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title: "大乘義章 · 18 四緣義(三本)"
description: "大乘義章是隋代高僧慧遠所著的一部重要佛教論典。該書創作於南北朝佛教義學興盛之際旨在系統闡釋大乘佛教的核心教義。全書內容廣博對名相、法數、教理等進行了精細分梳與詮釋涵蓋空有、佛性、修行等多個關鍵領域體系嚴整被譽為中國佛教史上的百科全書式著作。此書不僅總結了南北朝佛教的思想精華更對後世天台、華嚴等宗派的教理發展產生了深遠影響是研究漢傳大乘佛教思想不可或缺的權威典籍。"
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### 四緣義四門分別釋名一　辨相二　就法分別三　大小同異四

> 四縁の意味を四つの門から分別する

第一釋名。所言緣者。由籍之義。緣別不同。故分為四。一者因緣。二次第緣。三者緣緣。四增上緣。言因緣者。親生之義。目之為因。用因為緣。故曰因緣。次第緣者。籍前心法。次第生後。所生之心。次前後起。故名為次。以後生故。說之為第。前心與後。次第為緣。名次第緣。言緣緣者。六塵境界。為心所緣。故名為緣。由彼所緣。與心作緣。故名緣緣。亦可疎助。名之為緣。以緣故名緣緣。增上緣者。起法功強。故曰增上。以此增上為法緣。故名增上緣。於中亦有非增上者。從勝受名。故曰增上。此一門竟。

> まず名前の説明です。ここでいう「縁」とは、よりどころとするという意味です。縁は種類によって異なるので、四つに分けられます。第一に因縁、第二に次第縁、第三に縁縁、第四に増上縁です。 因縁とは、直接に生み出すはたらきを意味し、これを因と呼びます。因を縁として用いるので、因縁と言います。 次第縁とは、前の心のはたらきをよりどころとして、次々に後の心が生じることです。生じた心は、前の心に続いて起こるので「次」と呼び、後のものとして生じるので「第」と言います。前の心と後の心が、次々に縁となるので、次第縁と名づけます。 縁縁とは、六つの感覚対象の世界が、心のよりどころとなることです。これを縁と呼びます。そのよりどころとなるものが心に対して縁としてはたらくので、縁縁と言います。また、間接的に助けるものを縁と呼び、縁であることから縁縁とも言えます。 増上縁とは、諸法を生じさせる力が強いことから、増上と言います。この増上を法の縁とするので、増上縁と名づけます。この中には増上でないものもありますが、すぐれたものの名をとって増上と言います。 この一節は以上です。

次辨其相。四緣之義。諸論不同。成實論中。宣說三因。以為因緣。一者生因。所謂一切善惡等業。能生一切苦樂等報。故名生因。二者依因。所謂色心互相依立。故曰依因。其猶尼乾立拒舉瓶相假而立。彼亦如是。三者習因。如人習善增長善法習惡增長惡法。如是一切。後起增前。故名為習。用習作因。名為習因。用此三因。以為因緣。心法續起。為次第緣。六塵生識。以為緣緣。六根生識。為增上緣。故成實論云。言緣緣者。所謂色等。增上緣者。所謂眼等。若依毘曇。就彼六因離合為四。何等為六。一所作因。二共有因。三自分因。四者遍因。五相應因。六者報因。所作因者。諸法起時。除其自體。萬法不障。令其得生。名所作因。如空生色。如是等也。共有因者。諸法起時。同時同性。共有之法。展轉為因。名共有因。自分因者。同類之法。籍前生後。名自分因。言遍因者。苦集諦下疑見無明。增上一切染污法。故名為遍因。於中差別乃有十一。苦下有七。所謂五見疑及無明。集下有四。邪見見取疑及無明。相應因者。止在心法。如心起時。同時即有諸心數法。與心相應。是相應法。展轉相助。能有所作。名相應因。前共有因。相扶體立。此相應因。相扶有用。