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title: "菩薩地持經 · 2"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
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## 菩薩地持經卷第五

> 菩薩地持経 巻第五

北涼中印度三藏曇無讖於姑臧譯

> 北涼・中インド三蔵 曇無讖 姑臧にて訳す

### 菩薩地持方便處戒品之餘

> 菩薩地持方便処 戒品の余

菩薩欲學菩薩律儀戒、攝善法戒、攝眾生戒者，若在家若出家，發無上菩提願已，於同法菩薩，已發願者、有智有力、善語善義、能誦能持，如是菩薩所先禮足已作是言：「我於大德乞受菩薩戒。大德於我不憚勞者，哀愍聽許。」作是請已偏袒右肩，於三世十方佛及大地諸菩薩前，恭敬作禮念其功德，起軟中上淳淨心。於智者前謙下恭敬長跪曲身。於佛像前作是言：「唯願大德授我菩薩戒。」作是語已，一心念住長養淨心：「我今不久當得無盡無量無上大功德聚。」如是念已默然而住。爾時智者，於彼受者不起亂心，若坐若立而作是言：「汝某甲善男子！諦聽。法弟！汝是菩薩不？」答言：「是。」「發菩提願未？」答言：「已發。」

> 菩薩が菩薩の律儀戒（りついかい）・善法戒（ぜんぼうかい）・衆生戒（しゅじょうかい）を学ぼうと思うならば、在家でも出家でも、まず無上の菩提（ぼだい）の願いを起こした後、同じ教えを学ぶ菩薩で、すでにその願いを起こし、智慧と力があり、言葉が巧みで意味が深く、経典を唱えられ、よく保つことのできる、そのような菩薩のもとへ赴き、まずその足に礼をして、次のように申し出るべきである。「尊き方よ、私はあなたから菩薩戒を受けたいと願います。尊き方、どうか私のために労を惜しまず、哀れみをもってお許しください。」このように請い終えたら、右肩をあらわにし、三世十方の仏と大地の諸菩薩に対して、敬いの心で礼拝し、その功徳を思い起こす。柔らかな心、中ぐらいの心、清らかな心を起こし、智慧ある者の前で謙虚に敬意を払い、ひざまずき、身をかがめる。そして仏像の前で次のように言う。「どうか尊き方、私に菩薩戒をお授けください。」この言葉を終えたら、心を一つに集中し、清らかな心を育てていく。「私はまもなく限りなく、量り知れず、この上ない大きな功徳の集まりを得るであろう。」とこのように念じて、静かにその場にいる。その時、智慧ある者は、その受ける者に対して乱心を起こさず、座ったままであれ立ったままであれ、次のように言う。「あなた、某よ、善き男子よ、よく聞きなさい。法の弟よ、あなたは菩薩ですか。」答えていう、「そうです。」「菩提の願いは起こしましたか。」答えていう、「すでに起こしました。」

問已復作是言：「汝善男子！欲於我所受一切菩薩戒：律儀戒、攝善法戒、攝眾生戒。此諸戒是過去未來現在一切菩薩所住戒，過去一切菩薩已學、未來一切菩薩當學、現在一切菩薩今學。汝能受不？」答言：「能。」第二第三亦如是說。

> 問いかけの後、さらにこう告げました。「善き男子よ、あなたは私のもとで、一切の菩薩戒――すなわち、律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒――を受けようとしている。これらの戒めは、過去・未来・現在のすべての菩薩が拠り所とする戒であり、過去の一切の菩薩はすでに学び、未来の一切の菩薩はこれから学び、現在の一切の菩薩は今まさに学んでいる。あなたはこれを受けることができるか？」 答えは「できます。」 二度目、三度目も同じように唱えられた。

智者三說，授彼戒已，受者不起。爾時智者於佛像前敬禮十方世界諸菩薩眾，如是白言：「某甲菩薩於我某甲前三說受菩薩戒。我為作證。」一切十方無量諸佛第一無上大師現知見覺者，於一切眾生一切法現知見覺，亦如是白：「某菩薩於我某前三說受菩薩戒。我為作證。」第二第三亦如是白。如是受菩薩戒竟。次第十方一切世界無量諸佛，及住大地諸菩薩前，法有相現。爾時十方世界諸佛菩薩，念是菩薩起如實知見：「某世界中某菩薩，從某菩薩受菩薩戒。」於是菩薩起子想弟想，慈心愛念。慈心愛念故，令是菩薩善法增長終不退減。如是白，如是知覺，如是受菩薩戒已，智者受者向十方諸佛及菩薩眾敬禮而退。如是菩薩所受律儀戒，於餘一切律儀戒最勝最上，攝受無量無邊功德。從第一無上真實心，起一切眾生一切種惡行對治波羅提木叉戒，於此律儀戒，百分不及其一、百千萬分乃至極算數譬喻亦不及一，攝受一切諸功德故。住菩薩戒者作是思惟：「如法者行、非法不行，功德轉增。」學戒菩薩聞修多羅藏所說及菩薩摩得勒伽藏所說，當勤護持。有智菩薩不從一切菩薩受菩薩戒。若不信者則不從受，謂初聞菩薩戒不信不順不能思惟，慳者貪者、多欲者、不知足者、破戒者、慢緩者、不護戒者、瞋者恨者、不堪忍者、懶惰者、懈怠者、著睡眠者、樂說世事者，如是等人悉不從受。若有菩薩修習善心乃至一𤚲牛乳頃者，不飲酒者、不愚癡者、不怯弱者、不少聞者、不謗菩薩藏修多羅者，從如是等人受菩薩戒。菩薩受菩薩戒者，誹謗違逆菩薩藏者，不向其說亦不教義。何以故？彼聞已不信，無知覆障故而生誹謗。如是謗者，如受菩薩戒無量功德聚，謗者罪報亦復如是，乃至不捨惡言惡見惡覺，終不捨離如是罪業。菩薩欲受菩薩戒時，智者應先為說菩薩摩得勒伽藏，說菩薩戒及犯戒相，令受戒者自心觀察智慧思惟，我堪受戒非效他受。是名堅固菩薩。如是人者應受菩薩戒。

> 智者が三度唱え、戒を授けた後、受者が立ち上がらない場合、その時、智者は仏像の前で十方世界の諸菩薩を敬礼し、次のように唱える。「某甲菩薩は、私、某甲の前で三度唱えて菩薩戒を受けました。私はその証人となります。」また、一切の十方にいる無数の諸仏、第一にして無上の大師であり、現に知り見て覚っている方々、すべての衆生とすべての法を現に知り見て覚っている方々に向かっても、同様に唱える。「某菩薩は、私、某の前で三度唱えて菩薩戒を受けました。私はその証人となります。」二度目、三度目も同じように唱える。このようにして菩薩戒を受けることは終わる。 次に、十方の一切世界にいる無数の諸仏、および大地に住する諸菩薩の前で、法に相が現れる。その時、十方世界の諸仏・諸菩薩は、この菩薩を念じて、「如実の知見」を起こす。「某の世界にいる某の菩薩が、某の菩薩から菩薩戒を受けた」と。そして、この菩薩に対して「子のように」「弟のように」思う心を起こし、慈しみの心で愛し念じる。慈しみの心で愛し念じるゆえに、この菩薩の善法を増長させ、ついには退失・減少させない。 このように唱え、このように知覚し、このように菩薩戒を受けた後、智者と受者は十方の諸仏および菩薩の衆に向かって敬礼し、退く。 このように菩薩が受ける律儀戒（りつぎかい）は、他のあらゆる律儀戒よりも最も優れ、最も勝れており、無量無辺の功徳を摂受する。第一にして無上の真実の心から起こされ、一切の衆生のあらゆる悪行に対する対治法である波羅提木叉戒（はらだいもくしゃかい）も、この律儀戒に比べれば、百分の一にも及ばず、百千万分、さらには計算や譬えを用いてもその一分にも及ばない。なぜなら、この戒は一切の諸功徳を摂受するからである。 菩薩戒に住する者は、次のように思惟する。「法にかなうことは行い、法にかなわないことは行わない」と。そうすれば功徳はさらに増す。戒を学ぶ菩薩は、経蔵（きょうぞう）に説かれたこと、および菩薩の摩得勒伽蔵（まどろくがぞう）に説かれたことを聞いて、勤めて護持すべきである。 智慧ある菩薩は、すべての菩薩から菩薩戒を受けるわけではない。もし信じない者からは受けない。すなわち、初めて菩薩戒を聞いて信じず、従わず、思惟できない者、物惜しみする者、貪る者、欲深い者、足ることを知らない者、戒を破る者、怠慢な者、戒を護らない者、怒りっぽい者、恨みを持つ者、忍ぶことができない者、怠ける者、なまける者、睡眠に執着する者、世間の話を好む者、このような人々からは決して受けない。 もし菩薩が、善心を修すること、牝牛の乳を搾るほどの僅かな時間であっても、酒を飲まない者、愚かでない者、臆病でない者、少ししか聞いていない者でない者、菩薩蔵の経典を誹謗しない者、このような人々から菩薩戒を受ける。 菩薩戒を受けた菩薩は、菩薩蔵を誹謗し違逆する者に対しては、その経典を説かず、またその意味を教えない。なぜか。その者たちは聞いても信じず、無知に覆われて妨げられるゆえに、誹謗を生じるからである。このように誹謗する者は、菩薩戒を受けた者が無量の功徳の集まりを得るように、誹謗する者の罪報もまた同様に無量である。たとえ悪口・悪見・悪覚を捨てるまでは、ついにこのような罪業から離れることはない。 菩薩が菩薩戒を受けようとする時、智者はまず、菩薩の摩得勒伽蔵を説き、菩薩戒とその犯戒の相を説き、受戒しようとする者に自らの心で観察させ、智慧で思惟させよ。「私は戒を受けるに堪える。他人に勧められて受けるのではない」と。これを堅固な菩薩という。このような者は、菩薩戒を受けるべきである。

