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title: "十地經論 · 2"
description: "十地经论由古印度天亲菩萨（世亲）造，北魏时期菩提流支等译师译成汉文。本论是对《华严经·十地品》的释论，系统阐释了大乘菩萨修行成佛所必须经历的十个阶位（十地）的教义与实修方法。它奠定了瑜伽行派的理论基础，对汉传佛教地论宗的形成乃至华严宗、唯识宗的发展产生了深远影响，是研究大乘佛教菩萨道思想的核心典籍之一。"
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## 十地經論初歡喜地卷之二

> 十地経論 初歓喜地 巻の二

天親菩薩造

> 天親菩薩造

後魏北印度三藏菩提流支譯

> 後魏・北インド三蔵法師菩提流支訳

論曰：此菩薩前同生眾上首請，次大眾請，復待諸佛法王加請。何以故？為增敬重法故。

> 論じていう：この菩薩は、まず同生の衆の上首が請い、次に大衆が請い、さらに諸仏の法王が加えられて請うのを待った。なぜかというと、法を敬い重んじる心を増すためである。

經曰：爾時釋迦牟尼佛從眉間白毫放菩薩力明光焰，阿僧祇阿僧祇光以為眷屬。放斯光已，普照十方諸佛世界靡不周遍。照已還住本處，三惡道苦皆得休息，一切魔宮隱蔽不現。悉照十方諸佛眾會，顯現如來境界不思議力。是光遍照十方世界，加一切如來所加說法者及諸菩薩眾，於上虛空中成大光明雲網臺而住。彼十方諸佛亦復如是，從眉間白毫相放菩薩力明光焰，阿僧祇阿僧祇光以為眷屬。放斯光已，普照十方諸佛世界靡不周遍。照已還住本處，三惡道苦皆得休息，一切魔宮隱蔽不現。悉照十方諸佛眾會，顯現如來境界不思議力。是光遍照十方世界加一切如來所加說法者及諸菩薩眾，顯現如來境界不思議力，并照釋迦牟尼佛大會之眾，及金剛藏菩薩身，於上虛空中亦復成大光明雲網臺而住。爾時釋迦牟尼佛從眉間放白毫光明，照彼十方世界諸佛大會諸菩薩身及師子座。此諸大眾皆悉現見彼十方世界諸佛從眉間放白毫光明，照此三千大千娑婆世界釋迦牟尼佛大會，并金剛藏菩薩身及師子座。彼諸大眾皆悉現見時大光明雲網臺中諸佛神力故，而說頌曰。

> 経に曰く、そのとき釈迦牟尼仏は眉間の白毫から菩薩の力を明かす光焰を放ち、無数の光を伴っていた。この光を放つと、十方の諸仏の世界をあまねく照らし、照らし終えると元の場所に戻った。三悪道の苦しみはすべて休まり、すべての魔の宮殿は隠れて現れなくなった。十方の諸仏の集まりをことごとく照らし、如来の境界の不思議な力を現した。この光は十方の世界をあまねく照らし、すべての如来が加护する説法者と菩薩たちに及び、上方の虚空に大きな光明の雲網の台となってとどまった。かの十方の諸仏もまた同じように、眉間の白毫から菩薩の力を明かす光焰を放ち、無数の光を伴っていた。この光を放つと、十方の諸仏の世界をあまねく照らし、照らし終えると元の場所に戻った。三悪道の苦しみはすべて休まり、すべての魔の宮殿は隠れて現れなくなった。十方の諸仏の集まりをことごとく照らし、如来の境界の不思議な力を現した。この光は十方の世界をあまねく照らし、すべての如来が加护する説法者と菩薩たちに及び、如来の境界の不思議な力を現し、また釈迦牟尼仏の大会の衆と金剛蔵菩薩の身を照らし、上方の虚空にもまた大きな光明の雲網の台となってとどまった。そのとき釈迦牟尼仏は眉間から白毫の光明を放ち、かの十方の世界の諸仏の大会の諸菩薩の身と師子座を照らした。この大衆はみな、かの十方の世界の諸仏が眉間から白毫の光明を放ち、この三千大千娑婆世界の釈迦牟尼仏の大会と金剛蔵菩薩の身と師子座を照らすのを、はっきりと見た。かの大衆はみな、はっきりと見た。そのとき大光明の雲網の台の中の諸仏の神力によって、頌を説いて言った。

論曰：何故如來現神通力放光同請？是如來前已意加，未身口加，異於餘佛，是故今欲具身口加。何故不以常口常身加？為重法故，不輕自身故。此光有八種業、二種身。云何八種業？一者覺業，是光照諸菩薩身已，自覺如來力加，如經「放菩薩力明光焰」故。二者因業，阿僧祇光皆有無量光明眷屬，如經「阿僧祇阿僧祇光以為眷屬」故。三者卷舒業，舒則遍至阿僧祇世界、卷則還入常光，如經「放斯光已普照十方諸佛世界靡不周遍，照已還住本處」故。四者止業，除滅一切惡道種種苦惱，如經「三惡道苦皆得休息」故。五者降伏業，令一切魔宮威光不現驚怖恐懼，不能壞亂可化眾生，如經「一切魔宮隱蔽不現」故。六者敬業，現不思議佛神力故，如經「悉照十方諸佛眾會，顯現如來境界不思議力」故。七者示現業，加十方世界諸佛所加菩薩大會令此眾見，如經「是光遍照十方世界，加一切如來所加說法者及諸菩薩眾」故。八者請業，發聲說偈，如經「時大光明雲網臺中諸佛神力而說頌曰」故。云何二身？一、如流星身，往他方世界故；二、如日身，處於虛空。如經「於上虛空中成大光明雲網臺而住」故，「於一切處一時遍照」故。如是彼此諸眾生迭互相見，猶如一會，聽說亦爾。是名身加。何者口加？偈曰：

> そこで問う。なぜ如来は神通力によって光明を放ち、同じく招請するのか。それは如来がすでに意による加をなしたが、身と口による加はまだなしていなかったからであり、他の仏とは異なるので、今、身と口の加を共に示そうとされたのである。なぜ通常の口や身によって加しないのか。法を重んじるためであり、自らを軽んじないためである。この光明には八種の作用と二種の身とがある。八種の作用とは何か。第一は覚の作用であり、この光が諸菩薩の身を照らすと、自ら如来の力の加を覚る。経に「菩薩の力を放つ明光の焰」とあるのに相当する。第二は因の作用であり、阿僧祇の光のすべてに無量の光明の眷属がある。経に「阿僧祇阿僧祇の光を眷属となす」とあるのに相当する。第三は巻舒の作用であり、舒べれば阿僧祇世界に遍く至り、巻けばまた常光に帰入する。経に「この光を放ち已りて普く十方の諸仏世界を照らし、周遍せざるなし。照らし已りてまた本処に住む」とあるのに相当する。第四は止の作用であり、一切の悪道の種々の苦悩を除滅する。経に「三悪道の苦は皆休息を得」とあるのに相当する。第五は降伏の作用であり、一切の魔宮の威光をして現れざらしめ、驚怖恐懼せしめ、教化すべき衆生を壊乱することを能わざらしめる。経に「一切の魔宮は隠蔽して現れず」とあるのに相当する。第六は敬の作用であり、不思議なる仏の神力のゆえに現れる。経に「悉く十方の諸仏の衆会を照らし、如来の境界不思議の力を顕現す」とあるのに相当する。第七は示現の作用であり、十方世界の諸仏の加えるところの菩薩大会を加えて、この衆にこれを見せしめる。経に「この光は遍く十方世界を照らし、一切の如来の加えるところの説法者および諸菩薩衆を加う」とあるのに相当する。第八は請の作用であり、声を発して偈を説く。経に「時に大光明雲網台の中の諸仏の神力にして頌を説きて曰く」とあるのに相当する。二種の身とは何か。第一は流星の身のごとく、他方世界に往くゆえである。第二は日の身のごとく、虚空に処するゆえである。経に「上の虚空中において大光明雲網台を成じて住む」とあるのに相当し、「一切処において一時に遍く照らす」ゆえである。かくのごとく彼此の諸衆生は迭互に見ること、あたかも一会のごとく、説を聴くこともまた同じである。これを身加と名づける。何が口加か。偈に曰く。

「諸佛無等等， 功德如虛空，十力無畏等， 無量諸眾首。釋迦姓法生， 天人上作加，承諸佛神力， 為開法王藏。諸地上妙行， 分別智地義，是諸如來加， 護於諸菩薩。此人能聞持， 如是微妙法，諸地淨無垢， 漸次而滿足，證佛十種力， 成無上菩提。雖在於大海， 及劫盡火中，決定信無疑， 必得聞此經。諸地勝智道， 入地住展轉，漸次而演說， 無量行境界。」

> もろもろの仏は比べるものもなく、 その功德は虚空のようです。 十力も無畏も等しくそなえ、 無数の人々の導き手となられます。 釈迦の一族に法として生まれ、 天や人の上に立ち、加護を施される方が、 もろもろの仏の神通力を受け、 法王の蔵を開こうとしておられます。 もろもろの境地におけるすぐれた行い、 智慧の境地の意味をそれぞれに説き、 もろもろの如来がこれを加護し、 菩薩たちをお護りになります。 この人はよく聞き、保ちつづけることができます、 このような微妙な法を。 もろもろの境地は清らかで汚れなく、 次第に満ち足りていき、 仏の十種の力を証し、 無上の菩提を成し遂げます。 たとえ大海の中にあっても、 また劫の尽きる火の中にあっても、 決して疑うことなく信じるなら、 かならずこの経を聞くことができるでしょう。 もろもろの境地のすぐれた智慧の道、 地に入りてとどまり、次々と移りゆき、 順を追って説き示される、 無量の行いの境地を。

論曰：是初二偈半顯能加者及加所為。此二加示現何義故加？若請非尊者、法非殊勝聖者則不說。云何初偈顯能加者？偈言「天人上作加」故。何者天人上？謂諸佛如來。此有何義？法王義故。云何知彼是法王？成就四種勝故：一、自在勝；二、力勝；三、眷屬勝；四、種姓勝。何者諸佛自在勝？於煩惱障、智障得解脫自在，彼於此處心智無礙隨意所受無上樂故。此云何知？偈言「諸佛無等等」故，謂一切智故。復如虛空，世間法不能染，無明煩惱習氣滅故。無等者，諸佛比餘眾生，彼非等故。等者，此彼法身等故。何故不但說無等？示現等正覺故。何者諸佛力勝？具足十力故，能伏一切邪智壞魔怨故。此云何知？偈言「十力無畏等」故。何者諸佛眷屬勝？具攝菩薩聲聞諸眾故。此云何知？偈言「無量諸眾首」故，彼菩薩是初眾故。無量者，阿僧祇故。諸眾首者，佛於世間最勝上故。何者佛種姓勝？謂家姓勝故。此云何知？偈言「釋迦姓法生」故。何故唯歎此佛種姓？以現見故。復以法為家，非但生家。法家者，如法中住故。作加者是總相，加有二種：一、具身加，依法身故；二、具果加。證佛果故。天人上者亦總亦別，餘者唯別。云何第二偈顯加所為？此菩薩彼諸佛法王，為開現法藏義故加。偈言：

