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title: "菩薩地持經 · 2"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
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## 菩薩地持經卷第二

> 菩薩地持経 第二巻

北涼中印度三藏曇無讖於姑臧譯

> 北涼・中インド三蔵 曇無讖 姑臧にて訳す

### 菩薩地持方便處真實義品之餘

> 菩薩地持方便処 真実義品（余）

復次菩薩從久遠來入無我法智、離言語自性，一切法如實知已，無有一法可起妄想，隨事取、隨如取，不如是念是事是如，但行其義。行第一義已，一切法如無等等，如實知見一切平等，觀平等心得第一捨。依第一捨已，一切經論一切巧便悉善通達。一切苦難終不退轉，其心堅固身無疲極。所為巧便得大念力，於諸巧便亦不自高。法化眾生無所祕惜，於諸巧便心不怯弱。有所堪能終不退減，能被具足大堅固鎧。如是如是生死苦增，如是如是堪能增長無上菩提，如是如是功德轉增，如是如是憍慢漸減，如是如是智慧轉明，如是如是彼彼諍訟、犯戒煩惱皆悉了知，知已放捨。如是如是功德增長，如是如是愈更覆藏不令他知、不為利養。菩薩如是等無量福利，順菩提道，悉依彼智。是故菩薩，已得菩提、今得當得，悉依彼智，非餘若劣若勝。如是離虛妄菩薩有如是等無量福利，自能成就無上佛法，以三乘法利益眾生，是名正趣。正趣已，自於身財遠離貪愛。學離愛已，復教眾生令離貪愛。捨於身財，等心眾生給施所須，善攝諸根，學身口律儀，性不樂惡仁賢真實，忍他侵逼及諸惡行。修學忍已，瞋恨轉薄不惱逼他。一切明處精勤修學，善為眾生決諸疑難攝取饒益，亦自攝受一切智因，內攝其心安住正受，淨四梵處遊五神通，一切事業悉方便學，一切巧便若立若廢終不疲厭。能善觀察第一真實，能善修學第一大乘，終不願求現世涅槃。如是平等究竟具足，於諸大德奉事供養，於惡眾生興大悲心，隨力所能為除惡行。於己嫌恨不饒益者，為起慈心，隨力堪任不諂不偽安樂饒益，令彼結恨過惡自滅。饒益己者，以等以增、知恩報恩，如法所求皆令滿足。若自無力，彼雖不請要作方便，心不休息，令彼知我無所遺惜。是名菩薩遠離虛妄依第一實智平等方便。

> また、菩薩は久遠の昔から、無我の法の智慧に入り、言葉や自性を離れ、すべての法を如実に知るようになりました。そのため、妄想を起こすべきいかなる法もなく、事柄に従って捉えたり、真如に従って捉えたりすることもありません。「これは事である」「これは真如である」などとは考えず、ただその義（真理）を行じるのです。第一義を修めたならば、すべての法は「如（しんにょ）」そのものであり、比類なきものとなります。如実に知り見て、すべては平等であると観じ、平等心を観じることで、第一の捨（しゃ：執着を離れること）を得ます。この第一の捨に依って、一切の経論や一切の巧みな方便に精通し、すべてをよく通達します。あらゆる苦難にあっても決して退転せず、その心は堅固で、身体に疲れが生じることもありません。為すことに巧みな方便を得て、大きな念力（おもいのちから）を備え、しかし、さまざまな巧みな方便を誇ることもありません。法をもって衆生を教化するにあたっては、惜しむことなく、種々の方便に心が怯えることもなく、耐え忍ぶ力を持ち、決して退き減じることがありません。大いなる堅固な鎧を具足しています。このように、生死の苦しみが増すほど、その忍ぶ力もまた増大し、無上菩提への志も強まります。このように功徳が増すにつれて、驕り高ぶる心は漸く減り、智慧はますます明らかになります。このようにして、あらゆる争論や戒律を破る煩悩をことごとく了知し、知った後にそれらを手放します。このように功徳が増せば増すほど、ますますそれを隠して他に知られないようにし、利養のためにも用いません。菩薩がこのような無量の福利を備え、菩提道に順じて歩むのは、すべてこの智慧に依るからです。それゆえ、すでに菩提を得た菩薩も、今まさに得ようとしている菩薩も、未来に得るであろう菩薩も、すべてこの智慧に依っており、他の劣ったものや優れたものに依るのではありません。このように虚妄を離れた菩薩は、このような無量の福利を備え、自ら無上の仏法を成就し、三乗の教えをもって衆生を利益します。これを「正趣（しょうしゅ：正しく趣く）」と呼びます。 正しく趣いたならば、自らの身体や財産に対して貪愛を遠ざけます。貪愛を離れることを学んだ後、さらに衆生にも教えて貪愛を離れさせます。身や財を施し、心を平等にして衆生に必要なものを与え、諸根をよく摂め、身口の律儀を学びます。性質として、不善を好まず、仁徳があり賢く真実であり、他者からの侵害や種々の悪行を忍耐します。忍辱を修め学んだ後は、瞋りの心が薄まり、他者を悩ませることもありません。あらゆる明処（学問や技術）を精励して学び、衆生のために諸々の疑問や困難を解決し、彼らを摂めて利益を与えます。また、自らも一切智の因を摂め、内に心を摂めて正受（正しい禅定）に安住し、四梵処（四無量心）を清め、五神通を遊戯（自在に用いる）し、あらゆる事業を巧みに学び、さまざまな方便が成就しても廃れても決して疲れ嫌うことがありません。第一義の真実をよく観察し、最も優れた大乗をよく修学し、決して現世における涅槃を願い求めません。このように平等を究竟（くっきょう）まで具足し、諸々の大徳に奉仕し供養し、悪しき衆生には大悲心を起こし、力の及ぶ限り悪行を取り除くために努めます。自分に恨みを持ち、利益にならない者には、慈しみの心を起こし、力を尽くして偽りなく、安楽をもたらし利益し、その恨みや過ちが自然に滅びるようにします。自分を利益してくれた者には、同等かそれ以上に報い、恩を思い恩に報い、法にかなった願いならばすべて満たします。もし自分に力が及ばなくても、相手が求めなくとも方便を用いて、心を休めることなく、自らは惜しむものがないことを知らせます。これを、菩薩が虚妄を遠ざけて第一義の実智に依る、平等の方便と呼びます。

