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title: "大乘義章 · 27 十二因緣義(四)"
description: "大乘義章是隋代高僧慧遠所著的一部重要佛教論典。該書創作於南北朝佛教義學興盛之際旨在系統闡釋大乘佛教的核心教義。全書內容廣博對名相、法數、教理等進行了精細分梳與詮釋涵蓋空有、佛性、修行等多個關鍵領域體系嚴整被譽為中國佛教史上的百科全書式著作。此書不僅總結了南北朝佛教的思想精華更對後世天台、華嚴等宗派的教理發展產生了深遠影響是研究漢傳大乘佛教思想不可或缺的權威典籍。"
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### 十二因緣義八門分別釋名辨體一　開合廣略二　約時分別三　界地分別四　三性分別五淺深分齊六　就人分別七　約智分別八

> 十二因縁の義、八門に分けて述べる

第一釋名。并辨其體性。十二因緣者。謂從無明乃至老死。是其名也。言無明者。癡闇之心體無慧明故。曰無明。過去世中煩惱非一。以何義故偏說故明。釋有兩義。一彰通隱別。故說無明。過去世中一切煩惱。皆有闇惑迷理之義。就斯通義故說無明。二舉強攝弱故說無明。無明煩惱。迷於本際。集起生死。其力最強。從強以名。故說無明。但說無明。當知。一切餘結皆隨。譬如世間王來王去餘眾皆隨主得其名。此亦如是。釋名既然。體相云何。於中差別乃有四種。一迷理無明。所謂迷於二諦之理。故經說言。不知諸諦第一義故。名為無明。如是等也。二發業無明。所謂三根三道煩惱。三根煩惱能發思業。三道煩惱發身口業。三覆業無明。謂造業已。重於前境起貪瞋等。覆助前業。令其增長。四潤生無明。亦名受生。謂受生時諸煩惱等。若依毘曇。九十八使一切煩惱。皆能潤生。斯則潤生。受生無別。若依成實。唯愛能潤。餘但遠助。若據斯義。潤生則狹。局唯在愛。受生則寬。通於餘結。地經亦然。故經言。愛水為潤。無明覆弊。我心溉灌。如是等也。所言行者。諸業集起。名之為行。集起有二。一就業體。緣中集起。名之為行。二就功能。集起後果。故名為行。名義如是。體相云何。於中具以七門分別。一就性分別。行雖無量。要唯善惡。善惡二業。能得報故。無記無報。是故不說。二就具分別。所謂一切身口意業。三約果分別。如地經說。所謂罪福不動業也。三塗惡業。名之為罪。欲界地中人天善業。名之為福。上二界中八種定業。說為不動。四對報分別。所謂苦樂不苦不樂。三受之業。五就處分別。謂三界繫。六就時分別。所謂現報生報後報不定報業。七隨相分別。相別有四。一黑二白三黑白雜四不黑不白。四中前三。是其有漏分段之因。後一無漏變易之因。業行無量。且論斯耳。此等後業聚之中具廣分別。所言識者。分別之義。於中分別乃有三種。一種子心識。作行以後。受生已前所有心識。為業煩惱所熏發故。能生後果。說為識支。若復通論。無明行中所有心識。亦是識支。二求生心識。在於中陰。三受生心識。名為識支。謂受生時。最初一念染污之心。於彼父母精血等事。妄想起於華池等愛。非起婬愛。言名色者。心從詮目故號為名。身形質礙。稱之為色。良以心法。冥漠難彰。非詮不辨。故從詮目說以為名。故楞伽云。以名宣說無色四陰。故說為名。色相形現。可以現見。當相名色。十二因緣。通而論之。皆是名色。良以此支色心始具。名色相分段。故偏名支。言六入者。生識之處。名之為入。入別不同。離分六種。所謂眼耳鼻舌身意。前色增長。今為五入。前名增長。今為意入。所言觸者。觸對塵境。目之為觸。若依成實。對後受支說想為觸。觸假之初故名為觸。若依毘曇。以心法中觸數為觸。此之觸數。依根就塵。能令根塵共相觸對。故名為觸。大乘法中亦同此說。然觸有五。一增語觸。謂意地觸能發法故。二有對觸。謂五識中相應之觸觸對現境。故名有對。三者明觸。謂無漏觸。四無明觸。謂諸煩惱相應之觸。五處中觸。所謂一切有漏之觸。故雜心云。增語及有對明無明處中。五中前二。約根以分。後之三種。隨性以別。此之五種大小不同。小乘法中所說不定。若取報觸以為觸支。增語有對及與處中。是其觸支。餘二則非。以明無明非報法故。若說一切有漏之觸以為觸支。除其明觸餘四皆是。明觸無漏。是故不取。大乘法中所說不定。若說分段。與小乘同。若說變易十二緣者。五觸皆是觸支所攝。所言受者。領納名受。於中分別廣略不定。或總為二。或分為二。一是身受。二是心受。五識相應。名為身受。意識相應。名為心受。或說為三。所謂苦樂不苦不樂。或說五受。所謂苦樂憂喜及捨。或說六受。謂六根中所生受也。或說十八。謂六根中各分苦樂不苦不樂三種受故。或復宣說三十六受。前十八中染淨分故。或說百八。如龍樹說。前三十六三世分之。故有百八。所言愛者。染境名愛。現在世中煩惱非一。以何義故偏名為愛。未來生死。由愛牽起。愛力功強。故偏說之。雖但說愛。餘結皆隨。亦如世間王來王去餘眾皆隨。於中分別。略有二種。一愛己身。二愛所須。廣分有五。一於順情未得法中起欲得愛。二於順情已得法中起不失愛。三於違情未得法中起不得愛。四於違情已得法中起求捨愛。五於非違非順法中起處中愛。非極違情不生厭故。所言取者。前愛增上。取著境界故名為取。若具分別。取有四種。一是戒取。二是見取。三是欲取。四是我取。此之四種諸論不同。若依毘曇。一切三界戒取之心。說為戒取。一切三界身見邊見邪見見取。通名見取。欲界一切諸鈍煩惱。通名欲取。上二界中諸鈍煩惱。緣自身起。通名我取。若依成實。身見一使。名我語取。實無我體。但著我名。故云我語。依此身見起於邊見。取著斷常。若見斷者。則著五欲。名為欲取。以無後世。貪現樂故。若見常者。有利有鈍。若鈍根者。則取持戒。望後世樂。名為戒取。若利根者。計神是常苦樂不變則無罪福。故起邪見。說為見取。若依毘曇。直說四取以為取支。則為具攝一切煩惱。若依成實。四取不攝諸鈍煩惱。是則取支通攝四取及餘一切諸鈍煩惱。所言有者。現在行業。能有當果。故名為有。此既是業。何不名業。乃名有乎。當果未有。由業有之故從功能說為有耳。論其體相。與行支同。所言生者。來報始起說名為生。生之體狀。與識支中受生識同。言老死者。衰變盡壞。名為老死。與前名色六入等同。此之十二。迭相因由。互相緣藉。故名因緣。如四諦中論因緣者。業能親生。說之為因。煩惱疎助。說之為緣。今此不然。莫問一切煩惱業苦。從前生後。斯名因緣。名義體相。辨之麁爾。

