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title: "菩薩地持經 · 8 力種性品"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
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### 菩薩地持方便處力種性品第八

> 菩薩地持方便処 力種性品 第八

已說菩薩所學處，菩薩學今當說。如是菩薩欲善學菩薩學者，有七事：一者先當多修信解；二者求法；三者說法；四者法次法向；五者正教授；六者教誡；七者攝方便身口意業。云何菩薩多修信解？菩薩於八種解處淨信在前，一心決定樂欲成就，所謂三寶功德、佛法僧功德、諸佛菩薩自在神力，如上所說。真實之義，如上所說。若種種因若種種果，隨順相應而不顛倒，得義、得方便，堪任能得，有得方便則能得義。彼得義者，無上菩提。得方便者，一切菩薩所修學道。所謂信解善說，謂修多羅、祇夜、受記、無量言教微妙善說。菩薩於此八種解處，有二種解力：一者多修解行；二者深忍樂著。彼菩薩求法者，何法求？云何求？何故求？何法求者，略說求菩薩藏、聲聞藏、外論、世工業處智。十二部經，唯方廣部是菩薩藏，餘十一部是聲聞藏。外論者，略說有三種：因論、聲論、醫方論。世工業處智者，謂種種事業，如金師、鐵師、水師等，及餘種種明處所攝。明處者，有五種：一者內明處；二者因明處；三者聲明處；四者醫方明處；五者工業明處。此五種明處，菩薩悉求。佛所說者名為內論，略說二種：一者顯示正因果？二者顯示所作不壞不作不受。因論亦二種：一者能屈他論；二者自申己義。聲論有二種：一者顯示界色界與色此二種是聲之差別，非常所謂陰界形色。根本聲名為界，界有種種別聲名為色，此二聲總一切音聲，音聲論此中應廣說；二者顯示巧便言辭。醫方論有四種：一者顯示善知病；二者顯示病因；三者顯示能除已起之病；四者顯示已除之病令不重起。世工業處智者，顯示種種世業成就。云何是佛所說不顛倒因？有十種不顛倒因，當知攝一切因、一切煩惱、一切清淨、一切無記等。云何為十？一者隨說因；二者以有因；三者種殖因；四者攝因；五者生因；六者長因；七者自種因；八者共事因；九者相違因；十者不相違因。彼一切法名，名已想、想已說，此諸法名想言說，是名隨說因。以有事故有所作，是名以有因。以有手故有所作，以有足故有遊行，以有身故有屈申，以有飢渴故有求飲食，如是比無量無數名，以有因種諸種子，名種殖因。水土潤澤，是名攝因。種子於芽，是名生因。芽莖相續乃至成熟，是名長因。種種種子各各自生，是名自種因。彼以有因、種殖因、攝因、生因、長因、自種因，此六因總說共事因。障礙於生，名相違因。不障礙者，名不相違因。彼相違有六種：一者語相違，謂沙門婆羅門所說經論前後相違；二者所應相違，謂說一切義與理相違；三者生相違，謂生緣不具障礙於生；四者處相違，謂明暗愛恚苦樂等法；五者怨相違，謂毒蛇鼠狼猫鼠，是等虫獸各各怨害；六者對治相違，謂修不淨對治貪欲、慈息瞋恚、悲止害覺、無漏道品永斷煩惱，此中以生相違故。說此諸因二因所攝：一者生因；二者方便因。若種諸種子生，是名生因；諸餘因是名方便因。

