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title: "菩薩地持經 · 9 施品"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
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## 菩薩地持經卷第四

> 菩薩地持経 巻第四

北涼中印度三藏曇無讖於姑臧譯

> 北涼・中インド三蔵 曇無讖 姑臧にて訳す

### 菩薩地持方便處施品第九

> 菩薩地持方便処 施品 第九

復次菩薩次第滿足六波羅蜜已，得阿耨多羅三藐三菩提。所謂檀波羅蜜、尸波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禪波羅蜜、般若波羅蜜。云何菩薩檀波羅蜜？略說有九種：一者自性施；二者一切施；三者難施；四者一切門施；五者善人施；六者一切行施；七者除惱施；八者此世他世樂施；九者清淨施。自性施者，謂菩薩思願與無貪俱，不惜財身起身口業，捨所施物、捨如法財、住律儀處、見未來果，以如是義施與眾生，是名自性施。

> さらに、菩薩は六波羅蜜を順に満たした後、阿耨多羅三藐三菩提（完全なる悟り）を得る。その六波羅蜜とは、檀波羅蜜（施し）、尸羅波羅蜜（戒律）、羼提波羅蜜（忍耐）、毘梨耶波羅蜜（努力）、禅波羅蜜（瞑想）、般若波羅蜜（智慧）である。 では、菩薩の檀波羅蜜（施し）とは何か。大まかに九つの種類がある。一つ目は自性施（本来の施し）、二つ目は一切施（全ての施し）、三つ目は難施（難しい施し）、四つ目は一切門施（全ての門を通じた施し）、五つ目は善人施（善人の施し）、六つ目は一切行施（全ての行いとしての施し）、七つ目は除悩施（苦しみを取り除く施し）、八つ目は此世他世楽施（現世と来世の幸福をもたらす施し）、九つ目は清浄施（清らかな施し）である。 自性施とは、菩薩が思惟と願いを持ち、貪りの心なく、財産や身体を惜しまず、身・口・意の行為を起こして、施す物を捨て、正しい方法で得た財を施し、戒律を守り、未来の果報を見据えて、そのような意義で衆生に施すことを、自性施という。

一切施者，略說有二種施物：一者內物；二者外物。菩薩捨身，是名內施。若菩薩為食吐眾生，食已吐施，是名內外施。除上所說，是名外施。菩薩內施復有二種：一者隨所欲作，他力自在，捨身布施。譬如有人為衣食故，繫屬於人為他僕使。如是菩薩不為利養，但為無上菩提、為安樂眾生、為滿足檀波羅蜜，隨所欲作，他力自在，捨身布施。二者隨他所須，頭目手足種種支節血肉筋骨，乃至髓腦隨其所求一切施與。菩薩外施復有二種：一者隨其所求，受用樂具歡喜施與；二者奉事彼故，一切捨心、一切施與。

> 布施を行う者について、簡単に言うと二種類の布施の対象があります。一つは「内なるもの」、もう一つは「外なるもの」です。菩薩が自らの身体を捨てることを「内施」と言います。また、菩薩が食べ物を吐き出す衆生のために、食べてから吐き出して施すことを「内外施」と言います。上記以外のものを「外施」と言います。 菩薩の内施にはさらに二つの種類があります。一つは、望むままに行動し、他力によって自在となり、身を捨てて布施することです。例えば、ある人が衣食のために他者に使われる奴隷となるようなものです。このように菩薩は、利益や養いのためではなく、無上の悟りのため、衆生の安楽のため、檀波羅蜜（布施の完成）を満たすために、望むままに行動し、他力によって自在となり、身を捨てて布施します。 二つ目は、他者の求めに応じて、頭、目、手、足、様々な節、肉、血、骨、筋、さらには髄や脳に至るまで、求められるままにすべてを施し与えることです。 菩薩の外施にもさらに二つの種類があります。一つは、求めるままに、楽しみの道具を喜んで施し与えることです。二つ目は、その人に仕えるために、すべてを捨てる心で、すべてを施し与えることです。

菩薩於內外物非無差別等施一切，或有所施，或有不施。若於眾生樂而不安、不樂不安，則不施與；若於眾生安而不樂、亦安亦樂，是則盡施。如是略說應施、不施，次當廣說。若菩薩布施令他受苦，若致逼迫、若被侵欺及非法求，自力他力不隨所欲，菩薩為眾生故，寧自棄捨百千身命，不隨彼欲令致逼迫殘害欺誑。菩薩淨心修行布施，饒益無量諸眾生時，有求身體頭目支節則不施與。何以故？非是菩薩行淨施時作是念言：「是可與是不可與。」心生退弱。是故菩薩以清淨心不捨現前，利益眾生捨身布施，雖不捨身不違淨心。若彼魔天及魔所使，欲行恐怖求其身分，則不施與，不欲令彼得大罪故。或有眾生，若狂若亂求其身分，亦不為彼而捨身命，不自住心故、心惱亂故、心不自在故。與上相違來求請者，隨其所欲為捨身命，是名菩薩內物應施不應施。

> 菩薩は、内外の物に対して、差別なく全てを施すのではなく、施すべきものと施さないものがある。もしその布施が衆生にとって楽しいが安らかでない、あるいは楽しくも安らかでもないならば、施してはならない。もし衆生にとって安らかであるが楽しくない、あるいは安らかでもあり楽しくもあるならば、その場合は全てを施す。このように簡単に言うと、施すべきものと施さないものがある。次に詳しく説明しよう。 もし菩薩が布施を行うことで、他の者に苦しみを与え、逼迫させ、欺き、あるいは不正な手段で求めることになり、自分の力や他人の力によって望み通りにならないならば、菩薩は衆生のためになるならば、むしろ自ら百千の命を捨てても、その欲望に従って逼迫、害、欺きをさせることはない。 菩薩が清らかな心で布施を修行し、計り知れない多くの衆生を利益する時、もし身体や頭、目、手足を求める者が現れても、それらは施さない。なぜか。それは、菩薩が清らかな布施を行う時に、「これは与えるべきもの、これは与えるべきでないもの」という心を起こし、心が弱まり退くからではないからだ。それゆえ、菩薩は清らかな心をもって眼前の利益を顧みず、衆生を利益するために身体を布施することはある。しかし、身体を捨てなくても、清らかな心に反することではない。 もし悪魔やその使者が恐怖を与え、身体の一部を求めるならば、それは施さない。彼らに大きな罪を生じさせたくないからだ。あるいは、衆生が狂乱して身体の一部を求める場合も、そのために身命を捨てることはない。心が自らに安住せず、心が乱れ、心が自在でないからである。 これらとは逆に、来て請い求める者には、その望みに従って身命を捨てる。これを菩薩の内的な施しとして、施すべきものと施さないものという。

