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title: "大乘義章 · 103 止觀捨義(一〇)"
description: "大乘義章是隋代高僧慧遠所著的一部重要佛教論典。該書創作於南北朝佛教義學興盛之際旨在系統闡釋大乘佛教的核心教義。全書內容廣博對名相、法數、教理等進行了精細分梳與詮釋涵蓋空有、佛性、修行等多個關鍵領域體系嚴整被譽為中國佛教史上的百科全書式著作。此書不僅總結了南北朝佛教的思想精華更對後世天台、華嚴等宗派的教理發展產生了深遠影響是研究漢傳大乘佛教思想不可或缺的權威典籍。"
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### 止觀捨義八門分別釋名一　定體二　辨相三　制立四　修起次第五　約境分別六　就位分別七　就人分別八

> 止観捨の義、八門に分かって解説する<note>名前の解釈一　本質の決定二　特徴の区別三　設立の理由四　修行の順序五　対象による区別六　位階による区別七　人による区別八</note>

第一釋名。止觀捨者。經中亦名定慧及捨。此乃修中之差別也。修義不同。一門說三。止者外國名奢摩他。此翻名止。守心住緣離於散動。故名為止。止心不亂故復名定。觀者外國名毘婆舍那。此翻名觀。於法推求簡擇名觀。觀達稱慧。捨者外國名憂畢叉。此翻名捨。行心平等捨離偏習。故名為捨此一門竟。

> まず、名称の説明をします。「止・観・捨」についてです。経典の中では、これらは「定」と「慧」、そして「捨」とも呼ばれています。これらは修行における区別です。修行の内容は異なりますが、一つの教えとして三つに分けて説かれています。 「止」とは、外国（インド）では「シャマタ」と呼ばれ、これを訳して「止」とします。心を守り、対象に留まり、散乱や動揺から離れることを「止」と言います。心が乱れずに落ち着いていることを、また「定」とも呼びます。 「観」とは、外国では「ヴィパシュヤナー」と呼ばれ、これを訳して「観」とします。物事について深く考え、正しく選び分けることを「観」と言います。観察して理解し尽くすことを「慧」と呼びます。 「捨」とは、外国では「ウペクシャー」と呼ばれ、これを訳して「捨」とします。心を平等に保ち、偏った習慣から離れることを「捨」と言います。<note>この一門はここまで</note>

次辨體性。唯依毘曇義釋有二。一就同時心法以論。止者正用定數為體。觀者或用觀數為體。或復用彼慧數為體。伺求之觀觀數為體。照法之觀慧數為體。捨者或用捨數為體。或用定慧二數為體。捨過之捨捨數為體。定慧平等捨離偏習。名之為捨。還即用彼定慧為體。二就前後修義分別。止者正用定行為體。定數為主。諸心心法相從住緣通名為止。觀者或用觀行為體。觀數為主。諸心心法相隨伺求通名為觀。或復用彼慧行為體。慧數為主。諸心心法相隨照境通名為觀。捨者或用捨行為體。捨數為主。諸心心法相隨捨過通名為捨。或用定慧二行為體。定慧兩數以為正主。諸心心法隨此定慧通名為捨。若依成實義釋亦二。一就同體同時法中隨義分別。一心體中住義名止。照義名觀。調停曰捨。不同毘曇諸數別體。二就前後修義分別。作意住緣名之為止。作止照境說名為觀。作意捨相方名為捨。通皆是心。無別主伴。大乘法中義別有三。一事識中修。二妄識中修。三真識中修。事識中修與毘曇同。心數別故。妄識中修麁同毘曇。細同成實。此云何知。如馬鳴說。第七識中麁細六重。根本四重心數無別。故同成實。末後兩重心與數別。共心相應。故同毘曇。真識中修義別有三。一就同時同體法中隨義別分。寂義名止。照義稱觀。離相名捨。二就同時同體法中異門相攝。止義為門。諸行隨之通名為止。觀義為門。諸行隨之齊名為觀。捨義為門。諸德隨之俱名為捨。三約修義前後別分。始心住法離妄名止。正見名觀。終證捨相故說為捨。體性如是。以此類餘諸行齊然此二門竟。