如是菩薩住律儀戒者，有四波羅夷處法。何等為四？菩薩為貪利故自歎己德毀呰他人，是名第一波羅夷處法。菩薩自有財物，性慳惜故，貧苦眾生無所依怙來求索者，不起悲心給施所求，有欲聞法悋惜不說，是名第二波羅夷處法。

> このように戒律を守る菩薩には、四つの「波羅夷（重罪に相当する戒律違反）」の条件がある。その四つとは何か。 第一に、菩薩が利益や名声のために自己の徳を誇り、他人を誹謗すること。これを第一の波羅夷の条件とする。 第二に、菩薩が自らの財物を持ちながら、吝嗇（りんしょく）の心から、頼る者のない貧しい人々が施しを求めても、慈悲の心を起こさず与えようとせず、また教えを聞きたいと願う者がいても惜しんで説かないこと。これを第二の波羅夷の条件とする。

菩薩瞋恚，出麁惡言意猶不息，復以手打或加杖石，殘害恐怖瞋恨增上，犯者求悔不受其懺，結恨不捨，是名第三波羅夷處法。菩薩謗菩薩藏，說相似法熾然建立，於相似法若心自解或從他受，是名第四波羅夷處法。是名菩薩四波羅夷處法。

> 菩薩が怒りの心を起こし、荒々しい悪口を吐いてもなお怒りが収まらず、さらに手で打ったり、杖や石で攻撃したりして、相手を傷つけ脅かし、怒り恨みをますます強め、過ちを犯した者が謝罪して許しを乞うてもそれを受け入れず、恨みを抱いて手放さないこと——これが第三の波羅夷（重罪）法です。 菩薩が菩薩の教え（菩薩蔵）を誹謗し、似非（にせ）の教えを説いてそれを盛んに確立しようとし、その似非の教えを自ら理解したり、他者から受け入れたりすること——これが第四の波羅夷法です。 以上が、菩薩にとっての四つの波羅夷法です。

是菩薩於四波羅夷處法一一犯，是名波羅夷處法，何況犯四。不能增廣現法、莊嚴菩提亦不增長現在淨心，是名相似菩薩非實菩薩。若菩薩以軟中煩惱犯四法者，不名捨律儀戒。若上煩惱犯，是名為捨。若於四法數數違犯，不生慚愧歡喜愛樂言是功德，是名上煩惱犯。菩薩無有頓犯四波羅夷處法，捨菩薩律儀戒，如比丘捨律儀戒。菩薩失律儀戒已，堪任更受，非如比丘犯木叉戒不得更受。有二因緣失菩薩律儀戒：一者捨無上菩提願；二者起增上煩惱犯。無有捨身受身失菩薩戒，乃至十方在所受生亦復不失。若菩薩不捨大願、非上煩惱犯，捨身受身雖不憶念，從善知識數數更受，猶是本戒，不名新得。

> この菩薩が、四つの波羅夷（最も重い罪）の教えのうち、たった一つを犯しただけでも、それは波羅夷に相当する行いである。ましてや四つ全てを犯したならば、なおさらである。そうなると、現世の善い行いを増し広めることも、悟りを荘厳することもできず、また清らかな心を現在において育むこともない。これを「似て非なる菩薩」と呼び、真実の菩薩ではない。 もし菩薩が、弱いまたは中程度の煩悩によってこれら四つの教えを犯したとしても、それは戒律を捨てたことにはならない。しかし、強い煩悩によって犯した場合は、戒律を捨てたことになる。もし四つの教えを繰り返し犯し、恥じることも後悔することもなく、むしろそれを喜び楽しみ、功徳であると言い張るならば、それは強い煩悩による犯行である。 菩薩が一度に四つの波羅夷を全て犯し、菩薩の戒律を捨て去るということは、比丘が戒律を捨てる場合とは異なる。菩薩が戒律を失った後でも、再び受けることは可能である。これは、比丘が木叉戒（基本的な戒）を犯した後は再び受けることができないのとは対照的である。 菩薩の戒律を失う原因は二つある。一つは、無上の悟りを求める誓いを捨てること。もう一つは、強い煩悩によって戒を犯すことである。しかし、身体を変え生まれ変わったからといって、菩薩戒を失うことはない。たとえ十方の世界のどこに生まれようとも、その戒は失われない。もし菩薩が大きな誓いを捨てず、強い煩悩によって戒を犯さなければ、身体を変え生まれ変わって前世の記憶を失ったとしても、善き指導者について繰り返し戒を受け直すことで、その戒は依然として元の戒であり、新たに得たものとは呼ばない。

是住律儀戒菩薩，當知犯非犯、染污非染污、軟中上。

> この律儀の戒を保つ菩薩は、犯すことと犯さざること、汚れと汚れなきこと、そして軽・中・重の区別をよく知るべきである。

若菩薩住律儀戒，於一日一夜中，若佛在世、若佛塔廟、若法若經卷、若菩薩修多羅藏若菩薩摩得勒伽藏、若比丘僧、若十方世界大菩薩眾，若不少多供養乃至一禮，乃至不以一偈讚歎三寶功德，乃至不能一念淨心者，是名為犯眾多犯。若不恭敬、若懶惰、若懈怠犯，是犯染污起。若忘誤犯，非染污起。不犯者，入淨心地菩薩，如得不壞淨比丘常法，供養佛法僧寶。若菩薩多慾不知足，貪著財物，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，為斷彼故，起欲方便攝受對治，性利煩惱更數數起。

> もし菩薩が戒律を守るならば、一日一夜の間、もし仏が在世であっても、仏塔や寺院であっても、法や経典であっても、菩薩の経蔵や菩薩の論蔵であっても、比丘僧や十方世界の大菩薩の集いであっても、少しでも供養し一礼することなく、あるいは一つの偈さえも以て三宝の功徳を讃えず、あるいは一念の清らかな心さえも持たないならば、それは多くの犯戒を犯すと名付けられる。もし敬わず、怠け、懈るならば、それは染汚を伴う犯戒である。もし忘れたり誤ったりしたならば、それは染汚を伴わない犯戒である。犯戒とならないのは、清らかな心の境地に入った菩薩であり、不壊の信を得た比丘が常に仏法僧の三宝を供養するのと同様である。もし菩薩が多くの欲望を持ち足ることを知らず、財物に執着するならば、それは多くの犯戒を犯すと名付けられ、染汚を伴う犯戒である。犯戒とならないのは、それを断つために、対治する方法を欲し身につけるよう努め、強い煩悩が繰り返し生じる場合である。

若菩薩見上坐有德應敬同法者，憍慢瞋恨不起恭敬不讓其坐，問訊請法悉不酬答，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若懶惰懈怠、若無記心、若忘誤犯，非染污起。不犯者，若狂、若重病、若亂心。若眠作覺想，問訊請法悉不答者，是名不犯。若上座說法及決定論時，若自說法若聽法、若自決定論時，若說法眾中、若決定論眾中，不禮不犯。若護說者心，若以方便令彼調伏、捨離不善修習善法，若護僧制若護多人意。

> もし菩薩が、尊敬すべき年長者や徳の高い同法者を見て、傲慢や怒りの心を起こし、敬意を払わず、席を譲らず、挨拶や教えを請うことにも応じなかったならば、それは多くの過ちを犯すこととなり、汚れに染まった行為となる。 もし怠惰や気の緩み、無意識の心、あるいは忘れたことによる過ちであれば、それは汚れに染まらない行為である。 犯さない場合とは、精神に異常がある時、重い病気の時、心が乱れている時である。また、眠っている人が目覚めていると思い込んで、挨拶や教えを請うことに応じなかったとしても、それは過ちとはならない。 さらに、年長者が説法中や重要な議論をしている時、自分が説法中あるいは聴法中、自分が重要な議論をしている時、説法の集まりや議論の集まりの中では、礼を欠いても過ちではない。 また、説法者の心を守るため、適切な方法を用いてその人を調伏し、不善を捨てて善法を修習させるため、あるいは僧団の規則や多くの人の気持ちを守るためであれば、それも過ちではない。

