---
title: "菩薩地持經 · 15 四攝品"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwlagzx11sxl704v4c38haa"
---

## 菩薩地持經卷第七

> 菩薩地持経 巻第七

北涼中印度三藏曇無讖於姑臧譯

> 北涼・中インド三蔵 曇無讖 姑臧にて訳す

### 菩薩地持方便處四攝品第十五

> 菩薩地持方便処 四摂品 第十五

云何菩薩愛語？略說有九種：一者自性愛語；二者一切愛語；三者難愛語；四者一切門愛語；五者善人愛語；六者一切行愛語；七者除惱愛語；八者此世他世樂愛語；九者清淨愛語。

> 菩薩の愛語とは何でしょうか。簡潔に言えば、九つの種類があります。第一に、本来の性質としての愛語。第二に、あらゆる場面での愛語。第三に、難しい状況での愛語。第四に、すべてのきっかけでの愛語。第五に、善人による愛語。第六に、あらゆる行いにおける愛語。第七に、悩みを取り除く愛語。第八に、現世と来世の幸せをもたらす愛語。第九に、清らかな愛語です。

云何菩薩自性愛語？是菩薩可喜真實如法義饒益語與眾生語，是名略說菩薩自性愛語。

> では、菩薩の本性としての愛語とは何か。 菩薩は、喜ばしく、真実で、法にかなった、意味ある、利益となる言葉を衆生に語る。 これを、簡潔に説くならば、菩薩の本性としての愛語という。

云何菩薩一切愛語？略說有二種。菩薩慰問舒顏先語，平視和色正念在前，問言道路清泰、四大調適、臥覺安樂，歎言善來。如是等等心慰問，隨順世間巧便語言安慰問訊。或復呪願，令妻子眷屬錢財穀米增長具足。見功德具足者，歎其信戒施聞智慧令其歡喜。菩薩說一切種功德相應法安樂眾生，常說等說第一勝妙饒益言說，是名菩薩一切愛語。菩薩愛語二種分別：隨世間語及正說法語。慰問讚歎者是名隨世間語；第一勝妙饒益說者是名正說法語。

> 菩薩の全ての愛語とは何でしょうか。簡単に言えば、二種類あります。 まず菩薩は、慰めや問いかけの際に、和やかな表情で相手と視線を合わせ、心を落ち着けて先に言葉をかけます。「道中はいかがでしたか」「お体の調子は良いですか」「お眠りや目覚めは安らかでしたか」と尋ね、または「よく来てくださいました」と喜びを伝えます。このように、相手を心から気遣い、世間の慣習に沿った巧みな言葉で慰め、安否を尋ねるのです。 また、相手の家族や財産、収穫がますます豊かになるようにと祈りの言葉を述べることもあります。すでに多くの徳を備えた人には、その信仰心や道徳、施し、教えの学び、智慧などを称えて喜ばせます。 菩薩は、あらゆる種類の功徳に適った真理に基づく教えを説き、人々を安楽へと導きます。これを常に語り、平等に語り、最も優れた有益な言葉として伝えるのです。これが菩薩の全ての愛語と呼ばれます。 菩薩の愛語には、さらに二つの種類があります。すなわち、世俗に沿った言葉と、正しい教えを説く言葉です。慰めや称賛の言葉が世俗に沿ったものに当たり、最も優れた有益な教えを説く言葉が正しい教えの言葉です。

云何菩薩難愛語？略說三種。菩薩於怨家所，以清淨心思惟慰喻，發喜饒益而共言說，是名第一難愛語。菩薩於增上愚癡鈍根眾生，以無厭心思惟籌量而為說法，忍諸疲勞以法攝取為具足說，是名第二難愛語。菩薩於諂曲幻偽眾生、欺和上阿闍梨及尊重福田、或背正向邪，以無害心方便慰喻，發喜饒益而為說法，是名第三難愛語。

