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title: "四明尊者教行錄 · 修懺要旨"
description: "四明尊者教行錄由南宋僧人宗曉編撰於嘉泰二年。該書輯錄了北宋天台宗高僧四明知禮的書信、奏文、詩偈等各類文獻，是研究知禮大師思想與宋代天台宗發展的核心典籍。書中不僅保存了知禮與僧俗弟子關於山家山外之爭等重要論辯的記錄，也體現了宋代天台教義的實踐與傳承。此書對確立天台正統、弘揚山家學說具有深遠影響，被後世尊為天台宗的重要祖典之一。"
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### 修懺要旨因入內殿頭俞源清奉宣到院。修法華三昧三晝夜。欲知懺法旨趣故。述此以示之

> 懺悔の要点

夫諸大乘經所詮行法。約身儀判。不出四種。攝一切行。罄無不盡。一曰常坐。即一行三昧。二曰常行。即般舟三昧。並九十日為一期。三曰半行半坐。即方等三昧。七日為一期。又法華三昧。三七日為一期。四曰非行非坐。即請觀音三昧。四十九日為一期。又大悲三昧。三七日為一期。但諸經中有不專行坐及相半者。一切行法並屬此三昧所攝。然限定日數者。蓋令行者剋時破障域。意修真決。取功成理顯也。若欲長修。如法華安樂行。畢世行之。或宜時促。如觀無量壽經。一日至七日。或如普門品一時禮拜等。然但在用心。不必定日也。今所修法華三昧者。若能精至進功。豈不破障顯理。然須預識標心之處進行之門。所謂圓常正信也。云何生信。信一切法唯心本具。全心發生。生無別理。並由本具。具無別具。皆是緣生故。世間相常。緣起理一。事理不二。色心互融。故法法遍周。念念具足。十方三世不離剎那。諸佛眾生皆名法界。當處皆空。全體即假。二邊叵得。中道不存。三諦圓融。一心具足。不一不異。非縱非橫。不可言言。寧容識識。斯是不思議境。入道要門。依此博運慈悲。無緣無念。託此巧安定慧。無作無為。仗茲遍破執情。何情不破。據此反尋塞著。無著不通。道品因其。中適助治附此。合行圓位可登。寂忍不動。不滯相似。速入分真。故天台智者先令行人親近良師學懺悔處。即不思議理觀所詣之處也。次示懺悔之法。乃有三種。一作法懺。謂身口所作一依法度。二取相懺。謂定心運想相起為期。三無生懺。謂了我心自空罪福無主。觀業實相。見罪本源。法界圓融真如清淨。法雖三種。行在一時。寧可闕於前前。不得虧於後後。無生最要。取相尚寬。蓋妙觀之宗是大乘之主。滅罪如翻大地草木皆枯顯德如照澄江森羅盡現。以此理觀導於事儀。則一禮一旋罪消塵劫。一燈一水福等虛空。故口說六根懺時。心存三種懺法。如是標心方堪進行。法華三昧儀云。行者初入道場。當具足十法。一者嚴淨道場。二者清淨身器。三者三業供養。四者奉請三寶。五者讚歎三寶。六者禮佛。七者懺悔。八者行道旋繞。九者誦法華經。十者思惟一實境界。明此十法之中。有但說施為方法。有教運心作念。有教誦文章口自宣說。備詳彼文。此不具載。今但略述用心旨趣而已。第一嚴淨道場法。第二淨身方法。此並可見云云。第三修三業供養法。行者三業供養之際。須起難思之想離於謂實之心。若香若華。體是法界。能供所供。性本真空。其量遍周。出生無盡。其性常住。亘徹無遺。豈唯遍至此界他方。抑亦普入未來過去。普獻三寶。等熏眾生。雖曰施財。以財通法。是真法供。能資法身。五果皆常。四德咸顯。故默想香華偈云云。第四請三寶法。第五讚歎三寶法。第六禮三寶法云云。且初禮佛時。深知佛體不離我心同一覺源。圓照諸法。諸佛悟起同體悲。眾生迷強受諸幻。悲苦相對感應斯成。一身遍至諸佛之前。一拜普消無邊之罪。