若菩薩檀越來請，若至自舍、若至寺內、若至餘家，若施衣食種種眾具，菩薩以瞋慢心不受不往，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，若病若無力、若狂若遠處、若道路恐難、若知不受令彼調伏捨惡住善、若先受請、若修善法不欲暫廢、為欲得聞未曾有法饒益之義及決定論、若知請者為欺惱故、若護多人嫌恨心故、若護僧制。若菩薩有檀越，以金銀真珠摩尼流璃種種寶物奉施菩薩，菩薩以瞋慢心違逆不受，是名為犯眾多犯，是犯染污，起捨眾生故。若懶墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若狂、若知受已必生貪著、若知受已施主生悔、若知受已施主生惑、若知受已施主貧惱、若知是物是三寶物、若知是物是劫盜得、若知受已多得苦惱所謂殺縛讁罰奪財呵責。

> もし菩薩のもとに布施を求める在家の信者が現れ、自宅であれ寺院であれ他の家であれ、衣食や様々な品々を施そうとして来たにもかかわらず、菩薩が怒りや慢心のゆえにそれを受け取らず、あるいは自らそのもとへ赴かないならば、それは多くの違犯を犯すこととなり、その違犯は煩悩に染まったものとなる。ただし、以下の場合は違犯とはならない。病気のとき、力がないとき、心が乱れているとき、遠方にいるとき、道中に危険や難があるとき、受け取らないことで相手を調伏し、悪を捨てて善に留まらせようと知っているとき、すでに他の招待を受けているとき、善法を修めておりそれを一時も廃したくないとき、未だ聞いたことのない法や、より深い意味や確かな教えを得ようとしているとき、相手が欺いたり悩ませたりする意図で招待していると知っているとき、多くの人の嫌悪や恨みを避けるためであるとき、僧団の定めを守るためであるとき。 また、菩薩のもとに在家の信者がいて、金、銀、真珠、水晶、瑠璃などの様々な宝を菩薩に奉献しようとするとき、菩薩が怒りや慢心のゆえに拒否して受け取らないならば、それは多くの違犯を犯すこととなり、その違犯は煩悩に染まったものである。なぜなら、それは衆生を捨てる行為だからである。もし単に怠けや懈怠によるものであれば、違犯ではあるが煩悩に染まってはいない。ただし、以下の場合は違犯とはならない。心が乱れているとき、受け取ったら必ず執着が生じると知っているとき、受け取ったら施主が後悔すると知っているとき、受け取ったら施主が惑いを生じると知っているとき、受け取ったら施主が貧窮し苦しむと知っているとき、その品物が三宝のものであると知っているとき、その品物が盗みによって得られたものであると知っているとき、受け取ったら殺害や拘束、罰金、財産没収、叱責など多くの苦しみが生じると知っているとき。

若菩薩，眾生往至其所欲得聞法，若菩薩瞋恨慳嫉不為說者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若懶墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若外道求短、若重病若狂、若知不說令彼調伏、若所修法未善通利、若知前人不能敬順威儀不整、若彼鈍根聞深妙法生怖畏心、若知聞已增長邪見、若知聞已毀呰退沒、若彼聞已向惡人說破壞正法。若菩薩於凶惡犯戒眾生以瞋恨心，若自捨、若遮他令捨不教化者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若懶墮懈怠、若忘遮他，犯非染污起。何以故？菩薩於惡人所起慈悲心深於善人。不犯者，若狂、若知不說令彼調伏，如前說，若護他心、若護僧制。

> もし菩薩のもとに衆生が訪れて法を聞こうとしたとき、菩薩が怒りや嫉み、物惜しみの心から説法を拒むならば、それは多くの戒律を破ることであり、汚れた心による犯行である。もし怠惰や懈慢によるのであれば、それは汚れなき犯行となる。 ただし、次のような場合は犯行とはならない。外道が揚げ足を取ろうとしている場合、重い病にかかっている場合、心が乱れている場合、あえて説かないことでその者を調伏させようとする場合、自分が修める法にまだ十分に通じていない場合、その者が敬順の心や威儀を整えていないと知っている場合、その者が鈍根で深妙な法を聞いて怖れの心を起こす場合、聞くことで邪見を増すと知っている場合、聞くことで法を誹謗し退転すると知っている場合、その者が聞いた後に悪人に語って正法を壊すと知っている場合である。 また、菩薩が凶悪で戒律を破る衆生に対して怒りの心から、自らその者を捨てたり、他の者に捨てさせたりして教化しないならば、それも多くの戒律を破ることであり、汚れた心による犯行である。もし怠惰や懈慢による場合、あるいは他の者に捨てさせるのを忘れた場合、それは汚れなき犯行となる。なぜなら、菩薩は悪人に対して善人よりも深い慈悲の心を起こすべきだからである。 ただし、次のような場合は犯行とはならない。心が乱れている場合、前に述べたようにあえて説かないことでその者を調伏させようとする場合、他人の心を守るため、または僧団の規律を守るためである。

若菩薩於如來波羅提木叉中毘尼建立遮罪，護眾生故，令不信者信、信者增廣，同聲聞學。何以故？聲聞者乃至自度，乃至不離護他，令不信者信、信者增廣學戒，何況菩薩第一義度，又復遮罪住，少利少作少方便。世尊為聲聞建立者，菩薩不同學此戒。何以故？聲聞自度、捨他應住，少利少作少方便；非菩薩自度，度他應住，少利少作少方便。菩薩為眾生故，從非親里婆羅門居士，求百千衣。及自恣與，當觀施主堪與不堪，隨施應受。如衣，鉢亦如是。如衣鉢，如是自乞縷，令非親里織師織，為眾生故，應畜憍奢耶臥具坐具乃至百千，乃至金銀百千亦應受之。如是等住，少利少作少方便，聲聞遮罪，菩薩不共學住。菩薩律儀戒，為諸眾生，若嫌恨心住少利少作少方便者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若懶惰懈怠住少利少作少方便犯，非染污起。若菩薩身口諂曲，若現相、若毀呰、若因利求利住邪命法，無慚愧心不能捨離，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，若斷彼故起欲方便，煩惱增上更數數起。

> もし菩薩が如来の戒律（波羅提木叉）における禁戒（遮罪）を、衆生を護るために制定し、信心なき者をして信心を起こさせ、信心ある者の信心をさらに増広させるならば、それは声聞の学びと同じである。なぜなら、声聞は自らの悟り（自度）を目指しつつも、他者を顧みずにはいられず、信心なき者に信心を起こさせ、信心ある者の信心を増広させるために戒を学ぶからである。ましてや菩薩は第一義の悟り（第一義度）を目指す者であり、さらに禁戒を守り、わずかな利益・わずかな行い・わずかな方便に留まるべきではない。 世尊が声聞のために制定した禁戒については、菩薩はこの戒を同じように学ぶべきではない。なぜなら、声聞は自らの悟りを目指し、他者を捨ててそれに留まるべきであり、わずかな利益・わずかな行い・わずかな方便でよいからである。菩薩は自らの悟りだけでなく、他者の悟りをも導くべきであり、わずかな利益・わずかな行い・わずかな方便に留まるべきではない。 菩薩は衆生のために、親族でないバラモンや在家信者（居士）から、多くの衣類（百千の衣）を求めることができる。また、自ら進んで与えられる場合には、施主が与えることができるかどうかを観察し、その施しに応じて受け取るべきである。衣類と同様に、托鉢（鉢）もまた同じである。衣類や鉢と同様に、自ら糸を乞い、親族でない織師に織らせ、衆生のために驕奢耶（高級な布）の座具や寝具、さらに多くのもの（百千）を蓄えるべきである。また、金銀（百千）であっても受け取るべきである。 このように、わずかな利益・わずかな行い・わずかな方便に留まることは、声聞にとっての禁戒であり、菩薩はこれを共に学ぶべきではない。 菩薩の律儀戒において、もし衆生に対して嫌悪や恨みの心を持ち、わずかな利益・わずかな行い・わずかな方便に留まるならば、それは多くの犯戒を犯すこととなり、その犯戒は煩悩に染まって起こるものである。もし怠惰や懈怠によってわずかな利益・わずかな行い・わずかな方便に留まるならば、その犯戒は煩悩に染まらずに起こるものである。 もし菩薩が身体や言葉でお世辞や曲がった態度をとり、あるいは何かを示唆し、そしり、利益を求めてさらに利益を求める邪命の法に住み、慚愧の心なくそれを捨て離れないならば、それは多くの犯戒を犯すこととなり、その犯戒は煩悩に染まって起こるものである。 犯戒とならない場合とは、もしその悪を断とうとして、それを実行しようと願い努力するが、煩悩が増上して何度も繰り返し起こる場合である。