> どのような菩薩が困難な「愛語（愛ある言葉）」を実践するのでしょうか。簡単に述べると、次の三つの場合があります。 第一に、菩薩は自らに恨みを持つ者に対し、清らかな心で思いやりをもってねぎらい、喜びを与え、利益をもたらすように語りかけます。これが第一の困難な愛語です。 第二に、菩薩は非常に愚かで鈍感な人々に対し、飽くことのない心で注意深く考えながら教えを説き、疲れをいとわずに導き、完全に理解できるよう教示します。これが第二の困難な愛語です。 第三に、菩薩は心がねじ曲がり、偽りのある者、教師や指導者、また敬うべき功徳の対象を欺いたり、正しい道から邪な方向へ背く者に対し、害を与えない心で思いやりのある方法でねぎらい、喜びを与え、利益をもたらすように教えを説きます。これが第三の困難な愛語です。

云何菩薩一切門愛語？略說四種：一者斷除諸蓋向於善趣，說初所作法。二者斷除諸蓋實心增進，說應四真諦法。三者見放逸眾生在家出家，等心呵責令離放逸住不放逸。四者已起疑惑能為開解，若說法若決定論。

> 菩薩の「すべてを包む慈しみの言葉」とは何でしょうか。簡単に言うと、四つの種類があります。 第一に、心の覆い（五蓋）を取り除き、善い境遇へ向かうために、初めて行うべき修行の教えを説くこと。 第二に、心の覆いを断ち切った者が、さらに真実の心を高めていけるよう、四つの聖なる真理（四聖諦）にかなう教えを説くこと。 第三に、在家も出家も問わず、心が怠けている人々を見たら、同じ心で諭し戒め、怠りを離れ、正しい心を保つように導くこと。 第四に、すでに疑いを抱いている人には、それを解消するために、教えを説いたり確かな道理を示したりすること。

云何菩薩善人愛語？略說五種：一者是菩薩說諸佛菩薩正因調伏法；二者正出；三者正依；四者正度；五者正示現。處所因緣制戒，是故此法名為正因。於所受戒有所毀犯教令還淨，是故此法名為正出。說四依所攝不顛倒法律至處道，是故此法名為正依。顯示出一切苦不退還道，是故此法名為正度。三種示現於一切說無礙，是故此法名為正示現。

> では、菩薩の素晴らしい言葉とは、どのようなものでしょうか？大きく分けて五つの種類があります。 第一に、諸仏や菩薩が説く、正しい因と調伏の法です。 第二に、正しく過ちを出離することです。 第三に、正しく依拠することです。 第四に、正しく救い渡すことです。 第五に、正しく示し現すことです。 具体的には、状況や因縁に応じて戒律を定めることから、この法を「正しい因」と呼びます。 もし受けた戒律を破ってしまった場合、それを清らかに戻すよう教えることから、この法を「正しい出離」と呼びます。 四依に基づき、道理にかなった法と、苦しみを離れる道を説くことから、この法を「正しい依拠」と呼びます。 あらゆる苦しみから退くことなく抜け出る道を示すことから、この法を「正しい救い」と呼びます。 三種の示現によって、一切の説法に滞りがないことから、この法を「正しい示現」と呼びます。

云何菩薩一切行愛語？謂六種七種，略說十三種：聽所應聽法愛語、制所應制法愛語、現諸經法愛語、現諸法相愛語、現諸法名字不顛倒愛語、法句種種分別愛語、慰喻愛語、發喜愛語、自恣安以眾具代其所作虛受普納愛語、種種恐怖施安愛語、具足說法攝取愛語、開覺不善法安立善法見聞疑舉罪折伏愛語、勸有力說法者愛語。如是十三種，名為一切行愛語。