> まず名称を解釈し、その本質を弁別する。十二因縁とは、無明から老死に至るまでのことを指す。これがその名称である。無明とは、無知で暗い心であり、智慧の明るさを持たないことから、無明と名付ける。過去世における煩悩は一つではないが、なぜ偏って無明と言うのか。解釈には二つの意味がある。一つ目は、共通の意味を明らかにして個別の意味を隠すことで、無明と言うのである。過去世における一切の煩悩は、すべて無知のために真理に迷う性質を持つ。この共通の意味に基づいて無明と言うのである。二つ目は、強いものを挙げて弱いものを含めることで、無明と言うのである。無明の煩悩は、根源の真理に迷い、生死を起こす力が最も強い。強いものに基づいて名付けるので、無明と言うのである。ただ無明と言えば、他のすべての煩悩も随伴することを知るべきである。例えば世間では王が来れば王が去り、他の人々はすべて王に従い、王の名で呼ばれるようなものである。これも同じである。 名称の解釈がこのようであるなら、本質と相はどのようなものであろうか。その中には四種類の区別がある。一つ目は、真理に迷う無明である。これは二諦の真理に迷うことを指す。経典に「諸々の真理を知らないことが第一義であるため、無明と名付ける」と説かれているのがこれである。二つ目は、業を起こす無明である。これは三根と三道の煩悩を指す。三根の煩悩は思業を起こし、三道の煩悩は身口の業を起こす。三つ目は、業を覆う無明である。これは業を造った後に、再び以前の対象に対して貪瞋などを起こし、以前の業を覆って助け、それを増長させることを指す。四つ目は、生を潤す無明である。受生の無明とも呼ばれる。受生する時、様々な煩悩が作用することを指す。毘曇に依れば、九十八使の一切の煩悩がすべて生を潤すことができるとされる。この場合、潤生と受生に区別はない。成実に依れば、愛のみが潤すことができ、他の煩悩は遠くから助けるだけである。この意味に基づけば、潤生は狭く、愛に限られる。受生は広く、他の煩悩にも通じる。地経も同様である。経典に「愛水が潤し、無明が覆い蔽い、我という心が灌漑する」と説かれているのがこれである。 行と言うのは、諸々の業が集まり起こることである。集まり起こることには二つの意味がある。一つ目は、業そのものについて、因縁が集まって起こることを行と言う。二つ目は、その機能について、後の結果を集めて起こすことを行と言う。名称と意味がこのようであるなら、本質と相はどのようなものであろうか。その中で七つの門によって分別する。 一つ目は、性質による分別である。行は無量であるが、要するに善と悪だけである。善悪の二つの業は報いを得ることができるからである。無記には報いがないので、説かないのである。二つ目は、種類による分別である。これは一切の身口意の業を指す。三つ目は、結果による分別である。地経に説かれるように、罪福と不動の業である。三悪道の悪業を罪と言う。欲界における人間や天人の善業を福と言う。上二界における八種の定の業を不動と言う。四つ目は、報いによる分別である。苦、楽、不苦不楽の三つの感受の業である。五つ目は、場所による分別である。三界に繋がれていることを指す。六つ目は、時間による分別である。現報、生報、後報、不定報の業を指す。七つ目は、相による分別である。相には四種類の区別がある。一つは黒、二つは白、三つは黒白が混ざったもの、四つは黒でも白でもないものである。この四つのうち、前三つは有漏の分段の因であり、最後の一つは無漏の変易の因である。業行は無量であるが、ひとまずこれらのみを論じる。これらの詳細は後の業の集まりの章で広く分別するであろう。 識と言うのは、分別するという意味である。その中で分別には三種類がある。一つ目は、種子の心識である。行を起こした後、受生する前のすべての心識を指す。業と煩悩に熏習されたことにより、後の結果を生じることができるので、識支と説くのである。もし広く論じるなら、無明行の中のすべての心識もまた識支である。二つ目は、生を求める心識である。これは中陰にあるものを指す。三つ目は、受生の心識である。識支と名付ける。受生する時、最初の一念の染汚した心が、父母の精血などに対して、妄想によって花の池などの愛を起こすことを指すのであって、淫欲の愛を起こすのではない。 名色と言うのは、心は名付けることによって示されるので名と呼ばれ、身体は形と質を持つので色と呼ばれる。心法は冥漠として明らかにし難く、名付けなければ弁別できない。それで名付けることによって示されるので名と言うのである。楞伽経に「名をもって無色の四陰を宣説するので、名と説く」とある。色は形が現れるので、直接見ることができる。その相をそのまま色と言うのである。十二因縁は、通じて論じればすべて名色である。しかしこの支において色心が初めて具わり、名と色が分かれて初めて現れるので、特に名色支と名付けるのである。 六入と言うのは、識が生じる場所を入と言う。入には区別があり、六種類に分かれる。それは眼耳鼻舌身意である。前の色が成長して、今は五入となる。前の名が成長して、今は意入となる。 触と言うのは、対象に触れ合うことを触と名付ける。成実に依れば、後の受支に対して想を触と説く。触は仮のものの初めであるから触と名付けるのである。毘曇に依れば、心法の中の触という心所を触とする。この触の心所は、根に依り、境に対して、根と境が共に触れ合うことを可能にするので、触と名付ける。大乗の法においても同様に説く。しかし触には五種類ある。一つ目は増語触である。意の領域の触が法を発することができるからである。二つ目は有対触である。五識における相応の触が現在の対象に触れるので、有対と名付ける。三つ目は明触である。無漏の触を指す。四つ目は無明触である。諸々の煩悩と相応する触を指す。五つ目は処中触である。一切の有漏の触を指す。雑心論に「増語と有対、明、無明、処中」とある。この五つのうち、前の二つは根によって分けられ、後の三つは性質によって区別される。この五種は大小の教えによって異なる。小乗の教えでは、説くところが一定しない。もし報の触を触支とするなら、増語、有対、処中が触支である。他の二つはそうではない。明と無明は報の法ではないからである。もし一切の有漏の触を触支とするなら、明触を除いた残りの四つはすべてそうである。明触は無漏であるから、取らないのである。大乗の教えでも説くところが一定しない。もし分段について説くなら、小乗と同じである。もし変易の十二縁について説くなら、五つの触はすべて触支に含まれるのである。 受と言うのは、受け取ることを受と名付ける。その中の分別は広い狭い様々で一定しない。あるいは総じて二つとするか、あるいは二つに分ける。一つは身受、二つは心受である。五識と相応するものを受身と名付け、意識と相応するものを心受と名付ける。あるいは三つと説く。それは苦、楽、不苦不楽である。あるいは五つの受と説く。それは苦、楽、憂、喜、捨である。あるいは六つの受と説く。六根において生じる受である。あるいは十八と説く。六根においてそれぞれ苦楽不苦不楽の三種の受に分かれるからである。あるいは三十六の受と説く。前の十八の中を染と浄に分けるからである。あるいは百八と説く。龍樹が説くように、前の三十六を三世に分けるので、百八があるのである。 愛と言うのは、対象に執着することを愛と名付ける。現在世における煩悩は一つではないが、なぜ偏って愛と言うのか。未来の生死は、愛によって引き起こされる。愛の力が最も強いから、特に愛と説くのである。ただ愛と言うが、他の煩悩もすべて随伴する。これもまた世間で王が来れば去り、他の人々がすべて王に随うようなものである。その中の分別は、略して二種類ある。一つは自分の身を愛すること、二つは必要なものを愛することである。広く分ければ五種類ある。一つ目は、好ましい境遇の中でまだ得ていない法に対して、得たいと欲する愛を起こすこと。二つ目は、好ましい境遇の中で既に得た法に対して、失いたくないという愛を起こすこと。三つ目は、嫌な境遇の中でまだ得ていない法に対して、得たくないという愛を起こすこと。四つ目は、嫌な境遇の中で既に得た法に対して、捨てたいと求める愛を起こすこと。五つ目は、嫌でも好みでもない境遇に対して、中立的な愛を起こすこと。極度に嫌な境遇ではないので、嫌悪の心を生じないからである。 取と言うのは、前の愛が増上して、対象を取って執着することを取と名付ける。分別すれば、取には四種類ある。一つは戒取、二つは見取、三つは欲取、四つは我取である。この四種は諸論によって異なる。毘曇に依れば、三界における一切の戒取の心を戒取と説く。三界における一切の身見、辺見、邪見、見取を総称して見取と言う。欲界における一切の鈍い煩悩を総称して欲取と言う。上二界における諸々の鈍い煩悩は、自分の身に依って起こるので、総称して我取と言う。成実に依れば、身見という一つの煩悩を我語取と名付ける。実際には我の本体はないが、ただ我という名に執着するので、我語と言うのである。この身見に基づいて辺見が起こり、断常に執着する。もし断を見るなら、五欲に執着する。これを欲取と名付ける。後世がないので、現世の楽を貪るからである。もし常を見るなら、利根と鈍根がある。もし鈍根なら、戒律を守って後の世の楽を望む。これを戒取と名付ける。もし利根なら、神我は常であり、苦楽は変わらないので、罪福はないと考える。そこで邪見が起こり、これを見取と説く。毘曇に依れば、直接四取を取支と説くなら、それは一切の煩悩を完全に含むことになる。成実に依れば、四取は諸々の鈍い煩悩を含まない。それなら取支は四取および他の一切の鈍い煩悩を広く含むことになる。 有と言うのは、現在の行業が未来の結果を持つことができるので、有と名付ける。これは業であるのに、なぜ業と言わずに有と言うのか。未来の結果はまだ存在しないが、業によってそれが存在するようになるので、その機能から有と説くのである。その本質と相を論じれば、行支と同じである。 生と言うのは、来世の報いが始まって起こることを生と名付ける。生の本質と様相は、識支の中の受生の識と同じである。 老死と言うのは、衰え変化し尽き壊れることを老死と名付ける。前の名色や六入などと同じである。 この十二のものは、互いに原因となり、互いに縁となるので、因縁と名付ける。四諦の中で因縁を論じる場合、業が直接親しく生じることを因と説き、煩悩が間接的に助けることを縁と説く。しかし今ここではそうではない。一切の煩悩と業と苦が、前のものから後のものを生じることを、すべてい因縁と名付けるのである。名称と意味、本質と相を、大まかに弁別した。