> すでに菩薩の学ぶべきところを説いた。次に、菩薩の学びについて今まさに説こう。このように菩薩がよく菩薩の学びを学ぼうとするならば、七つの事柄がある。第一に、まず多く信解を修すること。第二に、法を求めること。第三に、法を説くこと。第四に、法に従い法に向かうこと。第五に、正しい教授であること。第六に、教え諭すこと。第七に、身口意の業をうまく調える方便を摂することである。 では、菩薩が多く信解を修するとはどういうことか。菩薩は八つの信解すべき処について、清らかな信を前に置き、一心に決定し、楽しんで成就しようと願う。すなわち、三宝の功徳、すなわち仏・法・僧の功徳、諸仏菩薩の自在な神通力について、先に説いた通りである。真実の義についても、先に説いた通りである。もし種々の因、種々の果について、互いに順応し相応して顛倒せず、義を得、方便を得て、よく成し遂げることができ、得る方便があれば則ち義を得ることができる。その義を得るとは、無上の菩提である。方便を得るとは、一切の菩薩の修める学ぶ道である。いわゆる信解して善く説くとは、経・偈・授記などの無量の言葉や教えの、微妙でよく説かれたものを指す。菩薩はこの八つの信解すべき処について、二種の解く力がある。第一に、多く信解の行を修すること。第二に、深く忍び楽しみ執着することである。 では、その菩薩が法を求めるとは、何の法を求めるのか。どのように求めるのか。何のために求めるのか。何の法を求めるかとは、略して言えば、菩薩蔵、声聞蔵、外論、世間の工芸処の智慧を求めることである。十二部経のうち、ただ方広部のみが菩薩蔵であり、残りの十一部は声聞蔵である。外論とは、略して三種がある。因論、声論、医方論である。世間の工芸処の智慧とは、種々の事業、例えば金師、鉄師、水師など、その他種々の明処に含まれるものである。明処とは、五種がある。第一に内明処、第二に因明処、第三に声明処、第四に医方明処、第五に工業明処である。この五種の明処を、菩薩はすべて求める。仏の説かれたものを内論と名づけ、略して二種を説く。第一に、正しい因果を示すもの。第二に、所作は壊れず、不作は受けずということを示すものである。因論にも二種がある。第一に、他者の論を屈することができるもの。第二に、自らの義を述べるものである。声論には二種がある。第一に、界と色という声の違いを示すもの。第二に、巧みな言い回しを示すものである。医方論には四種がある。第一に、病をよく知ることを示すもの。第二に、病因を示すもの。第三に、すでに起こった病を除くことができることを示すもの。第四に、すでに除いた病を再び起こさないようにすることを示すものである。世間の工芸処の智慧とは、種々の世間の業の成就を示すものである。 では、仏の説かれた顛倒しない因とは何か。十種の顛倒しない因がある。あらゆる因、あらゆる煩悩、あらゆる清らかなもの、あらゆる無記のものなどを含むと知るべきである。十種とは何か。第一に、随説因。第二に、以有因。第三に、種殖因。第四に、摂因。第五に、生因。第六に、長因。第七に、自種因。第八に、共事因。第九に、相違因。第十に、不相違因である。あらゆる法には名前があり、名前があって想いが生じ、想いがあって言葉が生じる。これらの法の名、想い、言説を、随説因と名づける。ある物事が存在するからこそ、何かが為される。これを以有因と名づける。手があるからこそ物事が為され、足があるからこそ歩行があり、身体があるからこそ屈伸があり、飢えや渇きがあるからこそ飲食を求める。このように無量無数のものを以有因と名づける。種々の種子を蒔くことを、種殖因と名づける。水や土で潤すことを、摂因と名づける。種子から芽が出ることを、生因と名づける。芽や茎が連続して成長し、ついに成熟することを、長因と名づける。種々の種子が、それぞれ自らを生じることを、自種因と名づける。これら、以有因、種殖因、摂因、生因、長因、自種因の六つの因を、総称して共事因と名づける。生じることを妨げるものを、相違因と名づける。妨げないものを、不相違因と名づける。その相違には六種がある。第一に、語の相違。沙門や婆羅門の説く経論が前後で矛盾すること。第二に、所応相違。一切の義を説くことが道理に反すること。第三に、生相違。生じるための縁がそろわず、生じることを妨げること。第四に、処相違。明るさと暗さ、愛と憎しみ、苦しみと楽しみなどの法のこと。第五に、怨相違。毒蛇や鼬、猫や鼠など、これらの虫や獣が互いに害し合うこと。第六に、対治相違。不浄観を修して貪欲を対治し、慈しみで瞋恚を鎮め、悲しみで害する心を止め、無漏の道の品々で煩悩を永く断つこと。これらは、生相違によって説かれる。これらの諸因は、二種の因に含まれる。第一に、生因。第二に、方便因である。もし種々の種子を蒔いて生じるならば、これを生因と名づける。残りの諸因は方便因と名づける。

復次有四緣：因緣、次第緣、緣緣、增上緣。生因者，是因緣。方便因者，是增上緣。次第緣、緣緣者，是心心數法，謂前生心心數法，開導攝受緣攝受生，是故二緣攝因所攝。

> また、四つの縁があります。因縁、次第縁、縁縁、増上縁です。 生じる原因となるものは、因縁です。 都合の良い原因となるものは、増上縁です。 次第縁と縁縁は、心と心の働き（心数法）に関するものです。 つまり、前に生じた心と心の働きが、道を開き導き、受け入れ支える縁によって次の心を生じさせます。そのため、この二つの縁は因によってまとめられます。

云何此十因，生一切世間事？云何生一切煩惱？云何生一切清淨。若種種穀數世間資生，名想言說，所謂黍稷稻梁胡麻豆麥，是名隨說因。如大麥，若持來若持去、若取若與，如是等種種言說。餘一切亦如是，以有飢渴身羸瘦故求索摶食，如是等比名以有因。若種諸種子各各自生，彼初殖種子是名種殖因初種種子於後芽莖乃至成熟是名種殖因，初種生芽是名生因。水土潤澤令芽得生，是名攝因。彼種子於芽，是名生因。復次芽莖枝葉展轉相續，乃至成熟，是名長因。如麥種子，麥芽生非餘，餘亦如是，是名自種因。彼一切以有因乃至自種因，悉名共事因，以一切和合生故名共事因。霜雹災害障礙破壞，是名相違因。彼不具不障，是名不相違因。諸餘一切世間事，皆十因所生，隨所宜應當知。

