利するが故に。

十地法門，初地所攝八分：一、序分；二、三昧分；三、加分；四、起分；五、本分；六、請分；七、說分；八、校量勝分。

> 十地の法門において、初地に含まれる八つの区分は以下の通りです： 一、序分（導入部） 二、三昧分（深い瞑想の段階） 三、加分（仏の加護が加わる段階） 四、起分（瞑想から起こる段階） 五、本分（核心の教え） 六、請分（教えを請う段階） 七、説分（教えを説く段階） 八、校量勝分（他の教えと比較して優れていることを明かす段階）

經曰：如是我聞。一時婆伽婆成道未久，第二七日在他化自在天中自在天王宮摩尼寶藏殿，與大菩薩眾俱，一切不退轉，皆一生得阿耨多羅三藐三菩提，從他方佛世界俱來集會。此諸菩薩，一切菩薩智慧境界悉得自在，一切如來智慧境界悉皆得入，勤行不息善能教化一切世間，隨時普示一切神通等事，於剎那中皆能成辦具足；不捨一切菩薩所起大願，於一切世一切劫一切國土常修一切諸菩薩行，具足菩薩福德智慧，如意神足而無窮盡；能為一切而作饒益，能到一切菩薩智慧方便彼岸，能令眾生背世間道向涅槃門，不斷一切菩薩所行，善遊一切菩薩禪定解脫三昧神通明慧，諸所施為善能示現；一切菩薩無作自在如意神足皆悉已得，於一念頃能至十方諸佛大會，勸發諮請受持一切諸佛法輪，常以大心供養諸佛，常能修習諸大菩薩所行事業；其身普現無量世界，其音遍聞無所不至，其心通達明見三世，一切菩薩所有功德具足修習。如是諸菩薩摩訶薩功德無量無邊，於無數劫說不可盡，其名曰：金剛藏菩薩、寶藏菩薩、蓮華藏菩薩、勝藏菩薩、蓮華勝藏菩薩、日藏菩薩、月藏菩薩、淨月藏菩薩、照一切世間莊嚴藏菩薩、智慧普照明藏菩薩、妙勝藏菩薩、栴檀勝藏菩薩、華勝藏菩薩、俱素摩勝藏菩薩、優鉢羅華勝藏菩薩、天勝藏菩薩、福德勝藏菩薩、無礙清淨智藏菩薩、功德藏菩薩、那羅延德藏菩薩、無垢藏菩薩、離垢藏菩薩、種種樂說莊嚴藏菩薩、大光明網照藏菩薩、淨明勝照威德王藏菩薩、大金山淨光明威德王藏菩薩、一切相莊嚴淨勝藏菩薩、金剛焰勝胸相莊嚴藏菩薩、焰熾藏菩薩、宿王光照藏菩薩、虛空庫無礙智藏菩薩、無礙妙音遠藏菩薩、陀羅尼功德持一切世間願藏菩薩、海莊嚴藏菩薩、須彌勝藏菩薩、淨一切功德藏菩薩、如來藏菩薩、佛勝藏菩薩、解脫月菩薩。如是等菩薩摩訶薩，無量無邊阿僧祇、不可思議、不可稱、不可量、無有分齊、不可說不可說種種佛國土集，金剛藏菩薩而為上首。

> 経にはこうある。このように私は聞いた。ある時、世尊は悟りを開いて間もなく、第二の七日目に、他化自在天の自在天王宮にある摩尼宝蔵殿におられ、多くの大菩薩たちと共におられた。これらの菩薩たちは皆、不退転の位にあり、ただ一生で阿耨多羅三藐三菩提を得る者たちであり、他の仏世界から集まって来られた方々である。 これらの菩薩たちは、すべての菩薩の智慧の境地を自在に得ており、すべての如来の智慧の境地にも入ることができる。休むことなく精進し、巧みに一切の世間を教化し、時宜に応じてあらゆる神通などを示すことができ、一瞬のうちにすべてを成し遂げることができる。一切の菩薩が起こした大願を捨てることなく、すべての世、すべての劫、すべての国土において、常に一切の菩薩の行いを修め、菩薩の福徳と智慧を具足し、如意の神通力は尽きることがない。 一切の衆生のために利益をもたらし、一切の菩薩の智慧と方便の彼岸に到ることができる。衆生をして世間の道から離れ、涅槃の門に向かわせ、一切の菩薩の行いを絶やすことなく、一切の菩薩の禅定、解脱、三昧、神通、明慧を自在に遊び、その行いを巧みに示すことができる。 一切の菩薩の無作自在如意神通力をことごとく得ており、一念の間に十方の諸仏の大法会に至り、一切の諸仏の法輪を受持するよう勧め請う。常に大いなる心で諸仏を供養し、常に諸大菩薩のなされる事業を修習することができる。 その身は無量の世界に普く現れ、その音は遍く聞こえて至らぬところがなく、その心は通達して三世を明らかに見る。一切の菩薩のすべての功徳を具足して修習している。 このような菩薩摩訶薩たちの功徳は無量無辺であり、無数の劫をかけて説いても尽きることはない。その名は次のとおりである。金剛蔵菩薩、宝蔵菩薩、蓮華蔵菩薩、勝蔵菩薩、蓮華勝蔵菩薩、日蔵菩薩、月蔵菩薩、浄月蔵菩薩、照一切世間荘厳蔵菩薩、智慧普照明蔵菩薩、妙勝蔵菩薩、栴檀勝蔵菩薩、華勝蔵菩薩、倶素摩勝蔵菩薩、優鉢羅華勝蔵菩薩、天勝蔵菩薩、福徳勝蔵菩薩、無礙清浄智蔵菩薩、功徳蔵菩薩、那羅延徳蔵菩薩、無垢蔵菩薩、離垢蔵菩薩、種種楽説荘厳蔵菩薩、大光明網照蔵菩薩、浄明勝照威徳王蔵菩薩、大金山浄光明威徳王蔵菩薩、一切相荘厳浄勝蔵菩薩、金剛焔勝胸相荘厳蔵菩薩、焔熾蔵菩薩、宿王光照蔵菩薩、虚空庫無礙智蔵菩薩、無礙妙音遠蔵菩薩、陀羅尼功徳持一切世間願蔵菩薩、海荘厳蔵菩薩、須弥勝蔵菩薩、浄一切功徳蔵菩薩、如来蔵菩薩、仏勝蔵菩薩、解脱月菩薩。 このような菩薩摩訶薩たちは、無量無辺、阿僧祇、不可思議、不可称、不可量、分斉なく、説くべからざる説くべからざる種々の仏国土から集まり、金剛蔵菩薩が上首となっている。

論曰：時處等校量顯示勝故。此法勝故，在於初時及勝處說，此處宮殿等勝是名處勝。何故不色界說？此處感果故。何故不初七日說？思惟行因緣行故，本為利他成道。何故七日思惟不說？顯示自樂大法樂故。何故顯己法樂？為令眾生於如來所增長愛敬心故，復捨如是妙樂悲愍眾生為說法故。何故唯行因緣行？是因緣行顯示不共法故。何故菩薩說此法門？為令增長諸菩薩力故。何故唯金剛藏說？一切煩惱難壞，此法能破，善根堅實猶如金剛，故不異名說。何故名金剛藏？藏即名堅，其猶樹藏。又如懷孕在藏，是故堅如金剛如金剛藏。是諸善根，一切餘善根中其力最上，猶如金剛。亦能生成人天道行，諸餘善根所不能壞，故名金剛藏。已說序分，次說三昧分。

> 論に曰く、時と場所などを比較考量して、その勝れたことを示すためである。この法が勝れているゆえに、最初の時と勝れた場所で説かれた。この場所は宮殿などが勝れているので、これを処勝という。なぜ色界で説かれなかったのか。この場所は果報を感ずるからである。なぜ初七日で説かれなかったのか。思惟と行の因縁行のためであり、本来は他を利するために成道したからである。なぜ七日間思惟して説かなかったのか。自らの楽しむ大いなる法楽を示すためである。なぜ自らの法楽を示すのか。衆生が如来に対して愛敬の心を増長させるためであり、またこのような妙なる楽しみを捨てて、衆生を悲愍して法を説くためである。なぜただ因縁行を行うのか。この因縁行は不共の法を示すからである。なぜ菩薩がこの法門を説くのか。諸菩薩の力を増長させるためである。なぜただ金剛蔵が説くのか。一切の煩悩は破り難いが、この法はそれを破ることができ、善根は金剛のように堅実であるから、異なる名で説かれない。なぜ金剛蔵というのか。蔵とは堅さを意味し、それは樹木の芯のようである。また、懐胎が蔵にあるように、それゆえ金剛のように堅く金剛蔵のようである。これらの善根は、一切の他の善根の中でその力が最も勝れており、金剛のようである。また、人天の道行を生成することができ、他のいかなる善根もこれを壊すことができない。ゆえに金剛蔵というのである。序分はすでに説かれ、次に三昧分を説く。

經曰：爾時金剛藏菩薩摩訶薩，承佛威神，入菩薩大乘光明三昧。

> 経にはこうある。その時、金剛蔵菩薩摩訶薩は、仏の威神力を受け、菩薩の大乗光明三昧に入った。

論曰：入三昧者，顯示此法非思量境界故。已說三昧分，次說加分。

> 論に曰く、三昧に入る者は、この法が思量の境界にあらざることを示すが故なり。三昧の分はすでに説き終え、次に加行の分を説かん。

經曰：爾時金剛藏菩薩入是菩薩大乘光明三昧，即時十方過十億佛土微塵數等諸佛世界，有十億佛土微塵數諸佛皆現其身，同名金剛藏。是諸佛如是讚言：善哉善哉！金剛藏！乃能入是菩薩大乘光明三昧。復次善男子！如是十方十億佛土微塵數等諸佛皆同一號，加汝威神，此是盧舍那佛本願力故加。

> 経典に曰く、その時、金剛蔵菩薩はこの菩薩の大乗光明三昧に入られた。するとすぐに、十方の十億の仏土の微塵の数ほどの諸仏世界に、十億の仏土の微塵の数の諸仏が皆、その姿を現し、同じく金剛蔵と名乗られた。これらの諸仏はこのように讃えて言われた。「善いかな、善いかな、金剛蔵よ。よくもこの菩薩の大乗光明三昧に入ることができた。さらに、善男子よ、このように十方の十億の仏土の微塵の数の諸仏が皆、同じ名号であり、汝に威神を加える。これは盧舎那仏の本願の力による加護である。」

論曰：何故多佛加？顯法及法師，增長恭敬心故。何故同號金剛藏？加本願力故。何故如來作如是願？顯示多佛故。此三昧是法體，本行菩薩時皆名金剛藏，同說此法；今成正覺亦名金剛藏，故不異名加。又是菩薩聞諸如來同己名已增踊悅故。何故不言過無量世界？方便顯多佛故。何故定言十億佛土？為說十地故，此經如是多說十數。彼佛先作是願，今復自加，後餘佛加，故言盧舍那佛本願力故加。何故加？為說此法故加。復云何加？