菩薩外不施者，若有眾生求毒火刀酒，為欲自害若欲害他，是則不施；若為自攝、若為攝他，是則施與。若是他財，先不同意不以施人。菩薩不為媒行以此授彼，有虫飲食悉不施與。若有眾生為作戲樂非義饒益來乞求者，菩薩不施。何以故？若施與者，於菩薩所雖少歡喜，而多起惡行，身壞命終墮於惡道。若戲樂具，不墮惡趣不起善根，而令眾生因此成熟，為攝取故是則施與。何者可與何者不可與？謂學捕獵殺生極大貪著、作大方便多殺眾生，如是比會菩薩不為，亦不教他。殺羊祀天，亦不施與。惱眾生者，來求水陸多眾生處，悉不施與。為欲學作罩羅機網世間種種惱眾生具，亦不施與。若罵若殺若縛若罰，亦不自作亦不教他。若怨家怨家子，悉不施與。略說一切逼迫眾生戲樂之具，悉不施與。

> 菩薩は、外に向かって施さないものがある。もし衆生が毒、火、刀、酒を求め、自らを害そうとしたり、他者を害そうとするならば、それは施さない。しかし、自らを守るため、あるいは他者を守るために求めるならば、それは施す。また、それが他者の所有物であり、先に同意を得ていないならば、他人に施してはならない。菩薩は、結婚の仲介をして、人を結びつけるために物を施すことはしない。虫のいる飲食物も、すべて施してはならない。 もし衆生が、遊びや楽しみのため、または実りのない利益のために物を求めて来たならば、菩薩はそれを施さない。なぜなら、もし施したならば、その者は菩薩のもとでは一時的に喜んでも、後に多くの悪行を起こし、命を終えた後には悪道に落ちるからである。しかし、その遊びや楽しみの道具が、悪道に落ちる原因とならず、善根を起こさせないものであり、かつ衆生を成熟させ、彼らを引き寄せて導くために役立つならば、それは施す。 では、何を与え、何を与えてはならないのか。例えば、狩猟や殺生を学び、極度に貪り、大きな手段を講じて多くの衆生を殺すこと。そのような集まりのために、菩薩は行わず、また他者にも教えない。羊を殺して天を祀ることも、施してはならない。众生を悩ませる者が、水辺や陸上で多くの生き物の住む場所を求めて来たならば、それもすべて施してはならない。また、罠や網など、世の中の様々な衆生を悩ませる道具を作ろうとして求める者にも、施してはならない。 罵ること、殺すこと、縛ること、罰することも、自ら行わず、他者にも教えない。もし怨みを持つ者やその子孫が求めても、施してはならない。簡潔に言えば、あらゆる衆生を苦しめる遊びや楽しみの道具は、すべて施してはならない。

若復種種象馬車輿、衣服莊嚴豐美飲食、習學歌舞、種種眾具塗身香花、嚴飾珍玩、園林樓觀、舍宅男女、種種技術工巧業處，如是一切戲樂眾具，為信樂因緣來請求者，一切盡施。若彼眾生，不自知量及不應病種種飲食，是悉不施。若已飽食，性貪欲得，亦不施與。若有眾生不堪憂惱，求欲自殺食毒投巖，如是等求悉不施與。若菩薩為王統領多國，不以他人妻子施與，除城邑村落人民賦稅應屬我者，則以施之。菩薩所愛妻子奴婢，若施人時先以軟語方便開喻，若不樂者則不施與；若其樂者隨所應施。若惡知識惡人惡鬼是等來求，悉不施與，亦不施彼令作奴婢。若有惡人來求王位，則不施與。若此惡人先為王者，菩薩有力則便廢退。父母妻子奴婢財物，不以施人。若因布施，父母憂惱、妻子僮僕由是致苦，如是等施菩薩不為。非法之物不以施人，凡所施物清淨如法。不逼迫呵責取他財物而行布施，不犯佛戒而行布施。

> さらに、さまざまな象や馬、車、輿、衣服、美しい装飾品、豊かな飲み物や食べ物、歌舞音曲の学習、様々な塗り香や花、華やかな飾りや珍しい遊び道具、庭園、楼閣、家屋、男女、様々な技術や工芸の仕事など、あらゆる遊楽や道具を、信仰の因縁をもって求めてくる者には、すべてを施す。しかし、その者たちが自分の限度を知らず、あるいは病に適さない様々な飲食物を求めてくる場合は、一切施さない。すでに満腹しているのに、欲深くさらに得ようとする者にも、施さない。また、憂いや悩みに耐えかねて自殺しようと、毒を求めたり崖から身を投げようとしたりする者には、そのような求めには一切施さない。 菩薩が王として多くの国を統治する場合、他人の妻や子を施すことはしない。ただし、城邑や村落、人民の税で、本来私に属するものは施すことができる。菩薩が愛する妻や子、奴婢を施すときは、まず柔らかい言葉で巧みに説き聞かせ、もし本人が望まなければ施さない。本人が喜んで受け入れるならば、それに応じて施す。 悪知識や悪人、悪鬼などが求めてきても、一切施さない。また、彼らを奴婢にすることもない。悪人が王位を求めてきても、施さない。もしこの悪人がもともと王であったなら、菩薩に力があれば廃し退ける。 父母、妻、子、奴婢、財物は、人に施してはならない。もし布施によって父母が憂い悩み、妻子や召使が苦しむことになるならば、そのような施しを菩薩は行わない。 非法なものは人に施さない。施す物はすべて清らかで法にかなったものでなければならない。他者の財物を脅したり責め苛んだりして取って布施することはせず、仏の戒律を犯して布施することもしない。

菩薩於一切眾生平等心施，作福田想，亦不分別怨親中人功德過惡，是下中上、是苦是樂。

> 菩薩はすべての生きとし生けるものに対して平等の心で施しを行い、それを福田（幸福を生む田んぼ）と見なします。また、怨みを持つ者、親しい者、中立の者の区別なく、功徳や過ち、立場の上下、苦しみや楽しみについても分別しません。

