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title: "十地經論 · 3"
description: "十地经论由古印度天亲菩萨（世亲）造，北魏时期菩提流支等译师译成汉文。本论是对《华严经·十地品》的释论，系统阐释了大乘菩萨修行成佛所必须经历的十个阶位（十地）的教义与实修方法。它奠定了瑜伽行派的理论基础，对汉传佛教地论宗的形成乃至华严宗、唯识宗的发展产生了深远影响，是研究大乘佛教菩萨道思想的核心典籍之一。"
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## 十地經論初歡喜地卷之三

> 十地経論 初歓喜地 巻第三

天親菩薩造

> 天親菩薩造

後魏北印度三藏菩提流支譯

> 後魏・北インド三蔵法師菩提流支訳

論曰：已顯說分，次說挍量勝分。云何挍量勝？菩薩住此地中，勝聲聞、辟支佛故。挍量勝有三種：一、願勝；二、修行勝；三、果利益勝。何者願勝？所謂十大願。

> 論じて曰く、すでに説分を明かしたので、次に挍量勝を説く。何が挍量勝かというと、菩薩がこの地の中に住むとき、声聞や辟支仏に勝れているからである。挍量勝には三種ある。一には願勝、二には修行勝、三には果利益勝である。何が願勝かというと、いわゆる十の大願である。

經曰：菩薩如是安住菩薩歡喜地，發諸大願，起如是大方便，如是大行成就。所謂無餘一切諸佛一切供養一切恭敬故，一切種具足，上深信清淨，廣大如法界，究竟如虛空，盡未來際，盡一切劫數一切佛成道數，大供養恭敬無有休息。

> 経に曰く、菩薩がこのように菩薩の歓喜地に安住し、多くの大きな願いを起こし、このような大きな方便を起こし、このような大きな行いを成就するのである。すなわち、すべての仏に一切の供養をなし、一切の恭敬をなすために、すべての種類において完全に具え、深く清らかな信を持ち、広大なることは法界のごとく、究極なることは虚空のごとく、未来の果てまで、すべての劫の数だけ、すべての仏が成道される数だけ、大きな供養と恭敬を絶やすことなく続けるのである。

論曰：是初大願，無餘者有三種：一者一切佛無餘；二者一切供養無餘；三者一切恭敬無餘。一切佛者有三種佛：一、應身佛；二、報身佛；三、法身佛。一切供養者，有三種供養：一者利養供養，謂衣服臥具等；二者恭敬供養，謂香花幡蓋等；三者行供養，謂修行信戒行等。一切恭敬者，有三種恭敬：一、給侍恭敬；二、迎送恭敬；三、修行恭敬。是故作願供養恭敬，如經「所謂無餘一切諸佛一切供養一切恭敬」故。一切種具足者，無量種種，復有勝事等供養故。上深信清淨者，增上敬重故，願迴向菩提決定信故。廣大如法界者，一切餘善根中勝故。究竟如虛空者，無常愛果無量因故。盡未來際者，此因得涅槃常果故。一切劫數一切佛成道數，大供養恭敬無有休息故。此初願中有六種大，名為大願：一者福田大，如經「所謂無餘一切諸佛一切供養一切恭敬」故。二者供事大，如經「一切種具足」故。三者心大，如經「上深信清淨」故。四者攝功德大，如經「廣大如法界」故。五者因大，如經「究竟如虛空」故。六者時大，如經「盡未來際」故。

> 論じて曰く、この最初の大願には、無余ということが三つの面から成り立つ。第一に、すべての仏に無余であること。第二に、すべての供養に無余であること。第三に、すべての恭敬に無余であることである。 すべての仏とは、三種の仏がある。第一に応身仏、第二に報身仏、第三に法身仏である。 すべての供養とは、三種の供養がある。第一に利養の供養で、衣服や臥具などをさす。第二に恭敬の供養で、香・花・幡・蓋などをさす。第三に修行の供養で、信・戒などの修行をさす。 すべての恭敬とは、三種の恭敬がある。第一に給侍の恭敬、第二に迎送の恭敬、第三に修行の恭敬である。 それゆえ願を立てて供養し恭敬するのである。経に「いわゆる無余の一切諸仏・一切供養・一切恭敬」とあるとおりである。 一切種具足とは、無量のさまざまなものがあり、さらにすぐれた事柄などの供養があるからである。 上深信清浄とは、すぐれた敬いと重んじる心が増すからであり、願を菩提に回向する決定の信があるからである。 広大なること法界のごとくとは、すべての他の善根の中で最もすぐれているからである。 究竟なること虚空のごとくとは、無常の愛果に対する無量の因であるからである。 未来際を尽くすとは、この因によって涅槃の常の果を得るからである。すべての劫数、すべての仏の成道の数にわたって、大いなる供養と恭敬が休むことなく続くからである。 この最初の願には六種の「大」があり、大願と名づけられる。第一に福田大であり、経に「いわゆる無余の一切諸仏・一切供養・一切恭敬」とあるとおりである。第二に供事大であり、経に「一切種具足」とあるとおりである。第三に心大であり、経に「上深信清浄」とあるとおりである。第四に摂功徳大であり、経に「広大なること法界のごとく」とあるとおりである。第五に因大であり、経に「究竟なること虚空のごとく」とあるとおりである。第六に時大であり、経に「未来際を尽くす」とあるとおりである。

經曰：又發大願，所謂一切諸佛所說法輪皆悉受持故，攝受一切佛菩提故，一切諸佛所教化法皆悉守護故，廣大如法界，究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數一切佛成道數，攝護正法無有休息。

> 経に曰く、また大きな願を起こす。いわゆる、すべての仏が説かれた法の輪をことごとく受け持つためであり、すべての仏の菩提を摂め受けるためであり、すべての仏が教化された法をことごとく守り護るためである。広大なること法界のごとく、究竟なること虚空のごとく、未来の果てまでも、すべての劫の数、すべての仏が成道されるその数にわたって、正しい法を摂め護りて休むことがない。

論曰：第二大願有三種法：一切諸佛所說法輪皆悉受持者，謂教法修多羅等，書寫供養讀誦受持為他演說故。攝受一切佛菩提者，所謂證法，證三種佛菩提法，攝受此證法教化轉授故。一切諸佛所教化法皆悉守護者，謂修行法，於修行時有諸障難攝護救濟故。復名三種成就：一者於諸佛所說修多羅等阿含次第令法輪不斷成就故；二者證三種正覺得證成就故；三者修行乃至如實修行正覺成就故，是名三種成就。三種佛菩提者，聲聞、辟支佛亦名為佛故。

> 論に曰く、第二大願には三つの法がある。一切の諸仏が説かれた法輪をことごとく受け持つとは、教えの法である経典などを書き写し、供養し、読み誦み、受け持ち、他のために説き示すことである。一切の仏の菩提を摂め取るとは、証の法であり、三種の仏菩提の法を証し、この証の法を摂め取って教化し伝え授けることである。一切の諸仏が教化された法をことごとく守護するとは、修行の法であり、修行のときにさまざまな障りや難儀があるとき、それを摂め護り救い助けることである。また三種の成就とも名づける。第一は、諸仏が説かれた経典などの教えの次第によって法輪を絶やさず成就することである。第二は、三種の正覚を証して証りを得る成就である。第三は、修行し、そしてありのままに修行して正覚を成就することである。これを三種の成就と名づける。三種の仏菩提とは、声聞と辟支仏もまた仏と名づけるからである。

經曰：又發大願，所謂一切成佛無餘一切世界住處從兜率天來下，入胎及在胎中，初生時、出家時、成佛道時、請轉法輪時、示入大涅槃，我於爾時盡往供養，攝法為首，一切處一時成一時轉故。廣大如法界，究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數一切佛成道數，盡往攝法無有休息。

> 経に曰く、また大願を起こす。いわゆる、すべての仏が成道されたすべての世界の住処において、兜率天から降りてこられる時、母胎に入られる時、胎内におられる時、生まれた時、出家された時、仏道を成じられた時、法輪を転じるよう請われる時、大涅槃に入られる時、私はそのすべての時に必ず参じて供養し、法を第一として摂め取る。すべての場所で一時に成じ、一時に転じるためである。広大なること法界のごとく、究竟なること虚空のごとく、未来の果てまで、すべての劫数、すべての仏の成道の数だけ、尽く参じて法を摂め取ることに休息はない。

論曰：第三大願。一切成佛無餘一切世界住處者，一切應佛無邊遍滿一切世界住處故。隨何等世界諸佛住處，應感相順眾生見故。從兜率天來下乃至示入大涅槃，我於爾時盡往供養，攝法為首者，隨彼眾生供養佛方便，以如來所說攝法方便，集功德智慧助菩提法故。一切處一時成一時轉者，示非前後故。何故示現彼處住不在色、無色處？此難處來不為我故，起於輕心不生恭敬，為遮此等故。何故不住他化自在天等？如來有力能勝處生，捨而不生，為念眾生故來生兜率。如是生大恭敬心故。何故人中捨上天樂？愍我等故來生人中，生增上敬重心故。何故處胎？示現同生增長力故。何故自成正覺？示非餘佛教化，現丈夫力成就，非因他得菩提故。何故示入大涅槃？為令懈怠眾生勤心修道故。

> 論に曰く、第三の大願とは、すべての仏が余すところなく一切の世界に住処を成すということである。すべての応仏は、限りなく一切の世界の住処に遍満するからである。いかなる世界であれ、諸仏の住処には、それに応じて感応する相にかなった衆生がそれを見るからである。兜率天から降りてきて、やがて大涅槃に入ることを示されるに至るまで、私はその時すべてに赴いて供養し、法を第一として捉える。それは、その衆生が仏を供養する方便に随い、如来の説かれた法を捉える方便によって、功德と智慧を集め、菩提を助ける法とするからである。一切の処において、一時に成り、一時に転ずるとは、前後がないことを示すのである。なぜ、かの処に住むことを示現して、色処や無色処に住まないのか。それは、難しい処から来るのは私のためではないと、軽んじる心を起こして恭敬の心を生じない者たちがいるからであり、これを遮るためである。なぜ他化自在天などに住まないのか。如来には力があり、勝れた処に生まれることができるのに、それを捨てて生まれず、衆生を念じるがゆえに来て兜率に生まれるのである。このようにして大きな恭敬の心を生じさせるためである。なぜ人の世で天上の楽を捨てるのか。私たちを哀れむがゆえに来て人の世に生まれ、増上なる敬重の心を生じさせるためである。なぜ胎に処するのか。同じく生まれることを示現して力を増長させるためである。なぜ自ら正覚を成ずるのか。他の仏の教化によるのではなく、丈夫の力を成就することを示し、他によって菩提を得たのではないからである。なぜ大涅槃に入ることを示すのか。懈怠の衆生をして勤めて心に道を修めさせるためである。

經曰：又發大願，所謂一切菩薩所行廣大無量不雜諸波羅蜜所攝，諸地所淨生諸助道法，總相、別相、同相、異相、成相、壞相，說一切菩薩所行如實地道及諸波羅蜜方便業，教化一切令其受行心得增長故。廣大如法界究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數行數增長無有休息。