> 論に曰く、なぜ多くの仏が加護するのか？それは法と法師を顕わし、恭敬の心を増長させるためである。なぜ同じ金剛蔵という名号なのか？それは本願の力による加護のためである。なぜ如来はこのような願を起こされたのか？多くの仏を顕わすためである。この三昧は法の本体であり、菩薩として修行していた時は皆、金剛蔵と名乗り、同じくこの法を説いた。今、正覚を成じてもなお金剛蔵と名乗るゆえ、名を異にすることなく加護するのである。また、この菩薩は多くの如来が己と同じ名であることを聞き、歓喜が増すためでもある。なぜ無量の世界を超えるとは言わないのか？それは方便をもって多くの仏を顕わすためである。なぜ十億の仏土と定めて言うのか？十地を説くためであり、この経典はこのように十の数を多く説くのである。かの仏は先にこの願を起こし、今、自ら加護し、後に他の仏が加護するゆえ、盧舎那仏の本願力による加護と言うのである。なぜ加護するのか？この法を説くために加護するのである。また、どのように加護するのか？

經曰：又一切菩薩不可思議諸佛法明說，令入智慧地故、攝一切善根故、善分別選擇一切佛法故、廣知諸法故、善決定說諸法故、無分別智清淨不雜故、一切魔法不能染故、出世間法善根清淨故、得不可思議智境界故，乃至得一切智人智境界故，又得菩薩十地始終故、如實說菩薩十地差別方便故、念隨順一切佛法故、觀達分別無漏法故、善擇大智慧光明方便故、令入具足智門故、隨所住處正說無畏辯才明故、得大無礙智地故、憶念不忘菩提心故、教化成就一切眾生界故、得通達分別一切處法故。

> 経典に曰く、また一切の菩薩の不可思議なる諸仏の法を明らかに説き示すのは、智慧の地に入らしめるためであり、一切の善根を摂め集めるためであり、一切の仏法を善く分別し選択するためであり、諸法を広く知るためであり、諸法を善く決定して説くためであり、無分別智が清浄で雑じり気なく、一切の魔の法が染めることができず、出世間の法の善根が清浄であり、不可思議なる智の境界を得るためであり、さらに一切智人の智の境界を得るためである。また、菩薩の十地の始めから終わりまでを得るためであり、菩薩の十地の差別の方便をありのままに説くためであり、一切の仏法に随順して念じ、無漏の法を観じて達し分別し、大いなる智慧の光明の方便を善く択び、具足した智の門に入らしめ、住する所に随って正しく説き、畏れなき弁才の明を得、大いなる無礙の智の地を得、菩提心を憶念して忘れず、一切衆生界を教化して成就し、一切の処の法を通達し分別するためである。

論曰：此二十句，依一切菩薩自利利他故加。如是初十句依自利行，後十句依利他行。是中一切菩薩者，謂住信行地。不可思議諸佛法者，是出世間道品。明者，見智得證。說者，於中分別。入者，信樂得證。智慧地者，謂十地智。如本分中說，此是根本入。如經「又一切菩薩不可思議諸佛法明說，令入智慧地」故。此修多羅中說，依根本入有九種入：一者攝入，聞慧中攝一切善根故，如經「攝一切善根」故。二者思議入，思慧於一切道品中智方便故，如經「善分別選擇一切佛法」故。三者法相入，彼彼義中無量種種知故，如經「廣知諸法」故。四者教化入，隨所思義名字具足善說法故，如經「善決定說諸法」故。五者證入，於一切法平等智見道時中善清淨故，如經「無分別智清淨不雜」故。菩薩教化眾生即是自成佛法，是故利他亦名自利。六者不放逸入，於修道時中遠離一切煩惱障故，如經「一切魔法不能染」故。七者地地轉入，出世間道品無貪等善根淨故，如經「出世間法善根清淨」故。復有善根能為出世間道品因故。八者菩薩盡入，於第十地中入一切如來祕密智故，如經「得不可思議智境界」故。九者佛盡入，於一切智入智故，如經「乃至得一切智人智境界」故。是諸入為校量智義差別次第轉勝，非根本入。一切所說十句中皆有六種差別相門。此言說解釋應知除事，事者謂陰界入等。六種相者，謂總相、別相、同相、異相、成相、壞相。總者是根本入，別者餘九入。別依止本，滿彼本故。同相者，入故。異相者，增相故。成相者，略說故。壞相者，廣說故。如世界成壞。餘一切十句中隨義類知。第二十句，所謂得菩薩十地始終故。此根本始終，是中始者，信欲親近等。終者，念持諸地。復有阿含及證，如是次第依初相，應知依根本始終。有十種始終：一者攝始終，思慧智隨所聞義受持說故，如經「如實說菩薩十地差別方便」故。二者欲始終，令證一切佛法故，如經「念隨順一切佛法」故。三者行始終，觀分時中無漏道品分別修相覺故，如經「觀達分別無漏法」故。四者證始終，見道時中法無我智方便故，如經「善擇大智慧光明方便」故。是中善擇者，擇中最勝。最勝者，法無我智故。大智慧者，過小乘故。光明者，對治無明故。此事中彼時中皆善知故。五者修道始終，出世間智智力得入法義故，如經「令入具足智門」故。此處菩薩於菩提有五種障：一者不能破諸邪論障，已說正義，他言能壞，復眷屬離散。二者不能答難障，於他問中茫然無對，設有言說人不信受。三者樂著小乘障，自不能得大菩提，復捨利益眾生。四者化眾生懈怠障，於中捨利他行，不助他善，復自善根不增長故。五者無方便智障，不能善化眾生，復自菩提行不滿足故。對治是障有五始終：一者能破邪論障始終，隨彼所著顯己正義，對治邪執無畏辯才性不闇故，如經「隨所住處正說無畏辯才明」故。二者能善答難始終，證大無礙智地故，如經「得大無礙智地」故。三者樂著小乘對治始終，大菩提願大菩提念不忘失故，如經「憶念不忘菩提心」故。四者化眾生懈怠對治始終，利益眾生無疲倦故，如經「教化成就一切眾生界」故。五者無方便智對治始終，於五明處通達分別故，如經「通達分別一切處法」故。已說何故加，復云何加？謂口、意、身加。云何口加？

> 論じるに、この二十の句は、一切の菩薩の自利利他に依って加えられたものである。このように、初めの十句は自利の行いに依り、後の十句は利他の行いに依っている。ここでいう一切の菩薩とは、信行地に住する者を指す。不可思議なる諸仏の法とは、これは出世間の道品である。明とは、見て智を得て証することである。説とは、その中で分別することである。入とは、信楽して証を得ることである。智慧地とは、十地の智をいう。本分の中で説かれているように、これは根本の入である。経文に「また一切の菩薩は、不可思議なる諸仏の法を明らかに説き、智慧地に入らしめる」とあるゆえである。この修多羅の中で説かれるには、根本の入に依って九種の入がある。第一は摂入であり、聞慧の中に一切の善根を摂するからである。経文に「一切の善根を摂する」とあるゆえである。第二は思議入であり、思慧が一切の道品の中で智の方便となるからである。経文に「一切の仏法を善く分別選択する」とあるゆえである。第三は法相入であり、それぞれの義の中に無量の種々なる知があるからである。経文に「諸法を広く知る」とあるゆえである。第四は教化入であり、思うところの義に随って名字を具足し、善く法を説くからである。経文に「諸法を善く決定して説く」とあるゆえである。第五は証入であり、一切の法に対する平等智が見道の時に善く清浄となるからである。経文に「無分別智が清浄にして雑ならず」とあるゆえである。菩薩が衆生を教化することは、すなわち自ら仏法を成ずることであり、それゆえ利他もまた自利と名づけられる。第六は不放逸入であり、修道の時に一切の煩悩障を遠離するからである。経文に「一切の魔法、染むること能わず」とあるゆえである。第七は地地転入であり、出世間の道品が無貪等の善根によって浄められるからである。経文に「出世間法の善根清浄」とあるゆえである。また、善根は出世間の道品の因となることができるからである。第八は菩薩尽入であり、第十地の中で一切の如来の秘密智に入るからである。経文に「不可思議なる智の境界を得る」とあるゆえである。第九は仏尽入であり、一切智に入って智となるからである。経文に「乃至一切智人の智の境界を得る」とあるゆえである。これらの入は、智の義の差別を校量して次第に転勝するものであり、根本の入ではない。一切の説かれる十句には、皆六種の差別相の門がある。この言説の解釈は、事を除くべきであると知るべし。事とは、陰・界・入などをいう。六種の相とは、総相・別相・同相・異相・成相・壊相をいう。総とは根本の入であり、別とはその余の九つの入である。別は本に依止し、その本を満たすからである。同相とは、入るという相である。異相とは、増すという相である。成相とは、略説するという相である。壊相とは、広説するという相である。世界の成壊の如し。その余の一切の十句においても、義の類いに随って知るべし。第二十の句は、いわゆる菩薩の十地の始終を得るというものである。この根本の始終において、ここで始めとは、信・欲・親近などである。終わりとは、諸地を念持することである。また、阿含及び証があり、このような次第は初めの相に依るものであり、根本の始終に依るものであると知るべし。根本の始終に依って十種の始終がある。第一は摂始終であり、思慧の智が聞くところの義に随って受持し説くからである。経文に「菩薩の十地の差別方便を如実に説く」とあるゆえである。第二は欲始終であり、一切の仏法を証せしめるからである。経文に「一切の仏法に随順して念ずる」とあるゆえである。第三は行始終であり、観分の時に無漏の道品を分別し、修相を覚えるからである。経文に「無漏法を観達分別する」とあるゆえである。第四は証始終であり、見道の時に法無我の智の方便となるからである。経文に「大智慧光明の方便を善く択ぶ」とあるゆえである。ここで善く択ぶとは、択ぶ中最も勝れたるものをいう。最も勝れたるものとは、法無我の智であるからである。大智慧とは、小乗を過ぎるからである。光明とは、無明に対治するからである。この事において、その時において、皆善く知るからである。第五は修道始終であり、出世間の智の智力によって法義に入ることを得るからである。経文に「具足智の門に入らしめる」とあるゆえである。このところで菩薩は菩提に対して五種の障がある。第一は、諸の邪論を破ることができない障であり、すでに正義を説いたにもかかわらず、他人の言葉によって壊され、また眷属が離散する。第二は、難に答えることができない障であり、他人の問いに対して茫然として対することができず、たとえ言説があっても人が信受しない。第三は、小乗に楽著する障であり、自ら大菩提を得ることができず、また衆生を利益することを捨てる。第四は、衆生を化導することに懈怠する障であり、その中で利他の行いを捨て、他人の善を助けず、また自らの善根が増長しないからである。第五は、方便智がない障であり、善く衆生を化導することができず、また自らの菩提行が満足しないからである。これらの障に対治するために五つの始終がある。第一は、邪論を破ることができる障の始終であり、彼らの執着に随って自らの正義を顕わし、邪執に対治して無畏の弁才性が暗くならないからである。経文に「住する所に随って正説し、無畏の弁才明を得る」とあるゆえである。第二は、善く難に答えることができる始終であり、大無礙智地を証するからである。経文に「大無礙智地を得る」とあるゆえである。第三は、小乗に楽著する対治の始終であり、大菩提の願い、大菩提の念いを忘失しないからである。経文に「菩提心を憶念して忘れず」とあるゆえである。第四は、衆生を化導することに懈怠する対治の始終であり、衆生を利益することに疲倦がないからである。経文に「一切の衆生界を教化成就する」とあるゆえである。第五は、方便智がない対治の始終であり、五明の処に通達分別するからである。経文に「一切の処法を通達分別する」とあるゆえである。すでに何故に加えるかを説き、また如何にして加えるか。すなわち、口・意・身の加である。如何にして口の加であるか。