故默想禮佛偈云云。次禮法時。深知諸佛所證果德。眾生所迷理心。一切行門無邊教道。離染清淨。能軌聖凡。稱此法門。三業致禮。故默想禮法偈云云。次禮僧時。即三乘聖賢也。雖是因位。已到真源同佛。無緣之慈同佛。不謀而應。我今三業致感聖眾。四誓所熏滅我罪根。生我樂果。故默想禮僧偈云云。次運普懺之心。用成曠濟之道。若不然者。豈但不成大道。抑亦難滅眾愆。何者。我從無始已來。造罪之際。自身為業本。眾生為惡緣。生生於彼愛憎。處處於他婬殺。況一切男子是我父。一切女人是我母。無不業累相關。悉為煩惱所覆。今運同體慈悲。如理懺悔。盡妄染際。徹真性源。仰答四恩。旁資三有。有情之類稱性遍該。故默想云云。第七懺悔六根及四悔法。夫六根之罪願悉消除。四悔之心願皆成就。初修懺悔者。所謂發露眾罪也。何故爾耶。如草木之根。露之則枯。覆之則茂。故善根宜覆。則眾善皆生。罪根宜露。則眾罪皆滅。今對三寶。真實知見照我善惡之際。窮我本末之邊。故原始要終。從微至著。悉皆發露更不覆藏。所謂逆順十心通於迷悟兩派。故迷真造惡則有十心。逆涅槃流順生死海。始從無始無明起愛起見。終至作一闡提撥因撥果。所以沈淪生死無解脫期。今遇三寶勝緣。能生一念正信。先人後己。改往修來。故起十心。逆生死流。順涅槃道。始則深信因果不亡。終則圓悟心性本寂。一一翻破上之十心。不明前之十心。則不識造罪之相。若非後之十心。則不知修懺之法。故欲行五悔。先運十心。故默想云云。想已當說六根罪過。然此六根懺文非人師所撰。乃聖語親宣。是釋迦本師說。普賢大士為三昧行者。示除障法門。蓋由洞見眾生起過之由造罪之相。又知諸法本來寂滅全體靈明無相無為無染無礙互攝互具互發互生皆真皆如非破非立。迷情昏動觸事狂愚。以菩提涅槃為煩惱生死。是以大士示懺悔法。開解脫門。令了無明即明知縛無縛。就茲妙理懺此深愆。故懺眼根罪時。即見諸佛常色。次懺耳根罪時。即聞諸佛妙音。乃至懺悔意根。即悟剎那住處三身一體四德宛然。以要言之。一切罪相無非實相。十惡五逆四重八邪。皆理毒之法門。悉性染之本用。以此為能懺。即此為所觀。惑智本如理事一際。能障所障皆泯。能懺所懺俱忘。終日加功終日無作。是名無罪相懺悔。亦名大莊嚴懺悔。亦名最上第一懺悔。以此無生理觀為懺悔主。方用有作事儀為懺悔緣。其事儀者。即五體投地。如泰山頹。剋責己心。語淚俱下。挫情折意。首罪求哀。如此事行既勤。理觀彌進。如洗滌之法。雖淨在清水。若不加之灰皁。垢膩難除。故正助合行。如目足相假。豈獨滅罪。即能證真。故六根懺悔若成。六根清淨可獲。若不以圓觀為主。則不名大乘懺法。縱能滅罪。止免三塗。縱能生善。不出三界。先知此意。然誦其文。俾在兼行取成大益也云云。次之四悔。所謂勸請隨喜迴向發願也。所以悉稱悔者。蓋皆能滅罪故也。勸請則滅波旬請佛入滅之罪。隨喜則滅嫉他修善之愆。迴向則滅倒求三界之心。發願則滅修行退志之過。初修勸請者。先知現今剎那十方世界。有不可說佛剎微塵數佛。方坐道樹。未轉法輪。我今稱理運想。於一一佛前。請說妙法。即此剎那十方復有如上塵數諸佛。唱入涅槃。我皆於前請久住世。能此運念不止滅乎魔愆。復能成於法施。其功甚大。切在用心先運此心方陳其語云云。次修隨喜者。則隨他修善喜他得成。謂六道凡夫。二乘賢聖。一切菩薩。三世如來。有為無漏善根。上求下化功德。皆歡喜讚歎。隨順修行。夫善是樂因。今隨喜助成。則與一切眾生安樂之果。當以此意念念行之云云。次修迴向者。所謂迴事向理。迴自向他。迴因向果。初迴事向理者。元由理具方有事用。一切修證不出理性。眾生強執計是有為。今迴此心向於實際。迴自向他者。昔迷理遍。凡所修善莊嚴自身及己眷屬。今順本性迴向眾生。