言報因者。一切有漏善不善法。能生一切苦樂等報。名為報因。此義廣釋如六因章。於中自分遍因報因相應共有。此之五因合為因緣。所作因中離為三緣。以彼所作寬通故爾。就所作中。分取心法生後之義。為次第緣。總相如是。於中別論。乃有三門。一定別諸心。二就生死辨定諸心。三明諸心相生次第。言定別者。心別有十。一方便善心。所謂一切聞思修等相應之心。二生得善心。謂從過去修習所成。信進念等相應善心。三不善心。謂欲界中。除身邊見餘煩惱業相應之心。四穢污無記。亦名隱沒。謂欲界中身邊兩見。及上二界一切煩惱相應之心。五報生心。謂三界中報無記心。六威儀心。謂行住坐臥見聞等心。七工巧心。所謂一切營生之心。八變化心。謂依諸禪起化之心。九者學心。謂三乘人無漏因心。十無學心。謂三乘人無漏果心。此十心中。欲界有八。除學無學。成實法中。欲界地中。有電光定。得發無漏。若從是義。欲界亦有學無學心。毘曇不立。色界有八。除不善心及工巧心。一切上地。無有不善及工巧心。故成實法中。上界得起欲界不善。毘曇不立。無色界中下三空處。但有六心。除不善心威儀工巧及變化心。有餘六種。成實法中。無色亦起欲界不善。大乘宣說無色界中有形色故亦有威儀變化等心。毘曇不立。非想地中。但有方便生得穢污報生四心。彼無無漏。除學無學。餘如上說。心別如是。

> 次にその相を辨じる。四縁の義は、諸論によって異なる。『成実論』では三つの因を説いて因縁とする。一つは生因。いわゆる一切の善悪などの業が、一切の苦楽などの報いを生じることを生因と名づける。二つは依因。いわゆる色と心が互いに依って成立することを依因という。ちょうど尼乾が杖を立て瓶を掲げるように、互いに仮りに成立する。それもまた同様である。三つは習因。人が善を習って善法を増長し、悪を習って悪法を増長するようなものである。このように一切は、後に起きるものが前のものを増す。ゆえに習と名づける。習を因として用いるので習因と名づける。この三つの因を因縁とする。心法が続いて起きるのを次第縁とする。六塵が識を生じるのを縁縁とする。六根が識を生じるのを増上縁とする。ゆえに『成実論』に云う。縁縁と言うのは、いわゆる色などである。増上縁とは、いわゆる眼などである。もし毘曇に依れば、かの六因を离合して四つとする。何が六つか。一つは所作因。二つは共有因。三つは自分因。四つは遍因。五つは相応因。六つは報因。所作因とは、諸法が起きる時、その自体を除いて、万法が妨げず、生じることを得させる。これを所作因と名づける。空が色を生じるようなものである。このようである。共有因とは、諸法が起きる時、同時に同性で、共に有する法が、互いに因となる。これを共有因と名づける。自分因とは、同類の法が、前によって後を生じる。これを自分因と名づける。遍因とは、苦諦と集諦の下の疑と見と無明が、一切の染汚法を増上する。ゆえに遍因と名づける。その中に差別があって十一ある。苦の下に七つある。いわゆる五見と疑と無明である。集の下に四つある。邪見と見取と疑と無明である。相応因とは、ただ心法に限る。心が起きる時、同時にすなわち諸心数法があり、心と相応する。この相応法が互いに助け合い、よく所作がある。これを相応因と名づける。前の共有因は、体が互いに扶けて成立する。この相応因は、互いに扶けて働きがある。報因とは、一切の有漏の善不善法が、一切の苦楽などの報いを生じる。これを報因と名づける。この義は六因の章で広く説明される通りである。その中で自分因・遍因・報因・相応因・共有因、この五つの因を合わせて因縁とする。所作因の中を離して三縁とする。かの所作が広く通じているゆえである。所作の中から、心法が後を生じる義を分け取って、次第縁とする。総相はこのようである。その中で別に論じれば、三つの門がある。一つは諸心を定別する。