> では、菩薩のあらゆる行いにおける愛語とは何か。それは、六種類、七種類、簡潔にまとめて十三種類ある。 すなわち、 聴くべき法を聴くための愛語、 制すべき法を制するための愛語、 諸々の経典の法を説き示す愛語、 諸々の法の本質を説き示す愛語、 諸々の法の名辞を正しく伝える愛語、 法の句を様々に分別して説く愛語、 慰め励ます愛語、 喜びを引き起こす愛語、 自由に振る舞わせ、必要な道具を備え、相手のなすことに代わり、広く受け入れ包み込む愛語、 様々な恐怖から救い、安らぎを施す愛語、 完全な教えを説いて人を導く愛語、 不善を目覚めさせて捨てさせ、善を安立させ、見たり聞いたり疑ったりした過ちを指摘し折伏する愛語、 説法力のある者を勧めて説かせる愛語。 以上の十三種類が、あらゆる行いにおける愛語と呼ばれる。

云何菩薩除惱愛語？略說八種。是菩薩依口四淨八種聖語，是名除惱愛語。口四淨者，離妄語、兩舌、惡口、綺語。八種聖語者，見聞覺知說、不見不聞不覺不知說。

> 菩薩がどのように悩みを取り除く慈悲ある言葉を使うのか、簡単に言うと八つの種類があります。この菩薩は、口の四つの清らかさと八つの聖なる言葉に従うことで、これを悩みを取り除く慈悲ある言葉と呼びます。口の四つの清らかさとは、嘘をつかないこと、両舌（仲違いさせる言葉）を使わないこと、悪口を言わないこと、綺語（無意味な言葉）を話さないことです。八つの聖なる言葉とは、見たこと、聞いたこと、感じたこと、知ったことを語ること、また、見ていないこと、聞いていないこと、感じていないこと、知らないことを語ることです。

云何菩薩此世他世樂愛語？略說九種：一者斷親屬難憂苦故愛語說法；二者斷財物難憂苦故愛語說法；三者斷疾病難憂苦故愛語說法；四者斷戒難憂苦故愛語說法；五者斷見難憂苦故愛語說法；戒具足、見具足、威儀具足、正命具足故愛語說法。

> では、菩薩がこの世とあの世の両方で喜びをもたらす「愛語（あいご）」とはどのようなものでしょうか。簡単に言えば、次の九つの種類があります。 一つ目は、家族や親しい人との別れの苦しみから救うための愛語の説法です。 二つ目は、財産を失う苦しみから救うための愛語の説法です。 三つ目は、病の苦しみから救うための愛語の説法です。 四つ目は、戒めを守れない苦しみから救うための愛語の説法です。 五つ目は、正しい見解を持てない苦しみから救うための愛語の説法です。 また、戒めを完全に守り、正しい見解を身につけ、礼儀正しい振る舞いを備え、清らかな生活を送るために、愛語による説法が行われます。

云何菩薩清淨愛語？當知有二十種說法，如前力種性品說。

> 菩薩の清らかな愛語とは何か。それは、先に力種性品で説いたように、二十種類の教え方があると知るべきである。

云何菩薩行利？彼行利者，如愛語廣說；異行利今當說。謂菩薩一切種愛語，隨所說義利安眾生。云何菩薩自性行利？是愛語具足顯示眾生如所應學隨利行行法次法向，住於悲心心無貪著，勸導教授調伏安立，是名略說自性行利。

> 菩薩の利行とは何でしょうか。愛語についてすでに広く説きましたので、ここでは異なる利行についてお話しします。菩薩が一切の愛語を用いて衆生を導くとき、その言葉の意味するところに従って、彼らを真の利益へと導きます。 では、利行の本質（自性）とは何でしょうか。それは、愛語を完全に具現し、衆生が学ぶべき道を、それぞれの立場に応じて示すことです。そして、その教えに沿って実践し、法に従い、法に向かって進むよう導きます。さらに、慈悲の心に安住し、執着のない心で、勧め、教え導き、心を調え、安らかな境地に定めます。これが、利行の本質の略説です。

