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title: "歷代三寶紀 · 6 法上"
description: "歷代三寶紀是隋朝費長房奉敕編撰的佛教經錄著作。該書成於隋開皇十七年，旨在總結隋以前佛教經籍的流傳與著述。全書十五卷，分為帝年、代錄、入藏錄三部分，記錄了從周至隋的佛教歷史、譯經目錄及譯者傳記。它不僅保存了大量珍貴的佛教文獻資料，更首創將經錄與歷史紀年相結合的體例，對後世佛教史籍編纂影響深遠。此書是研究中國早期佛教史和譯經史不可或缺的權威典籍。"
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增壹數四十卷略諸經論所有數法。從一至十從十至百乃至千萬有似數林

> 増一阿含経四十巻<note>諸経論の数法を略し、一から十、十から百、さらには千万に至るまで、数林の如きものあり</note>

佛性論二卷眾經錄一卷

> 『仏性論』二巻、『衆経録』一巻

右三部合四十三卷。相州前定國寺沙門釋法上撰。上戒山崇峻慧海幽深。德可󰮖人威能肅物。故魏齊世歷為統都。所部僧尼咸二百萬。而上綱紀將四十年。當文宣時盛弘釋典。上總擔荷並得緝諧。內外闡揚黑白咸允。非斯柱石孰此棟樑。景行既彰逸響遐被。致句麗國大丞相王高德。乃深懷正信崇重大乘。欲以釋風被之海曲。然莫測法教始末緣由。自西徂東年世帝代。故從彼國件錄事條。遣僧義淵乘帆向鄴啟發未聞。事條略云。釋迦文佛入涅槃來。至今幾年。又在天竺經歷幾年方到漢地。初到何帝年號是何。又齊陳國佛法誰先。從爾至今歷幾年帝。請乞具註。其十地智度地持金剛般若等諸論。本誰述作。著論緣起靈瑞所由。有傳記不。謹錄諮審請垂釋疑。上答佛以姬周昭王二十四年甲寅歲生。十九出家三十成道。當穆王二十四年癸未之歲。穆王聞西方有化人出。便即西入至竟不還。以此為驗。四十九年在世。滅度已來至今齊世武平七年丙申。凡一千四百六十五年。後漢明帝永平十年。經法初來。魏晉相傳至今。孫權赤烏年。康僧會適吳方弘教法。地持是阿僧佉比丘從彌勒菩薩受得。其本至晉安帝隆安年。曇摩讖於姑臧為河西王沮渠蒙遜譯。摩訶衍論是龍樹菩薩造。晉隆安年鳩摩什波至長安為姚興譯。十地論金剛般若論。並是僧佉弟婆藪槃豆造。至後魏宣武帝時。三藏法師菩提留支始翻。上答指訂由緣甚廣。今略舉要以示異同。而上所服素納袈裟一鉢三衣外更無積聚。諸受請供感世利財。起一山寺名為合水。山之極頂造兜率堂。常願往生覲覩彌勒。四事供養百五十僧。齊破法湮山寺弗毀。上私隱俗習業如常。常願殘年見三寶復。更一頂禮慈氏如來。業行既專精誠感徹。心如注水。遂屬開皇至尊龍飛佛日還照。上果情願病服袈裟。弟子杠輿昇山寺頂。合掌三禮彌勒世尊。右遶三周訖還山下。奄然而卒。九十餘矣。

> 右の三部合わせて四十三巻。相州前定国寺の沙門、釈法上の撰。法上は戒律の山は高く峻厳、智慧の海は深く幽玄。その徳は人を感化し、威厳は物事を整えることができた。故に魏・斉の世に渡って統都を歴任し、管轄する僧尼は二百万人に及んだ。法上はその綱紀を約四十年にわたって取り仕切った。文宣帝の時代には仏典の弘通が盛んで、法上はその総責任を担い、すべてを調和させた。内外に教えを広め、出家者も在家者も皆が納得した。このような柱石でなければ、誰がこの棟梁たり得ただろうか。その高潔な行いは顕著で、名声は遠くまで響き渡った。 そのため、高句麗国の大丞相・王高徳は深く正しい信仰を抱き、大乗仏教を崇敬し、仏法の風を海の彼方にも広めたいと願った。しかし、仏教の教えの始まりから現在までの経緯を詳しく知ることができなかった。西方から東方へ、どの時代にどの皇帝の代に伝わったのか。そこで、自国から事柄を条項にまとめて記録し、僧・義淵を船に乗せて鄴へ遣わし、未だ聞いたことのないことを尋ねさせた。その条項の概略は次のとおりである。 釈迦文仏が入涅槃されてから、今まで何年になるか。また、天竺で何年経ってから漢地に到達したか。最初に到着したのはどの皇帝の時代で、年号は何か。また、斉と陳の国では、どちらが先に仏法を受けたか。それから現在まで、何人の皇帝を経たか。詳細に注記してほしい。さらに、『十地経』『智度論』『地持経』『金剛般若経』などの諸論は、本来誰が述作したか。論が著された縁起や霊瑞の由来について、伝記はあるか。謹んで記録し、審議を請い、疑問を解き明かしていただきたい。 法上はこれに答えて言う。仏は周の昭王二十四年甲寅の年に生まれ、十九歳で出家、三十歳で成道された。穆王二十四年癸未の年に、穆王は西方に化人が現れたと聞き、すぐに西へ入り、ついに還らなかった。これを証拠とする。仏は四十九年間この世に住し、滅度されてから今の斉の武平七年丙申まで、凡そ千四百六十五年である。後漢の明帝永平十年に、経法が初めて伝来した。魏・晋を経て現在に至る。孫権の赤烏年間に、康僧会が呉に赴き、初めて教法を広めた。『地持経』は阿僧佉比丘が弥勒菩薩から授かったもので、その原本が晋の安帝隆安年間に、曇摩讖が姑臧で河西王の沮渠蒙遜のために訳した。『摩訶衍論』は龍樹菩薩の造であり、晋の隆安年間に鳩摩什波が長安に至り、姚興のために訳した。『十地論』と『金剛般若論』はともに僧佉の弟子、婆藪槃豆の造である。後魏の宣武帝の時に、三蔵法師菩提留支が初めて翻訳した。 法上の答えは縁起を指し示し、訂正するところが非常に広範に及ぶが、ここではその要点を挙げて異同を示すに留める。法上は身に着けるものは質素な袈裟と一鉢、三衣のみで、それ以外に蓄えは一切なかった。諸々の供養を受け、世の利財を感じて、一つの山寺を建立し、名を合水寺とした。山の頂上に兜率堂を造り、常に往生を願って弥勒菩薩に拝謁することを望んだ。四事供養で百五十人の僧を養った。斉が滅び仏法が廃されると、山寺は破壊されなかった。法上はひそかに俗世を離れ、修行を常のごとく続けた。常に残りの年数で三宝の復興を見届け、もう一度慈氏如来に礼拝したいと願った。その業行は専ら精誠を尽くし、心は水の注ぐが如くであった。ついに開皇の至尊が即位し、仏法の日が再び照らされる時が来た。法上は果たして願いを遂げ、病に臥しながらも袈裟をまとい、弟子たちに輿で担がれて山寺の頂上に昇った。合掌して三礼し、弥勒世尊を右繞三周してから山下に戻り、静かに息を引き取った。九十歳余りであった。