> 経に曰く、また大願を発す。いわゆる一切の菩薩の行は広大無量にして、諸の波羅蜜に雑じらずして摂せられ、諸地の浄めによりて諸の助道の法を生ず。総相・別相・同相・異相・成相・壊相、一切の菩薩の行を説き、如実の地道および諸の波羅蜜の方便の業をば、一切を教化してその受行せしめ、心をして増長を得せしめんがためなり。広大なること法界のごとく、究竟なること虚空のごとく、未来の際を尽くし一切の劫数を尽くして、行の数増長して休息あることなし。

論曰：第四大願心得增長者，以何等行令心增長？一切菩薩所行教化，一切令其受行，心得增長故。彼菩薩行有四種：一種種；二體；三業；四方便。以此四種教化令其受行。何者是菩薩行？種種世間行有三種：廣者，從初地乃至六地；大者，七地；無量者，從八地乃至十地。不雜者，法無我平等觀，出世間智故，如經「一切菩薩所行廣大無量不雜」故。體者，如經「諸波羅蜜所攝」故。業者，如經「諸地所淨生諸助道法」故。方便者，如經「總相、別相、同相、異相、成相、壞相」故，「說一切菩薩所行如實地道及諸波羅蜜方便業」故。

> 論じて言う。第四の大願は、心が成長することを得るというものである。どのような行いによって心を成長させるのか。すべての菩薩の行いと教化は、すべての人にそれを受け行じさせ、心が成長するからである。かの菩薩の行いには四種類ある。一は種々、二は体、三は業、四は方便である。この四種類によって教化し、それを受け行じさせる。何が菩薩の行いか。種々の世間の行いには三種類ある。広いとは、初地から第六地に至るまで。大きいとは、第七地。無量とは、第八地から第十地に至るまで。混じりけがないとは、法無我の平等観であり、出世間の智慧によるからである。経に「一切の菩薩の行いは広大無量にして混じりけがない」とあるとおりである。体とは、経に「もろもろの波羅蜜に摂められる」とあるとおりである。業とは、経に「もろもろの地に浄められて、もろもろの助道の法を生じる」とあるとおりである。方便とは、経に「総相・別相・同相・異相・成相・壊相」とあるとおりであり、「一切の菩薩の行いの如実の地道、およびもろもろの波羅蜜の方便と業を説く」とあるとおりである。

經曰：又發大願，所謂無餘一切眾生界，有色無色、有想無想、非無想非想非非想，卵生、胎生、濕生、化生，三界所繫雜入六道，一切生處名色所攝，為教化成就一切眾生界令信入諸佛法故、斷一切世間數道故、令住一切智智處故。廣大如法界究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數一切眾生界數，教化一切眾生無有休息。

> 経に曰く、また大きな願を起こした。いわゆる、残るところのない一切の衆生の世界、色あるものも色なきものも、想あるものも想なきものも、想なきにあらず想にあらざるものも、卵生も胎生も湿生も化生も、三界に繋がれて六道に混じり入るもの、一切の生まれるところの名と色に摂せられるもの、すべての衆生の世界を教化し成就して、もろもろの仏法に信じて入らせるため、一切の世間の数の道を断つため、一切の智智のところに住まわせるためである。広大なること法界のごとく、究竟なること虚空のごとく、未来の際を尽くし、一切の劫の数を尽くし、一切の衆生の世界の数を尽くして、一切の衆生を教化して休息あることなし。

論曰：第五大願教化眾生故。何者是眾生？為何義故化一切眾生有六種差別：一、麁細差別；二、生依止差別；三、不淨淨處差別；四、苦樂差別；五、自業差別；六、自體差別。何者麁細差別？麁者有色，細者無色。色中麁者有想，細者無想。無色中麁者非無想，細者非想非非想。是名麁細差別。如經「有色無色、有想無想、非無想非想非非想」故。生依止差別者，如經「卵生、胎生、濕生、化生」故。化生者云何依止？依止業生故。不淨淨處差別者，如經「三界所繫」故。苦樂差別者，種種身故，如經「雜入六道」故。自業差別者，如經「一切生處」故。自體差別者，如經「名色所攝」故。是名眾生。為何義化者，為三義故：一者為信入諸佛所說法中，如經「為教化成就一切眾生界，令信入諸佛法」故。二者已入佛法中，令入二乘菩提故，如「經斷一切世間數道」故。三者已入二乘菩提，令入無上菩提故，如經「令住一切智智處」故。

> 論じていう。第五の大願は、衆生を教化するためである。何が衆生か。どのような意味があって一切の衆生を教化するのか。そこには六つの違いがある。一は粗いものと細かいものの違い、二は生まれ方の違い、三は不浄な場所と浄らかな場所の違い、四は苦と楽の違い、五は自らの業の違い、六は自体の違いである。 何が粗いものと細かいものの違いか。粗いものとは色あるものであり、細かいものとは色なきものである。色あるもののうち粗いものは想あるものであり、細かいものは想なきものである。色なきもののうち粗いものは非無想であり、細かいものは非想非非想である。これが粗いものと細かいものの違いである。経に「有色無色、有想無想、非無想非想非非想」とあるとおりである。 生まれ方の違いとは、経に「卵生、胎生、湿生、化生」とあるとおりである。化生とはどのように依り所とするのか。業によって生じることに依るからである。 不浄な場所と浄らかな場所の違いとは、経に「三界所繋」とあるとおりである。 苦と楽の違いとは、さまざまな身体によるものであり、経に「雑入六道」とあるとおりである。 自らの業の違いとは、経に「一切生処」とあるとおりである。 自体の違いとは、経に「名色所摂」とあるとおりである。これが衆生である。 どのような意味があって教化するのか。三つの意味による。第一は、諸仏の説かれた法に信じて入るためである。経に「為教化成就一切衆生界、令信入諸仏法」とあるとおりである。第二は、すでに仏法に入った者を二乗の菩提に入らせるためである。経に「断一切世間数道」とあるとおりである。第三は、すでに二乗の菩提に入った者を無上の菩提に入らせるためである。経に「令住一切智智処」とあるとおりである。

經曰：又發大願，所謂無餘一切世界廣大無量麁細亂住、倒住正住，如帝網差別，十方世界無量差別入皆現前知故。廣大如法界究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數一切世界數，信入無有休息。

> 経に曰く、また大きな願を起こす。いわゆる、余すところのないすべての世界の、広大で無量の、粗いものも細かいものも、乱れて住するものも、逆さまに住するものも、正しく住するものも、帝網のような違いがあり、十方の世界の無量の違いを、すべて目の前に現れて知るためである。広大なることは法界のごとく、究極なることは虚空のごとく、未来の果てまで、すべての劫の数、すべての世界の数にわたり、信じて入ることに休むことはない。

論曰：第六大願，無餘一切世界者有三種相，隨入如是世界，智皆現前知：一者一切相；二者真實義相；三者無量相。一切相者，如經「廣大無量乃至正住」故。廣大無量者，一千世界二千世界三千世界故。細者，隨何等世界意識身故。麁者，隨何等世界意識色身故。亂住者，非次第住故。倒住者，不造舍宅住故。正住者，造舍宅住故。是名一切相。如帝網差別者，真實義相故，如業幻作故。無量相者，十方世界無量差別入故，無量相故。真實義相者，唯智能知。餘相者，可現見故。

> 論じて曰く、第六の大願において、「無余の一切世界」とは三つの相がある。そのような世界に随って入れば、智慧によってすべて現前に知ることができる。一つには一切相、二つには真実義相、三つには無量相である。 一切相とは、経に「広大無量乃至正住」とあるとおりである。広大無量とは、千世界・二千世界・三千世界のことである。細とは、どのような世界にも意識の身があることによる。粗とは、どのような世界にも意識の色身があることによる。乱住とは、順序どおりに住していないことである。倒住とは、舎宅を造らずに住むことである。正住とは、舎宅を造って住むことである。これを一切相という。 帝網の差別のごときは、真実義相による。業の幻が作るがごとくであるからである。無量相とは、十方の世界に無量の差別が入るから、無量相である。真実義相は、ただ智慧のみが知ることができる。その他の相は、現に見ることができるからである。

經曰：又發大願，所謂一切佛土一佛土、一佛土一切佛土，一切國土平等清淨，一切佛土神通莊嚴光相具足，離一切煩惱成就清淨道，有無量智慧眾生悉滿其中，入佛上妙平等境界故，隨諸眾生心之所樂而為示現故。廣大如法界究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數佛國土數，清淨一切佛土無有休息。

> 経に曰く、また大いなる願を起こす。いわゆる、すべての仏土はひとつの仏土であり、ひとつの仏土はすべての仏土である。すべての国土は平等で清らかであり、すべての仏土は神通と荘厳をそなえ、光の相が完全に備わっている。一切の煩悩を離れて清らかな道を成就し、無量の智慧ある众生がそこに満ちあふれている。仏のすぐれた平等の境界に入るがゆえに、もろもろの众生の心の好みにしたがって示し現れるがゆえに。広大なることは法界のごとく、究極なることは虚空のごとく、未来の果てまで、一切の劫の数、仏国土の数だけ、すべての仏土を清めても休むことはない。

論曰：第七大願淨佛國土相有七種：一者同體淨，如經「一切佛土一佛土、一佛土一切佛土」故。二者自在淨，如經「一切國土平等清淨」故。三者莊嚴淨，如經「一切佛土神通莊嚴光相具足」故，光明莊嚴眾寶等莊嚴故。四者受用淨，如經「離一切煩惱成就清淨道」故。五者住處眾生淨，如經「有無量智慧眾生悉滿其中」故。六者因淨，如經「入佛上妙平等境界」故。七者果淨，如經「隨諸眾生心之所樂而為示現」故，顯智神力等故。

> 論じていう。第七の大願の浄佛国土の相には七種ある。第一は同体浄であり、経に「一切の佛土は一佛土、一佛土は一切の佛土」とあるとおりである。第二は自在浄であり、経に「一切の国土は平等にして清浄」とあるとおりである。第三は荘厳浄であり、経に「一切の佛土は神通の荘厳、光相具足せり」とあるとおりであり、光明の荘厳、もろもろの宝などによる荘厳のゆえである。第四は受用浄であり、経に「一切の煩悩を離れ、清浄の道を成就せり」とあるとおりである。第五は住処の衆生の浄であり、経に「無量の智慧ある衆生、ことごとくその中に満てり」とあるとおりである。第六は因の浄であり、経に「佛の上妙にして平等なる境界に入る」とあるとおりである。第七は果の浄であり、経に「もろもろの衆生の心の楽しむところに随って、これを示現す」とあるとおりであり、智慧の神通力などを顕すゆえである。

經曰：又發大願，所謂一切菩薩同心同行故，共集善根無怨嫉故，一切菩薩平等一觀故，常親近諸佛菩薩不捨離故，隨意能現佛身故，自於心中悉能解知諸佛神力智力故，得不退隨意神通故，悉能遊行一切世界故，一切佛會皆現身相故，一切生處普生其中故，成就不可思議大乘故，具足行菩薩行故。廣大如法界究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數一切行數，入大乘道無有休息。