云何菩薩一切行利？略說二種：一切眾生未熟者方便令熟、已熟者令至解脫。又說三種：一者與現世利；二者與後世利；三者與現世後世利。勸令眾生如法德業，獲大財富守護增長與現世利樂。於此現世得大名稱及眾具樂，攝受安立勸捨大財，非家出家乞求活命與後世利樂。以必定得故現則不定，勸在家出家次第離欲，是名現世後世利樂。於此現世身心止息安隱樂住，後世則生淨妙天上及無餘涅槃界而般涅槃。

> 菩薩の行いによる利益とは何でしょうか。簡単に言えば二つあります。まだ悟りを得ていない衆生には、そのための方法を施して悟りへ導くこと。すでに悟りを得た者には、完全な解脱に至らせることです。 また、別の分類では三つあります。第一に、現世での利益を与えること。第二に、来世での利益を与えること。第三に、現世と来世の両方の利益を与えることです。 衆生に善い行いを勧め、功徳を積ませることで、大きな富を得させ、それを守り育て、現世での安楽をもたらします。この現世で良い名声を得て、様々な楽しみを得られるよう導き、大きな財産を捨てて、家庭を離れ、出家して乞食（こつじき）によって生きることを勧めます。これは来世での利益と安楽をもたらします。なぜなら、来世での利益は確かに得られるのに対し、現世のものは不確定だからです。 在家と出家の人のために、順を追って煩悩から離れることを勧めます。これを現世と来世の両方の利益と安楽と言います。こうすれば、この現世で心身が安らぎ、穏やかに暮らすことができ、来世では清らかな天界や、完全な涅槃の境地に至るのです。

云何菩薩難行利？略說三種。若眾生本來不修善因而能行利，是名第一難行利，謂苦勸化故。若本修善根得大財寶，深起貪著而能行利，是名第二難行利，謂彼大放逸處故。外道異學著本邪見而能行利，是名第三難行利，謂彼愚癡極違正法故。

> 菩薩の難しい施しとは何か。簡単に言うと三つある。 一つ目は、元々善行を積んでいない衆生に対して施しを行うことである。これは難しい。なぜなら、彼らを教化するのに苦労するからだ。 二つ目は、善根を積んで大きな財宝を得た者が、それに深く執着しているにもかかわらず施しを行うことである。これは難しい。なぜなら、彼らは大きな安逸の境にいて執着が強いからだ。 三つ目は、外道や異なる学問を持つ者で、誤った見解に固執している者に対して施しを行うことである。これは難しい。なぜなら、彼らは愚かで、正しい教えに著しく背いているからだ。

云何菩薩一切門行利？略說四種：一者是菩薩不信者勸令生信乃至建立；二者惡戒者勸修淨戒；三者惡慧者勸修正慧；四者慳者勸修惠施乃至建立。

> 菩薩による「すべてを包み込む利他の行い」とは、簡単に言えば四つの形があります。 第一に、仏法を信じない人に、信じる心を起こさせ、それをしっかりと確立させること。 第二に、悪い行いを戒めない人に、清らかな戒律を守るよう促すこと。 第三に、智慧（正しい見方）のない人に、正しい智慧を身につけさせること。 第四に、物惜しみする人に、施し（惠施）の行いを勧め、それを確立させることです。

云何菩薩善人行利？略說五種：一者是菩薩於眾生真實利與；二者時與；三者義饒益與；四者柔軟與；五者慈心與。

> 菩薩の「善い行い」としての利益とは、簡単に言うと五つの種類があります。 一つ目は、菩薩が生きとし生けるものに対して、本当の意味での利益を与えることです。 二つ目は、適切な時に与えることです。 三つ目は、真のためになる利益を与えることです。 四つ目は、優しく与えることです。 五つ目は、慈しみの心から与えることです。

云何菩薩一切行行利？謂六種七種，略說十三種。是菩薩應攝等攝、應伏等伏，違佛法者除其障礙，中住眾生令入法律，已入者以三乘法而成熟之，已成熟者令得解脫。眾具護養勸導成熟，所謂勸捨小乘守護大乘，如眾具護養。如是獨靜一心淨諸障礙，憶念及修勸令成就。有聲聞緣覺種性者，以聲聞緣覺乘而成就之；有如來種性者，以無上菩提而成就之。

