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title: "菩薩地持經 · 16 供養習近無量品"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
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### 菩薩地持方便處供養習近無量品第十六

> 菩薩地持方便処における供養と修習の功徳無量についての第十六章

云何菩薩供養如來？略說十種：一者身供養；二者支提供養；三者現前供養；四者不現前供養；五者自作供養；六者他作供養；七者財物供養；八者勝供養；九者不染污供養；十者至處道供養。若菩薩於佛色身而設供養，是名身供養。若菩薩為如來故，若供養偷婆、若窟、若舍，若故若新，是名支提供養。若菩薩面見佛身及支提而設供養，是名現前供養。若菩薩於如來及支提，悕望心俱、歡喜心俱，現前供養；如一如來法，如是過去未來現在一切如來法；如一如來支提法，如是一切如來支提法。作是念：「我今現前供養如來及供養過去未來現在如來，我今現前供養如來支提及供養一切十方無量世界一切支提，若偷婆、若窟、若舍，若新若故。」是名菩薩共現前不現前供養。若菩薩於不現前如來及支提心念供養，為一切佛故、為一切如來支提故，是名不現前供養。若菩薩於如來般涅槃後，以佛舍利起偷婆、若窟若舍，若一若二若多乃至億百千萬，隨力所能，是名菩薩廣不現前供養。以是因緣，得無量大果，常攝梵福，是菩薩常於無量大劫不墮惡趣，無上菩提眾具滿足。若菩薩於如來及支提，現前供養得大功德，不現前供養得大大功德，共現前不現前供養得最大大功德。若菩薩於如來及支提手自供養，不依懈墮令他施作，是名菩薩自作供養。若菩薩於如來及支提不獨供養，普令父母師友親屬國王大臣長者居士在家出家悉共供養，是名自他共供養。若菩薩有少許物，以慈悲心施彼貧苦薄福眾生，令得供養如來及支提，令得安樂而不自為，是名菩薩他作供養。自作供養者得大果報，他作供養者得大大果報，自作他作供養者得最大大果。

> 菩薩が如来を供養するとは、どのようなことか。簡潔に十種挙げる。一に身供養、二に支提供養、三に現前供養、四に不現前供養、五に自作供養、六に他作供養、七に財物供養、八に勝供養、九に不染汚供養、十に至処道供養である。 菩薩が仏の色身に対して供養を設けること、これを身供養という。菩薩が如来のために、塔（ストゥーパ）や石窟や堂舎を、古いものでも新しいものでも供養すること、これを支提供養という。菩薩が仏の身や塔を目の前にして供養を設けること、これを現前供養という。 菩薩が如来と塔に対して、願う心と喜ぶ心をもって現前供養を行う。一の如来に対するのと同じように、過去・未来・現在の一切の如来に対しても同様に行う。一の如来の塔に対するのと同じように、一切の如来の塔に対しても同様に行う。そしてこう思う。「私は今、現前して如来を供養し、また過去・未来・現在の如来を供養する。私は今、現前して如来の塔を供養し、また十方の無量世界にある一切の塔、すなわち塔や石窟や堂舎、新建てられたものも古いものもすべてを供養する」と。これを菩薩の「共現前不現前供養」という。 菩薩が眼前にない如来や塔に対して、心に念じて供養すること。一切の仏のため、一切の如来の塔のために行うこと、これを不現前供養という。 菩薩が如来の涅槃後、仏舎利をもって塔や石窟や堂舎を建てること。一つ、二つ、あるいは多数、億百千万に至るまで、自分の力の及ぶ限り行うこと、これを菩薩の「広大な不現前供養」という。この因縁により、無量の大いなる果報を得、常に梵天の福を積む。この菩薩は、無量大劫の間、悪道に堕ちることなく、無上菩提へのすべての条件を満たす。 菩薩が如来と塔に対して、現前供養を行えば大いなる功徳を得、不現前供養を行えばさらに大いなる功徳を得、共現前不現前供養を行えば最も大いなる功徳を得る。 菩薩が如来と塔に対して、自らの手で供養を行い、怠けて他人に任せないこと、これを菩薩の自作供養という。 菩薩が如来と塔に対して、独りで供養するだけでなく、父母、師匠、友人、親族、国王、大臣、長者、在家・出家のすべての人々と共に供養すること、これを自他共供養という。 菩薩が少しばかりの物でも、慈悲の心で貧しく苦しみ福の薄い衆生に施し、彼らが如来や塔を供養し、安楽を得られるようにして、自分のためには行わないこと、これを菩薩の他作供養という。自作供養は大いなる果報を得、他作供養はさらに大いなる果報を得、自作他作供養は最も大いなる果報を得る。