若菩薩掉動心不樂靜，高聲嬉戲令他喜樂，作是因緣，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若忘誤犯，非染污起。不犯者，為斷彼故起欲方便如前說。又不犯者，他起嫌恨欲令止故，若他愁憂欲令息故，若他性好戲為攝彼故、欲斷彼故、為將護故。若他疑菩薩，嫌恨違背和顏戲笑，現心淨故。

> もし菩薩が心が落ち着かず、静けさを好まず、大声でふざけて他人を喜ばせるならば、そのような因縁によって、これは多くの犯戒を犯すこととなり、その犯戒は汚れによって生じる。もし忘れたり過ちによって犯すならば、それは汚れによって生じたものではない。犯さない場合とは、それを断つために以前述べたような工夫（方便）を起こす場合である。また、犯さない場合とは、他者が恨みや怒りを起こした時にそれを止めさせようとする場合、他者が憂いに沈んでいる時にそれを鎮めようとする場合、他者の性質が遊び好きである時にそれを導いて戒めようとする場合、またはそれを断つために心を配る場合である。また、もし他者が菩薩に対して疑念を抱き、恨みや怒りや背く心を持っているならば、和やかな顔で冗談を交えて笑い、心の清らかさを示すためである。

若菩薩作如是見、如是說言：「菩薩不應樂涅槃、應背涅槃，不應怖畏煩惱，不應一向厭離。何以故？菩薩應於三阿僧祇劫久受生死求大菩提。」作是說者是名為犯眾多犯，是犯染污起。何以故？聲聞深樂涅槃畏厭煩惱，百千萬倍不及菩薩深樂涅槃畏厭煩惱。謂諸聲聞但為自利，菩薩不爾普為眾生，彼習不染污心，勝阿羅漢成就有漏離諸煩惱。

> もし菩薩がこのような見解を持ち、このように説くならば、「菩薩は涅槃を喜ぶべきではなく、涅槃に背くべきであり、煩悩を恐れたり憎んだりすべきではない。なぜなら、菩薩は三大阿僧祇劫の長きにわたって生死を繰り返し、大菩提を求めるべきだからである」と。このように説く者は、多くの違反を犯すことになり、これは煩悩に染まった違反である。なぜなら、声聞が涅槃を深く喜び、煩悩を嫌い恐れる心は、菩薩が涅槃を深く喜び、煩悩を嫌い恐れる心に百千万分の一も及ばないからである。すなわち、声聞はただ自らの利益のためだけに修行するが、菩薩はそうではなく、全ての衆生のために修行する。その修行は煩悩に染まらない心を育て、阿羅漢よりも勝れており、有漏の煩悩を離れながらも功徳を成就するのである。

若菩薩不護不信之言、不護譏毀亦不除滅，若實有過惡不除滅者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。實無過惡而不除滅，非染污起。不犯者，若外道誹謗及餘惡人、若出家乞食修善因緣生他譏毀、若前人若瞋若狂而生譏毀。

> もし菩薩が、他人からの信頼を失うような言葉や非難・中傷を気にせず、また実際に過ちや悪行があるのにそれを改めようとしないならば、それは多くの戒律違反を犯すことになり、これは煩悩に染まった過ちである。 もし実際には過ちや悪行がないのに、それ（非難など）を払いのけようとしないのなら、それは煩悩に染まらない過ちである。 ただし、次の場合は違反にはならない。外道が誹謗中傷する場合、その他の悪人がそうする場合、あるいは出家者が托鉢や修行など善い因縁のために他人から非難される場合、または非難する者が怒りや狂気の状態にある場合である。

若菩薩觀眾生，應以苦切之言方便利益，恐其憂惱而不為者，是名為犯眾多犯，是犯非染污起。不犯者，觀彼現在少所利益多起憂惱。

> もし菩薩が、教化すべき相手に対して、厳しい言葉で教え導くことがその人の利益になると判断しながらも、相手が悲しみ苦しむことを恐れて、あえてそうしないならば、それは多くの過ちを犯すことになる。ただし、その過ちは煩悩に染まって生じたものではない。ただし、その厳しい言葉によって得られる利益が小さく、かえって相手に大きな苦しみをもたらすと見極めた場合は、この限りではない。

若菩薩罵者報罵、瞋者報瞋、打者報打、毀者報毀，是名為犯眾多犯，是犯染污起。

> もし菩薩が、罵る相手には罵り返し、怒る相手には怒り返し、殴る相手には殴り返し、貶す相手には貶し返すならば、それは多くの戒を破ることとなり、汚れに染まった違反となります。

若菩薩侵犯他人，或雖不犯令他疑者，即應懺謝。嫌恨輕慢不如法懺謝，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若以方便令彼調伏，若彼欲令作不淨業然後受者不謝無罪，若知彼人性好鬪訟，若悔謝者增其瞋怒，若知彼和忍無嫌恨心，恐彼慚恥不謝無罪。

> もし菩薩が他人に対して罪を犯したり、あるいは実際には犯していなくても相手に疑念を抱かせた場合、すぐに謝罪し懺悔しなければならない。もし嫌悪や恨み、軽蔑の心から、正しく懺悔・謝罪しないならば、それは多くの犯戒を犯すこととなり、煩悩に染まった行為である。もし怠惰や放漫によって犯したならば、それは煩悩に染まらない行為である。 ただし、次の場合は犯さないとされる。すなわち、巧みな手段で相手を調伏させようとした場合、相手が不浄な業を行わせてからでなければ受け入れないと言った場合（謝らなくても罪はない）、相手が好戦的で争いを好むと分かっている場合、謝罪するとかえって怒りを増す場合、または相手が寛容で恨みを持たず、謝罪によってかえって恥をかかせることになると分かっている場合（謝らなくても罪はない）。

若菩薩他人來犯，如法悔謝，以嫌恨心欲惱彼故不受其懺，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若不嫌恨、性不受懺，是犯非染污起。不犯者，若以方便令彼調伏，如前說。若彼不如法悔、其心不平，不受其懺無罪。

> もし菩薩が、他者が来て法に従って謝罪したにもかかわらず、心に嫌悪や恨みを抱き、その相手を困らせようとして謝罪を受け入れなければ、それは戒律の多くの違反となり、汚れた心から生じた過ちです。もし嫌悪や恨みがなく、ただ性質として謝罪を受け入れないのであれば、その違反は汚れていない心から生じたものです。 違反とならない場合： - 相手を調伏させるための方便を用いる場合（前述の通りです）。 - 相手が法に従って謝罪せず、心が平らかでない場合、その謝罪を受け入れなくても罪はありません。

若菩薩於他起嫌恨心，執持不捨，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，為斷彼故，起欲方便，如前說。

> もし菩薩が他の人に対して怒りや恨みの心を起こし、それを持ち続けて手放さないならば、それは多くの過ちを犯すことであり、汚れに染まった過ちです。ただし、その怒りを断ち切ろうとして、意図的にその対処法を実践する場合は、過ちにはなりません。これは先に述べた通りです。

若菩薩為貪奉事畜養眷屬者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，無貪心畜。

> もし菩薩が、貪りの心から弟子や眷属を養い従わせるならば、それは多くの戒律を犯すこととなり、その犯行は汚れに染まったものとなる。ただし、貪りの心なくして養う場合は、犯行には当たらない。

若菩薩嬾墮懈怠耽樂睡眠，若非時不知量，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，若病若無力、若遠行疲極、若為斷彼故起欲方便如前說。

> もし菩薩が怠け心に陥り、精進を欠き、睡眠に耽るようになり、適切な時間や量をわきまえなければ、それは多くの過ちを犯すことになり、その過ちは汚れから生じたものとなる。 ただし、次の場合は過ちとはならない——病気の場合、体力がない場合、長旅で極度に疲れている場合、あるいはそうした怠け心を断ち切ろうとして、先に述べたように意欲的に努力している最中の場合。

若菩薩以染污心論說世事經時者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若忘誤經時，犯非染污起。不犯者，見他聚話，護彼意故須臾暫聽；若暫答他問未曾聞事。

> もし菩薩が煩悩に染まった心で、長時間にわたって世俗の話を議論したり語ったりするならば、それは多くの違反を犯すこととなり、その違反は煩悩に汚染された状態から生じます。もしうっかり忘れて長時間話してしまったなら、その違反は煩悩に汚染されない状態から生じます。違反とならない場合とは、他の人が集まって話しているのを見て、その人の気持ちを考慮して一時的に耳を傾ける場合や、質問されてこれまで聞いたことのない事柄について一時的に答える場合です。

若菩薩欲求定心，嫌恨憍慢不受師教，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若疾病、若無力、若知彼人作顛倒說、若自多聞有力、若先已受法。