經曰：復次善男子！汝當辯說此諸法門差別方便法故、承諸佛神力如來智明加故、自善根清淨故、法界淨故、饒益眾生界故、法身智身故、正受一切佛位故、得一切世間最高大身故、過一切世間道故、出世間法道清淨故、得一切智人智滿足故。

> さらにまた、善き男子よ、あなたはこの諸々の法門の区別と方便の法を弁え説くべきです。なぜなら、諸仏の神力と如来の智明の加護を受けているからです。自らの善根が清浄であるからです。法界が清浄であるからです。衆生界を益するためです。法身と智身を得るためです。一切の仏位を正しく受け継ぐためです。一切の世間において最も高く大いなる身を得るためです。一切の世間の道を超えるためです。出世間の法の道が清浄であるためです。一切智者の智が満足して得られるためです。

論曰：此十句中，辯才者，隨所得法義憶持不忘說故。諸法門者，謂十地法。差別者，種種名相故。此法善巧成，是故名方便。依根本辯才有二種辯才：一者他力辯才；二者自力辯才。他力辯才者，承佛神力故。云何承佛神力？如來智力不闇加故，如經「承諸佛神力如來智明加」故。自力辯才者有四種：一者有作善法淨辯才，如經「自善根清淨」故；二者無作法淨辯才，如經「法界淨」故；三者化眾生淨辯才，如經「饒益眾生界」故；四者身淨辯才，是身淨中顯三種盡：一者菩薩盡有二種利益、二者聲聞辟支佛不同盡、三者佛盡。菩薩盡者，法身離心意識，唯智依止，如經「法身智身」故。二種利益者，現報利益，受佛位故；後報利益，摩醯首羅智處生故。如經「正受一切佛位」故，「得一切世間最高大身」故。二乘不同盡者，度五道復涅槃道淨故，如經「過一切世間道」故，「出世間法道清淨」故。佛盡者，入一切智智滿足故，如經「得一切智人智滿足」故，「自力辯才校量轉勝上上」故。已說口加，云何意加？

> 論じて言う：この十の句において、弁才とは、得た法の義に随って記憶し保持し忘れずに説くことである。諸法門とは、十地の法をいう。差別とは、種々の名相によるものである。この法は善巧に成るゆえに、方便と名づけられる。根本弁才に依って二種の弁才がある：一つは他力弁才、二つは自力弁才である。他力弁才とは、仏の神力を承けることによる。どうして仏の神力を承けるのか。如来の智力が暗くなく加わるからであり、経文に「諸仏の神力を承け、如来の智明が加わる」とある通りである。自力弁才には四種ある：一つは有作の善法清浄の弁才であり、経文に「自らの善根が清浄である」とある通りである。二つは無作の法清浄の弁才であり、経文に「法界が清浄である」とある通りである。三つは衆生化導の清浄の弁才であり、経文に「衆生界を饒益する」とある通りである。四つは身清浄の弁才であり、この身清浄の中に三種の尽きを顕す：一つは菩薩の尽き、二つは声聞・辟支仏の異なる尽き、三つは仏の尽きである。菩薩の尽きとは、法身が心意識を離れ、ただ智のみが依り止まることであり、経文に「法身・智身」とある通りである。二種の利益とは、現報の利益として仏位を受けること、後報の利益として摩醯首羅の智処に生まれることである。経文に「一切の仏位を正受する」とあり、「一切世間の最高大の身を得る」とある通りである。二乗の異なる尽きとは、五道を度り、さらに涅槃の道が清浄であることであり、経文に「一切世間の道を過ぐ」とあり、「出世間の法道が清浄である」とある通りである。仏の尽きとは、一切智智に入り満足することであり、経文に「一切智人の智が満足するを得る」とあり、「自力弁才が校量して転じて勝れた上上である」とある通りである。口の加護はすでに説いたが、意の加護とはどのようなものか。

經曰：爾時諸佛與金剛藏菩薩真實無畏身、與無障礙樂說辯才、與善淨智差別入、與善憶念不忘加、與善決定意方便、與遍至一切智處、與諸佛不壞力、與如來無所畏不怯弱、與一切智人智無礙分別法正見、與一切如來善分別身口意莊嚴起故。

> 経にはこう説かれています。その時、諸仏は金剛蔵菩薩に、真実にして畏れのない身を与え、障りのない楽説の弁才を与え、善く清浄な智の差別に入る力を与え、善く憶念して忘れない加護を与え、善く決定した意の方便を与え、一切智の境地に遍く至る力を与え、諸仏の壊れざる力を与え、如来の畏れることなく怯まない力を与え、一切智人の智に障りなく法を分別する正しい見解を与え、一切如来が善く分別した身・口・意の荘厳を起こす力を与えたのです。

論曰：此十句意加。無畏身者有二種：一者與無上勝威德身，如王處眾自在無畏；二者與辯才無畏身，前色身勝、後名身勝。是名身有九種：一者不著辯才，說法不斷無滯礙故，如經「與無障礙樂說辯才」故。二者堪辯才，善淨堪智有四種：一者緣、二者法、三者作、四者成，善知此義成不成相故，如經「與善淨智差別入」故。三者任放辯才，說不待次、言辭不斷、處處隨意、不忘名義故，如經「與善憶念不忘加」故，「是不忘加意力加」故。四者能說辯才，隨所應度，種種譬喻能斷疑故，如經「與善決定意方便」故。五者不雜辯才，三種同相智常現前故，如經「與遍至一切智處」故。六者教出辯才，得佛十力，不壞於可度者令斷煩惱故，如經「與諸佛不壞力」故。七者不畏辯才，得佛決定，無畏於他，言說不怯弱故，如經「與如來無所畏不怯弱」故。八者無量辯才，於一切智隨順宣說修多羅等法六種正見故，如經「與一切智人智無礙分別法正見」故。九者同化辯才，得一切佛無畏身等三種教化，隨所度者顯示殊勝三業神化故，如經「與一切如來善分別身口意莊嚴起」故。又諸佛有力有慈悲，何故以十種無畏身唯加金剛藏而不加餘者？

> 論に曰く、この十句の意を加える。無畏身には二種がある。一つは、無上の勝れた威徳の身を与えること。王が大衆の中にあって自在に無畏であるように。二つは、弁才無畏の身を与えること。前者は色身が勝れ、後者は名身が勝れている。この名身には九種がある。 一つは、執着しない弁才。説法が途切れず滞りがないゆえに、経文に「無障礙の楽説弁才を与える」とある通りである。 二つは、堪え忍ぶ弁才。善く清浄な堪え忍ぶ智には四種がある。一つは縁、二つは法、三つは作、四つは成。この義を善く知り、成る相と成らざる相をわきまえるゆえに、経文に「善く清浄な智の差別に入るを与える」とある通りである。 三つは、自在に放つ弁才。説くに順序を待たず、言辞が途切れず、所々に随って意のままに、名と義を忘れないゆえに、経文に「善く憶念して忘れない加行を与える」とあり、「この不忘加行は意力の加行である」とある通りである。 四つは、よく説く弁才。応じて度すべきに随い、種々の譬えをもって疑いを断つことができるゆえに、経文に「善く決定した意の方便を与える」とある通りである。 五つは、混ざらない弁才。三種の同相の智が常に眼前に現れるゆえに、経文に「遍く一切の智の処に至るを与える」とある通りである。 六つは、教えを出す弁才。仏の十力を得て、度すべき者を損なうことなく、煩悩を断たしめるゆえに、経文に「諸仏の壊れざる力を与える」とある通りである。 七つは、畏れない弁才。仏の決定を得て、他に畏れることなく、言説に怯えないゆえに、経文に「如来の畏れる所なく怯弱ならざるを与える」とある通りである。 八つは、無量の弁才。一切智に随順して修多羅等の法を宣説し、六種の正見によるゆえに、経文に「一切智人の智、無礙に法を分別する正見を与える」とある通りである。 九つは、同化の弁才。一切の仏の無畏身等、三種の教化を得て、度すべき者に随って殊勝なる三業の神化を顕示するゆえに、経文に「一切如来の善く分別した身口意の荘厳の起こりを与える」とある通りである。 また、諸仏には力と慈悲がある。なぜ十種の無畏身をもって、ただ金剛蔵に加え、他の者には加えないのか。

經曰：何以故？以得菩薩大乘光明三昧法故，亦是菩薩本願起故、善淨深心故、善淨智圓滿故、善集助道法故、善修本業故、念持無量法故、信解清淨光明法故、善得陀羅尼門不壞故、法界智印善印故。

> 経典にはこう説かれています。なぜならば、菩薩は大乗の光明三昧の法を得ているからです。また、菩薩の本来の誓願が起こり、深い心が善く清められ、智慧が円満に清められ、助道の法を善く集め、本業を善く修め、無量の法を念じ保ち、清浄な光明の法を信解し、陀羅尼の門を善く得て壊れず、法界の智慧の印を善く印するからです。

論曰：以是菩薩得大乘光明三昧法，餘者不得故。得三昧法有二種：一者本願成就現前故，如經「亦是菩薩本願起」故；二者三昧身攝功德故。此三昧身攝功德有八種，依自利利他故。一者因淨，深心趣菩薩地，盡清淨故，如經「善淨深心」故。深心者，信樂等，復是一切善法根本故。二者智淨，趣菩薩地，盡修道真如觀智故，如經「善淨智圓滿」故。此真如觀內智圓滿普照法界，猶如日輪光遍世界故。三者身轉淨，生生轉勝善行成滿故，如經「善集助道法」故。四者心調伏淨，善斷煩惱習故，如經「善修本業」故。五者聞攝淨，堪能受持一切如來所說祕密法故，如經「念持無量法」故。六者通淨，得勝通自在故，如經「信解清淨光明法」故，「以決定信力攝取通」故。七者辯才淨，善知陀羅尼門不相違故，如經「善得陀羅尼門不壞」故。於中所有初章字者是陀羅尼門，一一字門攝持無量名句字身故，不壞者前後不相違故。八者離慢淨，謂真實智教授不異故，如經「法界智印善印」故。於中三昧身攝功德有四種依自利因：善淨深心故、善淨智圓滿故、善集助道法故、善修本業故。此修多羅中四句次第說：精進因、不忘因、勢力因、彼不染因。復依利他因有四種：念持無量法故，斷疑因；信解清淨光明法故，敬重因；以神通力示現不思議處，令諸見者決定信入故，善得陀羅尼門不壞故，轉法理因；法若壞時假餘尊法誦持故，法界智印善印故，教授出離因。如是化者，得自利不忘故。已說意加，云何身加？摩頂覺故。