> 経に曰く、また大きな願を起こす。いわゆる、すべての菩薩が同じ心で同じ行いをするからであり、ともに善根を集めて怨みや嫉みがないからであり、すべての菩薩が平等に一つの真理を見るからであり、常に諸仏・諸菩薩に親しみ、離れることのないためであり、思いのままに仏の姿を現すことができるためであり、自らの心の中で諸仏の神力と智力をすべて理解できるためであり、退くことのない自在な神通を得るためであり、すべての世界を自由に巡ることができるためであり、すべての仏の集まりにその身を現すためであり、あらゆる生まれの場所に広く生まれるためであり、不可思議な大乗を成就するためであり、菩薩の行いを完全に備えるためである。広大なることは法界のごとく、究極なることは虚空のごとく、未来の果てまで、すべての劫の数、すべての行いの数にわたり、大乗の道に入って休むことがない。

論曰：第八大願不念餘乘故，如經「一切菩薩同心同行」故。菩薩行有十種：一者共集善根無怨嫉故；二者一切菩薩平等一觀故；三者常親近諸佛菩薩不捨離故；四者隨意能現佛身故；五者自於心中悉能解知諸佛神力智力故；六者得不退隨意神通故；七者悉能遊行一切世界故；八者一切佛會皆現身相故；九者一切生處普生其中故；十者成就不可思議大乘故，具足行菩薩行故。於中初句顯功德行故，第二住寂靜等觀故，第三聚集解說論佛法故，第四隨心示現成佛故，第五自發勝心念如來法身故，第六得常不退神通故。餘四者以通業得名：一、往餘世界；二、自餘異身示現；三、同生往故；四、入不可思議大乘故。

> 論じて曰く、第八の大願は他の乗を念じないがゆえに、経に「すべての菩薩は心を同じくし行を同じくする」とあるとおりである。菩薩の行には十種がある。第一は、ともに善根を集め、怨みや嫉みがないこと。第二は、すべての菩薩が平等なる一つの観をもつこと。第三は、常に諸仏・諸菩薩に親しみ、離れないこと。第四は、思いのままに仏の姿を現すことができること。第五は、自らの心の中で、諸仏の神力と智力をすべて理解できること。第六は、不退の自在な神通を得ること。第七は、すべての世界を自由に巡ることができること。第八は、すべての仏の集まりに姿を現すこと。第九は、あらゆる生まれの場所にともに生まれること。第十は、不思議な大乗を成就し、菩薩の行を完全に備えることである。そのうち最初の句は功德の行を表し、第二は寂静平等の観に住することを示し、第三は集まって仏法を解き説くことを示し、第四は心のままに成仏を現すことを示し、第五は自ら勝れた心を起こして如来の法身を念じることを示し、第六は常に不退の神通を得ることを示す。残りの四つは、神通の業によって名づけられる。一つは他の世界へ往くこと、二つは自ら異なる姿を現すこと、三つはともに生まれて往くこと、四つは不思議な大乗に入ることである。

經曰：又發大願，所謂乘不退輪行菩薩行故，身口意業所作不空，眾生見者即必定佛法故，聞我音聲即得真實智慧故，心喜恭敬即斷煩惱故，得如藥樹王身故，得如如意寶身故，行大菩薩行故。廣大如法界究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數一切行數，所作利益不空無有休息。

> 経典にはこうあります。さらに大いなる願を起こす。いわゆる、不退の輪に乗って菩薩の行いを実践するからです。身体・言葉・心の行いはむなしくならず、生きとし生けるものが私を見れば必ず仏法に目覚め、私の声を聞けば真実の智慧を得て、心に喜びと敬いを抱けば煩悩を断ち、薬樹王のような身体を得て、如意宝のような身体を得て、大いなる菩薩の行いを実践するからです。それは法界のように広大で、虚空のように究極に至り、未来の果てまで、すべての劫の数だけ、すべての行いの数だけ、なすところの利益はむなしくならず、休むことはありません。

論曰：第九大願顯不空行菩薩行，復行菩薩行，顯乘不退輪行菩薩行故。於中不空有二種：一、作業必定不空，身口意業所作不空故。如是次第三句說應知，眾生見者即必定佛法故者，明身業不空；聞我音聲即得真實智慧者，明口業不空；心喜恭敬即斷煩惱者，明意業不空。二、作利益不空，一切眾生有二種苦：一、種種諸苦；二、貧窮苦。對治是二，如經「得如藥樹王身」故，得如如意寶身故。

> 論じて曰く、第九の大願は不空行の菩薩の行を顕し、また菩薩の行を修行することを顕す。不退の輪の菩薩の行を乗ずることを顕すがゆえである。その中で不空には二種ある。一つには、作業必定の不空であり、身口意の業の所作が不空なるがゆえである。このように次第に第三句に説くべきことを知るべし。「衆生、見る者はすなわち必定に佛法を得るがゆえに」とは、身業の不空を明かす。「我が音聲を聞く者はすなわち真實の智慧を得る」とは、口業の不空を明かす。「心に喜び恭敬すればすなわち煩惱を斷ずる」とは、意業の不空を明かす。二つには、作利益の不空であり、一切の衆生には二種の苦がある。一つには種々の諸苦、二つには貧窮の苦である。この二つを對治する。經に「藥樹王の身を得るがごとし」とあるがゆえに、如意寶の身を得るがごとし。

經曰：又發大願，所謂於一切世界處成阿耨多羅三藐三菩提故，於一凡夫道不離一切凡夫道處，示身初生、坐道場成佛道、轉法輪度眾生、示大涅槃，現諸佛境界大神通智力，隨一切眾生界所應度者於念念中示得佛道度諸眾生滅苦惱故，以一三菩提遍知一切法如涅槃性故，以一音說令一切眾生心皆歡喜故，示大涅槃而不斷菩薩所行故，示大智慧地發起一切法故，法智通、如意神通、幻通遍一切世界故。廣大如法界究竟如虛空，盡未來際盡一切劫數成三菩提數，求大智慧大神通等無有休息。諸佛子！菩薩如是安住菩薩歡喜地，發諸大願，起如是大方便、如是大行，以十願門為首生如是等，滿足十百千萬阿僧祇大願。是菩薩住菩薩歡喜地，起如是等願。

> 経に曰く、また大いなる願を起こす。いわゆる、すべての世界のあらゆる場所で阿耨多羅三藐三菩提を成就するためであり、一つの凡夫の道においてもすべての凡夫の道を離れない場所で、身を現して初めて生まれ、道場に坐して仏道を成し、法輪を転じて衆生を救い、大涅槃を示し、もろもろの仏の境地と大神通力・大智慧の力を現す。すべての衆生の世界で救われるべき者に応じて、念々のうちに仏道を得て衆生を救い苦悩を滅することを示すためであり、一つの三菩提をもってすべての法が涅槃の性質のごとくであると遍く知るためであり、一つの音声で説いてすべての衆生の心をことごとく歓喜させるためであり、大涅槃を示しながらも菩薩の行いを断たないためであり、大智慧の地を示してすべての法を起こすためであり、法智通・如意神通・幻通がすべての世界に遍く及ぶためである。広大なること法界のごとく、究竟なること虚空のごとく、未来の果てまで、すべての劫数の果てまで、三菩提の数に達して、大智慧・大神通などを求めて休息することがない。もろもろの仏子よ、菩薩はこのように菩薩歓喜地に安住し、もろもろの大願を起こし、このような大いなる方便と大いなる行いを起こし、十の願の門をはじめとしてこのようなものを生じ、十百千万阿僧祇の大願を満たすのである。この菩薩は菩薩歓喜地に住み、このような願を起こすのである。

論曰：第十大願起大乘行。云何大菩提？云何作業？大菩提者，如經「成阿耨多羅三藐三菩提」故。作業者，有七種：一、示正覺業；二、說實諦業；三、證教化業；四、種種說法業；五、不斷佛種業；六、法輪復住業；七、自在業。初業者於一凡夫道不離一切凡夫道處乃至示大涅槃故。一凡夫道者，一閻浮提義。閻浮提凡夫道者，可化眾生住處名為凡夫道。第二業者，現諸佛境界大神通智力故，隨一切眾生界所應度者，於念念中示得佛道，度諸眾生滅苦惱故，隨諸世界一切可化者隨心示現佛身。示現佛身者，除諸難處彼彼勝處生，示除苦斷集證滅修道。第三業者，以一三菩提觀法無我一切法性淨涅槃，令眾生信解故。第四業者，以一音聲隨種種信解可化眾生，一時皆令心歡喜故。第五業者，示現大涅槃而不斷菩薩所行力故。第六業者，復佛智地一切修多羅等，所說法軌則不失故。第七業法智通者，觀一切法無性相故。如意神通者，自身現生住滅脩短，隨心自在故。幻通者，轉變外事無不隨意故。初法智通不住世間故，如意神通幻通不住涅槃故。何故唯說此十大願？初願功德行滿足故，第二願智慧行滿足故，次五願為教化眾生故，一以何身、二以何心、三何者眾生、四眾生住何處、五自身住何處能教化眾生，後三願顯自身，一得地挍量勝故、二得菩薩地盡挍量勝故、三得一切地盡究竟故。此三示現如實教化眾生故。發諸大願者，隨心求義故。起如是大方便者，成彼所作方便勇猛故。如是大行者，彼所作行成就故。菩薩住此地漸次久習起此三行，非一時故。何以故？此十大願，一一願中有百千萬阿僧祇大願以為眷屬故。如經「諸佛子！菩薩如是安住菩薩歡喜地發諸大願，起如是大方便、如是大行，以十願門為首，生如是等滿足十百千萬阿僧祇大願。是菩薩住菩薩歡喜地，起如是等願」故。何故名大願？光明善根轉勝增廣故。此挍量菩薩願勝，有二種勝聲聞辟支佛：一、常勤修習無量行故，二、與一切眾生同行故。同行者，十盡句示現。