菩薩不如所求如所許後以少施，亦不先許勝物後施麁惡。若施勝物，心無不泰，不恨不亂。菩薩施已，不自稱歎言：「我於汝所惠弘多。」若施下流不起輕想，況復有德所應恭敬。若有眾生住諸惡行，掉動毀戒罵詈瞋恚，亦不悒慼悔恨心施，方於彼所起憐愍心。不以邪見而行布施，所謂大會殺生求法。不為希有吉慶會故而行布施，不為清淨一切行分故而行布施求世間出世間離欲清淨，除為清淨方便而行布施。不求果報而行布施，一切布施，悉用迴向無上菩提。菩薩自知，一切種施因緣故，生一切種如實果報，不由於他而行布施。所謂施食得力、施衣得色、施乘得樂、施燈得眼，如是一切應當廣說。菩薩亦不畏貧窮而行布施，以慈悲故而行布施。菩薩亦不以不如法食施來求者，所謂施出家人餘殘飲食、便利涕唾膿血污食、不語不知飯及麥飯。法應棄者，謂不葱食、葱雜葱污。如是不肉食、不酒飲、酒雜酒污。如如法業和合菩薩施人，如是等不如法施不以施人。菩薩不令求者數數往返留難生惱，然後方施。菩薩不以諂故而行布施，如是若王大臣長者居士此諸檀越知我施已，必當恭敬供養於我。不為要他作使故施。少物尚施，況復多物。不以布施起他貪著，為生患難令致傾滅。不以布施離他城邑，謂以施攝令其屬己。菩薩智慧精進不息，堪能具足自誓莊嚴，先自行施然後教他，不自懈怠教人行施。一切大會持戒犯戒，從上至下次第等施。菩薩得財多少隨捨，不待積聚然後行施。不畏他故而行布施，所謂若瞋若打若責若毀殺縛驅擯，不畏是等而行布施。菩薩欲施心悅，施時歡喜，施已無悔。不以相似摩尼真珠珂珼玉石瑠璃珊瑚虛偽之物欺誑他人。

> 菩薩は、求めるものに応じる約束をして後に少ない施しをすることもなく、また先に良いものを約束して後に粗悪なものを施すこともありません。もし良いものを施すならば、心に不安や不満はなく、恨んだり動揺したりしません。菩薩は施しをした後、自ら「私はあなたに大いに施しをした」と誇ることはありません。もし下賤な者に施す場合でも軽んじる心を起こさず、ましてや徳のある敬うべき者に対してなおさらです。もし悪行に住み、落ち着きがなく戒を破り、罵り、怒るような者であっても、憂鬱になったり悔やんだりして心から施すことをせず、かえってその者に対して憐れみの心を起こします。邪見によって布施を行うことはありません。すなわち、大がかりな祭祀で殺生して法を求めるようなことです。稀有な吉慶の集会を得るために布施を行うのではなく、清浄な行いの一切の区分のために布施を行うのでもなく、世間・出世間の離欲の清浄を求めて行うのではなく、清浄のための方便として布施を行います。果報を求めて布施を行うのではなく、一切の布施をすべて無上の菩提に回向します。菩薩は自ら知っています。あらゆる種類の施しという因縁によって、あらゆる種類の如実の果報が生じるのであり、他によって布施を行うのではないと。すなわち、食べ物を施せば力が得られ、衣服を施せば色が得られ、乗り物を施せば楽が得られ、灯明を施せば眼が得られる、このように一切を広く説くべきです。菩薩は貧窮を恐れて布施を行うのではなく、慈悲によって布施を行います。菩薩はまた、如法でない食物を求めて来る者に施すこともありません。すなわち、出家者に残りの食べ物や、大小便や鼻涕、唾、膿血で汚れた食べ物、声をかけずに知らせずに与える飯や麦飯などです。法として捨てるべきもの、例えば葱を食べない、葱と混ざったものや葱で汚れたもの、このように肉を食べない、酒を飲まない、酒と混ざったものや酒で汚れたものなどです。如法の業に和合して菩薩が人に施すように、このような不如法の施しは人に施しません。菩薩は求める者を何度も往復させて難渋させ、悩みを生じさせてからようやく施すということはしません。菩薩は諂いによって布施を行うのではなく、もし王や大臣、長者、居士などの檀越が「私が施しをした」と知って、きっと私を恭敬し供養するだろうという思いで行うこともありません。他に使役させることを求めて施すのでもなく、少ない物でも施し、ましてや多くの物はなおさらです。布施によって他者の貪著を起こさせず、患難を生じて傾滅させることがあってはなりません。布施によって他者を城邑から離すことはしません。すなわち、施しによって摂取して自分に属させようとすることです。菩薩は智慧精進して休むことなく、よく自らの誓いの荘厳を具足し、まず自ら施しを行い、その後他人を教え、自ら懈怠せず人に施しを教えます。一切の集会において、持戒・犯戒を問わず、上から下まで平等に施します。菩薩は得た財の多少に応じて随時施し、蓄積してから施すのを待ちません。他を恐れて布施を行うのではありません。すなわち、怒られること、打たれること、責められること、毀られること、殺されること、縛られること、追放されることなどを恐れて布施を行うのではないのです。菩薩は施そうとするとき心から喜び、施すとき喜び、施した後も悔いません。似て非なる摩尼、真珠、珂、貝、玉石、瑠璃、珊瑚などの虚偽の物で他人を欺くことはしません。

菩薩所畜一切財物，初得物時發心捨與一切眾生，後來求者自求己物。菩薩時施非不時施，自他淨施非不清淨，如威儀施非不威儀，決定心施非不定心。見來求者終不嗤笑，亦不輕弄亦不顰蹙，先語稱讚然後施與，時應所求不為留難。若彼不求，開心自施；若自來取，恣聽所欲。

> 菩薩が所有する一切の財物について。 初めてものを得た時に、それを一切の衆生に施そうと心に誓う。 その後、求める者が来たなら、それは自らのものを取りに来たのである。 菩薩の施しは、時にかなったものであり、時に外れることはない。 自らも他者も清らかに施し、不清浄な施しではない。 威儀を整えて施し、威儀を欠くことはない。 確かな心で施し、迷いの心で行うことはない。 施しを求めに来る者を見て、嘲ることも、軽んじることも、顔をしかめることもない。 先に声をかけ、称賛してから施す。 求めに応じて行い、難しくして引き延ばすことはない。 もし相手が求めなければ、自ら進んで施す。 もし相手が自ら取りに来れば、欲するままに任せる。