> 次に、その体性を明らかにします。 毘曇（アビダルマ）の教義に基づいて解釈すれば、二つの観点があります。 第一に、同時に働く心の作用について論じる場合です。「止」は、本来、定（心を集中する心所）を体とします。「観」は、観（尋・伺の心所）を体とする場合と、慧（智慧の心所）を体とする場合があります。対象を探し求める観は、尋・伺の心所を体とします。物事の本質を照らし見る観は、慧の心所を体とします。「捨」は、捨（心を平等に保つ心所）を体とする場合と、定と慧の二つの心所を体とする場合があります。過ちを捨て去るという意味での捨は、捨の心所を体とします。定と慧が平等であり、偏った習慣を離れることを「捨」と名付けます。この場合は、その定と慧そのものを体とするのです。 第二に、前後の修行の段階について論じる場合です。「止」は、本来、定の働きを体とします。定の心所が主となり、他のすべての心・心所もそれに従って境に留まることを、総じて「止」と呼びます。「観」は、観の働きを体とする場合があります。その場合、観の心所が主となり、他の心・心所もそれに従って対象を探し求めることを、総じて「観」と呼びます。また、慧の働きを体とする場合もあります。その場合、慧の心所が主となり、他の心・心所もそれに従って対象を照らし見ることを、総じて「観」と呼びます。「捨」は、捨の働きを体とする場合があります。その場合、捨の心所が主となり、他の心・心所もそれに従って過ちを捨てることを、総じて「捨」と呼びます。また、定と慧の二つの働きを体とする場合もあります。その場合、定と慧の二つの心所が正しい主となり、他の心・心所もこれらの定と慧に従うことを、総じて「捨」と呼びます。 次に、成実（サッティアシッディ）の教義に基づいて解釈すれば、これも二つの観点があります。 第一に、心の本質そのものが同時に様々な働きを持つという観点から論じる場合です。一つの心の本質において、境に留まる働きを「止」と名付け、照らし見る働きを「観」と名付け、調和して整えることを「捨」と名付けます。毘曇のように、諸々の心所がそれぞれ別々の実体を持つとは考えません。 第二に、前後の修行の段階について論じる場合です。心を境に留めようと作意することを「止」と名付け、止まりながら境を照らし見ることを「観」と名付け、あらゆる相を捨てようと作意することを「捨」と名付けます。これらはすべて心そのものであり、主従の区別はありません。 大乗の教義においては、その意味はさらに三つに分けられます。 第一に、事識（分別を伴う心）における修行です。第二に、妄識（迷いの心）における修行です。第三に、真識（真実の心）における修行です。 事識における修行は、毘曇の説と同じです。心所が別々に存在すると考えるからです。 妄識における修行は、大まかに見れば毘曇の説と同じですが、細かく見れば成実の説と同じです。これはどうして分かるのでしょうか。馬鳴（アシュヴァゴーシャ）の教えによれば、第七識（末那識）には、粗いものから細かいものまで六重の段階があります。その根本にある四重の心については、心と心所に区別がありません。ですから成実の説と同じです。後の二重の心については、心と心所が区別され、心と共にはたらきます。ですから毘曇の説と同じです。 真識における修行の意味は、さらに三つに分けられます。 第一に、同時に働く同体の法において、その意味によって区別する場合です。静かな働きを「止」と名付け、照らし見る働きを「観」と名付け、あらゆる相を離れることを「捨」と名付けます。 第二に、同時に働く同体の法において、異なる門から互いに摂め合う場合です。「止」という働きを門とすれば、すべての働きがそれに従って、総じて「止」と呼ばれます。「観」という働きを門とすれば、すべての働きがそれに従って、総じて「観」と呼ばれます。「捨」という働きを門とすれば、すべての徳がそれに従って、総じて「捨」と呼ばれます。 第三に、修行の段階によって前後に区別する場合です。最初に心を法に留めて迷いを離れることを「止」と名付け、正しく見ることを「観」と名付け、最終的に証悟してあらゆる相を捨てることを「捨」と説きます。 その体性は、以上の通りです。この道理によって、他のすべての働き（三十七道品など）もまた、すべて同様に理解すべきです。 <note>この二つの門はここで終わる</note>

