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title: "三國遺事 · 末鄒王　竹葉軍"
description: "三国遗事由高丽时代僧侣一然所撰，是朝鲜半岛重要佛教历史文献。该书成书于13世纪，在高丽王朝佛教兴盛的背景下，补充了三国史记未收录的古代新罗、高句丽、百济历史传说与佛教事迹。内容涵盖王系编年、佛教传播、高僧轶事及灵异故事，尤其记录了阿道、墨胡子等早期传法者的事迹与佛国寺创建等史实。作为朝鲜佛教史核心典籍，它融合历史与宗教叙事，对研究韩国古代文化、佛教发展及民间信仰具有不可替代的权威价值。"
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### 末鄒王　　竹葉軍

> 末鄒王 竹葉軍

第十三末鄒尼叱今一作末祖又末古金閼智七世孫赫世紫纓仍有聖德。受禪于理解始登王位今始稱王之陵為始祖堂。蓋以金始始登王位。故後代金氏諸王皆以末鄒為始祖。宜矣。在位二十三年而崩。陵在興輪寺東。第十四儒理王代。伊西國人來攻金城。我大舉防禦。久不能抗。忽有異兵來助。皆珥竹葉。與我軍并力擊賊破之。軍退後不知所歸。但見竹葉積於末鄒陵前。乃知先王陰隲有功。因呼竹現陵。越三十六世惠恭王代。大曆十四年己未四月。忽有旋風。從廋信公塚起。中有一人乘駿馬如將軍儀狀。亦有衣甲器仗者四十許人。隨從而來。入於竹現陵。俄而陵中似有振動哭泣聲。或如告訴之音。其言曰。臣平生有輔時救難匡合之功。今為魂魄鎮護邦國。攘災救患之心暫無渝改。往者庚戌年。臣之子孫無罪被誅。君臣不念我之功烈。臣欲遠移他所。不復勞勤。願王允之。王答曰。惟我與公不護此邦。其如民庶何。公復努力如前。三請三不許。旋風乃還。王聞之懼。乃遣工臣金敬信。就金公陵謝過焉。為公立功德寶田三十結于鷲仙寺。以資冥福。寺乃金公討平壤後。植福所置故也。非末鄒之靈。無以遏金公之怒。王之護國不為不大矣。是以邦人懷德。與三山同祀而不墜。躋秩于五陵之上。稱大廟云。

> 第十三 味鄒尼師今<注>一說には末祖、また末古ともいう</注>金閼智の七世の孫で、赫世の紫纓を受け継ぎ、聖なる徳を持っておられた。理解から禅譲を受け、初めて王位に登られた。<注>今、初めて王と称した陵を始祖堂という。これは金氏が初めて王位に登ったからである。ゆえに後の世代の金氏の諸王はみな味鄒を始祖とする。もっともなことである</注>在位二十三年で崩御された。陵は興輪寺の東にある。 第十四 儒理王の代に、伊西国が金城を攻めてきた。我々は大軍を挙げて防戦したが、長く抗しきれなかった。ところが突然、異兵が来て助けた。みな竹の葉を耳に挿していた。我が軍と力を合わせて賊を撃ち破った。軍が退いた後、彼らがどこへ帰ったかわからなかった。ただ竹の葉が味鄒陵の前に積もっているのみであった。そこで先王が陰ながら霊験を示して功績があったことを知った。それで竹現陵と呼ぶようになった。 三十六世を経て恵恭王の代、大暦十四年己未の四月、突然旋風が廋信公の塚から起こった。その中に一人の人が駿馬に乗り、将軍の装いをしていた。また甲冑や兵器を身につけた者四十人ばかりが従って来た。竹現陵に入っていった。しばらくして陵の中から振動や泣く声が聞こえるようであった。あるいは告げ訴えるような声があった。その言うには「臣は平生、時を助け難を救い、国を匡し合わせる功績がありました。今、魂魄となって国を鎮め守り、災いを払い患いを救う心は少しも変わりません。以前の庚戌の年に、臣の子孫が罪なくして誅されました。君臣は我が功績を顧みません。臣は遠く他へ移りたいと思います。もはや労を尽くすことはありません。願わくば王はこれを許されよ」と。王は答えて言った「我と公がこの国を護らねば、民百姓はどうなるのか。公は再び努力されたい。以前のように」。三度請い、三度許されなかった。旋風はついに還っていった。王はこれを聞いて恐れ、工匠の金敬信を遣わし、金公の陵に行って謝罪させた。公のために功徳宝田三十結を鷲仙寺に施し、冥福を資けた。この寺は金公が平壤を討って後、福を植えるために建てたものだからである。味鄒の霊でなければ、金公の怒りを止めることはできなかった。王の国を護ること、小さくはなかった。それゆえ国中の人は徳を慕い、三山とともに祭祀を同じくして絶えることがなかった。位を五陵の上に進め、大廟と称したのである。