云何知一切法離於言說？此施設假名自相諸法，所謂色受想行識乃至涅槃，當知假名無有自性，亦不離彼有言說行處言說境界。如是無有自性，如言語所說，亦不一切都無所有；如是無所有，亦非一切都無所有。彼云何有？有實、謗實此二俱離如是有，是名第一義自性，離一切妄想智慧行處。若法隨說有事轉者應有自性，若然者，一法一事應有眾多自性。何以故？謂一法一事有眾多名字施設故。亦非多名有決定性，亦非一名有自性、餘名無自性，是故施設假名，多名一名悉無自性。

> 全ての法が言葉による表現を離れていると、どのように知るべきでしょうか。ここで言う「仮に名づけられた自相の諸法」とは、すなわち色・受・想・行・識から涅槃に至るまでを指します。これらは仮の名（けめい）であって、自性（じしょう）を持たないと知るべきです。しかし、それらは言葉の表現や言葉の領域から完全に離れているわけでもありません。 このように自性を持たないとしても、言葉で語られるままに全てが無いわけではありません。また、全てが無いと言っても、完全に無であるわけでもありません。では、どのように「有る」のでしょうか。「有ると実在すること」と「有ると誹謗すること」の両方を離れたところに「有り」とあります。これを第一義の自性と呼び、あらゆる妄想や智慧の働く領域を離れたものです。 もし、言葉に従って事物が成り立つなら、それには自性があるはずです。しかし、もしそうなら、一つの法、一つの事柄に多くの自性が存在することになります。なぜなら、一つの法、一つの事柄に対して多くの名前が仮に施されているからです。多くの名前だからといって決まった性質があるわけではなく、また一つの名前に自性があり、他の名前には自性がないということもありません。このように、仮に施された名は、多数であろうと一つであろうと、全て自性を持たないのです。