> 論じて曰く、第十の大願は大乗の行を起こす。いかにか大菩提なる？いかにか作業なる？大菩提とは、経に「阿耨多羅三藐三菩提を成ず」とあるがゆえである。作業には七種ある。一には正覚を示す業、二には実諦を説く業、三には教化を証する業、四には種々に法を説く業、五には仏種を断たざる業、六には法輪を復た住せしむる業、七には自在の業である。 初めの業とは、一人の凡夫の道において、一切の凡夫の道を離れず、ついには大涅槃を示すがゆえである。一人の凡夫の道とは、一閻浮提の義である。閻浮提の凡夫の道とは、化すべき衆生の住処を凡夫の道と名づけるのである。 第二の業とは、諸仏の境界の大神通智力を現ずるがゆえに、一切衆生界の度すべきに応じて、念念のうちに仏道を得て、諸の衆生を度して苦悩を滅することを示すがゆえに、諸世界の一切化すべき者に随いて心に随って仏身を示現する。仏身を示現するとは、諸の難処を除き、彼彼の勝処に生じて、苦を除き集を断じ滅を証し道を修することを示すのである。 第三の業とは、一つの三菩提をもって法に無我を観じ、一切法の性は清浄なる涅槃なりと、衆生に信解せしむるがゆえである。 第四の業とは、一つの音声をもって、種々の信解に随い化すべき衆生を、一時に皆心を歓喜せしむるがゆえである。 第五の業とは、大涅槃を示現して、しかも菩薩の所行の力を断たざるがゆえである。 第六の業とは、仏智の地を復し、一切の修多羅等の所説の法の軌則を失わざるがゆえである。 第七の業とは、法智通とは一切法に性相なしと観ずるがゆえである。如意神通とは、自身に生住滅脩短を現じ、心に随って自在なるがゆえである。幻通とは、外事を転変して意に随わざるなしのゆえである。初めの法智通は世間にとどまらざるがゆえであり、如意神通と幻通は涅槃にとどまらざるがゆえである。 何のゆえにただこの十大願を説くのか。初めの願は功德行の満足するがゆえであり、第二の願は智慧行の満足するがゆえであり、次の五願は衆生を教化するがゆえである。一つにはいかなる身をもってか、二つにはいかなる心をもってか、三つには何ものか衆生なるか、四つには衆生いずれの処に住するか、五つには自身いずれの処に住して衆生を教化し得るか。後の三願は自身を顕す。一つには地を得て挍量の勝れたるがゆえ、二つには菩薩地を尽くして挍量の勝れたるがゆえ、三つには一切地を尽くして究竟するがゆえである。この三は如実に衆生を教化することを示現するがゆえである。 諸の大願を発すとは、心に随いて義を求むるがゆえである。かくのごとき大方便を起すとは、彼の所作の方便勇猛を成ずるがゆえである。かくのごとき大行とは、彼の所作の行の成就するがゆえである。菩薩この地に住して漸次久しく習いてこの三行を起すは、一時にあらざるがゆえである。何のゆえか。この十大願、一一の願のうちに百千万阿僧祇の大願ありて眷属となすがゆえである。経に「諸仏子よ、菩薩かくのごとく安住して菩薩歓喜地に発し、諸の大願を発し、かくのごとき大方便を起し、かくのごとき大行を起し、十願の門をもって首となし、かくのごとき等の満足する十百千万阿僧祇の大願を生ず。この菩薩は菩薩歓喜地に住して、かくのごとき等の願を起す」とあるがゆえである。 何のゆえに大願と名づくるか。光明善根転じ勝れ増広するがゆえである。この挍量の菩薩の願の勝れたるには、二種の勝れたるありて声聞辟支仏に勝る。一つには常に勤めて無量の行を修習するがゆえ、二つには一切衆生と同行するがゆえである。同行とは、十尽句に示現する。

經曰：以十盡句成諸大願。何等為十？所謂一、眾生界盡；二、世界盡；三、虛空界盡；四、法界盡；五、涅槃界盡；六、佛出世界盡；七、如來智界盡；八、心所緣界盡；九、佛境界智入界盡；十、世間轉法轉智轉界盡。如眾生界盡，我願乃盡。如世界盡、如虛空界盡、如法界盡、如涅槃界盡、如佛出世界盡、如佛智界盡、如心所緣界盡、如佛境界智入界盡、如世間轉法轉智轉界盡，若彼界盡，我願乃盡。如是眾生界盡不盡，我此善根亦不可盡。世界盡不盡、虛空界盡不盡、法界盡不盡、涅槃界盡不盡、佛出世界盡不盡、如來智界盡不盡、心所緣界盡不盡、佛境界智入界盡不盡、世間轉法轉智轉界盡不盡，我此諸願善根亦不可盡。

> 経に曰く、十の尽句によって諸の大願を成ず。何れをか十と為す。所謂、一に衆生界尽、二に世界尽、三に虚空界尽、四に法界尽、五に涅槃界尽、六に仏出世界尽、七に如来智界尽、八に心所縁界尽、九に仏境界智入界尽、十に世間転法転智転界尽なり。衆生界の尽くるが如く、我が願いも乃ち尽きん。世界の尽くるが如く、虚空界の尽くるが如く、法界の尽くるが如く、涅槃界の尽くるが如く、仏出世界の尽くるが如く、仏智界の尽くるが如く、心所縁界の尽くるが如く、仏境界智入界の尽くるが如く、世間転法転智転界の尽くるが如く、若し彼の界尽きなば、我が願いも乃ち尽きん。是くの如く衆生界の尽くるも尽きざるも、我が此の善根も亦た尽くべからず。世界の尽くるも尽きざるも、虚空界の尽くるも尽きざるも、法界の尽くるも尽きざるも、涅槃界の尽くるも尽きざるも、仏出世界の尽くるも尽きざるも、如来智界の尽くるも尽きざるも、心所縁界の尽くるも尽きざるも、仏境界智入界の尽くるも尽きざるも、世間転法転智転界の尽くるも尽きざるも、我が此の諸の願いの善根も亦た尽くべからず。

論曰：於中眾生界盡是總，世界盡乃至智轉界盡是別。何等是眾生界？眾生界盡故。何處住？世界盡故。所有虛空界虛空界盡故，說何法教化？法界盡故，隨化眾生置何處？涅槃界盡故，佛出世界盡故，以何方便善巧？如來智界盡故，復隨所緣心緣界盡故，復隨以何界？佛境界智入界盡故。此事已說盡者，示現不斷盡，非念念盡故。此九種盡，略說三種三轉，示現此十盡句增上力故，諸佛以此力常為眾生作利益故。如是已說願挍量勝。云何行挍量勝？

> 論じる。ここで、衆生界が尽きることは総であり、世界が尽きること、そして智慧の転じる界が尽きることに至るまでが別である。何が衆生界かといえば、衆生界が尽きるからである。どこに住むかといえば、世界が尽きるからである。すべての虚空界があり、虚空界が尽きるからである。どのような法を説いて教化するかといえば、法界が尽きるからである。教化に従う衆生をどこに置くかといえば、涅槃界が尽きるからである。仏が世に出るのは世界が尽きるからであり、どのような方便と善巧によるかといえば、如来の智界が尽きるからである。また、対象に随って心の縁じる界が尽きるからであり、また、どのような界に随うかといえば、仏の境界の智慧に入る界が尽きるからである。このことはすでに説かれた。尽きるとは、断えることなく尽きることを示し、念念に尽きるのではないからである。この九種の尽きることを、略して三種三転と説き、この十の尽きる句の増上の力によって示す。諸仏はこの力によって常に衆生のために利益をなすからである。このように願の比較の勝れたることはすでに説かれた。どのように行の比較の勝れたるか。

經曰：諸佛子！菩薩決定發如是諸大願已，則得調順心、柔軟心，如是則成信者。信諸佛如來本所行入，集諸波羅蜜而得增長，善成就諸地，具足無畏、力、不共佛法不壞故，不可思議佛法，無中無邊如來境界起，無量行門諸如來境界入，信成就果。舉要言之，信一切菩薩行，乃至得如來智地說加故。

> 経に曰く、諸仏子よ、菩薩がこのようないくつもの大きな願いを決定して起こしたならば、調った心、柔らかな心を得る。そうしてこそ信じる者となるのである。諸仏如来がもともと行じてきたところを信じ、もろもろの波羅蜜を集めて成長し、よく諸地を成就し、無畏・力・不共の仏法を具え、壊れないがゆえに、不可思議な仏法、中も辺もない如来の境界が起こり、無量の行門、もろもろの如来の境界に入り、信は果を成就する。要約して言えば、すべての菩薩の行を信じ、乃至、如来の智地を得て説き加わるがゆえに。

論曰：發如是諸大願已則得調順心者，彼諸善根中得自在勝故。柔軟心者，得勝樂行故。如是則成信者，於中本行入者從菩薩行入乃至成菩提覺故。於中信菩薩行所攝本行入，有二種相：一、云何菩薩行；二、云何次第成。如經「集諸波羅蜜而得增長」故，善成就諸地故。此菩提所攝本行入有六種勝，是故信勝。一者外道魔怨、聲聞緣覺對治等勝，如經「具足無畏、力、不共佛法不壞」故。二者不思議神通力上勝，如經「不可思議佛法」故。三者不雜染勝，如經「無中無邊如來境界起」故。四者一切種智勝，如經「無量行門諸如來境界入」故。五者離勝，一切煩惱習常遠離故，如經「信成就果」故。復略說彼菩薩本行入示現，如經「舉要言之，信一切菩薩行乃至得如來智地說加」故。說者所說，加者得證故。此菩薩三種觀，於諸眾生起大慈悲：一、遠離最上第一義樂；二、具足諸苦；三、於彼二顛倒。云何遠離最上第一義樂？

> 論じて曰く、このような大きな願いを起こせば、心が調和し従うようになる。それは、もろもろの善根の中で自在を得ることにすぐれているからである。柔軟な心とは、すぐれた楽しみの行を得るからである。このようにして信が成る。その中で本行に入るとは、菩薩の行に入ることから始まり、やがて菩提の覚りを成し遂げるまでのことである。その中で、信が菩薩の行に含まれる本行に入るとは、二つの相がある。一つには、菩薩の行とは何か。二つには、どのように段階を経て成るか。経に「もろもろの波羅蜜を集めて増長する」とあるとおりである。善くもろもろの地を成就するからである。この菩提に含まれる本行に入るには六つのすぐれた点がある。それゆえ信がすぐれている。第一には、外道や魔の怨み、声聞や縁覚に対する対治などにすぐれている。経に「無畏・力・不共の仏法を具足して壊れない」とあるとおりである。第二には、不思議な神通力のうえですぐれている。経に「不可思議な仏法」とあるとおりである。第三には、雑染に混じらないことですぐれている。経に「中も辺もない如来の境界が起こる」とあるとおりである。第四には、一切種智ですぐれている。経に「無量の行の門、もろもろの如来の境界に入る」とあるとおりである。第五には、離れることですぐれている。一切の煩悩の習気を常に遠く離れるからである。経に「信の成就の果」とあるとおりである。また略して、その菩薩の本行に入ることを示す。経に「要を挙げて言えば、一切の菩薩の行を信じ、乃至、如来の智地を得るまで加を説く」とあるとおりである。説とは説かれたことであり、加とは証しを得ることである。この菩薩の三つの観が、もろもろの衆生に対して大きな慈悲を起こす。一つには、最もすぐれた第一義の楽から遠く離れていること。二つには、もろもろの苦を具足していること。三つには、その二つに対する顛倒である。どのように最もすぐれた第一義の楽から遠く離れているのか。

經曰：諸佛子！彼菩薩作是念：諸佛正法如是甚深、如是寂靜、如是寂滅、如是空、如是無相、如是無願、如是無染、如是無量、如是上，此諸佛法如是難得。

> 経に曰く、仏弟子たちよ。かの菩薩はこのように心に思った。諸仏の正しい法は、これほど深く、これほど静けさに満ち、これほどに滅びに至り、これほど空であり、これほど形に囚われず、これほど願いを離れ、これほど汚れがなく、これほど計り知れず、これほど優れている。この諸仏の法は、まことに得がたいものである。

論曰：諸佛正法如是甚深者，有九種：一、寂靜甚深；二、寂滅甚深；三、空甚深；四、無相甚深；五、無願甚深；六、無染甚深；七、無量甚深；八、上甚深；九、難得甚深。寂靜者，離妄計實有故，妄計正取故。寂滅者，法義定故。空無相無願者，三障對治解脫門觀故。何者三障？一分別、二相、三取，捨願故。無染者，離雜染法觀故。無量者，不可算數不可思量，生善根觀故。上者，依自利利他增上智觀故。難得者，三阿僧祇劫證智觀故。云何具足諸苦？

