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title: "梵網經古迹記 · 十重戒"
description: "《梵網經古迹記》由新羅高僧太賢所集，是對《梵網經》的重要註釋著作。太賢活躍於7世紀，屬新羅佛教鼎盛時期，其學說融合唯識與戒律思想。該書系統闡釋《梵網經》的菩薩戒體系，重點解析十重四十八輕戒條，並結合大乘教義探討戒律精神。作為東亞佛教戒律學核心文獻，它不僅影響朝鮮半島佛教發展，更成為漢傳佛教菩薩戒傳承的理論基石，對研究佛教戒律史與中韓佛教交流具有重要價值。"
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## 梵網經古迹記卷下本

> 梵網経 古跡記 巻下 <note>本</note>

青丘太賢集

> 青丘太賢集

梵網經盧舍那佛說菩薩心地法門品第十

> 【梵網経 盧舎那仏が説く菩薩の境地の教え 第十】

後秦三藏法師鳩摩羅什譯

> 姚秦の三蔵法師 鳩摩羅什 訳

經：「爾時盧舍那佛」至「自性清淨」已下十一頌半。

> 爾の時、盧舎那仏より「自性清浄」に至るまでの、以下十一頌半。

第二、勸信。信為入法之本，戒為住法之原，所以說偈更令信戒。然菩薩戒略有三門：一、受得門，二、護持門，三、犯失門。

> 第二に、信を勧めます。信は仏法に入るための根本であり、戒は仏法に安住するための基盤です。そのため、偈を説いてさらに信と戒を促すのです。さて、菩薩戒には大きく分けて三つの門があります。一つ目は「受得門」（戒を受け持つこと）、二つ目は「護持門」（戒を守り保つこと）、三つ目は「犯失門」（戒を破って失うこと）です。

初受得者，六道眾生但解師語，要須先發大菩提心，謂誓定取無上菩提，窮未來際利樂有情。如《瑜伽》云：菩提心者，「決定希求以為行相」故。無上菩提，「一切有情義利為境」。發此心已，有二種受：一者一分受。隨其受者意樂所堪，或受一戒、或多，皆得成戒，名為菩薩，不同聲聞必總受持，若其一分不名比丘。謂令現身得阿羅漢，圓滿軌則，建立學處，十戒、具戒各必總受，若凡、若聖受學一軌。即由此義簡擇人器，除有遮難及餘趣也。菩薩不爾，隨分戒故，謂凡必無現身成佛，要經無數大劫修故。從但解語乃至金剛，隨其位力漸漸修滿，如成山海塵渧為初。既大菩提無德不攝，欲成彼聚何善非因？即由此義不擇趣生，但解師語發心皆得。雖但解語唯受一戒，猶勝二乘一切功德。羅漢功德但為自身，於有情界無有恩分；菩薩一戒為度一切，無一眾生不荷恩故。二者全分受，謂三聚戒。攝律儀者斷一切惡，惡謂一切應斷捨法，從初發心斷殺生等三賢十聖伏斷二障，乃至佛捨生死法故。攝善戒者修一切善，善謂一切應修證法，從初發心隨分所學三賢十聖各十勝行，乃至佛證二轉依故。饒益有情者度一切眾生，從初發心隨分教化，窮未來際度一切故。非諸凡夫即能一切，三聚頓誓漸修滿故。如是無礙所發願行，於諸願行最無上故。隨所生處，心其中王，然無畢竟堪為其果，唯除無上正等菩提。

> 初めて戒を受けようとする者は、六道の衆生であっても、師の言葉が理解できる者でなければならない。まず大菩提心を発すべきであり、それは「必ず無上の菩提を証得しようと決意し、未来際の終わりまで一切の有情を利益し楽しませる」という誓いである。『瑜伽論』に説くように、菩提心とは「決定して希求することを行相とする」からである。無上菩提は「一切有情の義利を境とする」。この心を発した後に、二種の受戒がある。 一つは一分受である。受ける者の意楽に応じて堪えられるだけ、一戒のみを受けるか、あるいは多くを受けるか、いずれも戒として成就し、菩薩と名づけられる。これは声聞と異なり、声聞は必ず全てを受け持たねばならず、もし一部分だけでは比丘と名乗れない。なぜなら、現身において阿羅漢を得るためには、円満な軌則を確立し、学処を建て、十戒と具足戒を各々必ず総持しなければならず、凡夫であれ聖者であれ、同じ軌則を学ぶからである。この意味によって人器を選別し、遮難や他の趣を除くのである。 菩薩はそうではない。戒は分に随うからである。すなわち、凡夫が現身で成仏することは絶対になく、無数の大劫を経て修行しなければならない。ただ、師の言葉を解する者から金剛心に至るまで、その位の力に随って徐々に修習し、満たされるのである。ちょうど、山海を成すのも一粒の塵や一滴の水が最初であるように。大菩提は功徳の全てを収めざるを得ないので、その集まりを成就しようと思うなら、いかなる善行が因とならないことがあろうか。この意味によって、生まれる趣を選ばず、ただ師の言葉を解し、心を発すれば皆、戒を得られるのである。 師の言葉を解するのみで、たとえ一戒だけを受けても、それでも二乗の一切の功徳に勝る。阿羅漢の功徳はただ自己のためであり、有情の世界に対して恩恵の分け前がない。しかし菩薩の一戒は一切を度すためのものであり、一衆生としてその恩恵を被らない者はいないからである。 二つ目は全分受であり、すなわち三聚戒である。摂律儀戒は一切の悪を断つことであり、悪とは一切の断ち捨てるべき法をいう。初発心から殺生などを断じ、三賢十聖は煩悩障と所知障を伏し断じ、ついには佛が生死の法を捨てるに至るまでである。 摂善戒は一切の善を修することであり、善とは一切の修し証すべき法をいう。初発心から分に随って学ぶところ、三賢十聖は各々十の勝行を有し、ついには佛が二転依を証するに至るまでである。 饒益有情戒は一切の衆生を度すことであり、初発心から分に随って教化し、未来際の終わりまで一切を度し尽くすのである。凡夫が直ちに一切を成し遂げられるわけではないが、三聚を一時に誓い、徐々に修して満たすのである。 このように無礙に発した願行は、諸々の願行の中で最も優れている。生まれるところに随って、心の中の王である。しかし、畢竟してそれに堪える果はなく、ただ無上正等菩提を除いては、その果となり得るものはない。

