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title: "歷朝釋氏資鑑 · 後周"
description: "歷朝釋氏資鑑由元代僧人熙仲集編撰。該書成於元代佛教史學發展背景下，系統輯錄了從上古至元代的佛教歷史事件、高僧傳記及朝廷與佛教的互動關係。內容以編年體形式展現，涵蓋宗派傳承、經典翻譯、寺廟興建等關鍵史實，兼具史料匯編與資治通鑒雙重性質。作為元代重要的佛教通史著作，它不僅保存了珍稀的佛教文獻，更為研究漢傳佛教發展脈絡提供了權威依據，在佛教史學領域具有承前啟後的里程碑地位。"
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### 後周

> 後周

郭氏。都汴。三主共十年○勑聖節寺院。建道場見前紀原。

> 郭氏は都の汴に住んでいた。三代の主君を合わせて十年間。勅命により聖節の寺院では道場を設けた<note>前紀の原に見える</note>。

周太祖　辛亥正月即位。改元廣順。

> 周の太祖は、辛亥の年の正月に即位した。元号を広順と改めた。

吳越錢王。命永明道潛禪師。入府授菩薩戒。賜定慧慈化禪師。一日潛欲請塔下羅漢銅像。過新寺供養王曰善矣。昨夜夢十六尊者。乞隨入寺。何昭應之若是於師號加應真二字。留潛兩月還山。

> 呉越の銭王は、永明道潜禅師を府中に招き、菩薩戒を授けた。そして「定慧慈化禅師」という称号を賜った。ある日、道潜禅師は塔の下にある羅漢の銅像を請じ、新しい寺に移して供養したいと願い出た。 王は「良いでしょう」と答え、「昨夜、十六羅漢が夢に現れ、寺に同行したいと乞うたのです。なんと見事に応じられたことか」と語った。そこで禅師の称号に「応真」の二字を加え、道潜禅師を二か月間留め置いてから山へ帰した。

癸丑　三年。韶國師。因吳越僧義寂曰。智者之教。年祀𥨊遠。必多散矣。唯新羅國有善本。願藉禪師慈力。使再開東土人天眼目。師以聞王。王乃遣使航海。傳寫以還。迨今天台俱備者。皆忠懿王。與韶國師之力也。而韶適與智者同姓。疑其後身也僧史。

> 癸丑の年、三年のこと。韶国師のもとに、呉越の僧である義寂が言った。「智者大師の教えも、年月が経つにつれて、多くが散逸してしまいました。ただ新羅国にのみ完全な写本が残っています。どうか禅師の慈力をもって、この東土（中国）に再び人天の眼目を開かせてくださいませ」。国師はこのことを王に伝えた。王は使者を遣わし、海を渡らせて写本を持ち帰らせた。今日に至るまで天台の教えが完全に備わっているのは、すべて忠懿王と韶国師の力によるものである。そして、韶国師がたまたま智者大師と同じ姓であったことから、その生まれ変わりではないかと疑われたのである〈僧史より〉。

甲寅　四年。太祖崩。紫世宗立。改元顯德。明年勑。天下寺院。非勑額者併之。凡三千餘所。僧尼凡欲出家者。必聽祖父母。父母。伯叔父之命。惟兩京大名俯。京兆府。青州。聽設戒壇。禁僧俗捨身。斷手足。煉指炷香。帶鉗之類。幻惑流俗通鑑。

乙卯　二年。詔郡國。歲造僧帳。有死亡歸俗。皆隨時開落。是歲寺存者。二千七百。廢三萬三百餘通鑑事物紀原載。明皇開元十七年。八月十日勑。僧尼宜依十六年舊籍。則僧尼供帳。始於此。又僧史略曰。唐文宗太和四年。正月。祠部請。天下僧尼。具名申省。以憑入籍。造帳自太和始也。

丙辰　有僧仁。及為節度使。周行逢信任軍府事皆預之。亦加檢校。司空畜室。出入導從。如王者通鑑秋七月。帝以縣官久不鑄錢。而民間多銷錢為器皿佛像。錢益少。九月。始立監。采銅鑄錢。自非州縣官。法物軍器。及寺觀鍾磬鈸鐸之類。聽留。外自餘民間銅器佛像。五十日內。悉令輸官。給其直。過期隱匿不輸。五斤以上者。其罪死。不及者論刑有差○上謂侍臣曰。卿輩勿以毀佛為疑。且佛以身世為妄。而利益人為急。使其真身尚在。苟利於世。尚欲割截布施。況此銅像。若朕身可以濟民。亦非可惜也。由是群臣不敢言○鎮州大悲觀音像極靈。州之士民。願以錢代之。制不許。方毀其𮌎。群力皆墮腕。而遂停其半○時沙門法敏。苦諫不納。乃著顯驗論北山錄。