> 論じていう。諸仏の正法がこのように甚深であることには、九つの種類がある。一つには寂静甚深、二つには寂滅甚深、三つには空甚深、四つには無相甚深、五つには無願甚深、六つには無染甚深、七つには無量甚深、八つには上甚深、九つには難得甚深である。寂静とは、妄りに実有と計ることを離れ、妄りに正取と計ることを離れるからである。寂滅とは、法の義が定まっているからである。空・無相・無願とは、三つの障に対する対治としての解脱門の観によるからである。何が三つの障か。一つには分別、二つには相、三つには取であり、願を捨てるからである。無染とは、雑染の法を離れる観によるからである。無量とは、数えることも思量することもできない、善根を生じる観によるからである。上とは、自利と利他をよりどころとする増上智の観によるからである。難得とは、三阿僧祇劫の証智の観によるからである。どのようにして諸の苦を具足するのか。

經曰：而諸凡夫心墮邪見，為無明癡闇蔽其意識，常立憍慢幢，墮在念欲渴愛網中，隨順諂曲林，常懷嫉妬而作後身生處因緣。多集貪欲、瞋、癡，起諸業行，嫌恨猛風吹罪心火常令熾燃，有所作業皆與顛倒相應，隨順欲漏、有漏、無明漏，相續起心意識種子。

> 経典にこう説かれています。しかし凡夫は心が邪見に陥り、無明の愚かさと暗闇に意識を覆われ、常に慢心の旗を掲げ、欲望と渇愛の網の中に落ち込み、へつらい曲がった心の林に従い、常に嫉妬を抱いて、来世の生まれ変わり場所の因縁を作ります。貪欲・怒り・愚かさを多く積み重ね、さまざまな業の行いを起こし、恨みや憎しみの激しい風が罪の心の火を吹きたてて常に燃え上がらせ、なす行いのすべてが逆さまな見方と一致し、欲望の漏れ・存在の漏れ・無明の漏れに従い、続けざまに心と意識の種を起こしていきます。

論曰：而諸凡夫心墮邪見者，邪見有九種：一者蔽意邪見，如經「為無明癡闇蔽其意識」故。二者憍慢邪見，如經「常立憍慢幢」故。三者愛念邪見，如經「墮在念欲渴愛網中」故。四者諂曲心邪見，如經「隨順諂曲林」故。五者嫉妬行邪見，如經「常懷嫉妬而作後身生處因緣」故。六者集業邪見，如經「多集貪欲瞋癡起諸業行」故。七者吹心熾燃邪見，如經「嫌恨猛風吹罪心火常令熾燃」故。八者起業邪見，如經「有所作業皆與顛倒相應」故。九者心意識種子邪見，如經「隨順欲漏有漏無明漏相續起心意識種子」故。是中蔽意邪見、憍慢邪見、愛念邪見，此三邪見依法義妄計如是次第。諂曲心邪見、嫉妬行邪見，此二邪見於追求時心行過故。嫉者於身起邪行故，妬者於資財等，是故生生之處墮卑賤中，形貌鄙陋資生不足故。第六集業邪見，受諸受時憎愛彼二顛倒境界故。第七吹心熾燃邪見，於怨恨時互相追念欲起報惡業故。第八起業邪見，於作惡時迭相加害故。第九心意識種子邪見，於作善業時所有布施持戒修行善根等業皆是有漏故。

> 論じて曰く、すべての凡夫の心が邪見に堕ちるというが、邪見には九つの種類がある。第一は、意を覆う邪見であり、経に「無明の痴闇がその意識を覆っている」とあるとおりである。第二は、憍慢の邪見であり、経に「常に憍慢の幢を立てている」とあるとおりである。第三は、愛念の邪見であり、経に「念欲の渇愛の網の中に堕ちている」とあるとおりである。第四は、諂曲の心の邪見であり、経に「諂曲の林に随順している」とあるとおりである。第五は、嫉妬の行の邪見であり、経に「常に嫉妬を抱き、後の生まれの因縁を作っている」とあるとおりである。第六は、業を集める邪見であり、経に「貪欲・瞋恚・愚痴を多く集めて、さまざまな業の行を起こしている」とあるとおりである。第七は、心を吹き煽る邪見であり、経に「嫌恨の猛風が罪の心の火を吹き、常に燃え上がらせている」とあるとおりである。第八は、業を起こす邪見であり、経に「なすところの業はみな顛倒と相応している」とあるとおりである。第九は、心意識の種子の邪見であり、経に「欲漏・有漏・無明漏に随順して、心意識の種子を相続して起こしている」とあるとおりである。このうち、意を覆う邪見・憍慢の邪見・愛念の邪見の三つは、法の義に依ってこのような次第を妄りに計ったものである。諂曲の心の邪見と嫉妬の行の邪見の二つは、追求するときに心の働きに過ちがあるからである。嫉とは身に邪行を起こすことであり、妬とは資財などに対するものであり、それゆえ生まれ生まれるところで卑賤の中に堕ち、容貌は醜く、暮らしの糧も足りないのである。第六の業を集める邪見は、さまざまな感受を受けるときに、憎しみと愛という二つの顛倒した境界によるものである。第七の心を吹き煽る邪見は、怨恨のときに互いに思いを追い、報いの悪業を起こそうとするからである。第八の業を起こす邪見は、悪を行うときに互いに害し合うからである。第九の心意識の種子の邪見は、善業を行うときに、布施・持戒・修行などの善根の業がすべて有漏であるからである。

經曰：於三界地復有芽生，所謂名色共生不離，此名色增長已成六入聚，成六入已內外相對生觸，觸因緣故生受，深樂受故生渴愛，渴愛增長故生取，取增長故復起後有，有因緣故有生老死憂悲苦惱，如是眾生生長苦聚。是中皆空離我我所，無知無覺如草木石壁又亦如響；然諸眾生不知不覺而受苦惱。

> 経典にこう説かれています。三界の世界には再び芽が生じます。それは名と色がともに生じて離れることのないもので、この名色が成長して六入の集まりとなり、六入が完成すると内と外が相対して触が生じ、触を縁として受が生じ、受を深く楽しむために渇愛が生じ、渇愛が増大するために取が生じ、取が増大するために再び後の存在が起こり、有を縁として生・老・死・憂・悲・苦・悩が生じます。このようにして衆生は苦の集まりを成長させていくのです。しかしその中はすべて空であり、我も我所も離れており、知ることも覚ることもなく、草木や石壁、またこだまのようなものです。それなのに衆生は知らず気づかずに苦悩を受けているのです。

論曰：是中因緣有三種：一、自相，從復有芽生乃至於有；二、同相，謂生老病死等過；三、顛倒相，離我我所等。自相者有三種：一者報相，名色共阿黎耶識生，如經「於三界地復有芽生，所謂名色共生」故。名色共生者，名色共彼生故。二者彼因相，是名色不離彼、依彼共生故，如經「不離」故。三者彼果次第相，從六入乃至於有，如經「此名色增長已成六入聚，成六入已內外相對生觸，觸因緣故生受，深樂受故生渴愛，渴愛增長故生取，取增長故復起後有，有因緣故有生老死憂悲苦惱，如是眾生生長苦聚」故。是中離我我所者，此二示現空。無知無覺者，自體無我故。彼無知無覺，示非眾生數動不動事。如經「如草木石壁又亦如響」故，因緣相似相類法故。云何於彼二顛倒？如經「然諸眾生不知不覺而受苦惱」故。

> 論じていう。ここに因縁には三つの種類がある。第一に自相、すなわち芽が生じるところから有に至るまで。第二に同相、すなわち生・老・病・死などの過失。第三に顛倒相、すなわち我・我所を離れることなどである。 自相には三つの種類がある。第一に報相、名色が阿黎耶識とともに生じること。経に「三界の地において再び芽が生じる。いわゆる名色がともに生じる」とあるとおりである。名色がともに生じるとは、名色がかの〔識と〕ともに生じるからである。第二に彼の因相、この名色がかの〔識〕を離れず、かの〔識〕に依ってともに生じるからである。経に「離れず」とあるとおりである。第三に彼の果の次第相、六入から有に至るまで。経に「この名色が増長してすでに六入の聚を成し、六入を成し終わって内外が相対して触を生じ、触を因縁として受が生じ、深く受を楽しむがゆえに渇愛が生じ、渇愛が増長するがゆえに取が生じ、取が増長するがゆえに再び後の有を起こし、有を因縁とするがゆえに生・老・死・憂・悲・苦・悩があり、このようにして衆生は苦の聚を生長する」とあるとおりである。 ここにおいて我・我所を離れるとは、この二つが空を示している。知なく覚なきものとは、自体が無我であるからである。かの知なく覚なきものは、衆生の数に属さない、動くものも動かないものも示している。経に「草木や石壁のごとく、また響のごとくである」とあるとおりである。因縁が似て相類する法であるからである。どのようにかの二つにおいて顛倒するのか。経に「しかしながらもろもろの衆生は知らず覚らずして苦悩を受ける」とあるとおりである。

經曰：菩薩如是見諸眾生不離苦聚，是故即生大悲智慧；是諸眾生我應教化令住涅槃畢竟之樂，是故即生大慈智慧。

> 経に曰く、菩薩はこのようにしてすべての生きとし生けるものが苦しみの集まりから離れられないのを見て、それゆえにただちに大悲の智慧を起こす。これらの生きとし生けるものを、わたしが教化して涅槃の究竟の安楽に住まわせるべきである、それゆえにただちに大慈の智慧を起こす。

論曰：云何具諸苦聚？云何遠離？最上第一義樂，此先已說，示現大悲慈等故。

> 論に入る。どのようにして、もろもろの苦の集まりを備えるのか。どのようにして遠離するのか。最上の第一義の楽とは何か。これはすでに前に説かれた。大悲と慈などを示すためである。

經曰：諸佛子？菩薩摩訶薩隨順如是大慈悲法住在初地，以深妙心於一切物無所悋惜，以智求佛大妙智故，修行大捨，即時所有可施之物皆悉能捨，所謂一切財穀庫藏等捨，或以金銀、摩尼、真珠、琉璃、珂貝、車𤦲、馬瑙、生金等捨，或以寶莊嚴具瓔珞等捨，或以象馬車乘輦輿等捨，或以寺舍園林樓觀流泉浴池等捨，或以奴婢僮僕等捨，或以國土聚落城邑王都等捨，或以妻子男女等捨，或以一切所愛之事皆悉能捨，或以頭目耳鼻支節手足一切身分等捨。如是一切可捨之物而不貪惜，唯求無上佛智慧故而行大捨。如是菩薩摩訶薩住於初地能成大捨。