第二、護持者，略有十門：一、隨心門，隨其宿習心樂住故，猶如世間隨其本色，雖一薀水，緣碧等異，故先固一，漸具餘行。如《本業》云：若受一戒，名一分菩薩，乃至具受，名具分菩薩故。然佛所制，應漸遍學。由此第二有遍學門，如《瑜伽》說：聲聞自利尚護他心，況諸菩薩利他為先。故應遍護諸譏嫌戒。然《智論》云：「新行菩薩不能一世一時遍行五度」，如護三衣不能施等。由此第三有隨性門，相違學處現在前時，唯護性戒，縱遮戒故，如《攝大乘》，菩薩性罪不現行故，與聲聞共；相似遮罪有現行故，與彼不共。然《瑜伽》云：若有勝利，性罪現行。由此第四有隱密門，如《攝大乘》行十惡故。就中《瑜伽》但開七非，然其第三但非性罪，於無屬女許欲行故。《攝大乘論》通開邪行，以言十惡見利行故，如殺生等隨一攝故。然《莊嚴》云：「由利群生意，起貪不得罪，瞋則與彼違，恒欲損他故。」由此第五有順勝門，愛順大悲故罪為劣，瞋彼相違罪為重故。如《瑜伽》云：「是諸菩薩多分應與瞋所起犯，非貪所起」，乃至廣說。又《智論》云：菩薩不惱眾生為戒，不同聲聞求現涅槃。婬欲雖不惱眾生，繫縛心故立為大罪。菩薩不求現世涅槃，往返生死具資糧故。然《瑜伽》云：若欲斷彼生起意樂發勤精進，煩惱熾盛蔽抑其心起瞋蓋等，無所違犯。由此第六有意樂門，由意樂力惡無犯故。如《十住論》：慳心不解不能施時，謝今未熟後當施故。然經亦說：護戒之心如惜浮囊及草繫者。由此第七有怖畏門，見微遮罪如性罪故。然《涅槃》云：「於乘緩者乃名為緩，於戒緩者不名為緩。」由此第八有成勝門，作善有勝且放止故。然《莊嚴》云：「雖恒處地獄，不障大菩提，若起自利心，是大菩提障。」由此第九有護障門，雖有作善護小乘故。如《大般若》云：若菩薩設殑伽沙劫受妙五欲，於菩薩戒猶不名犯，若起一念二乘之心即名為犯。解云：雖貪所污大心不盡，無無餘犯，故名無犯。然《文殊問經》云：若以心分別男女非男女相，是菩薩波羅夷罪。由此第十有究竟門，若取法相非究竟故。如《大般若》：「應以不護圓滿淨戒波羅蜜多，犯無犯相不可得故。」

> 第二に、戒律を護持することについて、おおまかに十の観点がある。 一、心に従う門：過去の習慣や心の好みに従って安住する。例えば世間で、水そのものは無色でも、周りの碧色などに映って色が変わるように、まず一つの戒を固く守り、徐々に他の行を備えていく。『本業経』に「一つの戒を受ければ一分の菩薩と名づけ、全てを受ければ具分の菩薩と名づく」とある。しかし仏が制定した戒は、次第に広く学ぶべきである。これにより第二に遍学の門がある。『瑜伽論』に「声聞は自利のためにも他者の心を護る。まして菩薩は利他を優先する。ゆえに譏嫌の戒を広く護るべきである」とある。しかし『智度論』に「新しく修行を始めた菩薩は、一世のうちに一度に五度を全て行うことはできない。三衣を護るように布施などはできない」とある。これにより第三に随性の門がある。相違する学処が現前した時は、性戒のみを護り、遮戒は許容する。『摂大乗論』に「菩薩は性罪を現行させない点で声聞と共通するが、似て非なる遮罪は現行させる点で共通しない」とある。しかし『瑜伽論』に「もし利益があれば、性罪も現行してよい」とある。これにより第四に隠密の門がある。『摂大乗論』に十悪を行じるとあるが、『瑜伽論』は七つの非（罪）のみを許す。ただしその第三の非は性罪ではなく、無所属の女に対して欲を行うことを許す。『摂大乗論』は邪行を全面的に許し、十悪に利益を見て行うと説く。例えば殺生などはその一例である。しかし『荘厳論』に「衆生を利益しようとする心から貪欲が起きても罪にはならない。しかし瞋りはそれと反対に、常に他者を損なおうとするので罪となる」とある。これにより第五に勝に順ずる門がある。愛は大悲に順ずるので罪は軽く、瞋りはそれに反するので罪は重い。『瑜伽論』に「これらの菩薩は、多くは瞋りに起因する犯戒を与えるべきであり、貪りに起因する犯戒ではない」とあり、さらに詳しく説かれている。また『智度論』に「菩薩は衆生を悩ませないことを戒とする。声聞のように現世の涅槃を求めるのとは異なる。婬欲は衆生を悩ませないけれども、心を縛るゆえに大罪とされる。菩薩は現世の涅槃を求めず、生死を往来して資糧を具える」とある。しかし『瑜伽論』に「もしそれを断とうと意楽を起こし、精進を発しても、煩悩が盛んで心を覆い隠し、瞋りの覆いなどが生じたとしても、違犯にはならない」とある。これにより第六に意楽の門がある。意楽の力によって、悪も犯さないことになる。『十住論』に「慳吝の心が解けず、布施できない時は、『今は未だ熟していない。後日布施しよう』と謝る」とある。しかし経典にも「戒を護る心は、浮き袋や草の結び目を惜しむように」と説かれている。これにより第七に怖畏の門がある。微細な遮罪をも性罪のように見なす。しかし『涅槃経』に「乗（大乗）を緩くする者こそ緩いと名づけられ、戒を緩くする者は緩いと名づけられない」とある。これにより第八に勝を成す門がある。善を行うことに優れており、止戒を緩めることもある。しかし『荘厳論』に「たとえ常に地獄にいても、大菩提を妨げることはない。しかし自利の心を起こせば、これが大菩提の障りとなる」とある。これにより第九に障を護る門がある。善を行っても、小乗を護るゆえに障りとなる。『大般若経』に「もし菩薩がガンジス川の砂の数ほどの劫もの間、妙なる五欲を享受しても、菩薩戒を犯したとは言わない。しかし一たび二乗の心を起こせば、これを犯すと名づける」とある。解釈：貪欲に染まっても大乗の心が尽きなければ、完全な犯にはならないので、無犯と名づける。しかし『文殊問経』に「もし心で男女・非男女の相を分別すれば、これが菩薩の波羅夷罪である」とある。これにより第十に究竟の門がある。法の相を取れば究竟ではないからである。『大般若経』に「護らないことによって、浄戒波羅蜜多を円満にすべきである。犯と無犯の相は得ることができないからである」とある。