次辨其相。於中兩門。一通就諸行開合辨相。二別就諸行開合辨相。初通就諸行開合辨者。此之三行開合不定。總之唯一。謂聞思修三行之中修行所收。或分為二。謂止與觀。如地持說。於一切法不起妄想名之為止。知第一義離言自性及知世諦無量處法說以為觀。或分為三。謂止觀捨。此三猶前止觀所攝。止觀別修分為前二。止觀雙修合為後一。故有三種。或分為四。如地持說。一者修止。二者修觀。三者修習止觀。四者樂住止觀。此四猶前止觀及捨三行所攝。捨中分二。初為修習終為樂住。更無別行。所言止者。於事於義繫心安住。遠離一切虛偽輕躁及諸憶想。是名為止。事謂世諦。義謂真諦離輕躁者。息除事中輕亂心也。離憶想者。遠離理外分別想也。所言觀者。於事於義憶念選擇。名之為觀。修止觀者。於前止觀常修頓修。樂止觀者。於前止觀以久修故不勤方便。熾然不動。隨義廣分修乃無量。通就諸行開合如是。次就諸行別相論之。先就止行開合辨相如涅槃說。總唯一定。或分無二。一者世間八禪事定。二者出世合理之靜。或分為三。謂上中下。下謂凡夫人禪事定。中謂二乘合理之靜。上者所謂諸佛菩薩離妄真定。或分為四。一者退分。二者住分。三勝進分。四決定分。此決定分涅槃名為能作大益。義如下解。或分為五。所謂凡夫聲聞緣覺菩薩及佛所得三昧。又涅槃中更分五種。一無食三昧。所謂初禪。彼離揣食故曰無食。二無過三昧。亦是初禪。彼離欲惡故名無過。三身意清淨一心三昧。謂第二禪。離六識中覺觀之過名身意淨。內淨一處故曰一心。四因果俱樂。謂第三禪。彼樂勝故。五常念三昧。謂四禪乃至生非想。彼免三災絕於四受。離出入息定心不動。故曰常念。或分為六。謂五停心及觀生滅。五停如下。或分為七。謂須陀洹所得三昧。斯陀那含羅漢辟支菩薩及佛所得三昧。或分為八。於前七上加凡所得。又八解脫八禪定等亦得分八。並如下釋。亦得分九。謂九次第定。根本八禪及滅盡定。轉相趣入名九次第。或分為十。謂一切入。亦如下釋。廣則無量。次就慧行開合辨相。總唯一慧。或分為二。一是世間世俗等智。二是出世。謂無漏智亦得分三。一者般若。此翻名慧。二毘婆舍那。此翻名觀。三者闍那。此翻名智。此三何異經中兩釋。一約人以分。言般若者。一切眾生。一切凡夫同有慧數。故名般若。毘婆舍那一切聖人。此名聲聞緣覺為聖。彼能觀察苦無常等。故名為觀。言闍那者。諸佛菩薩。彼知一切諸法差別。故名為智。二隨境別。言般若者。是別想觀。別知世諦。毘婆舍那是總相觀。總知真諦。言闍那者。是破相觀。破離有無知一實諦。亦得分四。謂四無礙四諦觀等。亦得分五。謂法住智．泥洹智．願智．無諍智．邊際智等。廣如下釋。又復五種無量之智亦是五種。亦如下釋。亦得分六。謂知生死無常苦空無我不淨涅槃寂滅。亦得分七。所謂知法．知義．知時．知足．知自知眾．知尊卑．亦如下釋。或分為八。知生死法無常與苦．無我．不淨。知涅槃法常．樂．我．淨。亦得分九。知前八種及第一義。亦得分十。所謂十智義。如下釋。又復十力亦是十也。或分十一。所謂十智及如實知。亦如下釋。廣則無量。捨中有二。一定慧雙修。離於偏習名之為捨義如前二。更無別行。二住空捨相。名之為捨。義則不定。總唯一捨。或分為二。一生空觀。於人平等。二法空觀。於法平等。或分為三。謂三空觀。或分為四。謂四空觀。有法空．無法空．自法空．他法空．是其四也。廣如上釋。或分為五。謂空．無相．無願．無作及無起觀。如無量壽經中所說。於空理中無相可取名為無相。無願樂心說為無願。無果可為名為無作。無因可起故曰無起。或分為七。謂七空觀。亦如上釋。或分十一。觀十一空。如涅槃說。或分十八。如大品說。廣則無量。辨相如是此三門竟。