若菩薩於如來及支提，以衣食床臥湯藥眾具、問訊禮拜奉迎合掌、熏香末香塗香種種花鬘伎樂幢幡繒蓋燈明、種種讚歎五輪作禮敬遶右旋以為供養，無盡勝財摩尼真珠珂珼玉石、珊瑚琥珀車𤦲馬瑙、金銀赤寶左旋勝寶摩尼寶環，懸以寶鈴散以金錢金縷圍遶。施如是等寶，是名財物供養。若菩薩久遠於如來及支提以財物供養，若多若勝、若現前不現前、若自作他作，淳淨信心現在前，專精解心而作供養，以是善根迴向無上菩提，如是七種名菩薩勝供養。若菩薩自手供養如來及支提，不輕他人、不放逸、不懈怠，至心恭敬不輕未、不亂心、不染污心，不於信心國王諸勝人所現諂曲威儀求財供養，不以雌黃塗佛形像，亦不以汁而洗浴之，亦不燒求求羅香而以供養，阿迦花等諸不淨物悉不用之，是名菩薩六種無染污供養。若菩薩殊勝不染財物供養如來及支提，若自力得、若從他求、若如意得，彼眾具自在如意得財。菩薩若化作身，若二若三乃至百千萬億身，彼一一身悉禮如來；彼一一身化作百千手，彼一一手以種種華香供養如來及支提。彼一切身悉讚歎如來真實功德饒益眾生，彼一切身皆以上妙衣服眾寶瓔珞幢幡花蓋供養如來，如是等名為如意自在力得。繫心供養，不待如來出現于世。何以故？住不退轉地菩薩於一切佛剎未曾障礙故。若菩薩不自力得財、不從他求亦不自在力得而為供養；然於他眾生，若閻浮提、若四天下、若千世界、若二千世界、若三千大千世界，乃至十方無量世界，上中下心所作供養，菩薩於彼一切供養，以淨信心、勝妙解心周遍隨喜。是菩薩以少方便興大供養，攝大菩提具。是菩薩常等真實心、可喜樂心應當修學。彼菩薩少時乃至一𤛗牛頃，於一切眾生修習慈心悲心喜心捨心，於一切有為行起無常想、無常苦想、苦無我想、涅槃安樂想，念佛念法念僧、念波羅蜜，乃至少時於一切法起少忍知，離言說法自性如解脫，離諸妄想無相心住，況復過上。彼菩薩護持禁戒、止觀、菩提分方便、諸波羅蜜、諸善攝事方便，是名菩薩至處道供養如來，第一最上最妙最勝無上。如此供養，比前財物供養，百倍千倍乃至極算數譬喻不得為比。如是十事，名菩薩一切種供養如來。如供養佛，如是法、如是僧，隨所應當知於此三寶作十種供養。