第三、犯失者，謂菩薩戒無無餘犯，如有一分受、有一分持故。不同聲聞犯一重時，便破一切、失比丘性。如《本業經》：「一切菩薩凡聖戒盡心為體，是故心盡戒亦盡，心無盡故戒亦無盡。」心謂期心。若不放捨無盡戒願，無有盡犯無邊戒故。由此轉生戒亦恒隨，運運增長乃至成佛。猶如河水日夜不停，運運遷流自到大海。唯除故捨大菩提心，彼既心盡戒亦盡故。然犯重戒略有二種：一破、二污。若以上品煩惱纏犯，隨所犯支失戒律儀。若中下纏，唯污不失。如《瑜伽》云：「若諸菩薩毀犯四種他勝處法，數數現行都無慚愧，深生愛樂見是功德，當知說名上品纏犯。非諸菩薩暫一現行他勝處法，便捨菩薩淨戒律儀」，不同聲聞一犯即捨。又上纏犯雖失淨戒，經說即懺亦得重受，不同聲聞如斬頭者，現身不能復入僧數。廣引教理，如宗要釋。

> 第三に、戒を犯すことについて。菩薩戒には「無余の犯」というものがありません。それは、たとえば戒の一部を受け、一部を保つことができるからです。声聞のように一つの重罪を犯せば、すべてを破り比丘の資格を失うのとは異なります。 『本業経』に説かれています。「すべての菩薩の凡夫・聖者の戒は、心を体（たい）とする。ゆえに心が尽きれば戒も尽きるが、心は尽きることがないゆえに戒もまた尽きることがない」と。ここでいう「心」とは、誓いの心を指します。もし無尽の戒の誓願を捨てなければ、際限なく戒を犯すことは決してありません。このため、来世に転生しても戒は常に伴い、刻々と増長し、ついには成仏に至ります。まるで川の水が昼夜とどまることなく流れ続け、自然と大海に至るようなものです。ただ、大菩提心を故意に捨てた場合だけは、その心が尽きるゆえに戒もまた尽きます。 しかし、重戒を犯すことには、大きく分けて二種類あります。一つは「破」（戒体を完全に失うこと）、もう一つは「汚」（戒体を汚すこと）です。もし上品の煩悩にまみれて犯せば、犯した支分に応じて戒律儀を失います。中品・下品の煩悩であれば、ただ汚すだけで戒体を失うことはありません。 『瑜伽師地論』にこうあります。「もし諸々の菩薩が、四種の他勝処法を毀犯しても、それを繰り返し行い、まったく慚愧の心がなく、深く愛著し、それを功徳と見なすならば、これを上品の煩悩による犯と知るべきである。しかし菩薩は、一時的に他勝処法を現行したからといって、すぐに菩薩の浄戒律儀を捨てるわけではない。」これは、声聞が一度犯せば即座に戒体を失うのとは異なります。 また、上品の煩悩による犯で浄戒を失ったとしても、経典には、すぐに懺悔すれば再び受戒できると説かれています。これは、首を切られた者が現世で再び僧伽の一員となることができない声聞とは異なります。詳しい教証や論理は、宗要の解説に委ねます。

且止傍論，釋頌二門，謂初六頌傳誦本師門，釋迦傳誦本師序故；後五頌半末主顯揚門，釋迦自演戒宗要故。初亦有二種：初五頌顯主尊勝門，後之一頌讚戒功能門。初亦有二：初二頌半現身本末門，後二頌半說法本末門。

> さて、余談はここまでとして、この偈頌（げ）を二つの部門に分けて解釈します。 まず、最初の六つの偈頌は、根本的な師である仏陀（釈迦）について語る「伝誦本師門」です。これは釈迦自身が、自らの師であることを示す序文だからです。 後の五つ半の偈頌は、末代の主（修行者）が教えを明らかにする「末主顕揚門」です。これは釈迦が自ら戒律の重要な教えを説かれたからです。 最初の部門もさらに二つに分けられます。最初の五つの偈頌は、「主の尊さを顕す門」であり、後の一つの偈頌は「戒の功徳を讃える門」です。 最初の部門もまた二つに分けられます。最初の二つ半の偈頌は「現在の姿とその根本を示す門」であり、後の二つ半の偈頌は「説法の根本とその展開を示す門」です。

經：「我今盧舍那，方坐蓮華臺。」

> 経典にはこうあります。「今、私は盧舎那仏として、蓮華の台座に坐しています。」

述曰：現身本末門略有四重。此初他受用身。傳說此身應第二地戒波羅蜜，此經宗故，非自受用。《華嚴》等說彼無邊故。方者正也。千葉臺總成二地菩薩淨土，此中臺上是身所居，千葉即是所化部落。如《仁王》云：信忍菩薩百佛千佛萬佛國中，化現百身千身萬身。《十地經》云：二地菩薩入千世界見千佛故，於此臺上別有佛座。此千葉臺，有說是座，非也。上卷別說盧舍那佛坐百萬蓮華赫赫光明座上故。既說我住蓮華藏世界海，其臺周匝有千葉，一葉一世界，我化為千釋迦，復有百億須彌，明知是土。有難：彼土豈狹彌陀圓光？經說彼佛圓光如百億三千大千世界故。此難不然，佛光不定，釋迦亦照無量剎故。或既言如，但比廣大，未必量同，如眼喻海，故知百萬蓮華為座。何故諸佛蓮華為座？表佛雖在世，如不著水故。