迴因向果者。一毫善種。三業熏修。不趣二乘。寧滯三有。修既順性。則成緣了二因。因必顯真。同歸究竟三德。是名迴因向果。此三種迴向一切菩薩共修。是故行人依此迴向云云。次修發願者。要誓志行也。一切菩薩通有四誓。謂未度苦者令度。未解集者令解。未安道者令安。未證滅者令證。此則通標其志。已具前門舊本無此則下二句。今依悅庵所科之本。附見于此今則別要其心專期淨土。蓋此堪忍之界不常值佛。多諸惡緣。深位尚乃有退。若彼安養之土。常得見佛。唯有勝緣。初心即得不退。又彼佛願力普攝有情。若能願求。定得生彼。況過現積集善惡業緣。每至終身咸來責報。臨終惡念增盛。則眾惡成功牽生惡道。臨終善念增盛。則眾善皆成牽生善道。今既求生安養。必須淨業莊嚴。若無願力強牽。焉克臨終正念。故誠心發願決志要期。既欲往生。宜在專切。第八行道法。第九誦經法云云。然欲略知觀法之要者。但想繞佛之身誦經之聲皆是法界各遍虛空。一切眾生聞此句偈。十方三寶受我繞旋。而無能旋所旋。永絕能誦所誦。旋則步步無跡。誦乃聲聲絕聞。故曰。舉足下足無非道場。又云。其說法者無說無示。如此旋誦功莫與京。第十坐禪實相正觀法。上諸觀想雖皆稱理。而帶事修。蓋欲行人涉事之時。體事即理心無倚著。功不唐捐故。如前施設也。今之禪法乃是正修。純用理觀。今先明坐相方示觀門。且坐相者。當於別室身就繩床結跏趺坐。以左脚置右脚上。名為半跏。更以右脚置左脚上。牽來就身令齊兩髀。名為全跏。此坐為最。易發禪那。若不能全踟。半跏亦得。次整衣服。不得太寬。寬則袒。露不得過急。急則氣壅。次當正身令不萎不倚。項背相對。其頭不低不昂令平正。自然勿以力制。合眼令斷外光。合口令斷外風。次令氣息調勻。心離昏散。故止觀云。調身則不緩不急。調息則不澁不滑。調心則不浮不沈。三事若調。禪定可發也。次示觀門者。所謂捨外就內。簡色取心。不假別求他法為境。唯觀當念。現今剎那最促最微。且近且要。何必棄茲妄念。別想真如。當觀。一念識心德量無邊。體性常住。十方諸佛一切眾生。過現未來虛空剎土。遍攝無外。咸趣其中。如帝網之一珠。似大海之一浪。浪無別體。全水所成。水既無邊。浪亦無際。一珠雖小。影遍眾珠。眾珠之影皆入一珠。眾珠非多。一珠非少。現前一念亦復如是。性徹三世。體遍十方。該攝不遺。出生無盡。九界實造。佛地權施。不離即今。剎那能窮過未作用。然須知性具一切。是故能攝能生。勿謂本覺孤然隨妄緣而方有。不明性具者。法成有作。觀匪無緣。今觀諸法即一心一心即諸法。非一心生諸法。非一心含諸法。非前非後。無所無能。雖論諸法。性相本空。雖即一心。聖凡宛爾。即破即立。不有不無。境觀雙忘。待對斯絕。非言能議。非心可思。故強示云不可思議微妙觀也。此觀非滅罪之邊際。能顯理之淵源。是首楞嚴禪。是法華三昧。亦稱王三昧。統攝一切三昧故。亦號總持之主。出生一切總持故。功德甚深稱歎莫及。上來所述事儀理觀多有漏略。備急披詳不煩援引。若欲廣知。應尋摩訶止觀。當知止觀一部即法華三昧之筌蹄。一乘十觀即法華三昧之正體。圓頓大乘究竟於此。

> 大乗経典に説かれる修行の方法を、身体の行ない方から分類すると、四つに分けられます。それですべての修行が含まれ、一つも漏れることはありません。 第一は「常坐」、すなわち一行三昧です。第二は「常行」、すなわち般舟三昧で、どちらも九十日を一期とします。第三は「半行半坐」、すなわち方等三昧で、七日を一期とします。また法華三昧は二十一日を一期とします。第四は「非行非坐」、すなわち請観音三昧で、四十九日を一期とします。また大悲三昧は二十一日を一期とします。