> では、その相（すがた）を明らかにする。ここに二つの門がある。第一に、一切の行（修行）を総合的に開いて合体させて相を論じる。第二に、個々の行について開いて合体させて相を論じる。 まず、一切の行を総合的に開いて合体させることについて論じる。この三つの行（聞・思・修）は開いたり合体させたりが一定ではない。総合すればただ一つとなる。すなわち、聞・思・修の三行は修行の中に収められる。あるいは二つに分ける。すなわち、止（し）と観（かん）である。『地持経』に説くように、一切の法に妄想を起こさないことを止といい、第一義（しんたい）の言葉を離れた自性を知り、また世俗の諦（俗諦）の無量の処の法を知ることを観という。あるいは三つに分ける。すなわち、止・観・捨である。この三つは前の止観に収められる。止と観を別々に修することを前の二つとし、止観を共に修することを後の一つとする。ゆえに三種がある。あるいは四つに分ける。『地持経』に説くように、第一に修止、第二に修観、第三に修習止観、第四に楽住止観である。この四つは前の止観および捨の三行に収められる。捨の中に二つを分ける。初めは修習し、終わりは楽住する。別の行はない。いうところの止とは、事と義（道理）において心を繫ぎ安住し、一切の虚偽・軽躁・様々な憶想を遠離することである。これを止という。事とは俗諦であり、義とは真諦である。軽躁を離れるとは、事の中の軽く乱れた心を取り除くことである。憶想を離れるとは、理の外の分別の想いを遠ざけることである。いうところの観とは、事と義において憶念し選択することである。これを観という。修止観とは、前の止観を常に修し、速やかに修することである。楽住止観とは、前の止観を長く修めたがゆえに、精進の方便を用いずに、盛んに動じないことである。義に従って広く分ければ、修行は無量である。一切の行を総合的に開いて合体させることは、このようである。 次に、個々の行の別の相について論じる。まず、止の行を開いて合体させて相を論じる。『涅槃経』に説くように、総合すればただ一つに定まる。あるいは二つに分ける。第一に、世間の八禅の事定（世俗の禅定）。第二に、出世の理にかなった静けさ。あるいは三つに分ける。上・中・下である。下とは凡夫の八禅の事定。中とは二乗（声聞・縁覚）の理にかなった静けさ。上とは諸仏・菩薩の妄想を離れた真の定め（真定）。あるいは四つに分ける。第一に退分（退きやすい種類）、第二に住分（留まる種類）、第三に勝進分（すぐれて進む種類）、第四に決定分（決定した種類）。この決定分を涅槃では「大きな利益を作すことができる」と名づける。その意味は下で解釈する。あるいは五つに分ける。凡夫・声聞・縁覚・菩薩・仏の得る三昧である。また涅槃の中ではさらに五種に分ける。第一に無食三昧（食べ物がない三昧）。初禅をいう。そこでは揣食（かむ食物）を離れているから無食という。第二に無過三昧（過ちがない三昧）。また初禅である。そこでは欲と悪を離れているから無過という。第三に身意清浄一心三昧（身と意が清らかで一心の三昧）。第二禅をいう。六識の中の覚観の過ちを離れているから身意清浄という。内が清らかで一つのところに留まるから一心という。第四に因果倶楽（因も果も楽しみ）。第三禅をいう。その楽が勝れているからである。第五に常念三昧（常に念ずる三昧）。第四禅から非想非非想処に生まれるまでをいう。そこでは三災を免れ、四受を絶ち、出息・入息を離れて定心が動かない。ゆえに常念という。あるいは六つに分ける。五停心と観生滅である。五停は下で述べる。あるいは七つに分ける。須陀洹（預流）の得る三昧、斯陀含（一来）、阿那含（不還）、阿羅漢、辟支仏（縁覚）、菩薩、仏の得る三昧である。あるいは八つに分ける。前の七つに凡夫の得るものを加える。また八解脱、八禅定なども八つに分けることができる。これらはすべて下で解釈する。九つに分けることもできる。九次第定である。根本の八禅と滅尽定であり、順々に趣入していくから九次第という。十に分けることもできる。一切入である。これも下で解釈する。広くすれば無量である。 次に、慧の行を開いて合体させて相を論じる。総合すればただ一つの慧である。あるいは二つに分ける。第一に世間の世俗の平等の智。第二に出世の無漏智である。三つに分けることもできる。第一に般若（はんにゃ）。これを慧と翻訳する。第二に毘婆舎那（びばしゃな）。これを観と翻訳する。第三に闍那（じゃな）。これを智と翻訳する。この三つの違いについて経典には二つの解釈がある。一つは人によって分けるもの。般若とは、一切の衆生、一切の凡夫に同じく慧の性質があるから般若という。毘婆舎那とは、一切の聖人をいう。ここでは声聞・縁覚を聖人という。彼らは苦・無常などを観察することができるから観という。闍那とは、諸仏・菩薩をいう。彼らは一切の諸法の差別を知るから智という。二つ目は、境に従って分けるもの。般若とは、別想観（個別の相の観察）であり、俗諦を別々に知る。毘婆舎那とは、総相観（全体の相の観察）であり、真諦を総合して知る。闍那とは、破相観（相を破る観察）であり、有無を打ち破って一実の諦を知る。四つに分けることもできる。四無礙、四諦観などである。五つに分けることもできる。法住智・泥洹智・願智・無諍智・辺際智などである。広くは下で解釈する。また五種の無量の智もまた五種である。これも下で解釈する。六つに分けることもできる。生死は無常・苦・空・無我・不浄であり、涅槃は寂滅であると知ることである。七つに分けることもできる。法を知り、義を知り、時を知り、足ることを知り、自らを知り、衆を知り、尊卑を知ることである。これも下で解釈する。八つに分けることもできる。生死の法は無常・苦・無我・不浄であると知り、涅槃の法は常・楽・我・浄であると知ることである。九つに分けることもできる。前の八種と第一義とを知ることである。十に分けることもできる。十智の義である。下で解釈する。また十力もまた十である。十一に分けることもできる。十智と如実知である。これも下で解釈する。広くすれば無量である。 捨の中には二つがある。第一に、定と慧を共に修し、偏った修習を離れることを捨という。その義は前の二つと同じであり、別の行はない。第二に、空に住して捨の相とすることを捨という。その義は一定ではない。総合すればただ一つの捨である。あるいは二つに分ける。第一に生空観（人が空であるという観）であり、人について平等である。第二に法空観（法が空であるという観）であり、法について平等である。あるいは三つに分ける。三空観である。あるいは四つに分ける。四空観である。有法空・無法空・自法空・他法空の四つである。広くは先に解釈した通りである。五つに分けることもできる。空・無相・無願・無作・無起の観である。『無量寿経』に説く通りである。空の理の中には相として取るべきものがないから無相といい、願い楽しむ心がないから無願といい、果として作すべきものがないから無作といい、因として起こすべきものがないから無起という。七つに分けることもできる。七空観である。これも先に解釈した通りである。十一に分けることもできる。十一の空を観ずることである。『涅槃経』に説く通りである。十八に分けることもできる。『大品経』に説く通りである。広くすれば無量である。その相の説明は以上の通りである<note>この三門はここで終わる</note>。