第二門中開合廣略。明因緣相。因緣之法。廣略不定。如涅槃經梵行品說。或說為一。謂十二因緣唯一有為。或說為二。謂十二緣唯因與果。過無明行。現愛取有。是其因分。現在識等。當來生死。是其果分。或說為三。於中乃有三門不同。一三世分別。無明與行。是說過去。識支不定。若取因中種子心識。以為識支。是屬過去。若取最初受生心識。以為識支。是屬現在。若說求生心識。為識。義則不定。望其過因。說為現在。望其現報。說為過去。名色六入乃至觸受。一向現在。愛取有三。義則不定。論其體性。起在於今。判屬現在。論其功力。能有當果。以因從果。判屬未來。地經之中。據斯說也。若如是者。過去之因。何不從果判為現在。釋言。有以。過因現果。起之已定。故隨世別。不相從說。未來未有。由因故有。是故攝因。從果為未。生死二支。定屬未來。此是第一三世分別。二三道分別。如地經說。無明愛取。是煩惱道。行有二支。是其業道。識與名色六入觸受生死。七分說為苦道。無明愛取。並是煩惱。以何義故。過說無明。現彰愛取。是義應齊。但今為分三世別異。隱顯互論。等分三世。非無所以。釋有兩義。一本末分別。無明是本。理在先彰。過去說之。愛取是末。理在後論。現在說之。二強弱分別。無明煩惱。迷其本際。建集生死。其力功強。過去說之。愛之與取。牽生未來。其力增上。現在說之。行有二支。同皆是業。何故過去彰其行名。現在說有。理亦應齊。為分三世差別異名。等分三世。非無所以。過去世中集起已定。當相名行。未來未有。由業有之。故就功能說為有耳。識等五果生死二報。同皆是苦。以何義故。現彰識等。未說生死。理亦應齊。為分世別。隱顯異名。等分三世。亦有所以。現報起竟。故就報體說為識等。未來未起。就過以名。令物生厭。故說生死。此是第二三道分別三苦分別。如地經說。無明行識乃至六入。名為行苦。觸受二支。名為苦苦。餘因緣分名為壞苦。三苦相通。何故如是。理實齊通。但今為明。觸受二支。現諸緣生。心性是苦。於彼苦上。加現事惱。苦上加苦。故云苦苦。無明行等起今。義顯故說為行。行體是苦故名行苦。愛取有等。趣向未來。生老死等。敗壞之果。故名為壞。壞體是苦。故名壞苦。此隨麁細隱顯論之。非盡道理。此是增數三門分別。或說為四。如涅槃說。謂無明行生及老死。愛之與取。攝入無明。有攝在行。識等五果。攝入生死。故說四也。或分為五。如涅槃說。謂受愛取有及生也。識等五果。攝入受中。無明攝入愛取之中。行入有中。死入生中。故說五也。或說為六。如涅槃說。所謂三世因之與果。或說為七。如涅槃說。謂識名色六入觸受愛及取也。餘略不論。或說為八。如涅槃說。謂識名色乃至於有。無明攝入愛取之中。行入有中。生死攝入識等支中。故但說八。或說為九。如城喻經說。除前三支宣說餘九。或說十一。如為薩遮尼乾子說。除生一法說餘十一。薩遮尼乾子弟共姊生。佛護其意。不說生支。或時具說十二因緣。廣如經辨。此之廣略。隨化故爾。