ただ、さまざまな経典の中には、行や坐に専念しないものや、半分ずつ行うものもありますが、それらの修行法もすべてこの三昧に含まれます。 日数を定めるのは、修行する人が時間を決めて障りを打ち破り、心を込めて真理を修め、功徳が成就して真理が現れることを目指すためです。長く修行したい場合は、法華経の安楽行品のように一生涯行ないます。あるいは短い時間が適している場合は、観無量寿経のように一日から七日まで、また普門品のように一時の礼拝などもあります。しかし、大切なのは心の持ち方であり、必ずしも日数を定める必要はありません。 今ここで修める法華三昧は、もし心を込めて精進すれば、どうして障りを破り真理を現さないことがありましょうか。ただし、あらかじめ心を向けるべきところと修行の道を知っておかねばなりません。それは「円常の正信」です。 どのようにして信を生じるのか。すべての法はただ心に本来そなわっていると信じることです。心全体から生じ、生に別の理はなく、すべて本来そなわっていることによります。そなわっていることに別のそなわりはなく、すべては縁によって生じるからです。ゆえに世間の相は常住であり、縁起の理は一つであり、事と理は二つではなく、色と心は互いに融け合っています。ですから一つ一つの法が遍く周り、一念一念が具足しています。十方三世も刹那を離れず、諸仏も衆生もみな法界と名づけられます。その場でみな空であり、全体がそのまま仮であり、二つの極端は得られず、中道も存在しません。三諦は円かに融け合い、一心に具足しています。一つでもなく異なるのでもなく、縦でもなく横でもなく、言葉で言い表せず、識で知ることもできません。これが不可思議の境であり、道に入る要門です。 これに基づいて広く慈悲を働かせ、無縁無念とします。これによって巧みに定と慧を安んじ、無作無為とします。これによって遍く執着の心を破ります。破れない心があるでしょうか。これに基づいて逆に塞がりと執着を尋ねれば、通じない無著はありません。三十七道品はこれによって助けられ、中道に適い、修行を助けます。これに合すれば円位に登ることができ、寂忍は動かず、相似の位に留まらず、速やかに分真に入ります。 ですから天台智者大師は、まず修行する人に良い師に親しみ、懺悔の方法を学ぶよう教えました。それは不思議の理観が向かうところです。次に懺悔の方法を示しますが、三つあります。 第一は「作法懺」で、身と口の行ないを一つ一つ仏法の定めに従って行ないます。第二は「取相懺」で、心を定めて観想し、相が現れるまでを期限とします。第三は「無生懺」で、自分の心が本来空であり、罪も福も主人がないと悟ります。業の実相を観て、罪の本源を見れば、法界は円かに融け合い、真如は清浄です。 法は三つありますが、行ないは一時に行ないます。前のものを欠くことはできても、後のものを損なってはなりません。無生懺が最も大切で、取相懺はまだ緩やかです。なぜなら妙観の宗は大乗の主であり、罪を滅ぼすことは大地をひっくり返すように草木がみな枯れ、徳を現すことは澄んだ江を照らすように森羅万象がすべて現れるからです。 この理観で事の儀式を導けば、一礼一旋で塵劫の罪が消え、一灯一水で福が虚空に等しくなります。ですから口で六根の懺悔を唱えるとき、心に三種の懺悔法を存じます。このように心を定めてこそ、修行に進むことができます。 法華三昧儀にはこうあります。修行者が初めて道場に入るとき、十の法を具足すべきです。第一に道場を厳かに清め、第二に身と器を清浄にし、第三に三業で供養し、第四に三宝を奉請し、第五に三宝を讃嘆し、第六に仏を礼拝し、第七に懺悔し、第八に行道旋繞し、第九に法華経を誦し、第十に一実境界を思惟します。 