> 述ぶに、現身本末の門は略して四重あり。此れは初めの他受用身なり。伝えに云く、此の身は第二地の戒波羅蜜に応ず。此の経の宗故に、自受用に非ず。『華厳』等に説く、彼は無辺なる故なり。方とは正しきなり。千葉の台は総じて二地菩薩の浄土を成ず。此の中、台上は身の居所なり。千葉は即ち所化の部落なり。『仁王経』に云く、信忍の菩薩は、百仏・千仏・万仏の国の中に於いて、百身・千身・万身を化現す。『十地経』に云く、二地の菩薩は千世界に入り、千仏を見るが故に、此の台上に別に仏座有り。此の千葉の台、或いは座なりと説くも、是れ非なり。上巻に別して盧舎那仏は、百万の蓮華赫赫光明の座上に坐すと説く故に。既に我は蓮華蔵世界海に住すと説き、其の台の周匝に千葉有り、一葉一世界にして、我は化して千の釈迦と為す。復た百億の須弥有り、明らかに是れ土なり。或いは難じて云く、彼の土豈に狭きこと弥陀の円光の如きか？ 経に説く、彼の仏の円光は、百億の三千大千世界の如しと。此の難は然らず。仏の光は不定なり。釈迦も亦た無量の刹を照らすが故に。或いは既に如と云うは、但だ広大を比するのみにして、必ずしも量、同じからず。眼を以て海に喩うるが如し。故に知る、百万の蓮華は座と為す。何の故に諸仏は蓮華を座と為すか？ 仏は世に在りと雖も、水に著らざるが如くなるを表す故なり。

經：「周匝千華上，復現千釋迦。」

> 経典にはこうあります。「周囲の千の花の上に、また千の釈迦が現れた。」

述曰：第二、淨土化身，傳說此身應地前機。有說唯四善根方生淨土，理未必然，淨土經說餘亦生故。淨穢同處隨業異見，猶如四識等事心異，如說鶖子所見山河，螺髻梵王反寶土故。

> 解説します。第二に、浄土に現れる化身についてです。伝えられるところによれば、この身は凡夫の段階にある者に応じて現れるとされています。ある説では、四つの善根を修めた者だけが浄土に生まれることができると主張しますが、道理から言って必ずしもそうとは限りません。なぜなら、浄土の経典には、それ以外の者も生まれることができると説かれているからです。清らかな土と穢れた土は同じ場所でありながら、各々の業に従って異なって見えます。これはまるで、四人の者それぞれの心によって事柄が異なって見えるのと同じです。例えば、舎利弗が見た山河と、螺髻梵王が見た宝玉の土は異なっていたという話があるとおりです。

經：「一華百億國，一國一釋迦。」

> 経典にこう説かれています。「一つの花の中に百億の国があり、それぞれの国に一柱の釈尊がおられる。」

述曰：第三、穢土化身。言「一國」者，一須彌界，以世界別南洲現故。《瑜伽論》云：一大千有百俱胝界。《雜集》云：一俱胝量當於百億。何故此中唯言百億？億有多種，《瑜伽》且依十萬為億。此經千萬，故不相違。此依麁相，且說一類。須彌世界據實，樹形、人形、倒及側等各隨其類，遍滿諸方異類無礙，如因陀羅網重重無盡，出過思議之表。然皆攝在蓮華臺藏世界海中，並盧舍那轉法輪處。

> 述べます。第三に、穢土における化身についてです。「一國」と言うのは、一つの須弥界を指します。世界が異なるため、南閻浮提に現れるからです。『瑜伽論』には、「一つの大千世界には百俱胝の世界がある」とあります。『雑集』には、「一俱胝は百億に相当する」とあります。では、なぜここではただ「百億」と言うのでしょうか？「億」には多くの種類があり、『瑜伽論』ではとりあえず十萬を一億としています。この経典では千萬を一億とするので、矛盾しません。これは大まかな相に基づいて、一つの種類について述べたものです。須弥世界を実体として見ると、樹形、人形、倒形、側形など、それぞれの種類に従って、様々な方に遍く満ち、異なる種類でも障害なく、因陀羅網のように重なり合って尽きることがなく、思議の域を超えています。しかし、これらはすべて蓮華台蔵世界海の中に収められ、皆、盧舎那仏が法輪を転じる場所なのです。

經：「各坐菩提樹」至「盧舍那本身」。

> 経文： 「各おの菩提樹の下に坐す」より「盧舎那仏そのもの」に至るまで。

述曰：第四、舉淨穢土機根頓熟，一時重化攝末歸本。如上卷云：千華上佛是吾化身。千百億釋迦是千釋迦化身故。

> では、第四に、清らかな土と汚れた土の衆生の機根が一度に成熟し、再び教化して末から本に帰することを示します。前述の通り、『千華上の仏は我が化身である。千百億の釈迦は千の釈迦の化身である』と説かれています。

經：「千百億釋迦」至「十重四十八」。

> 経典に説かれる「千百億の釈迦」から「十重の戒と四十八の軽戒」に至るまで。

述曰：第二、說法本末。盧舍那身雖非凡境，加力見聞接眾而至，既貫三際之則，非隨時宜所制，故說「我誦」不言說也。味中之上名為「甘露」，故喻樂中最極涅槃。戒則出苦證樂之門，故言聽誦甘露門開也。或說戒經名之為門，所詮之戒名為甘露。教能開理出三界門，對機而顯是為開也。凡心易竭勝影難留，故歸本處誦本師戒。此中「本師」謂即本身，或可戒法名為本師，佛所師故。

> 述べよう。第二に、説法の本末について。盧舎那仏の身は、凡夫の境界ではないが、仏の加力によって見聞し、衆生を導いて集まらせるものである。それは三際（過去・現在・未来）の理法に貫かれており、時宜に合わせて作られたものではない。ゆえに「我、誦す」と言って、説くとは言わないのである。味わいの中でも最上のものを「甘露」と名づける。ゆえに、最も楽しいものとして涅槃にたとえられるのである。戒は苦しみを出でて楽を証する門である。ゆえに「甘露の門が開かれた」と聞き誦すと言うのである。あるいは、戒経を説くことを門と名づけ、示される戒を甘露と名づける。教えは理を開き、三界を出る門である。機に応じて顕れること、これを開くと説くのである。凡夫の心は尽きやすく、勝れた影は留まりがたい。ゆえに本処に帰って本師の戒を誦すのである。ここで「本師」とは、すなわち仏そのものを指す。あるいは、戒法を本師と名づけることもある。仏が師とするところだからである。