二つは生死について諸心を定める。三つは諸心が相生じる次第を明かす。定別と言うのは、心に別に十がある。一つは方便善心。いわゆる一切の聞思修などに相応する心である。二つは生得善心。過去の修習によって成った、信進念などに相応する善心である。三つは不善心。欲界の中で、身見と辺見を除いた残りの煩悩と業に相応する心である。四つは穢汚無記。またの名を隠没。欲界の中で身見と辺見の二つ、および上二界の一切の煩悩に相応する心である。五つは報生心。三界の中の報無記心である。六つは威儀心。行住坐臥や見聞などの心である。七つは工巧心。いわゆる一切の生計を営む心である。八つは変化心。諸禅に依って変化を起す心である。九つは学心。三乗の人の無漏の因の心である。十は無学心。三乗の人の無漏の果の心である。この十心の中で、欲界には八つある。学心と無学心を除く。『成実』の法では、欲界の地の中に電光定があり、無漏を発することができる。この義からすれば、欲界にも学心と無学心がある。毘曇では立てない。色界には八つある。不善心と工巧心を除く。一切の上地には、不善や工巧の心がないからである。ゆえに『成実』の法では、上界でも欲界の不善を起すことができる。毘曇では立てない。無色界の中の下三空処には、ただ六心だけがある。不善心・威儀・工巧・変化心を除く。残りの六種がある。『成実』の法では、無色でも欲界の不善を起す。大乗では無色界の中に形色があると説くので、威儀や変化などの心もある。毘曇では立てない。非想地の中には、ただ方便・生得・穢汚・報生の四心だけがある。そこには無漏がない。学心と無学心を除く。残りは上で説いた通りである。心の別はこのようである。

次就生死辨定諸心。此十心中。二心得生。所謂不善及穢污心。一切受生依煩惱故。五心得死。謂生得善．不善．穢污．報生．威儀。此五心中。得命終也。不善命終。唯在欲界。威儀命終。通欲色界。生得穢污。遍通三界。報心不定。毘婆沙中。有二種說。一家宣說。三禪已還無捨受報。若從是義。三禪已還無有報心而命終者。命終必在捨受心。故一家宣說。三禪已還亦有報捨。若從是義。報心命終。遍通三界。於中下死。向上生者。必在生得報生威儀三心中死。若有下地不善穢污不上生故。若色界死向下生者。必在生得穢污報生威儀心死。一切上地無不善故。若無色死向下生者。必在生得穢污報生三心中死。彼無不善威儀心故。若欲界死欲界生者。五種心中。皆得命終。若色界死當地生者。四心命終。除不善心。三禪已還報心有無義。如上判。今且論有。若無色死當地生者。必在生得穢污報生三心命終。彼無不善威儀心故。問何故方便善心學無學心工巧變化心。不得命終。以命終時心微劣故。不得在此強心中死。生死如是。

> 次に、生死について諸々の心を判定する。この十心のうち、二つの心は生を得る。いわゆる不善心と穢污心である。すべての受生は煩悩によるからである。五つの心は死を得る。生得善・不善・穢污・報生・威儀である。この五つの心において、命終を得るのである。不善による命終は、ただ欲界にのみある。威儀による命終は、欲界・色界に通じる。生得と穢污は、三界に遍く通じる。報心は定まらない。毘婆沙の中に、二つの説がある。一つの家の宣説では、三禅までには捨受の報がないという。この義に従えば、三禅までには報心によって命終するものはない。命終は必ず捨受の心にあるからである。もう一つの家の宣説では、三禅までにも報捨があるという。この義に従えば、報心による命終は、三界に遍く通じる。中・下で死に、上に向かって生まれるものは、必ず生得・報生・威儀の三心において死ぬ。下地に不善と穢污があっても上に生まれることはないからである。色界で死に、下に向かって生まれるものは、必ず生得・穢污・報生・威儀の心において死ぬ。