> 菩薩のあらゆる行いがどのように利益となるのでしょうか。 それは六種と七種、略して十三種にまとめられます。 菩薩はこれらを適切に取り入れ、適切に整え、適切に守り、適切に導くべきです。 仏法に反するものについては、その障害を取り除き、 迷いの中にある人々を教えと戒めに導き入れます。 すでに入った人々には、三つの乗り物によって成熟させ、 成熟した人々には、解脱を得させます。 必要なものを備え、守り、養い、導き、成熟させます。 すなわち、小乗を捨てさせ、大乗を守るよう勧めます。 このように必要なものを備え、守り、養うように、 静かに独りで心を清め、すべての障害を除き、 心に留めることと修行を勧めて成就させます。 声聞や縁覚の種性を持つ人には、声聞乗や縁覚乗によって成就させ、 如来の種性を持つ人には、無上の菩提によって成就させます。

云何菩薩除惱行利？略說八種。若有眾生所應慚處令捨無慚纏，以得開覺如無慚纏。如是無愧纏、睡纏、眠纏、掉纏、悔纏、慳纏、嫉纏，悉令開覺亦復如是。

> 菩薩の悩みを除き利益する行いとは、簡潔に言えば八つの種類があります。 もし、恥じるべき場面で恥じる心（無慚）に絡め取られている众生がいたなら、その絡まりから解放させ、目覚めさせるように導きます。無慚の絡まりだけでなく、同様に、恥じない心（無愧）、眠気（睡）、深い眠り（眠）、落ち着きのなさ（掉）、後悔（悔）、物惜しみ（慳）、嫉妬（嫉）の絡まりも、すべてそのようにして、目覚めさせるのです。

云何菩薩此世他世樂行利？略說九種。普令眾生身業清淨，謂授一切種不殺生、一切種不盜、一切種不邪婬、一切種不飲酒。普令眾生口業清淨，謂授一切種不妄語、一切種不兩舌、一切種不惡口、一切種不綺語。普令眾生意業清淨，謂授無貪、無恚正見。

> 菩薩がこの世と来世において、どのようにして生きとし生けるものを利益し、楽しみをもたらすのでしょうか？簡単に言えば、九つの教えがあります。すべての生きとし生けるものの身体の行為を清らかにするために、次のことを教えます。殺さないこと、盗まないこと、正しくない性的関係を持たないこと、酒を飲まないこと。すべての生きとし生けるものの言葉の行為を清らかにするために、次のことを教えます。嘘をつかないこと、仲違いをさせる言葉を言わないこと、乱暴な言葉を言わないこと、無意味な言葉を言わないこと。すべての生きとし生けるものの心の行為を清らかにするために、次のことを教えます。むさぼりの心を持たないこと、怒りの心を持たないこと、正しい見解を持つこと。

云何菩薩清淨行利？略說十種：五種外清淨、五種內清淨。五種外清淨者，一者無罪；二者不隨轉；三者次第；四者一切；五者如其所應。雜惡行者、先惡行者、一向惡行者等，以善法而成就之，是名無罪利安眾生。樂解脫者勸令解脫，是名不隨轉利安眾生。童蒙眾生，先說麁法麁近教誡而隨順之。知中智者，為說中法中教誡而隨順之。勝智慧者，為說深法微細教誡而隨順之。令其次第漸得善法，是名次第利安眾生四性。乃至天人一切眾生，隨能隨力利益安樂，是名一切利安眾生。下善中善上善者，隨其所應方便利安，是名如其所應。是名五種外清淨行利。五種內清淨者，是菩薩廣住悲心利安眾生；是菩薩忍一切苦而不懈惓，心常歡喜利安眾生；是菩薩以自在身，謙卑忍下猶如僕使亦如孝子如旃陀羅子，離諸我慢利安眾生；是菩薩離於利養心不虛偽，心存勝妙利安眾生；是菩薩於究竟處終不退轉，常以慈心利安眾生。是名菩薩五種內清淨。如是內外五種清淨，是名十種清淨利安眾生。云何菩薩同利？是菩薩此義此善若等若勝，授與眾生悉與己同，是名菩薩與眾生同利。菩薩得此同利，調伏眾生堅固決定，終不退轉於勸授善法。何以故？彼作是念：「是菩薩與我同利，必能令我安隱快樂。以是菩薩所授我者自修行故，非不樂因而自修行。」若以同利教授眾生，彼終不言：「汝自不行，云何勸授教誡他人？汝應從他諮受教誡。」