この十法の中には、ただ方法だけを説くものもあり、心を運んで念じることを教えるものもあり、文章を誦して口で自ら宣べることを教えるものもあります。詳しくはかの文に備わっています。ここには載せません。今はただ心の趣旨を略述するだけです。 第一の道場を厳かに清める法、第二の身を清める法は、ここに見ることができます<note>云云</note>。 第三の三業供養を修める法。修行者が三業で供養する際には、思い難い想いを起こし、実在とみなす心を離れねばなりません。香であれ華であれ、その体は法界であり、供えるものと供えられるものの性は本来真空です。その量は遍く周り、尽きることなく生じ、その性は常住で、すべてに亘って遺ることはありません。ただこの世界と他方に遍るだけでなく、未来と過去にも普く入ります。普く三宝に献げ、等しく衆生を薫じます。財を施すと言っても、財を通して法とし、これが真の法供養です。よく法身を資け、五果はみな常であり、四徳はみな現れます。ですから黙って香華の偈を想います<note>云云</note>。 第四の三宝を請う法、第五の三宝を讃嘆する法、第六の三宝を礼する法<note>云云</note>。 まず仏を礼するとき、仏の体は自分の心を離れず、同じ一つの覚の源であり、円かに諸法を照らすと深く知ります。諸仏は悟って同体の悲を起こし、衆生は迷って強く諸の幻を受けます。悲と苦が相対して、感応がここに成ります。一身が遍く諸仏の前に至り、一拝が普く無辺の罪を消します。ですから黙って礼仏の偈を想います<note>云云</note>。 次に法を礼するとき、諸仏が証した果徳、衆生が迷う理心、一切の行門と無辺の教道は、染を離れて清浄であり、よく聖と凡を軌範すると深く知ります。この法門に称して、三業で礼を致します。ですから黙って礼法の偈を想います<note>云云</note>。 次に僧を礼するとき、それは三乗の聖賢です。まだ因の位にあっても、すでに真源に到って仏と同じであり、無縁の慈は仏と同じで、謀らずして応じます。我今三業で聖衆に感を致せば、四誓に薫ぜられて我が罪根を滅ぼし、我が楽果を生じます。ですから黙って礼僧の偈を想います<note>云云</note>。 次に普懺の心を運び、広く済う道を成します。もしそうでなければ、ただ大道を成さないだけでなく、多くの罪を滅ぼすことも難しいでしょう。なぜなら、私は無始以来、罪を造る際に、自身が業の本となり、衆生が悪の縁となり、生生にそこで愛憎をなし、処処で他に対して婬と殺をなしてきました。まして一切の男子は我が父であり、一切の女人は我が母です。すべて業の累が関連し合い、みな煩悩に覆われています。今、同体の慈悲を運び、理のままに懺悔し、妄染の際を尽くし、真性の源を徹し、仰いで四恩に答え、傍らに三有を資けます。有情の類は性に称して遍く該わります。ですから黙って想います<note>云云</note>。 第七の六根を懺悔し四悔の法。六根の罪がことごとく消えることを願い、四悔の心がことごとく成就することを願います。 初めに懺悔を修めるとは、いわゆる衆罪を発露することです。なぜそうするのか。草木の根は、露わにすれば枯れ、覆えば茂ります。ですから善根は覆うべきで、そうすれば衆善がみな生じます。罪根は露わにすべきで、そうすれば衆罪がみな滅びます。今、三宝に対して、真実の知見が我が善悪の際を照らし、我が本末の辺を窮めます。ですから始めを原ね終わりを要し、微から著まで、すべて発露してさらに覆い隠しません。 