> この十の因によって、いかにしてあらゆる世間の出来事が生じるのか。いかにしてあらゆる煩悩が生じるのか。いかにしてあらゆる清らかなものが生じるのか。 様々な穀物や世間の生活に必要なもの、名前や言葉で語られるもの、例えばキビ、アワ、稲、梁、ゴマ、豆、麦などは、「随説因」と呼ばれる。例えば大麦について、「持って来る」「持って行く」「取る」「与える」といった様々な言葉がある。他のものもすべて同様である。 飢えや渇きによって身体が痩せ衰えるので、食べ物を求める。このようなものが「以有因」と呼ばれる。 様々な種を蒔けば、それぞれが自ら芽を出す。その最初に蒔かれた種子は「種殖因」と呼ばれる<note>最初に種を蒔けば、後に芽や茎が生じ、ついには成熟する。これを種殖因という。最初の種から芽が生じることを生因という。</note>。水と土が潤いを与えて芽を生じさせる。これは「摂因」と呼ばれる。その種子から芽が生じることは「生因」と呼ばれる。さらに芽、茎、枝、葉と次々に連なって、ついに成熟する。これは「長因」と呼ばれる。 例えば麦の種子からは麦の芽が生じ、他のものからは生じない。他のものも同様である。これは「自種因」と呼ばれる。これらの「以有因」から「自種因」までの全ては、まとめて「共事因」と呼ばれる。すべてのものが和合して生じるからである。 霜や雹などの災害が妨げとなり、破壊する。これは「相違因」と呼ばれる。それらの災害がなく、妨げもないことは「不相違因」と呼ばれる。 その他、あらゆる世間の出来事は、すべてこの十の因によって生じる。それぞれの場合に応じて、そのように理解すべきである。

彼一切緣起名想言說，所謂無明、行、識、名色、六入、觸、受、愛、取、有、生、老病死憂悲苦惱，是名煩惱隨說因。無明緣行乃至生緣老死等，言說境界顧念味著。諸有支生，是名煩惱以有因。無明等法現法種子，生餘生生老病死，是名種殖因。不近善友聽受正法、習不正思惟，無明等生，是名攝因。各各種子無明等生，是名生因。從無明至後有增進相求，至餘生生老病死，是名長因。種種種子俱從無明乃至後有，生地獄餓鬼畜生及諸人天，是名煩惱自種因。從以有因乃至自種因，是名共事因。若有種性，值佛出世演說善法，近善知識聽受善法，正念思惟，法次法向清淨道品，是名煩惱相違因。如上說不具者，是名不相違因。是名十因，生一切煩惱應當知。

> 一切の縁起は「想」と「言説」によって成り立っている。すなわち、無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老病死・憂悲苦悩、これを「煩悩の随説因」という。 無明を縁として行が生じ、生を縁として老死などが生じる。それらの言説の境地に執着し味わい求める。 諸々の有支が生じることを「煩悩の有因」という。 無明などの諸法は、現世において種子となり、他の生における生老病死を生じさせる。これを「種殖因」という。 善き友に近づかず、正しい教えを聞かず、正しくない思惟を習うことにより、無明などが生じる。これを「摂因」という。 それぞれの種子から無明などが生じることを「生因」という。 無明から後有に至るまで、さらに進んで求め、他の生における生老病死に至ることを「長因」という。 様々な種子が、すべて無明から後有に至るまで、地獄・餓鬼・畜生・人・天を生じさせる。これを「煩悩の自種因」という。 有因から自種因に至るまでを「共事因」という。 もし種姓が存在し、仏が世に現れ善法を説き、善知識に近づき善法を聞き、正しく念じ考え、法の順序に従って清浄なる道品に向かうならば、これを「煩悩相違因」という。 上に述べた条件がそろわない場合を「不相違因」という。 以上が十の因であり、これらによってすべての煩悩が生じることを知るべきである。

彼一切淨法乃至滅盡涅槃名想言說，是名淨法隨說因。此念處、正勤乃至八聖道，無明滅乃至生老病死滅，如是名想言說，是名淨法隨說因。彼以有無明等故，樂求淨法、攝受淨法，淨法得生，是名以有因。若種性具足人，向有餘無餘涅槃最先行者，是名清淨種殖因。彼種性所攝無漏道品種子，於諸道品法，是名生因。近善知識聽受善法，正思惟修，諸根成熟，是名攝因。彼種子生道品法，向無餘涅槃，是名長因。彼聲聞種性以聲聞乘而般涅槃，緣覺種性以緣覺乘而般涅槃，大乘種性以無上大乘而般涅槃，是名自種因。從以有因乃至自種因，是名共事因。種性不具、不值佛世、生諸難處、不近善友、不聞善法、不正思惟、習行邪道，是名淨法相違因。此相違不具者，是名不相違因。諸煩惱相違因，是淨法因。淨法相違因，是煩惱因。如是煩惱十因、清淨十因，過去未來、煩惱清淨皆亦如是，無餘無上。