一切の上地には不善がないからである。無色で死に、下に向かって生まれるものは、必ず生得・穢污・報生の三心において死ぬ。そこには不善と威儀の心がないからである。欲界で死に、欲界に生まれるものは、五種の心のうち、すべて命終を得る。色界で死に、当地に生まれるものは、四つの心で命終する。不善心を除く。三禅までに報心があるかないかの義は、上述のように判定した。今しばらく「有」として論じる。無色で死に、当地に生まれるものは、必ず生得・穢污・報生の三心において命終する。そこには不善と威儀の心がないからである。問う、何ゆえに方便善心・学無学心・工巧変化心は、命終を得ないのか。命終の時、心が微弱であるから、この強い心において死ぬことができないのである。生死はこのようである。

次辨諸心相生次第。於中唯就隣次相生。以明次第。次第有七。一同處法相生次第。謂同地法互相因起。二於上法修起次第。如依欲善起初禪等。三於下法防過次第。如依上地方便善心及穢污心起下地中生得善等。四於下法退轉次第。如依上善退生下結。五於上於下遊觀次第。如九地中漏無漏善互相因起。六於上於下受生次第。如彼生得報心等死染污生等。七於下於上體用次第。如從淨禪起變化心。化心次第起淨禪等。今就此義以明諸心相生次第。先論方便。欲界地中方便善心。於自地中能生一切。除欲界中四禪化心。於上能生方便善心學無學心。修起次第。從欲界地聞思慧等。起初禪地方便善心。遊觀次第。從欲界中聞思慧等。起初二禪方便善心學無學心。次第正受。起初禪地方便善心學無學心。超越正受。起二禪地方便善心學無學心。聲聞超越禪不過一。故餘一切地相望例然。若論菩薩。於一切地。隨所有心。皆悉能起。何故不生上地生得。一切生得。皆隨身報。身在下地。則無上地生得善故。何故不生上地不善。一切上地無不善故。何故不生上地隱沒。上地隱沒。愛著自地。要先起彼方便善竟。然後生愛。愛自所得。是故不從下地方便經起上地穢污之心。何故不生上地報心。身在下地無上報故。何故不生上地穢污。身在欲界。雖起初禪眼耳等識。彼所生所生識。必依上地眼耳等根。上地之根。必依上地淨禪而生。不依下地善心生故。何故不生上地工巧。一切上地無工巧故。何故不生上地化心。上地化心。是其上地淨禪果故。欲界如是。色界地中方便善心。於自地中。能生一切。除自地中上禪化心。於上地中。生方便善學無學心。於下欲界。生方便善心生得善心。不善穢污及變化心。遊觀次第。生方便善生得善心。欲界生得。是捷疾故。從上方便次第生之。餘一切地生得善心。皆不如是。退轉次第。生不善心及穢污心。起用次第。生下化心。何故不生欲界地中報生威儀工巧之心。彼微劣故。不從上善次第生之同界之中。望於下地。得生五心。遊觀次第。生下方便學無學心。退轉次第。生下穢污。起用次第。生下化心。色界如是。無色界中方便善心。於自地中。能生一切。望上不定。空處識處。能生上地方便善心學無學心。無所有處。望上唯生方便善心。非想地中。無無漏故。不生學心及無學心。非想望上更無所生。望於下地得生四心。遊觀次第。生下方便學無學心。退轉次第。生下隱沒四空定心。不起化故。不生化心。方便如是。次辨生得。欲界地中。生得善心。於自地中。能生一切。除變化心。於上地中。唯生穢污。謂欲界中生得命終上一切地染污生故。何故不生上地方便學無學心。非方便故。何故不生上地生得報生威儀。界地別故。何故不生上地化心。以變化心上禪果故。色界生得。於自地中。生方便善生得穢污報生威儀。除變化心學無學心。於上地中。唯生穢污。於下地中。得生不善及穢污心。無色生得。於自地中。生方便善生得善心穢污報生。於上地中。得生穢污。於下地中。得生不善及穢污心。次明不善。得不善心。於欲界中。能生一切。除變化心。於上不生。次明穢污。欲界穢污與不善同。色界穢污。於自地中。生方便善生得穢污報生威儀。除變化心學無學心。於上不生。