經：「戒如明日月」至「由是成正覺」。

> 経典にこう説かれている。「戒は明るき日月の如し」から「これによって正覚を成ずるに至る」まで。

述曰：此即第二讚戒威力門也。戒破罪闇猶如日月，莊嚴行者如瓔珞珠。如《遺教》云：慚愧之衣於諸莊嚴最為第一。或說性戒明如日月，遮戒莊嚴如瓔珞珠，破性罪闇嚴性戒故。萬行之始以戒為本，萬行之終菩提為果，是故三際皆由戒成，佛三聚如應成三德故。如《瑜伽》云：如是所集福智資糧，更無餘果可共相攝，唯除無上正等菩提。

> 述べよう。これは第二に戒の威力を讃える門である。戒は罪の闇を破ること、日月の如くであり、行者の荘厳となること、瓔珞や宝珠の如くである。『遺教経』に曰く、「慚愧の衣は、諸々の荘厳の中にて最も第一なり」と。あるいは説く、性戒は明らかにして日月の如く、遮戒の荘厳は瓔珞や宝珠の如く、性の罪の闇を破り、性戒を荘厳するものなりと。万行の始まりは戒を本とし、万行の終わりは菩提を果とす。故に三際（過去・現在・未来）も全て戒によって成り、仏の三聚浄戒も、応じて三徳を成すのである。『瑜伽論』に曰く、「かくの如く集めたる福智の資糧は、更に他の果として相摂すべきもの無く、ただ無上の正等菩提を除くのみ」と。

經：「是盧舍那誦」至「轉授諸眾生」。

> 経文：「この毘盧遮那仏が唱え…」から「…衆生に転じて授ける」まで。

述曰：自下末主顯揚門。此有四門：一、展轉開化門，二、所成戒相門，三、能受有情門，四、開許廣說門。此即初也。謂上六頌本師誦出，如我傳誦汝亦應爾，戒手相接佛種即不斷也。

> 以下より、最後の主人が顕揚する門である。これには四つの門がある。第一に展転開化の門、第二に所成戒相の門、第三に能受有情の門、第四に開許広説の門である。これが最初の門である。すなわち、上の六つの偈を本師が誦して示した。「私が伝え誦するように、あなたもまたそうすべきである。戒の手を次々と受け継ぐことで、仏の種は絶えることがない」ということである。

經：「諦聽我正誦」至「戒品已具足」。

> 経典にこうあります。「よく聞け、私は正しく誦する」から「戒の品はすでに具わり完了した」まで。

述曰：第二門也。世尊所制一切禁戒，上乘下乘皆從此出，故言「佛法中戒藏」也。簡定、道戒，故言「波羅提木叉」。梵云「波羅提」，此云「別」也。若具，應言「毘木叉」，此云「別解脫」。別出非故，名「別解脫」。又《遺教》云：戒是順解脫之本，故名波羅提木叉。若受菩薩戒，謂由此戒我當成佛，猶如釋迦。由戒已成，便不起餘不同分心，爾時名為戒品具足。善思分限，名為戒故。如《本業》云：「一切菩薩凡聖戒，盡心為體。其心若盡，戒亦盡。心無盡故，戒亦無盡。」此中心者，大乘心也，非諸退乘及未發心之所能得。

> 述べます。第二の門です。世尊が制定された一切の禁戒は、上乗も下乗もすべてこれより出でる。ゆえに「仏法中、戒蔵なり」というのです。定戒・道戒と区別するために、「波羅提木叉」と言います。梵語で「波羅提」は、これを「別」と訳します。完全に言うならば「毘木叉」と言うべきで、これは「別解脱」と訳します。「別に非を出づ」の意で、「別解脱」と名づけます。また『遺教経』には、「戒は順解脱の本なり」とあり、ゆえに波羅提木叉と言います。もし菩薩戒を受けるならば、この戒によって我は成仏すべきこと、ちょうど釈迦の如くであると観じます。戒によってすでに成就すれば、他の不同分の心を起こさず、その時を戒品具足と名づけます。よく分限を思量することを戒と名づけるのです。『本業経』に曰く、「一切の菩薩の凡聖の戒は、尽く心を体と為す。その心もし尽くれば、戒もまた尽く。心に尽きること無きが故に、戒もまた尽きること無し」と。この心とは、大乗の心であり、諸の退乗および未発心の者の得るところにあらず。

經：「一切有心者」至「真是諸佛子」。

> 経典に曰く、「一切の心ある者」から「まことに諸仏の子なり」に至るまで。

述曰：第三門也。「應」者，容也。有障無性，不成戒故。此戒最勝，何易聲聞？誰言易得？難發心故。無上菩提無德不攝，發心所修無善不因，故有心者得發大心，所有願行皆成因性。「即入諸佛位」者，佛位有二：一、發心滿位，二、行果滿位。今入初故，初發之願無不周圓，與佛無異，言「同大覺」。如契經云：發心、畢竟二無別故。已得此位，真是佛子，從佛法生，紹佛位故。頌曰：「方便父信種，般若母禪胎，慈悲為養母，佛子紹位生。」廣說此義，如《攝大乘》。

> 述べます。これが第三の門です。「応（まさ）に」とは、ふさわしいという意味です。障りがあり、仏性がないと、戒めは成り立ちません。この戒めは最も優れているのに、どうして声聞（しょうもん）に簡単なのでしょう？誰が簡単に得られると言ったのでしょう？発心は難しいからです。無上の菩提は、徳として含まないものはなく、発心して修めるものは、善として因とならないものはありません。ゆえに心ある者は発心して大いなる心を得ることができ、すべての願いや行いは、皆、因の性質となります。 「即ち諸仏の位に入る」とは、仏の位には二つあります。一つは発心が満ち足りた位、二つは行いと果報が満ち足りた位です。今は初めの位に入るのです。初めに発する願いは、すべてに欠けるところがなく、仏と異なることはありません。それを「大覚と同じ」と言います。経典に「発心と畢竟（ひっきょう）は、二つとして別ではない」とあります。すでにこの位を得た者は、まことに仏の子であり、仏の教えから生まれ、仏の位を継ぐのです。 偈に言います。「方便は父、信は種子、般若は母、禅定は胎、慈悲は養いの母、仏の子は位を継いで生まれる」。この意味を広く述べることは、『摂大乗論』の通りです。