> 第二の門において、開合・広略を説き、因縁の相を明かす。因縁の法は、広くも略しくも不定である。涅槃経の梵行品に説くように、或いは一と説く。すなわち十二因縁はただ一つの有為法であると。或いは二と説く。すなわち十二因縁はただ因と果のみであると。過去の無明と行、現在の愛・取・有は、これが因の部分である。現在の識などと未来の生死は、これが果の部分である。 或いは三と説く。ここに三種類の異なる見方がある。 第一に、三世による分別である。無明と行は過去と説く。識の支分については不定である。もし因の中の種子としての心識を取って識の支分とみなすなら、これは過去に属する。もし最初に受生するときの心識を取って識の支分とみなすなら、これは現在に属する。もし生を求める心識を識と説くなら、その意味は不定となる。過去の因に対して見れば現在と説き、現在の報に対して見れば過去と説くのである。名色・六入・触・受までは、常に現在である。愛・取・有の三つは、その意味が不定である。その体性について論じれば、起こりは今にあり、現在に属すると判断する。その働きについて論じれば、未来の果を有する能力があり、因を果に従わせて、未来に属すると判断する。地経の中では、この説に基づいている。もしこのようであるなら、過去の因は、なぜ果に従って現在と判断しないのか。答えて言う。理由がある。過去の因と現在の果は、起こりがすでに定まっている。だから世の別れに従って、互いに従って説くことはない。未来はまだ存在せず、因によって存在するのである。だから因を取って、果に従わせて未来とする。生と死の二支分は、必ず未来に属する。これが第一の三世による分別である。 第二に、三道による分別である。地経に説くように、無明・愛・取は、これが煩悩道である。行と有の二支は、これが業道である。識・名色・六入・触・受・生・老死の七分は、苦道と説く。無明・愛・取は、みな煩悩である。どのような意味で、過去に無明を説き、現在に愛・取を明かすのか。この意味は同等であるべきだ。ただ今、三世の別異を分けるために、顕と隠を互いに論じ、三つを三世に等しく配するのである。理由がないわけではない。釈していうに、二つの意味がある。第一に、本と末による分別である。無明は本であり、理として先に彰らかにすべきもので、過去に説くのである。愛・取は末であり、理として後で論じるべきもので、現在に説くのである。第二に、強弱による分別である。無明の煩悩は、その本際を迷い、生死を積み集める。その力用は強く、過去に説くのである。愛と取は、未来を牽き生じさせる。その力は増上であり、現在に説くのである。 行と有の二支は、ともに同じく業であるのに、なぜ過去に行の名を彰らかにし、現在に有と説くのか。理として、同等であるべきである。三世の差別のために名を異にし、三つを三世に等しく配するのである。理由がないわけではない。過去世の中で起こり集まったことはすでに定まっている。その相に当たって行と名づける。未来はまだ存在せず、業によって有となるのである。だから機能に従って有と説くのである。 識などの五つの果と生死の二つの報は、同じくともに苦である。どのような意味で、現在に識などを彰らかにし、未来に生死と説くのか。理として、同等であるべきである。三世の別を分けるために、顕と隠で名を異にし、三つを三世に等しく配するのである。また理由がある。現在の報は起こり終わったので、報の体に従って識などと説くのである。未来はいまだ起こらず、過去に従って名づけ、衆生に嫌悪の心を起こさせるために、生死と説くのである。これが第二の三道による分別である。 第三に、三苦による分別である。地経に説くように、無明・行・識・六入までは、これを行苦と名づける。触・受の二支は、これを苦苦と名づける。その他の因縁の部分は、これを壊苦と名づける。三苦は互いに通じ合うものである。なぜこのように説くのか。理として、実際にはすべて通じている。ただ今、明らかにするために、触・受の二支は、もろもろの縁によって生じたものであり、その心性は苦である。その苦の上に、さらに現在の事柄の悩みを加える。苦の上に苦を加えるので、苦苦と説くのである。無明・行などは、今を起こすことが明らかであるので、行と説く。行の体は苦であるから、行苦と名づけるのである。愛・取・有などは、未来に向かって趣き、生・老・死などの壊れ敗れる果を生じさせる。だから壊と名づける。壊の体は苦であるから、壊苦と名づけるのである。これは粗・細・顕・隠に従って論じたものであって、道理を尽くしたものではない。これが増数の三門による分別である。 或いは四と説く。涅槃経に説くように、無明・行・生・老死であるという。愛と取は無明の中に摂め入れ、有は行の中に摂め、識などの五つの果は生死の中に摂め入れる。だから四と説くのである。 或いは五に分ける。涅槃経に説くように、受・愛・取・有・生であるという。識などの五つの果は受の中に摂め入れ、無明は愛・取の中に摂め入れ、行は有の中に入れ、死は生の中に入れる。だから五と説くのである。 或いは六と説く。涅槃経に説くように、いわゆる三世の因と果であるという。 或いは七と説く。涅槃経に説くように、識・名色・六入・触・受・愛・取であるという。その他は省略して論じない。 或いは八と説く。涅槃経に説くように、識・名色から有まであるという。無明は愛・取の中に摂め入れ、行は有の中に入れ、生死は識などの支分の中に摂め入れる。だからただ八と説くのである。 或いは九と説く。城喩経に説くように、前の三支を除いて、残りの九つを宣説するのである。 或いは十一と説く。薩遮尼乾子のために説くように、生の一法を除いて、残りの十一を説くのである。薩遮尼乾子はその弟の姉とともに生まれた。仏はその意を護って、生の支分を説かなかったのである。 或いは時に十二因縁を具足して説く。広くは経典の説くところの通りである。この広略は、教化の機に従ってそのようになるのである。