> もし菩薩が心の安定を求めながら、師を嫌い、恨み、高ぶって教えを受け入れないなら、それは多くの過ちを犯すこととなり、その過ちは汚れた心から生じます。 もし怠けや気の緩みから過ちを犯すなら、それは汚れのない心から生じます。 過ちとならない場合とは、病気のとき、力がないとき、その人が間違った説法をしていると知ったとき、自分自身が既に多くの学問と力を持っているとき、あるいは以前にすでに教えを受けているときです。

若菩薩起五蓋心不開覺者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，為斷彼故，起欲方便如前說。

> もし菩薩が五つの蓋（五蓋）の心を起こして、それを自覚し開かないならば、それは多くの違犯を犯すことになり、その違犯は煩悩に染まって生じたものです。ただし、それを断ち切るために、先に述べたように意欲と方便を起こす場合は、違犯とはなりません。

若菩薩見味禪以為功德者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，為斷彼故，起欲方便如前說。

> もし菩薩が、禅定の味わい（静かな楽しみ）に執着し、それを功徳と見なすならば、それは多くの違反を犯すことになり、その違反は汚れた心から生じます。 ただし、以下の場合は違反となりません。すなわち、その執着を断ち切るために、先に述べたように、意欲をもって適切な方法を起こす場合はそうです。

若菩薩如是見如是說言：「菩薩不應聽聲聞經法、不應受、不應學。菩薩何用聲聞法為？」是名為犯眾多犯，是犯染污起。何以故？菩薩尚聽外道異論，況復佛語。不犯者，專學菩薩藏未能周及。若菩薩於菩薩藏不作方便棄捨不學，一向修集聲聞經法，是名為犯眾多犯，是犯非染污起。

> もし菩薩が次のように見たり、こう言ったりしたとする——「菩薩は声聞の経典や教えを聞くべきではない。受け取るべきではない。学ぶべきではない。菩薩に声聞の教えなど何の役に立つのか」——これは多くの違反を犯すことになり、汚れた心による違反である。なぜなら、菩薩は外道の異論さえも聴聞するのに、ましてや仏の言葉であればなおさらである。ただし、専ら菩薩蔵を学び、まだ十分に習得していない場合は、違反にはならない。もし菩薩が菩薩蔵を学ぶための手段を講じず、それを捨てて学ばず、ひたすら声聞の経典や教えを修習するならば、これは多くの違反を犯すことになるが、それは汚れていない心による違反である。

若菩薩於佛所說棄捨不學，反習外道邪論世俗經典，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，若上聰明能速受學、若久學不忘、若思惟知義、若於佛法具足觀察得不動智。若於日日常以二分受學佛經，一分外典，是名不犯。如是菩薩善於世典外道邪論，愛樂不捨不作毒想，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若菩薩聞菩薩法藏甚深義真實義、諸佛菩薩無量神力，誹謗不受，言非利益非如來說，是亦不能安樂眾生，是名為犯眾多犯，是犯染污起。或自心不正思惟故謗、或隨順他故謗，是菩薩聞第一甚深義不生解心，是菩薩應起信心不諂曲心，作是學：「我大不是，盲無慧目。如來慧眼，如是隨順說。如來有餘說，云何起謗？」是菩薩自處無知處，如是如來現知見法，正觀正向，不犯，非不解謗。若菩薩以貪恚心，自歎己德毀呰他人，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，若輕毀外道稱揚佛法、若以方便令彼調伏如前說。又不犯者，令不信者信、信者增廣。

> もし菩薩が、仏の教えを捨て去って学ばず、かえって外道の邪説や世俗の書物などを習うならば、それは多くの罪を犯すこととなり、汚れに染まった罪となる。ただし、以下の場合は罪とはならない。非常に聡明で速やかに学び取れる者、長く学んでも忘れない者、よく考えて意味を理解する者、あるいは仏法を十分に観察して動かない智慧を得た者である。また、毎日その時間を二分して仏経を学び、一分を世俗の書物に充てるという場合も、罪とはならない。このように菩薩が、世俗の書物や外道の邪説を愛好してやめようとせず、それを毒と思わないならば、それは多くの罪を犯すこととなり、汚れに染まった罪となる。 もし菩薩が、菩薩の法蔵の非常に深い義、真実の義、そして諸仏・諸菩薩の無量の神通力を聞いて、それを誹謗し受け入れず、「これは利益にならない」「如来の説かれたものではない」「これでは衆生を安心させられない」と言うならば、それは多くの罪を犯すこととなり、汚れに染まった罪となる。あるいは自らの心が正しく思惟しないために誹謗するか、他人に従って誹謗するのである。この菩薩は、この第一の非常に深い義を聞いても理解する心が生じないならば、信心と、へつらわない心を起こして、次のように学ぶべきである。「私は全くもって間違っている。盲目で智慧の目がない。如来の智慧の眼は、このように教えに従って説かれる。如来には余分な説明もあるというのに、どうして誹謗を起こすことがあろうか。」この菩薩は自らを無知の境地に置く。このように、如来が現に見知し、知る法を、正しく観察し、正しく向かうならば、罪とはならない。理解せずに誹謗するのとは異なる。 もし菩薩が、貪りの心や怒りの心をもって、自らの徳を誇り、他人を誹謗するならば、それは多くの罪を犯すこととなり、汚れに染まった罪となる。ただし、以下の場合は罪とはならない。外道を軽く非難して仏法を称賛する場合、あるいは方便を用いて彼らを調伏しようとする、前に述べたような場合である。また、信仰しない者を信仰させ、信仰する者をより広げるための場合も、罪とはならない。

若菩薩聞說法處、若決定論處，以憍慢心瞋恨心不往聽者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠，是犯非染污起。不犯者，若不解、若病若無力、若彼顛倒說法、若護說者心、若數數聞已受持已知義、若多聞、若聞持、若如說行、若修禪定不欲暫廢、若鈍根難悟難受難持，不往者皆不犯。若菩薩輕說法者，不生恭敬、嗤笑毀呰：但著文字，不依實義。是名為犯眾多犯，是犯染污起。

> もし菩薩が、説法の場や確かな論議の行われる場所があると聞いても、高ぶった心や怒りの心からそこに出向いて聴聞しないならば、それは多くの違犯を犯すことになり、これは煩悩に染まった違犯である。もし怠け心や懈惰によるのであれば、これは煩悩に染まらない違犯である。ただし、以下の場合は犯さない。すなわち、教えを理解できない場合、病気の場合、力がない場合、その説法が間違ったものである場合、説法者の心を守るためである場合、既に何度も聞いて理解し受持しており義理を知っている場合、多くの教えを聞いている場合、聞いて受持している場合、教えの通りに行っている場合、禅定を修めており一時もそれを捨てたくない場合、あるいは根が鈍くて悟りにくく受け入れ難く保持し難い場合に、あえて行かないのは、いずれも違犯とはならない。 もし菩薩が、説法する者を軽んじ、敬いの心を起こさず、笑い嘲り、誹り罵るならば、ただ文字に執着して、真実の義理に依らないのである。これは多くの違犯を犯すことであり、煩悩に染まった違犯である。

若菩薩住律儀戒，見眾生所作事，以瞋恨心不與同事，所謂思量諸事，若行路、若如法興利、若田業、若牧牛、若和諍、若吉會、若福業，不與同者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若病若無力、若彼自能辦、若彼自有多伴、若彼所作事非法非義、若以方便令彼調伏如前說。若先許他、若彼有怨、若自修善業不欲暫廢、若性闇鈍、若護多人意、若護僧制，不與同者皆不犯。

> もし菩薩が戒律を守る生活を送っている時に、衆生が行う様々な仕事や活動を見て、怒りの心から協力しようとしない場合がある。例えば、次のようなことを考えて協力を拒むことである。道中での作業、適切な方法で利益を上げる事業、農耕、牛の放牧、争いの調停、吉祥な集まり、善行の事業など。これらに協力しないことは、戒律を破る過ちを犯すことになり、それは煩悩に染まった状態から生じる過ちである。 もし単なる怠け心やなまけ心から協力しなかった場合は、煩悩に染まらない過ちとなる。 以下の場合には、戒律違反にはならない。自分が病気である時、力がない時、相手が自分でできる時、相手にすでに多くの仲間がいる時、相手の行っていることが法律や道義に反している時、前に述べたように方便を用いて相手を調伏させる必要がある時、すでに他の人に約束している時、相手と自分に恨みがある時、自分が善行の修行中で途中で止めたくない時、生まれつき能力が鈍い時、多くの人の意向を尊重する時、僧団の規則を守る時。これらの理由で協力しなくても、戒律違反にはならない。

若菩薩見羸病人，以瞋恨心不往瞻視，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾惰懈怠犯，非染污起。不犯者，若自病、若無力、若教有力隨順病者、若知彼人自有眷屬、若彼有力能自經理、若病數發、若長病、若修勝業不欲暫廢、若闇鈍難悟難受難持難緣中住、若先看他病。如病，窮苦亦爾。