> 菩薩の清らかな利益行とは何か。簡潔に言えば十種類あり、五つの外的清らかさと五つの内的清らかさから成る。 外的清らかさの五つとは、第一に過ちがないこと、第二に他に流されないこと、第三に段階を踏むこと、第四に全てを網羅すること、第五に相手に応じることである。悪行にまみれた者、過去に悪行を積んだ者、一貫して悪行に染まった者などを、善い行いによって成就させる。これを「過ちなき利益による衆生の安らぎ」という。解脱を求める者には解脱するよう勧める。これを「他に流されない利益による衆生の安らぎ」という。無知な衆生には、まず粗い教えや簡易な教えを示してそれに従わせる。中程度の智慧を持つ者には、中程度の教えと教戒を示して従わせる。優れた智慧を持つ者には、深い教えと微細な教戒を示して従わせる。段階を追って善い法を得させる。これを「段階的な利益による衆生の安らぎ」という。四つの身分の者や天人のような全ての衆生に対して、その能力に応じて利益と安らぎを与える。これを「全てを網羅する利益による衆生の安らぎ」という。下の善、中の善、上の善を持つ者に、それぞれにふさわしい方法で利益と安らぎを与える。これを「相手に応じた利益による衆生の安らぎ」という。これらが五つの外的清らかな利益行である。 内的清らかさの五つとは、菩薩が広く悲しみの心を持って衆生を利益し安らげること、菩薩が一切の苦しみを耐え忍び、倦むことなく心から喜んで衆生を利益し安らげること、菩薩が自在の身を持ちながらも謙虚で、召使いのようであり、また孝行な子や旃陀羅の子のように振る舞い、我慢を離れて衆生を利益し安らげること、菩薩が利得を求めず心に偽りがなく、殊勝で優れた心を保って衆生を利益し安らげること、菩薩が究極の境地において決して退転せず、常に慈しみの心で衆生を利益し安らげることである。これらが菩薩の五つの内的清らかさである。 こうした内と外の五つの清らかさを合わせて、十種の清らかな利益による衆生の安らぎという。 では、菩薩の「共に利益する」とは何か。菩薩は、この教えや善い行いを、自分と同じかそれ以上に、衆生に与え分かち合う。これを菩薩の「衆生との利益の共有」という。菩薩はこの共有の利益を得て、衆生を調伏し、固く決意し、善い法を勧め授けることにおいて決して退転しない。なぜか。彼はこう思うからである。「この菩薩は私と利益を共有している。必ずや私を安らかに幸せにしてくれるだろう。この菩薩が私に授けてくれるものは、自ら修行して得たものであり、楽しくないから修行したわけではないのだ。」もし共有の利益によって衆生を教え導けば、彼は決してこう言うことはない。「あなた自身が行っていないのに、どうして他人に勧め教戒できるのか。あなたこそ他人に教えを請うべきだ。」