> 論で説く。この最初の二偈半は、加える者と加える目的を示している。この二つの加えが何を意味するために示されているのか。もし請う者が尊い方でなく、法がすぐれた聖なるものでなければ、説くことはない。どのように最初の偈が加える者を示しているのか。「天人の中の最も尊い方［仏］が加えを与える」という偈によってである。天人の中の最も尊い方とは何か。諸仏如来のことである。これはどんな意味か。法王という意味である。どうしてその方が法王だと知られるのか。四つのすぐれた点を成就しているからである。一つ目は自在のすぐれ、二つ目は力のすぐれ、三つ目は眷属のすぐれ、四つ目は種姓のすぐれである。諸仏の自在のすぐれとは何か。煩悩の障りと知の障りから解脱して自在となり、その方にとってこの境地では心も知も妨げられることなく、思いのままにこの上ない楽しみを受けるからである。これはどうして知られるのか。「諸仏は無等にして等しい」という偈によってであり、一切を知る方だからである。また虚空のように、世間のものに染まらない。無明と煩悩の習いが滅びているからである。無等とは、諸仏をほかの生きものと比べると、それらと等しくないということである。等とは、この方とあの方の法身が等しいということである。なぜただ無等とだけ言わないのか。等しい悟りを示すためである。諸仏の力のすぐれとは何か。十の力をそなえ、すべての邪な知を打ち負かし、魔の怨みを壊すからである。これはどうして知られるのか。「十力と無畏など」という偈によってである。諸仏の眷属のすぐれとは何か。菩薩と声聞の多くの集まりをことごとくおさめるからである。これはどうして知られるのか。「無量の多くの集まりの頭である」という偈によってであり、それらの菩薩が最初の集まりだからである。無量とは、数えきれないほどだからである。多くの集まりの頭とは、仏が世間で最もすぐれているからである。仏の種姓のすぐれとは何か。家柄がすぐれているからである。これはどうして知られるのか。「釈迦の姓に法から生まれた」という偈によってである。なぜただこの仏の種姓だけをほめたたえるのか。実際に見ることができるからである。また法を家とし、生まれた家だけではない。法の家とは、法の中に住むからである。加えるものは全体のあり方であり、加えることには二つある。一つは身をそなえた加えであり、法身によるからである。二つ目は果をそなえた加えであり、仏の悟りを証するからである。天人の中の最も尊い方とは、全体でもあり個別でもあり、ほかのものは個別だけである。どのように二番目の偈が加える目的を示しているのか。この菩薩に、それらの諸仏である法王が、法の蔵の意味を開き示すために加えを与えるのである。偈に言う。

「承諸佛神力， 為開法王藏，諸地上妙行， 分別智地義。」

> 仏たちの力によって、法の王の教えを開き、地上でのすぐれた行いを説き、智慧の段階の意味を明らかにします。

歎此法藏有二種：一、義藏成就；二、字藏成就。云何義藏？偈言「諸地上妙行」。行者，諸菩薩行，所謂助道法故。妙者，真實智故。上者，神力勝故。如是顯示深妙勝上故。云何字藏？偈言「分別智地義」。分別者，說十地差別故。此偈中何故顯承佛神力說？或有眾生於如來所生輕慢想已，自不能請他而說。為遮此故，如是請說法已，次顯說法利他有三時益，於中有三偈。三時益者：一、聞時益；二、修行時益；三、轉生時益。何者聞時益？偈言：

> この法蔵には二つの種類があります。一つは義蔵の成就、二つは字蔵の成就です。義蔵とは何でしょうか。偈に「諸地の上妙行」とあります。行とは、もろもろの菩薩の行、すなわち助道の法のことです。妙とは、真実の智のことです。上とは、神力がすぐれていることです。このように、深く妙でありすぐれて勝れたものであることを示しています。字蔵とは何でしょうか。偈に「分別智地の義」とあります。分別とは、十地の違いを説くことです。この偈で、なぜ仏の神力を受けて説くことを示しているのでしょうか。ある衆生が如来に対して軽んじる思いを抱き、自分では請うことができず、他の者に説いてもらおうとする者がいるからです。これを遮るために、このように法を説くことを請うたのです。次に、説法が他者を益することを示します。そこには三つの時の益があります。その中に三つの偈があります。三つの時の益とは、一つには聞く時の益、二つには修行する時の益、三つには生まれ変わる時の益です。聞く時の益とは何でしょうか。偈にこうあります。

「是諸如來加， 護於諸菩薩，此人能聞持， 如是微妙法。」

> 諸仏の加護が この菩薩たちを護り、 この人はこのように微妙な法を 聞き、保つことができる。

菩薩聞持者，佛力加故，是名聞時益。何者修行時益？偈言：

> 菩薩が聞いて保つ者は、仏の力に支えられているため、これを聞く時の利益といいます。では、修行する時の利益とは何でしょうか。偈にこう説かれています。

「諸地淨無垢， 漸次而滿足，證佛十種力， 成無上菩提。」

> それぞれの境地は清らかで汚れがなく、少しずつ満ち足りていく。 仏の十種の力を証得し、この上ない菩提を成し遂げる。

漸次滿十地，自身得十力，成無上菩提故，是名修行時益。何者轉生時益？偈言：

> 段階を経て十地を満たし、自ら十の力を得て、無上の菩提を成し遂げる。これが修行の時の利益である。転生の時の利益とは何か。偈に言う。

「雖在於大海， 及劫盡火中，決定信無疑， 必得聞此經。」

> たとえ大海の中にあっても、また劫尽の大火の中にあっても、決定して信じ疑うことなく、必ずこの経を聞くことができる。

惡道、善道難處生，必得聞此法。龍世界長壽，亦得聞此經，偈言「雖在於大海」故。雖在色界光音天等，亦得聞此經，偈言「及劫盡火中」故。聞此法者，為皆得利益、有不得者不也？何者能得？決定不疑信此法者，是人能得，偈言「決定信無疑，必得聞此經」故。如是顯示請說利益已。上言分別智地義者，此所說法有三種漸次，第六偈教分別此事。偈言：

> 悪道や善道の生まれにくいところに生まれた者も、必ずこの法を聞くことができます。龍の世界は長寿ですが、そこでもこの経を聞くことができます。偈に「たとえ大海の中にいても」とあるからです。色界の光音天などにいても、やはりこの経を聞くことができます。偈に「劫尽の火の中においても」とあるからです。この法を聞く者は、みな利益を得るのでしょうか、それとも得られない者もいるのでしょうか。どのような者が得ることができるのか。この法を決定して疑いなく信じる者、その者が得ることができます。偈に「決定して信じ疑いなし、必ずこの経を聞くことを得」とあるからです。このように、説法を請うことの利益をすでに示しました。前に「分別智地の義」と言ったのは、ここで説かれた法に三つの段階があることを指し、第六の偈がこのことを教え分別しています。偈に言います。

「諸地勝智道， 入地住展轉，漸次而演說， 無量行境界。」

> 悟りの境地へと至る優れた智慧の道、 それぞれの境地に入り、とどまり、次第に進むこと、 その一つ一つを順を追って説き示し、 限りない修行の世界を語る。

何者三漸次？一、觀漸次；二、證漸次；三、修行漸次，第一、第二、第四句皆說漸次。勝智道者，謂十地勝智道，說此十地若觀若依止能生諸地智故。入者，入地故。住者，未轉向餘地故。展轉者，地地轉所住處故。行者，謂入住展轉成就故。境界者，此行種種異行境界故。漸者，次第故。說者，授與故。如是教說何義故顯？一切因如來能有所說，生後正信義故。

> 三つの漸次とは何か。第一に観の漸次、第二に証の漸次、第三に修行の漸次であり、第一・第二・第四の句はいずれも漸次を説くものである。勝智の道とは、十地におけるすぐれた智慧の道をいい、この十地を観じることも、よりどころとすることも、諸々の地の智慧を生み出すことができるからである。入とは、地に入ることである。住とは、まだ他の地へ移っていないことである。展転とは、地から地へと移り住むところである。行とは、入・住・展転を成就することである。境界とは、この行の種々に異なる行為の境界である。漸とは、順序立っていることである。説とは、授け与えることである。このような教えの説は、どのような意味を明らかにするためか。すべての因は如来によって説かれることができ、後に正しい信を生じさせるという意味のためである。

經曰：爾時金剛藏菩薩摩訶薩觀察十方，欲令大眾重增踊悅生正信故，以偈頌曰：

> 経に曰く、そのとき金剛蔵菩薩摩訶薩は十方を観察し、大衆がさらに喜びを増し、正しい信を生じるようにと願って、偈頌をもって次のように説かれた。

「微難知聖道， 非分別離念，難得無垢濁， 智者智行處。自性常寂滅， 不滅亦不生，自體本來空， 有不二不盡。遠離於諸趣， 等同涅槃相，非初非中後， 非言辭所說。出過於三世， 其相如虛空，定滅佛所行， 言說不能及。地行亦如是， 難說復難聞，離念及心道， 智起佛境界，非陰界入說， 心意所不及。如空中鳥跡， 難說不可見；十地義如是， 不可得說聞。我但說一分， 慈悲及願力，漸次非心境， 智滿如淨心。是境界難見， 難說自心知，我承佛力說， 咸共恭敬聽。如是智入行， 億劫說不盡，今如是略說， 如實滿足住。一心恭敬待， 承佛力善說，說上法妙音， 喻相應善字。是言說甚難， 無量佛神力，光焰入我身， 是力我能說。」

> 聖なる道は、きわめて知りがたく、 分別を離れ、念を離れたもの。 けがれも濁りもなく得ることは難しく、 それは智者が智慧を行ずる境地です。 その本性は常に静けさにあり、 滅することもなく、生ずることもありません。 その本体はもとより空であり、 有でもなく、二でもなく、尽きることもありません。 あらゆる迷いの世界から遠く離れ、 涅槃のすがたと等しいものです。 初めもなく、中もなく、後もなく、 言葉で語ることのできるものではありません。 三世を超え出て、 そのすがたは虚空のようです。 定と滅は仏の行ずる境地で、 言葉のおよぶところではありません。 地を行う者もまた同様で、 語ることも難しく、聞くことも難しい。 念を離れ、心の道を離れ、 智慧によって起こる仏の境界です。 五陰・十八界・十二入によって説かれるものではなく、 心や意識の及ぶところではありません。 虚空に鳥の跡がないように、 語ることも難しく、見ることもできません。 十地の意味もこのとおりで、 得ることも、語ることも、聞くこともできません。 私はただその一分を説くのみです。 それは慈悲と願の力によるものです。 段階を踏むものではなく、心の領域でもなく、 智慧が満ちることは清らかな心のようです。 この境地は見がたく、 語ることも難しく、自らの心だけが知るものです。 私は仏の力を受けて説きます。 皆でともに恭敬の心で聞いてください。 このように智慧に入る行は、 億劫をかけても説き尽くせません。 そこで今、このように略して説きます。 ありのままに満ち足りて住するがゆえです。 一心に恭敬の心で待ちなさい。 仏の力を受けてよく説きます。 すぐれた法の妙なる音を説き、 たとえと相応する美しい言葉で説きます。 この語りはきわめて難しく、 無量の仏の神力があります。 その光の炎がわが身に入り、 この力によって私は説くことができます。

論曰：何故觀察十方？示無我慢、無偏心故。欲令大眾重增踊悅深生正信，是故說偈示說正地。增益聞者，堪受義故。踊悅者，心清不濁故。踊悅有二種：一義大踊悅，為得義故；二說大踊悅，因此說大能得彼義故。是中前五偈顯義大踊悅。云何義大？彼義深故。何者深義？偈言：

> 論じていう。なぜ十方を観察するのか。我慢がなく、偏心がないことを示すためである。大衆にいっそうの喜びを起こさせ、深く正しい信仰を生じさせるために、偈を説いて正しい境地を明かすのである。聞く者の益を増し、教えを受けとめることができるようにするためである。喜びとは、心が清らかで濁りがないことである。喜びには二種類ある。第一は義の大いなる喜びであり、意味を得るためである。第二は説の大いなる喜びであり、この説によって大いなる喜びを得て、かの意味を得ることができるからである。ここで最初の五つの偈は、義の大いなる喜びを示す。どのように義が大いなるのか。かの義が深いからである。何が深い義か。偈にいう。