> 経に曰く、仏子たちよ。菩薩摩訶薩はこの大慈悲の法に従い、初地に住み、深く妙なる心をもって、すべてのものに惜しむ心なく、智慧をもって仏の大いなる妙智を求めるがゆえに、大いなる施しを修行する。そのとき、施すことのできるすべてのものを、みな捨てることができる。いわゆる、すべての財産・穀物・庫蔵などを捨て、あるいは金・銀・摩尼・真珠・琉璃・珂貝・車𤦲・馬瑙・生金などを捨て、あるいは宝の荘厳具や瓔珞などを捨て、あるいは象・馬・車乗・輦輿などを捨て、あるいは寺舎・園林・楼観・流泉・浴池などを捨て、あるいは奴婢・僮僕などを捨て、あるいは国土・聚落・城邑・王都などを捨て、あるいは妻子・男女などを捨て、あるいはすべて愛する事柄をみな捨てることができ、あるいは頭・目・耳・鼻・支節・手足、すべての身分などを捨てる。このように、すべて施すことのできるものを貪り惜しむことなく、ただ無上の仏智慧を求めるがゆえに大いなる施しを行う。このように菩薩摩訶薩は初地に住み、大いなる施しを成し遂げることができる。

論曰：即時所有可施之物皆悉能捨者，求佛無上大妙智故。是中一切物者，略有二種：一外、二內。外者復有二種：一、所用；二、貯積。如經「所謂一切財穀庫藏等」故。如是次第於中廣有八種，從金銀等乃至一切所愛之事。內者，自身所攝。是外事捨中，初捨是總，餘九捨是別。依二種喜：一、藏攝喜；二、利益喜。藏攝喜者，謂金銀等。利益喜者，復有八種：一者嚴飾利益喜，謂寶莊嚴等。二者代步利益喜，謂象馬等。三者戲樂利益喜，謂園林樓觀等。四者代苦利益喜，謂奴婢等。五者自在利益喜，謂國土聚落等。六者眷屬利益喜，謂妻子等。七者堅著利益喜，謂一切所愛等。八者稱意利益喜，謂頭目耳鼻等。

> 論の言葉です。そのとき、施すことのできるすべてのものを、すっかり捨てることができるのは、仏のこの上ない大きなすばらしい智慧を求めるからです。ここでいう「すべてのもの」には、大きく分けて二種類あります。一つは外のもの、二つは内のもの（自分の体）です。 外のものには、さらに二種類あります。一つは使うもの、二つは蓄えておくものです。経典に「いわゆるすべての財産・穀物・庫蔵など」とあるとおりです。このように順に、そこには広く八種類あり、金銀などから、すべて愛しいと思うものにいたるまでです。 内のものとは、自分の体に属するものです。 この外のものを捨てるなかで、最初の捨てることは全体をまとめたもので、残りの九つの捨てることは個別のものです。二つの喜びによります。一つは蔵にとどめる喜び、二つは利益の喜びです。 蔵にとどめる喜びとは、金銀などのことです。利益の喜びには、さらに八種類あります。一つは飾りを整える利益の喜びで、宝の飾りなどのことです。二つは足の代わりとなる利益の喜びで、象や馬などのことです。三つは遊び楽しむ利益の喜びで、庭園や楼閣などのことです。四つは苦しみに代わる利益の喜びで、奴婢などのことです。五つは思いのままになる利益の喜びで、国土や集落などのことです。六つは身内の利益の喜びで、妻や子などのことです。七つは固く執着する利益の喜びで、すべて愛しいと思うものなどのことです。八つは心にかなう利益の喜びで、頭や目、耳や鼻などのことです。

經曰：菩薩如是以大施心救一切眾生故，轉轉推求世間出世間利益勝事。彼推求利益勝事時心不疲惓，是故菩薩成不疲惓心。成不疲惓已，於一切經論心無怯弱，是名成一切經論智。如是成一切經論智已，善能籌量應作不應作，於上中下眾生隨宜隨宜而行、隨力隨感，是故菩薩成就世智。成世智已，知時知量慚愧莊嚴修習自利利他之道，是故菩薩成慚愧莊嚴。如是行中精勤修行得不退不轉力，如是菩薩成堅固力。得堅固力已，勤行供養諸佛，隨所聞法如說修行。諸佛子！是菩薩悉知生起如是清淨諸地法，所謂信悲慈捨不疲惓，知諸經論善解世法，慚愧堅固力，供養諸佛如說修行。

> 経に曰く、菩薩はこのように大きな施しの心をもってすべての衆生を救うため、次々と世間と出世間のすぐれた利益を求めていく。その利益を求めるとき、心が疲れることがない。だから菩薩は疲れを知らない心を完成する。疲れを知らない心を完成すると、すべての経や論に対して心がひるまない。これをすべての経論の智慧を完成するという。こうしてすべての経論の智慧を完成すると、なすべきこととなすべきでないことをよく見はからい、上・中・下の衆生に応じて、それぞれにふさわしく、それぞれの力と感応にしたがって行う。だから菩薩は世間の智慧を成就する。世間の智慧を成就すると、時を知り量を知り、惭愧をもって身を飾り、自利と利他の道を修習する。だから菩薩は惭愧の飾りを成就する。このような行において精勤して修行し、退かず転じない力を得る。こうして菩薩は堅固な力を成就する。堅固な力を得ると、勤めて諸仏を供養し、聞いた法のとおりに修行する。仏子たちよ、この菩薩は、生じるこれらの清浄な諸地の法をことごとく知っている。すなわち、信・悲・慈・捨・疲れを知らないこと、もろもろの経論を知り世の法をよく理解すること、惭愧と堅固な力、諸仏を供養し説のとおりに修行することである。

論曰：是中依此世智隨宜隨宜而行者，如論中說隨自己力隨彼能受故。依慚愧知時知量者，示三種時：一者念時；二者日夜時；三者所作必得不斷時。依堅固力如是彼行中者，如上所說信等故。精勤修行者，有二種：一、不退力，不捨行故；二、不轉力，精進不息故。供養諸佛如說修行者，有二種：一、利養供養；二、修行供養。此十種行顯二種勝成就：一、深心成就，謂信悲慈等。二、修行成就，謂捨不疲惓，知諸經論善解世法，慚愧堅固力，供養諸佛如說修行等。於中依自利行，謂信能信菩薩行及諸佛法，求必能得故。依利他行，所謂悲慈能安隱與樂心故。捨者，以財攝他行故。不疲惓者，自攝法行故。知諸經論善解世法者，以法攝他行故。餘有三行攝護信等：一者不著行，以慚愧對治障信等不著行故；二者不動行，有堅固力，信等不可動故；三者修行，彼垢清淨依止行供養諸佛，攝信等善根故。是中依二種供養故，得二種身：一者上妙身，所可見者心生敬重，利益不空故；二者調柔心，自性善根成就，樂行法故。前所說三十句，從信增上等乃至常求上上勝道，是清淨地法。今此十句從信等乃至供養諸佛，盡是障地淨法，是名修行挍量勝。云何果利益挍量勝？

> 論に曰く、この中で世間の智慧に基づき、相手や状況に応じて柔軟に行動するとは、論の中で説かれているように、自分の力を基準とし、相手が受け入れられる程度に応じるためである。慚愧を知り、時と量を知るとは、三つの時を示している。第一に念の時、第二に日夜の時、第三に為すべきことを必ず成し遂げて途切れさせない時である。堅固な力に基づき、そのような行の中で実践するとは、前述した信などのためである。精勤修行には二種ある。第一に不退の力で、行を捨てないためである。第二に不転の力で、精進を止めないためである。諸仏を供養し説の通りに修行するとは二種ある。第一に利養による供養、第二に修行による供養である。この十種の行は二種のすぐれた成就を示す。第一に深心の成就で、信・悲・慈などを指す。第二に修行の成就で、捨・不疲惓・諸経論を知り世法をよく理解すること・慚愧・堅固力・諸仏を供養し説の通りに修行することなどを指す。この中で自利の行とは、信が菩薩の行および諸仏の法を信じ、求めれば必ず得られるためである。利他の行とは、悲と慈が心を安らかにし楽しみを与えるためである。捨とは、財によって他を導く行のためである。不疲惓とは、自ら法を実践する行のためである。諸経論を知り世法をよく理解するとは、法によって他を導く行のためである。残りの三つの行は信などを包み護る。第一に不著の行で、慚愧によって信などを障る不著の行を対治するためである。第二に不動の行で、堅固な力があり、信などが動かされないためである。第三に修行で、その垢が清浄となり、依止の行として諸仏を供養し、信などの善根を包み込むためである。この中で二種の供養によって二種の身を得る。第一に上妙の身で、見る者が敬重の心を生じ、利益が空しくならないためである。第二に調柔の心で、自性の善根が成就し、法を楽しんで行うためである。前述の三十句は、信の増上などから常に上上の勝道を求めるに至るまで、清浄地の法である。今この十句は、信などから諸仏を供養するに至るまで、すべて障地を浄める法であり、これを修行挍量の勝と名づける。いかにして果利益挍量の勝とするか。

經曰：諸佛子！是菩薩住此菩薩歡喜地已，多見諸佛。以大神通力、大願力故，見多百佛、多千佛、多百千佛、多百千那由他佛、多億佛、多百億佛、多千億佛、多百千億佛、多百千億那由他佛，以大神通力大願力故。是菩薩見諸佛時，以上心深心供養恭敬尊重讚歎，衣服飲食臥具湯藥一切供具悉以奉施，以諸菩薩上妙樂具供養眾僧，以此善根皆願迴向阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩因供養諸佛故，成教化利益眾生法。是菩薩多以二攝攝取眾生，所謂布施、愛語。後二攝法但以信解力行，未善通達。是菩薩十波羅蜜中檀波羅蜜增上，餘波羅蜜非不修集，隨力隨分是菩薩隨所供養諸佛，教化眾生皆能受行清淨地法。如是如是彼諸善根皆願迴向薩婆若，轉復明淨調柔成就隨意所用。諸佛子！譬如金師善巧鍊金數數入火，如是如是轉復明淨調柔成就隨意所用。諸佛子！菩薩亦復如是，如是如是供養諸佛教化眾生，皆能修行清淨地法。正修行已，如是如是彼諸善根皆願迴向薩婆若，轉復明淨調柔成就隨意所用。

> 経に曰く、諸仏子よ、この菩薩はこの菩薩歓喜地に住んでから、多くの仏に出会う。大神通力と大願力によって、多くの百仏、多くの千仏、多くの百千仏、多くの百千那由他仏、多くの億仏、多くの百億仏、多くの千億仏、多くの百千億仏、多くの百千億那由他仏に出会うのである。大神通力と大願力によってである。この菩薩が諸仏に出会うとき、上心と深心をもって供養し、恭敬し、尊重し、讃嘆する。衣服・飲食・臥具・湯薬、すべての供養の具をことごとく施し、諸菩薩の上妙な楽の具をもって僧衆に供養し、この善根をことごとく阿耨多羅三藐三菩提に迴向することを願う。この菩薩は諸仏を供養するゆえに、衆生を教化し利益する法を成し遂げる。この菩薩は主に二つの摂法をもって衆生を摂取する。いわゆる布施と愛語である。後の二つの摂法はただ信解と力行によって行じ、まだよく通達してはいない。この菩薩は十波羅蜜のうち檀波羅蜜が増上であり、残りの波羅蜜も修集しないわけではなく、力に随い分に随って行じる。この菩薩は供養する諸仏に随って、衆生を教化し、みな清浄地の法を受持し行じることができる。かくのごとく、かくのごとく、それらの善根をことごとく薩婆若に迴向することを願い、さらにまた明浄に、調柔に、成就し、意のままに用いることができる。諸仏子よ、たとえば金師が巧みに金を錬り、しばしば火に入れるように、かくのごとく、かくのごとく、さらにまた明浄に、調柔に、成就し、意のままに用いることができる。諸仏子よ、菩薩もまたかくのごとくである。かくのごとく、かくのごとく、諸仏を供養し衆生を教化し、みな清浄地の法を修行することができる。正しく修行して已り、かくのごとく、かくのごとく、それらの善根をことごとく薩婆若に迴向することを願い、さらにまた明浄に、調柔に、成就し、意のままに用いることができる。