菩薩不以惡智而行布施，常以善智而修施業。智慧施者，菩薩自量財物多少，隨其所宜而行惠施。見來求者作是念言：「彼來求者有二種人：一者富樂非是貧下，亦非孤獨有所依怙；二者貧苦孤煢下賤無所依怙。」作是念言：「若我財多，當令具足；若財少者，先當周給與彼貧乞無依怙者。」先作是念，如所念施。於彼富人不滿其意，當以本心辭謝發遣：「唯願仁者勿生恨心。」

> 菩薩は誤った智慧によって布施を行うのではなく、常に正しい智慧をもって施しの修行を積みます。智慧に基づく施しとは、菩薩が自らの財物の量を正しく見極め、状況に応じて適切に施しを行うことです。施しを求めて来る者を見て、こう思います。「私のもとに来る求める者には、二種類の人がいる。一人は裕福で、貧しくもなく孤独でない者、確かなよりどころを持つ者。もう一人は貧しく、孤独で卑しく、よりどころのない者である。」そう考えて、こう思います。「もし私に財物がたくさんあれば、その人を十分に満たそう。もし財物が少なければ、まず貧しくてよりどころのない求める者に施しを与えよう。」このように事前に心に決め、その思いに従って施しを行います。裕福な人に対しては、その期待に十分に応えられない場合は、本来の意図を説明して丁寧に断り、「どうか尊き方、恨みの心を起こさないでください」と伝えます。

菩薩若見慳貪眾生財富無量，自為身惜不敢衣食。往詣其所共為親善，與作同意而語之言：「汝若貪惜不能施與。我舍乃有無量財物，欲行滿足檀波羅蜜，普為一切乞求眾生。若有眾生從汝求者，可來我舍取財施與，勿令空去，若難自取、發遣使來。於我施時，汝當隨喜。」彼聞此已心大欣悅：「於我無損。」彼蒙饒益，因與菩薩共相親愛。今雖未能即時行施，已種來世離慳種子。以彼次第修習自知為本，以巧方便教令少施，依下無貪教令至中，依中至上。

> 菩薩が、欲深く貧しい人々が財産を豊かに持っているのに、自分のためだけに惜しんで衣服や食べ物すらも使おうとしない姿を見たとする。菩薩はその人のもとを訪ねて親しく交わり、同意を得てこう語りかける。「もしあなたが惜しみ与えることができないなら、私の家には無量の財産があり、布施の完成（檀波羅蜜）を満たしたいと願い、すべての求める衆生のために施そうとしている。もしあなたに求める人が来たら、私の家に来て財産を取り、施しを与えてください。決して空手で帰らせてはいけません。もし自分で取りに行くのが難しいなら、使いを送って取りに来させてください。私が施す時には、あなたも共に喜んでください（随喜）。」その言葉を聞いた人は大いに喜び、「私には何の損もない」と思う。その人は大きな利益を得て、菩薩と親交を深める。今はまだすぐに施しができなくても、来世において貪りの種子を離れる因をすでに植えた。その人は次第に修行を重ね、自らの本質を知るようになる。巧みな方便によって少しずつ施しを教え、低い水準の無貪から中程度の無貪へ、中から上へと導かれるのである。

復次菩薩若和上阿闍梨、若共住弟子近住弟子淨修梵行，受性慳貪若不慳貪，財物不具，擁其施心，菩薩以己財物向佛法僧欲施作福，捨持與彼令其造作，己自不為。如是菩薩功德更增，令慳貪者降伏煩惱，彼樂法者亦滿其願，如是攝取成熟眾生。復次菩薩見彼來者有求索相，知其心已不令發言，隨其所須施令滿足。若有商價欺誑他時，菩薩知已，覆藏不說。彼作惡行欺誑他人尚為覆藏，況復自身。欲滿彼願隨意與財，彼無慚愧得已歡喜，無所畏懼熙悅而去。若菩薩為彼商人所欺，先不覺知欺已乃覺，亦不責彼不令憶念，不欲令彼犯不與取，起隨喜心。如是等捨所施物，是名菩薩智慧布施。

> また、菩薩は、阿闍梨や和尚、あるいは共に修行する弟子や近しく仕える弟子たちが清らかな梵行を修める際に、その者の性質が吝嗇であれ、あるいは吝嗇でなくとも、財物が十分でなく施す心を抑えているならば、菩薩は自らの財物を仏法僧に向けて布施し功徳を積もうとして、それを彼に与えて造作させ、自らは行わないのです。 このようにして、菩薩の功徳はますます増し、吝嗇な者は煩悩を降伏させ、法を喜ぶ者はその願いを満たします。こうして衆生を摂取し成熟させるのです。 また、菩薩は、来る者に求める様子を見て、その心を知り、言葉を発させずに、その必要に応じて施しを満たします。 もし商人が他者を欺くとき、菩薩はそれを知っても隠して語りません。彼が悪行をなして他者を欺くことをも隠すのに、まして自らのことはなおさらです。 その願いを満たそうと、思いのままに財を与えれば、彼は恥を知らずに喜び、恐れずに心豊かに去っていきます。 もし菩薩がその商人に欺かれ、先に気づかず、欺かれた後に知ったとしても、彼を責めず、思い出させもせず、彼に不与取（盗み）を犯させまいとし、歓喜の心を起こします。 このようにして施物を捨てることを、菩薩の智慧の布施と名づけるのです。

復次菩薩無財施時，先所造作世間工巧，彼業現前以少方便多獲財利，用施眾生。若復為他莊嚴說法、美善說法、慈心說法，貧苦聞法歡喜供養，何況富樂。慳者無惜，況常樂施。若有信心長者居士常習行施，財富無量，將求者往，令彼饒益彼所行施。所作功德，自身往助，堪能具足信心清淨身口意業。隨其力能助彼營理，令其無礙滿足求者。彼乏事力，施事難成，若隨朋黨、若非法行、若失正念如是等，若菩薩無財，以智慧施，乃至未得淨心。淨心菩薩不墮惡趣，生生常得無盡之財。