「微難知聖道， 非分別離念。」

> 微かで知りがたい聖なる道は、分別を離れた念によってのみ至れるものです。

此偈依何義說？依智地故。云何知依智地？上來所說皆依智地，後復所說亦依智地，第四偈言「智起佛境界」故。微者，云何微？偈言「難知聖道」故。云何難知？謂說時難知。復云何難知？大聖道難知。大聖者，所謂諸佛，是故言微。道者是因，修行此道能到聖處故。言難知聖道，此微有二種：一、說時甚微；二、證時甚微。如是次第何故復難知？偈言「非分別離念」故。非分別者，離分別境界故。離念者，自體無念故。如是聖道名為甚微。何故甚難得？難得者難證故，是名甚微。何故復甚難得？偈言：

> この偈は何の意味に基づいて説かれたのか。智の境地に基づくからである。どうして智の境地に基づくと知るのか。これまでに説かれたことはみな智の境地に基づき、後に説かれることもまた智の境地に基づくからである。第四の偈に「智は仏の境界を起こす」とあるからである。微かであるとはどういうことか。偈に「聖道は知りがたい」とあるからである。どうして知りがたいのか。説くとき知りがたいからである。またどうして知りがたいのか。大いなる聖道は知りがたいからである。大いなる聖者とは、いわゆる諸仏のことである。それゆえ微かであるという。道とは因である。この道を修行すれば聖なる境地に到ることができるからである。「聖道は知りがたい」という。この微かさには二種ある。一つには説くとき極めて微かであり、二つには証するとき極めて微かである。このように次第に、なぜまた知りがたいのか。偈に「分別にあらず念を離れる」とあるからである。分別にあらずとは、分別の境地を離れているからである。念を離れるとは、自体が念を離れているからである。このように聖道は極めて微かであるという。なぜ極めて得がたいのか。得がたいとは証しがたいからであり、これを極めて微かという。なぜまた極めて得がたいのか。偈にいう。

「難得無垢濁， 智者智行處，自性常寂滅， 不滅亦不生。」

> 「得がたい、けがれのない清らかな境地。それは智者が智慧をもって歩むところ。 その本性は常に静かに消え渡り、滅することも生まれることもない。」

無垢濁者，智中無無明故，有無明雜智是名為濁。智者智行處者，自證知故。自證知者，依彼生故。於中智者見實諦義故，復增上善解法故，增上善寂滅故，復有世間智隨聞明了知故。自性常寂滅者，自性離煩惱故，非先有染後時離故。不滅者，非一往滅，為不捨利益眾生故。不生者，出世間故。如是此智不住涅槃、世間中故。如是觀行甚微、依止甚微、清淨甚微、功德甚微故，言甚難得。於中第一甚微不同世間三昧故，第二第三不同外道自言尊者故，第四不同聲聞辟支佛故。於此偈中微者是總，二種微是別。復顯難得，得時甚微是總，餘四種甚微是別。此甚微智復有何相？偈言：

> 無垢で濁りのない者とは、智慧の中に無明がないからです。無明が智慧に混じっているなら、それは濁りと呼ばれます。智者が智慧を行ずる処とは、自ら証知するからです。自ら証知するとは、それに依って生まれるからです。その中で智者は真実の諦の義を見るからであり、さらにすぐれた善なる法を解するからであり、さらにすぐれた善なる寂滅があるからであり、さらに世間の智慧によって聞くままに明らかに知るからです。自性が常に寂滅しているとは、自性が煩惱を離れているからであり、もともと汚れがあって後になって離れるのではないからです。滅しないとは、一度限りで滅するのではなく、衆生の利益を捨てないからです。生じないとは、出世間であるからです。このようにこの智慧は涅槃にも世間にもとどまらないからです。このように観行はきわめて微細であり、依止はきわめて微細であり、清浄はきわめて微細であり、功徳はきわめて微細であるから、きわめて得がたいと言われるのです。その中で第一のきわめて微細なものは世間の三昧とは異なるからであり、第二と第三は外道が自ら尊者と称するものとは異なるからであり、第四は声聞や辟支仏とは異なるからです。この偈の中で「微」とは総じてのことであり、二種の微は別々のことです。また得がたいことを示すのに、得る時がきわめて微細であることが総じてのことであり、残りの四種のきわめて微細なことが別々のことです。このきわめて微細な智慧にはまたどのような相があるのでしょうか。偈に言います。

「自體本來空， 有不二不盡，遠離於諸趣， 等同涅槃相。非初非中後， 非言詞所說，出過於三世， 其相如虛空。」

> 自らの本体はもともと空であり、 有は二つに分かれることなく、尽きることもない。 あらゆる迷いの世界から遠く離れ、 涅槃のすがたと等しい。 初めでもなく、中でもなく、後でもなく、 言葉で説き表せるものでもない。 過去・現在・未来の三世を超えており、 そのすがたは虚空のようである。

是智相有二種：所謂同相、不同相。是中同相者，云何相？彼智相故。偈言「自體本來空」，智自空故。云何同相？一切諸法如說自體空，自體空者可如是取如兔角耶？不也。可如是取異此空智更有異空耶？不也。可如是取有彼此自體彼此轉滅耶？不也。云何取此自體空？「有不二不盡」如是取。此句顯離三種空攝：一、離謗攝；二、離異攝；三、離盡滅攝。有二種頌：一、有不二不盡；二、定不二不盡。此頌雖異，同明實有，若非實有不得言定。此云何定？此定能滅諸煩惱故，是名同相。何者不同相？謂淨相解脫。此復有二種：一、何處得解脫；二、云何解脫。何處得解脫者，偈言「遠離於諸趣」，此顯諸道解脫，遠離煩惱業生故。云何解脫者，偈言「等同涅槃相」，世間、涅槃平等攝取故，非如聲聞一向背世間故。此智盡漏，為初智斷、為中為後？非初智斷，亦非中後，偈言「非初非中後」故。云何斷？如燈焰，非唯初中後，前中後取故。如是解脫，可同他音聲觀耶不也？云何觀？偈言「非言辭所說」，離語言故。可同世間智依世間耶不也？云何依？偈言「出過於三世」，轉依止依止常身故，非如無常意識智依止無常因緣法。如修多羅中決定說此解脫，可同聲聞緣覺智有障解脫得解脫耶不也？云何解脫？偈言「其相如虛空」，無一切煩惱障礙故。如是觀智、如是斷煩惱、如是觀觀、如是依止，依止如是解脫得解脫。如是說已，於中自體空是總，三種空是別；解脫是總，五種解脫是別。偈言：

> 知には二つの相がある。いわゆる同相と不同相である。このうち同相とはどのような相か。それは知の相であるからである。偈に「自體本來空」とあるのは、知それ自体が空であるからである。どのように同相なのか。一切の諸法は説かれるところの自體空であり、自體空なるものは兎の角のように捉えることができるだろうか。できない。この空の知とは別に、さらに異なる空があると捉えることができるだろうか。できない。彼此の自體があり、彼此が転滅すると捉えることができるだろうか。できない。ではこの自體空をどのように捉えるのか。「有不二不盡」と、このように捉える。この句は三つの空の捉え方を離れることを示す。第一に謗りを離れること、第二に異なることを離れること、第三に尽滅を離れることである。二種の頌がある。第一に「有不二不盡」、第二に「定不二不盡」である。この頌は異なっているが、同じく実有を明らかにする。もし実有でなければ定と言うことはできない。何が定か。この定は諸々の煩悩を滅することができるからである。これを同相と名づける。何が不同相か。清浄相の解脱である。これにもまた二種がある。第一にどこで解脱を得るか、第二にどのように解脱するか。どこで解脱を得るかとは、偈に「遠離於諸趣」とあるのは、諸々の道の解脱を示し、煩悩と業と生を遠離するからである。どのように解脱するかとは、偈に「等同涅槃相」とあるのは、世間と涅槃を平等に捉えるからであり、声聞のように一向に世間を背にするのではない。この知が漏を尽くすのは、初めの知が断ずるのか、中か後か。初めの知が断ずるのではなく、中や後でもない。偈に「非初非中後」とあるからである。どのように断ずるのか。灯の炎のように、ただ初め中後だけではなく、前中後を取るからである。このように解脱は、他の音声と同じように観ることができるだろうか。できない。どのように観るのか。偈に「非言辭所説」とあるのは、言葉を離れているからである。世間の知と同じように世間に依ることができるだろうか。できない。どのように依るのか。偈に「出過於三世」とあるのは、転依止が常身に依止するからであり、無常の意識の知が無常の因縁の法に依止するのではない。経典の中にこの解脱を決定して説くように、声聞や縁覚の知に障りのある解脱が解脱を得るのと同じだろうか。できない。どのように解脱するのか。偈に「其相如虛空」とあるのは、一切の煩悩の障礙がないからである。このように知を観じ、このように煩悩を断じ、このように観を観じ、このように依止し、このように解脱を得て解脱する。このように説いて、その中で自體空は総であり、三種の空は別である。解脱は総であり、五種の解脱は別である。偈にいう。

「定滅佛所行， 言說不能及，地行亦如是， 難說復難聞。」

> 定と滅は仏が行なうところであり、 言葉で言い表すことはできません。 地を行じることもまた同じで、 説くことも聞くことも難しいのです。

此偈云何？彼智已顯方便壞涅槃，復示性淨涅槃，偈言「定滅」故。定者，成同相涅槃，自性寂滅故。滅者，成不同相方便壞涅槃，示現智緣滅故。此智是誰證？偈言「佛所行」故。誰說、誰聽？無說、無聽，偈言「言說不能及」故。言說者，以音言導，謂名句字身。何故不但說無言？示現依言求解故。彼智既如是，地行復何相？偈言「地行亦如是，難說復難聞」。地者，境界。觀行者，智眷屬。智眷屬者，謂同行。同行者，謂檀等諸波羅蜜。何故復難說難聞？偈言：

> この偈は何を意味するのか。かの智慧はすでに方便を顕わし涅槃を壊することを示し、さらに自性清浄の涅槃を示すのである。偈に「定滅」とあるからである。定とは、同相の涅槃を成じ、自性が寂滅であるからである。滅とは、不同相の方便が涅槃を壊することを成じ、智慧が縁として滅することを示現するからである。この智慧は誰が証するのか。偈に「仏所行」とあるからである。誰が説き、誰が聴くのか。説く者もなく、聴く者もない。偈に「言説不能及」とあるからである。言説とは、音声の言葉によって導くもので、名・句・字身をいう。何ゆえただ無言とだけ説かないのか。言葉に依って解を求めることを示現するからである。かの智慧がすでにこのようであるならば、地行はいかなる相か。偈に「地行亦如是、難説復難聞」とある。地とは、境界である。観行者とは、智慧の眷属である。智慧の眷属とは、同行をいう。同行とは、檀などの諸波羅蜜をいう。何ゆえまた説き難く聞き難いのか。偈にいう。

「離念及心道， 智起佛境界，非陰界入說， 心意所不及。」

> 念や心の道を離れ、智慧によって仏の境界が現れる。それは五陰・十八界・十二入の言葉で説けるものではなく、心や意識の及ぶところではない。

此偈示現思慧及報生識智是則可說，此智非彼境界，以不同故，偈言「智起佛境界」故。如陰界入可說，此智不爾，離文字故，是故不可說，偈言「非陰界入說」故。非耳識所知、非意識思量，是故不可聞，偈言「心意所不及」故。智者，是地。智起者，以何觀、以何同行能起此智？云何可證而不可說而不可聞？今復以喻證成此義。偈言：