次辨制立。以何義故立此三行不增不減。解有八義。一行性不同。定數是止。慧數是觀。捨數為捨。二行相不同。住緣是止。知法是觀。調停是捨。三功能不同。止能息亂。觀能斷惑。捨能違治。四修時不同。如涅槃說。心慢修止。煩惱增強戒律羸損諸根不調。於善疑悔則宜修觀。定慧不等則須修捨。又經宣說。定慧平等則宜修捨。五行門不同。如涅槃說。彼空三昧名之為止。以心住空離分別故。無願三昧說之為觀。慧觀生死能斷捨故。無相三昧說為捨行。證入涅槃捨眾相故。六根依境不同。多門如後。今此且依一相論之。依事修止。如世八禪。住事中故。依法修觀。觀察諸法苦無常等名為觀。故依理修捨。證空平等捨眾相故。七隨人不同。多門如後。今此且依一相辨之。如涅槃說。聲聞緣覺定多慧少。菩薩之人慧多定少。諸佛如來定慧平等。說之為捨。八所為不同。如涅槃說。為三義故。所以修止。一為離煩惱依禪伏結。二莊嚴大智依禪發慧。三為得自在依禪發通。為三義故。所以修觀。一為觀生死果報過故依慧滅苦。二為增善法依慧離業。三為破煩惱依慧除惑。為三義故。所以修捨。一為調定慧其令平等。二為證空捨離有相。三為得中道故離有無。制立如是此四門竟。

> 次に、この三つの行（止・観・捨）を立てる理由を説明します。なぜ三つであって、増えも減りもしないのか。これには八つの理由があります。 一、行の性質が異なるから。すなわち、定（心を集中すること）は止であり、慧（物事を観察する智慧）は観であり、捨（調和を保つこと）は捨である。 二、行の働き方が異なるから。すなわち、心を一つの対象に留めるのが止であり、物事を正しく見極めるのが観であり、両者を調和させるのが捨である。 三、その機能が異なるから。止は心の乱れを静め、観は煩悩を断ち、捨はそれらの対立を超えて調和させる。 四、修行の時期が異なるから。『涅槃経』に説かれるように、心が高ぶりやすい人は止を修行し、煩悩が強く戒律が緩み、感覚が乱れている場合や、善に対する疑いや後悔がある場合は観を修行し、定と慧が均等でない場合は捨を修行する。また、経典には、定と慧が平等になったならば、捨を修行すべきと説かれている。 五、修行の入り口が異なるから。『涅槃経』に説かれるように、空の三昧（空を観ずる瞑想）は止と呼ばれる。心が空にとどまり分別を離れるからである。無願の三昧は観と説かれる。智慧をもって生死を見極め、執着を断ち捨てるからである。無相の三昧は捨行と説かれる。涅槃を証得し、すべての形相を捨てるからである。 六、依りどころとする対象が異なるから。詳しくは後述するが、ここでは一つの側面から述べる。事（具体的な対象）に依って止を修行する。例えば世間の八つの禅定は、対象に心をとどめるからである。法（真理）に依って観を修行する。諸々の苦しみや無常などを観察するのを観というからである。理（真実の道理）に依って捨を修行する。空の平等を証得し、すべての形相を捨てるからである。 七、人によって異なるから。詳しくは後述するが、ここでは一つの側面から述べる。『涅槃経』に説かれるように、声聞や縁覚（小乗の修行者）は定が多く慧が少ない。菩薩は慧が多く定が少ない。諸仏如来は定と慧が平等であり、これを捨という。 八、目的が異なるから。『涅槃経』に説かれるように、三つの目的のために止を修行する。一つは煩悩を離れるため、禅定によって煩悩を抑えること。二つは大いなる智慧を荘厳するため、禅定によって智慧を発すること。三つは自在を得るため、禅定によって神通力を発すること。三つの目的のために観を修行する。一つは生死の果報の過ちを観察し、智慧によって苦しみを滅すること。二つは善い法を増進し、智慧によって悪業を離れること。三つは煩悩を打ち破り、智慧によって惑いを除くこと。三つの目的のために捨を修行する。一つは定と慧を調えて平等にすること。二つは空を証得し、有の相を捨てること。三つは中道を得るため、有と無の両極端を離れること。 このようにして、三つの行が立てられるのである。<note>この四つの門はここで終わる</note>

