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title: "金剛經註釋 · 大乘正宗分第三"
description: "《金刚经注释（溥仁乩书 子真乩订）》是清代一部由乩坛扶乩方式产生的佛教经典注疏，作者托名为溥仁和子真。该书以扶乩所得启示为基础，对《金刚经》的义理进行阐释，融合了儒释道三教思想，反映清代民间宗教与佛教交融的特色。内容侧重心性修养与般若空观，强调破执显真。虽非正统佛学著作，但作为历史乩坛文献，为研究清代民间宗教文化及《金刚经》接受史提供了独特视角，在佛教民间传播领域具有一定参考价值。"
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### ○大乘正宗分第三

> 第三品 大乗の正しい教え

佛告須菩提：諸菩薩摩訶薩應如是降伏其心：所有一切眾生之類，若卵生、若胎生、若濕生、若化生，若有色、若無色，若有想、若無想、若非有想非無想，我皆令入無餘涅槃而滅度之。

子真說。　爾時佛聞須菩提之請，說而告之。此一段文字，是說入門大頭腦也。須菩提三字，是呼其名而告之，不連下諸菩薩摩訶薩在內。摩訶二字，是大者之稱。於諸菩薩中，而又為大菩薩也。言此大菩薩，亦不過從此入門。入門之法，只是一個降伏其心。前此言如是住，如是降伏其心。此專言下句者，正以勇猛精進之法告也。人心最難降伏，惟能以勇猛力量，及精進神思，得步入步，便是降伏功夫，故應如是也。但生類不一，且概舉而言之。所以有一切眾生之類，此句是冐該下文九種而言。數若字，是二指點處。非無想句，不下若字，已到實地位矣。卵胎濕化，單指物言，不涉人類。若有色下，單指人言，不涉物類。言卵胎溼化四種之生，各自不同，而總一生也。有色，色字不專指情欲言。人有此身，即有此色，故謂之色相。有色，則聲香味觸法皆為色動，而即為色迷。此有字，仍對有色相者言。若無色，非專言無色也。空諸相，則著不得色，而色自無矣。有想，想字不專指私稱言。凡人有心必有想，故謂之思想。視聽言動，從思想而出。想之正，則視聽言動皆正。想之邪，則皆邪。惟其有想，便有邪正二端。故此想字，仍從正邊說。若無想，則邪正之念，陶融入化，而想歸於無矣。若非有想，則想雖有，而想已入微，不見有想之迹。故有想而非有也。非無想句，即從上句連絡。無想，已不落想矣。非無想，并不落無想。葢緣想入無上，則心性明覺，無可更著想處，何有於無想。若此想真落空處，則前此從想而得者，反墮落矣。所以此句，竟將以無量無邊，作非字解也。

> 子真が説いた。その時、仏は須菩提の請いを聞き、説いて告げられた。この一文は、入門の大要点を述べたものである。「須菩提」の三字は、その名を呼んで告げられたものであり、以下の「諸菩薩摩訶薩」には含まれない。「摩訶」の二字は、「偉大なる者」という呼称である。諸々の菩薩の中でも、さらに大いなる菩薩を指す。この大菩薩も、ただこの入門を経るに過ぎないのである。入門の方法とは、ただ心を降伏させることだけである。先には「このように安住し、このように心を降伏させる」と説かれたが、ここで特に下の句だけを言うのは、勇猛精進の法を告げるためである。人の心は最も降伏させ難い。ただ勇猛な力と、精進する精神によって、一歩一歩と進んでゆくことこそが、降伏の修行であるから、「かくの如くすべし」と説かれたのである。 しかし、生きとし生けるものの種類は一様ではなく、大まかに挙げて述べられた。よって「一切の衆生の類」という句がある。これは以下の九種を包括して言うものである。幾つかの「若」の字は、二つの指摘の箇所である。「非無想」の句には「若」の字がなく、すでに実の境地に達している。卵生・胎生・湿生・化生は、専ら物を指し、人間には関わらない。「若有色」以下は、専ら人間を指し、物の類には関わらない。 卵生・胎生・湿生・化生の四種の生まれ方は、それぞれ異なるが、総じて一つの生である。「有色」の「色」の字は、専ら情欲を指すものではない。人はこの身があるから、この「色」がある。よってこれを「色相」と呼ぶ。「色」があれば、声・香・味・触・法もすべて「色」によって動かされ、また「色」によって迷わされる。この「有」の字は、やはり「色相」ある者に対して言う。「無色」は、単に「色がない」ということではない。諸々の相を空じれば、「色」に執着することができず、自然と「色」は無くなるのである。 「有想」の「想」の字は、専ら私的な思いを指すものではない。人は心があれば必ず「想」がある。よってこれを「思想」と呼ぶ。見る・聞く・話す・行動することは、すべて思想から出る。「想」が正しければ、見る・聞く・話す・行動することもすべて正しい。「想」が邪であれば、すべてが邪となる。「想」があるゆえに、正邪の二つの側面がある。よってこの「想」の字も、やはり正しい方面から説かれている。 「無想」であれば、正邪の念は陶治されて融合し、ついには「想」は無に帰す。「非有想」であれば、「想」はあっても、その「想」はすでに微細に入り込み、「想」の跡が見えない。よって「想」はあっても「有」ではないのである。「非無想」の句は、上の句から連絡してくる。「無想」は、すでに「想」に落ちていない。「非無想」は、さらに「無想」にも落ちていない。なぜなら、「想」が無上の境地に入ると、心性は明らかに覚り、さらに「想」を着けるべきところがなくなり、ましてや「無想」などというものがあろうか。もしこの「想」が真に空のところに落ちてしまえば、以前にこの「想」によって得たものも、かえって堕ちてしまう。よってこの句は、ついに「無量無辺」をもって、「非」の字の意味と解するのである。