> この偈が示しているのは、思慧と報生識智であり、これらは説くことができる。この智はそれらの領域ではない、異なるからである。偈に「智は仏の境界から起こる」とあるからである。陰・界・入は説くことができるが、この智はそうではない、文字を離れているからである。したがって説くことはできない。偈に「陰・界・入には説かれない」とあるからである。耳識が知るところではなく、意識が思量するところでもない。したがって聞くことはできない。偈に「心と意の及ぶところではない」とあるからである。智者とは、境地である。智が起こるとは、どのような観によって、どのような同行によってこの智を起こすことができるのか。どのように証することができて、しかも説くことができず、聞くことができないのか。今また譬えによってこの意味を証明する。偈にいう：

「如空中鳥跡， 難說不可見；十地義如是， 不可得說聞。」

> 空を飛ぶ鳥の跡が、言葉にできず、見ることもできないように、 十地の教えもまた、そのように捉えることができず、説いて聞くこともできません。

此偈示何義？如鳥行空中，跡處不可說，相亦不可見。何以故？虛空處鳥跡相不可分別故，非無虛空行跡。如是鳥跡住處、名句字身住處，菩薩地證智所攝，不可得說不可得聞。何以故？非如聲性故，非無地智。名句字身，此中深故，示義大踊悅。何故我復說此？汝等不應如聲取義。隨聲取義有五種過：一、不正信；二、退勇猛；三、誑他；四、謗佛；五、輕法。大眾自知無此五過。已說深義，復顯說大令生正信，次說五偈：

> この偈は何を意味するのか。鳥が空中を飛ぶとき、その跡の場所は語ることができず、姿もまた見ることができない。なぜか。虚空には鳥の跡の相を区別することができないからである。しかし、虚空に鳥の飛んだ跡がないわけではない。このように、鳥の跡の住処、名・句・字身の住処は、菩薩地の証智に含まれ、説くことも得られず、聞くことも得られない。なぜか。声の本性のようなものではないからである。しかし、地の智がないわけではない。名・句・字身は、ここでは深いので、その意味を示すことに大いなる喜びがある。なぜ私が再びこれを説くのか。あなたたちは声に従って意味を取ってはならない。声に従って意味を取ることには五つの過失がある。一つには正しい信がないこと。二つには勇猛心が退くこと。三つには他を欺くこと。四つには仏を謗ること。五つには法を軽んじることである。大衆は自らこの五つの過失がないことを知っている。すでに深い意味を説き、さらに大いなる説を示して正しい信を生じさせるために、次に五つの偈を説く。

「我但說一分， 慈悲及願力，漸次非心境， 智滿如淨心。是境界難見， 難說自心知，我承佛力說， 咸共恭敬聽。如是智入行， 億劫說不盡，今如是略說， 如實滿足住。一心恭敬待， 承佛力善說，說上法妙音， 喻相應善字。是言說甚難， 無量佛神力，光焰入我身， 是力我能說。」

> 私はただ一分を説くのみ。 慈悲と願力は、次第に進むものであり、心の境地ではない。 智慧が満ちることは清らかな心のようである。 この境地は見がたく、説きがたく、自らの心だけが知っている。 私は仏の力を受けて説く。皆ともに恭敬して聞きなさい。 このような智慧の入る行は、億劫を経ても説き尽くせない。 今このように略して説く。如実に満足して住するために。 一心に恭敬して待ちなさい。仏の力を受けて善く説く。 上の法の妙なる音を説く。喩えに相応した善き言葉で。 この言説ははなはだ難しい。無量の仏の神力が 光焰となって我が身に入る。この力によって私は説くことができる。

前言十地義如是，不可得說聞，今言我但說一分，此言有何義？是地所攝有二種：一、因分；二、果分。說者，謂解釋。一分者，是因分於果分為一分故，言我但說一分。此說大，有三種：一、因成就大；二、因漸成就大；三、教說修成就大。何者因成就大？偈言「慈悲及願力」故。慈者、同與喜樂因果故。悲者、同拔憂苦因果故。願者、發心期大菩提故。此慈悲願長夜熏修、不同二乘故。何者因漸成就大？偈言「漸次」故。漸者，說聞思慧等次第乃至能生出世間智因故。何者教說修成就大？有二種：一、滿足修；二、觀修。滿足修者，偈言「非心境」故。非心境者，此句示現聞思慧等心境界處唯是智因，能生出世間智，而此不能滿彼出世間智地，偈言「智滿如淨心」故。如淨心者，如出世間清淨心，能滿彼地智故。觀修者，偈言：

> はじめに、十地の義はこのようであり、言葉で説き聞くことはできません。そこで「私はただ一分を説くのみ」と言うのは、どういう意味でしょうか。この地に含まれるものには二つあります。一つは因分、二つは果分です。説くとは、解釈することをいいます。一分とは、因分が果分に対して一分であるため、「私はただ一分を説くのみ」と言うのです。この説には大きく三つあります。一つは因成就の大、二つは因漸成就の大、三つは教説修成就の大です。何が因成就の大でしょうか。偈に「慈悲および願力」とあるからです。慈とは、ともに喜びと楽しみを与える因果のためです。悲とは、ともに憂いと苦しみを抜く因果のためです。願とは、発心して大いなる菩提を期するためです。この慈悲と願は長い間熏修してきたもので、二乗とは異なるからです。何が因漸成就の大でしょうか。偈に「漸次」とあるからです。漸とは、聞くこと・思うこと・慧などの次第を説き、さらには世間を超えた智を生み出す因となることをいいます。何が教説修成就の大でしょうか。二つあります。一つは満足修、二つは観修です。満足修とは、偈に「心の境地にあらず」とあるからです。心の境地にあらずとは、この句は聞・思・慧などの心の境地はただ智の因であり、世間を超えた智を生み出すことができても、これによってはかの世間を超えた智の地を満たすことはできないことを示しています。偈に「智は清らかな心のごとく満ちる」とあるからです。清らかな心のごとくとは、世間を超えた清らかな心のように、かの地の智を満たすことができるからです。観修とは、偈に、

「是境界難見， 難說自心知，我承佛力說， 咸共恭敬聽。」

> その境地は見ることも難しく、 言葉にするのも難しい。ただ自ら心で知るほかない。 私は仏の力を受けてこれを説く。 みなで心を込めて恭敬し、聞いてほしい。

此偈顯何義？是境界難見，自心清淨可見，此境界不可說。如是教說修成就已，於說法中有二種過，不能得證：一、說者過；二、聽者過。說者過，有二種：一、佛不隨喜說；二、不平等說。聽者亦有二種過：一、見諍過，我法是、彼法非，如是執著種種諸見；二、於說法者不生恭敬。於中示現說者自身無過，我非諸佛不隨喜說，偈言「我承佛力說咸聽」故。次教聽者，防二種過。偈言「共恭敬聽」故。如是次第如是許說，而眾未知廣說略說，不可廣說唯許略說地義滿足。如第三偈說：

> この偈は何を明かしているのか。この境地は見がたく、自らの心が清らかであることによって見ることができ、この境地は言葉では説き表せないということである。このように教えを説き修行を成就したのち、説法の中には二つの過ちがあり、証を得ることができない。一つには説く者の過ち、二つには聞く者の過ちである。説く者の過ちには二つある。一つには仏が随喜されない説、二つには不平等な説である。聞く者にもまた二つの過ちがある。一つには見の争いの過ちで、我の法は正しく彼の法は誤りであると、このように種々の見に執着すること。二つには説法する者に対して恭敬の心を生じないことである。その中で説く者自身に過ちがないことを示している。私は諸仏が随喜されない説をするのではない、偈に「我、仏の力を承けて説く、皆聞け」とあるからである。次に聞く者を教え、二つの過ちを防ぐ。偈に「共に恭敬して聞け」とあるからである。このように次第にこのように説くことを許し、しかして大衆は広説か略説かをまだ知らず、広説はできずただ略説のみを許し、地の義は満足する。第三の偈に説く通りである。

「如是智入行， 億劫說不盡，今如是略說， 如實滿足住。」

> このように智慧の修行に入ることは、 何億劫もの時間をかけても語り尽くせない。 そこで今、その要点だけを簡潔に説こう。 真実のままに、満ち足りた境地に住するために。

智入者，此所說地法，眾生以智入。云何入？如實滿足攝取入，如行修故。如行修滿足故，示彼廣說義攝取故。住者，如來家決定住故，我如是說。前言恭敬聽，不說云何恭敬，是故示現。偈言：

> 智慧によって入るとは、ここで説かれる境地の法に、衆生が智慧によって入るということです。どのように入るのか。ありのままに満たし、摂取して入ることであり、行に従って修めるからです。行に従って修めることが満たされるため、その広く説かれた意味を摂取することを示すためです。住するとは、如来の家に決定して住するからです。私がこのように説くのは、先に「恭敬して聴け」と言いながら、どのように恭敬するかを説かなかったから、それを示すためです。偈に言います。

「一心恭敬待， 承佛力善說，說上法妙音， 喻相應善字。」

> 心を込めて敬いながら待ち、仏の力を受けて立派に説く。 すぐれた教えの妙なる響きを、たとえにふさわしい良い言葉で説く。

一心恭敬待者，有二種：一、身正恭敬待，如威儀住，堪受說法故；二、心正恭敬待，如心決定，堪能憶持故。此句勸誡二種恭敬待，所謂身、心故。善說者，示己無諂、無有憍慢故。承佛力者，示己無增上慢故。下半偈說上法妙音喻相應善字，示現何事？以何事？云何事？依止何事？示現何事者，所謂上法。以何事者，謂妙音聲。云何事者，譬喻相應。依止何事者，謂依止善字，我一切善說。又相應者，譬喻共相應。善字者，有二種相：一、隨方言音，善隨順故；二、字句圓滿，不增不減，與理相應故言善字。前言承佛神力，未說云何力？第五偈示現佛神力事。偈言：

> 一心に恭敬して待つことには、二つあります。一つは身を正しく恭敬して待つことです。威儀を正してとどまり、説法を受けるのにふさわしいからです。二つは心を正しく恭敬して待つことです。心を決めて、よく記憶し保持することができるからです。この句は、身と心の二つの恭敬して待つことを勧め戒めているのです。善く説くとは、自分にへつらいがなく、驕りの心がないことを示すためです。仏の力を受けるとは、自分に増上慢がないことを示すためです。後半の偈では、上の法と妙なる音のたとえが相応する善き字について説かれます。何を示すのか、何によってか、何をか、何に依るのか。示すものとは、すなわち上の法です。何によってかとは、妙なる音声です。何をかとは、たとえが相応することです。何に依るのかとは、善き字に依ることです。私はすべてを善く説きます。また相応とは、たとえがともに相応することです。善き字には二つの相があります。一つは、その土地の言葉に従い、よく順応するからです。二つは、字と句が円満で、増えも減りもせず、理に相応するから、善き字と言うのです。先に仏の神力を受けると言いながら、まだその力がどのようなものかを説いていませんでした。第五の偈が仏の神力のことを示します。偈に言います。

「是言說甚難， 無量佛神力，光焰入我身， 是力我能說。」

> こう言うのはとても難しいことです。 無数の仏の神力によって、 その光が私の身に入りました。 この力があるので、私は説くことができるのです。

已說請分，自此以後正說初地。此說分中說何等事？分別有三：一、住；二、釋名；三、安住。住中有四種：依何身？為何義？以何因？有何相？彼心生時即住初地，是名為住，於中諸佛子善集善根故。如是等四十句說此住事。初說依何身生如是心。