> もし菩薩が、弱って病む人を見ても、怒りの心で見舞いに行かないならば、それは多くの犯戒を犯すこととなり、汚れを帯びた犯戒となる。もし怠けや懈惰によるものであれば、それは汚れを帯びない犯戒となる。犯戒とならない場合もある。すなわち、自分が病んでいる時、力がない時、力のある者に病者の世話を頼んだ時、その病者にすでに家族や知人がいることを知っている時、その病者に自分の世話をする力がある時、病が何度も起こる時、長く病んでいる時、より勝れた修行に打ち込んでおり少しの間も中断したくない時、病者が鈍くて理解しにくく、受け入れにくく、保ちにくく、その状態にとどまりがちな時、あるいは他の病者の見舞いに先に行っている時である。病者の場合と同様に、貧しく苦しむ者に対しても同じである。

若菩薩見眾生造今世後世惡業，以嫌恨心不為正說，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，若自無智、若無力、若使有力者說、若彼自有力、若彼自有善知識、若以方便令彼調伏如前說。若為正說，於我增恨、若出惡言、若顛倒受、若無愛敬、若復彼人性弊𢤱悷。

> もし菩薩が、衆生が現世や来世において悪業を造っているのを見ながら、嫌悪や恨みの心から正しく教えようとしないならば、これは多くの犯戒を重ねることに当たり、煩悩に染まった過ちとなる。ただし、以下の場合は犯戒にはならない。自ら智慧がない場合、教え導く力がない場合、力ある者に代わりに説かせる場合、相手自身に理解する力がある場合、相手に善知識がいる場合、先に述べたように方便を用いて相手を調伏させる場合である。また、正しく教えようとしても、その結果かえって相手から恨みを買う場合、悪口を言われる場合、教えを誤って受け取られる場合、敬愛の心を持たれない場合、あるいは生来、相手の性質が頑なで強情な場合も同様に犯戒とはならない。

若菩薩受他恩惠，以嫌恨心，不以若等若增酬報彼者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若作方便而無力、若以方便令彼調伏如前說、若欲報恩而彼不受。

> もし菩薩が他者から恩恵を受けながら、怨恨の心をもって、同等かそれ以上の形で報いることをしなければ、それは多くの違犯を犯すこととなり、汚染された違犯となる。もし怠惰や懈怠による違犯であれば、それは汚染されていない違犯である。違犯とならない場合とは、方法を試みたが力が及ばなかった場合、先に述べたように方便を用いてその者を調伏しようとした場合、あるいは恩返しをしようとしたが相手が受け入れなかった場合である。

若菩薩見諸眾生有親屬難財物難，以嫌恨心，不為開解除其憂惱，是名為犯眾多犯。是犯染污起，若嬾墮懈怠犯，非染污起。不犯者，如前不同事中說。

> もし菩薩が、衆生に親類の災難や財産の災難があるのを見ながら、嫌悪や恨みの心を持って、彼らの苦しみや悩みを解いてあげようとせず、説法もしないならば、それは多くの戒律を破ることとなる。これは煩悩に染まった犯し方である。もし怠惰や怠慢による犯しであれば、煩悩に染まっていない犯し方となる。ただし、犯しとはならない場合もある。それは、先に述べたように、相手が教えに従わないなどの事情がある場合である。

若菩薩有求飲食衣服，以瞋恨心不能給施，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若自無、若求非法物、若不益彼物、若以方便令彼調伏如前說，若彼犯王法護王意故、若護僧制。

> もし菩薩が、飲食や衣服などを求める者に対して、怒りの心から施しを行わなければ、これは多くの過ちを犯すことになり、その過ちは汚れに染まった状態（染汚起）から生じます。もし怠け心や懈怠（けたい）によって施さなければ、それは汚れに染まらない状態（非染汚起）です。 ただし、次のような場合は犯さないとされます。自分に何もない場合、相手が不適切な物を求めている場合、その物が相手の利益にならない場合、あるいは先に述べたように相手を調伏するための方便を用いた場合、また相手が国の法律に触れたため、国王の意向を考慮した場合、あるいは僧団の規定を守るためである場合です。

若菩薩攝受徒眾，以瞋恨心，不如法教授，不能隨時從婆羅門居士所求衣食臥具醫藥房舍隨時供給，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠放逸犯，非染污起。不犯者，若以方便令彼調伏如前說、若護僧制、若病、若無力、若使有力者說、若彼有力多知識大德自求眾具、若曾受教自已知法、若外道竊法不能調伏。

> もし菩薩が弟子たちを引き連れて、怒りの心で正しく教えず、またバラモンや在家信者から衣・食・寝具・薬・住まいなどを適時に求めることも供養することもしなければ、それは多くの違犯を犯したことになり、汚れに染まった犯行である。もし怠け心や放逸からこれを行えば、汚れに染まらない犯行となる。 犯さない場合とは、先に述べたように方便を用いて彼らを調伏しようとする場合、あるいは僧団の規則を護るため、または病にある場合、力がない場合、あるいは力ある者に説かせる場合、その者が知識も多く大徳であり自ら必要な物を求める場合、あるいは以前に教えを受けていて自ら法を知っている場合、あるいは外道が密かに法を盗もうとする場合で彼らを調伏できないときである。

若菩薩以嫌恨心不隨他者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠犯，非染污起。不犯者，若彼欲為不如法事、若病若無力、若護僧制。若彼雖如法，能令多人起非法事。若伏外道故、若以方便令彼調伏。

> もし菩薩が、恨みや怒りの心から他の者の求めに応じないならば、それは多くの犯戒を犯すこととなり、これは煩悩に染まった罪となる。もし怠惰やなまけ心から犯したのであれば、それは煩悩に染まらない罪となる。 犯さない場合とは、もし相手が非法な行いをしようとする時、もし病にかかっている時、もし力がない時、もし僧団の規則を守ろうとする時である。また、相手の行いが法にかなっていても、それが原因で多くの人々が非法な行いを起こす場合。さらに、外道を打ち負かすため、あるいは方便を用いて相手を調伏させるための場合である。

若菩薩知他眾生有實功德，以嫌恨心，不向人說亦不讚歎，有讚歎者不唱善哉，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠放逸犯，非染污起。不犯者，知彼少欲護彼意故，若病若無力、若以方便令彼調伏、若護僧制。若令彼人起煩惱、起溢喜、起慢、起非義，除此諸患故。若實功德似非實德、若實善說似非善說、若為摧伏外道邪見、若待說竟。

> もし菩薩が、他の衆生が実際に功徳を持っているのを知りながら、嫌悪や恨みの心から、それを他人に伝えず、また称賛もせず、称賛する人がいても「よく言った」と唱えないならば、それは多くの犯戒を犯すこととなり、その犯戒は煩悩に染まったものとして生じる。もし怠惰や懈怠や放逸によって犯すならば、それは煩悩に染まらない犯戒である。 犯戒とならない場合：その人が少欲であることを知り、その気持ちを守るため。病気や力がないため。方便を用いてその人を調伏するため。僧団の規則を守るため。もしその人に煩悩、過度の喜び、慢心、非義が生じるのを防ぐため、これらの患いを取り除くため。実際の功徳が功徳に見えない場合。実際の善説が善説に見えない場合。外道の邪見を打ち破るため。話し終わるのを待つ場合。

若菩薩見有眾生應呵責者、應折伏者、應罰黜者，以染污心不呵責、若呵責不折伏、若折伏不罰黜，是名為犯眾多犯，是犯染污起。若嬾墮懈怠放逸犯，非染污起。不犯者，彼不可治、不可與語，難可教誨，多起嫌恨。若觀時，若恐因彼起鬪諍相違、若相言訟、若僧諍、若壞僧，若彼不諂曲有慚愧漸自改悔。

> もし菩薩が、叱責すべき者、折伏すべき者、追放すべき者を目にしながら、汚れた心を持って叱責せず、あるいは叱責しても折伏せず、折伏しても追放しないならば、それは多くの犯戒を犯したことになり、煩悩にまみれた犯戒となる。一方で、怠惰や放逸から犯した場合には、煩悩にまみれた犯戒とはならない。ただし、以下の場合は犯戒とはならない。すなわち、その者が救いがたく、言葉が通じず、教え導くのが難しく、恨みや怒りを多く抱いている場合。あるいは、時機を見極めている場合。または、そのために争いや対立、言い争い、僧団内の諍い、僧団の崩壊が起こるのを恐れる場合。あるいは、その者が邪曲ではなく、恥じる心を持ち、次第に自ら悔い改めようとしている場合である。