いわゆる逆順の十心は迷悟の両派に通じます。ですから真を迷って悪を造れば十心があります。涅槃の流れに逆らい生死の海に順い、無始の無明から愛を起こし見を起こすのに始まり、ついに一闡提となって因を撥ね果を撥ねるに終わります。それゆえ生死に沈淪して解脱の期がありません。今、三宝の勝縁に遇い、よく一念の正信を生じ、人を先にし己を後にし、往を改め来を修します。ですから十心を起こし、生死の流れに逆らい涅槃の道に順います。始めには因果が亡びないと深く信じ、終わりには心性が本寂であると円かに悟ります。一つ一つ上の十心を翻し破ります。前の十心を明らかにしなければ、罪を造る相を知りません。もし後の十心がなければ、懺悔を修める法を知りません。ですから五悔を行なおうとするには、まず十心を運びます。ですから黙って想います<note>云云</note>。 想い終わって六根の罪過を説くべきです。しかしこの六根懺悔の文は人師が撰したものではなく、聖語の親しい宣べです。釈迦本師が説き、普賢大士が三昧の行者のために障りを除く法門を示したものです。それは衆生が過ちを起こす由と罪を造る相を洞見し、また諸法が本来寂滅で全体が霊明であり、無相無為無染無礙で、互いに摂し互いに具し互いに発し互いに生じ、みな真みな如で、破でも立でもないと知るからです。迷情が昏く動き、事に触れて狂い愚かになり、菩提涅槃を煩悩生死とします。それゆえ大士は懺悔の法を示し、解脱の門を開き、無明即明と了し、縛に縛無しと知らせ、この妙理に就いてこの深い罪を懺悔します。 ですから眼根の罪を懺悔するとき、すなわち諸仏の常色を見ます。次に耳根の罪を懺悔するとき、すなわち諸仏の妙音を聞きます。乃至意根を懺悔すれば、すなわち刹那の住処に三身一体四徳が宛然とあると悟ります。 要するに、一切の罪相は実相にほかなりません。十悪五逆四重八邪は、みな理毒の法門であり、すべて性染の本用です。これを能懺とし、これを所観とします。惑も智も本如で理事は一際であり、能障も所障もみな泯び、能懺も所懺も倶に忘れます。終日功を加えて終日無作です。これを無罪相懺悔と名づけ、また大荘厳懺悔とも名づけ、また最上第一懺悔とも名づけます。 この無生の理観を懺悔の主とし、方めて有作の事儀を懺悔の縁とします。その事儀とは、五体を地に投げて泰山が崩れるようにし、己が心を剋責し、語と涙が俱に下り、情を挫き意を折り、罪を首告して哀を求めます。このように事行が勤めば、理観はますます進みます。洗い清める法のように、清浄は清水にあっても、もし灰や皂を加えなければ垢が除き難いのです。ですから正と助を合わせ行ない、目と足が互いに助け合うようです。どうしてただ罪を滅ぼすだけでありましょうか、すなわちよく真を証します。 ですから六根懺悔が成れば、六根清浄が得られます。もし円観を主としなければ、大乗の懺法とは名づけられません。たとえ罪を滅ぼせても、ただ三途を免れるだけです。たとえ善を生じても、三界を出ることはできません。まずこの意を知ってから、その文を誦し、兼ねて行なって大いなる益を得るようにします<note>云云</note>。 次に四悔とは、勧請・随喜・回向・発願です。すべて悔と称するのは、みなよく罪を滅ぼすからです。勧請は波旬が仏に請うて入滅させた罪を滅ぼし、随喜は他が善を修めるのを嫉む罪を滅ぼし、回向は三界を倒に求める心を滅ぼし、発願は修行の退く志の過ちを滅ぼします。 初めに勧請を修める者は、まず今この刹那に十方世界に不可説の仏刹微塵数の仏がおられ、方に道樹に坐して未だ法輪を転じていないと知ります。