復次色乃至涅槃法，若隨名字有自性者，要先有法而後隨意制名，未有名時彼法應無自性。若無自性者，無事制名。是義不然。無名有法，是亦不然。若法本來自性是色，然後以名字言說攝取是色。若然者，應離名有色施設，眾生應自知，是色不待名知。而眾生無名則不知色，以是故知一切諸法離言說自性，如色乃至涅槃亦復如是。復次有二種人壞佛正法：一者若色等諸法色等諸事，施設假名說自性自相，於不實法妄想計著；二者施設假名處假名所依，離言說自性，第一實義誹謗毀滅，一切都無所有。如前說建立不實法妄相過惡者，謂於色等諸法色等諸事非實計實，以是過故，破壞正法。又色等諸法、色等諸事，因緣分齊，誹謗毀滅都無所有，破壞正法。今當說色等諸法事，因緣分齊，誹謗說言無有真實亦無假名。二俱不然。如士夫等陰說名為人，是則可爾；無事說人則不應爾。如無事說人，如非無事說人，如是因緣分齊色等法建立假名，非是無事而立假名，是則應爾。若但假名而無事者，則無依處亦無假名，是不應爾。是人聞難解修多羅大乘甚深空相應義，於如實說一向不解，作不正思惟虛妄分別，以無巧便慧作如是說：一切皆是假名，無有真實，作如是觀是為正觀。是等於假名所依悉無所有，假名亦無。假名既無，假名真實亦無所有。真實假名是二俱謗者，是名都無。如是說無者，智慧梵行人不應共語、不應共住，是為自壞亦壞世間。是故世尊為是事說：寧起身見，不惡取空。何以故？起身見人，於所知戒不謗一切所知，不因此見墮於惡道，不壞他信樂離苦解脫亦不作留難，亦能建立真諦正法，不於戒律而生懈慢。惡取空者，於所知戒又復誹謗一切所知，以是緣故墮於惡道，亦壞他信樂離苦解脫亦作留難，於戒慢緩謗實法故破壞佛法。云何為惡取空？若沙門婆羅門謂此彼都空，是名惡取空。何以故？若言此空無彼性、若言此空有此性，是義應爾。若一切無性，何處何法空？亦不應言此即此空。何等為善取空？若於此物無彼物，故名為空；此物不空如實知，是名如實不顛倒。空謂色等施設假名、無有自性；而色等有餘，謂色等假名事因緣分齊。俱如實知，謂事分齊，有事分齊、假名分齊，不立非實不誹謗實、不增不減不舉不下，如實如如，離言說自性如實知，是名善取空，正智所知。我以具足思量結集，說一切法離言說自性。從佛所聞一切法離言說自性，今當說。如佛世尊趣有契經說偈顯示：

> さらに、色から涅槃に至るまでの諸法について、もし名前に従って自性があるのならば、まず先に法が存在してから、その後で意のままに名前が作られるはずである。しかし、名前がまだない時点では、その法には自性がないことになる。もし自性がないなら、実体がなくて名前を作ることになる。これは道理に合わない。名前がなくても法があるというのも、また道理に合わない。 もし法が本来からして自性が色であり、その後で名前や言葉でその色を捉えるのだとしたら、そうならば名前を離れて色が存在するはずであり、衆生は名前を知らなくても色を認識できるはずである。ところが、衆生は名前がなければ色を知ることができない。このことから、すべての諸法は言葉や概念による自性を離れていると知るべきである。色についても同様であり、涅槃についてもまた同じである。 さらに、仏の正法を壊す者には二種類いる。第一は、色などの諸法や事柄において、仮の名前を立てて自性や自相を説き、実在しない法を妄想して執着する者である。第二は、仮の名前を立てる拠り所である、言葉を離れた自性という第一義の真実を誹謗し、一切が何もないと否定する者である。 先に述べた、実在しない法を妄りに実在と見なす過ちは、色などの諸法や事柄において、実在しないものを実在と誤認することによって正法を破壊するものである。また、色などの諸法や事柄について、因縁によって成り立つ範囲を誹謗してすべて無いものとするのも、正法を破壊する。 ここで説くべきは、色などの諸法や事柄が因縁によって成立する範囲を否定して、「真実もなく仮名もない」と言うのは、どちらも正しくないということである。例えば、五蘊の集まりを仮に「人」と呼ぶことは許されるが、実体のないものを「人」と呼ぶことは許されない。実体のないものを「人」と呼ぶのが許されないように、因縁によって成立する色などの諸法に基づいて仮の名前を立てることは許されるのであって、実体なしに仮の名前を立てることはできない。そうであってこそ道理にかなう。もし仮の名前だけで実体がないなら、拠り所もなければ仮名そのものもなく、それは道理に反する。 このような者は、大乗の甚深なる空の教えに相応する経典の解説を聞いても、真実の教えを全く理解できず、正しくない思惟で虚妄に分別し、巧みな智慧を持たないがゆえに、「すべては仮の名前だけで、真実は何もない。そう観じるのが正しい観方である」などと言う。 こうした者は、仮の名前の拠り所が全くないため、仮の名前そのものもないとする。仮の名前がないなら、仮の名前の真実もまたない。真実と仮名の両方を否定することを「すべて無し」と言う。このように無を説く者は、智慧ある修行者は口をきくべきではなく、共に住むべきでもない。それは自らを壊し、世間も壊すからである。 そのため、世尊はこのために次のように言われた。「むしろ身見を起こせ。空を悪く取ってはならない」。なぜなら、身見を起こす者は、知るべき戒律において、すべての知るべきことを誹謗することはなく、この見解によって悪道に堕ちることもなく、他者の信仰を壊したり、苦からの解脱を妨げたりすることもなく、真実の正法を確立することができ、戒律に対して怠慢になることもないからである。 しかし、空を悪く取る者は、知るべき戒律において、すべての知るべきことを誹謗し、そのために悪道に堕ち、他者の信仰を壊し、苦からの解脱を妨げ、戒律に怠慢となり、実在の法を誹謗するがゆえに仏法を破壊するのである。 では、どのような空を「悪く取った空」と言うのか。沙門や婆羅門が「これもあれもすべて空である」と言うならば、それを悪く取った空という。なぜなら、「これは空であり、あの性質はない」と言うのも、「これは空であり、あの性質がある」と言うのも、どちらも道理にかなうからである。もし一切の性質が無いならば、どこに何の空があるのか。「これがすなわちこれの空である」と言うこともできない。 では、何が「善く取った空」か。もし「このものにはあのものがない」という意味で「空」というのであり、このもの自体は空ではないと如実に知るならば、それを如実にして顛倒しない知恵という。空とは、色などの仮の名前には自性がないということであり、色などには他の性質がある、すなわち色などの仮名の基となる因縁の範囲が存在するということである。 両方を如実に知るとは、事の範囲と、仮名の範囲との両方を知ることであり、実在しないものを立てず、実在を誹謗せず、増やさず減らさず、上げず下げず、如実にそのままに、言葉を離れた自性を如実に知ることである。これを善く取った空といい、正しい智慧の知るところである。 私はこれらの教えを十分に考えてまとめ、すべての法は言葉による自性を離れていると説く。仏から聞いたところによれば、一切の法は言葉による自性を離れている。今、その教えを説こう。仏世尊が趣ある経典の中で、偈頌をもって示されたように。