> 論じて曰く、この菩薩は大乗光明三昧法を得るがゆえに、他の者は得られないのである。三昧法を得ることには二種がある。一つは、本願の成就が現前するがゆえであり、経文に「また是れ菩薩の本願の起こる」とあるがゆえである。二つは、三昧身が功徳を摂するがゆえである。この三昧身が功徳を摂することには八種あり、自利と利他とに依るのである。 一に、因の清浄。深く心を菩薩の地に向け、ことごとく清浄なるがゆえであり、経文に「善く深心を浄くす」とあるがゆえである。深心とは、信楽などであり、また一切の善法の根本であるがゆえである。 二に、智の清浄。菩薩の地に向け、ことごとく真如観智を修めるがゆえであり、経文に「善く智を浄くし円満す」とあるがゆえである。この真如観の内なる智は円満にして法界を普く照らし、日輪の光が世界に遍く照らすがごとしがゆえである。 三に、身の転じて浄きこと。生々に転じて勝れ、善行が成満するがゆえであり、経文に「善く助道の法を集む」とあるがゆえである。 四に、心の調伏の清浄。善く煩悩の習気を断ずるがゆえであり、経文に「善く本業を修む」とあるがゆえである。 五に、聞くことの摂する清浄。堪能にして一切の如来の説かれた秘密の法を受持するがゆえであり、経文に「無量の法を念持す」とあるがゆえである。 六に、通の清浄。勝れたる通を得て自在なるがゆえであり、経文に「清浄光明の法を信解す」とあるがゆえであり、「決定の信力をもって通を摂取す」とあるがゆえである。 七に、弁才の清浄。善く陀羅尼門を知り、互いに違わないがゆえであり、経文に「善く陀羅尼門を得て壊れず」とあるがゆえである。この中において、初章の字というのは陀羅尼門であり、一々の字門は無量の名・句・字身を摂持するがゆえであり、壊れざるとは前後互いに違わないがゆえである。 八に、慢を離れる清浄。真実の智をもって教授し、異ならないがゆえであり、経文に「法界智印を善く印す」とあるがゆえである。 この中において、三昧身が功徳を摂することには、自利の因に依る四種がある。善く深心を浄くするがゆえ、善く智を浄くし円満するがゆえ、善く助道の法を集むがゆえ、善く本業を修むがゆえである。この修多羅の中に、四句が次第に説かれている。精進の因、忘れざる因、勢力の因、それに染まざる因である。 また、利他の因に依る四種がある。無量の法を念持するがゆえ、疑いを断つ因である。清浄光明の法を信解するがゆえ、敬重の因である。神通力をもって不思議の処を示現し、諸々の見る者に決定して信入せしめるがゆえ、善く陀羅尼門を得て壊れざるがゆえ、法理を転ずる因である。法が壊れる時には、余の尊き法を仮りて誦持するがゆえ、法界智印を善く印するがゆえ、教授して出離せしめる因である。 このように化する者は、自利を忘れざるがゆえに得るのである。すでに意の加護を説ききたり。いかにして身の加護なるか。頂を摩して覚ますがゆえである。

經曰：爾時十方諸佛，不離本處以神通力皆申右手，善摩金剛藏菩薩摩訶薩頂。

> 経典に曰く、その時、十方の諸仏は、それぞれの浄土を離れることなく神通力をもって右手を伸ばし、金剛蔵菩薩摩訶薩の頂を善く摩した。

論曰：不離本處而摩此者，顯示殊勝神力，若來此處則非奇異。是如意通力，非餘通等。已說加分，云何起分？

> 論に曰く、本来の場所を離れずにこれを摩するのは、殊勝な神力を示すものである。もしここに来たならば、それは奇異なことではない。これは如意通の力であり、他の神通などではない。加分はすでに述べた。では、起分とは何か。

經曰：諸佛摩金剛藏菩薩頂已，爾時金剛藏菩薩即從三昧起。

> 経典に曰く、諸仏が金剛蔵菩薩の頂を摩した後、その時、金剛蔵菩薩は直ちに三昧より起き上がった。

論曰：即從三昧起者，以三昧事訖故。又得勝力說時，復至定無言說故。已說起分，云何本分？

> 論に曰く、「即ち三昧より起つ」とは、三昧の事が終わったからである。また、勝れた力を得て説くべき時が来たからであり、さらに、定の中には言葉で説くことがないからである。起つ分についてはすでに説いたが、では本分とは何か。

經曰：起三昧已告諸菩薩言：諸佛子！是諸菩薩願善決定無雜不可見，廣大如法界，究竟如虛空，盡未來際覆護一切眾生界。佛子！是諸菩薩乃能入過去諸佛智地，乃能入未來諸佛智地，乃能入現在諸佛智地。諸佛子！此菩薩十地是過去未來現在諸佛已說今說當說，我因是事故如是說。何等為十？一名歡喜地；二名離垢地；三名明地；四名焰地；五名難勝地；六名現前地；七名遠行地；八名不動地；九名善慧地；十名法雲地。諸佛子！此菩薩十地，過去未來現在諸佛已說今說當說。佛子！我不見有諸佛世界是諸如來不歎說此菩薩十地者。何以故？此是菩薩摩訶薩增上勝妙法故，亦是菩薩光明法門，所謂分別十地事。諸佛子！是事不可思議，所謂菩薩摩訶薩諸地智慧。

> 経にはこう説かれています。 三昧から立ち上がられた後、諸菩薩に告げて言われました。 「諸仏子よ、これらの菩薩の願いは善く決定し、雑じりけなく、見ることができません。 法界のように広大であり、虚空のように究極であり、未来の果てまで尽きることなく、一切の衆生界を覆い護るのです。 仏子よ、これらの菩薩はこそ、過去の諸仏の智慧の境地に入ることができ、未来の諸仏の智慧の境地に入ることができ、現在の諸仏の智慧の境地に入ることができるのです。 諸仏子よ、この菩薩の十地は、過去・未来・現在の諸仏がすでに説き、今説き、これから説くところであり、私はこの事がらによってこのように説くのです。 何が十であるか。 第一は歓喜地、第二は離垢地、第三は明地、第四は焔地、第五は難勝地、第六は現前地、第七は遠行地、第八は不動地、第九は善慧地、第十は法雲地です。 諸仏子よ、この菩薩の十地は、過去・未来・現在の諸仏がすでに説き、今説き、これから説くところです。 仏子よ、私は、諸仏世界において、これらの如来がこの菩薩の十地を讃歎して説かないところを見たことがありません。 なぜなら、これは菩薩摩訶薩の増上なる勝れた妙法であるからです。 また、菩薩の光明の法門でもあります。 いわゆる、十地の事柄を分別することです。 諸仏子よ、この事は不可思議です。 いわゆる、菩薩摩訶薩の諸地の智慧のことです。」

論曰：何故不請而說？若不自說，眾則不知為說不說，又復不知欲說何法。願善決定者，如初地中說發菩提心，即此本分中願應知。善決定者，真實智攝故善；決定者即是善決定。此已入初地，非信地所攝。此善決定有六種：一者觀相善決定，真如觀一味相故，如經「無雜」故。二者真實善決定，非一切世間境界出世間故，如經「不可見」故。三者勝善決定，大法界故、一切佛根本故，如經「廣大如法界」故。大、勝、高、廣，一體異名，法相義故，一切法法爾故。復法界大真如觀，勝諸凡夫二乘智等，淨法法爾故。復法界大方便集地，謂說大乘法法爾故。復法界大白法界，善法法爾故。四者因善決定有二種：一成無常愛果因善決定。是因如虛空，依是生諸色，色不盡故。如經「究竟如虛空」故。二常果因善決定，得涅槃道，如經「盡未來際」故。五者大善決定，隨順作利益他行，如經「覆護一切眾生界」故。次前善決定，此願世間涅槃中非一向住故。六者不怯弱善決定，入一切諸佛智地不怯弱故，如經「佛子是諸菩薩乃至入現在諸佛智地」故。復此十地生成佛智住持故，如經「諸佛子此菩薩十地是過去未來現在諸佛已說今說當說」故。於中善決定者是總相，餘者是別相。同相者善決定，異相者別相故。成相者是略說，壞相者廣說故，如世界成壞。何故定說菩薩十地？對治十種障故。何者十障？一者凡夫我相障；二者邪行於眾生身等障；三者闇相於聞思修等諸法忘障；四者解法慢障；五者身淨我慢障；六者微煩惱習障；七者細相習障；八者於無相有行障；九者不能善利益眾生障；十者於諸法中不得自在障。何故十地初名歡喜乃至十名法雲？成就無上自利利他行，初證聖處多生歡喜，故名歡喜地。離能起誤心犯戒煩惱垢等，清淨戒具足，故名離垢地。隨聞思修等照法顯現，故名明地。不忘煩惱薪智火能燒，故名焰地。得出世間智方便善巧，能度難度，故名難勝地。般若波羅蜜行有間大智現前，故名現前地。善修無相行功用，究竟能過世間二乘出世間道，故名遠行地。報行純熟無相無間，故名不動地。無礙力說法，成就利他行，故名善慧地。得大法身具足自在，故名法雲地。如是受法王位，猶如太子於諸王子而得自在，是處有微智障故不自在，對治此障故說佛地。又如懷孕在藏，菩薩十地亦復如是，以諸地有障故。如子生時，佛時亦爾，事究竟故。又如生時諸根覺了，佛亦如是，於一切境界智明了故。藏有十時：一者陀羅婆身時；二者捭羅婆身時；三者尸羅他身時；四者堅身時；五者形相似色身時；六者性相似身時；七者業動身時；八者滿足身時，於中有三種：根滿足時、男女相別滿足時、廣長諸相滿足時。如是十時諸地相似故。佛子我不見有諸佛世界是諸如來不歎說此菩薩十地者，顯此勝法，為令時眾增渴仰故。佛世界者，於中成佛，喻如稻田。往作佛事者，亦名佛世界。歎說者，於中有二種：一者為說阿含義；二者為證入義。摩訶薩者，有三種大：一願大；二行大；三利益眾生大。勝妙法者，諸法門中最殊勝故。光明者，此大乘法顯照一切餘法門故。法門者，名為法故。分別十地事者，顯示世間智所知法故。是事不可思議，所謂菩薩摩訶薩諸地智慧者，顯示出世間智故，此非世間分別地智能成菩薩清淨道故。已說本分，云何請分？