於下欲界。生方便善生得不善及穢污心。為依下善防自地退故。起欲界方便善心生得善心。於上命終。下染受生。故起欲界不善穢污。同界望下生方便善及穢污心。問曰。何故色界穢污。得生欲界生得善心。同界下地不起生得。釋言。欲界生得善心強。利捷疾。能防上退。是故起之。上界生得。軟鈍不利。不能防上。所以不起。無色穢污。於自地中。生方便善生得穢污及報生心。於上不生。於下欲界。生不善心及穢污心。謂彼命終欲界生故。於下色界。生方便善及穢污心。為防上退。起下方便。上死下生故起染心。同界望下如望色界。有人說言。同界望下。但起生得及穢污心。論無此言。人之謬語。次辨報心。欲界報心。於自地中。除方便善及變化心。生餘一切。以微劣故。不生方便。非淨禪故。不生化心。於上地中。但生穢污。謂彼命終上地生故。色界報心。於自地中。能起生得穢污報生及威儀心。於上地中。但生穢污。於下能生不善穢污。謂彼命終下地生故。無色報心。於自地中。能起生得穢污報生。於上生染。於下但生不善穢污。問曰。不善尚能次第生方便善。報心云何不能如是。論自釋言。報心羸劣故不生善。不善與善境界不異。以見過故。不善心後能生善心。又復不善是強盛心。故能生善。問曰。若言報心羸劣不生善者。方便善心何故生彼。論自釋言。善心息時。捨勤方便。故得生羸劣報心。次辨威儀。欲界威儀。同欲界報。色界威儀。同色界報。次辨工巧。與欲界中報威儀同。問曰。威儀及工巧心。何故不生方便善心。論言。此二自樂所作。是故不生方便善心。何故不起學無學心。非方便故。何故不起變化之心。非淨禪故。次辨化心。欲界化心。於自地中。唯生化心。於上地中。唯生方便。謂從化心入根本禪。色界化心。於自地中。唯生化心及方便善。同類相起。故生化心。從用歸本。故生方便。於上唯生方便善心。謂二禪化還入二禪。乃至四禪類亦同然。於下不生。次辨學心。色界學心。於自地中。生方便善學無學心。於上唯生方便善心及與學心。以何義故不生無學。上地無學。必依上地淨禪起故。於下欲界。生方便善生得善心。同界望下。生方便善及與學心。以何義故不起生得。如彼雜心子注釋言。欲界生得。強而捷利故。從學心次第生之。上界生得。弱而不利。故學心後。不得生之。以何義故不生無學。下地無學。必依下地淨禪生故。無色學心。與色界同。除望欲界。去欲界色遠。不生彼故。次辨無學。色界無學。於自地中。生方便善及無學心。以何義故不生學心。得無學時。捨學心故。退無學時煩惱心退。非學心退故。無學心不生學心。於上地中。生方便善及無學心。謂阿羅漢遊戲諸地。或從無漏起有漏心。或從有漏起無漏故。於下欲界。生方便善及生得善。亦以欲界生得強利故。得生之。同界下地。生方便善及無學心。上界生得。不強利故。所以不生。無色無學。於自地中。亦生方便及無學心。於上於下。類亦同然。次第如是。就所作中。分取六塵生識之義。以為緣緣。分取六根生識之義。及餘一切萬法不障。為增上緣。體相如是。此二門竟。

> 次に、諸々の心が生じる次第を明らかにする。ここではただ隣接する心が次々に生じる関係について、その次第を説明する。次第には七つある。 一、同じ境地にある法が互いに生じ合う次第。同じ地の法が互いを原因として起こること。 二、上の法を修めて起こす次第。たとえば欲界の善に基づいて初禅などを起こすような場合。 三、下の法によって過ちを防ぐ次第。たとえば上の地の方便の善心や汚れた心に基づいて、下の地の生得の善などを起こすような場合。 四、下の法へ退転する次第。たとえば上の善に基づいて下の結縛へ退くような場合。 五、上にも下にも遊観する次第。たとえば九地において漏と無漏の善が互いを原因として起こるような場合。 六、上にも下にも受生する次第。たとえば生得の報心や死の汚れた心などが生じるような場合。 七、下から上への体用の次第。