次明修起次第之義。於中次第略有四階。一制發捨。二止舉捨。三止觀捨。四定慧捨。此之四門通釋是一。於中別分前之兩階行修方便。後二修成得法相應。前方便中有始有終。得法亦爾。故有四階。制發捨者。方便之始對治昏覺。昏謂昏睡。覺謂八種惡覺煩惱。言八覺者。所謂欲覺．恚．害．親里．國土．不死．族姓．輕。侮若有惡覺則便制之制心住於數息門等。昏則發之念身無常。三惡道苦。佛法欲滅。以此鞭心令去睡昏。昏覺俱離修心得中。是時名捨。止舉捨者。方便之終對治沈掉。沈謂沈沒。掉謂掉動。心志濁悶名之為沈。心數異緣說以為掉。掉則修止止心鼻端眉間足指。隨在何處。沈則修舉念身無常苦無我等。沈掉俱離修心得中。是時名捨。止觀捨者。得法之始所治有三。一對愛見以明修治。四住煩惱分為愛見。初一是見。後三是愛。於此門中修止治愛所謂世俗八禪方便。修觀治見所謂出世無漏方便。止觀雙修離於偏習。是時名捨。二對癡愛以明修治。五住煩惱分為癡愛。無明名癡。餘四名愛。於此門中修止治愛。修觀治癡。癡愛俱離。止觀雙修。是時名捨。三對癡妄以辨修治。直就無明住地之中有闇有妄。迷覆諸法名之為闇。妄有所取說以為妄。如地持說。如是如實凡愚不知是其闇也。起八妄想是其妄也。於此門中修止治妄。如地持中。佛為訕大迦旃延說。不依地等一切法想而修禪定。馬鳴論中亦同此說。離一切想名為修止。修觀對治癡闇之心。故地持云。於一切法不起妄想名之為止。知離言性及知無量世諦方便名之為觀。雙修離於偏習是時名捨。定慧捨者。得法之終更無別治。於前止觀所除煩惱究竟盡處所成行德為定慧捨。修起如是此五門竟。