我今理に称して想いを運び、一一の仏の前に妙法を説くよう請います。この刹那に十方にまた上述の塵数の諸仏がおられ、涅槃に入ると唱えます。私はみなその前で久しく世に住するよう請います。このように念を運べば、ただ魔の罪を滅ぼすだけでなく、またよく法施を成します。その功は甚だ大きいのです。切に心を用いることにあり、まずこの心を運んでからその語を述べます<note>云云</note>。 次に随喜を修める者は、他が善を修めるに随い、他が成るのを喜びます。六道の凡夫、二乗の賢聖、一切の菩薩、三世の如来が、有為無漏の善根、上求下化の功徳を、みな歓喜讃嘆し、随順して修行します。善は楽しみの因です。今、随喜して助け成せば、一切の衆生に安楽の果を与えます。この意をもって念念に行なうべきです<note>云云</note>。 次に回向を修める者は、いわゆる事を回らして理に向け、自を回らして他に向け、因を回らして果に向けます。初めに事を回らして理に向けるとは、もと理が具わっているからこそ事の用があるのです。一切の修証は理性を出ません。衆生は強く執してこれを有為とみなします。今この心を回らして実際に向けます。自を回らして他に向けるとは、昔は理の遍きに迷い、凡そ修める善は自身と己が眷属を荘厳しました。今は本性に順い、衆生に回向します。因を回らして果に向けるとは、一毫の善種も三業に薫修され、二乗に向かわず、どうして三有に留まりましょうか。修がすでに性に順えば、すなわち縁と了の二因を成します。因は必ず真を現し、同じく究竟の三徳に帰します。これを回因向果と名づけます。この三種の回向は一切の菩薩が共に修めます。ですから修行者はこの回向によります<note>云云</note>。 次に発願を修める者は、誓いの志行です。一切の菩薩は通じて四つの誓いがあります。いまだ度されない苦の者を度し、いまだ解かれない集の者を解かせ、いまだ安んじられない道の者を安んじ、いまだ証されない滅の者を証させます。これは通じた志の標です。すでに前の門に具わっています<note>旧本にはこの則の下の二句がありません。今は悦庵が科した本によって、ここに附見します</note>。 今は別にその心を要して専ら浄土を期します。この堪忍の界は常に仏に値えず、多くの悪縁があります。深い位でもなお退くことがあります。かの安養の土は常に仏を見ることができ、ただ勝縁のみです。初心でも不退を得ます。またかの仏の願力は普く有情を摂します。もし願い求めることができれば、必ずかの地に生まれます。まして過現に積集した善悪の業縁は、毎に終身に至ってみな責報に来ます。臨終に悪念が増盛すれば、衆悪が成功して悪道に牽かれ生まれます。臨終に善念が増盛すれば、衆善がみな成って善道に牽かれ生まれます。今すでに安養を求めるならば、必ず浄業を荘厳しなければなりません。もし願力の強い牽きがなければ、どうして臨終の正念を克することができましょうか。ですから誠心に発願し決志して期を要します。すでに往生を欲するなら、専切にあるべきです。 第八の行道法、第九の誦経法<note>云云</note>。 しかし観法の要を略知したいなら、ただ仏を繞る身と経を誦する声はみな法界で各々虚空に遍り、一切の衆生がこの句偈を聞き、十方の三宝が我が繞旋を受けると想います。しかし能旋も所旋もなく、永く能誦も所誦も絶えます。旋はすなわち歩歩に跡がなく、誦はすなわち声声に聞が絶えます。