> すでに「請分」を説き終えたので、これより後は初地について正式に説く。この説分の中で何を説くのか。区分すると三つある。第一に「住」、第二に「名の解釈」、第三に「安住」である。「住」には四つの種類がある。何の身に依るのか。何のために。何の原因によって。どのような相があるのか。その心が生じたとき、すなわち初地に住する。これを「住」という。その中で仏子たちは善根をよく集めるからである。このように四十の句をもってこの「住」の事柄を説く。まず「何の身に依ってこのような心が生じるのか」を説く。

經曰：諸佛子！若有眾生厚集善根故、善集諸善行故、善集諸三昧行故、善供養諸佛故、善集清白法故、善知識善護故、善清淨心故、入深廣心故、信樂大法好求佛智慧故、現大慈悲故，如是眾生乃能發阿耨多羅三藐三菩提心。

> 経に曰く、諸仏子よ。もし衆生が、善根を厚く積んだがゆえに、もろもろの善行をよく積んだがゆえに、もろもろの三昧の行をよく積んだがゆえに、もろもろの仏によく供養したがゆえに、清らかな法をよく積んだがゆえに、善き知識に善く護られたがゆえに、心をよく清めたがゆえに、深く広い心に入ったがゆえに、大いなる法を信じ喜び仏の智慧を好んで求めたがゆえに、大いなる慈悲を現したがゆえに、このような衆生こそが、まさに阿耨多羅三藐三菩提の心を起こすことができるのである。

論曰：如是十句說依何身。此集有九種：一者行集，善作眷屬持戒，如經「善集諸善行」故。二者定集，善作眷屬三昧，如經「善集諸三昧行」故。三昧行者，觀行增上故。三者親近集，善習聞慧智，如經「善供養諸佛」故。四者聚集思慧智，善思量波羅蜜等諸善法，如經「善集清白法」故。五者護集，修行實證善得教授，如經「善知識善護」故。六者淨心集，得出世間正智，如經「善清淨心」故。七者廣集，深心作利益一切眾生，如經「入深廣心」故。八者信心集，求一切智智，如經「信樂大法好求佛智慧」故。九者現集，多行慈悲，如經「現大慈悲」故。於中慈念依苦苦、壞苦，悲依行苦。是中初二種集，顯增上戒學、增上定學，行集善作眷屬持戒故，定集善作眷屬三昧故。次有四集，顯增上慧學，親近集善習聞慧智故，聚集思慧智善思量波羅蜜等諸善法故，護集修行實證善得教授故，淨心集得出世間正智故。後三集，顯勝聲聞辟支佛等故，廣集深心作利益一切眾生故，信心集求一切智智故，現集多行慈悲故。此十句中厚集善根是總，餘九種是別。集者是同相，別者是異相，成者略說故，壞者廣說故。已說依何身生如是心，次說為何義故生如是心。

> 論じて曰く、この十句はどのような身に依って説かれたのか。この集には九つの種類がある。第一は行集であり、善く行うことに伴う持戒である。経に「善く諸々の善行を集める」とある通りである。第二は定集であり、善く行うことに伴う三昧である。経に「善く諸々の三昧の行を集める」とある通りである。三昧の行とは、観行が増上するからである。第三は親近集であり、善く聞慧の智を習うことである。経に「善く諸仏に供養する」とある通りである。第四は思慧の智を聚集することで、善く波羅蜜などの諸々の善法を思量することである。経に「善く清白な法を集める」とある通りである。第五は護集であり、修行して実証し、善く教授を得ることである。経に「善知識に善く護られる」とある通りである。第六は浄心集であり、出世間の正智を得ることである。経に「善く清浄な心」とある通りである。第七は広集であり、深い心で一切衆生を利益することである。経に「深広な心に入る」とある通りである。第八は信心集であり、一切智智を求めることである。経に「大法を信楽し、好んで仏の智慧を求める」とある通りである。第九は現集であり、多く慈悲を行うことである。経に「大慈悲を現す」とある通りである。その中で、慈の念は苦苦と壊苦に依り、悲は行苦に依る。ここで最初の二種の集は、増上戒学と増上定学を顕している。行集は善く行うことに伴う持戒であるからであり、定集は善く行うことに伴う三昧であるからである。次の四つの集は、増上慧学を顕している。親近集は善く聞慧の智を習うからであり、聚集は思慧の智で善く波羅蜜などの諸々の善法を思量するからであり、護集は修行して実証し善く教授を得るからであり、浄心集は出世間の正智を得るからである。後の三つの集は、声聞や辟支仏などに勝ることを顕している。広集は深い心で一切衆生を利益するからであり、信心集は一切智智を求めるからであり、現集は多く慈悲を行うからである。この十句の中で、厚く善根を集めることが総であり、残りの九種は別である。集とは同相であり、別とは異相であり、成とは略説であり、壊とは広説である。すでにどのような身に依ってこのような心を生じるかを説いた。次に何の義のためにこのような心を生じるかを説く。

經曰：為得佛智故、為得十力力故、為得大無畏故、為得佛平等法故、為救一切世間故、為淨大慈悲故、為得十方無餘智故、為得一切世界無障淨智故、為得一念中覺三世事故、為得轉大法輪無所畏故，菩薩摩訶薩生如是心。

> 経に曰く、仏の智慧を得るために、十力の力を得るために、大いなる恐れなき心を得るために、仏の平等の法を得るために、一切の世間を救うために、大いなる慈悲を清めるために、十方に余すところのない智慧を得るために、一切の世界に障りのない清らかな智慧を得るために、一念の中で三世の事を覚るために、大いなる法輪を転じて恐れなきを得るために、菩薩摩訶薩はこのような心を起こすのである。

論曰：於中佛智者，謂無上智，知斷證修故。此佛智有九種業差別，為求彼故生如是心。一者力佛智，問記業，此如來是處非處智力問記故，如修多羅中說，如經「為得十力力」故。二者無畏佛智，破邪說業，如經「為得大無畏」故。三者平等佛智，得人法無我教授眾生證入業，如經「為得佛平等法」故。四者救佛智，以四攝法化眾生業，如經「為救一切世間」故。五者淨佛智，是淨為救攝因業，如經「為淨大慈悲」故。六者無餘智，佛智常以佛眼觀世間眾生業，如經「為得十方無餘智」故。七者無染佛智，一切世界無障無染自然應化令信作業，智心無礙，如經「為得一切世界無障淨智」故。八者覺佛智，於一念中知三世眾生心心數法業，如經「為得一念中覺三世事」故。九者轉法輪佛智，解脫方便善巧業故，於百億閻浮提同時轉大法輪，如經「為得轉大法輪無所畏」故。生如是心者，即是本分中說諸佛子是菩薩願善決定故。何故唯言生心，不言生智及餘心數法？心中即攝知斷證修一切助道法故。已說為何義故生如是心，次說以何因生如是心。

> 論に曰く、ここでいう仏智とは、無上の智慧のことであり、断じ、証し、修めることを知るがゆえである。この仏智には九種の働きの違いがあり、それを求めるために、このような心を起こすのである。 第一に、力の仏智とは、問いに対して記す働きである。これは如来が処と非処を見分ける智力によって問いに答え記すためであり、経典の中に説かれているとおりである。経に「十力の力を得んがために」とあるとおりである。 第二に、無畏の仏智とは、邪説を破る働きである。経に「大いなる無畏を得んがために」とあるとおりである。 第三に、平等の仏智とは、人と法の無我を得て、衆生を教え導き証に入らせる働きである。経に「仏の平等の法を得んがために」とあるとおりである。 第四に、救の仏智とは、四摂法によって衆生を教化する働きである。経に「一切の世間を救わんがために」とあるとおりである。 第五に、浄の仏智とは、この浄さが救いと摂取の因となる働きである。経に「大慈悲を浄めんがために」とあるとおりである。 第六に、無余の智とは、仏智が常に仏眼をもって世間の衆生を観る働きである。経に「十方の無余の智を得んがために」とあるとおりである。 第七に、無染の仏智とは、一切の世界に障りも汚れもなく、自然に応化して信を起こさせる働きであり、智の心に妨げがない。経に「一切の世界の障りのない浄智を得んがために」とあるとおりである。 第八に、覚の仏智とは、一念のうちに三世の衆生の心と心数法を知る働きである。経に「一念のうちに三世の事を覚らんがために」とあるとおりである。 第九に、転法輪の仏智とは、解脱の方便と善巧の働きであるゆえ、百億の閻浮提において同時に大法輪を転じる。経に「大法輪を転じて畏れなきを得んがために」とあるとおりである。 このような心を起こすとは、すなわち本分の中で説かれる諸仏子の、菩薩の願の善決定のことである。なぜただ心を起こすとだけ言い、智やその他の心数法を起こすと言わないのか。心の中にはすなわち、知り、断じ、証し、修めるという一切の助道の法が含まれているからである。 すでに、何の目的のためにこのような心を起こすかを説いた。次に、何の因によってこのような心を起こすかを説く。

經曰：是心以大悲為首，智慧增上，方便善巧所攝，直心深心淳至，如來力無量，善決定眾生力智力，隨順自然智能受一切佛法，以智慧教化，廣大如法界，究竟如虛空，盡未來際。

> この経典にこう説かれています。 この心は、大きな慈悲を第一とし、智慧によってさらに高まり、巧みな方便に支えられています。まっすぐな心、深い心、純粋で真摯な心であり、如来の無量の力と、衆生の力をすぐれた智慧によって見きわめる力と智慧をそなえ、自然の智慧にしたがってすべての仏の教えを受け入れ、智慧をもって人々を導きます。その広がりは法界のように広大で、究極のところは虚空のように果てしなく、未来の果てまで続いていくのです。

論曰：此大悲為首。於中悲大有九種：一者增上大，細苦智增上生故，如經「智慧增上」故。智者因果逆順染淨觀故，慧者自相同相差別觀故。二者攝大，救苦眾生方便善巧所攝，如經「方便善巧所攝」故。三者淳至大，向時許乃至盡眾生界作利益眾生悲心增上，如經「直心深心淳至」故。四者無量大，攝取如來無量力，如經「如來力無量」故。五者決定大，上妙決定信深智勝對治，如經「善決定眾生力智力」故。六者隨順大，隨順菩提正覺，如經「隨順自然智」故。七者正受大，能取大勝法教授眾生，如經「能受一切佛法，以智慧教化」故。八者最妙大，攝受勝妙功德，如經「廣大如法界」故。九者住盡大，無量愛果因盡涅槃際，如經「究竟如虛空，盡未來際」故。已說以何因生如是心，次說是心生時有何等相。

> 論じていう。この大悲を第一とする。その中で悲には大きく九つの種類がある。第一は増上大、細かな苦しみを見抜く智慧が増上して生じるからである。経に「智慧増上」とあるとおりである。智とは因果の逆順・染浄を観るものであり、慧とは自相・同相・差別を観るものである。第二は摂大、苦しむ衆生を救う方便善巧に摂められるからである。経に「方便善巧に摂められる」とあるとおりである。第三は淳至大、初めに誓った時から衆生界を尽くすまで利益衆生の悲心が増上するからである。経に「直心・深心・淳至」とあるとおりである。第四は無量大、如来の無量の力を摂り取るからである。経に「如来の力は無量」とあるとおりである。第五は決定大、すぐれた決定の信と深い智が勝れた対治となるからである。経に「善く決定した衆生の力・智力」とあるとおりである。第六は随順大、菩提の正覚に随順するからである。経に「自然智に随順する」とあるとおりである。第七は正受大、大きな勝れた法を取って衆生を教え導くことができるからである。経に「一切の仏法を受持し、智慧をもって教化する」とあるとおりである。第八は最妙大、勝妙な功徳を摂め受けるからである。経に「広大なること法界のごとし」とあるとおりである。第九は住尽大、無量の愛果の因が涅槃の際にまで尽きるからである。経に「究竟なること虚空のごとく、未来際を尽くす」とあるとおりである。すでに何の因によってこのような心が生じるかを説いた。次にこの心が生じる時、どのような相があるかを説く。