> 論に曰く、何故に請うことなくして説くや。もし自ら説かざれば、衆は説くか説かざるかを知らず、また何の法を説かんと欲するかを知らざるが故なり。願の善決定する者は、初地の中に説くが如く、菩提心を発す、即ちこの本分の中の願を知るべし。善決定する者は、真実の智に摂せられるが故に善なり。決定する者は即ち善決定なり。これは既に初地に入り、信地の摂する所に非ず。この善決定には六種あり。 一には観相善決定、真如を観じて一味の相なるが故に、経に「雑なること無し」とあるが如し。 二には真実善決定、一切の世間の境界に非ず、出世間なるが故に、経に「見ること不可」とあるが如し。 三には勝善決定、大法界なるが故に、一切の仏の根本なるが故に、経に「法界の如く広大なり」とあるが如し。大・勝・高・広は、一体にして異名なり、法相の義なるが故に、一切の法は法爾なるが故なり。また法界の大真如観は、凡夫・二乗の智等に勝れ、浄法は法爾なるが故なり。また法界の大方便集地は、大乗の法を説くは法爾なるが故なり。また法界の大白法界は、善法は法爾なるが故なり。 四には因善決定、二種あり。一つは無常の愛果の因なる善決定。この因は虚空の如く、これに依って諸の色を生ず、色は尽きざるが故に、経に「虚空の如く究竟す」とあるが如し。二つは常果の因なる善決定、涅槃の道を得る、経に「未来際を尽くす」とあるが如し。 五には大善決定、随順して利益他の行をなす、経に「一切衆生界を覆護す」とあるが如し。次に前の善決定は、この願は世間・涅槃の中に一向に住せざるが故なり。 六には不怯弱善決定、一切の諸仏の智地に入るに怯弱せざるが故に、経に「仏子よ、是の諸の菩薩は乃至現在の諸仏の智地に入る」とあるが如し。またこの十地は仏智を生じて住持するが故に、経に「諸仏子よ、この菩薩の十地は過去・未来・現在の諸仏の已に説き、今説き、当に説く所なり」とあるが如し。 この中に善決定する者は総相なり、余の者は別相なり。同相なる者は善決定、異相なる者は別相なるが故なり。成相なる者は略説、壊相なる者は広説なるが故に、世界の成壊の如し。 何故に定めて菩薩の十地を説くや。十種の障を対治するが故なり。何れの十障ぞ。一には凡夫我相の障、二には衆生の身等に邪行する障、三には聞・思・修等の諸法に闇相にして忘るる障、四には解法慢の障、五には身浄我慢の障、六には微煩悩習の障、七には細相習の障、八には無相に行ある障、九には能く善く衆生を利益せざる障、十には諸法中に自在を得ざる障なり。 何故に十地の初めを歓喜と名づけ、乃至第十を法雲と名づくや。無上の自利利他の行を成就し、初めて聖処を証すれば多く歓喜を生ず、故に歓喜地と名づく。誤りを起こす心の犯戒煩悩垢等を離れ、清浄の戒を具足すれば、故に離垢地と名づく。聞・思・修等に随って法を照らし現わす、故に明地と名づく。煩悩の薪を忘れず、智の火よく焼く、故に焔地と名づく。出世間の智方便善巧を得て、能く難度を度す、故に難勝地と名づく。般若波羅蜜の行に間有りて大智現前する、故に現前地と名づく。無相の行を善く修し、功用究竟して能く世間・二乗の出世間道を過ぐ、故に遠行地と名づく。報行純熟にして無相無間なる、故に不動地と名づく。無礙の力をもって法を説き、利他の行を成就する、故に善慧地と名づく。大法身を得て自在を具足する、故に法雲地と名づく。 かくの如く法王の位を受くるは、猶太子の諸の王子の中に於いて自在を得るが如し。是の処には微細の智障あるが故に自在ならず、この障を対治するが故に仏地を説く。また胎に懐妊するが如く、菩薩の十地もまた是の如し、諸の地に障あるが故に。子の生まるる時が如く、仏の時もまた爾り、事究竟するが故なり。また生まるる時に諸根覚了するが如く、仏もまた是の如し、一切の境界に智明了なるが故なり。 胎蔵に十時あり。一には陀羅婆身の時、二には捭羅婆身の時、三には尸羅他身の時、四には堅身の時、五には形相似色身の時、六には性相似身の時、七には業動身の時、八には満足身の時（この中に三種あり。根満足の時、男女の相別満足の時、広長の諸相満足の時）。かくの如き十時は諸地に相似するが故なり。 仏子よ、我れ諸仏世界を見ること有らず、是の如来たちがこの菩薩の十地を歎説せざる所の者を。この勝れたる法を顕わし、時衆の渇仰を増さしめんが為なり。仏世界とは、この中に成仏する、譬えば田畑の如し。往って仏事を作す者も、また仏世界と名づく。歎説するとは、この中に二種あり。一には阿含の義を説かんが為、二には証入の義を為さんが為なり。摩訶薩とは、三種の大あり。一には願大、二には行大、三には衆生を利益する大なり。勝妙法とは、諸の法門の中に最も殊勝なるが故なり。光明とは、この大乗の法は一切の余の法門を顕照するが故なり。法門とは、名づけて法と為すが故なり。十地の事を分別するとは、世間智の知る所の法を顕示するが故なり。この事は思議すべからず、所謂菩薩摩訶薩の諸地の智慧とは、出世間智を顕示するが故に、これは世間分別の地智をもって菩薩の清浄道を成ずる能わざるが故なり。 已に本分を説きぬ。云何が請分ぞ。

經曰：爾時金剛藏菩薩說諸菩薩十地名已，默然而住，不復分別。是時一切菩薩眾聞說菩薩十地名已，咸皆渴仰欲聞解說，各作是念：何因何緣，是金剛藏菩薩說諸菩薩十地名已，默然而住不更解釋？時大菩薩眾中有菩薩名解脫月，知諸菩薩心深生疑已，即以偈頌問金剛藏菩薩曰：

> 経典に曰く、その時、金剛蔵菩薩は諸菩薩の十地の名を説き終え、黙然として住し、それ以上は分別しなかった。その時、一切の菩薩衆は菩薩の十地の名を聞き終え、皆、解釈を聞くことを切に仰ぎ望み、それぞれこのように思った。何の因、何の縁によって、この金剛蔵菩薩は諸菩薩の十地の名を説き終え、黙然として住し、これ以上は説明しないのか。時に、大菩薩衆の中に、解脱月という名の菩薩がいて、諸菩薩の心に深く疑いが生じたことを知り、直ちに偈頌をもって金剛蔵菩薩に問うて言った。

「何故淨覺人， 念智功德具，說諸上妙地， 有力不解釋？決定此一切， 菩薩大名稱，何故說地名， 而不演其義？此眾皆樂聞， 佛子智無畏，如是諸地義， 願為分別說。此眾皆清淨， 離懈怠嚴淨，安住堅固中， 功德智具足。迭共相瞻住， 一切咸恭敬，如蜂欲熟蜜， 如渴思甘露。」

> なぜ浄らかな覚りの人は、 念と智の功徳を備えながら、 優れた境地について語りつつも、 その力を尽くして解き明かさないのか？ すべての菩薩の大いなる名を定めながら、 なぜその境地の名を説くだけで、 その意味を詳しく説かないのか？ この集う人々は皆、聞くことを喜び、 仏の子の智慧と畏れなき心を求めている。 このような諸境地の意義を、 どうか詳しく説き明かしてください。 この集う人々は皆清らかで、 怠りを離れ、清浄に飾られ、 堅固な境地に安らかに住し、 功徳と智慧を備えています。 互いに見つめ合い、すべてが敬虔に、 蜂が熟した蜜を求めるように、 渇いた者が甘露を思うように。

論曰：何故默然住？欲令大眾渴仰請說故，復增菩薩尊敬法故。何故解脫月菩薩初請？彼眾上首故，餘問則亂眾調伏故。何故偈頌請？少字攝多義故，諸讚歎者多以偈頌故。此五偈說何等義？顯示說者聽者無諸過故，若有過者則不應說。是中顯示說者淨覺無過故，復顯聽者同法決定故、有樂聞故、復示餘者淨心故，又顯此眾皆堪聞法故，偈言迭共相瞻住故。云何歎說者？偈言：

> 論に曰く、何故に黙然として住したのか。大衆に法を渇仰して請説せしめんがためであり、また菩薩の法を尊敬する心を増長せしめんがためである。何故に解脫月菩薩が最初に請うたのか。彼は衆の上首であるからであり、他の者が問えば衆の調和を乱すからである。何故に偈頌をもって請うたのか。少ない文字で多くの意義を摂めるからであり、諸々の讃歎する者は多く偈頌を用いるからである。この五つの偈は、いかなる意義を説くのか。説く者と聞く者に過失のないことを示すためである。もし過失があれば、説くべきではないからである。ここに説く者の清浄な覚りに過失のないことを示し、また聞く者が同じ法を決定し、聞くことを喜ぶことを示し、さらに他の者たちの清浄な心を示し、またこの衆が皆、法を聞くに堪えることを示すのである。偈に「互いに相い見つめて住す」とあるのはこのためである。いかにして説く者を讃歎するのか。偈に言う。

「何故淨覺人， 念智功德具，說諸上妙地， 有力不解釋？」

> 「なぜ浄らかな覚りの人は、念と智の功徳を備え、 優れた境地を説くのに、力があるのに解き明かさないのか？」

何故唯歎淨覺？淨覺是說因故。覺名覺觀。是口言行有淨說因，何故不說？歎淨覺有二種：一攝對治；二離諸過。是中念智具者，攝對治故。所治有二種：一者雜覺；二者雜覺因憶想分別故。念者四念處，對治雜覺故。智者真如無相智，對治雜覺因憶想分別故。餘者顯示離諸過。是過有三種，有三過者則不能說。何者為三？一慳嫉；二說法懈怠；三不樂說。慳者，其心悋法。嫉者，忌他勝智。功德具者，不瞋等功德具，示無初過故。說上地者，示無第二過故。有力者，示無第三過故。如是二種淨覺歎說者已，次歎聽者。偈言：

> なぜただ清らかな覚りをたたえるのか？清らかな覚りは説く因（もと）となるからである。覚りとは、覚察と観照をいう。これは口と行いにおいて清らかに説く因となるもので、なぜ説かないことがあろうか。清らかな覚りをたたえることには二種ある。一つは対治を摂すること、二つは諸々の過ちを離れることである。ここで「念と智を備える者」とは、対治を摂するゆえである。対治すべきものには二種ある。一つは雑じりけのある覚り、二つは雑じりけのある覚りの因となる憶想分別である。「念」とは四念処であり、雑じりけのある覚りを対治する。「智」とは真如の無相の智であり、雑じりけのある覚りの因となる憶想分別を対治する。「その他の者」は、諸々の過ちを離れていることを示す。この過ちには三種あり、三つの過ちがある者は説くことができない。どの三つか？一つは慳みと嫉み、二つは説法への懈怠、三つは説くことを喜ばないことである。「慳み」とは、心が法を惜しむこと。「嫉み」とは、他人の優れた智をねたむこと。「功徳を備える者」とは、不瞋などの功徳を備え、初めの過ちがないことを示す。「上地を説く者」とは、第二の過ちがないことを示す。「力ある者」とは、第三の過ちがないことを示す。このように二種の清らかな覚りをたたえて説くことを終え、次に聞く者をたたえる。偈に言う：