「如以種種名， 用說種種法，此亦無有彼， 是法法如是。」

> たとえ様々な名前を用いて、様々な教えを説いたとしても、 そこに実体としての「それ」はなく、一つ一つの教えは、ただあるがままに存在しているのです。

此偈顯示施設假名。名色等諸法，以色等名宣說諸法，流通言教，說色乃至涅槃。色等假名，無色等自性，色等法亦無餘自性。此色等假名，諸法離言說，義無所有，是名第一義自性法。如世尊義品說：

> この偈は、仮の名称（けみょう）を施すことを示しています。「色（しき）」や「名前と形（みょうしき）」などの様々な法（ものごと）を、言葉を使って説き、教えを広めています。色から涅槃（ねはん）に至るまで、それらを「色」などの名前で呼んでいます。しかし、色などの仮の名前には、色そのものの実体はありません。同様に、色などの法にも、それ以外の実体はありません。この色などの仮の名前は、すべての法が言葉では表せないことを示しています。その本質には、言葉で説明できるものは何もなく、これが「第一義（さいしょうぎ）の自性（じしょう）の法」と呼ばれるものです。世尊が「義品」で説かれている通りです。

「世間集言說， 牟尼悉不著，不著孰能著， 不起見聞著。」

> 「世の中にあるさまざまな言葉について、 目覚めた人は決して執着しない。 執着しない人は、何に執着するというのだろう？ もはや、見ることも聞くことも、執着の元にはならないのです。」

此偈顯示以色等假名施設色等事，是名世間集言說。此假名彼事，無彼自性。何以故？建立及謗無有此見故。無彼顛倒見，是名見不著。如是不著，誰能起見著於色等事，若建立、若誹謗？不起著正觀境界，是名為見；聽所知言說，是名為聞，是故見聞不起染著。於彼緣中一切捨離，是名不起見聞著。

> この偈は、色などの仮の名づけによって色などの事物を仮設することを示しており、これを世間における「集（まとまり）」と言います。この仮の名づけと、それに対応する事物には、それ自体としての固有の性質は存在しません。なぜなら、実体として「ある」と断じること（建立）も、「ない」と否定すること（誹謗）も、いずれも正しい見解ではないからです。このような誤った見解（顛倒見）がなければ、それを「見解に執着しない」と言います。このように執着がなければ、誰が色などの事物に対して、「ある」と断定したり「ない」と否定する見解を起こすことができるでしょうか？ そのように、執着することなく正しい観察の境地に安住することを「見る」と言い、聞かれた言葉をそのまま聞くことを「聞く」と言います。それゆえ、見ることや聞くことに執着や汚れが生じることはありません。そして、それらの対象（因縁）に対してすべての執着を手放すこと、これを「見ることや聞くことに執着しない」と言うのです。