第三門中。就時分別。於中有六。一五世分別。二就三世分別。三就二世分別。四就一世前後分別。五就同時別體分別。六就同時同體分別。言五世者。如涅槃說。過去過去立其二支。如彼經說。煩惱因緣生於煩惱。是其一也。業生煩惱。是其二也。此明過去過去世中煩惱及業。生於其次過去世中無明支也。其次過去建立二支。如彼經說。煩惱生業。是其一也。謂過無明。生於行支。業生於苦。是其二也。謂從過行生現五果。現立四支。如彼經說。苦生煩惱。是其一也。從現五果。生於愛支煩惱。生煩惱是其二也。從愛生取。煩惱生有。是其三也。從取起有。有緣生苦。是其四也。從現有支。生未來苦。其次未來。建立三支。如彼經說。業緣生業。是其一也。謂未來世業業相生。如從意業發身口業。業生煩惱。是其二也。謂未來業。起於未來受生煩惱。煩惱生苦。是其三也。謂從未來受生煩惱。生於未來未來生支。未來未來。唯立一支。如彼經說。苦緣生苦。是其一也。從彼生支起老死等。唯彼三世十二因緣。生起老死。應是二支。但彼直就能生因緣。立十二支。不取所生。故從生支起於老死。唯名一支。五世如是此一門竟。

> 第三の門では、時の違いに基づいて分類します。その中に六つの区分があります。第一に五世（過去過去・過去・現在・未来・未来未来）による分類、第二に三世（過去・現在・未来）による分類、第三に二世による分類、第四に一世の中での前後による分類、第五に同時でありながら別の体（性質）による分類、第六に同時でありながら同じ体による分類です。 「五世」とは、涅槃経に説かれる通りです。過去過去世には二つの支を立てます。同経に説くように、「煩悩が因縁となって煩悩を生じる」というのがその一つです。「業が煩悩を生じる」というのがその二つ目です。これは、過去過去世における煩悩と業が、その次の過去世における「無明」の支を生じさせることを明らかにしています。 その次の過去世には二つの支を立てます。同経に説くように、「煩悩が業を生じる」というのがその一つです。これは過去世の無明が「行」の支を生じることを指します。「業が苦を生じる」というのがその二つ目です。これは過去世の「行」から現在世の五つの果（五果）が生じることを指します。 現在世には四つの支を立てます。同経に説くように、「苦が煩悩を生じる」というのがその一つです。これは現在世の五果から「愛」の支が生じることを指します。煩悩が煩悩を生じるというのがその二つ目で、「愛」から「取」が生じることを指します。煩悩から「有」が生じるというのがその三つ目で、「取」から「有」が生じることを指します。「有」が縁となって苦が生じるというのがその四つ目で、現在世の「有」の支から未来世の苦が生じることを指します。 その次の未来世には三つの支を立てます。同経に説くように、「業が縁となって業を生じる」というのがその一つです。これは未来世において業と業が相続して生じることを指します。例えば、意業から身業や口業が生じるようなものです。業が煩悩を生じるというのがその二つ目です。これは未来世の業が、未来世に受生する煩悩を引き起こすことを指します。煩悩が苦を生じるというのがその三つ目で、未来世の受生の煩悩から、さらにその次の未来未来世の「生」の支が生じることを指します。 未来未来世にはただ一つの支だけを立てます。同経に説くように、「苦が縁となって苦を生じる」というのがその一つです。その「生」の支から老いや死などが生じます。本来、三世の十二因縁でいうと、生起した老死も二つの支に数えられるはずです。しかし、ここでは直接的に生じさせる因縁に基づいて十二支を立てており、生じた結果の側は数えていません。それゆえ、「生」の支から老死が生じることを、ただ一つの支としてのみ数えているのです。五世の分類は以上の通りです<note>この一門はここまで</note>。

次就三世以分別者。因緣之法體通前後。今據三世隱顯論之。過去世中未造業前一切煩惱。判為無明。行支不定。若取因中種子心識以為識支。行支則短。當造業時。說為行支。造業已後。判屬識支。若取求生及受生心。以為識支。行支則長。造業已後未死已前。斯屬行支。識支不定。若說種子心識為識。在於過去造業已後未死已前。若說求生心識為識。在於中陰。所望不定。望過去因。說為現在。望現在果。說為過去。若說最初受生心識以為識支。定屬現在。行識二支。時分不定。若取因中種子心識以為識支。識支則長。行之則短。當造業時。說為行支。造業已後受生已前。判屬識支。若取最初受生心識。以為識支。行支則長。識支則短。造業已後受生已前。判屬行支。最初一念受生心識。判屬識支。故論說言。生有及死有。當知一剎那。名色支者。前後不定。若說種子及求生心。以為識支。於現在世。初生以後。悉是名色。若說初生以為識支。第二念後方是名色。向後長短。經有成判。入胎五分四根未具。名名色支。言五分者。毘婆沙云。胎中五時名為五分。亦人一報攝為十時。胎外有五。胎內有五。如涅槃說。胎內五中。眼耳鼻舌四根未具。判屬名色。四根具已未出胎來。判屬六入。所言觸者經有成判。未別苦樂。是名為觸。出胎以後。匍匐已前。不能思量分別違順苦樂等事。是故名為未別苦樂。觸境方覺。故名為觸。所言愛者。如經中說。染習一愛。是名為愛。愛有二種。一者食愛。二是色愛。匍匐以後。未有色愛。但有食愛。名習一愛。自斯已來。判為愛支。具二愛已。未有思想追求境界。是時名愛。已有思想追求前境。未能造境身行欲事。是時名取。身行已後。乃至未來受生已前。判之為有。未來世中。最初一念受生心識。說為生支。名色已後。判為老死此二門竟。