「決定此一切， 菩薩大名稱，何故說地名， 而不演其義？」

> 「このすべてを決定する、菩薩の大いなる名称について、 なぜ地名を説くだけで、その意味を演説しないのですか？」

決定者，黠慧明了故。決定有三種：一、上決定，願大菩提故；二、名聞決定，他善敬重故；三、攝受決定，彼說者善知故。偈言：菩薩故、大名稱故、說地名故，如是次第應知。雖有決定堪受法器，心不欲聞亦不得說。偈言：

> 決定的とは、聡明で道理を明らかに理解していることです。決定には三種類あります。 第一に、最上の決定。これは、偉大な悟りを求める願いが固いからです。 第二に、名声の決定。これは、他者から善い行いとして敬われ重んじられるからです。 第三に、受け入れの決定。これは、その教えを説く者が善く知っているからです。 偈に言うように、「菩薩であるから」「大いなる名声があるから」「説く地（立場・資格）の名があるから」という順序で理解すべきです。 たとえ決定し、教えを受け入れる器にふさわしくても、心に聞こうとする欲がなければ、説いてはなりません。偈に言うとおりです。

「此眾皆樂聞， 佛子智無畏，如是諸地義， 願為分別說。」

> この皆が喜んで聞きたいと願う、 仏の子の智慧に恐れはありません。 このような諸々の境地の意味を、 どうか詳しく説き明かしてください。

決定者，是中有阿含決定非證決定，有非現前決定無現前決定。如是決定，法器不滿足故不能聽受，示現此眾具足決定故，能聽受偈言佛子智無畏故。智有二種：一證法故；二現受故。如是善知法器滿足請金剛藏，如是諸地義，願為分別說。已歎同法眾決定樂聞功德，次復歎異眾。偈言：

> 決定とは、これは中に阿含の決定あり、証の決定にあらず。また、現前せざる決定あり、現前する決定にあらず。このような決定は、法器が満たされていないがゆえに聴き受けることができず、この衆が具足した決定を示すがゆえに、偈に言うごとく「仏子、智無畏なるがゆえに」と説くのである。智には二種あり、一つは法を証するがゆえに、二つは現に受けるがゆえに。このように善く法器の満足を知り、金剛蔵に請うのである。このような諸地の義を、願わくは分別して説きたまえ。すでに同法の衆の決定し、喜んで聞く功徳を讃歎し、次にまた異なる衆を讃歎する。偈に言う。

「此眾皆清淨， 離懈怠嚴淨，安住堅固中， 功德智具足。」

> この人々は皆清浄であり、 怠け心を離れ、清らかに飾られ、 堅固な境地に安らかに住み、 功徳と智慧を備えている。

清淨者，不濁故。濁有六種，離此諸濁故言清淨。何者為六？一、不欲濁；二、威儀濁；三、蓋濁；四、異想濁，妬勝心破壞心故；五、不足功德濁，善根微少故，是故於彼說中心不樂住；六、癡濁。謂愚闇等故。此對治有六種不濁，安住堅固者，於所說法修行堅固。如是次第相對：離懈怠者，對不欲濁。嚴者，對威儀濁。淨者，對蓋濁。堅固者，對異想濁。功德具者，對不足功德濁。智具者，對癡濁。此六句示現是二偈顯同生眾淨，次一偈顯異生眾淨，後一偈顯二眾清淨。偈言：

> 清らかであるとは、濁りがないことです。濁りには六種類あり、これらの濁りから離れているから清らかだと言います。六種類とは何でしょうか。 一、やる気の濁り 二、行儀作法の濁り 三、煩悩の覆いの濁り 四、邪な思いの濁り（他人を妬み、心を壊すため） 五、功徳の不足の濁り（善い根が少ないため、それゆえ心が安らかに留まらない） 六、無知の濁り（愚かさや暗さなどによる） これに対応する六種類の濁りなき状態があります。「安住堅固」とは、教えられた法を実践することが堅固であることです。次のように順に対応しています。 「懈怠を離れる」は、やる気の濁りに対応。 「厳かである」は、行儀作法の濁りに対応。 「清らかである」は、煩悩の覆いの濁りに対応。 「堅固である」は、邪な思いの濁りに対応。 「功徳を備える」は、功徳の不足の濁りに対応。 「智慧を備える」は、無知の濁りに対応。 この六句は、二つの偈によって同生の衆（同じ境地に生まれる者たち）の清らかさを示し、次の一偈は異生の衆（異なる境地に生まれる者たち）の清らかさを示し、最後の一偈は両方の衆の清らかさを示しています。偈に言う。

「迭共相瞻住， 一切咸恭敬，如蜂欲熟蜜， 如渴思甘露。」

> 互いに見守り合い、皆が敬い合う。 蜂が蜜を熟すのを待ち望むように、渇きが甘露を思うように。

迭共相瞻者，示無雜染心故。咸恭敬者，示敬重法，非妬心故。下半偈喻敬法轉深。此偈迭共相瞻是總相，一切咸恭敬是別相。如是餘偈，初句總相，餘句別相，同異成壞如上所說。偈曰：

> 互いに見つめ合うのは、心に雑念や汚れがないことを示すためです。 皆が敬虔なのは、法を敬い重んじることを示し、嫉妬の心ではないからです。 下半分の偈は、法への敬意が次第に深まることを喩えています。 この偈の「互いに見つめ合う」は総相であり、「一切のものが皆敬虔である」は別相です。 このように、他の偈も初句が総相で、残りの句が別相であり、同異成壞は上記の通りです。 偈に曰く：

「大智無所畏， 金剛藏聞已，欲令大眾悅， 即時說頌曰：難第一希有， 菩薩所行示，地事分別上， 諸佛之根本。微難見離念， 非心地難得，境界智無漏， 若聞則迷悶。持心如金剛， 深信佛智慧，心地無我智， 能聞智微細。如彩畫虛空， 如虛空風相，智如是分別， 難見佛無漏。我念佛智慧， 第一世難知，難信希有法， 是故我默然。」

> 大いなる智慧に畏れるものなし、 金剛蔵菩薩はこれを聞きて、 大衆の心を喜ばせんと欲し、 即時に偈を説いて曰く。 第一に希有なる難事、 菩薩の行いを示すもの、 地の事を分別することは最上にして、 諸仏の根本なり。 微細にして見難く、想念を離れ、 心の地にあらざるは得難し、 境界と智慧は無漏にして、 もし聞けば則ち迷悶す。 心を金剛の如くに持ち、 仏の智慧を深く信じ、 心地の無我の智慧は、 微細なる智慧を聞く能う。 彩りて虚空を画くが如く、 虚空に風の相あるが如し、 智慧はかくの如くに分別す、 見難きは仏の無漏なり。 我は仏の智慧を念ず、 第一にして世に知り難く、 信じ難き希有の法なり、 是の故に我は黙然たり。

論曰：此初偈中，欲令大眾悅是總，正詶答相。詶答有二種：一、堪詶答；二、不怯弱詶答。偈言大智故、無所畏故，離不堪答、離不正答，此二示現自他無過故。何者是正答相？此法難說復難聞故。云何難說？偈言：

> 論に曰く、この初めの偈において、大衆を喜ばせようとするのが総じての意図であり、正しく応答する相を示す。応答には二種ある。一は、応答に堪えること。二は、怯まずに応答すること。偈に「大智なるが故に」「無所畏なるが故に」とあるのは、応答に堪えられないことと、正しくない応答とを離れていることを示す。この二つは、自他に過ちのないことを示している。では、正しい応答の相とは何か。この法は説くことも難く、聞くこともまた難しいからである。どうして説くことが難しいのか。偈に言うように、

「難第一希有， 菩薩所行示，地事分別上， 諸佛之根本。」

> 「第一に稀有なるは、菩薩の行うところを示すこと、 地の事を分別する上において、諸仏の根本である。」

難者，難得故。難有二種：一、最難；二、未曾有難。偈言第一故、希有故，此二示現所說難。何者是難？偈言「菩薩所行示，地事分別上」。菩薩行者，是出世間智。示者，顯示故。地事者，謂諸地菩薩行事。分別上者，說勝故。何者菩薩行？偈言「諸佛之根本，佛者覺佛智」故。已說難說，復說所以難。何者是難？彼菩薩行事義住，不可如是說。云何彼義住？偈言：

> 難というのは、得難いからです。難には二種類あります。一つは、最も難いこと。二つは、未曾有の難しさです。偈に「第一であるから、希有であるから」とあるのは、この二つを示して、説くことが難しいことを表しています。 では、何が難しいのでしょうか。偈に「菩薩の行いを示す、地の事柄を分別する上で」とあります。菩薩行とは、出世間の智慧のことです。「示す」とは、明らかに示すことです。「地の事柄」とは、各地の菩薩の行いの内容を指します。「分別する上で」とは、優れたものを説くことです。 では、菩薩行とは何でしょうか。偈に「諸仏の根本であり、仏とは覚った仏の智慧である」とある通りです。 すでに説くことが難しいと述べましたが、さらにその理由を説きます。何が難しいのでしょうか。それは、菩薩の行いの意義がそのままに在る様子を、このように説くことはできないからです。では、その意義が在る様子とはどのようなものでしょうか。偈に言います。

「微難見離念， 非心地難得，境界智無漏， 若聞則迷悶。」

> 微細で見難く、想念を離れたものは、 心の地にて得難きにあらず、 境と智と無漏の法は、 聞けば迷い悶うことあらん。

此偈中難得者是總，餘者是別。難得者，難證故。是難得有四種：一、微難得；二、難見難得；三、離念難得；四、非心地難得。微難得者，非聞慧境界故，麁事不須思惟。難見難得者，非思慧境界故。離念難得者，非世間修慧境界故，示現三界心心數法分別世間修道智非境界故。非心地難得者，示現報生善得修道智非境界故。此示現心境界者，是心地此誰境界？偈言「智境界」。何者是智？見實義故。何故非餘境界？無漏故。無漏者，出世間義，是義非世間智境界，如是甚深義、如是可解、如是不可說。若聞則迷悶者，云何迷悶？隨聞取著故。聞者即聞，非是不聞。已辯難說，復顯難聞。偈言：

> この偈の中で「得難きもの」は総称であり、それ以外は別の説明です。「得難きもの」とは、悟ることが難しいからです。この「得難きもの」には四種類あります。第一に「微細にして得難きもの」、第二に「見難くして得難きもの」、第三に「念を離れて得難きもの」、第四に「心地ならざるゆえに得難きもの」です。 「微細にして得難きもの」とは、聞くだけの智慧では理解できない領域であり、粗雑な事柄について思惟する必要がないからです。 「見難くして得難きもの」とは、思惟するだけの智慧では理解できない領域です。 「念を離れて得難きもの」とは、世間的な修行による智慧では理解できない領域であり、三界の心と心の働きを分別する世間の修道の智慧が及ばないことを示しています。 「心地ならざるゆえに得難きもの」とは、報いとして生じた善の力による修道の智慧でも及ばないことを示しています。 ここで示されている心の領域とは、いったい誰の領域なのでしょうか。偈に「智の境界」とあります。その「智」とは何か。真実の義を見極めるからです。なぜ他の領域ではないのか。それは無漏であるからです。無漏とは、世間を超えた境地を意味し、この境地は世間の智慧では理解できません。このように深遠な義は、理解できるようでありながら、言葉では言い表せないものです。 もし聞いただけで迷いや混乱が生じるならば、どのように迷うのでしょうか。聞いたことをそのまま執着してしまうからです。聞くという行為自体は聞いているのであって、聞いていないわけではありません。すでに「説くのが難しい」ことを論じましたが、さらに「聞くのが難しい」ことを明らかにします。偈に言う。