> 一切の清らかな法（ダルマ）、さらには煩悩の消滅に至る涅槃に至るまで、それらは名称や言葉で表現されるものです。これを、清らかな法に基づく「随説因（説くところに従った原因）」と呼びます。また、四念処、四正勤、さらには八正道といった修行、無明の消滅から生・老・病・死の消滅に至るまで、これらもすべて名称や言葉で表され、同じく清らかな法の随説因です。 無明などがあるからこそ、人は清らかな法を求め、それを受け入れ、そして清らかな法が生まれます。これを「以有因（あるがゆえの原因）」と呼びます。 もし、仏になる素質（種性）を十分に備えた人が、有餘涅槃や無餘涅槃へと向かう最初の歩みを始めるなら、それを「清浄種殖因（清らかな種を植える原因）」と呼びます。その種性に含まれる、煩悩のない教え（無漏道品）の種子が、様々な道の実践にとって、それを生み出す原因となります。これを「生因」と呼びます。 善き友（善知識）に近づき、教えを聞き、正しく考え、実践を積んで、感覚器官（諸根）が成熟することを「摂因（取り入れる原因）」と呼びます。 その種子から道の実践が生まれ、無餘涅槃へと向かうことを「長因（育てる原因）」と呼びます。 声聞の種性を持つ者は声聞の乗り物で、縁覚の種性を持つ者は縁覚の乗り物で、大乗の種性を持つ者は無上の大乗で、それぞれ涅槃に入ります。これを「自種因（自らの種による原因）」と呼びます。 「以有因」から「自種因」に至るまでを、まとめて「共事因（共に働く原因）」と呼びます。 種性が備わっていないこと、仏の世に生まれないこと、困難な状況に生まれること、善き友に近づかないこと、善い教えを聞かないこと、正しく考えないこと、邪な道を歩むこと。これらを「清浄法相違因（清らかな法に反する原因）」と呼びます。この反対の原因がそろっていないことを「不相違因（反しない原因）」と呼びます。 様々な煩悩に反する原因は、清らかな法の原因です。清らかな法に反する原因は、煩悩の原因です。 このように、煩悩には十の原因があり、清らかさにも十の原因があります。過去と未来における、煩悩と清らかさについても、まったく同じであり、これ以上なく、これより優れたものはありません。

云何為果？略說五種：一者報果；二者依果；三者解脫果；四者士夫果；五者增上果。若不善法得惡趣報、有漏善法得善趣報，是名報果。若習不善法、樂住不善法、增不善法，若習善法、樂住善法、增益善法，先業相似後果生，是名依果。八聖道滅諸煩惱，名解脫果。若復世俗滅諸煩惱，彼不究竟捨離凡夫，非解脫果。若於現法，依種種世間工巧處業諸士夫事，所謂田種販賣、宰官理務、書畫算數、卜占印封，各有果生，是名士夫果。眼識是眼根增上果，乃至意識是意根增上果。生理不壞是命根增上果。一切二十二根，各為增上、各有果生，當知皆是增上果。此二十二根增上，如攝事處說。如是菩薩知佛顯示正因果已，於處非處智力種性次第修習清淨增長，非不作異作有所成熟，亦無自所作業經劫而失，作者不失、不作不受，佛所顯示。如是菩薩如實知已，自業智力種性次第修習清淨增長。

> 果とは何か。簡単に言えば、次の五つである。一に報果、二に依果、三に解脱果、四に士夫果、五に増上果である。 不善の法は悪い世界に生まれ変わる報いをもたらし、煩悩を伴う善の法は良い世界に生まれ変わる報いをもたらす。これを報果という。 不善の法を習い、それに安住し、それを増長させること、また善の法を習い、それに安住し、それを増長させることにより、以前の行為に似た結果が後に生じる。これを依果という。 八つの聖なる道が諸々の煩悩を滅ぼすこと、これを解脱果という。しかし、世俗的な方法で煩悩を滅ぼしても、それは凡夫の境地から完全に離れることはできないので、解脱果とは言わない。 現世において、様々な世間の技術や職業に従事することによって生じる結果、例えば田畑の耕作や商売、役人の仕事、書道や絵画、算術、占い、印鑑など、それぞれに結果が生じる。これを士夫果という。 眼識は眼根の増上果であり、同様に意識は意根の増上果である。生理機能が壊れないことは命根の増上果である。すべての二十二根は、それぞれが増上のはたらきを持ち、それぞれに結果が生じる。これらはすべて増上果であると知るべきである。この二十二根の増上のはたらきについては、「摂事処」で述べられている通りである。 このようにして、菩薩は仏が示された正しい因果を理解した後、「処非処智力」の種性を、次第に修行し、清らかにし、増長させていく。原因なくして結果が生じることはなく、異なる原因が結果を生み出すこともない。また、自ら行った業は長い時間を経ても失われず、行った者はその報いから逃れられず、行わなければ報いを受けることもない。これは仏が示されたところである。 このように菩薩は、「自業智力」の種性を如実に知った後、次第に修行し、清らかにし、増長させていくのである。

云何菩薩求聞法？是菩薩住慇懃恭敬，求善說法、善語法，如是比略說善說法住、勤恭敬住。若菩薩為聞一善說法，路由惡道大地熾然，猶尚歡喜從中而過，況為多聞。為一聞法，猶尚不惜所愛之身，況餘資生。一聞說法，愛樂恭敬，比前愛敬百千萬倍，乃至算數譬喻不得為比。謂聞善說法心無厭足，增益淨信其身柔軟，心直見直深樂功德。至說法所無留難心，恭敬除慢，但求正法不求名稱，為己及他修諸善根不為利養。至說法所，不染心聽法、不亂心聽法、不染污心聽法者，離貢高煩惱，及輕想煩惱、下想煩惱。有七行離貢高煩惱：一者時聽；二者欲受；三者頓聽；四者敬聽；五者不戲；六者隨順；七者不求過失。如是七行，離貢高煩惱。有四行離輕想煩惱：一者恭敬法；二者恭敬說法人；三者不輕法；四者不輕說法人。如是四行，離輕想煩惱。一行離下想煩惱，所謂聽受正法。不自輕聽法，以此一行離下想煩惱。離如是等過聽受正法，是名菩薩不染心聽法。云何不亂心聽法？有四行：一者一心；二者側聽；三者定意；四者一向專樂聽受正法。是名菩薩求聞法。