復次佛為訕大迦旃延比丘說「比丘不依地修禪，不依水火風，不依空、識、無所有、非想非非想，非此世非他世、非日月、非見聞覺知、非求非得非覺非觀，不依此等而修禪定。云何不依地乃至不依覺觀而修禪定？迦旃延！若地地想除，乃至一切一切想除。比丘如是修禪，是名不依地修禪，乃至不依一切修禪。比丘如是修禪者，釋天、大力天、梵天悉來禮敬，說偈讚歎：

> そこで仏は、尊者マハーカッチャーナ比丘にこう説いた。「比丘は、地に依らずして禅定を修める。水・火・風にも依らない。空・識・無所有処・非想非非想処にも依らない。この世にもあの世にも依らず、日月にも依らず、見・聞・覚・知にも依らず、求めることにも得ることにも依らず、覚・観にも依らない。これらに依らずに禅定を修めるのである。 では、どのように地に依らず、覚・観にも依らずに禅定を修めるのか。カッチャーナよ、もし地についての想いが除かれ、乃至、一切についての一切の想いが除かれるならば、比丘はこのように禅定を修める。これを『地に依らず禅定を修める』といい、乃至、『一切に依らず禅定を修める』という。 このように禅定を修める比丘を、帝釈天や大力天や梵天たちがことごとく礼拝し、偈を唱えて讃嘆するのだ。」

「『南無最勝士！ 南無士之上！今我不知汝， 何所依而禪？』」

> 「南無、最勝なる者よ！　南無、尊き方よ！ 今、私はあなたを知らず、 何によって、あなたは瞑想しているのですか？」

此契經顯示地等假名眾事，於彼地等施設假名，是名地想。又此地等想，於彼假名事，若建立自性、若一切毀滅，壞第一義攝受誹謗，是名為想。若除彼想，是名為斷、是名為捨，當知是名從諸如來第一義師聞一切諸法離言說自性。如是一切法離言說自性者，一切言說為何所應？若無言語，不能為人說離言法。既無說，亦無聞。無說無聞，彼一切法離言說自性無能知者，是故應有言說令彼聞知。如是如實，凡愚不知，以是因緣起八種妄想而生三事，一切眾生器世間增。一者自性妄想；二者差別妄想；三者攝受積聚妄想；四者我妄想；五者我所妄想；六者念妄想；七者不念妄想；八者俱相違妄想。是名八妄想。

> この経典は、「地」などの仮の名前が付けられた存在について示しています。それらの「地」などに基づいて仮の名前を立てることを、「地という想い」と呼びます。また、この「地」などの想いは、それらの仮の名前が付けられた存在について、もし本質を確立しようとしたり、あるいはすべてを否定して、第一義（究極の真実）に基づく捉え方を壊し、これを誹謗（ひぼう）するならば、それを「想い」と呼びます。もしその想いを取り除くならば、それを「断ち切ること」と呼び、「手放すこと」と呼びます。これは、諸々の如来の第一義の教えに従って、すべての法（存在）には言葉を超えた本質があると聞き知ることだと知るべきです。 このように、すべての法には言葉を超えた本質があるのであれば、すべての言葉は何に応えるべきなのでしょうか？もし言葉がなければ、言葉を超えた法を人に説くことはできません。説くこともなく、聞くこともない。説くことも聞くこともなければ、すべての法の言葉を超えた本質を知る者はいません。ですから、言葉を用いて人々にそれを聞かせ、知らせるべきなのです。 このように真実のままに、凡夫（普通の人々）は知りません。その因縁によって八つの妄想（まもう）が生じ、そこから三つの事柄が起こり、すべての衆生（生きとし生けるもの）とその住む世界が増え広がります。 第一に「本質についての妄想」、第二に「違いについての妄想」、第三に「集めて積み重ねることについての妄想」、第四に「自己についての妄想」、第五に「私のものという妄想」、第六に「記憶についての妄想」、第七に「記憶しないことについての妄想」、第八に「両方および反対のことについての妄想」です。これらを八つの妄想と呼びます。

云何所生三事？一者自性妄想、差別妄想、攝受積聚妄想，此三妄想，是妄想虛偽處、虛偽攀緣事，由此而生於色等假名。若彼事處以名想言語攝受增長，無量虛偽常行不息。二者彼我我所妄想，此二妄想是身見，身見為一切見根本及慢根本，我慢能生一切諸慢。三者彼念妄想、不念妄想、俱相違妄想，隨其所應生貪恚癡。是名八種妄想生三種事。所謂妄想處虛偽事、身見我慢事、貪恚癡事，依妄想虛偽生身見我慢，依身見我慢生貪恚癡。此三種事，一切世間積聚分一切熾然。