> 次に、修行を起こす次第の意義を明かす。この中の次第には、大まかに四つの段階がある。一に制発捨、二に止挙捨、三に止観捨、四に定慧捨である。この四つの門は、総じて解釈すれば一つである。その中で別に分けるならば、前の二つの階位は修行の方便であり、後の二つは修行が成就して法と相応するものである。前の方便には始めと終わりがあり、法を得ることもまた同じである。故に四つの段階があるのである。 制発捨とは、方便の始めにおいて、昏沈と悪覚を対治するものである。昏とは昏睡のことである。覚とは八種の悪覚の煩悩のことである。八覚というのは、すなわち欲覚・恚覚・害覚・親里覚・国土覚・不死覚・族姓覚・軽侮覚である。もし悪覚があれば、これを制して、心を数息観などの門に安住させる。昏睡があれば、これを発起して、身の無常、三悪道の苦、仏法の滅しようとしていることを観じさせる。これをもって心を鞭打ち、睡眠の昏沈を去らせる。昏沈と悪覚の両方が離れたならば、修行の心は中道を得る。この時を名づけて捨という。 止挙捨とは、方便の終わりにおいて、沈と掉を対治するものである。沈とは沈没のことである。掉とは掉動のことである。心の志が濁り悶えるのを沈という。心の数々が異なる縁に移るのを掉という。掉があれば止を修する。すなわち心を鼻端・眉間・足指に安ずる。どこにあってもよい。沈があれば挙を修する。すなわち身の無常・苦・無我などを観じる。沈と掉の両方が離れたならば、修行の心は中道を得る。この時を名づけて捨という。 止観捨とは、法を得る始めにおいて、対治するものに三つがある。 第一に、愛見に対する修治を明かす。四住の煩悩を分けて愛と見とする。初めの一つは見であり、後の三つは愛である。この門の中では、止を修して愛を対治する。すなわち世俗の八禅の方便である。観を修して見を対治する。すなわち出世間の無漏の方便である。止観を双修して、偏った習慣を離れる。この時を名づけて捨という。 第二に、癡愛に対する修治を明かす。五住の煩悩を分けて癡と愛とする。無明を癡と名づけ、残りの四つを愛と名づける。この門の中では、止を修して愛を対治し、観を修して癡を対治する。癡と愛が共に離れたならば、止観を双修する。この時を名づけて捨という。 第三に、癡妄に対する修治を明かす。ただ無明住地の中に、闇と妄とがあることを直接に指して言う。諸法を迷い覆うのを闇と名づける。妄りに取る所があるのを妄という。『地持経』に説くところの如くである。このような如実の法を、凡夫の愚か者は知らない。これが闇である。八種の妄想を起こす。これが妄である。この門の中では、止を修して妄を対治する。『地持経』の如く、仏が摩訶迦旃延のために説かれた。地など一切の法の想いに依らずして禅定を修せよと。馬鳴の論においても同じくこの説である。一切の想いを離れることを修止と名づける。観を修して癡闇の心を対治する。故に『地持経』にいう。一切の法について妄想を起こさないのを止と名づけ、言離の性を知り、および無量の世俗諦の方便を知るのを観と名づける。双修して偏った習慣を離れる。この時を名づけて捨という。 定慧捨とは、法を得る終わりにおいて、更に別の対治はない。先の止観において除かれた煩悩が究極に尽きたところに成ずる行徳を、定慧捨と名づける。修行がこのように起こる<note>此五門竟</note>。

次約境界分別三行。於中義別略有三階。一三法相對以辨三行。二兩行相對以辨三行。三歷就一法以辨三行。初就三法相對之中別有二門。第一約就事法及理以分三行。事者所謂陰界入等。依之修止。如世八禪。法者所謂苦無常等。依之修觀。理者所謂第一義空。依之修捨。捨離眾相。二約三諦以分三行。言三諦者。一是世諦謂法有相。二第一義諦謂法無相。三一實諦謂法非有非無之相。此三門中起修不定。從事入理依世修止。如世八禪。故依真修觀觀諸法空。從寂起用依真修止。離分別故。依世修觀觀諸法故。依一實諦修習捨行捨有無故。故地持中隨事取者名平等觀。隨如取者名平等心。等猶止也。捨離有無名第一捨。上來約就三境辨行。故約二境。言二境者。一世諦法。二真諦法。通而論之於此二中不起妄想通名為止。照見二諦俱名為觀。故地持中不起妄想說名為止。了知二諦同名為觀。止觀雙修調停名捨。於中別分起行各異。若就觀入依世修止依真修觀。若論起用依真修止依世修觀。止觀雙修調停名捨。次就一法以辨三行。隨於何法何事之中攝止安住即名為止。照察名觀。止觀調停名之為捨。約境如是此六門竟。

> 次に、境界を分別して三つの行について論ずる。その中で、義の違いを略して三つの段階に分ける。第一に、三つの法を相對して三つの行を弁別する。第二に、二つの行を相對して三つの行を弁別する。第三に、一つの法に基づいて三つの行を弁別する。初めに、三つの法を相對する中に、別に二つの門がある。 第一に、事法と理に基づいて三つの行を分ける。事とは、五陰・十二入・十八界などを指す。これに依って止を修する。例えば世間の八種の禅定の如くである。法とは、苦・無常などの教法を指す。これに依って観を修する。理とは、第一義の空を指す。これに依って捨を修し、すべての相を離れ捨てる。 第二に、三つの諦に基づいて三つの行を分ける。三つの諦とは、一是れ世諦、法に相有るを謂う。二は第一義諦、法に相無きを謂う。三は一実諦、法は有でも無でもない相を謂う。この三つの門において、修行の起こり方は一定ではない。事から理に入る場合、世諦に依って止を修する。例えば世間の八禅の如くである。故に真諦に依って観を修し、諸法の空を観ずる。寂静から用を起こす場合、真諦に依って止を修する。分別を離れるからである。世諦に依って観を修し、諸法を観ずる。一実諦に依って捨の行を修習し、有無を捨てるからである。故に『地持経』に「事に随って取るを名づけて平等観と為す。如に随って取るを名づけて平等心と為す。等は止に同じ。有無を捨離するを名づけて第一捨と為す」とある。 以上は三つの境に基づいて行を弁別した。次に二つの境に基づいて論ずる。二つの境とは、一是れ世諦の法、二は真諦の法である。通じて論ずれば、この二つにおいて妄想を起こさないことを通名して止と為す。二諦を照らし見ることを倶に名づけて観と為す。故に『地持経』に「妄想を起こさざるを説いて止と名づく。二諦を知るを同じく名づけて観と為す。止観を双修し調停するを名づけて捨と為す」とある。その中で別に分ければ、行を起こすことは各々異なる。もし観から入るならば、世諦に依って止を修し、真諦に依って観を修する。もし用を起こすことを論ずるならば、真諦に依って止を修し、世諦に依って観を修する。止観を双修し調停するを名づけて捨と為す。 次に、一つの法に基づいて三つの行を弁別する。どのような法・どのような事においても、止を取り入れ安住すれば即ちこれを名づけて止と為す。照らし察するを観と名づく。止観を調停するを之を名づけて捨と為す。境に基づいては、このようなものである<note>この六門はここに終わる</note>。