たとえば清浄な禅から変化心を起こし、変化心から次に清浄な禅などを起こすような場合。 ここでこの理に基づいて、諸々の心が生じる次第を明らかにする。 まず方便について述べる。欲界の地における方便の善心は、自地において一切を生じることができる。ただし欲界における四禅の変化心を除く。上に対しては方便の善心と学心・無学心を生じることができる。 修起の次第では、欲界の地から聞慧・思慧などによって、初禅地の方便の善心を起こす。遊観の次第では、欲界から聞慧・思慧などによって、初禅と二禅の方便の善心・学心・無学心を起こす。次第正受では、初禅地の方便の善心・学心・無学心を起こす。超越正受では、二禅地の方便の善心・学心・無学心を起こす。声聞の超越禅は一つを超えないので、残りの一切の地についても同様に例推できる。菩薩について言えば、一切の地において、そこにある心をすべて起こすことができる。 なぜ上の地の生得を生じないのか。一切の生得はみな身の報いに従う。身が下の地にあれば、上の地の生得の善はないからである。 なぜ上の地の不善を生じないのか。一切の上の地には不善がないからである。 なぜ上の地の隠没を生じないのか。上の地の隠没は自地に愛着する。まずその方便の善を起こし終えてから、その後で愛を生じる。愛は自ら得たものを愛する。だから下の地の方便から上の地の汚れた心を経て起こすことはない。 なぜ上の地の報心を生じないのか。身が下の地にあれば上の報いがないからである。 なぜ上の地の汚れを生じないのか。身が欲界にあって、たとえ初禅の眼識・耳識などを起こしても、そこで生じる識は必ず上の地の眼根・耳根などに依る。上の地の根は必ず上の地の清浄な禅に依って生じ、下の地の善心には依らないからである。 なぜ上の地の工巧を生じないのか。一切の上の地には工巧がないからである。 なぜ上の地の変化心を生じないのか。上の地の変化心は、その上の地の清浄な禅の果であるからである。 欲界はこのようである。 色界の地における方便の善心は、自地において一切を生じることができる。ただし自地における上の禅の変化心を除く。上の地においては、方便の善・学心・無学心を生じる。下の欲界においては、方便の善心・生得の善心・不善・汚れ・変化心を生じる。 遊観の次第では、方便の善と生得の善心を生じる。欲界の生得はすばやいからである。上の方便から次に生じる。残りの一切の地の生得の善心は、みなこのようではない。 退転の次第では、不善心と汚れた心を生じる。起用の次第では、下の変化心を生じる。 なぜ欲界の地における報生・威儀・工巧の心を生じないのか。それらは微劣だからである。上の善から次に生じることはない。同じ界の中で、下の地に対しては五つの心を生じることができる。遊観の次第では下の方便・学心・無学心を生じ、退転の次第では下の汚れを生じ、起用の次第では下の変化心を生じる。 色界はこのようである。 無色界における方便の善心は、自地において一切を生じることができる。上に対しては一定しない。空処と識処は、上の地の方便の善心・学心・無学心を生じることができる。無所有処は、上に対してただ方便の善心のみを生じる。非想地には無漏がないから、学心・無学心を生じない。非想は上に対してさらに何も生じない。下の地に対しては四つの心を生じることができる。遊観の次第では下の方便・学心・無学心を生じ、退転の次第では下の隠没した四空定の心を生じる。変化を起こさないから変化心を生じない。 方便についてはこのようである。 次に生得を明らかにする。欲界の地における生得の善心は、自地において一切を生じることができる。ただし変化心を除く。上の地においては、ただ汚れのみを生じる。欲界で生得の命が終わって上の一切の地に汚れた心が生じるからである。 