> さらに、菩薩が財物を施す余裕がないときは、先に行ってきた世間の技術や仕事の成果が現れて、わずかな労力で多くの財物を得られるようになります。その財物をもって衆生に施しを行います。 もし他の人々のために、整った言葉で説法し、美しく善い言葉で説法し、慈しみの心で説法するならば、貧しく苦しんでいる人々もその法を聞いて喜び、供養を捧げるでしょう。ましてや富み栄えている人々はなおさらです。けちな人でも惜しむことなく施すようになり、ましてや常に施しを楽しむ人はなおさらです。 もし信心深い長者や在家の信者で、常に施しの行いを習慣とし、限りない富を持ち、求める人々を訪ねて行き、彼らを豊かにするような施しを行う者がいるとき、自らその場に赴いて彼を助け、彼の施しの功徳を支えるのです。その人は完全な能力と清らかな信心、そして清らかな身体・言葉・心の行いを備えています。 自分の力の及ぶ限り助けてその事業を営ませ、妨げなく求める人々を満たせるようにします。もし施しの相手となる人が乏しかったり、施しの事業が成り立ちにくい場合、あるいは仲間の偏愛、非道な行い、正しい心構えを失うなどの事情があっても、菩薩は財物がなければ智慧によって施しを行います。このようにして、清らかな心を得るに至るまで施しを続けます。 清らかな心を得た菩薩は悪い境遇に落ちることなく、生まれ変わるたびに常に尽きることのない財物を得るのです。

復次菩薩知彼邪見求法短者，不授其法不與經卷。若性貪財賣經卷者，亦不施與。若得經卷，隱藏不現亦不施與。若非彼人所知義者，亦不施與。若是彼人所知義者，菩薩於此經卷已自知義，則便持經隨所樂與。若未知義、自須修學，又知他人有如是經，示語其處、若更書與。若無示處復不得書，菩薩當復自觀其心，為是法慳纏心不能施耶？為更有為不施彼耶？作如是自觀已，若少有法慳者，當持經與，為法施故。我寧以法施，現世癡啞，為除煩惱猶尚應施，況作將來智慧方便。如是觀時無少許法慳者，彼菩薩應當自學，我為除煩惱故修行法施、滿足智慧方便故修行法施、愛念眾生故修行法施。菩薩自見內無煩惱，見不施彼，現得智慧，於未來世轉增無量。非施彼故得是功德。經法施者，於未來世獲少法利，不及自學智慧開覺。今雖不施，必將安樂一切眾生，施其智慧。寧為一切今不施與，不為一人與其經卷。如實知已，不施彼者無有過咎亦無悔恨，不越菩薩所受禁戒。

> また、菩薩は、邪見を持ち、法を求めることに欠点のある者を知れば、その者に法を授けず、経巻も与えない。もし財を貪る性質で経巻を売る者があっても、与えない。もし経巻を得ても、隠して見せない者にも与えない。もしその人の知るべき義理でないならば、やはり与えない。もしその人の知るべき義理であるならば、菩薩はこの経巻についてすでに自ら義理を知っているので、その経巻を持って、相手の望むままに与える。もしまだ義理を知らず、自ら学び修める必要がある場合、また他の人がそのような経巻を持っていることを知ったならば、その場所を教え示し、あるいは書き写して与える。もし示す場所がなく、書き写すこともできないならば、菩薩は再び自らの心を観察して、「この法に対する慳吝（けんりん）の心に捉われて与えないのか、それとも他に与えない理由があるのか」と考える。このように自ら観察して、もし少しでも法に対する慳吝の心があれば、その経巻を与え、法施とすべきである。私は法施のために、現世で愚かで唖のようになっても、なお煩悩を除くために与えるべきである。ましてや将来の智慧と方便を得るためにおいておや。このように観察して、全く法に対する慳吝の心がないならば、その菩薩は自ら学ぶべきである。「私は煩悩を除くために法施を修行し、智慧と方便を満たすために法施を修行し、衆生を愛し念じるために法施を修行する。」菩薩は自らの内に煩悩がないのを見て、その者に与えなければ、今は智慧を得て、未来世においてもさらに無量に増す。もしその者に与えたからといって、このような功徳を得られるわけではない。経巻の法施は、未来世においてわずかな法の利益を得るに過ぎず、自ら学んで智慧が開けて目覚めることには及ばない。今は与えなくとも、必ずや一切の衆生を安楽にし、その智慧を施すだろう。むしろ一切の衆生のために今は与えずとも、一人の者のために経巻を与えることはない。このように如実に知ったならば、その者に与えなくても、過ちもなく、悔いることもなく、菩薩の受けた禁戒に背くこともない。

云何菩薩方便不施？不忍直言必定不與，要以軟語開解發遣，作是方便有而不施。菩薩本來所畜眾具一切施物，以清淨心於一切十方諸佛菩薩捨作淨施已。譬如比丘以己衣物於和上阿闍梨所捨作淨施。如是作淨施因緣故，得畜種種無量財物，故名住聖種菩薩，亦得無量功德，常自憶念如是功德於一切時常隨增長。凡是淨施所畜之物，為諸佛菩薩受寄護持，見彼來求，觀察其人有成就相，先所捨物作淨施者取以與之，諸佛菩薩於一切眾生無不捨之物。作如是知，滿求者意。觀察彼人無成就相，以淨施法而開解之，稱言：「賢首！此物先捨，已有所屬。」軟語發遣不令致恨，若以餘物兩三倍施。作是方便，令知菩薩不以慳故而不惠施，當以不自在故不以施我。如是經法則不施與。菩薩作如是法施者，名智慧施。