> 問う。どのようにして三つの事が生じるのか。 第一に、自性妄想、差別妄想、摂受積聚妄想という三つの妄想がある。これら三つの妄想は、妄想の虚偽なる場所、虚偽に執着する対象であり、これによって色などの仮の名が生じる。もしその対象や場所において、名や言葉によって執着し増長させれば、無量の虚偽が常に働き続けてやまない。 第二に、我と我所という二つの妄想がある。この二つの妄想は身見であり、身見はすべての見解の根本であり、慢の根本でもある。我慢はすべての慢を生じさせる。 第三に、念の妄想、不念の妄想、および両者に違背する妄想がある。それぞれに応じて貪・瞋・癡を生じさせる。 これを八種の妄想が三種類の事を生じさせるという。すなわち、妄想の場所である虚偽の事、身見と我慢の事、貪・瞋・癡の事である。妄想の虚偽によって身見と我慢が生じ、身見と我慢によって貪・瞋・癡が生じる。この三つの事は、一切の世間の積聚の部分であり、一切を燃え上がらせるものである。

云何自性妄想？於色等假名事，若妄想言是色，是名自性妄想。云何差別妄想？於此色等假名事，言此是色此非色、此可見此不可見、此有對此無對、此有漏此無漏、此有為此無為，如是等無量分別，於自性妄想處作差別妄想，是名差別妄想。云何攝受積聚妄想？於色等假名事，我、人、壽命、眾生，於彼俗數妄想，於色等饒益，積聚多法、積聚攝受，因起舍宅軍眾林叢飲食衣服車乘。於彼俗數妄想饒益，是名攝受積聚妄想。云何我我所妄想？若彼諸事是有漏受陰，久遠積習我我所著，是故無攝受處習自見處事，以是因緣起不如實妄想，是名我我所妄想。云何念妄想？於彼淨妙及所憙事緣妄想。云何不念妄想？於不淨及所不憙事緣妄想。云何念不念俱相違緣妄想？於彼淨不淨、所喜所不喜俱離事緣妄想。彼略說有二事，謂妄想及妄想依、妄想緣事。此二事，俱從本來各各相因，過去妄想生現在妄想緣事，現在妄想緣事生現在緣事妄想，不知現在妄想故復生未來妄想緣事。緣事生已，必復生彼緣事妄想。

> 「自性妄想とは何か。色などの仮の名を持つものについて、『これは色である』と妄想すること、これを自性妄想という。 差別妄想とは何か。この色などの仮の名を持つものについて、『これは色であり、これは色ではない』『これは見えるものであり、これは見えないもの』『これは対するものがあり、これは対するものがない』『これは煩悩のあるものであり、これは煩悩のないもの』『これは作られたものであり、これは作られていないもの』などと、無数の区別を、自性妄想のところでさらなる差別の妄想を起こすこと、これを差別妄想という。 摂受積聚妄想とは何か。色などの仮の名を持つものについて、我、人、寿命、衆生などの世俗の数のように妄想し、色などにおいて利益を得ようと、多くのものを集め、ため込み、受け取ろうとする。そこから家屋、軍隊、林、飲食、衣服、乗り物などが生じる。それらの世俗の数のように妄想して利益を得ること、これを摂受積聚妄想という。 我我所妄想とは何か。もしそれらのものが煩悩を伴う受陰であって、長い間、我と我がものという執着に慣れ親しんできたなら、それゆえ、執着する対象がないところで、自らの見解に執着する事柄が生じ、その因縁によって如実ならざる妄想が生じる。これを我我所妄想という。 念妄想とは何か。清らかで美しいもの、および好ましいものについての妄想をいう。 不念妄想とは何か。清らかでないもの、および好ましくないものについての妄想をいう。 念不念俱相違縁妄想とは何か。清らかでも清らかでなくもなく、好ましくも好ましくなくもない、それらを離れた事柄についての妄想をいう。 これらを大まかに分けると二つの事柄がある。すなわち、妄想そのものと、妄想がよりどころとするもの、そして妄想の原因となる事柄である。この二つのものは、もともとそれぞれが互いに原因となりあっている。過去の妄想が現在の妄想の原因となる事柄を生み、現在の妄想の原因となる事柄が現在のその事柄についての妄想を生む。現在の妄想を了知しないがゆえに、さらに未来の妄想の原因となる事柄を生む。原因となる事柄が生まれると、必ずまたその事柄についての妄想が生まれるのである。」