> 菩薩がどのようにして法を聞き求めるかについて説明します。 その菩薩は、熱心で敬虔な心を持ち、優れた説法と優れた教えの言葉を求めます。このように、優れた説法に安住し、勤め敬うことに安住するのです。 もし菩薩が一つの優れた教えを聴聞するために、その道が悪道で大地が燃え盛るような場所であっても、喜んでそこを通り抜けるなら、ましてや多くの教えを聞くためであればなおさらです。一つの法を聞くためだけでも、愛する自分の身さえ惜しまないのに、ましてや他の財産や生活の資具などはなおさらです。一つの説法を聞く時に抱く愛好と恭敬の心は、それ以前の愛敬の心に比べて百千万倍も勝り、たとえや計算で表すことすらできません。 つまり、優れた説法を聞く心に飽き足りることがなく、清らかな信仰心を増し、その身は柔和になり、心はまっすぐで見解も正直であり、功徳を深く喜び楽しむのです。 説法の場所に至っても妨げる心がなく、恭敬して慢心を取り除き、ただ正しい法だけを求め、名声を求めません。自分のためにも他人のためにも善根を修め、利益や供養のためには行いません。 説法の場所に至って、汚れた心で法を聞かず、乱れた心で法を聞かず、汚染された心で法を聞かないとは、どういうことでしょうか。 汚れた心で聞かないとは、高ぶりや煩悩を離れ、また軽んじる思いの煩悩や、卑下する思いの煩悩を離れることです。 高ぶりの煩悩を離れるための七つの行いがあります。 第一に、時機に適って聞くこと。 第二に、受け入れようと欲すること。 第三に、一心に聞くこと。 第四に、敬って聞くこと。 第五に、ふざけないこと。 第六に、教えに従うこと。 第七に、過失を求めないこと。 この七つの行いによって、高ぶりの煩悩を離れます。 軽んじる思いの煩悩を離れるための四つの行いがあります。 第一に、法を敬うこと。 第二に、説法する人を敬うこと。 第三に、法を軽んじないこと。 第四に、説法する人を軽んじないこと。 この四つの行いによって、軽んじる思いの煩悩を離れます。 卑下する思いの煩悩を離れるための一つの行いがあります。それは、正しい法を聴受することです。自分を卑下せずに法を聞くこと、この一つの行いによって卑下する思いの煩悩を離れます。 このような過ちを離れて正しい法を聴受すること、これを菩薩の汚れた心なく法を聞く、といいます。 では、乱れた心なく法を聞くとは、どういうことでしょうか。 四つの行いがあります。 第一に、一心に聞くこと。 第二に、耳を傾けて聞くこと。 第三に、心を定めて聞くこと。 第四に、ひたすらに専ら喜んで正しい法を聴受することです。 これらを、菩薩が法を聞き求めること、と名づけます。

菩薩何故求聞法？菩薩求佛所說法，為受正法次法向故、為他廣說故。菩薩求因論者，欲知彼論過故、欲降伏異論故、未信佛法者令生信故、已生信者令增廣故。菩薩求聲論者，廣為眾生演說正語令愛樂故、為淨莊嚴辭句味故、於一義中種種言辭莊嚴故。菩薩求醫方論者，為除眾生種種病故、攝受大眾故。菩薩求世間工業處智者，為少方便獲致大財饒益無量諸眾生故、為教眾生種種事業故。如是菩薩求五明處，為無上菩提大智眾具究竟滿故，非不次第學一切法而得一切無障礙智，是名菩薩所求如所求所為求。

> 菩薩がなぜ教えを求めるのか。菩薩は仏の説法を求め、正しい法を受け、その法に従って実践し、さらに他の人々に広く説くためである。菩薩が論理（因論）を求めるのは、その論の誤りを知り、異論を打ち負かすためであり、まだ仏法を信じていない人々に信仰を生じさせ、すでに信じている人々の信仰を増し広げるためである。菩薩が音声や言語（声論）を求めるのは、広く生きとし生けるものに正しい言葉を説いて愛好させ、美しい言辞や文句によって荘厳を清浄にし、一つの義を様々な言葉で飾るためである。菩薩が医学（医方論）を求めるのは、生きとし生けるものの様々な病を取り除き、多くの人々を導き受け入れるためである。菩薩が世間の技術（世間工業処）を求めるのは、わずかな方便で大きな財を得て、無数の生きとし生けるものを利益し、様々な仕事を教えるためである。このように菩薩は五つの明（五明処）を求める。それは無上の菩提という大いなる智慧の完全な具足を成就するためであり、決して順序を踏まないで全ての法を学ぶことなくして、あらゆる障害のない智慧を得ることはできない。これを菩薩の求めるところ、求めるにふさわしいところ、目的をもって求めるところという。