有菩薩他同利，如是同利不示他。有菩薩不同利，如是示同利。有菩薩同利，亦示同利。有菩薩亦不同利亦不同利示他。初句者，諸菩薩等功德、住菩薩道等功德，菩薩隱覆真實功德不為顯示。第二句者，下劣眾生怖畏深法，菩薩思惟方便調伏，現同彼法如旃陀羅，疾得利益息惱調伏，故現與彼同。第三句者，為調伏彼受動搖善根眾生故，菩薩以住善根若上善根顯示同利。第四句者，心自放逸棄捨他利，從種種施如前說如戒廣說，乃至同利彼諸波羅蜜，自成熟佛法成熟攝事。是名略說菩薩善法業。從種種施乃至同利，是種種無量善法菩提分，當知三種行、二種勝。三種淨身口意行，當知是行上妙。無染，當知是勝無上。不共彼眾生等、事等、時等，是名上妙。眾生等者，是菩薩為一切眾生行施等善根、不自為己。事等者、是菩薩行施等一切種善根。時等者、是菩薩不離方便時節日夜、今世後世常修施等善根心不休息。無染者、有四種。是菩薩歡喜心修習善法、不因是故生憂苦悔恨。是菩薩不惱他人、不著諸見、不雜惡行，行施等善根。是菩薩一切自己功德專至顯現，堅固顯現寂滅決定，不由於他行施戒等諸善法。是菩薩不於施等善法而求果報，若轉輪聖王帝釋魔梵，不求他報、不依此等求名利身命。於此等行淨歡喜俱，不惱亂他、專至無依，從施等乃至同利諸善法行，是名無染。熾然不動快淨，是名清淨。菩薩入淨心地，一切善根熾然不動，是熾然淨心地。菩薩一切善法不思惟起，是不動淨心地。菩薩隨所得所修善法則不退轉，於未來世必定不退日夜增長，如明分月日夜增長，善法不退亦復如是。菩薩住究竟菩薩地一生相續，若最後有所得善根名為快淨，於上更無菩薩淨地故。是名三種善行二種勝、三種淨。當知從檀波羅蜜乃至同利，一切施等乃至一切同利，修習清淨如來具足充滿無上菩提金剛堅固身正法久住果報生。難施乃至難同利，修習清淨如來平等奇特未曾有法，成就果報生。一切門施乃至一切門同利，修習清淨如來為一切最勝眾生天人供養果報生。善人施等乃至善人同利，修習清淨如來於彼無足二足四足多足、色無色想無想非想非非想一切眾生最上果報生。一切行施乃至一切行同利，修習清淨如來種種無量功德攝受，三十二大人相、八十隨形好身果報生。除惱施乃至除惱同利，修習清淨如來於菩提樹下一切魔怨不能傾動果報生。此世他世樂施乃至此世他世樂同利，修習清淨如來最勝禪解脫三昧正受安樂果報生。清淨施乃至清淨同利，修習清淨如來一切種清淨，所謂四種淨：身淨、緣淨、心淨、智淨果報生，三不護、十力、四無畏、三念處、一切不共佛法清淨果報生。是名菩薩施等諸善法果報無上，無量菩薩無罪行之所出生。