論曰：果利益挍量勝有四種：一、調柔果利益勝；二、發趣果利益勝；三、攝報果利益勝；四、願智果利益勝。調柔果利益勝者，金相似法，信等善法猶如真金。數數入火者，有三種入：一、功德入，供養佛僧故；二、悲心入，教化眾生故；三、無上果入，願迴向大菩提故。以大神通力見諸佛者，以勝神通力見色身佛。大願力者，以內正願力見法身佛。多百佛乃至百千億那由他佛者，方便善巧示現多佛，顯多數故。供養者，有三種：一、恭敬供養，謂讚歎等，顯佛功德故；二、尊重供養，謂禮拜等；三、奉施供養，謂花香塗香末香幡蓋等。以諸菩薩上妙樂具者，是諸菩薩所有世間不共之物，具足奉施一切眾僧故。云何發趣果利益勝？

> 論じて曰く、果の利益を比較衡量すれば、四種の勝れたるものがある。一には調柔果の利益の勝れ、二には発趣果の利益の勝れ、三には摂報果の利益の勝れ、四には願智果の利益の勝れである。 調柔果の利益の勝れとは、金に似たる法のことである。信などの善き法は、まさに真金のようなものである。しばしば火に入れるとは、三種の入り方がある。一には功徳の入り、仏と僧に供養するゆえである。二には悲心の入り、衆生を教え導くゆえである。三には無上果の入り、大いなる菩提へと願いを向けるゆえである。 大いなる神通力をもって諸仏を見るとは、勝れたる神通力によって色身の仏を見ることである。大いなる願力とは、内なる正しい願いの力によって法身の仏を見ることである。多くの百の仏、さらには百千億那由他の仏とは、巧みな方便によって多くの仏を現し示し、その数の多きを明らかにするゆえである。 供養には三種がある。一には恭敬の供養、すなわち讃嘆などであり、仏の功徳を明らかにするゆえである。二には尊重の供養、すなわち礼拝などである。三には奉施の供養、すなわち花、香、塗香、末香、幡、蓋などである。もろもろの菩薩の上妙なる楽具とは、それらの菩薩が持つ世間には共通せぬ品々を、すべての僧に十分に施すゆえである。 いかにして発趣果の利益の勝れがあるのか。

經曰：復次諸佛子！菩薩摩訶薩住此菩薩歡喜地，於初地中諸相得果，應從諸佛菩薩善知識所推求請問成地諸法無有厭足。如是菩薩住初地中，應從諸佛菩薩善知識所推求請問第二地中諸相得果成地諸法無有厭足，如是第三第四第五第六第七第八第九第十地中諸相得果，應從諸佛菩薩善知識所推求請問成十地法無有厭足。是菩薩善知諸地障對治、善知地成壞、善知地相、善知地得修、善知地清淨分、善知地地轉行、善知地地住處、善知地地挍量勝智、善知地得不退轉、善知一切菩薩地清淨轉入如來智地。諸佛子！菩薩如是善起地相，發於初地不住意成乃至轉入十地，無障礙故。以得十地智慧光明故，能得諸佛智慧光明。諸佛子！譬如善巧導師，多將人眾向彼大城。未發之時應先問道中利益諸事，復問道中退患過咎，復問道處中間勝事，復問道處中間退患過咎。具道資糧，作所應作，推求請問。未發初處，是大導師乃至善知到彼大城。未發初處，此導師能以智慧思惟籌量，具諸資用令無所乏，正導眾人乃至得到大城，於嶮道中免諸患難，身及眾人皆無憂惱。諸佛子！菩薩摩訶薩善巧導師亦復如是，住於初地善知地障對治，乃至善知一切菩薩地清淨轉入如來智地。爾時菩薩具大福德助道資糧、善擇智慧助道，欲將一切眾生向薩婆若大城。未發初處，應先問地道功德，復問諸地退患，復問地道處中間勝事，復問地道處中間退患。具大功德智慧資糧，作所應作，應從諸佛菩薩善知識所推求請問。未發初處，是菩薩善知地障對治，乃至善知能到薩婆若大城。未發初處，菩薩如是智慧分別具大功德智慧資糧，將一切眾生如應教化，出過世間嶮難惡處，乃至令住薩婆若大城，不為世間生死嶮過所染，身及眾生無諸衰惱。諸佛子！是故菩薩摩訶薩常應心不疲惓勤修諸地業勝智本行。諸佛子！是名略說菩薩摩訶薩入初菩薩歡喜地門，廣說則有無量百千萬億阿僧祇事。

> 経に曰く、さらに諸仏子よ、菩薩摩訶薩がこの菩薩の歓喜地に住むとき、初地において諸々の相を得て果を得るには、諸仏・菩薩・善知識のもとから、地を成就する諸法を推し求め問い続けて、厭きることがあってはなりません。このように菩薩が初地に住むとき、諸仏・菩薩・善知識のもとから、第二地における諸々の相を得て果を得て地を成就する諸法を推し求め問い続けて、厭きることがあってはなりません。同じく第三・第四・第五・第六・第七・第八・第九・第十地においても、諸々の相を得て果を得ることを、諸仏・菩薩・善知識のもとから推し求め問い続けて、十地を成就する法を求めて厭きることがあってはなりません。 この菩薩は、諸地の障りとその対治をよく知り、地の成就と破壊をよく知り、地の相をよく知り、地を得て修することをよく知り、地の清浄分をよく知り、地から地への転行をよく知り、地から地への住処をよく知り、地から地への比較衡量のすぐれた智慧をよく知り、地から地への不退転を得ることをよく知り、すべての菩薩地の清浄にして如来の智地へと転入することをよく知っています。 諸仏子よ、菩薩はこのように地の相をよく起こし、初地においてとどまらない心を発して、ついに第十地へと転入するのに、障りがないからです。十地の智慧の光明を得たゆえに、諸仏の智慧の光明を得ることができます。 諸仏子よ、たとえば巧みな導師が多くの人々を連れて大きな城へ向かうとします。まだ出発しない前に、まず道中の利益となる諸事を問い、また道中の退屈や患いや過ちを問い、また道中の勝れた事を問い、また道中の退屈や患いや過ちを問います。道の資糧を備え、なすべきことをなし、推し求め問います。まだ出発しない初めの場所で、この大導師はついにかの大城に着くことをよく知っています。まだ出発しない初めの場所で、この導師は智慧によって思惟し籌量し、諸々の資用を備えて乏しいところなく、正しく人々を導いてついに大城に到り、険しい道中で諸々の患難を免れ、身も人々も皆、憂い悩むことがありません。 諸仏子よ、菩薩摩訶薩という善巧な導師もまた同じです。初地に住んで地の障りとその対治をよく知り、ついにすべての菩薩地の清浄にして如来の智地へ転入することをよく知ります。そのとき菩薩は大きな福德の助道の資糧を具え、智慧の助道をよく選び、すべての衆生を薩婆若の大城へ導こうとします。まだ出発しない初めの場所で、まず地の道の功德を問い、また諸地の退患を問い、また地の道の中間の勝れた事を問い、また地の道の中間の退患を問います。大きな功德と智慧の資糧を具え、なすべきことをなし、諸仏・菩薩・善知識のもとから推し求め問いるべきです。まだ出発しない初めの場所で、この菩薩は地の障りとその対治をよく知り、ついに薩婆若の大城に到ることができることをよく知ります。まだ出発しない初めの場所で、菩薩はこのように智慧で分別し、大きな功德と智慧の資糧を具え、すべての衆生をあるがままに教化し、世間の険難と悪処を出過し、ついに薩婆若の大城に住ませ、世間の生死の険しさに染まることなく、身も衆生も諸々の衰悩がありません。 諸仏子よ、それゆえに菩薩摩訶薩は常に心に疲れることなく、勤めて諸地の業と勝れた智慧の本行を修めるべきです。諸仏子よ、これが菩薩摩訶薩が初めて菩薩の歓喜地の門に入る略説であり、広く説けば無量百千万億阿僧祇の事があります。

論曰：諸相者，隨諸地中所有諸障及對治相故。得者，證出世間智故。果者，因證智力得世間出世間智故。成地諸法者，所謂信等，為滿足彼故。有五種方便：一、觀方便；二、得方便；三、增上方便；四、不退方便；五、盡至方便。觀方便者，障對治成壞善巧，如經「是菩薩善知諸地障對治故、善知地成壞故，十種地障對治故，名為十地」。如本分中說，如是次第集故成、散故壞。得方便者，欲入方便、已入方便，彼勝進方便，如經「善知地相故、善知地得修故、善知地清淨分」故。增上方便者，地地轉行、地地住處、地地增長善巧，如經「善知地地轉行故、善知地地住處故、善知地地挍量勝智」故。不退方便者，如經「善知地得不退轉」故。盡至方便者，菩薩地盡入如來地善巧，如經「善知一切菩薩地清淨轉入如來智地」故。諸佛子譬如善巧導師多將人眾向彼大城者，令得正行故。於中導師者，有二種方便：一者不迷道方便，於道路中是利是退患，於道路處是勝是過咎，皆善巧知。如經「先問道中利益諸事故，復問道中退患過咎故，復問道處中間勝事故，復問道處中間退患過咎」故。二者資具利益方便，如經「具道資糧，作所應作」故。云何攝報果利益勝？

> 論じていう。もろもろの相とは、それぞれの地にあるすべての障りと、それを対治する相によるものである。得とは、出世間の智を証するがゆえである。果とは、因としての証の力によって、世間と出世間の智を得るがゆえである。地を成り立たせるもろもろの法とは、いわゆる信などであり、それらを満足させるためである。五つの方便がある。一は観の方便、二は得の方便、三は増上の方便、四は不退の方便、五は尽至の方便である。観の方便とは、障りと対治の成り立ちと壊れ方に巧みであることである。経に「この菩薩はもろもろの地の障りと対治をよく知るがゆえに、地の成り立ちと壊れ方をよく知るがゆえに、十種の地の障りと対治のゆえに、十地と名づける」とあるとおりである。本分で説かれたとおり、このように次第に集まるゆえに成り、散るゆえに壊れるのである。得の方便とは、入ろうとする方便、すでに入った方便、その勝れた進みの方便である。経に「地の相をよく知るがゆえに、地を得て修めることをよく知るがゆえに、地の清浄分をよく知る」とあるとおりである。増上の方便とは、地ごとに転じ行じ、地ごとに住み、地ごとに増長することに巧みであることである。経に「地ごとに転じ行じることをよく知るがゆえに、地ごとの住処をよく知るがゆえに、地ごとに較量する勝れた智をよく知る」とあるとおりである。不退の方便とは、経に「地を得て不退転となることをよく知る」とあるとおりである。尽至の方便とは、菩薩の地を尽くして如来の地に入ることに巧みであることである。経に「すべての菩薩の地の清浄が転じて如来の智地に入ることをよく知る」とあるとおりである。もろもろの仏子よ、たとえば巧みな導師が多くの人々を連れてかの大城に向かう者は、正しい行を得させるがゆえである。その中で導師とは、二つの方便がある。一は道に迷わない方便であり、道路の中でこれが利益でありこれが退きの患いであること、道路のその場所でこれが勝れでありこれが過ちであることを、すべて巧みに知る。経に「まず道の中の利益のもろもろのことを問い、また道の中の退きの患いと過ちを問い、また道の途中の勝れたことを問い、また道の途中の退きの患いと過ちを問う」とあるとおりである。二は資具の利益の方便であり、経に「道の資糧を具して、なすべきことをなす」とあるとおりである。どのように報果の利益の勝れを摂するのか。