經：「大眾皆恭敬，至心聽我誦。」

> 経典に曰く：「大衆は皆、敬い恭しく、心を込めて私の誦するのを聞け。」

其第四門，如文可解。

> 第四の門については、そのままお読みいただければお分かりいただけます。

經：「爾時釋迦牟尼佛」至「一切佛大乘戒」。

> この時、釈迦牟尼仏はあらゆる諸仏の大乗の戒について説かれた。

述曰：自下第三結戒序中有二：初經家序，後世尊序。此即初也。言「爾時」者，從天宮來應現時也。「釋迦」此云能，「牟尼」即寂也。「菩提樹」者，在摩伽陀國，於此樹下有金剛臺，此下證覺名菩提樹。何故初頓結者？三乘萬行從此生故，三際決定不待犯故，不同聲聞隨時漸制。如《文殊問經》及《涅槃經》云：先預制戒世間生疑，故如補衣隨破隨補。今菩薩戒則不如是，故初成佛初結此戒。依《十地論》，成道初七日自受法樂，第二七日方起言說。今云初結，應第二七。「孝」謂養育，「順」即恭敬，知恩報恩即是孝道。恩有二種：一、滋長生身恩，謂即父母；二、長養法身恩，即師僧等。以財法二如應敬養此中師僧三寶至道，如次助伴所依所緣，所以別舉孝名。「戒亦名制止」者，孝為百行之本先王要道，戒為萬善之基諸佛本原，善從此生孝名為戒，惡從此滅亦名制止，所以孝、戒名異義同。言「即口放」等者，放光招眾，放無量光而招有緣，表無礙門照導長夜。言「大戒」者，大乘戒也，是以此中無聲聞眾。

> このように述べられています。以下は第三の「戒の序」において、二つの部分があるという説明です。まず最初に「経家の序」、その後に「世尊の序」があります。ここで述べられているのは、その最初の部分です。「爾時」とは、天宮から来て応現した時を指します。「釈迦」とは「能」（できる）という意味で、「牟尼」は「寂」（静けさ）を意味します。「菩提樹」とは、摩伽陀国にあり、この木の下には金剛台があります。この下で覚りを証したことから、菩提樹と呼ばれます。なぜ最初に戒がまとめて定められたのでしょうか。それは、三乗（声聞・縁覚・菩薩）のあらゆる修行がここから生じるからです。また、三世を通じて決定しており、犯すのを待つ必要がありません。声聞のように時機に応じて徐々に制するところが異なります。『文殊問経』や『涅槃経』にあるように、もし戒を事前に定めれば世間の人々は疑いを生じるため、それは衣の破れを繕うように、破れるにしたがって繕うようなものです。しかし、菩薩戒はこれとは異なります。そのため、成仏した最初にこの戒を定めたのです。『十地論』によれば、成道後最初の七日間は自ら法の楽しみを受け、第二の七日になって初めて言葉を発したとされます。ここで「初めに結ぶ」と言うのは、第二の七日を指すべきでしょう。「孝」とは養育することで、「順」とは敬い従うことです。恩を知り恩に報いることが、孝の道です。恩には二種類あります。一つは、生身の身体を育てる恩で、これは父母を指します。もう一つは、法身を長養する恩で、これは師僧などを指します。財と法の二つをもって、応じて敬い養うべきです。このうち、師僧・三宝は至道に至るための、順に助伴・所依・所縁となるものです。そのため、特に「孝」という名を挙げています。「戒はまた『制止』とも名づけられる」とは、孝がすべての行いの根本であり、先王の要道であるのと同様に、戒はあらゆる善の基礎であり、諸仏の本源であるということです。善はここから生まれるため「孝」を戒と名づけ、悪はここで滅するため「制止」とも名づけます。つまり、孝と戒は名前は異なるが意味は同じなのです。「すなわち口から放つ」などとは、光を放って衆生を招くことです。無量の光を放って有縁の者を招き、無礙の門を示して長い夜を照らし導くことを表しています。「大戒」とは大乗の戒であり、そのためここには声聞の衆はいません。

經：「佛告諸菩薩」至「非無因故」。

> 仏が諸々の菩薩に告げられた。「因縁によって生じるものは即ちこれが生であるとは言えず、また原因なくして生じるものもないからである。」

述曰：自下佛序，如次序成師、法、弟子三輪相也。師有二種：一、本謂佛，二、末菩薩。故言我誦，汝等亦誦。「半月誦」者，雖師隱沒，依法住故。增即易退，減即難進。為不退戒，進修定慧，是故半月不增不減。如《遺教》云：「波羅提木叉是汝等師，若我住世，無異此也。」言「發心」者，十信位也。行實有退，非三賢之正位。「十發趣」者，十住也，三賢初故。「十長養」者，十行也，長養聖胎故。「十金剛」者，十迴向也，攝五力故。本業下卷，皆地前故。戒能破暗，以光為瑞。常所誦持，從口而出，故說「有緣非無因」也。

> 述べる：ここからが仏陀の序文である。順を追って、師・法・弟子という三つの輪が成就していく様子を説く。師には二種類ある。第一は根本の師である仏陀であり、第二は末後の菩薩である。だから「私は誦し、あなたがたも誦しなさい」と言うのである。「半月ごとに誦する」とは、師が姿を隠されても、法が世に留まるからである。戒を増やすことは退きやすく、減らすことは進みにくい。戒を退かせないために、定と慧を修習する。ゆえに半月という増えも減りもしない時期を選ぶのである。『遺教経』に「波羅提木叉はあなたがたの師である。私が世に留まっていても、これに勝るものはない」と説かれている。「心を発す」とは、十信の位のことである。修行には退くことが実際にあり、これは三賢の正しい位ではない。「十発趣」とは十住であり、三賢の初めだからである。「十長養」とは十行であり、聖なる胎児を長養するからである。「十金剛」とは十回向であり、五つの力を摂めるからである。本業経の下巻に説かれるように、これらはすべて地前の位である。戒は暗闇を破ることができるので、光を瑞相とする。常に誦し持つことが、口から出るのである。ゆえに「縁あって因なきに非ず」と説かれるのである。