> 菩薩には、他者と利益を共にしつつ、その共にしたことを他者に示さない者がいる。菩薩には、他者と利益を共にしないが、利益を共にするかのように示す者がいる。菩薩には、他者と利益を共にし、かつそのことを示す者がいる。菩薩には、他者と利益を共にせず、またそのことを示さない者もいる。 最初の文について：菩薩たちは、功徳や菩薩道における功徳などを備えているが、真実の功徳を隠し、顕示しない。 第二の文について：劣った心の衆生が深い教えを怖れる場合、菩薩は方便を用いてその者を調伏させようと考え、同じようにその教えに従っているように見せる。例えば旃陀羅（せんだら）のように、速やかに利益を得させ、悩みを鎮め調伏させるために、彼らと同じ姿を示すのである。 第三の文について：心が動きやすい善根を持つ衆生を調伏するために、菩薩は自らの善根や優れた善根に基づき、利益を共にすることを示すのである。 第四の文について：心が自らに放逸で、他者への利益を捨てる状態を指す。様々な布施、戒律など、前述の通り、布施から利益を共にすることに至るまでのすべてを修める。これらは菩薩の善法の業である。 様々な布施から利益を共にすることに至るまで、これら様々で無量な善法や菩提の一分（修行上の要素）については、三つの行（実践）と二つの優れた点があると知るべきである。三つの清らかな身・口・意の行は、優れた行であると知るべきである。煩わしさ（無染）がないことは、他に優る優れた点であると知るべきである。他の者と共にしないこと、事柄が等しいこと、時が等しいこと、これらを「優れた行」という。 「衆生等しい」とは、菩薩があらゆる衆生のために布施などの善根を行い、自らのためにしないことである。「事等しい」とは、菩薩があらゆる種類の善根として布施などを行うことである。「時等しい」とは、菩薩が方便の時節を離れず、昼夜、現在世・未来世において常に布施などの善根を修め、心が休むことがないことである。 「無染（煩わしさがない）」には四つの種類がある。菩薩は喜びの心で善法を修め、それによって苦しみや後悔を生じない。菩薩は他者を悩ませず、様々な見解に執着せず、悪行を混ぜずに布施などの善根を行う。菩薩は自己のすべての功徳を専一に顕し、堅固に現し、静寂に決定し、他者によることなく布施や戒律などの善法を行う。菩薩は布施などの善法に対して果報を求めない。たとえ転輪聖王、帝釈天、魔天王、梵天の果報であっても、他者からの報いを求めず、これらに依って名声や利得、身や命を求めることもない。これらの行いに清らかな喜びが伴い、他者を悩ませず、専一で依ることがない。布施から利益を共にすることに至るまでの善法の行い、これを「無染」という。 盛んに燃え上がり、動じず、清らかで快いこと、これを「清浄」という。菩薩が清らかな心（浄心地）に入れば、すべての善根が盛んに燃え上がり動じない。これが「燃え上がる清らかな心」である。菩薩のすべての善法は、考えなくても自然に生じる。これが「動じない清らかな心」である。菩薩は、得たものや修めた善法に対して退転することがなく、未来世においても必ず退転せず、日夜増長する。それは月の明るい部分が日夜増長するように、善法が退転しないのもまた同じである。 菩薩が究極の菩薩地に住し、一生が連続する場合、あるいは最後の生涯において得る善根を「清らかで快い清浄」という。この上に、さらに菩薩の清らかな地はないからである。 以上が、三つの善行、二つの優れた点、三つの清らかさである。 知るべきである。布施の波羅蜜から利益を共にすることに至るまで、すべての布施など、すべての利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来の完全に満ち足りた、無上の菩提、金剛の堅固な身、正法が長く留まるという果報が生じる。難しい布施から難しい利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来の平等で奇特で未曾有の法が成就するという果報が生じる。あらゆる門の布施からあらゆる門の利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来がすべての最も優れた衆生、天や人々の供養を受けるという果報が生じる。善人の布施などから善人の利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来が足のない者、二足の者、四足の者、多足の者、色界、無色界、有想天、無想天、非想非非想天のすべての衆生の最上となる果報が生じる。あらゆる行の布施からあらゆる行の利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来の様々で無量な功徳に摂受された、三十二の大人の相、八十の随形好を持つ身という果報が生じる。悩みを除く布施から悩みを除く利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来が菩提樹の下で、すべての魔の怨敵に動かされることがないという果報が生じる。この世と他世の楽をもたらす布施からこの世と他世の楽をもたらす利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来の最も優れた禅定、解脱、三昧、正受の安楽という果報が生じる。清らかな布施から清らかな利益を共にすることに至るまでを修習し清らかにすることで、如来のあらゆる清らかさ、すなわち四つの清らかさ（身の清らかさ、縁の清らかさ、心の清らかさ、智慧の清らかさ）の果報、三つの不護、十の力、四つの無畏、三つの念処、すべての仏にのみ共通する清らかな法の果報が生じる。 これらを、菩薩の布施などの善法の果報は無上であり、無量の菩薩の過ちのない行為から生じる、という。