經曰：菩薩生如是心，即時過凡夫地入菩薩位，生在佛家，種姓尊貴無可譏嫌，過一切世間道入出世間道，住菩薩法中、住在菩薩正處，入三世真如法中、如來種中，畢定究竟阿耨多羅三藐三菩提。菩薩住如是法，名住菩薩歡喜地，以不動法故。

> 経に曰く、菩薩がこのような心を起こすと、その時ただちに凡夫の境地を超えて菩薩の位に入り、仏の家に生まれ、その種姓は尊く、とがめられることがなく、すべての世間の道を超えて出世間の道に入り、菩薩の法の中に住み、菩薩の正しい境地に住し、過去・現在・未来の真如の法の中に入り、如来の種の中に入り、必ず究竟の阿耨多羅三藐三菩提を得る。菩薩がこのような法に住することを、菩薩の喜びの地に住するといい、動じない法によるからである。

論曰：過凡夫地者，以過凡夫地故，示現得出世間聖道。此過有八種：一者入位過，初成出世間心，如始住胎相似法故，如經「入菩薩位」故。二者家過，家生相似法故，如經「生在佛家」故。三者種姓過，子相似法大乘行生故，如經「種姓尊貴，無可譏嫌」故。四者道過，世間出世間道不攝攝故，異道生相似法故，如經「過一切世間道，入出世間道」故。五者法體過，以大悲為體，於作他事即是己事，自身體相似法故，如經「住菩薩法中」故。六者處過，不捨世間方便，不染善巧住故，住處相似法故，如經「住在菩薩正處」故。七者業過，順空聖智生命相似法故，如經「入三世真如法中」故。八者畢定過，佛種不斷，究竟涅槃，道成就相似法故，如經「如來種中畢定究竟阿耨多羅三藐三菩提」故。如是示現凡夫生、菩薩生入胎不相似，有煩惱、無煩惱故。如是次第家不相似、種姓不相似、道不相似、體不相似、處不相似、生業不相似、成就不相似，如是說住此地中是名為住，如經「菩薩住如是法名住菩薩歡喜地，以不動法故」。已說住義，次說釋名。云何說？多歡喜故示名歡喜。以何歡喜？此地中菩薩歡喜。復以何念，初說十句、後說二十句？

> 論に曰く、凡夫の境地を超えるとは、凡夫の地を超えたがゆえに、出世間の聖なる道を得ることを示すのである。この「超える」ことには八つの種類がある。 第一に「位に入る超越」とは、初めて出世間の心を起こすことであり、ちょうど胎に宿る時のあり方に似ているからである。経に「菩薩の位に入る」とあるとおりである。 第二に「家の超越」とは、家に生まれるあり方に似ているからである。経に「仏の家に生まれる」とあるとおりである。 第三に「種姓の超越」とは、子に似たあり方として大乗の行が生じるからである。経に「種姓は尊く、咎めるところがない」とあるとおりである。 第四に「道の超越」とは、世間の道にも出世間の道にもとらわれず、とらわれないことによって、異なる道が生じるあり方に似ているからである。経に「すべての世間の道を超えて、出世間の道に入る」とあるとおりである。 第五に「法体の超越」とは、大悲を本体とし、他者のための行いをそのまま自分の行いとする、自身のあり方に似ているからである。経に「菩薩の法の中に住む」とあるとおりである。 第六に「処の超越」とは、世間の方便を捨てず、しかも汚れに染まらない善巧な住まり方である。住む場所のあり方に似ているからである。経に「菩薩の正しい処に住む」とあるとおりである。 第七に「業の超越」とは、空に順じた聖なる智慧の命に似ているからである。経に「三世の真如の法の中に入る」とあるとおりである。 第八に「究竟の超越」とは、仏の種が絶えず、究極の涅槃へと道が成就するあり方に似ているからである。経に「如来の種の中で、必ず究竟の阿耨多羅三藐三菩提を得る」とあるとおりである。 このように、凡夫の生と菩薩の生は、胎に入るあり方が異なっていることを示している。煩悩があるか、煩悩がないかが違うからである。このように順に、家も異なり、種姓も異なり、道も異なり、体も異なり、処も異なり、生の業も異なり、成就も異なっている。 このように、この地に住むことを説いて、「住」と名づける。経に「菩薩がこのような法に住むことを、菩薩の歓喜地に住むと名づける。動かない法によるからである」とあるとおりである。 「住」の意味を説き終えたので、次に名前の解説を説く。どのように説くのか。多くの歓喜があるから「歓喜」と名づける。何による歓喜か。この地の菩薩の歓喜である。またどのような思いから、初めに十句を説き、後に二十句を説くのか。

經曰：諸佛子！是菩薩住菩薩歡喜地中，成就多歡喜、多信敬、多愛念、多慶悅、多調柔、多踊躍、多堪受、多不壞他意、多不惱眾生、多不瞋恨。

> 経に曰く、諸仏子よ、この菩薩が菩薩の歓喜地に住むとき、多くの歓喜を成就し、多くの信敬を成就し、多くの愛念を成就し、多くの慶悦を成就し、多くの調柔を成就し、多くの踊躍を成就し、多くの堪受を成就し、多くの不壊他意を成就し、多くの不悩衆生を成就し、多くの不瞋恨を成就する。

論曰：歡喜者名為心喜，體喜根喜。是歡喜有九種：一者敬歡喜，於三寶中恭敬故，如經「多信敬」故。二者愛歡喜，樂觀真如法，如經「多愛念」故。三者慶歡喜，自覺所證挍量勝，如經「多慶悅」故。四者調柔歡喜，自身心遍益成就，如經「多調柔」故。五者踊躍歡喜，自身心遍益增上滿足，如經「多踊躍」故。六者堪受歡喜，自見至菩提近，如經「多堪受」故。七者不壞歡喜，自心調伏，論義解說時心不擾動，如經「多不壞他意」故。八者不惱歡喜，教化他、攝取眾生時慈悲調柔，如經「多不惱眾生」故。九者不瞋歡喜，見諸眾生不如說修行、威儀不正時，忍不瞋故，如經「多不瞋恨」故。已說多歡喜，次說以何念故歡喜成？是第二十句、第三十句說。是念有二種：一、念當得；二、念現得。何者念當得？

> 論に曰く、歓喜とは心の喜び、体の喜び、根の喜びを名づける。この歓喜には九つの種類がある。第一は敬歓喜で、三宝に対して恭敬するがゆえである。経に「多く信敬する」とある通りである。第二は愛歓喜で、真如の法を観ずることを楽しむがゆえである。経に「多く愛念する」とある通りである。第三は慶歓喜で、自ら証得したところを比較して勝れていると覚るがゆえである。経に「多く慶悦する」とある通りである。第四は調柔歓喜で、自身の心身が広く利益を得て成就するがゆえである。経に「多く調柔なり」とある通りである。第五は踊躍歓喜で、自身の心身が広く利益を得て増上し満足するがゆえである。経に「多く踊躍する」とある通りである。第六は堪受歓喜で、自ら菩提に近づいたと見るがゆえである。経に「多く堪受す」とある通りである。第七は不壊歓喜で、自心が調伏され、論義や解説をする時に心が擾され動かないがゆえである。経に「多く他意を壊さず」とある通りである。第八は不悩歓喜で、他を教化し衆生を摂取する時に慈悲と調柔があるがゆえである。経に「多く衆生を悩ませず」とある通りである。第九は不瞋歓喜で、もろもろの衆生が説のごとくに修行せず、威儀が正しくない時にも、忍んで瞋らないがゆえである。経に「多く瞋恨せず」とある通りである。すでに多くの歓喜を説いた。次に、どのような念によって歓喜が成るかを説く。これは第二十句と第三十句で説かれる。この念には二種ある。一つは当に得るという念、二つは現に得るという念である。何が当に得るという念か。

經曰：諸佛子！菩薩住是歡喜地中，念諸佛故生歡喜心、念諸佛法故生歡喜心、念諸菩薩摩訶薩故生歡喜心、念諸菩薩所行故生歡喜心、念諸波羅蜜清淨相故生歡喜心、念諸菩薩地挍量勝故生歡喜心、念諸菩薩力不退故生歡喜心、念諸如來教化法故生歡喜心、念能利益眾生故生歡喜心、念入一切如來智行故生歡喜心。

> 経に曰く、仏子たちよ、菩薩がこの歓喜地にとどまっているとき、諸仏を思うゆえに歓喜の心を起こし、諸仏の法を思うゆえに歓喜の心を起こし、諸菩薩摩訶薩を思うゆえに歓喜の心を起こし、諸菩薩の行いを思うゆえに歓喜の心を起こし、諸波羅蜜の清浄な姿を思うゆえに歓喜の心を起こし、諸菩薩の境地のはかりがたい優れていることを思うゆえに歓喜の心を起こし、諸菩薩の力が退かないことを思うゆえに歓喜の心を起こし、諸如来の教化の法を思うゆえに歓喜の心を起こし、衆生を利益できることを思うゆえに歓喜の心を起こし、一切の如来の智慧の行いに入ることを思うゆえに歓喜の心を起こすのである。

論曰：云何念？如佛所得我亦當得，如是念。此念佛有九種：一者念佛法，如經「念諸佛法故生歡喜心」。二者念佛菩薩，如經「念諸菩薩摩訶薩故生歡喜心」。三者念佛行，如經「念諸菩薩所行故生歡喜心」。四者念佛淨，如經「念諸波羅蜜清淨相故生歡喜心」。五者念佛勝，如經「念諸菩薩地挍量勝故生歡喜心」。六者念佛不退，如經「念諸菩薩力不退故生歡喜心」。七者念佛教化，如經「念諸如來教化法故生歡喜心」。八者念佛利益，如經「念能利益眾生故生歡喜心」。九者念佛入，如經「念入一切如來智行故生歡喜心」。於中初二念，共念佛，如佛所得我亦當得故。念佛法，念諸佛法故，佛、佛法二故。念佛菩薩二，念諸菩薩故。念佛行，念諸菩薩行故。如是次第餘有六句，念佛淨，念諸波羅蜜清淨相故。念佛勝念，諸菩薩地挍量勝故。念佛不退，念諸菩薩力不退故。念佛教化，念諸如來教化法故。念佛利益，念能利益眾生故。念佛入，念入一切如來智行故。隨所顯彼菩薩行。以何顯？如是諸念應知。復何顯？彼波羅蜜淨顯。云何顯？彼菩薩行地挍量勝，轉去故，地盡去故。於中餘者，得教化法故，作利益眾生行不虛故，入如來地行故。是中念佛行者亦總亦別。已說念當得故生歡喜心，次說念現得故生歡喜心。