ですから「挙足下足は道場に非ざるはなし」と言い、また「その法を説く者は説なく示なし」と言います。このように旋誦すれば功は比ぶものがありませぬ。 第十の坐禅実相正観の法。上の諸観想はみな理に称していても、事の修を帯びています。それは修行者が事に接するとき、事を体して理とし心に倚著がないようにし、功が徒にならないようにするためです。ですから前に施設したのです。今の禅法はすなわち正修であり、純粋に理観を用います。 今まず坐相を明らかにしてから観門を示します。坐相とは、別室で身を縄床に就けて結跏趺坐します。左足を右足の上に置くのを半跏と名づけます。さらに右足を左足の上に置き、引き寄せて身に就けて両髀を斉しくするのを全跏と名づけます。この坐が最も勝れ、禅那を起こし易いのです。もし全跏ができなければ、半跏でも得ます。 次に衣服を整えます。あまり寬にしてはなりません。寬ならば袒露します。過ぎて急にしてはなりません。急ならば気が壅がります。次に身を正しくして萎えず倚らず、項背相対し、その頭は低からず昂からず平正にし、自然にして力を以て制しません。眼を閉じて外光を断ち、口を閉じて外風を断ちます。次に息を調えて均しくし、心を昏散から離します。ですから止観に云います。「身を調うれば則ち緩不急、息を調うれば則ち澁不滑、心を調うれば則ち浮不沈。三事もし調えば禅定は発すべし」と。 次に観門を示します。いわゆる外を捨て内に就き、色を簡び心を取ります。別に他の法を求めて境とせず、ただ當念を観ます。今この刹那は最も促やかで最も微かで、かつ近くかつ要です。どうして必ずしもこの妄念を棄てて別に真如を想いましょうか。まさに観るべきです。一念の識心の徳量は無辺で、体性は常住です。十方の諸仏、一切の衆生、過現未来、虚空刹土は、遍く摂して外なく、みなその中に趣きます。帝網の一珠のようであり、大海の一浪のようです。浪に別の体はなく、全く水から成ります。水がすでに無辺なら浪もまた無際です。一珠は小さいといえども影は衆珠に遍ります。衆珠の影はみな一珠に入ります。衆珠は多ではなく、一珠は少ではありません。現前の一念もまたこのようです。性は三世を徹し、体は十方に遍り、該摂して遺さず、尽きることなく生じます。九界は実造し、仏地は権施し、今の刹那を離れず、過未の作用を窮めることができます。しかし性が一切を具すると知らねばなりません。それゆえ能摂能生です。本覚が孤然として妄縁に随って方に有ると謂ってはなりません。性具を明らかにしなければ、法は有作と成り、観は縁なしではありません。 今、諸法を観ずればすなわち一心であり、一心はすなわち諸法です。一心が諸法を生ずるのではなく、一心が諸法を含むのではなく、前ではなく後ではなく、所もなく能もありません。諸法を論じても、性相は本空です。一心であっても、聖凡は宛然です。すなわち破しすなわち立し、有らず無らず、境と観は双び忘れ、待対はここに絶えます。言で議すべからず、心で思すべからず。ですから強いて示して「不可思議微妙観」と云います。この観は罪を滅ぼすの辺際ではなく、よく理を現すの淵源です。これが首楞厳禅であり、法華三昧です。また王三昧とも称し、一切の三昧を統摂するからです。また総持の主とも号し、一切の総持を出生するからです。功徳は甚だ深く、讃嘆しても及びません。 以上に述べた事儀と理観は多く漏略があります。急ぎ披詳するには煩しく援引するには及びません。もし広く知りたいなら、摩訶止観を尋ねるべきです。止観の一部はすなわち法華三昧の筌蹄であり、一乗の十観はすなわち法華三昧の正体です。円頓大乗はここに究竟します。