經：「光光非青黃」至「應讀誦善學」。

> 経典に「光というものは青でも黄でもない」と説かれ、さらに「読誦し善く学ぶべきである」とあります。

述曰：此第二、法也。此中「光光」謂諸戒也，從喻瑞相而得名故。戒雖名色而非顯形，以依善思分限立故。無質礙故「非色」，無緣慮故「非心」，不離緣故「非有」，不即緣故「非無」。以非有故「非因果法」，以非無故「諸佛本原」，佛本原故「菩薩根本」，以與因果作根本故，由此時眾亦為根本。是以佛子初受後持誦文學義。

> 述べます。第二に、法についてです。ここで「光光」とは、様々な戒を指します。吉兆の象徴である瑞相になぞらえて名付けられたからです。戒は「色」や「名」と呼ばれることはあっても、目に見える形や色があるわけではありません。善い思惟という区別によって成立しているからです。物質的な障りがないので「非色（色ではない）」、思いを巡らすことがないので「非心（心ではない）」、縁に依存しないわけではないので「非有（有ではない）」、縁そのものでもないので「非無（無ではない）」です。有ではないから「因果の法（原因と結果の法則）ではない」、無ではないから「諸仏の本源」、仏の本源であるから「菩薩の根本」、原因と結果の根本となるからです。したがって、この時の衆生にとっても根本となります。ゆえに、仏の子は最初に受け、後には誦し、学び、意味を極めるのです。

經：「佛子諦聽」至「第一清淨者」。

> 仏子よ、よく聞きなさい。これより、第一の清らかな者について説く。

述曰：此即第三、所被弟子。言「比丘」者，先受聲聞。有說：迴心受戒時，轉成菩薩戒。非也。彼依餘乘種子立故。但前小戒有助大力，菩薩乘心別種子生，於彼所熏別起無表。「十八梵」者，色界眾也。謂三靜慮各有三天，第四有九，故無想初後許有心故。《善戒經》云：要先發菩提心，方得受菩薩戒。如何淨居亦得受戒？有說：十八言總意別，如一比丘名六群。有說：除無想、淨居，別有十八梵。如《本業經》，下三靜慮各有四天，第四六故。有說：據實亦有成佛。然《唯識論》總成色界有迴心已，傍述未建立迴向菩提。聲聞教云：若依般若不發大心，即五淨居無迴心者，不謂了義亦無迴心。於中且依受不共戒，許黃門等亦受得戒。若遍學行別受七眾，當知遮難同聲聞受。有問：若黃門等亦受得戒，何故經云：「若言不受優婆塞戒、沙彌戒、比丘戒，得菩薩戒，無有是處。譬如重樓，不由初級得第二級，無有是處。」彼自解云：必由律儀得後不共二菩薩戒，故作是說，未必菩薩先發小心。「皆名第一清淨」者，如論超勝諸羅漢故。何故爾者，如《般若》言：二乘善根猶如螢火唯照自身，大乘善根猶如日光導一切故。

> 述べよう。これは第三、対象とする弟子のことである。「比丘」というのは、初めに声聞戒を受けた者である。ある説には、「心を回向して戒を受ける時に、菩薩戒に転ずる」とあるが、それは正しくない。それは他の乗の種子に基づいて立てられたものだからである。ただ、以前の小乗の戒は大きな助けの力を持っており、菩薩乗の心は別の種子から生じ、その熏習によって別に無表が起こるのである。 「十八梵」とは、色界の衆生である。すなわち、三つの静慮にはそれぞれ三天があり、第四静慮には九つある。無想天は初めと終わりに心が許されるからである。『善戒経』には、「まず菩提心を発してから、初めて菩薩戒を受けることができる」とある。どうして浄居天も戒を受けることができるのか。ある説には、十八と言うのは総称であり、意味は別にある。例えば一人の比丘を六群と呼ぶようなものである。ある説には、無想天と浄居天を除いて、別に十八の梵天がある。『本業経』によれば、下の三静慮にはそれぞれ四天があり、第四静慮には六天があるからである。ある説には、事実に基づけば成仏する者もいる。しかし『唯識論』では、総じて色界に回心があることを認めた上で、傍らに述べて回向菩提が建立されていないことを示している。声聞の教えには、「もし般若に依って大心を発さなければ、五浄居天には回心する者はいない」とあるが、これは了義に回心する者もいないということではない。 その中で、ひとまず不共戒を受けることについては、黄門なども戒を受けることが許される。もし遍学行として別々に七衆の戒を受けるならば、遮難は声聞戒と同じであることを知るべきである。 ある質問：「もし黄門なども戒を受けることができるなら、なぜ経に『もし優婆塞戒、沙弥戒、比丘戒を受けずに菩薩戒を得ることは、ありえない。例えば高楼が初級を経ずに第二級に達することはありえないようなものである』と言うのか。」これについて、彼ら自身はこう解釈する。「必ず律儀によって後にある不共の二つの菩薩戒を得るから、こう言うのであって、必ずしも菩薩が先に小乗の心を発するわけではない」と。 「皆、第一清浄と名づく」とは、論に阿羅漢を超えることにおいて勝れているからである。なぜそうなのかと言えば、『般若経』に「二乗の善根は蛍火のごとくただ自身のみを照らし、大乗の善根は日光のごとく一切を導く」とあるからである。