云何知妄想？有四種求、四種如實知。云何四種求？一者名求；二者事求；三者自性施設求；四者差別施設求。名求者，菩薩於名，名分齊觀名求。如是事，事分齊觀事求。自性施設，自性施設分齊觀自性施設求。差別施設，差別施設分齊觀差別施設求。彼名與事，若離相觀、若合相觀，名事合依自性施設、差別施設觀。云何四如實知？隨名求如實知、隨事求如實知、隨自性施設求如實知、隨差別施設求如實知。云何隨名求如實知？菩薩於名，名分齊求，如是名如實知，此名為此事立、為想為見、為流布。於色等假名事不立色等名者，無有能知色等事者。若不知者，無思量事。會無思量者，則無言說。如是如實知者，是名隨名求如實知。云何隨事求如實知？菩薩於事，事分齊求觀色等假名事，一切言說事離言說，是名第二隨事求如實知。云何隨自性施設求如實知？菩薩於色等假名事自性施設，自性施設分齊，求彼自性施設。此自性事，觀自性相如實知，如化、如影、如響、如焰、如水中月、如夢、如幻，觀自性相無有真實，是名第三如實知甚深義處隨自性施設求如實知。云何隨差別施設求如實知？菩薩於差別施設，差別施設分齊，求是假名色等事差別施設不二。觀彼事非有性、非無性，言說自性不可得，亦非無性。離言說自性而建立性，非有色，第一義諦故。亦非無色，世諦有色故。如有性無性、色非色，如是可見不可見一切法差別施設，皆如是知。此差別施設不二義如實知，是名隨差別施設求如實知。若彼八種邪妄想，愚癡凡夫生三種事增長世間。彼四種如實知不具足者，彼邪妄想煩惱起，起煩惱故受生死，受生死故隨生死生老病死等眾苦增長。若菩薩依四種如實知，現世知八種妄想。現世知已，未來依處緣中虛偽事則不復起。彼事不起者，彼未來緣中妄想不生。如是彼事彼妄想滅已，一切虛偽亦滅。虛偽滅已，菩薩疾得大乘大般涅槃，現世能得奇特大士行處淨智，成就一切大自在力，所謂種種化化神力、種種變變神力，一切智知無所罣礙，隨其所欲存亡自在。得如是等無量自在，名一切眾生最勝無上。如是一切自在菩薩，成就五種上妙功德：一者得第一淨心寂滅正受，而不寂滅一切煩惱；二者一切明處清淨知見增長無減；三者為眾生故，處在生死而不疲厭；四者善入如來言說旨趣；五者善解大乘不從他受。如是五種功德為五種業：一者現世第一樂住，開覺方便生身心方便，疲勞悉滅，是心寂靜功德之業。二者成就一切佛法，是一切明處清淨知見功德之業。三者成就眾生，是於生死而不疲厭功德之業。四者教化眾生，起未起疑能為開解，護持正法令得久住，有相似法能滅正法者，善知善說能令除滅，是善入如來言說旨趣功德之業。五者降伏一切外道異論，堅固精進正願不滅，是善解大乘不從他受功德之業。如是菩薩一切所作，皆是五功德業之所攝，謂不染污樂、成熟佛法、成就眾生、護持正法、降伏異論、熾然精進、正願不動。彼四種真實義，初第二是下，第三是中，第四是上。