若菩薩成就種種神力，應恐怖者而恐怖之、應引接者而引接之，欲令眾生消信施故。若不以神力恐怖引接者，是名為犯眾多犯，是犯染污起。不犯者，若彼眾生更起染著、外道謗聖成就邪見，一切不犯。若彼發狂、若增苦受此事起菩薩戒。佛於處處修多羅中說，律儀戒、攝善法戒、攝眾生戒，律儀戒攝。此是菩薩藏摩得勒伽和合說，菩薩當精勤受持，起上恭敬專心修學，從他正受已極清淨欲學心、菩提心、利眾生心，從初受戒專精護持。若有所犯，即如法懺悔。此一切菩薩犯，當知突吉羅攝，當向大小乘人能解語、能受悔者如法懺悔。若菩薩以增上煩惱犯波羅夷處法者，失律儀戒，應當更受。若中煩惱犯波羅夷處法者，當向三人若過三人，長跪合掌作突吉羅懺悔，稱先所犯罪名，作是說言：「大德憶念！我某甲，捨菩薩毘尼。」如前所說事，犯突吉羅罪。餘如比丘突吉羅懺悔法說。若下煩惱犯波羅夷處法及餘所犯，向一人懺悔。若無如法人，當起清淨心念言：「我終不重犯此罪，於未來世中常攝持律儀戒。」若能如是所犯即除。若無如是具足功德人，可從受菩薩戒者。是菩薩應於佛像前自受，應如是受。整衣服偏袒右肩，右膝著地曲身合掌，作如是言：「我某甲白十方世界一切諸佛及入大地諸菩薩眾，我今於諸佛菩薩前受一切菩薩戒：律儀戒、攝善法戒、攝眾生戒。此諸戒是過去一切菩薩已學、未來一切諸菩薩當學、現在一切菩薩今學。」第二第三亦如是說。說已應起，餘如前說。若菩薩所犯無無餘犯，如世尊說菩薩起瞋煩惱犯應更受，非貪欲起。當知此意。菩薩起愛念眾生為增上，凡有所作一切能作，菩薩所作非作所作，犯應更受。菩薩瞋眾生者，不能自度度他，亦不能作菩薩所作。如是不作所作，犯應當更受。當知菩薩軟中上犯，如四攝品說。若菩薩於此律儀戒具足成就三正法者，得安樂住：一者方便具足；二者淨心具足；三者本因具足。菩薩於戒不穿漏，淨身口意業不數數犯，發露諸惡，是名方便具足。菩薩為法出家不為身命，為義為禪定、不為財利，為沙門為涅槃、不為非義不為懈怠，精進不退，不雜眾惡不善之法、煩惱受有熾然苦報及未來世生老病死，是名淨心具足。菩薩本餘生時，廣修諸善，於今不乏衣食床臥湯藥眾具，能修惠施，是名本因具足。住律儀戒菩薩具足三正法者，是名安樂住；與此相違，是名具足三不正法戒，當知苦住。是名略說。廣說在家出家一切戒，此一切戒當知分別為難戒等。

> もし菩薩が種々の神通力を成就したならば、怖れさせるべき者には怖れさせ、導くべき者には導きなさい。それは、衆生が布施や信じる心を清めるためです。もし神通力によって怖れさせたり導いたりしなければ、それは多くの過ちを犯すこととなり、その過ちは汚れから生じたものです。 ただし、以下の場合は犯しません。もしその衆生がさらに執着を起こしたり、外道が聖者を誹謗して邪見を成就させる場合、全て犯しません。また、もしその者が発狂した場合、あるいは苦しみが増す場合、このことから菩薩戒が起こります。 仏はあらゆる経典の中で、律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒という三つの戒を説かれました。その中で律儀戒がこれらを統括します。 これは菩薩蔵の摩得勒伽（論蔵）に基づいて総合して説かれたものです。菩薩は精進し努力してこれを受け持ち、深い敬意を起こし専心に修学し、他者から正しく戒を受け、極めて清らかな学びの心、菩提心、衆生を利益する心をもって、最初に戒を受けてからは専らに精を出して守り持ちなさい。 もし過ちを犯したならば、即座に法の如く懺悔しなさい。これらの菩薩の全ての過ちは、突吉羅（軽い罪）に含まれると知るべきであり、大小乗の法を理解し、懺悔を受けられる人に向かって、法の如く懺悔しなさい。 もし菩薩が増上煩悩によって波羅夷（重罪）の法を犯したならば、律儀戒を失うので、改めて受け直すべきです。中程度の煩悩によって波羅夷の法を犯したならば、三人またはそれ以上の人に向かい、長跪して合掌し、突吉羅の懺悔を行い、先に犯した罪の名を唱えて、こう言いなさい。「大徳よ、私、某甲は菩薩毘尼（戒律）を捨てました」。前述のように、突吉羅の罪を犯したことを。残りは比丘の突吉羅懺悔の作法と同様です。 下位の煩悩によって波羅夷の法やその他の過ちを犯したならば、一人に向かって懺悔しなさい。もし適切な人がいないならば、清らかな心を起こして、「私は決して再びこの罪を犯さない。未来世において常に律儀戒を受け持とう」と念じなさい。このようにすれば、その過ちは除かれます。 もしこのような功徳を具えた人がおらず、菩薩戒を受けられる人もいない場合は、菩薩は仏像の前で自ら戒を受けなさい。次のように受けるのです。衣を整え、右肩を偏袒し、右膝を地につけ、身をかがめて合掌し、こう言いなさい。「私、某甲は、十方世界の一切の諸仏および大地に住する諸菩薩の前で、今、一切の菩薩戒を受けます。律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒です。これらの戒は、過去の一切の菩薩が既に学び、未来の一切の菩薩が学ぶべきものであり、現在の一切の菩薩が今学んでいるものです。」二度目、三度目も同様に唱えなさい。唱え終わったら立ち上がり、残りは前述の通りです。 もし菩薩の犯す過ちに無余の過ちがないならば、世尊がおっしゃったように、菩薩は瞋りの煩悩から起こる過ちを犯した場合、改めて受け直すべきであり、貪欲から起こる場合はそうではありません。この意味を知るべきです。菩薩は衆生への愛念を増上とし、あらゆる行いを全て行うことができます。菩薩のなす行為は、作為によるものではなく、過ちを犯したならば改めて受け直すべきです。菩薩が衆生に対して瞋りを起こすならば、自らも他者も度することができず、また菩薩のなすべき行為もできません。このように作為しない行為は、過ちであり、改めて受け直すべきです。 菩薩の軟らかい、中くらい、重い過ちについては、四摂品の説く通りだと知るべきです。 もし菩薩がこの律儀戒において、三つの正しい法を具足して成就するならば、安楽に住することができます。一つ目は方便の具足、二つ目は清浄心の具足、三つ目は根本因の具足です。 菩薩が戒に欠けることなく、身口意の業を清らかにし、度々過ちを犯さず、諸々の悪を発露すること、これを方便の具足と名づけます。 菩薩が法のために出家し、身命のためではなく、義（真理）と禅定のためであり、財利のためではなく、沙門（修行者）と涅槃のためであり、非義や懈怠のためではなく、精進して退かず、衆悪や不善の法、煩悩や熾烈な苦報、未来世の生老病死に混ざらないこと、これを清浄心の具足と名づけます。 菩薩が前世において広く諸々の善を修め、今世において衣食、寝具、薬などの道具に不足せず、布施をよく行うこと、これを根本因の具足と名づけます。 律儀戒に住する菩薩が三つの正しい法を具足するならば、これを安楽の住と名づけます。これに反するならば、三つの正しくない法の戒を具足すると言い、苦しみの住であると知るべきです。 これが概要です。広く説けば、在家と出家の一切の戒があります。これら一切の戒は、分別すれば難戒などとなることを知るべきです。

難戒者，略說三種。菩薩具足大財大勢力，能捨出家受菩薩戒，是名第一難戒。菩薩若遭急難乃至失命，於所受戒不令缺減，況具足犯，是名第二難戒。菩薩於一切修行、一切正受、一切憶念，心住不亂，乃至盡壽，於細微戒終不缺減，何況重者，是名第三難戒。一切門戒者有四種：一者正受戒；二者性戒；三者習戒；四者方便成戒。正受戒者，菩薩已受三種律儀戒，所謂律儀戒、攝善法戒、攝眾生戒。性戒者，菩薩性自賢善，身口意淨。習戒者，菩薩本餘生時，如所說三種戒已曾修習，以本因故，一切惡不樂行，心常厭惡、樂修善行。方便成戒者，菩薩依四攝事，於諸眾生行善身口業。善人戒者有五種：一者自持淨戒；二者授與他人；三者讚歎淨戒；四者見同法者心生歡喜；五者設有毀犯如法悔除。一切行戒者，彼六種七種，一向略說十三種迴向大菩提，廣攝戒故，是名為廣。樂著欲樂、自身苦行，離此二邊故，是名無罪歡喜之處。盡其壽命常不還戒，一切利養行、外道邪論、煩惱諸纏不能侵欺故，亦不能奪故，是名堅固戒，莊嚴成就故。當知戒莊嚴，謂聲聞地離殺生等律儀戒、攝善法戒、攝眾生戒，順戒不順戒、護隨護戒、大人相報、增上意報、善趣報、利眾生報。除惱戒者有八種，菩薩初作是思惟：「如我不欲令他殺盜邪婬、妄語兩舌惡口綺語、手石杖等觸惱於我，如我不欲不喜，彼亦如是，云何以此加於他人？」以是故不惱於彼，乃至不加手石杖等觸。作是思惟已，不以八事觸惱眾生，是名菩薩除惱戒。