經：「佛告諸佛子」至「我亦如是誦」。

> 経典：「仏が諸々の仏子たちに告げられた」から「私もこのようにして誦じる」まで。

述曰：第二、正說分，此有二：初重、後輕。初中有三：總標故、別誦故、結成故。總中有二：舉數制持故、示相勸學故。此初也。《瑜伽》立四，如宗要釋。若《善生經》，依在家眾唯說前六，以麁顯故。依《善戒經》，出家菩薩立有八重，即此十中初四後四，以共不共根本重故。此經本業總立十重，以通攝故。頌曰：「四身三語意亦三，由貪瞋癡四二一，三語由三得究竟，婬瞋邪見亦非情。」十中四以身業為體。《智論》十三云：酒及前三俱身戒故。第四、六、七語業為罪，餘三語隨相為第六、七故。然有業道非他勝處，謂染歌等綺語所攝。此一一重各容貪瞋癡為方便，盜、婬、酤、慳由貪究竟，殺、瞋由瞋，邪見由癡，餘三由三。於他名利由嫉讚毀，瞋究竟故。婬、瞋、邪見或從非情，婬屍未壞是非情類故。餘唯情邊方結重罪，雖盜非情主邊結故。復次頌曰：「皆自於他造，他於他亦然，自於自有五，他於自唯婬。」自於他邊一切應造，他向於他亦容具十，謂教他人向他造故。自於自造傳說有五，殺、婬、慳、瞋及以邪見，謂捨利他自死為罪。律云：弱背自婬面門。《善生經》云：自施不成施，自慳即成慳。於自發憤謗理性等，皆自犯故。他於自造婬有餘無，被賊所污順生愛染亦為犯故。頗有犯罪自亦不作不教他作？有謂隨喜。頗有不發身語意業得犯戒罪？有謂不作所應作等。此等問答廣如宗要持犯門說，已辨傍義應釋本文。如是十重受而不誦，即迷持犯失菩薩行，既非菩薩寧佛種子？我已果滿猶如是誦，況新學者此中意也。

> 述べます：第二に、正説分です。ここには二つあり、まず重い戒、次に軽い戒です。初めの重い戒には三つあり、総括して示すこと、別々に説くこと、結びとしてまとめることです。総括には二つあり、数を示して守らせること、相を示して学ぶことを勧めることです。これがその初めです。 『瑜伽師地論』では四つの重戒を立てていますが、これは宗要の解釈の通りです。『善生経』では在家の衆のために前の六つのみを説いています。それは粗い戒であり顕著だからです。『善戒経』によれば、出家の菩薩には八つの重戒が立てられており、これはこの十戒の中の初めの四つと後の四つで、共通および不共通の根本的な重戒だからです。この経（『梵網経』）の本業は十の重戒を総合して立てており、すべてを広く含むからです。 偈に言う：「四つは身、三つは語、意もまた三つ。貪・瞋・癡により四・二・一。三つの語は三つによって究竟に至る。婬・瞋・邪見はまた非情も対象とする。」 十の中の四つは身業を体とします。『大智度論』の十三巻に言う：酒と前の三つは共に身戒に属するからです。第四、第六、第七は語業が罪であり、残りの三つの語は相に従って第六、第七となります。しかし、業道であっても他勝処（波羅夷）でないものがあります。例えば、染まって歌うなどは綺語に含まれます。 この一つ一つの重戒は、それぞれ貪・瞋・癡を方便とすることができます。盗・婬・酒・慳は貪によって究竟し、殺・瞋は瞋によって究竟し、邪見は癡によって究竟し、残りの三つは三つによって究竟します。他人の名利に対しては嫉妬による毀誉によって、瞋によって究竟します。婬・瞋・邪見はあるいは非情から生じます（婬において屍体が壊れていないものは非情の類だからです）。その他は有情に対してのみ重罪を結びます。非情からの盗みも、主（持ち主）に対して結ばれるからです。 さらに偈に言う：「みな自己から他に対して造る。他から他に対して造ることもまた同じ。自己から自己には五つあり、他から自己には婬のみ。」 自己から他に対しては一切を造ることができます。他から他に対しては十すべてを具えることも許されます。すなわち、他人に教えて他に対して造らせるからです。自己から自己に対して造ることは伝説に五つあり、殺・婬・慳・瞋および邪見です（すなわち、利他を捨て自ら死することは罪である、と）。律に云く：「弱くて背を自婬し、面門を自婬する」。『善生経』に云く：「自ら施すことは施しとならず、自ら慳ることはすなわち慳となる」。自己に対して発憤して理性を謗ることなどは、すべて自ら犯すものです。他から自己に対して造る場合は婬がありますが、他はありません。賊に汚されても順に愛染を生じれば、また犯すことになります。 「犯罪を自らも作らず、他人にも作らせないことがあるか？」あります。すなわち、随喜することです。「身語意の業を発さずに犯戒の罪を得ることがあるか？」あります。すなわち、為すべきことを為さないなどです。これらの問答は広く宗要の持犯門に説かれています。傍義を弁じたので、本文を解釈すべきです。 このような十の重戒を、受けた後に誦さなければ、すなわち持犯に迷い、菩薩行を失います。既に菩薩でなければ、どうして仏の種子であり得ましょうか。私はすでに果を満たしているが、なおこのように誦するのです。まして新しく学ぶ者においてはなおさらです。これがこの中の意図です。

經：「一切菩薩」至「敬心奉持」。

> 「すべての菩薩よ」から「敬いの心をもって、大切に受け持ち守りなさい」まで。

述曰：第二、示相勸持門也。《涅槃經》云：聲聞戒中佛知時宜，說輕為重、說重為輕。《大智論》云：毘尼皆為世俗攝意，不論實相。為護佛法故，不觀後世罪多少。又後世罪重，戒中便輕，如道人殺牛羊等。讚歎女人戒中重，後世罪輕，乃至廣說。菩薩不爾，實重說重、理輕說輕，法性常然，貫三際故。是謂菩薩別解脫相，欲取大果宜敬心持。如《遺教》云：若勤精進事無難者，譬如小水常流穿石，無為空死後必有悔。譬如良醫知病說藥，服與不服非醫咎也。

> 述べるには、第二に、相を示して持つことを勧める門である。 『涅槃経』に云く、声聞の戒の中では、仏は時宜を知り、軽きを重きと説き、重きを軽きと説く。 『大智度論』に云く、毘尼は全て世俗の心を摂めるためのものであり、実相を論じるものではない。仏法を護るがゆえに、後の世の罪の多少を観じない。 また、後の世で罪が重くとも、戒の中では軽くなることもある。例えば、道人が牛や羊を殺すなどである。女人を讃嘆する戒の中では重いが、後の世の罪は軽い。さらに広く説かれるところである。 菩薩はそうではない。実相が重ければ重いと説き、道理で軽ければ軽いと説く。法性は常にそのままであり、三際に貫くからである。 これを菩薩の別解脱の相という。大いなる果報を得たいと望むならば、敬いの心を持って持つべきである。 『遺教経』に云く、もし精進を努めれば、事に難きはない。たとえば小さな水が常に流れて石を穿つようなものである。無為に空しく死するならば、後には必ず悔いがある。たとえば良医が病を知って薬を説くように、服するか否かは医者の咎めではない。