> 菩薩が如来またはその塔廟（とうびょう）に対して、衣服・飲食・寝具・薬湯などの必需品を施し、あるいは見舞い・礼拝・合掌・香や花・音楽・幢幡（どうばん）・傘蓋（さんがい）・灯明などを捧げ、讃嘆し、五体投地して右繞（うにょう）し、あるいは無尽の財宝である摩尼（まに）・真珠・珊瑚・琥珀・車渠（しゃきょ）・瑪瑙（めのう）・金銀・赤宝などを供養する――これを「財物供養」と呼ぶ。 また、菩薩が遠い昔から如来や塔廟に対して財物を供養するとき、それが多くても少なくても、眼前にあってもなくても、自ら行っても他者に任せても、清らかな信心を起こし、一心に専念して捧げ、その善根を無上の悟り（菩提）へと回向するならば、これら七つの行いを「菩薩の勝れた供養」という。 さらに、菩薩が自らの手で如来や塔廟を供養し、他人を軽んぜず、怠らず、心から敬い、未熟な者を侮らず、心を乱さず、汚れた心を持たないこと。また、信心深い国王などの権力者にへつらって供養の資を得ようとしないこと。黄銅（おうどう）で仏像を塗ったり、汁で洗ったりしないこと。特定の香木（ぐぐらの香）を焼いて供養せず、アーカーシュ花のような不浄なものも用いない――これを「菩薩の六種の汚れなき供養」という。 菩薩がこのような勝れた汚れのない財物で如来や塔廟を供養するとき、それが自らの力で得たものでも、他者から求めたものでも、あるいは自在の力で得たものでも、それらの供養具を自在に用いる。菩薩が化身を現し、二つ、三つ、あるいは百千万億の身となり、その一つ一つの身が如来を礼拝し、その一つ一つの身が百千の手を現し、その手々に様々な花や香を捧げて如来や塔廟を供養する。そしてすべての身が如来の真実の功徳と衆生を利益するを讃嘆し、すべての身が最上の衣服や宝の瓔珞（ようらく）・幢幡・花蓋などを捧げる――これを「如意自在力による供養」という。この供養は如来が世に出るのを待たずに行われる。なぜなら、不退転の地に住する菩薩は、すべての仏国土において障りがないからである。 もし菩薩が、自らの力でも他者からでも自在力でもなく供養するならば、他の衆生――閻浮提（えんぶだい）や四天下、千世界、二千世界、三千大千世界、さらには十方の無量世界の、上・中・下の心による供養を、菩薩はそのすべてに対して清らかな信心と勝れた理解の心で等しく随喜する。この菩薩は僅かな手段で大きな供養を起こし、大いなる菩提の資糧を積む。この菩薩は常に真実の心、喜ばしい心をもってこれを学ぶべきである。 また、この菩薩がごく短い時間――例えば牛の一搾乳（さくにゅう）の間にも、一切の衆生に対して慈・悲・喜・捨の心を修め、すべての有為（うい）の行に無常・苦・無我・涅槃寂静（ねはんじゃくじょう）の想いを起こし、仏・法・僧を念じ、波羅蜜（はらみつ）を念じ、あるいは僅かな時間に一切の法に対してわずかな忍智（にんち）を得、言葉を離れた法の自性が解脱の如くであると知り、あらゆる妄想を離れて無想の心に安住する。ましてそれ以上はいわずもがなである。この菩薩が戒律を護り、止観（しかん）・菩提分・諸波羅蜜・善き統率の方法を修めることを、「菩薩の至高の供養」という。これは第一であり、最上であり、最も勝れ、無上である。この供養は、先の財物供養に比べて百倍・千倍、算術や喩えをもってしても及ばない。 以上の十の事柄を、「菩薩のあらゆる種類の如来供養」という。仏を供養するように、法と僧に対しても同様に、この三宝に対して十種の供養を行うべきであると知るがよい。

菩薩於如來所起六種淨心，謂福田無上心、恩德無上心、於一切眾生無上心、如優曇鉢花難遇心、於三千大千世界獨一心、於世間出世間法一切具足依義心。以此六心少想供養如來法僧獲無量功德，何況多。