なぜ上の地の方便・学心・無学心を生じないのか。方便ではないからである。なぜ上の地の生得・報生・威儀を生じないのか。界と地が別だからである。なぜ上の地の変化心を生じないのか。変化心は上の禅の果であるからである。 色界の生得は、自地において方便の善・生得・汚れ・報生・威儀を生じる。変化心・学心・無学心を除く。上の地においてはただ汚れを生じる。下の地においては不善と汚れた心を生じることができる。 無色の生得は、自地において方便の善・生得の善心・汚れ・報生を生じる。上の地においては汚れを生じることができる。下の地においては不善と汚れた心を生じることができる。 次に不善を明らかにする。不善心を得ると、欲界において一切を生じることができる。ただし変化心を除く。上には生じない。 次に汚れを明らかにする。欲界の汚れは不善と同じである。色界の汚れは、自地において方便の善・生得・汚れ・報生・威儀を生じる。変化心・学心・無学心を除く。上には生じない。下の欲界においては方便の善・生得・不善・汚れた心を生じる。下の善に依って自地の退転を防ぐからである。欲界の方便の善心と生得の善心を起こし、上で命終わって下の汚れに受生する。だから欲界の不善と汚れを起こす。同じ界で下に対しては方便の善と汚れた心を生じる。 問う。なぜ色界の汚れは欲界の生得の善心を生じることができるのに、同じ界の下の地には生得を起こさないのか。解釈する。欲界の生得の善心は強く鋭くすばやい。上の退転を防ぐことができる。だからこれを起こす。上の界の生得は軟らかく鈍く鋭くない。上の退転を防ぐことができない。だから起こさない。 無色の汚れは、自地において方便の善・生得・汚れ・報生の心を生じる。上には生じない。下の欲界においては不善心と汚れた心を生じる。そこで命終わって欲界に生じるからである。下の色界においては方便の善と汚れた心を生じる。上の退転を防ぐために下の方便を起こし、上で死んで下に生じるから汚れた心を起こす。同じ界で下に対しては色界に対するのと同じである。 ある人は言う。同じ界で下に対しては、ただ生得と汚れた心のみを起こすと。論にこの言葉はない。人の誤った言葉である。 次に報心を明らかにする。欲界の報心は、自地において方便の善と変化心を除いて、残りの一切を生じる。微劣だから方便を生じない。清浄な禅ではないから変化心を生じない。上の地においてはただ汚れを生じる。そこで命終わって上の地に生じるからである。 色界の報心は、自地において生得・汚れ・報生・威儀の心を起こすことができる。上の地においてはただ汚れを生じる。下においては不善と汚れを生じることができる。そこで命終わって下の地に生じるからである。 無色の報心は、自地において生得・汚れ・報生を起こすことができる。上には汚れを生じる。下にはただ不善と汚れを生じる。 問う。不善ですら次に方便の善を生じることができるのに、報心はなぜこのようにできないのか。論が自ら解釈して言う。報心は羸劣だから善を生じない。不善と善は境界が異ならない。過ちを見るからである。不善心の後に善心を生じることができる。また不善は強盛な心だから善を生じることができる。 問う。もし報心が羸劣で善を生じないと言うなら、方便の善心はなぜそれを生じるのか。論が自ら解釈して言う。善心が息む時、勤めの方便を捨てる。だから羸劣な報心を生じることができる。 次に威儀を明らかにする。欲界の威儀は欲界の報と同じである。色界の威儀は色界の報と同じである。 次に工巧を明らかにする。欲界における報と威儀と同じである。 問う。威儀と工巧の心はなぜ方便の善心を生じないのか。論に言う。この二つは自ら楽しんで作るものだから、方便の善心を生じない。なぜ学心・無学心を起こさないのか。方便ではないからである。