> 論に曰く、どのような念か。仏が得たものを私もまた得るべきである、このように念じる。この念佛には九種がある。一つには念佛法、経に「諸仏の法を念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。二つには念佛菩薩、経に「諸の菩薩摩訶薩を念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。三つには念佛行、経に「諸の菩薩の行を念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。四つには念佛浄、経に「諸の波羅蜜の清浄な相を念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。五つには念佛勝、経に「諸の菩薩の地のすぐれた較量を念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。六つには念佛不退、経に「諸の菩薩の力が退かないことを念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。七つには念仏教化、経に「諸の如来の教化の法を念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。八つには念仏利益、経に「衆生を利益できることを念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。九つには念仏入、経に「一切の如来の智行に入ることを念じるがゆえに歓喜の心を生じる」とある通りである。このうち最初の二つの念は、ともに仏を念じる。仏が得たものを私もまた得るべきであるからである。念佛法は、諸仏の法を念じるがゆえに、仏と仏法の二つである。念仏菩薩の二つは、諸の菩薩を念じるがゆえである。念仏行は、諸の菩薩の行を念じるがゆえである。このように順に残りの六句がある。念仏浄は、諸の波羅蜜の清浄な相を念じるがゆえである。念仏勝念は、諸の菩薩の地のすぐれた較量を念じるがゆえである。念仏不退は、諸の菩薩の力が退かないことを念じるがゆえである。念仏教化は、諸の如来の教化の法を念じるがゆえである。念仏利益は、衆生を利益できることを念じるがゆえである。念仏入は、一切の如来の智行に入ることを念じるがゆえである。それによって示されるその菩薩の行に従う。何によって示すのか。このようなもろもろの念によって知るべきである。また何を示すのか。その波羅蜜の清浄を示す。どのように示すのか。その菩薩の行の地のすぐれた較量が移り去るがゆえに、地が尽き去るがゆえにである。このうち残りのものは、教化の法を得るがゆえに、衆生を利益する行をなして虚しくないがゆえに、如来の地の行に入るがゆえにである。このうち念仏行はまた総じても別でもある。すでに「当に得ることを念じて歓喜の心を生じる」と説いた。次に「現に得ることを念じて歓喜の心を生じる」と説く。

經曰：諸佛子！菩薩復作是念：我轉離一切世間境界故生歡喜心、近入如來所故生歡喜心、遠離凡夫地故生歡喜心、近到智慧地故生歡喜心、斷一切惡道故生歡喜心、與一切眾生作依止故生歡喜心、近見一切諸佛故生歡喜心、生諸佛境界故生歡喜心、入一切菩薩真如法故生歡喜心、我離一切怖畏毛竪等事故生歡喜心。

> 経に曰く、もろもろの仏子たちよ、菩薩はまたこのように考えます──私はすべての世間の境界から離れたので、喜びの心が生まれます。如来のもとに近づいたので、喜びの心が生まれます。凡夫の境地から遠く離れたので、喜びの心が生まれます。智慧の境地に近づいたので、喜びの心が生まれます。すべての悪道を断ったので、喜びの心が生まれます。すべての生きとし生けるものの拠り所となったので、喜びの心が生まれます。すべての仏に間近に会えるので、喜びの心が生まれます。仏の境地に生まれたので、喜びの心が生まれます。すべての菩薩の真如の法に入ったので、喜びの心が生まれます。私はすべての怖れや身の毛もよだつような出来事から離れたので、喜びの心が生まれます。

論曰：我轉離一切世間境界者，轉離一切凡夫取著事。此轉離有九種：一者入轉離，如經「近入如來所故生歡喜心」。二者遠轉離，如經「遠離凡夫地故生歡喜心」。三者近至轉離，如經「近到智慧地故生歡喜心」。四者斷轉離，如經「斷一切惡道故生歡喜心」。五者依止轉離，如經「與一切眾生作依止故生歡喜心」。六者近見轉離，如經「近見一切諸佛故生歡喜心」。七者生轉離，如經「生諸佛境界故生歡喜心」。八者平等轉離，如經「入一切菩薩真如法故生歡喜心」。九者捨轉離，如經「我離一切怖畏毛竪等事故生歡喜心」。於中入轉離者，顯事不相似故。遠轉離近至轉離者，示自身不相似故。餘有六句，斷轉離、依止轉離、近見轉離、生轉離、平等轉離、捨轉離，如是次第行不相似故，迭相依止不相似故，他力不相似故，處不相似故，生業不相似故，成就不相似故。怖畏者，不愛疑慮憂想共心相應故。復身相差別，謂毛竪等事。次說何者是怖畏。云何怖畏因？遠離此因無怖畏故。

> 論じていう。わたしがすべての世間の境界から離れるとは、すべての凡夫の執着する事柄から離れることである。この離れることには九種類ある。第一は「入る離れ」で、経に「如来のそば近くに入るからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第二は「遠く離れる離れ」で、経に「凡夫の地から遠く離れるからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第三は「近づき至る離れ」で、経に「智慧の地に近づき至るからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第四は「断つ離れ」で、経に「すべての悪い道を断つからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第五は「依り所となる離れ」で、経に「すべての生きとし生けるものの依り所となるからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第六は「近く見る離れ」で、経に「すべての仏を近くに見るからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第七は「生まれる離れ」で、経に「仏の境界に生まれるからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第八は「平等の離れ」で、経に「すべての菩薩の真如の法に入るからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。第九は「捨てる離れ」で、経に「わたしはすべての怖れや身の毛のよだつ事柄から離れるからこそ、喜びの心が生まれる」とあるとおりである。 このうち「入る離れ」は、事柄が似ていないことを示す。「遠く離れる離れ」と「近づき至る離れ」は、自身が似ていないことを示す。残りの六つ、「断つ離れ」「依り所となる離れ」「近く見る離れ」「生まれる離れ」「平等の離れ」「捨てる離れ」は、この順に、行いが似ていないからであり、互いに依り合うことが似ていないからであり、他のはたらきが似ていないからであり、場所が似ていないからであり、生じる業が似ていないからであり、成就が似ていないからである。 怖れとは、好ましくないことへの疑いや思い煩いが心とともに働くことである。また身体のありようの違いとは、身の毛がよだつなどの事柄である。次に、何が怖れなのか、何が怖れの原因なのかを説く。その原因から遠く離れれば怖れはなくなるからである。

經曰：所以者何？是菩薩摩訶薩得歡喜地已，所有諸怖畏即皆遠離，所謂不活畏、惡名畏、死畏、墮惡道畏、大眾威德畏，離如是等一切諸畏。何以故？是菩薩離我想故，尚不貪身，何況所用之事，是故無有不活畏。心不悕望供養恭敬，我應供養一切眾生、供給一切所須之具，是故無有惡名畏。遠離我見，無我想故無有死畏。又作是念，我若死已，生必不離諸佛菩薩，是故無有墮惡道畏。我所志樂，一切世間身心無與等者，何況有勝，是故無有大眾威德畏。諸佛子！菩薩如是離諸怖畏毛竪等事。

> 経に曰く、なぜでしょうか。この菩薩摩訶薩は歓喜地を得たので、あらゆる怖れはみな遠ざかります。すなわち、生きられないのではないかという怖れ、悪い評判を受ける怖れ、死の怖れ、悪道に堕ちる怖れ、大衆の威徳に対する怖れです。このようなすべての怖れから離れています。なぜでしょうか。この菩薩は我という思いを離れているので、自分の身体さえ貪ることがありません。ましてや使うものなどなおさらです。だから生きられないのではないかという怖れがありません。心に供養や恭敬を求めることがなく、「私はすべての众生を供養し、必要なすべてのものを与えるべきだ」と考えています。だから悪い評判を受ける怖れがありません。我見を遠ざけ、我という思いがないので、死の怖れがありません。またこう考えます。「私が死んでも、生まれる先は必ず仏や菩薩から離れない」と。だから悪道に堕ちる怖れがありません。私が志し願うところは、すべての世間の身心の中で比べるものがないほどです。ましてや勝るものなどあるでしょうか。だから大衆の威徳に対する怖れがありません。仏子たちよ、菩薩はこのようにすべての怖れや身の毛がよだつようなことを離れているのです。

論曰：此五怖畏是初地障，復說地利益勝。是五怖畏，第一第二第五依身口意，第三第四依身。依身者，愛憎善道惡道，捨得依身故。何故但說五怖畏？打縛等諸畏皆五所攝故。此怖畏因，略有二種：一、邪智妄取想見愛著故；二、善根微少故。此對治，如經「離我想故，尚不貪身乃至無有大眾威德畏」故。怖畏毛竪等事，何故二處說？前說身怖畏，後說異身怖畏故。

> 論に曰く、この五つの怖畏は初地の障りである。また地の利益が優れていることについて説く。この五つの怖畏のうち、第一・第二・第五は身と口と意に依り、第三・第四は身に依る。身に依るとは、愛と憎しみ、善道と悪道、捨てることと得ることは身に依るからである。なぜただ五つの怖畏だけを説くのか。打つ・縛るなどのさまざまな畏れは、すべてこの五つに含まれるからである。この怖畏の原因には、大きく分けて二つある。第一は、邪った知恵によって誤ってとらえた想い・見解・愛着によるものである。第二は、善根が少ないことによるものである。この対治法は、経に「我想を離れるがゆえに、なお身を貪ることすらなく、まして大衆の威徳に対する畏れはない」と説かれているとおりである。怖畏によって毛が逆立つなどのことは、なぜ二つの箇所で説かれるのか。前には身の怖畏を説き、後には異なる身の怖畏を説くからである。

經曰：諸佛子！是菩薩以大悲為首，深大心堅固轉，復勤修一切善根成就故。

> 経に曰く、諸仏子よ、この菩薩は大悲を第一とし、深く大きな心が堅固に育っていく。さらに、すべての善根を勤めて修め、成就させるからである。

論曰：深大心堅固者，煩惱小乘不能壞此觀故。轉復勤修一切善根成就者，諸所說善根此地攝受故。云何勤修？於中有三種成就：一、信心成就；二、修行成就；三、迴向成就。有三十句示現，初十句說信心成就。

> 論に曰く、深く大きな心が堅固な人は、煩悩や小乗によってこの観を壊されることがないからです。さらに一層、すべての善根を勤めて修めて成就するとは、説かれたすべての善根がこの地に摂められるからです。どのように勤めて修めるのか。その中に三つの成就があります。一つには信心の成就、二つには修行の成就、三つには廻向の成就です。三十の句によって示され、初めの十の句は信心の成就を説きます。

經曰：所謂信心增上故、多恭敬故、信清淨故、多以信分別故、起悲愍心故、成就大慈故、心無疲懈故、以慚愧莊嚴故、成就忍辱安樂故、敬順諸佛教法信重尊貴故。

> 経に曰く、信心が増すがゆえに、多く恭敬するがゆえに、信が清らかであるがゆえに、多く信によって分別するがゆえに、悲愍の心を起こすがゆえに、大慈を成就するがゆえに、心に疲れ懈ることがないがゆえに、慚愧をもって荘厳するがゆえに、忍辱と安楽を成就するがゆえに、諸仏の教法を敬い順い、信じ重んじ尊ぶがゆえに。

論曰：信心增上者，隨所有事，於中信增上成就。此信增上有九種：一者敬信增上，尊敬三寶，如經「多恭敬」故。二者淨信增上，自證真淨智，如經「信清淨」故。三者分別信增上，令他證淨智，如經「多以信分別」故。四者悲信增上，五者慈信增上，教化眾生，如經「起悲愍心」故，成就大慈故。悲者除苦相，決定救濟故；慈者與樂相，永與無量樂故。起者，轉復現前故。六者不疲惓信增上，教化無量眾生，久處世間能利益故，如經「心無疲懈」故。七者慚愧信增上，不著世間故，於慳等波羅蜜障法深慚愧故，如經「以慚愧莊嚴」故。八者安樂信增上，於同法者不惱亂故，如經「成就忍辱安樂」故。九者敬法信增上，增益敬信殊勝心故，如經「敬順諸佛教法，信重尊貴」故。後三句示修何等行？波羅蜜行故。誰為等侶？同事安樂故。入何法中？謂諸佛教法故。如是信心成就。云何修行成就？