> 困難な戒律とは、大まかに言って三つの種類があります。第一の困難な戒律とは、菩薩が十分な財産や大きな勢力を備え、それを捨てて出家し、菩薩戒を受けることができることをいいます。第二の困難な戒律とは、菩薩が危急の難に遭い、命を失うような状況にあっても、受けた戒を欠かせたり減らしたりせず、ましてや完全に犯すことなどないことをいいます。第三の困難な戒律とは、菩薩があらゆる修行、あらゆる正しい受持、あらゆる憶念において心を落ち着けて散乱させず、生涯の終わりまで細かい戒であっても決して欠かさず、ましてや重い戒においてはなおさらであることをいいます。 あらゆる門の戒律には四種類あります。一つ目は正受戒、二つ目は性戒、三つ目は習戒、四つ目は方便成戒です。正受戒とは、菩薩がすでに三種の律儀戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒を受けたことをいいます。性戒とは、菩薩が生まれつき賢く善良で、身・口・意が清らかであることをいいます。習戒とは、菩薩が過去世において、上に説いた三種の戒をすでに修習してきたことにより、その因縁によって一切の悪を好まずに行い、心は常に厭離し、善行を修めることを楽しむことをいいます。方便成戒とは、菩薩が四摂事に基づいて、あらゆる衆生に対して善い身・口の業を行うことをいいます。 善人の戒律には五つの種類があります。一つ目は自ら清らかな戒を保つこと、二つ目はそれを他の人に授けること、三つ目は清らかな戒を讃嘆すること、四つ目は同じく法を修行する人を見て心に喜びを生じること、五つ目はもし戒を破ることがあれば、法に従って懺悔して除き去ることです。 あらゆる行の戒律とは、それら六種・七種を、大まかにまとめて十三種とし、大菩提へと回向するものですが、戒を広く含摂するがゆえに、これを広いといいます。欲望の楽しみに執着することと、自身を苦行で苦しめること、この両極端を離れているがゆえに、これを罪なく喜びのある境地といいます。生涯を尽くして決して戒を捨てず、あらゆる利益や修行、外道の誤った論、煩悩の束縛によっても侵されず奪われないがゆえに、これを堅固な戒といい、荘厳が成就するからです。戒の荘厳とは、声聞地における殺生などを離れる律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒、戒に従うことと従わないこと、戒を守り随順すること、大人の相という報い、増上の意という報い、善趣という報い、衆生を利益するという報いであると知るべきです。 悩みを除く戒律には八つの種類があります。菩薩はまず次のように思惟します。「私が他人に殺されたり、盗まれたり、邪淫されたり、妄語・両舌・悪口・綺語をされたり、手や石や杖などで触れられて悩まされることを望まないように、私が好まないことを彼らもまた好まないのに、どうしてこれを他人に行うことができるだろうか？」と。このように考えるがゆえに、彼らを悩ませず、手や石や杖などで触れることさえもしません。このように思惟して、八つの事柄によって衆生を悩ませないこと、これを菩薩の悩みを除く戒といいます。

此世他世樂戒者，有九種：菩薩遮處則遮、開處則開、攝處則攝、應降伏者則降伏之。菩薩於彼身口業是四種戒。又檀波羅蜜俱戒，羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禪波羅蜜、般若波羅蜜俱戒，是五種戒。如是略說九種戒。是菩薩自己及他，現法樂住及後世樂，是故說名此世他世樂戒。

> この世とあの世で楽をもたらす戒めには、九つの種類があります。菩薩は、禁じるべきところは禁じ、許すべきところは許し、引き受けるべきところは引き受け、調伏すべき者は調伏します。菩薩にとって、これら身とことばの行いに関する四つの戒めがあります。 また、布施波羅蜜を伴う戒め、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜、智慧波羅蜜を伴う戒め、この五つの戒めがあります。 このように簡潔に述べると、九つの戒めとなります。これらの戒めは、菩薩自身と他者のために、現世での安らかな暮らしと来世での楽をもたらします。だからこそ、「この世とあの世で楽をもたらす戒め」と呼ばれるのです。

清淨戒者有十種：一者初善受戒，為沙門、為菩提，不為身命。二者終不退減起於疑悔。三者不過持戒起非處疑悔故。四者離諸懈怠不樂睡眠，日夜精勤成就善法。五者攝心不令放逸，如前不放逸說。六者修習正願，不願財利及生天上，常修梵行。七者攝持威儀，善於威儀所作眾事，方便修習善，如法身口行正命具足，諂曲邪命種種過惡皆悉遠離。八者離於二邊，離隨順欲樂及諸苦行故。九者修習出要，異學諸見皆悉遠離。十者於所受戒不缺不減。此十種名清淨戒，是名菩薩大戒聚得菩提果。菩薩依此戒已，滿足尸波羅蜜，得阿耨多羅三藐三菩提。乃至未成無上正覺，得五種福利：一者常為一切諸佛所念；二者終時其心歡喜；三者捨身在所生處，常與淨戒諸菩薩眾為善知識；四者無量功德聚戒度成就；五者今世後世性戒成就。如前所說，自性等九種戒，當知三戒所攝，所謂律儀戒、攝善法戒、攝眾生戒。又復三種，略說能為菩薩三事：一者律儀戒，能令心住；二者攝善法戒，自成佛法；三者攝眾生戒，成就眾生。是名菩薩一切事。所謂現法心得樂住身心不惓，能具足佛法、成就眾生，是名菩薩戒，是名戒福。是菩薩所作無餘無上，過去一切諸菩薩等求大菩提已於中學，未來當學，現在今學。

> 清らかな戒には十の種類があります。 一つ目は、最初から善い心で戒を受け、沙門として、また悟りのために受けるのであって、自分の生命や名声のためではないこと。 二つ目は、途中で退き減ったり、疑いや後悔を起こしたりしないこと。 三つ目は、戒を過度に守ろうとして、守るべきでないところで疑いや後悔を起こさないこと。 四つ目は、様々な怠けを離れ、睡眠を好まず、昼も夜も努力して善い行いを成就すること。 五つ目は、心を集中させて放逸にせず、先に述べた放逸しないための教えの通りにすること。 六つ目は、正しい願いを修行し、財産や利益、そして天に生まれることを願わず、常に清らかな行い（梵行）を実践すること。 七つ目は、身のこなしや振る舞いを正しく保ち、あらゆる行いに精通し、状況に応じて善を修行すること。法に適った正しい行いによって、身と口の行いを整え、正しい生活を完全に具え、お世辞やごまかしなど様々な誤った生き方をすべて遠ざけること。 八つ目は、二つの極端を離れること。すなわち、欲望や快楽に従うことと、苦しい行いをすることの両方を離れること。 九つ目は、迷いの世界を出離するための修行を実践し、他の学問や間違った見解をすべて遠ざけること。 十つ目は、受けた戒を欠かさず、減らさないこと。 この十の種類を、清らかな戒といいます。これこそが菩薩の大いなる戒の集まりであり、悟りの果実を得るものです。菩薩はこの戒に依って波羅蜜（戒完成）を満たし、最高の悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を得ます。たとえ無上の正しい悟りを成就するまでは、次の五つの利益を得ます。 一つ目は、常にすべての仏に心に掛けられること。 二つ目は、命終の時に心が喜びに満ちていること。 三つ目は、身を捨てて生まれる場所では、常に清らかな戒を保つ菩薩たちと善き友人になれること。 四つ目は、無限の功徳の集まりである戒が完成すること。 五つ目は、今の世も後の世も、生まれながらにして戒が成就していること。 先に述べた、自性戒などの九つの戒は、三つの戒に含まれると知るべきです。すなわち、律儀戒（規則を守る戒）、摂善法戒（善い行いを積む戒）、摂衆生戒（人々を導く戒）です。 さらに、この三つの戒は、簡単に言えば菩薩の三つの働きのためのものです。 一つ目、律儀戒は、心を落ち着かせることができます。 二つ目、摂善法戒は、自らの仏法を完成させます。 三つ目、摂衆生戒は、人々を悟りに導きます。 これらを、菩薩のすべての働きといいます。すなわち、今の心に安らかに住み、疲れを知らず、仏法を完全に具え、人々を成就させること。これを菩薩の戒といい、戒の功徳といいます。これは、菩薩の行いとして、余すところなく、この上ないものです。過去のすべての菩薩たちは、大いなる悟りを求めて、すでにこの戒を学び、未来の菩薩たちも学び、現在の菩薩たちも学んでいます。

## 菩薩地持經卷第五

> 菩薩地持経 巻第五