「持心如金剛， 深信佛智慧，心地無我智， 能聞智微細。」

> 心を金剛のごとく持ち、 仏の智慧を深く信じる。 心の地に我無き智あり、 微細なる智を聞く能う。

如金剛者，堅如金剛。堅有二種：一、決定信堅；二、證得堅。此三句示現堅者是總，餘者是別。云何深信佛智慧？唯佛所知，非我境界。佛菩提無邊，佛化眾生所說法門種種信故。何者是心地？云何無我智？心地者，隨心所受三界中報，又隨心所行一切境界亦名心地。無我智者有二種：我空、法空，如實知故。能聞智微細者，難知。如是微細，如前所說。復以譬喻顯微細義，偈言：

> 金剛の如きは、堅固なること金剛の如し。堅固には二種あり：一には決定信の堅固、二には証得の堅固。この三句は堅固なることを示すものは総じて、残りは別に説く。いかにして深く仏の智慧を信ずるか？ただ仏のみが知り給うところ、我が境界にあらず。仏の菩提は辺際なく、仏が衆生を化導して説き給う法門は種々なるを信ずるが故なり。何が心地なるか？いかにして無我の智なるか？心地とは、心に随って受くる三界中の報い、また心に随って行う一切の境界をもまた心地と名づく。無我の智には二種あり：我空、法空、真実の如く知るが故なり。能く聞く智の微細なるは、知り難し。かくの如く微細なるは、前に説きしが如し。さらに譬喩をもって微細の義を顕わす、偈に言わく：

「如彩畫虛空， 如虛空風相，智如是分別， 難見佛無漏。」

> 「色を塗った虚空のように、虚空に吹く風の相のように、 知恵はこのように分別する、見難き仏の無漏を。」

此偈示現如空中畫色如壁，是中不住故不可見。如空中風如樹葉，是中不住故不可見。此動作者，非不空中有是二事。如是虛空處、事不可說處，是畫、風如說，以非自性不可得見，是不住故，以其客故，非不於中有此言說，如是佛智言說顯示地校量勝分別難見。畫者，喻名字句身。何以故，依相說故。風者，以喻音聲。說者，以此二事說。聽者，以此二事聞。若如是可說、如是可聞、如是難見，何故不說？

> この偈は、空に描かれた色や壁の絵のように、そこに留まらないから見ることができないことを示しています。空に吹く風や木の葉のように、そこに留まらないから見ることができないのです。この動きは、空でない中にこの二つの事があるわけではありません。このように、虚空の場所や、言葉で言い表せない事柄は、絵や風のように語られますが、それ自体の性質がないから得られず、留まらないからです。それは一時的なものであり、その中にこの言葉がないわけではありません。このように、仏の智慧は言葉によって示され、地の比較や優れた分別は見ることが難しいのです。 絵は、名前や文や身体に例えられます。なぜなら、形に基づいて語られるからです。風は、音声に例えられます。語る者はこの二つの事によって語り、聞く者はこの二つの事によって聞きます。もしこのように語ることができ、このように聞くことができ、このように見ることが難しいなら、なぜ語らないのでしょうか。

「我念佛智慧， 第一世難知，難信希有法， 是故我默然。」

> 私は仏の智慧を念じます、 それはこの世で最も知り難いものです。 信じ難く稀有な法、 それゆえに私は黙しています。

難知者，難證故。難信者，難生決定心故。此偈示現有證有信、可說可聞；世間難得證信，故我不說。

> 理解しがたいのは、悟りを開くのが難しいからです。信じがたいのは、確固たる決心が生まれにくいからです。この偈は、悟りを開き信じる者が現れ、教えを説き聞くことができることを示しています。しかし世の中では、悟りを開き信じる者はなかなか得られないので、私は説かないのです。

經曰：爾時解脫月菩薩聞說此已，請金剛藏菩薩言：佛子！是大菩薩善淨眾集，善清淨深心、善清淨諸念、善集諸行、多親近諸佛、善集助道法、具足無量功德、離癡疑悔無有染污。善住深心信，於佛法中不隨他教。善哉佛子！敷演此義，是諸菩薩於是深法皆能證知。

> 経に曰く、その時、解脫月菩薩はこの話を聞き終えて、金剛藏菩薩に請うて言った。 「仏子よ、この大菩薩たちは、善く衆を集め、善く深心を清浄にし、善く諸念を清浄にし、善く諸行を集め、多く諸仏に親近し、善く助道の法を集め、無量の功徳を具足し、癡疑悔を離れ、染污すること無く、善く深心に住し、信じて、仏法中に他に随って教えられず。 善いかな仏子よ、この義を敷演せよ。これらの菩薩たちは、この深法において皆能く証知することができるのです。」

論曰：聖者解脫月何故復歎此眾？上言世間證信者難得，示現此眾有堪能故。善淨深心者是總，此善淨深心有二種：一、阿含淨；二、證淨。是阿含淨有五種：一者欲淨，隨所念阿含得方便念覺淨，如經「善清淨諸念」故。二者求淨，得隨順身口敬行，如經「善集諸行」故。三者受持淨，於無量世多聞憶持不謬故，如經「多親近諸佛」故。四者生得淨，願得上上生勝念勝，如經「善集助道法」故。五者行淨，求善證法習少欲頭陀等成就多功德，如經「具足無量功德」故。證淨者有四種：一者得淨，現智善決定故，如經「離癡疑悔」故。二者不行淨，修道中一切煩惱不行故，如經「無有染污」故。三者無厭足淨，不樂小乘得上勝悕望心，如經「善住深心信」故。深心者，悕欲故。信者，決定故，復念持彼功德故。四者不隨他教淨，趣盡道中自正行故，如經「於佛法中不隨他教」故。

> 論に曰く、聖なる解脱月は何故にまたこの大衆を称えるのか。先に世間において証信を得る者は得難いと述べたが、この大衆に堪能なるものあることを示現するためである。 善く清浄なる深き心は総じてこれをいう。この善く清浄なる深き心には二種あり。一つは阿含の清浄、二つは証の清浄である。 阿含の清浄には五種あり。第一は欲の清浄。念ずる所の阿含に随って方便の念覚が清浄を得る。経に「諸の念を善く清浄にす」とあるが故である。第二は求の清浄。身口の敬行に随順することを得る。経に「諸の行を善く集む」とあるが故である。第三は受持の清浄。無量の世において多く聞き憶持して誤りなきが故である。経に「諸の仏に多く親近す」とあるが故である。第四は生得の清浄。上上の生を願い、勝れた念に勝る。経に「助道の法を善く集む」とあるが故である。第五は行の清浄。善き証法を求め、少欲・頭陀等を修習して多く功徳を成就する。経に「無量の功徳を具足す」とあるが故である。 証の清浄には四種あり。第一は得の清浄。現智が善く決定するが故である。経に「癡疑悔を離る」とあるが故である。第二は不行の清浄。修道の中において一切の煩悩行ぜざるが故である。経に「染污あること無し」とあるが故である。第三は厭足なき清浄。小乗を楽しまず、上勝なる悕望の心を得る。経に「深き心信に善く住す」とあるが故である。深き心とは、悕欲の故である。信とは、決定の故であり、また彼の功徳を念持する故である。第四は他教に随わざる清浄。尽きんとする道中において自ら正しく行うが故である。経に「仏法中において他教に随わず」とあるが故である。

經曰：爾時金剛藏菩薩言：佛子！雖此菩薩眾善清淨深心、善清淨諸念、善集諸行、多親近諸佛、善集助道法、具足無量功德、離癡疑悔、無有染污。善住深心信，於佛法中不隨他教。其餘樂小法者，聞是甚深難思議事多生疑惑，是人長夜受諸無利衰惱。我愍此等，是故默然。

> 経にはこうある：その時、金剛蔵菩薩は言った。仏子よ！この菩薩たちは、多くの善き行いを清らかな深い心で集め、様々な思いを清らかにし、多くの修行を積み、多くの仏に親しく仕え、悟りを助ける教えを集め、無量の功徳を具え、迷いや疑いや後悔を離れ、汚れのない境地にある。深い心に善く住し、仏法において他者の教えに従わない。しかし、小さな教えを好む者たちは、このような深遠で不可思議な事柄を聞くと、多くは疑いを生じる。そのような人々は長い夜、無益な衰えや悩みを受ける。私はこのような者たちを憐れみ、故に黙しているのである。

論曰：是聖者金剛藏領彼解脫月菩薩所歎眾清淨功德已，於所說法中不見法器，聞增疑惑，是故不說。於一法中有二種過：疑者正行相違猶豫義故；惑者心迷義故，能壞善法遠離善法故。如是顯示不受行因、受行退因。

> 論に曰く、この聖者金剛蔵は、かの解脱月菩薩が称賛した衆の清浄な功徳を理解した後、説かれた法の中に適切な器（理解者）を見出せず、聞くことでかえって疑惑を増すのを見て、それゆえに説法をしなかった。一つの法には二つの過ちがあるからである。疑いは、正しい行いと相反するため、意味についてためらうことである。惑いは、心が意味を見失うことである。これらは善い法を壊し、善い法から遠ざけるからである。このように、受け入れ実行しない原因と、受け入れても退く原因を示している。

經曰：爾時解脫月菩薩請金剛藏菩薩言：善哉佛子！重請此事，願承佛神力，善分別此不可思議法佛所護念事，令人易信解。所以者何？善說十地義，十方諸佛法應護念，一切菩薩護是智地勤行方便。何以故？此是菩薩最初所行成就一切諸佛法故。佛子！譬如一切書字數說皆初章所攝、初章為本，無有書字數說不入初章者。如是佛子！十地者是一切佛法之根本，菩薩具足行是十地能得一切智慧。是故佛子！願說此義，諸佛護念加以神力，令人信受不可破壞。

> 経にはこうある。その時、解脱月菩薩が金剛蔵菩薩に請うて言った。「善きかな、仏子よ。重ねてこのことを請う。仏の神力に願いを承け、この不可思議な法、仏の護念する事を善く分別し、人々に容易に信じ解かしめ給え。なぜならば、十地の義を善く説くことは、十方の諸仏が法に応じて護念し、一切の菩薩がこの智地を護り、方便を勤行するからである。どうしてかというと、これは菩薩が最初に行い、一切の諸仏法を成就するものだからである。仏子よ、譬えば一切の書字や数説は皆、初章に摂せられ、初章を本とし、初章に入らぬ書字や数説は無い。このように、仏子よ、十地は一切の仏法の根本であり、菩薩がこの十地を具足して行えば、一切の智慧を得ることができる。それゆえ、仏子よ、この義を説かんことを願う。諸仏の護念と神力を加え、人々に信受せしめ、破壊されざらしめ給え。」