經曰：菩薩摩訶薩住此初地，多作閻浮提王，豪貴自在常護正法，能以大施攝取眾生，善除眾生慳貪嫉妬之垢，常行大捨而無窮盡。所作善業，布施、愛語、利益、同事，是諸福德皆不離念佛、不離念法、不離念僧、不離念諸菩薩、不離念菩薩行、不離念諸波羅蜜、不離念十地、不離念不壞力、不離念無畏、不離念佛不共法，乃至不離念具足一切種一切智智。常生是心：我當於一切眾生中為首為勝、為大為妙為微妙、為上為無上、為導為將、為師為尊，乃至為一切智智依止者。諸佛子！是菩薩摩訶薩若欲捨家勤行精進，於佛法中便能捨家妻子五欲。得出家已勤行精進，於一念間得百三昧、得見百佛、知百佛神力，能動百佛世界、能入百佛世界、能照百佛世界、能教化百佛世界眾生、能住壽百劫、能知過去未來世各百劫事、能善入百法門、能變身為百，於一一身能示百菩薩以為眷屬。

> 経典にこう説かれています。菩薩摩訶薩はこの初地にとどまり、多くは閻浮提の王となり、富貴にして自在であり、常に正法を護り、大きな布施によって衆生を導き、衆生の慳貪と嫉妬の垢をよく除き、常に大きな施しを行なって尽きることがありません。なす善業である布施・愛語・利益・同事は、これらの福德ことごとくが念佛を離れず、念法を離れず、念僧を離れず、諸菩薩を念ずることを離れず、菩薩行を念ずることを離れず、諸波羅蜜を念ずることを離れず、十地を念ずることを離れず、不壊力を念ずることを離れず、無畏を念ずることを離れず、仏の不共法を念ずることを離れず、乃至は具足一切種一切智智を念ずることを離れません。常にこの心を生じます。私は一切衆生の中で首となり勝となり、大となり妙となり微妙となり、上となり無上となり、導となり将となり、師となり尊となり、乃至は一切智智の依止となる者となろう、と。諸仏子よ、この菩薩摩訶薩はもし家を捨てて勤めて精進を行なわんと欲すれば、仏法の中でよく家・妻子・五欲を捨てることができます。出家を得てすでに勤めて精進を行なえば、一念の間に百の三昧を得、百の仏を見、百の仏の神力を知り、百の仏世界を動かし、百の仏世界に入り、百の仏世界を照らし、百の仏世界の衆生を教化し、百劫の寿命にとどまり、過去未来世の各百劫の事を知り、よく百の法門に入り、身を百に変じ、一一の身において百の菩薩を眷属として示すことができます。

論曰：攝報果利益勝者，有二種：一、在家果；二、出家果。在家果復有二種：一者上勝身，閻浮提王等，如經「菩薩摩訶薩住此初地多作閻浮提王，豪貴自在常護正法」故。二者上勝果，善巧調伏慳貪嫉妬等，如經「能以大施攝取眾生，善除眾生慳貪嫉妬垢」等。能以大施攝取眾生者，自行布施善勸他施，攝取眾生善轉眾生慳嫉之垢，方便善巧以四攝法攝取眾生故。不離念佛等者，示現不離念自利益事。如是諸念於事中行已，成大恭敬除諸妄想。此念略有四種：一者上念，念三寶故；二者同法念，念諸菩薩故；三者功德念，念自身他身菩薩行自體轉勝故；四者求義念，念諸力等此是真實究竟故。何者是上念？念佛等，念佛法等故。於施者受者財物及菩提，不生分別不取著故。如是一切所作業中，作者不著、境界不著、作事不著、果報不著，以此一切諸行皆願迴向大菩提故。為首者，有二種：一者勝首，光明功德故；二者大首，獨無二故。勝者，有二種：一者妙智，自在勝故；二者微妙，離一切煩惱自在勝故。大者，有二種：一者上，無與等故；二者無上，無能過故。如是顯示自體功德故。導者，於阿含中分別法義正說故。將者，令他證得義滅諸煩惱故。師者，教授令入正道故。乃至一切智智依止者，以大菩提道教化故。是名在家菩薩攝報果利益勝。復次出家菩薩禪定勝業。勝業有二種：一者三昧勝，所謂於一念間得百三昧，得三昧自在力故。二者三昧所作勝，謂見百佛等。以得是三昧力故，於十方諸佛及佛所加諸菩薩所修習智慧故。能動百佛世界者，令可化眾生生正信故。能入百佛世界、能照百佛世界、能教化百佛世界眾生者，往至及見正化眾生故。能住壽百劫者，攝取勝生故。能知過去未來世各百劫事者，化諸眾生作離惡上首，說善惡業道故。能善入百法門者，為增長自智慧，思惟種種法門義故。能變身為百，於一一身能示百菩薩以為眷屬者，作多利益速疾行故。云何願智果利益勝？

> 論じて曰く、報果を摂める利益の殊勝さには二種ある。一は在家の果、二は出家の果である。 在家の果にもまた二種ある。一は上勝の身、すなわち閻浮提の王などである。経に「菩薩摩訶薩はこの初地に住して、多くは閻浮提の王と作る。豪貴にして自在であり、常に正法を護る」とあるがゆえである。二は上勝の果、すなわち善巧にして慳貪・嫉妬などを調伏することである。経に「よく大施をもって衆生を摂取し、よく衆生の慳貪・嫉妬の垢を除く」とあるがゆえである。 「よく大施をもって衆生を摂取する」とは、自ら布施を行ない、よく他人にも施すよう勧め、衆生を摂取し、よく衆生の慳貪・嫉妬の垢を転じ、方便善巧にして四摂法をもって衆生を摂取するがゆえである。 「念佛などを離れない」とは、自らの利益のための事を念じて離れないことを示す。このように諸々の念が事において行なわれたのち、大きな恭敬を成し遂げ、諸々の妄想を除く。この念には略して四種ある。一は上念、三宝を念ずるがゆえである。二は同法念、諸菩薩を念ずるがゆえである。三は功德念、自身・他身の菩薩行の自体が転じて勝れることを念ずるがゆえである。四は求義念、諸々の力などを念ずる。これこそ真実究竟であるがゆえである。 何が上念か。念佛などであり、仏法などを念ずるがゆえである。施す者・受ける者・財物および菩提に対して、分別を生ぜず、執着しないがゆえである。このように一切の所作の業において、作者に執着せず、境界に執着せず、作す事に執着せず、果報に執着せず、この一切の諸行をことごとく大菩提へと願を迴向するがゆえである。 「首」とは二種ある。一は勝首、光明の功德のゆえである。二は大首、ただ独りで二つとないがゆえである。「勝」とは二種ある。一は妙智、自在なることが勝れているがゆえである。二は微妙、一切の煩惱を離れ自在なることが勝れているがゆえである。「大」とは二種ある。一は上、等しいものがないがゆえである。二は無上、過ぎるものがないがゆえである。このように自體の功德を示すがゆえである。 「導」とは、阿含において法の義を分別し正しく説くがゆえである。「將」とは、他に義を證得させ、諸々の煩惱を滅するがゆえである。「師」とは、教授して正道に入らしめるがゆえである。「乃至一切智智の依止」とは、大菩提の道をもって教化するがゆえである。これを在家菩薩の報果を摂める利益の殊勝さと名づける。 次に出家菩薩の禅定の勝れた業について。勝れた業には二種ある。一は三昧の勝れ、いわゆる一念の間に百の三昧を得、三昧の自在力を受けるがゆえである。二は三昧の所作の勝れ、いわゆる百の仏を見るなどである。この三昧の力を受けるがゆえに、十方の諸仏および仏の加わった諸菩薩の所で智慧を修習するがゆえである。 「百の仏世界を動かすことができる」とは、教化されるべき衆生に正しい信を生ぜしめるがゆえである。「百の仏世界に入ることができ、百の仏世界を照らし、百の仏世界の衆生を教化できる」とは、そこに往き至りて見、正しく衆生を教化するがゆえである。「百劫の壽に住することができる」とは、勝れた生を摂取するがゆえである。「過去・未來の世のそれぞれ百劫の事を知ることができる」とは、諸々の衆生を教化して悪を離れる上首とし、善悪の業道を説くがゆえである。「よく百の法門に入ることができる」とは、自らの智慧を増長するため、種々の法門の義を思惟するがゆえである。「身を百に変じ、その一一の身において百の菩薩を眷属として示すことができる」とは、多くの利益を作し、速やかに行ずるがゆえである。 いかにか、願智の果の利益の殊勝さとは。

經曰：若以願力自在勝上，菩薩願力示現過於此數，示種種神通，或身、或光明、或神通、或眼、或境界、或音聲、或行、或莊嚴、或加、或信、或業，是諸神通乃至無量百千萬億那由他劫不可數知。

> 経典に曰く、もし願力によって自在に優れているならば、菩薩の願力の示現はこの数を超え、さまざまな神通を現す。あるいは身、あるいは光明、あるいは神通、あるいは眼、あるいは境界、あるいは音声、あるいは行、あるいは荘厳、あるいは加、あるいは信、あるいは業、これら諸々の神通は、無量百千万億那由他劫に至るまで数えることも知ることもできない。

論曰：於中身者，是一切菩薩行根本所依故。依彼身故有光明及神通，依光明有天眼，以有天眼見前境界。一切眼有五種應知。依神通有音聲及行莊嚴加等。音聲者，應彼言說故。行者，遍至十方故。莊嚴者，作種種應現故。加者，神力加彼故。信者，依三昧門現神通力，隨眾生信利益成就故。業者，依慧眼所攝陀羅尼門現說法故。略說一切諸地各有因體果相應知。

> 論の言葉です。この中で「身」とは、すべての菩薩の修行の根本となるよりどころです。その身に基づいて光明と神通が現れ、光明に基づいて天眼が現れ、天眼によって目の前の対象を見ることができます。すべての眼には五種類あると知るべきです。神通に基づいて音声やはたらき、荘厳、加護などが現れます。音声とは、相手の言葉に応じて説くことです。はたらきとは、十方すべてに広がることです。荘厳とは、さまざまな姿を現すことです。加護とは、その神力によって相手を支えることです。信とは、三昧の門に基づいて神通力を現し、衆生の信に応じて利益を成就することです。業とは、慧眼に含まれる陀羅尼門に基づいて説法を現すことです。簡潔に言えば、すべての各地にはそれぞれ因と体と果が対応していると知るべきです。

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