> 次に、三世に基づいて区別して説明します。縁起の法は、その本質が過去・現在・未来に通じています。今、三世の顕現と隠没に基づいて論じます。 過去世において、業を造る前の一切の煩悩を「無明」と判定します。「行」の支分は不定です。もし因位の種子としての心識を「識」の支分と取るならば、「行」の支分は短くなります。ちょうど業を造る時を「行」の支分と説き、業を造った後は「識」の支分に属すると判定します。もし生存を求める心と受生の心を取って「識」の支分とするならば、「行」の支分は長くなります。業を造った後、死ぬ前までは「行」の支分に属します。「識」の支分も不定です。もし種子としての心識を「識」と説くならば、それは過去世の業を造った後、死ぬ前にあります。もし生存を求める心識を「識」と説くならば、それは中陰にあります。見る対象によって不定です。過去の因に対しては「現在」と説き、現在の果に対しては「過去」と説きます。もし最初に受生する心識を「識」の支分と説くならば、必ず「現在」に属します。 「行」と「識」の二支分は、その時期が不定です。もし因位の種子としての心識を「識」の支分と取るならば、「識」の支分は長く、「行」の支分は短くなります。ちょうど業を造る時を「行」の支分と説き、業を造った後、受生する前までは「識」の支分に属すると判定します。もし最初に受生する心識を取って「識」の支分とするならば、「行」の支分は長く、「識」の支分は短くなります。業を造った後、受生する前までは「行」の支分に属すると判定し、最初の一念の受生の心識を「識」の支分に属すると判定します。ゆえに論では「生有と死有は、一刹那であると知るべきである」と説いています。 「名色」の支分は、その前後が不定です。もし種子や生存を求める心を「識」の支分と説くならば、現在世において最初に生まれた後は、すべて「名色」となります。もし最初に生まれることを「識」の支分と説くならば、第二の念の後からが「名色」となります。その後の長短については、経典に明確な判定があります。 胎内に入ってから五分の間、四根がまだ具わらないことを「名色」の支分と説きます。「五分」とは、毘婆沙によれば、胎内の五つの時期を五分といいます。また、人の一つの報いを十の時期にまとめることもできます。胎外に五つ、胎内に五つあります。涅槃経に説かれるように、胎内の五つの時期のうち、眼・耳・鼻・舌の四根がまだ具わらない間を「名色」に属すると判定し、四根が具わった後、胎を出るまでは「六入」に属すると判定します。 「触」といわれるものについては、経典に明確な判定があります。まだ苦楽を区別しないことを「触」と説きます。胎を出た後、這い這いする前までは、順逆・苦楽などの事柄を思量分別できません。ゆえに「未だ苦楽を区別しない」と説きます。境に触れて初めて感じるので、「触」と説きます。 「愛」といわれるものについては、経典に説かれるように、一つの愛に染まり習うことを「愛」と説きます。愛には二種あります。一つは食べ物への愛（食愛）、もう一つは色（欲望の対象）への愛（色愛）です。這い這いした後は、まだ色愛はなく、ただ食愛があるだけです。これを「一つの愛に習う」と説きます。この時から「愛」の支分と判定します。二つの愛が具わった後、まだ思想で境界を追求しない時を「愛」と説きます。すでに思想で前の境界を追求するが、まだ身を動かして欲の行為をなすことができない時を「取」と説きます。身の行為を行った後から、未来の受生の前までは「有」と判定します。 未来世において、最初の一念の受生の心識を「生」の支分と説きます。「名色」の後は「老死」と判定します<note>この二門はここまで</note>。

次就二世分別十二。於中有二。一就過去望現說具。二就現在望後說具。何者過去望現說具。若就三世隱顯以論。過去唯有無明與行。現在唯有識等五果。就實通論。過去非直有無明行。當知。亦具愛取及有。現在非直有於識等。當知。亦有生及老死。過去世中。發業煩惱。說為無明。潤業煩惱。說為愛取。故地經云。先際之因。謂無明愛。過去世中所發之業。名之為行。所潤之業。名之為有。現在世中當其報體。名為識等。就過以彰。即是生死。識即是生。名色已後。即是老死。何者現在望後說具。若就三世隱顯論之。現因唯有愛取及有。當知。當果唯有生與老死。據實通論。現因非直有愛取有。當知。亦具無明及行。未來非但有生老死。當知。亦具識等五果。現在世中發業煩惱。說為無明。潤業煩惱。說為愛取。故地經中先際之因。名無明愛。後際亦爾。現在世中所發之業。說之為行。所潤之業。說之為有。未來世中所有報體。說為識等。就過去說。為生老死此三門竟。

> 次に、二世に分けて十二因縁を説明する。ここに二つの区分がある。第一に、過去に基づいて現在を説明する場合。第二に、現在に基づいて未来を説明する場合である。 では、過去に基づいて現在を説明するとは何か。三世（過去・現在・未来）の顕れと隠れの観点から論じるならば、過去には無明と行のみがあり、現在には識などの五つの果報のみがある。しかし、実際の真理に基づいて総合的に論じるならば、過去には無明と行だけでなく、愛・取・有も具わっていると知るべきである。また、現在には識などの五つの果報だけでなく、生と老死も具わっていると知るべきである。 過去世において、業を起こす煩悩を無明と説き、業を潤す煩悩を愛・取と説く。ゆえに『地経論』には「過去の因は、無明と愛である」と説かれている。過去世において起こされた業を行と名づけ、潤された業を有と名づける。 現在世において、その報いの主体を識などと名づける。過去に基づいて説くならば、それはすなわち生死であり、識はすなわち生であり、名色以降はすなわち老死である。 では、現在に基づいて未来を説明するとは何か。三世の顕れと隠れの観点から論じるならば、現在の因には愛・取・有のみがあり、未来の果報には生と老死のみがあると知るべきである。しかし、実際の真理に基づいて総合的に論じるならば、現在の因には愛・取・有だけでなく、無明と行も具わっていると知るべきである。また、未来には生・老死だけでなく、識などの五つの果報も具わっていると知るべきである。 現在世において、業を起こす煩悩を無明と説き、業を潤す煩悩を愛・取と説く。ゆえに『地経論』には「過去の因を無明と愛と名づけ、未来も同様である」と説かれている。現在世において起こされた業を行と説き、潤された業を有と説く。未来世におけるすべての報いの主体を識などと説く。 過去に基づいて説くならば、それを生と老死とする。 <note>この三つの部門はここで終わる</note>

次就一世前後明具。現望過去。非但有彼識等五果。當知。亦有生死二報。具有之義。備如前辨。現望未來。非直有其愛取有因。當知。亦具無明及行。具有之義。亦如前辨此四門竟。

次就同時別體明具。如毘婆沙具廣分別。彼論名為剎那因緣。此奢摩達之所建立。相狀如何。彼文且就貪心起殺。明具十二。餘類可知。貪起殺時。貪相應愚。說為無明。彼相應思。即名為行。彼相應心。說之為識。起有作業。必依色心。說為名色。必依六根。說為六入。彼相應觸。說為觸支。彼相應受。說為受支。貪即名愛。貪相應纏。說之為取。何者是乎。與貪相應。有無慚愧睡及掉纏。通則俱是。於中分別。睡纏一種。於境睡著。不能堪忍。取執義顯。說之為取。身口作業。能有當果。說名為有。無作亦是。彼文不說彼前諸法。有生住滅。生為生支。變異名老。滅壞稱死。此雖同時。體性各異此五門竟。

次就同時同體之法明具十二。十二因緣。根本唯心故。經說言。十二因緣。唯一心作。唯心作者。謂依妄心。便有一切色境界起。如依夢心便有一切夢境界生。即彼心中闇惑之義。說為無明。集起之義。說之為行。了別之義。說以為識。心與色相。說為名色。是名色中隨別不同。離為六入。心觸前境。說為觸支。心能領納。即說為受。是心染境。即說為愛。心有取執。即名為取。能生後義。說之為有。相起名生。虛無名滅。滅名老死。此十二中。就餘十一說為無明。餘十一外。無別無明自性可得。乃至宣說前之十一。以為老死。前十一外。亦無老死自性可得。以十二緣同一體性。互相緣起。故十二緣。皆無自性。無自性故。悉皆空寂。時分如是。