菩薩為他說者，何所說？云何說？何故說？彼如所求法，如是法說。如所求義，如是義說。以二因緣故說：一者隨順說；二者清淨說。隨順說者，住如法威儀說，非不如法。不為高坐無病者說，覆頭者、在前行者，悉不為說，如修多羅廣說。何以故？諸佛菩薩自恭敬法，以敬法故令餘眾生深起恭敬，聞已奉持不起輕慢。一切說、一切無間說，不為法慳、不作師惓，如次第句味說、如次第句味受、如次第義分別說，義饒益及法饒益。種種義饒益，示所應示、授所應授、照所應照、喜所應喜。現智比智，從師具聞而為人說，非不思量。具足聽聞順向善趣，不亂說、善說、不深隱說，應四聖諦說，隨眾所應而為廣說。此十五種，菩薩普為眾生隨順善說，一切利他應當知。

> 菩薩が人々のために説法するとき、何を説くのか。どのように説くのか。なぜ説くのか。 彼は、求められる法に従って、その法を説く。求められる義に従って、その義を説く。 二つの因縁によって説く。一つは「随順説」、二つは「清浄説」である。 随順説とは、法にかなった威儀をもって説くことであり、法にかなわない形で説かない。 高い座に座り、病のない人の前で説いたり、頭を覆った者や先を歩く者に向かっては説かない。これは経典に詳しく説かれる通りである。 なぜか。諸仏・菩薩は自ら法を敬うからである。法を敬うことで、他の衆生にも深い敬いの心を起こさせ、聞いた後にそれを大切に守り、軽んじることがないようにするためである。 すべてを説き、絶え間なく説く。法を惜しむことなく、師として倦むことなく、語句や意味の順序に従って説き、それを受け入れ、義を順に分別して説く。義の利益と法の利益のためである。 さまざまな義の利益として、示すべきものを示し、授けるべきものを授け、照らすべきものを照らし、喜ばせるべきものを喜ばせる。 現智と比智を用い、師から十分に聞いたことをもとにして人々に説き、思い巡らせずに説くことはない。 十分に聞き、善趣に向かい、乱れずに説き、巧みに説き、深く隠されたままにせず、四聖諦にかなって説き、聴衆に応じて広く説く。 この十五の方法をもって、菩薩はあまねく衆生のために、その状況に応じて善く説く。 一切の利他行は、このように知るべきである。

復次菩薩於不饒益己者住慈心為說，惡趣行者住安隱心說，苦樂眾生放逸貧乞者住安樂哀愍心說，不以嫉纏故自歎毀他，離貪著心不求名利為他說法。如是五種，菩薩清淨說法。前後略說二十種：一者時；二者頓；三者次第；四者相續；五者堪耐；六者歡喜；七者欲；八者喜；九者勸；十者不毀；十一者應；十二者文字具足；十三者不雜；十四者如法；十五者隨眾；十六者慈心；十七者安心；十八者哀愍心；十九者不自譽毀人；二十者不依名利，是名菩薩為他說法。

> さらに、菩薩は自分に利益をもたらさない者に対しても慈しみの心を持って法を説き、悪しき道を行く者には安心の心を持って説き、苦しみや楽しみに流される者、貧しく乞う者には安楽と哀れみの心を持って説く。嫉妬の心に縛られることなく、自らを褒めて他を貶めることはしない。執着する心を離れ、名利を求めずに他のために法を説く。この五つのように、菩薩は清らかに法を説く。 以上、前後を略して二十の種類を挙げる。一には時、二には頓（まとめて）、三には順序、四には続けて、五には堪え忍ぶ、六には喜び、七には意欲、八には歓喜、九には勧め、十には非難しない、十一には応じる、十二には文字が整っている、十三には混ざらない、十四には法にかなう、十五には衆生に従う、十六には慈しみの心、十七には安心の心、十八には哀れみの心、十九には自ら誉めて他を貶めない、二十には名利に依らない。これを菩薩が他のために法を説くことと名付ける。

云何菩薩法次法向？略說五種：如所求如所攝法，身口意隨轉，正思及修。若此法世尊制身口意所作，及若此法聽身口意所作，彼身口意業。如是離、如是修，身口意隨轉，是名法次法向。彼正思者，菩薩獨一靜處，如所聞法思惟稱量觀察。先離如是不思處，思量於法，勤思、常思、頓思，方便不息。又菩薩正思具足，具足行隨順入，有所捨依義不依於味，闇說明說如實知。先思量應入者入，已入者數數思惟。菩薩離不思處者，不隨愚心亂心，勤思常思頓思。具足者，未知義者令得知之，已知義者不失不忘。具足者，有所入所行，不由他人，能具觀察。有所捨者，若知諸法非其境界，當自念言：「此佛所知，非我境界。」如是不謗，自無罪咎。菩薩依義不依味者，善入如來隱密之說。善知闇說明說者，於真實義莫能動搖。初入正思菩薩，先未得忍於今得之，已得忍者堅固隨順入於修慧。如是八種，菩薩正思所攝。法次法向修者，略說四種：一者止；二者觀；三者修習止觀；四者樂止觀。止者，謂菩薩八種正思，善正真實，離言說法，若事若義係心緣中，遠離一切虛偽輕躁及諸憶想，緣中解脫係心安立內三昧相，廣說乃至一心。是名為止。觀者，彼止所熏修，憶念思惟如正思法相，憶念選擇乃至明慧，是名為觀。修止觀者，若行止觀，常修方便、頓修方便，是名修習止觀。樂止觀者，彼彼止觀相心住不動，不勤方便能自觀察，處所攝受心不散亂，是名樂止觀。彼菩薩如是如是修習止觀，如是如是樂住止觀；如是如是樂住止觀，如是如是止觀清淨；如是如是止觀清淨，如是如是身心猗息漸漸增廣；如是如是觀清淨，如是如是知見增廣，如是如是習行。修慧者離身心惡，於一切所知知見清淨，一切修慧業皆從如是四種修生。