己未　六年。世祖北征。疽發于𮌎。夏六月。殂于道。年三十九。時恭帝宗訓即位。方七歲。

庚申　顯德七年正月。恭帝禪位于點檢使趙匡胤。是為宋太祖。

楊文公談苑。顯德三年。悉毀銅像鑄錢。世宗謂宰相曰。佛教以頭目髓腦。利益眾生。尚無所惜。復以銅像而愛之乎。宋太祖太宗。目擊其事。由是益信佛法。故受命之初。復興天下佛寺歐陽公外傳。

顏丙詩云。後漢明皇教始來。永平優鉢火中開。霜鍾漸漸通三界。梵剎徐徐遍九垓。三武滅僧僧不滅。一韓摧佛佛非摧。法門若也無靈驗。應作中華一聚灰。

劉煦授司空平章事撰舊唐史。佛祖異跡並載之。至宋歐陽脩撰唐書。皆刪去。司馬光編通鑑。佛祖事跡。有助國化者。悉刪去之亦不存。此亦一偏見。而獨班然見於典籍。照垂于世。何慊乎哉統論。

潭州道林沙門疏言。詣大原府。訪求藏經。高士李節。餞以序曰。業儒之人。喜排釋氏。其論必曰。禹湯文武孔子之代。皆無有釋氏。釋氏興於衰亂之際。宜革絕之。使不得滋。此論者之言粗矣。抑能知其然。未知其所以然也。吾請言之。昔有一夫。膚腯而色凝。氣烈而神清。未甞謁醫。未甞禱鬼。恬然保順。罔有札瘥之患。固善也。即一夫不幸。而有寒暑風濕之痾。於是攻熨之術用焉。禳禬之事紛焉。是二夫豈特相返耶。盖病與不病。勢異耳。嗟呼三代之前世康矣。禹湯文武。德義播之。周公孔子。典教持之。道風雖衰。漸清猶存。詐不勝信。惡知避善。三代之季世病矣。道風大衰。詐以覆信。善以柔退。惡以強用。上下相仇。激為怨俗。釋氏之教。以清虗為禪定。以柔謙為忍辱。故怨可得而息也。以菲薄勤苦為修行。以窮達壽夭為因果。故賤陋可得安也。故其云。必煩惱乃見佛性。則本衰代之風激之也。夫衰代之風。舉無樂者也。不有釋氏以救之。尚安所寄其心乎。論者。不責衰代之俗。而尤釋氏之興。則是抱疾之夫。而責其毉禱攻療者也。徒知釋氏因衰代而興。不知衰代須釋氏之救也。何以言之。夫俗既病矣。人既愁矣。不有釋氏使安其分。勇者將奮而思鬪。智者將靜而思謀。則阡陌之人。將紛紛而群起矣。今釋氏一縷之分。不責於人。故賢智雋朗之士。皆□心焉。其不能達此者愚人也。惟上所役焉。故罹亂之俗。可得而安賴此也。疾其雕鎪綵繪之小費。吾故曰。能知然不知其所以然也。會昌季年。武宗大剪釋氏。天下祠宇。毀撤如掃。天子建號之初。雪釋氏之不可廢也。詔徐復之。嘻釋氏之助世。既言之矣。向非吾君洞鑒理源。其何能復立之耶。

山谷居士黃庭堅曰。夫沙門法者。不主資生。行乞取足。日中受供。林不託宿。故趙州以斷薪續禪床。宴坐三十年。藥山以篾繞腹。一日不作則不食。今也毀中民百家之產。而成一屋集農夫十口之食。而飯一僧不亦泰乎。不畊者燕居而玉食。所在常居千百數。是以有會昌之籍沒。窮土木之好。龍象虎豹之區。化為金碧。是以有廣明之除蕩。可不忘耶。主僧行瑛曰。然會昌廣明之詔。其說不過人其人。火其書。廬其居。若夫毗盧宮殿樓閣。充滿十方。於諸境界無所分別。彼又安能廬吾居。有大經卷。量壽三千大千世界。藏於一微塵中。彼又安能火吾書。無我無人。無佛無眾生。彼又安能人吾人。庭堅曰。此上人者。如來藏中之說客。菩薩位中之游俠耶開元修造記。

## 歷朝釋氏資鑑卷第八

大唐而由五季。烈聖良輔。時英廣運檀心。聿脩淨業。貝業之文。宣釋備圓。而結成大藏。拈花之旨。單傳密付。而建立五宗。棋布講筵。星羅禪席。豈期會昌之變。遽有魏宋之舉。恃賴春回梵苑。殿靄名香。象教󳬂興。聖儀編跱。瀚海天山之地。盡入提封。龍庭鳳穴之鄉。咸霑聲教。公卿梵侶。衛教扶宗者。皆奈苑之龍麟。並祇園之梓𣏌。謬隨笔而紀之。豈管窺而盡哉。必有英毅挺枝。風格超倫之士。廣而述之。以明後代云。