なぜ変化の心を起こさないのか。清浄な禅ではないからである。 次に変化心を明らかにする。欲界の変化心は、自地においてただ変化心を生じる。上の地においてはただ方便を生じる。変化心から根本禅に入るからである。色界の変化心は、自地においてただ変化心と方便の善を生じる。同類が互いを起こすから変化心を生じる。用から本に帰るから方便を生じる。上に対してはただ方便の善心を生じる。二禅の変化が還って二禅に入る。四禅まで同様である。下には生じない。 次に学心を明らかにする。色界の学心は、自地において方便の善・学心・無学心を生じる。上に対してはただ方便の善心と学心を生じる。どのような意味で無学を生じないのか。上の地の無学は必ず上の地の清浄な禅に依って起こるからである。下の欲界においては方便の善と生得の善心を生じる。同じ界で下に対しては方便の善と学心を生じる。どのような意味で生得を起こさないのか。かの雑心の子注に解釈して言う。欲界の生得は強くすばやい。だから学心から次に生じる。上の界の生得は弱く鋭くない。だから学心の後には生じることができない。どのような意味で無学を生じないのか。下の地の無学は必ず下の地の清浄な禅に依って生じるからである。無色の学心は色界と同じである。ただし欲界に対することを除く。欲界と色界から遠く離れているから、そこに生じないのである。 次に無学を明らかにする。色界の無学は、自地において方便の善と無学心を生じる。どのような意味で学心を生じないのか。無学を得る時、学心を捨てるからである。無学から退く時は煩悩心が退き、学心は退かない。だから無学心は学心を生じない。上の地においては方便の善と無学心を生じる。阿羅漢が諸々の地に遊戯し、あるいは無漏から有漏の心を起こし、あるいは有漏から無漏を起こすからである。下の欲界においては方便の善と生得の善を生じる。また欲界の生得が強く鋭いから、これを生じることができる。同じ界で下の地に対しては方便の善と無学心を生じる。上の界の生得は強く鋭くないから、生じないのである。無色の無学は、自地においても方便と無学心を生じる。上に対しても下に対しても同様である。 次第はこのようである。所作の中で、六塵を分け取って識を生じる義を縁縁とする。六根を分け取って識を生じる義、およびその他一切の万法が障らないことを増上縁とする。体相はこのようである。この二門を終わる。

次就諸法辨定其緣。若生心法。具籍四緣。心法必有相應共有。如是等事。即是因緣。心籍前生。是次第緣。心籍塵生。是其緣緣。心依根起。是增上緣。若依毘曇。無想正受滅盡正受。從三緣生。彼宗宣說。無想滅盡。是有為法。同時共有生住滅等。互相扶助。是其因緣。籍前心起。是次第緣。萬法不障。是增上緣。以非心法故。無緣緣。自餘一切非心之法。悉二緣生。所謂因緣及增上緣。所有自分共有法等。是其因緣。萬法不障。是增上緣。不籍前心開導生故。無次第緣。以非心法不能緣境故。無緣緣。故雜心云。心及諸心法。是從四緣生。二正受從三。謂餘說於二。若依地持。唯心心法。從四緣生。自餘一切非心之法。但二緣生。皆無次第緣緣之義。故彼論云。次第緣緣。是心心數法。籍前開導故有次第。籍彼六塵緣攝受生故有緣緣。大智論中。亦同此釋。故彼文言。心心數法相續無間。名次第緣。心心數法。緣塵生故。名為緣緣。準驗斯文。次第緣緣。局生心法。不生非心。有人釋言。非心之法。亦籍緣緣。經論無文。直是人語。此言謬浪。無宜輒受。此三門竟。

次約大小辨其同異。同異之相。如大智論說。所言同者。四緣名義。與毘曇同。所言異者。小乘法中。隨相執言。菩薩了知猶如幻化如水中月。但無定性不無幻相。故彼文言。如水中月雖可眼見不可手捉。聖人破者。破可捉月。不破可見。四緣亦爾。相有體無。不可定取。故異二乘。四緣名義。略辨如是。