次就位論。位別有五。一外凡位。二內凡位。三見道四修道位。五無學位。通而論之一一位中皆具三行。於中別分進退有三。一義分別外凡位中修世八禪。名之為止。內凡位中學觀諦理。名之為觀。見道已上證理平等同名為捨。第二義者內凡位中安心諦理而未能見。說之為止。故見諦前名為定淨。見道位中始見諦理。名之為觀。修道已去定慧調停說名為捨。第三義者見道已前同名為止。見修二道照理名觀。無學位中得涅槃果捨離十相。故名為捨。位別如是此七門竟。

> まず、位について論じます。位の別には五つあります。第一に外凡位、第二に内凡位、第三に見道、第四に修道位、第五に無学位です。総合的に論じれば、それぞれの位の中に皆、三つの行が具わっています。その中で特に進退を分けてみると、三つの解釈があります。 第一の解釈では、外凡位において世間の八禅を修めることを「止」と名づけます。内凡位において真理を観察することを学ぶのを「観」と名づけます。見道以上の位で、真理を証得して平等であることを理解するのを、同じく「捨」と名づけます。 第二の解釈では、内凡位において心を真理に安んじるけれども、まだそれを観ることができないのを「止」と説きます。それゆえ、真理を見る前を「定浄」と名づけます。見道位において初めて真理を観るのを「観」と名づけます。修道位より後は、定と慧を調え整えることを説いて「捨」と名づけます。 第三の解釈では、見道より前を同じく「止」と名づけます。見道と修道の二つの位において、真理を照らし観るのを「観」と名づけます。無学位において涅槃の果報を得て、十の相を捨て離れるので、「捨」と名づけます。位の別は以上の通りです。<note>この七門はここで終わる</note>

次就人論。人有五種。一是凡夫。二是聲聞。三是緣覺。四是菩薩。五是如來。通而論之人人皆具止觀及捨。於中別分略有三義。一凡夫之人修世八禪。但有止行。聲聞緣覺觀察四諦十二緣等。有其觀行。菩薩及佛證法平等。有其捨行。二凡夫有止。義如前釋。菩薩二乘同觀法性。有其觀行。佛證涅槃。有其捨行。三除凡夫直論賢聖。聲聞之人住寂名止。菩薩了知差別法界。名之為觀。佛得涅槃。有其捨行。止觀捨義辨之粗爾。

> 次に、人について論じます。人には五つの種類があります。第一は凡夫、第二は声聞、第三は縁覚、第四は菩薩、第五は如来です。総合的に見れば、すべての人が止・観・捨を備えています。その中で区別して述べると、おおよそ三つの意味があります。 第一に、凡夫は世間の八種類の禅定を修行しますが、ただ「止」（心を静める修行）のみを持ちます。声聞と縁覚は四諦や十二因縁などを観察し、「観」（物事を観察する修行）を行います。菩薩と仏は法の平等を証得し、「捨」（執着を離れる修行）を持ちます。 第二に、凡夫には「止」があることは先に述べたとおりです。菩薩と二乗（声聞・縁覚）は共に法性を観察し、「観」の修行があります。仏は涅槃を証得し、「捨」の修行があります。 第三に、凡夫を除いて賢者と聖者について直接述べます。声聞は寂滅に安住することを「止」と呼びます。菩薩は差別ある法界を如実に知ることを「観」と呼びます。仏は涅槃を得て「捨」の修行があります。 止・観・捨の意味については、以上が大まかな説明です。