> 菩薩がどのように法に向かい、法に従って実践するのか。簡単に五つにまとめられる。求めるべきものを求め、摂るべき法を摂り、身・口・意の行いをそれに沿わせ、正しい思惟をし、修行する。もし世尊が身・口・意の行為として定めたもの、また世尊が許した身・口・意の行為があるなら、それらが身・口・意の業となる。そのように離れ、そのように修め、身・口・意を随順させることが、法に向かい法に従うことである。 その正しい思惟とは、菩薩が独り静かな場所で、聞いた法の通りに思考し、評価し、観察することである。先にこのような「思うべきでないところ」を離れ、法について深く思いを巡らせ、熱心に常に集中して考え、絶え間なく努力する。 また、菩薩の正しい思惟が十分に備われば、実践に従い、順に入っていく。何かを手放すときは、表面的な意味に捉われることなく、真の意味に依る。暗い説法も明快な説法も、あるがままに知る。まず入るべきものを考えて入り、入った後は繰り返し思惟する。菩薩が「思うべきでないところ」を離れるとは、愚かな心や散乱した心に従わず、熱心に、常に、集中的に思惟することである。 十分に備わるとは、まだ知らない意味を悟らせ、すでに知った意味を忘れず失わないこと。十分に備わるとは、入り実践するとき、他人に頼らず自ら十分に観察できること。何かを手放すとは、すべての現象が自分の理解の範囲を超えていると知ったとき、「これは仏が知ることであり、私の及ぶところではない」と自らに言い聞かせること。このようにして非難せず、自ら過ちを犯さない。 菩薩が意味に依り表面に依らないとは、如来の隠された教えに深く入ること。暗い説法と明快な説法をよく知るとは、真実の意味に対して揺るがないこと。初めて正しい思惟に入る菩薩は、これまで得ていなかった忍耐の智慧を今得る。すでに得た者は、忍耐をしっかりと固め、修行の智慧へと順に入っていく。これら八つの要素が、菩薩の正しい思惟に含まれる。 法に向かい法に従う修行は、簡単に四つにまとめられる。第一に止、第二に観、第三に止観の修習、第四に止観を楽しむことである。止とは、菩薩の八種の正しい思惟が善く正しく真実であり、言葉を離れた法において、対象や意味に心を集中させ、すべての偽り、軽躁、妄想から離れ、その集中対象に心を解き放ち、安立させ、内なる三昧の相を修めることである。詳しく言えば、一心になるまでを「止」という。 観とは、その止によって熏修され、記憶し思惟し、正しい思惟の法の相をよく考え、選択し、明らかな智慧を得ること。これを「観」という。 止観の修習とは、もし止と観を行うなら、常に修行の手段を保ち、集中的に修行すること。これを「止観の修習」という。 止観を楽しむとは、あらゆる止観の相に心がとどまり動かず、特に努力しなくても自然に観察でき、その境地に心を収め散乱しないこと。これを「止観を楽しむ」という。 菩薩はこのように、このように止観を修習し、このように、このように止観に安住する。このように安住すれば、このように止観は清らかになる。このように清らかになれば、このように身心は次第に軽やかで安らかになる。このように観が清らかになれば、このように知見は広がる。このように実践し修行する。 智慧の修行とは、身心の悪を離れ、すべての認識において知見が清らかになること。すべての修行の智慧は、これら四種の修行から生まれるのである。

云何教授？略說八種教授。菩薩依三摩提教修行者，若無餘菩薩教者則自教授。如諸佛法，先當如是知四種求：一者心求者知心求；二者根求者知根求；三者悕望求者知悕望求；四者使求者知使求。五者隨其所應種種度門而度脫之，所謂不淨、慈心、緣起、界分別、安那般那念，是名隨應度門而度脫之；六者執常邊，對治為說中道；七者執斷邊，對治為說中道；八者除不作作增上慢，不得得、不觸觸、不證證增上慢。彼八種教授，略說三處所攝。三處者，先未住心，令係念緣中；已住心者，說得自義正方便道；未究竟者，令捨中住。知彼心根悕望結使，隨應度門而度脫之，令心止住係念緣中。彼執斷常，對治為說中道。令住心者，成就自義正方便道。彼不作作慢乃至不證證慢未究竟者，令捨中住。如是三事，攝八種教授。如是菩薩從他受教，教授他已，八力種性清淨增長，所謂禪定解脫三昧正受智力、諸根利鈍智力、種種解智力、種種界智力、一切至處道智力、宿命智力、生死智力、漏盡智力。