第四約就界地分別。界謂三界。地謂九地。先約界論。毘婆沙中一論師說。欲界地中。具十二支。色界十一。除名色支。何故如是。色界六根一時頓生。生即六入。故無名色。無色有十。無名色支及六入支。何故如是。彼處無色。故無名色。彼無五根。故無六入。若就彼說。應當說言識緣於觸。評者言曰。於三界中悉具十二。欲界具有義在可知。於色界中。雖復六根一時頓生。初生六根。未能猛利。判為名色。後轉猛利。說為六入。故具十二。無色界中。無色有名。雖無五入。而有意入。故具十二。若就彼說。應當說言識緣於名名緣於意。一一細論。通局眾多。非可具辨。約界如是此一門竟。

次約地論。依毘婆沙。身在欲界。未離欲結。於欲界中。起愛起取。亦起於有。於未來世。有生老死。此人則是欲界地中。一愛取有一生老死。此人後時。斷離欲愛。初禪未離。於初禪地。起愛取有。未來當有初禪生死。此人現在。具欲初禪二愛取有二生老死。此人更斷初禪之愛。二禪未離。於二禪地。起愛取有。未來當受二禪生死。此人現具三愛取有三生老死。如是轉增。乃至斷離無所有愛。非想結在於非想地。起愛取有。未來當受非想生死。此人現具九地之中九愛取有九生老死。此人命終。生非想地。用前非想愛取二支。為過無明。用非想有。為過去行。用前未來非想生死。為現五果。此人爾時。於下八地愛取及有。非過去因。下八地中生老死報。非現在果。亦非未來。何故如是。論自釋言。因果成處。則可宣說過去現在及與未來。此人於下。因果不成。故不得名過現未來三世因緣。此人後時。退生識處。用本所起識處地中愛取二支。為過無明。用本有支。為過去行。用本所有識處地中未來生死。為現五果。望上望下。一切所有。悉非過去現在未來。義同前解。如是轉下。乃至退生欲界地中。用本欲界愛取二支。為過無明。用本有支。為過去行。用本欲界未來生死。為現五果。餘一切地所有因果。悉非過去現在未來。義同前釋。身在欲地。起因受果。其義既然。在上亦爾。界地分別。其狀如是。

第五門中。三性分別。望理以論。十二因緣。違理而生。斯是不善。隨相論之。於中亦有善惡無記三性差別。無明支者。依如毘曇。有其二種。一是不善。二穢污無記。欲界地中一切煩惱。除身見邊見。餘悉不善。以與無慚無愧俱故。欲界地中身邊二見。及上二界一切煩惱。皆是穢污。不與無慚無愧俱故。說為無記。若依成實。一切煩惱。斯是不善。大乘法中所說不定。若望果報。同毘曇說。故地持云。起身見人。不謗所知。不因此見墮於惡道。若望於理。同成實說。行支有二。一善二惡。樂因名善。苦因名惡。識支有三。一種子之識與行支同。二求生心識。三受生心識。與無明同。此二必用煩惱心故。問曰。若使受生心識必由煩惱。云何名報。然彼識支。雖是穢污。命根是報。又復所緣父母精血攬為體者。亦是報法。從此判為報無記耳。名色六入乃至觸受。一向無記。於中非無善惡之義。今對往因說為報。故斯名無記。愛取二支。同無明說。有同行說。生同識說。老死同前名色等說此五門竟。

第六明其淺深分齊。於中增數次第辨之。要攝唯二。一真二妄。十二因緣所起。真妄所集。唯真不生。單妄不成。真妄相依故。有因緣集起之義。據妄攝真。皆妄心作。就真攝妄。皆真心作。隨心麁細。分齊有三。一事相因緣。二妄想因緣。三真實因緣。一因緣法隨義分三。所言事者。六識分齊所起生死煩惱業苦。當知。即是事相因緣。言妄想者。則前事相。以理求之。唯是妄想虛搆集起。如夢所見。心外畢竟。無事可得。即是妄想因緣之義。言真實者。即前妄想因緣之體。窮其本性。唯是真識緣起所集。真外畢竟無妄可得。即是真實因緣之理。故地經云。十二因緣皆一心作。皆心作者。謂真心作。又勝鬘云。自性淨心不染而染。即是生死因緣集起。又如不增不減經說。即此法界。輪轉五道。名曰眾生。楞伽亦云。如來之藏。是其一切善不善因。能遍興造一切趣生。猶如伎兒變現諸趣。以斯驗求。生死因緣。皆是真作。如夢所見皆報心作。如波水作。如夜見繩以之為蛇蛇是繩作。如是一切。以真作故。因緣即真。故涅槃云。十二因緣。名為佛性。見十二緣。名為見佛。亦名見法。亦名見僧。勝鬘亦云。生死二法。是如來藏。隨義淺深分齊有五。一事相因緣。如毘曇說。二虛假因緣。假有無性。如成實說。三妄想因緣。如陽炎水揵闥婆城。遠望似有。近觀本無。非但無性。相亦叵得。四妄想因緣。皆妄心作。如夢所見。心外無法。五是真實集用因緣。皆真心作。真外無法。五中初二。猶是三中事相因緣。中間兩種。猶前三中妄想因緣。後之一種。猶前三中真實因緣。分齊如是。

第七門中。就人分別。人謂凡夫二乘菩薩。今就此等以辨因緣。於中有三。一明所有。二明起滅。三明所解。言所有者。因緣有二。一是分段。二是變易。若論分段。凡夫具有善道惡道二種因緣。二乘人中。惡道因緣。盡在見諦。故須陀洹。名為觝債。觝三塗債善道因緣。終至無學。無學猶有生死殘果。大乘人中。惡道因緣。盡在初地。故經說言。初地菩薩。離惡道畏。問曰。經說。種性已上大力菩薩。為變易死。惡道因緣。是分段故。今云何言初地始盡。釋言。惡道義別三階。一惡業為因。四住為緣。受惡趣報。在於外凡常沒位中。二惡業為因。四住正緣緣力微薄。悲願佐助。受惡趣身。在於外凡善趣位中。三惡業為因。悲願為緣。受惡趣生。在於種性解行位中。勝鬘以彼種性已上離前二種。名離分段。非無第三故。地持言。種性解行。或墮惡道。善道因緣。至佛乃盡。是故經中說。佛一人斷有頂種。問曰。經說。初地菩薩。得二十五三昧。破二十五有。今云何言至佛乃盡。釋言。善道亦有三階。善業為因。四住為緣。受人天報。在種性前。二善業為因。四住正緣緣力微薄。悲願佐助。受人天身。在種性上。三善業為因。悲願為緣。四住殘氣。隨而佐助。受人天報。在初地上。經以初地離前二種故。說初地破二十五有。非無第三故。地持中宣說。解行轉惡趣報。入歡喜地。不言轉善。又大智論說。初地上猶有肉身。良在於此。彼初地上。雖復有之。但於應化人天身中。微有淺氣。無純受者。分段如是。變易因緣。凡夫但有一無明支。無明住地先成就故。二乘之人。有無明行。而未受報。彼何時受。不愚法者。此身滅已。淨土中生。即便受之。愚法之人。未來無餘涅槃之後心想生時。方乃受之。大乘人中。十住已上有無明行。種性已上受生死果。至佛乃盡。所有如是此一門竟。