> 妄想（あらゆる虚偽の分別）をどのように知るのでしょうか？ それには四つの求めと、四つの如実な知り方があります。 四つの求めとは何か？ 第一に、名前を求めること。 第二に、事物を求めること。 第三に、自性（本質）を設定することを求めること。 第四に、差異を設定することを求めること。 名前を求めるとは、菩薩が名前に対して、名前の範囲を観察して名前を求めることです。 事物を求めるとは、事物に対して、事物の範囲を観察して事物を求めることです。 自性設定を求めるとは、自性設定の範囲を観察して自性設定を求めることです。 差異設定を求めるとは、差異設定の範囲を観察して差異設定を求めることです。 その名前と事物を、別々の相として観察しても、結びついた相として観察しても、名前と事物が結びついたものに基づいて、自性設定や差異設定を観察します。 四つの如実な知り方とは何か？ 名前を求めることに随って如実に知ること。 事物を求めることに随って如実に知ること。 自性設定を求めることに随って如実に知ること。 差異設定を求めることに随って如実に知ること。 名前を求めることに随って如実に知るとは何か？ 菩薩は名前に対して、名前の範囲を求め、この名前がこの事物のために設定されたものであること、思考や見解や広く伝わるためのものであることを如実に知ります。 例えば、「色」などの仮の名前で呼ばれる事物について、もし「色」という名前を設定しなければ、誰も「色」という事物を知ることはできません。 もし知らなければ、思惟することはできません。 思惟することがなければ、言葉による表現もありません。 このように如実に知ることを、名前を求めることに随って如実に知ると言います。 事物を求めることに随って如実に知るとは何か？ 菩薩は事物に対して、事物の範囲を求め、「色」などの仮の名前で呼ばれる事物を観察します。 すべての言葉で表現される事物は、言葉による表現を離れていることを知ります。 これが第二の、事物を求めることに随って如実に知ることです。 自性設定を求めることに随って如実に知るとは何か？ 菩薩は「色」などの仮の名前で呼ばれる事物の自性設定に対して、自性設定の範囲を求め、その自性設定を観察します。 この自性という事物は、その自性の相を如実に観察すると、幻のように、影のように、響きのように、陽炎のように、水中の月のように、夢のように、幻術のように、自性の相には真実の実体がないと観察します。 これが第三の、深い意味の領域である自性設定を求めることに随って如実に知ることです。 差異設定を求めることに随って如実に知るとは何か？ 菩薩は差異設定に対して、差異設定の範囲を求め、この仮の名前で呼ばれる「色」などの事物の差異設定は、不二（対立を超えたもの）であると理解します。 その事物を観察すると、存在する性質があるのでもなく、存在しない性質があるのでもなく、言葉で表現される自性は捉えられず、また無性質でもありません。 言葉で表現される自性を離れて性質が成立しているのです。 「色」があるのでもありません。なぜなら、それは第一義諦（最高の真理）だからです。 また「色」がないのでもありません。なぜなら、世俗の真理においては「色」が存在するからです。 存在する性質と存在しない性質、色と非色のように、見えるものと見えないものなど、あらゆる法の差異設定も、すべてこのように知るべきです。 この差異設定が不二の意味であることを如実に知ることを、差異設定を求めることに随って如実に知ると言います。 もし、愚かで迷いのある凡夫が、ここに挙げた八種の誤った妄想によって三種の事物を生み出し、世間を増長させるならば、 彼らはこの四つの如実な知り方を完全に備えていないため、その誤った妄想から煩悩が生じ、煩悩が生じるゆえに生死の輪廻を受け、生死の輪廻を受けるゆえに生死に従い、生・老・病・死などの苦しみが増大します。 もし菩薩が四つの如実な知り方に依って、現世において八種の妄想を知るならば、 現世において知った後、未来の依り所と縁となる事物の中での虚偽の事物は、もはや生じなくなります。 その事物が生じなければ、未来の縁において妄想は生じません。 このように、その事物と妄想が消滅すれば、すべての虚偽もまた消滅します。 虚偽が消滅すれば、菩薩は速やかに大乗の大般涅槃（完全な涅槃）を得て、現世において特別な大士の修行の境地である清らかな智慧を体得し、一切の大自在の力を成就します。 すなわち、様々に変化させて化身を作り出す神力、様々に変化させる神力、一切のことを智慧で知り、何の障りもなく、その望みに従って存在・消滅を自在に操る力を得ます。 このような無量の自在を得て、一切の衆生の中で最も優れた無上の者と称されます。 このように一切が自在となった菩薩は、五種の優れた功徳を成就します。 第一に、最も清らかな心の寂静である正受（正しい境地）を得ながらも、一切の煩悩を寂滅させ尽くさないこと。 第二に、一切の明処（学問・知識の分野）に対する清らかな知見が増長し、減退することがないこと。 第三に、衆生のためであれば、生死の輪廻の中に留まっても疲れ嫌うことがないこと。 第四に、如来の言葉の趣旨に善く入り込むこと。 第五に、大乗を善く理解し、他から教えを受けなくても自ら悟ること。 この五種の功徳は五種の働きをもたらします。 第一に、現世において最高の安楽に住し、身心の疲労を滅する方便を開き覚らせる、心の寂静の功徳の働き。 第二に、一切の仏法を成就する、一切の明処に対する清らかな知見の功徳の働き。 第三に、衆生を成就する、生死の輪廻に疲れ嫌わない功徳の働き。 第四に、衆生を教化し、まだ生じていない疑問を生じさせることなく、すでに生じた疑問を開き解き、正法を護持して長く存続させ、正法を滅ぼす似て非なる法が現れたときには、それを善く知り善く説いて除き滅する、如来の言葉の趣旨に善く入る功徳の働き。 第五に、一切の外道の異論を降伏し、堅固な精進と正しい誓願を減退させない、大乗を善く理解して他から教えを受けない功徳の働き。 このように、菩薩のすべての行いは、すべてこれらの五種の功徳の働きに含まれます。 すなわち、染まらない安楽、仏法の成熟、衆生の成就、正法の護持、異論の降伏、盛んな精進、動かない正しい誓願です。 それら四つの真実の意味のうち、第一と第二は下位、第三は中位、第四は上位のものです。