> どのように教えるのか？簡潔に言えば八つの教示方法がある。菩薩は三昧に基づいて修行者を導くが、もし他の菩薩がいなければ自ら教示する。諸仏の教えに従い、まず以下の四つの求めるべきものを知るべきである。一、心を求めるとは心を理解すること。二、根機を求めるとは根機を理解すること。三、願望を求めるとは願望を理解すること。四、煩悩を求めるときは煩悩を理解すること。五、それぞれにふさわしい様々な救済の方法で救い導く。すなわち不浄観・慈心観・縁起観・界分別観・安那般那念であり、これをふさわしい救済の方法と呼ぶ。六、常の見解に固執する者には中道を説く。七、断の見解に固執する者にも中道を説く。八、修行していないのに修行したと慢心する者、得ていないのに得たと触れていないのに触れたと証得していないのに証得したと慢心することを除く。 これら八つの教示方法は簡潔に三つの段階にまとめられる。三つの段階とは、まず心がとどまっていない者には、心を縁に結びつけること。すでに心がとどまっている者には、自らの利益を得るための正しい方便の道を説くこと。まだ究極に達していない者には、中道にとどまるよう教えること。彼らの心・根機・願望・煩悩を知り、ふさわしい救済の方法で導き、心をとどめて縁に結びつける。断と常に執着する者には中道を説く。心を安定させる者には、自らの利益を得る正しい方便の道を成就させる。修行していないのに修行したという慢心から、証得していないのに証得したという慢心に至るまで、まだ究極に達していない者には、中道にとどまるよう教える。 この三つの事柄が八つの教示方法を包括する。このように菩薩は他者から教えを受け、自らも教えを施した後、八つの力の性質が清らかに成長する。すなわち、禅定・解脱・三昧・正受の智慧の力、諸根の鋭鈍を識別する智慧の力、様々な解釈の智慧の力、様々な界の智慧の力、あらゆる境地に至る道の智慧の力、過去世を記憶する智慧の力、生死を識別する智慧の力、煩悩を尽くす智慧の力である。

云何教誡？略說五種。有罪行者制、無罪行者聽。若制若聽法有缺減者，如法舉之。數數違犯者，折伏與念。不濁不變淳淨正向。若制若聽法真實功德，愛念稱歎，令其歡喜。是名略說菩薩五事教誡，所謂若制、若聽、若舉、若折伏、若歡喜。

> 教誡とは何か。簡潔に言えば、五つの種類がある。罪を犯した者には戒めを与え、罪を犯さない者には許す。戒めや許しの教えに不足があれば、法に従ってそれを指摘する。度重なり違反する者には、折伏（制御）と注意を与える。濁りなく、変わらず、清らかで正しい方向に向かう。戒めや許しの教えが真実の功德であるならば、愛しんで称賛し、喜びを与える。これを簡潔に菩薩の五つの教誡と言う。すなわち、戒め、許し、指摘、折伏、喜びである。

云何菩薩攝方便身口意業？略說菩薩四攝事是名方便，如世尊說四攝事是名方便。略說四種方便，調伏眾生攝取眾生，無餘無上。一者隨攝方便；二者攝方便；三者度方便；四者隨順方便。菩薩種種財施，隨攝眾生故，莫不信受奉順修行，是名布施隨攝方便。次行愛語，愚癡眾生捨離癡冥，令無有餘具攝顯示，是名愛語攝方便。具攝顯示已，令彼眾生捨不善處覺授與善處，調伏樂住，是名行利度方便。如是菩薩，以同事隨順度脫眾生，調伏恭敬，不作是言：「汝自無信戒施多聞，云何教他舉罪與念？」是名菩薩同利隨順攝方便。如是四攝方便，若總若別，是名菩薩攝方便，身口意業等攝眾生調伏成就。

> 菩薩がどのようにして方便としての身・口・意の業を用いて衆生を導くのでしょうか。簡単に述べれば、菩薩には「四摂事」という方便があります。世尊が説かれた通り、この四摂事こそが方便なのです。これら四種の方便によって、衆生を調伏し、余すところなく完全に摂取することができます。 第一に「随摂方便」、第二に「摂方便」、第三に「度方便」、第四に「随順方便」です。菩薩は様々な財施を行い、それによって衆生を随摂します。すると、誰もが信受し、従い、修行するようになります。これが「布施の随摂方便」です。 次に、愛語を行います。愚かで迷いのある衆生を、その闇から離れさせ、残りなく完全に智慧を示します。これが「愛語の摂方便」です。 完全に智慧を示した後、その衆生に不善な状態を捨てさせ、善い状態を授けて、調和のとれた状態に安住させます。これが「利行の度方便」です。 このように菩薩は、同じ立場に立って衆生を導き、彼らを調伏し、敬いをもって接します。決して「あなたには信仰も戒律も施しも学問もないのに、どうして他人の過失を非難し、戒めを与えられるのか」などとは言いません。これが「同利の随順摂方便」です。 このように、四摂方便は全体としても個別としても、菩薩が身・口・意の業を用いて衆生を導き調伏し、成就させるための方便なのです。

## 菩薩地持經卷第三

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