> 菩薩が方便として施さないとはどういうことか。それは、きっぱりと「与えない」と断ることではない。必ず優しい言葉で心を開かせ、気持ちよく別れさせ、このような方便を用いて、財がありながら施さないのである。菩薩は本来、蓄えているすべての施物を、清らかな心でもって、すべての十方の諸仏・諸菩薩に対して「捨てる」という清らかな施しをしたうえで保持している。ちょうど比丘が、自分の衣服や物を和尚や阿闍梨のもとで「清らかな施し」として差し出すように。このような清らかな施しの因縁により、さまざまな無量の財物を蓄えることができる。ゆえに「聖種に安住する菩薩」と呼ばれ、無量の功徳を得て、常にその功徳を自ら心に刻み、あらゆる時に常に増長していくのである。この清らかな施しによって蓄えられたものは、諸仏・諸菩薩が受け取り守護してくださるものである。そのため、もし求める者が来たとき、その人に成就の相があると観察すれば、先に清らかな施しとして差し出した物を取り出して与える。諸仏・諸菩薩は、すべての衆生に対して施さない物は何一つない。このように知って、求める者の心を満たすのである。もしその人に成就の相がないと観察すれば、清らかな施しの法によって心を開かせ、「尊い方よ、この物は先に差し出してあり、すでに持ち主が決まっております」と柔らかい言葉で伝え、恨みを抱かせないように見送る。あるいは、他の物を二倍三倍にして施すこともある。このような方便を用いて、菩薩がけちだから施さないのではなく、「自分の自由にならないゆえに、私に施さないのだ」と知らせるのである。これが経法であり、その場合は施さない。菩薩がこのような法施を行うことを、智慧の施しという。

復次菩薩一切施，所謂法施、財施、無畏施。比類相貌，若名若義，分別因果，如實知已而行布施，是名菩薩智慧布施。復次菩薩於不饒益己者慈心布施，於苦惱者悲心布施，於功德者憙心布施，於饒益己者及善知識親族人所捨心布施，是名菩薩智慧布施。復次菩薩有障施，障施對治如實知之。障施有四種：一者先不修習；二者所施物少；三者財物雖多貪愛增上；四者見未來世具足財果而生貪著。先不習施者，菩薩見正求者，多有財物而不生施心，當知是我不習施故，疾行智慧作是思惟：「我昔定當不習施心，致令今日雖有財物，見來求者施心不生。今若不施，復於來世有此施礙。」如是知已，依施障對治而行布施，則能捨離不習施障。所施物少者，菩薩見正求者，所施物少不欲布施，以是施障故。疾行智慧作是思惟：「寧安貧苦，要當布施。」思惟是已悲心布施，復作是念：「我從昔來，宿業過故、他自在故，令我飢寒困苦，不能饒益一切眾生。寧令我今因是失命現世受苦，要當行施攝取眾生，不令受者心不滿足。況我今日有果菜活命，要當安苦而行布施。」財物雖多貪愛增上者，菩薩見正求者，以增上可意故、最上故，於所施物不生施心。彼菩薩知藏積過故，疾行智慧：「我於苦中而生樂相，於未來世當受大苦。」如是顛倒若知若斷，作是思惟已能行布施。見未來財果生貪著者，菩薩行布施已，於施果大財生福利見，不能志求無上菩提。菩薩知耶果見為過患已，疾行智慧如實正觀，一切諸行無有堅固念念磨滅，受用果報亦復如是，悉是離散磨滅之法。如是觀時，果見則斷，一切所施悉以迴向無上菩提。是名菩薩四種障施對治智慧應當知，謂分別忍苦、知攝顛倒、觀行不堅。前三對治智是正布施，後一對治智攝受正果。是名菩薩智慧布施。

> さらに、菩薩の布施には全てが含まれます。いわゆる法施、財施、無畏施です。これらの分類や様相、その名前や意味、原因と結果の関係を一つ一つ明らかにし、あるがままに理解した上で布施を行うこと、これを菩薩の智慧ある布施といいます。 また、菩薩は自分に利益をもたらさない者には慈しみの心で布施し、苦しんでいる者には憐れみの心で布施し、功徳ある者には喜びの心で布施し、自分に利益をもたらす者や善知識、親族には執着を手放す心で布施します。これを菩薩の智慧ある布施といいます。 さらに、菩薩には布施を妨げる障りがあり、その障りとその対処法をあるがままに知っています。布施の障りには四種類あります。第一に、過去に布施の習慣を培っていなかったこと。第二に、布施する物が少ないこと。第三に、財物は多いものの貪りの心が強いこと。第四に、来世に十分な財産という果報を得られることを見て、それに執着することです。 「過去に布施を習慣づけていなかった」障りについて。菩薩は、正しく求める者がいるのに、財物はありながら施そうという心が生じない場合、これは自分が過去に布施の習慣を培ってこなかったからだと知り、速やかに智慧を働かせてこう思案します。「私はかつて必ず布施の心を培わなかったので、今日、財物はあるのに求める者が来ても施す心が生じないのだ。今、もし布施しなければ、来世でもこの布施の妨げが繰り返されるだろう。」と。このように知り、布施の障りに対する対処法に従って布施を行えば、習慣がなかったという障りから離れることができるのです。 「布施する物が少ない」障りについて。菩薩は、正しく求める者がいるのに、布施する物が少ないために布施したくないと思うことがあります。これが布施の障りです。そこで速やかに智慧を働かせてこう思案します。「むしろ貧しく苦しい境遇に耐えても、必ず布施をしよう。」と。こう思案した後、憐れみの心で布施し、さらにこう考えます。「私は遠い昔から、過去の行いの報いや他者に支配される境遇のせいで、飢えや寒さに苦しみ、全ての生きとし生けるものを助けることができなかった。たとえ今、このために命を落とし、現世で苦しむことになっても、必ず布施を行って生きとし生けるものを引き寄せ、受け取る者に満足できない思いをさせてはならない。ましてや、私は今、木の実で命をつないで生きているのだから、苦しみに耐えて布施を行おう。」と。 「財物は多いものの貪りの心が強い」障りについて。菩薩は、正しく求める者がいるのに、自分の財物に対する強い執着や、それが何より大切だという思いから、施そうという心が生じないことがあります。その菩薩は、物を貯め込むことの過ちを知り、速やかに智慧を働かせます。「私は苦しみの中に楽しみという誤った思いを抱き、未来には大きな苦しみを受けることになるだろう。」このような誤った考えを知り、断ち切るために、こう思案した後に布施を行うことができるのです。 「未来の財産という果報を見て執着する」障りについて。菩薩は布施を行った後、その布施の果報として大きな財産を得られるという利益を見て、無上の悟りを志そうとしなくなります。菩薩は、このような誤った果報の見方が過ちであると知り、速やかに智慧を働かせて、あるがままに正しく観察します。「全ての営みは堅固ではなく、瞬時にして消え去るものであり、その果報を受けることもまた同じであり、全ては離れ去り、消え去る性質のものである。」と。このように観察する時、果報への執着は断たれ、全ての布施は無上の悟りへと回向されるのです。 以上が、菩薩の四種の布施の障りに対する対処の智慧であり、知るべきものです。すなわち、苦しみに耐えると分別すること、誤った捉え方を知ること、営みが不堅固であると観察することです。このうち、前三つの対処の智慧は正しい布施そのものであり、最後の対処の智慧は正しい果報を得るためのものです。これを菩薩の智慧ある布施といいます。