> 論じて言う。信心が増上する者とは、あらゆる事柄において、信の中での増上を成就することをいう。この信の増上には九種がある。 第一に、敬信の増上である。三宝を尊敬することであり、経に「多く恭敬する」とあるのに相当する。 第二に、浄信の増上である。自ら真に清浄な智慧を証することであり、経に「信清浄」とあるのに相当する。 第三に、分別信の増上である。他者に清浄な智慧を証させ悟らせることトであり、経に「多く信をもって分別す」とあるのに相当する。 第四に、悲信の増上であり、第五に、慈信の増上である。衆生を教化することであり、経に「悲愍の心を起こす」とあるのに相当し、「大慈を成就する」とあるによる。悲とは苦を取り除く相であり、決定して救済するからである。慈とは楽を与える相であり、永遠に無量の楽を与えるからである。「起こす」とは、さらに繰り返し目の前に現すからである。 第六に、不疲惓信の増上である。無量の衆生を教化し、長く世間に留まって利益を与えることができるからであり、経に「心に疲懈なし」とあるのに相当する。 第七に、慚愧信の増上である。世間に執着しないからであり、慳貪などの波羅蜜を妨げる法に対して深く慚愧するからであり、経に「慚愧をもって荘厳す」とあるのに相当する。 第八に、安楽信の増上である。同じ法を行う者を悩ませ乱さないからであり、経に「忍辱安楽を成就す」とあるのに相当する。 第九に、敬法信の増上である。敬信の殊勝な心をますます増やすからであり、経に「諸仏の教法を敬順し、信重尊貴す」とあるのに相当する。 後の三句は、どのような行を修めるかを示している。すなわち波羅蜜の行である。誰を仲間とするか。同じ事を共にする安楽によるからである。どの法に入るか。それは諸仏の教法である。このように信心が成就する。どのように修行が成就するか。

經曰：日夜修集善根無厭足故、親近善知識故、常愛樂法故、求多聞無厭故、如所聞法正觀故、心不貪著故、不著利養名聞恭敬故、不求一切資生之物故、常生如寶心無厭足故。

> 経に曰く、日夜、善根を修め集めることに飽きることがなく、善き師に親しみ、常に法を愛し楽しみ、多くの教えを求め学ぶことに倦まず、聞いた教えのままに正しく見つめ、心に貪り執着せず、利益や名声、恭敬に執着せず、一切の生活の糧を求めず、常に宝のような心を生じて飽きることがないからである。

論曰：此十句說修行成就。云何修行成就？集諸善根無休息故，如經「日夜修集善根無厭足故」。此集有八種：一者親近集，不忘諸法，如經「親近善知識故」。二者樂法集，於問答中論義解釋心喜心樂故，如經「常愛樂法故」。三者多聞集，如經「求多聞無厭故」。四者正觀集，如經「如所聞法正觀故」。五者不著集，如經「心不貪著故」。向說多聞集等三句，是聞思修慧如是次第。不著者，於三昧中無愛著故。六者不貪集、七者不求集，於已得利養不貪、未得利養不求，障菩薩戒、退菩薩戒，如經「不著利養名聞恭敬故、不求一切資生之物故」。八者如寶心集，出世間心念念現前，如經「常生如寶心無厭足故」。如是修行成就。云何迴向成就？

> 論に曰く、この十句は修行の成就を説く。いかにして修行は成就するのか。さまざまな善根を集めて休まないからである。経に「日夜に善根を修め集めて厭き足りることがない」とあるとおりである。この集には八種ある。第一は親近集で、諸法を忘れない。経に「善知識に親近する」とあるとおりである。第二は楽法集で、問答のなかで義を論じ解釈することを心に喜び心に楽しむ。経に「常に法を愛し楽しむ」とあるとおりである。第三は多聞集で、経に「多聞を求めて厭きない」とあるとおりである。第四は正観集で、経に「聞いたとおりの法を正しく観る」とあるとおりである。第五は不著集で、経に「心が貪り執着しない」とあるとおりである。先に説いた多聞集などの三句は、聞思修の慧であり、このような順序である。不著とは、三昧のなかで愛着がないことである。第六は不貪集、第七は不求集で、すでに得た利養には貪らず、まだ得ていない利養は求めない。菩薩戒を妨げ、菩薩戒を退けることである。経に「利養・名聞・恭敬に執着せず、一切の資生の物を求めない」とあるとおりである。第八は如宝心集で、出世間の心が念念に現前する。経に「常に宝のような心を生じて厭き足りない」とあるとおりである。このように修行は成就する。いかにして回向は成就するのか。

經曰：求一切智地故、求諸佛力無畏不共法故、求諸波羅蜜無著法故、離諸諂曲故、如說能行故、常護實語故、不污諸佛家故、不捨菩薩戒故、不動如大山王生薩婆若心故、不捨一切世間事成就出世間道故。集助菩提分法無厭足故、常求上上勝道故。諸佛子！菩薩摩訶薩成就如是淨治地法，名為安住菩薩歡喜地。

> 経に曰く、すべての智慧の境地を求めるがゆえに、諸仏の力・恐れなき心・他の教えと共通しない法を求めるがゆえに、もろもろの波羅蜜と執着のない法を求めるがゆえに、偽りやへつらいから離れるがゆえに、説いたとおりに実行できるがゆえに、常に真実の言葉を守るがゆえに、諸仏の家を汚さないがゆえに、菩薩戒を捨てないがゆえに、大山王のように動じずに一切智の心を起こすがゆえに、すべての世間の事を捨てずに出世間の道を成就するがゆえに、菩提分の法を積み集めることに飽きることがないがゆえに、常により高き勝れた道を求めるがゆえに。諸仏の子たちよ、菩薩摩訶薩がこのような清らかな地を治める法を成就することを、菩薩の歓喜地に安住するという。

論曰：求一切智地等說何等事？示現迴向成就故。求一切智地是總，求如來力等於一切智地是別。一者觀求一切智地，二者無障求一切智地，三者離求一切智地故，四者如說能行求一切智地，五者護求一切智地，六者不污求一切智地，七者不捨求一切智地，八者不動求一切智地，九者不捨成就求一切智地，十者集求一切智地，十一者常求求一切智地。於中求何等事？求一切智地故。以何觀求？觀諸佛力無畏不共法故。云何求？求諸波羅蜜無著法故。此三求者是家，依家無障求故。云何求？求諸波羅蜜無著法故。此無障求、差別異求，於中檀波羅蜜有二種垢：一者諂曲，見乞求者詐設方便，無心許與；二者不隨先言，許而不與。對治是垢，如經「離諸諂曲故、如說能行故」。尸波羅蜜有一種垢，不護實語，違本所受，犯已覆藏。對治是垢，如經「常護實語故」。羼提波羅蜜有一種垢污如來家。云何菩薩污如來家？惱亂他業故。利益他業即是如來家，是故菩薩生此家者，惱亂他業非善事故。對治是垢，如經「不污諸佛家故」。毘梨耶波羅蜜有一種垢，菩薩戒無量劫數長遠難持難行生退轉心。對治是垢，如經「不捨菩薩戒故」。禪波羅蜜有二種垢：一者亂心；二不能調伏憶想分別。對治是垢，如經「不動如大山王生薩婆若心故」。般若波羅蜜有三種垢：一、無善巧方便，世間涅槃一向不現現故；二、不修集出出世間道故；三、於勝上證法中願欲心薄故。如是次第對治是垢，如經「不捨一切世間事，成就出世間道故，集助菩提分法無厭足故，常求上上勝道故」。如是迴向成就，是名勤行具足成就。是勤行有四種：一、信；二、欲；三、精進；四、方便。初十句示現信增上成就，是信增上即攝受欲。第二十句，日夜修集善根無厭，示現精進。第三十句，求一切智地，示現方便故。是名此地說中安住。何以故？如經「諸佛子！菩薩摩訶薩成就如是淨治地法，名為安住菩薩歡喜地」故。如是說分訖。

> 論じて言う。一切智の地などを求めるとは、どのようなことを説き示しているのか。迴向成就を示すためである。一切智の地を求めるとは総であり、如来の力などを一切智の地に求めるとは別である。第一に一切智の地を観じて求めること、第二に障りのない一切智の地を求めること、第三に離れる一切智の地を求めること、第四に説のごとくに行じる一切智の地を求めること、第五に守る一切智の地を求めること、第六に汚れない一切智の地を求めること、第七に捨てない一切智の地を求めること、第八に動じない一切智の地を求めること、第九に捨てない成就の一切智の地を求めること、第十に集める一切智の地を求めること、第十一に常に求める一切智の地を求めることである。 その中で何を求めるのか。一切智の地を求めるからである。どのような観をもって求めるのか。諸仏の力・無畏・不共の法を観ずるからである。どのように求めるのか。諸波羅蜜の無著の法を求めるからである。この三つの求めは家であり、家に依って障りなく求めるからである。 どのように求めるのか。諸波羅蜜の無著の法を求めるからである。この障りのない求めと、区別された異なる求めについて、その中で檀波羅蜜には二つの汚れがある。第一は諂曲であり、乞う者を見て偽って方便を設け、心から与えようとしないことである。第二は先の言葉に従わず、許しながら与えないことである。この汚れを対治するのが、経に「諸の諂曲を離れるがゆえに、説のごとくに行じるがゆえに」とあるとおりである。 尸波羅蜜には一つの汚れがある。実語を守らず、もと受けた戒に違反し、犯してから覆い隠すことである。この汚れを対治するのが、経に「常に実語を守るがゆえに」とあるとおりである。 羼提波羅蜜には一つの汚れがあり、如来の家を汚す。どのように菩薩は如来の家を汚すのか。他を悩ませ乱す業のためである。他を利益する業こそが如来の家である。それゆえ菩薩がこの家に生まれる者は、他を悩ませ乱す業は善いことではない。この汚れを対治するのが、経に「諸仏の家を汚さないがゆえに」とあるとおりである。 毘梨耶波羅蜜には一つの汚れがある。菩薩戒は無量劫の長い間、持ち続けることが難しく行じることも難しいため、退転の心が生じる。この汚れを対治するのが、経に「菩薩戒を捨てないがゆえに」とあるとおりである。 禅波羅蜜には二つの汚れがある。第一は乱れた心、第二は憶想分別を調伏できないことである。この汚れを対治するのが、経に「大山王のように動じず、薩婆若の心を生じるがゆえに」とあるとおりである。 般若波羅蜜には三つの汚れがある。第一は善巧方便がなく、世間と涅槃が一向に現れないこと。第二は出世間の道を修め集めないこと。第三は勝れた上の証法に対して願欲の心が薄いことである。このように次第にこの汚れを対治するのが、経に「一切の世間の事を捨てず、出世間の道を成就するがゆえに、助菩提分の法を集めて厭き足りないがゆえに、常に上上の勝れた道を求めるがゆえに」とあるとおりである。 このように迴向が成就することを、勤行具足成就と名づける。この勤行には四つがある。第一は信、第二は欲、第三は精進、第四は方便である。初めの十句は信の増上成就を示し、この信の増上はすなわち欲を摂め取る。第二の十句は、日夜に善根を修め集めて厭きないことで、精進を示す。第三の十句は、一切智の地を求めることで、方便を示す。これをこの地の説の中の安住と名づける。なぜか。経に「諸仏子よ、菩薩摩訶薩がこのように浄き地を治める法を成就することを、菩薩の歓喜地に安住すると名づける」とあるからである。このように説の部分は終わった。

## 十地經論歡喜地卷之二

> <note>『十地経論』のうち「歓喜地」の巻之二</note>