雲峰說：　我字是佛自稱，皆字指上九種說，令字是佛以覺性而通於九種之覺性，故能令之也。入字最有功夫，不可作出彼入此看，直是令一切眾生造入法門，而佛以無剩義之法使之盡覺。涅槃二字，解者多悞，有以涅槃為死者，釋氏之悞也；有以如來另有涅槃經者，再悞也。夫涅槃者，是如來之真性明覺，自有天地到今，無分今古，此真性常存不失，所以如來以三世轉身法界，如去復來，愈到愈熟，永無迷路，故得以其真性與天地終始，永無斷續，謂之涅槃。無餘涅槃者，言此涅槃毫無剩義，尚待補塞，所以將此真性普度一切眾生也。言滅度者，不是生滅之滅，是言如來度人全無形跡，潛移默化，使之盡行化度也。

> 雲峰が説く。「我」という字は仏が自らを指して言うものであり、「皆」の字は上に挙げた九種のものを指している。「令」の字は、仏が覚性をもって九種の覚性に通じるからこそ、それらを可能にするという意味である。「入」の字に最も功力があり、これを「彼を出でて此に入る」と見なしてはならない。まさに一切の衆生をして法門に造り入らしめ、仏が余すところのない法をもって彼らを尽く覚らせるのである。「涅槃」という二字については、解釈する者に誤りが多い。涅槃を死と見なす者があるが、これは釈氏の誤りである。また、如来には別に涅槃経があると考える者があるが、これもまた誤りである。そもそも涅槃とは、如来の真性明覚のことである。天地が在ってから今日に至るまで、古今を分かつことなく、この真性は常に存して失われることがない。それゆえ如来は三世にわたって法界に身を転じ、去ってはまた来るように、来るたびにますます熟達し、永遠に迷う道がない。故にその真性をもって天地と終始を共にし、永遠に断絶したり継続したりすることがない。これを涅槃と名付けるのである。無余涅槃とは、この涅槃に少しも余すところがなく、後から補い埋めるべきものがないことを言う。だからこそ、この真性をもって一切の衆生を普く度するのである。「滅度」と言うのは、生滅の滅ではない。如来が人を度するに全く形跡がなく、潜かに黙って化し、彼らをして尽く化度せしめることを言うのである。

子真說　涅槃竟，作到彼岸看，是否？

> 「子真が説いた『涅槃』とは結局、あの世へ渡ったという意味ですか？」

雲峯說　是是，但不說得明白，竟云到彼岸從何處作津梁。故須以前之降伏二字，下一杖子。如無餘，則不消降伏矣。若論到無餘地位，則涅槃仍是無餘，有餘非涅槃矣。求其無餘，則亦非涅槃矣。四字相連而解，何有不明乎。

> 雲峰が言った。「『是是』とは言うが、はっきりとは説かれていない。結局『彼岸に到る』と言うが、どこを渡し場とするのか。だからこそ、先の『降伏』の二字を杖の一撃として下す必要がある。もし『無余』の境地に至れば、もはや『降伏』するまでもない。『無余』の位を論じるならば、涅槃はすでに『無余』であり、『有余』は涅槃ではない。『無余』を求めても、それもまた涅槃ではない。この四字を連ねて解けば、何が不明なことがあろうか。」

子真說：　滅度之如來有心否？

> 師子覚が言った。「滅度された如来に心はあるのでしょうか？」

雲峯說：　有心滅度，便有度不得處。功夫不在滅度時，而在降伏其心時。如來惟不待降伏，便能令眾生無不化度矣。九種既分人物，便有靈蠢，如來如何令皆滅度？惟不分靈蠢而皆滅度，所以謂無餘涅槃也。

> 雲峯が言った。「心を滅度しようとすれば、そこには滅度できないところが生じる。修行の要は、滅度しようとする時にあるのではなく、心を降伏する時にある。如来は降伏を待たずして、すでに一切の衆生を化度している。九種の衆生が人や動物に分けられれば、そこには霊妙なものと愚かなものとが生じるが、如来はいかにしてこれらすべてを滅度できるのか。霊妙と愚かを区別せず、全てを滅度することこそ、『余りなき涅槃』（無余涅槃）と呼ばれる所以である。」

如是滅度無量無數無邊眾生，實無眾生得滅度者。何以故？須菩提！若菩薩有我相、人相、眾生相、壽者相，即非菩薩。

子真說：　上文言佛滅度眾生，而如來以為眾生皆有佛性，皆可作佛，則是此等無可限量，無可指數，無有邊際，一切眾生俱是可以化度，不以我之化度而成證果，故謂實無眾生得滅度也。

雲峯說　實無句，是言如來以無餘涅槃滅度眾生，到眾生滅度之後，使九種眾生俱已入化，則是眾生已無如來滅度之形跡，故謂之實無有得。譬如魚在水，而忘水與之俱化，何得之有？此句不是如來自讚能度眾生，正言無量無數無邊，在在可度，實由眾生可造入無餘，而非我之功也。何以故三字，申明實無有句之故。如來以為若菩薩欲滅度眾生，而謂我之一身可以度之，便先設一我相。有我即有人，人我相形，便有人相。有人相，則前此九種眾生，其中便分別靈蠢高下，而存一眾生相矣。有眾生相，將欲以我之身永長於世，而化度一切，便生壽者相，即非菩薩地位中人矣。所以如來度盡眾生，而不留四相，故謂之皆入無餘涅槃也。

子真說：　如此說有我相四句，是一串矣。何謂四相？

雲峰說　我相即是人相，則雖有四相，仍從我相而起。