復次菩薩內獨淨心淳厚淨信覺想勝妙，無量施物意解施與一切眾生。是菩薩以少方便生無量功德，是智慧菩薩大智慧施。是名略說菩薩有財無財施所攝法。如是法施、分別施、淨心施、施障對治智慧布施、淨心意解施，是名菩薩不共施。當知是名菩薩一切內外所施物廣分別，上一切施分別，當知分別為難施等。

> 次に、菩薩は内に独り清らかな心を持ち、純真で深い清らかな信を抱き、その覚りの想いは勝れて妙である。無量の施し物について、心の理解をもって全ての衆生に施し与える。この菩薩は、わずかな方便によって無量の功徳を生じる。これが智慧ある菩薩の大いなる智慧の施しである。これを、菩薩が財物がある場合とない場合の施しの法について、略して説いたものと知るべきである。このように、法の施し、分別の施し、清らかな心の施し、施しの障害に対処する智慧の布施、清らかな心の理解による施しを、菩薩に固有の施しという。これを、菩薩の全ての内なる施し物と外なる施し物について広く分別したものと知るべきであり、上に述べた全ての施しの分別において、さらに施しの難しいものなどを分別したものと知るべきである。

云何菩薩難施？略說有三種。菩薩有少財物，自忍貧苦施與他人，是名菩薩第一難施。若菩薩所可愛物，性深愛著久習愛著，增上施物越最上貪著，能自開覺施與他人，是名第二難施。若菩薩勤苦得財施與他人，是名菩薩第三難施。

> 菩薩にとって難しい布施とは、簡潔に言うと三つあります。 第一に、菩薩がわずかな財物しか持たず、自ら貧しさに耐えながらも、それを他者に施すこと。これを菩薩の第一の難しい布施と言います。 第二に、菩薩が非常に愛着している物、深く愛着し長く慣れ親しみ、執着が最も強い物であっても、自ら気づきを得て他者に施すこと。これを第二の難しい布施と言います。 第三に、菩薩が苦労して得た財物を他者に施すこと。これを菩薩の第三の難しい布施と言います。

云何菩薩一切門施？略說四種。是菩薩若自物、若勸他得物、若自集布施、若父母妻子奴婢作人、若善友大臣親屬，悉皆施與，若他所須，是名略說菩薩四種一切門施。

> 菩薩の「すべての門における布施」とは何か。簡単に言えば四つの種類がある。 1. 自分自身の持ち物を施すこと 2. 他者から得た物を施すこと 3. 自ら集めた布施の品を施すこと 4. 父母、妻、子、召使い、使用人、善友、大臣、親族など、関係する者すべてを施すこと これらは、相手が必要とするものに対して行う。以上が、菩薩の四つの「すべての門における布施」の概略である。

云何菩薩善人施？略說五種：一者菩薩信心布施；二者恭敬布施；三者自手施；四者時施；五者不侵他施。是名菩薩善人施。

> では、菩薩の善人としての施しについて、簡潔に五つ挙げます。 第一に、確かな信念を持って施すこと。 第二に、相手を敬う気持ちで施すこと。 第三に、直接自分の手で施すこと。 第四に、適切な時期を見計らって施すこと。 第五に、他の人を犠牲にしないで施すこと。 これらが、菩薩にふさわしい善人の施しなのです。

云何菩薩一切行施？略說十三種：一者無依施；二者廣施；三者歡喜施；四者常施；五者器施；六者一切施；七者一切處施；八者一切時施；九者無罪施；十者一切物施；十一者方土物施；十二者資財施；十三者穀施。如是十三種是名菩薩一切行施器者謂四道淨福田器。云何菩薩除惱施？略說有八種：一者菩薩見須飲食者施以飲食；二者須乘與乘；三者須衣與衣；四者須莊嚴具與莊嚴具；五者須種種器具悉皆施與；六者須華鬘塗香者隨其所欲；七者須舍與舍；八者須燈明者施以燈明。如是八種，是名菩薩除惱施。

> 菩薩が行うすべての施しとは、簡単に言えば13の種類があります。 第一に、見返りを求めない施し。第二に、広く行き渡る施し。第三に、喜びをもって行う施し。第四に、絶え間なく行う施し。第五に、ふさわしい器（受け手）を選ぶ施し。第六に、すべてを惜しみなく与える施し。第七に、あらゆる場所で行う施し。第八に、あらゆる時に行う施し。第九に、罪のない施し。第十に、あらゆる物を与える施し。第十一に、その土地の特産物を施すこと。第十二に、金銭や財産を施すこと。第十三に、穀物を施すこと。この十三種類が、菩薩が行うすべての施しと呼ばれるものです。（注：ここでいう「器」とは、真実の教えによって清められた、功徳を積むにふさわしい人々のことを指します。） また、菩薩が人々の苦しみを取り除く施しとは、簡単に言えば8つの種類があります。 第一に、菩薩は飲食物を必要とする人を見れば、飲食物を与えます。第二に、乗り物を必要とすれば、乗り物を与えます。第三に、衣類を必要とすれば、衣類を与えます。第四に、装飾品を必要とすれば、装飾品を与えます。第五に、さまざまな道具や器具を必要とすれば、すべて与えます。第六に、花飾りや塗り香を望む人には、その望みに応じて与えます。第七に、家屋を必要とすれば、家屋を与えます。第八に、灯りを必要とする人には、灯火を与えます。以上の八種類が、菩薩が人々の苦しみを取り除く施しと呼ばれるものです。

云何此世他世樂施？略說九種，謂財施、法施、無畏施。財施者，勝妙清淨，如法調伏慳垢藏積垢故。修行布施調伏慳垢者，捨執著心。調伏藏積垢者，捨受用執著。無畏施者，謂師子虎狼王賊水火等種種恐怖救令得度。法施者，不顛倒說法、具足說法、授人禁戒。如是略說菩薩九種施，令諸眾生得今世後世安樂。彼財施、無畏施，分別此世樂。法施者，分別今世、後世樂。