次明起滅。先論分段。凡夫於彼分段因緣集起不滅。二乘求滅不能學起。大乘之人。亦滅亦起自斷故。滅化他故起。故經說言。亦不畢竟滅有為法。化眾生故。次論變易。凡夫於彼變易因緣。未起未滅。二乘學起而未能滅。問曰。二乘亦能滅智入般涅槃。云何不滅。釋言。二乘雖暫滅智。後必還生。非是永盡。故不名滅。大乘之人。亦起亦滅。始學故起。終盡故滅此二門竟。

次約所解以辨因緣。凡夫於彼因緣法中。見有我人未流轉起十二緣。以有我故。所起因緣便有繫屬。名為我所。二乘解知無我無人。但諸因緣共相集起。以無我故。因緣之法。無所繫屬。故非我所。大乘之人。深解因緣非有非無。離於二邊。是義云何分別有三。一就法相明非有無。十二緣法。從緣集生。本無自性。是故非有。從緣集故。不得言無。見法非有。是其逆觀。見法非無。是其順觀。二相實相對。明非有無。妄情所起十二緣法。名之為相。所依真諦。說以為實。故經說言。十二因緣。皆依一心。依情起相。名為非無。據實本寂。說為非有。見實非有。是真諦觀解相非無。是世諦觀。三就實中體用分別。真諦常寂。無緣可得。名為非有。即此真識。隨妄流轉。起十二緣。說為非無。又佛菩薩隨世起用。亦名非無。見法非有。是實性觀。知法非無。是實相觀。就人如是。

第八門中。約智分別。智門非一。今且約彼四十四智七十七智。辨因緣相。於中略以五門。分別。一先定三觀。二明七方便。第三約彼七方便義。辨明四十四智差別。第四約前三種觀義及七方便。辨明七十七智不同。五隨人辨異。言三觀者。若依毘曇。說陰界入。以為三觀。此觀在於念處位中。若依成實。說觀無常無我及苦。明之為三。四觀在於四現忍中此一門竟。

七方便者。先就色論。後類諸法。七名是何。一者觀色。二觀色集。三觀色滅。四觀色道。五觀色味。六觀過。七觀色出。言觀色者。觀色果報。苦諦觀也。觀色集者觀色因緣。集諦觀也。觀色滅者。觀色盡處數滅無為。滅諦觀也。觀色道者。觀色對治無漏之道。道諦觀也。觀色味者。觀察前色能生愛味。觀色過者。觀察前色能生苦過。觀色出者。觀色得滅出離生死。何故不說觀色生道。釋言。生道即是第八第一義觀。為是不論。色中既然。諸法同爾。此七能與第一義觀為方便故。名為方便。此之七種位。在何處。若依毘曇。前四方便。有四現忍及見道中。後三在於修道之中。依如成實。此七門在聞思地中此二門竟。

次辨四十四智差別。四十四智。如成實說。此猶是前七方便中初四門觀。就十二緣為此四觀故。有四十四智差別。十二因緣次第相生。因果相屬有十一對。就此十一。從末尋本。逆以推之。先就老死對生為四。一觀老死苦。二觀老死集。三觀老死滅。四觀老死道。次第逆推乃至行支。對前無明。亦有此四。所謂觀行苦行集行滅及行滅道。無明望前。更無集因。所以不說。何故逆觀。據果尋因。順諦觀故此三門竟。

次辨七十七智差別。七十七智。如成實說。論文但言。如經中說。現在世中生緣老死。不離生緣老死。過未亦然。是法住智。滅相觀者。是泥洹智。如是次第乃至無明。皆悉同然。不廣分別。為是論家種種異釋。窮其體相此智。猶是七方便中第二集觀。及無常等三觀所攝。以何義故。七方便中偏為集觀。十二緣法。因緣為宗。集是緣義。故偏為之。集觀之中有六十六。三觀之中有其十一。彼此合說有七十七。前六十六。觀因生果。住持不滅。名法住智。後之十一。觀苦無常空無我等。趣向涅槃。名泥洹智。故論說言。增長生死。名法住智。損減生死。名泥洹智。相狀如何。現在世中。十二因緣次第相生。因果相屬。有十一對。過未亦然。便有三十三對因緣。今先就彼三世之中生緣老死。辨其觀相。餘類可知。現在世中生緣老死。有二集觀。一生緣老死。二者不離生緣老死。此二何別。毘婆沙云。初是正觀。後是審觀。何故須審。成實釋言。諸外道人。多迷因緣。或說冥性為眾生因。或說梵天以為因等。佛為破之。彰因作果是實不虛故。說不離現在世中生緣老死。既有此二。過未同然。即分為六。此六集觀在聞思地。四現忍中。總觀三世生緣老死。作三種觀。謂無常苦及空無我。三觀雖殊。同趣涅槃。總攝為一。名泥洹智。以此通前。合有七智。問曰。何故集觀之中。三世分六。泥洹智中。三世為一。釋言。集觀觀因生果。生果不同。世別分之。泥洹智者。破生死相。趣向寂滅。寂滅平等。三世合一。三世之中生緣老死。既有此七。次第逆推乃至無明緣行亦然。十一對中。皆有七智。是故合有七十七智。問曰。何不從無明行乃至老死。先從老死至無明行。因緣法中。有二次第。一順二逆。從始至終。是順次第。從終至始。是逆次第。觀法多途。不可一定。復此是聲聞觀法。聲聞鈍根。從末尋本。其觀易成。是故然矣。又問。因緣相生無窮。老死望後。何故不說緣生之義。老死望後。更無所生。是故不說。若爾何故地經之中宣說。老死與後作因。釋言。老死轉望未來。實有因義。菩薩能見故彼說之。七十七智聲聞觀法。老死為因。聲聞不見。故此不論。又復聲聞亦知老死緣生後義。今此且據一分為言。是故不說此四門竟。

約人辨。通而論之。四十七智七十七智。三乘同起。隨別論之。四十四智七十七智。並是聲聞觀行之法。依如論文。聲聞人中有利有鈍。四十四智。鈍人觀行。七十七智。利人觀行。何故如是。前四十四。觀果由因。為觀易成。鈍人能作故言為鈍。七十七智。觀因生果。為觀難熟。利人方堪故說為利菩薩於此因緣法中。觀門無邊。廣如地經。不可具辨。因緣之義。厥趣麁爾。