論曰：聖者解脫月何故復重請？示彼疑惑此不可避，若不說者有多過咎，不得成就一切佛法故，以是義故重請金剛藏菩薩。若諸佛有力能令生信，何故眾生於彼法中猶起謗意？有二種定：一、感報定；二、作業定。此二種定，諸佛威力所不能轉。最初所行者，依阿含行故。成就一切佛法者，謂是證智。書者，是字相，如嘶字師子形相等。字者，噁阿等音。數者，名句。此二是數義，說者是語。一切書、字、數、說等，皆初章為本。

> 論に曰く、聖者解脱月は何故また重ねて請うのか。それは彼の疑惑を示すためであり、これは避けられない。もし説かなければ多くの過ちがあり、一切の仏法を成就することができないからである。この意義によって、金剛蔵菩薩に重ねて請うのである。もし諸仏に力があって信を生ぜしめることができるならば、何故衆生はその法に対してなおも誹謗の意を起こすのか。二種の定がある。一は感報定、二は作業定である。この二種の定は、諸仏の威力をもってしても転じることができない。最初に行うべきは、阿含に依って行うことである。一切の仏法を成就するとは、証智を指す。書とは、字の相であり、例えば「嘶」の字が獅子の形相に似ているようなものである。字とは、「噁」「阿」などの音である。数とは、名句である。この二つは数の意味であり、説とは語である。一切の書、字、数、説などは、すべて初章を根本とする。

經曰：爾時諸菩薩眾，一時同聲以偈頌請金剛藏菩薩言：

> 経にはこうあります。その時、菩薩たちの大衆は、一斉に同じ声で、金剛蔵菩薩に偈頌をもって請い申しました。

「上妙無垢智， 堪無量義辯，演說美妙言， 真實義相應。念堅清淨慧， 為十力淨心，無礙分別義， 說此十地法。定戒深正意， 離我慢妄見，此眾無疑心， 唯願聞善說。如渴思冷水， 如飢思美食，如病思良藥， 如眾蜂依蜜，我等亦如是， 願聞甘露法。善哉清淨智， 說勝地無垢，具十力無礙， 盡說善逝道。」

> 最上の清らかな智慧は、無量の意味を弁じる力に堪え、 美しく妙なる言葉で、真実の義に相応した説法をなさいます。 心堅固で清浄な智慧、十力に満ちた清らかな心、 妨げなく義理を分別し、この十地の法を説いてください。 禅定と戒律、深く正しい心、我慢と妄見を離れたこの衆は、 疑いの心なく、ただ善き説法を聞くことを願っています。 渇いた者が冷水を思うように、飢えた者が美食を思うように、 病める者が良薬を思うように、蜂の群れが蜜に依るように、 私たちもまた同じく、甘露の法を聞くことを願っています。 善きかな、清浄なる智者よ、勝れた清らかな地を説き、 十力を具え妨げなく、善逝の道を余すところなく説き示してください。

論曰：初偈歎證力辯才成就。第二偈上句歎阿含力辯才成就，以證力阿含力故能有所說，是故讚歎。上者是總，又復上者顯證力辯才勝故。歎辯才有三種：一、真實智；二、體性；三者果。真實智者是無漏智，勝聲聞緣覺智等。偈言「妙無垢智」故。體性者成就無量義辯才，偈言「堪無量義辯」故。果者字義成就，復是滑利勝上字義成就，偈言「演說美妙言，真實義相應」故。第二偈上句歎阿含力，偈言：

> 論において言う：最初の偈は、証得の力と弁才の成就を称えている。第二の偈の前半は、阿含の力と弁才の成就を称えている。証得の力と阿含の力があるからこそ、説くことができるのである。それゆえに称賛するのである。「上」というのは総じての意味であり、また「上」というのは、証得の力による弁才が優れていることを示している。弁才を称えるには三つの種類がある。一は真実の智、二は体性、三は果である。真実の智とは無漏の智であり、声聞や縁覚の智などに勝るものである。偈に「妙なる無垢の智」とあるゆえである。体性とは無量の義を弁じる弁才を成就することであり、偈に「無量の義に堪える弁才」とあるゆえである。果とは言葉と意味が成就することであり、さらに滑らかで優れた言葉と意味が成就することである。偈に「美妙なる言葉を演説し、真実の義と相応する」とあるゆえである。第二の偈の前半は阿含の力を称えている。偈に言う：

「念堅清淨慧， 為十力淨心，無礙分別義， 說此十地法。」

> 念い堅固にして清浄の慧、十力の浄心となす。 無礙に分別する義、この十地の法を説く。

念堅者，受持顯說故，是菩薩於阿含中淨慧無疑故。如是歎證力阿含力已，次令聽者入證入阿含，是故請說云何入證？已入地者令得佛力故，未入地者令得入地故，偈言「為十力」故、「為淨心」故。云何為入阿含無礙分別義？令受持十地法故。如是歎說者成就證力阿含力已，次復歎聽眾堪受阿含及證力故，偈言：

> 念が堅固であるとは、教えを受け持ち、それを明らかに説くからです。この菩薩は教えの中において、清らかな智慧があり、疑いがないからです。このように、証の力と教えの力を称賛した後、次に聞く者を証に入らせ、教えに入らせるために、「どのようにして証に入るのか」と説くよう請うのです。すでに地に入った者には仏の力を得させ、まだ地に入っていない者には地に入らせるために、偈に「十力のために」「清らかな心のために」とあるのです。どのようにして教えに入り、妨げなく意味を分別するのでしょうか。それは、十地の法を受け持たせるためです。このように、説く者が証の力と教えの力を成就していることを称賛した後、次にまた、聞く衆生が教えと証の力を受け入れるにふさわしいことを称賛するために、偈に言うのです。

「定戒深正意， 離我慢妄見，是眾無疑心， 唯願聞善說。」

> 定まった戒めと深く正しい心は、 我慢や妄見を離れている。 この人々には疑いの心はなく、 ただ善き説き方を聞くことを願っている。

此偈中唯願者是總。唯願有二種：一、求阿含；二、求正證。有二種妄想不堪聞阿含：一、我；二、慢。以我慢故，於法法師不生恭敬。復有二種妄想不堪得證：一、見；二、疑。見者顛倒見故，疑者於不思議處不生信故。妄者謂妄想見中同使故。有二種對治堪聞阿含：一、定；二、戒。定者心調伏故，戒者善住威儀故。次有二種對治堪能得證：一、正見；二、正意。正見者善思義故，正意者得歡喜故。深者，細意善思惟故。復以諸喻顯示大眾求法轉深，偈言：

> この偈の中で、「ただ願う」ということが全体の要です。 「ただ願う」には二つの種類があります： 一、教え（阿含）を求めること。 二、正しい悟り（正證）を求めること。 教えを聞くのにふさわしくない二つの妄想があります： 一、我（が）の思い。 二、慢（まん）の思い。 我と慢があるために、法や法師に対して恭敬の心が生まれません。 また、悟りを得るのにふさわしくない二つの妄想があります： 一、邪見（けん）。 二、疑い（ぎ）。 邪見とは、物事を逆さまに見るからです。疑いとは、不思議な境地を信じられないからです。 「妄」とは、妄想の見方の中に同じように働く煩悩があることを指します。 教えを聞くのにふさわしい二つの対治法があります： 一、定（じょう）。 二、戒（かい）。 定とは、心が調えられているからです。戒とは、威儀を正しく保っているからです。 次に、悟りを得るのにふさわしい二つの対治法があります： 一、正見（しょうけん）。 二、正意（しょうい）。 正見とは、意味をよく考えるからです。正意とは、喜びを得るからです。 「深い」とは、細やかな心でよく思惟することを意味します。 さらに、多くのたとえをもって、大衆が法を求める心が次第に深まっていくことを示しています。

「如渴思冷水， 如飢思美食，如病思良藥， 如眾蜂依蜜，我等亦如是， 願聞甘露法。」

> 喉が渇けば冷たい水を求め、 腹が空けば美味しい食事を求め、 病めば良き薬を求め、 蜂たちが蜜に寄り集うように、 私たちもまた同じく、 甘露の教えを聞かせてくださいと願うのです。

此四喻者喻四種義門，示現正受彼所說義。何等為四？一、受持；二、助力；三、遠離；四、安樂行。此義云何？如水不嚼隨得而飲，如是聞慧初聞即受隨聞受持，如食咀嚼身力助成。如是思慧嚼所聞法智力助成，如服良藥藥行除病。如是具聞思慧，隨順正義如法修行，遠離一切煩惱習患。如蜜眾蜂所依樂行住處；如是聞思修慧果聖所依處，現法愛味受樂行故。如是讚歎說者聽者請說已，次歎所說法利益咸皆共請。偈言：

> この四つのたとえは、四種の意義の門をたとえ、正しくその説かれた意義を受けとることを示している。どのような四つか。一、受持（受け保つこと）。二、助力（力を添えること）。三、遠離（遠ざかること）。四、安楽行（安らかに行うこと）。この意義はどういうことか。 水をかまずに、得るままに飲むように、聞の智慧は初めて聞いただけで受け、聞くままに受け保つ。食べ物をかみ砕いて身体の力を助けるように、思の智慧は聞いた法をかみ砕き、知の力によって助け成す。良薬を服用して薬効が病を除くように、聞と思の智慧を備え、正しい意義に従って法の通りに修行し、一切の煩悩の習い患いを遠ざける。蜜が多くの蜂のよりどころとなる楽しい住処であるように、聞・思・修の智慧の果である聖者のよりどころは、現世の愛着と味わいを受けて楽しく行うところである。 このように説く者と聞く者とをほめたたえて説き終えた後、次に説かれた法の利益をほめたたえ、皆ともに請うのである。偈に言う。

「善哉清淨智， 說勝地無垢，具十力無礙， 盡說善逝道。」

> 「善きかな清らかな智慧よ、 勝れた境地の垢なきことを説き、 十力に満ちて無碍なる方、 善逝の道をことごとく説き給う。」

善哉者，所說法中善具足故。善哉有三種：一、所依；二、體性；三、果。所依者謂淨慧，體性者謂說諸地未曾說法，勝地者地挍量勝。無垢者，說不違義。違義說者有三種垢：一者倒說；二謗如來；三誑聞者。果者，謂具十力無障礙佛菩提故。如是請已猶故不說。何故不說？請不滿故。

> 善きかなとは、説かれた法が善く具わっているからです。善きかなには三つの意味があります。第一に、よりどころ。第二に、その本質。第三に、果てるもの。 よりどころとは、清らかな智慧を指します。本質とは、これまで説かれなかった境地について語ることです。勝れた境地とは、他の境地と比べて優れていることを意味します。無垢とは、真理に背かない説き方をすることです。真理に背く説き方には三つの汚れがあります。一つは、誤ったことを説くこと。二つは、如来を誹謗すること。三つは、聞く者を欺くことです。 果てるものとは、十の力を持ち、何ものにも妨げられない仏の悟りを成就することです。このように請われても、なお説かないことがあります。なぜ説かないのでしょうか。請いが満たされていないからです。

## 十地經論初歡喜地卷第一

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