> この世とあの世で安楽をもたらす「布施」とは何か。簡潔に言えば、九つの種類がある。すなわち、財施、法施、無畏施である。 財施とは、素晴らしく清らかで、教えに従って吝嗇（けち）の汚れや、ため込みの汚れを調伏するものである。修行によって布施を行い、吝嗇の汚れを調伏するとは、執着する心を捨てることである。ため込みの汚れを調伏するとは、享受することへの執着を捨てることである。 無畏施とは、獅子、虎、狼、王、賊、水、火など、様々な恐怖から人々を救い出し、安全な場所へ導くことである。 法施とは、誤りのない説法、完全な説法、そして戒めを授けることである。 このように、菩薩には九つの布施があり、それによって全ての人々に、この世とあの世の安楽をもたらす。財施と無畏施は、この世の安楽をもたらすものであると分別される。法施は、この世とあの世の両方の安楽をもたらすものであると分別される。

云何菩薩清淨施？略說十種。云何十？一者不留難；二者不異見；三者不積聚；四者不高心；五者無所依；六者不退弱；七者不下心；八者不背面；九者不求恩；十者不求報。不留難施者，菩薩有來求者，疾疾布施不作留難，時滿所願過其速望。不異見者，菩薩於施不起異見言無果報、不以害生布施謂言是法、不於此施求世間出世間淨。不積聚施者，菩薩不久積財然後頓施。何以故？非菩薩有所施物，見來求者堪能不施不如法見，非不施與，云何積聚然後乃施？亦非積聚而施福增多。所施物等，求者亦等，漸施頓施以何因緣見福差別？又復菩薩見積聚施過，不見隨施有過。何以故？謂積聚施，先來求者或有百數而不施與，令彼嫌恨起不忍心；後來求者積以頓施。是故菩薩不積聚施。不高心施者，菩薩於求者所謙下心施，不觀他勝競心布施，不以施故而自稱譽：「我是施主，餘者不能。」無依施者，菩薩不以名稱而行布施，於假名稱譽猶如塵坌。不退弱施者，菩薩欲施心悅、施時歡喜、施已無悔，財物增廣第一勝妙。菩薩聞他廣施勝施，心不自輕生退弱心。不下心施者，菩薩思量以最勝最上妙物布施，是名不下心施。不背面施者，菩薩等心，不隨朋黨怨親中人悲心等施。不求恩施者，菩薩以悲心愍心而行布施，不於受者計其恩惠，觀欲樂眾生愛火熾然，無勢力故。不求報施者，菩薩施已不怖未來，財身具足，觀一切行皆悉磨滅，見無上菩提真實福利。如是十種，是名菩薩快淨布施。如是菩薩，依九種施具足檀波羅蜜，得阿耨多羅三藐三菩提。

> では、菩薩の清らかな施しとは何か。簡単に言えば、次の十の種類がある。 一つ目は、ためらわないこと。 二つ目は、疑いを持たないこと。 三つ目は、ためこまないこと。 四つ目は、高ぶらないこと。 五つ目は、何かに頼らないこと。 六つ目は、弱気にならないこと。 七つ目は、見下さないこと。 八つ目は、背を向けないこと。 九つ目は、恩を求めないこと。 十つ目は、見返りを求めないこと。 「ためらわない施し」とは、菩薩は求めてくる人に対して、すぐに施しを行い、ためらうことなく、その人の願いをその人の期待以上に叶えることである。 「疑いを持たない施し」とは、菩薩は施しに対して「その行いには報いがない」などといった誤った見解を持たず、また、命を奪うような施しを「これこそ正しい教えだ」とは考えず、施しによってこの世やあの世の清らかさを求めたりしないことである。 「ためこまない施し」とは、菩薩は長い間財をためこんで、それから一度に施したりはしない。なぜか。菩薩は施す物があるからといって、求めてくる人がいるのに施さないという道理はないからである。施さないでいるより、どうしてためこんでから施すことなどありえようか。また、ためこんで施せば功徳が増えるわけではない。施す物が同じで、求める人も同じであれば、少しずつ施そうが一度に施そうが、何の理由があって功徳に差が生じるというのか。さらに、菩薩はためこんで施すことの過ちを知っており、その都度施すことに過ちはないと見ている。なぜなら、ためこんで施す方法では、先に来た百人もの求めに応じて施さず、彼らに恨みや不平を抱かせ、不満の心を起こさせることになるが、後に来た者にはためこんだものを一度に施すことになるからである。ゆえに、菩薩はためこんで施すことはしない。 「高ぶらない施し」とは、菩薩は求める人に対して謙虚な心で施しを行い、他人より勝ろうとして競い合う心で施さず、施しをしたからといって「私は施し主である。他にはできない」などと自慢したりしないことである。 「何かに頼らない施し」とは、菩薩は名声のために施しを行わず、虚名や称賛を塵芥のように見なすことである。 「弱気にならない施し」とは、菩薩は施しをしようとするとき心から喜び、施しているときも喜び、施した後も悔やむことがない。そして、その施しの品はますます素晴らしいものとなる。また、他の人が広く素晴らしい施しをしているのを聞いても、自分の心を卑下して弱気になったりしないことである。 「見下さない施し」とは、菩薩は最も勝れ、最も素晴らしい品を選んで施す。これを見下さない施しという。 「背を向けない施し」とは、菩薩は平等な心で、仲間や敵、中立の人などによる派閥を作らず、慈しみの心で平等に施しを行うことである。 「恩を求めない施し」とは、菩薩は慈しみと哀れみの心で施しを行い、受け取った人に恩を着せようとはしない。それは、欲望に溺れる人々が愛欲の炎に焼かれて、自らを制する力を持たないのを見ているからである。 「見返りを求めない施し」とは、菩薩は施しをした後も、未来において財産や身体が豊かになることを願わず、すべての行いが滅び去るものであると観察し、無上の悟りこそが真実の功徳であると見ていることである。 以上の十の種類が、菩薩の清らかで素晴らしい施しと呼ばれるものである。このように菩薩は、九つの施しに基づいて布施の完成（檀波羅蜜）を満たし、無上なる正しい悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を得るのである。