> 菩薩が如来に対して起こす六種の清らかな心とは、すなわち「この上ない幸福の源（福田）と仰ぐ心」、「この上ない恩徳への感謝の心」、「すべての生きとし生けるものに対してこの上ない慈しみを注ぐ心」、「優曇華のように滅多に出会えない尊さを感じる心」、「三千大千世界にただ一つの存在と敬う心」、「世の中と世を超えた教えのすべてをそなえた真実（法）へのよりどころとしての心」です。 この六つの心で、ほんのわずかでも如来や法、僧侶に供養すれば、計り知れない功徳が得られます。ましてや、多くの供養をすればなおさらです。

菩薩成就幾行為善知識？有幾行善知識開導無礙？復有幾行得善知識淨信住處？復有幾行善知識調伏眾生、為善知識事？菩薩有幾行習近善知識？復有幾行想於善知識聽受正法？菩薩於善知識聽受正法復有幾處？無有想念菩薩成就八事，滿足一切善知識行。一者善住律儀戒而不毀犯；二者多聞現在覺悟；三者得禪定修慧及餘止觀善根；四者悲心哀愍捨現法樂廣化眾生；五者成就無畏為眾說法，正念不失樂說無畏；六者堪忍輕欺罵辱諸不愛言，及諸惡行皆悉能忍；七者無惓，多思惟力，為四眾說法而不疲懈；八者辯才巧便，凡所說法言辭通利。菩薩有五事，如是一切種功德具足善知識，善知識所作開導無礙。一者先欲安樂眾生；二者於彼安樂如實知之不顛倒覺；三者若作方便隨順說法，善能隨順調伏眾生有堪能力；四者心不疲厭；五者平等悲念一切眾生，於上中下心無偏黨。

> 菩薩が何を成就することで善知識となるのか。 また、どのような行いによって善知識は人を導くのに滞りがなくなるのか。 さらに、どのような行いによって善知識の清らかな信頼の境地を得られるのか。 また、どのような行いによって善知識は衆生を調伏し、善知識としての務めを果たすのか。 菩薩には、善知識に親しく近づくための何種類の行いがあるのか。 また、どのような行いによって善知識を敬い、正しい教えを聴き受けることができるのか。 菩薩が善知識から正しい教えを聴き受ける際には、さらにどのような心得が必要なのか。 思慮分別のない菩薩は、八つのことを成就することで、あらゆる善知識の行いを完全に満たすことができる。 一つには、善く律儀の戒に安住し、それを破らないこと。 二つには、多くの教えを聞き、現在において悟りを得ていること。 三つには、禅定を得て智慧を修め、さらには止観の善根を備えていること。 四つには、慈悲の心で哀れみ、現在の法の楽しみを捨てて、広く衆生を教化すること。 五つには、畏れなく衆生のために法を説き、正しい念を失わず、説法に喜びと畏れのなさを具えていること。 六つには、軽んじられ、欺かれ、罵られ、辱められるなど、愛しくない言葉や様々な悪い行いを全て耐え忍ぶこと。 七つには、疲れを知らず、よく思惟する力を持って、四衆のために法を説き、疲れ果てることがないこと。 八つには、弁才に巧みで、説くところの法の言葉が滞りなく通じること。 菩薩には五つの事がある。このようにしてすべての功徳を具えた善知識は、善知識のなすべき働きとして、導きに滞りがない。 一つには、まず衆生を安楽にさせたいと願うこと。 二つには、その安楽についてありのままに知り、倒錯した認識をしないこと。 三つには、もし方便をなすならば、それに従って法を説き、善く衆生を調伏する能力を備えていること。 四つには、心に疲れ厭うことがないこと。 五つには、平等にすべての衆生を悲しみ念じ、上・中・下の区別なく、心に偏りがないこと。

菩薩有五事，得善知識淨信住處，他聞歡喜，況復現見。一者威儀成就，寂靜威儀、具足威儀，舉身齊整。二者心常安住，身口意業不悼不躁。三者不誑，謂不誑他故攝持威儀。四者不嫉，謂於他說法及得財利不生嫉心，常自勸請令他說法，若財向己勸與他人，無諂偽心心常歡喜。見他說法及得利樂，起隨喜心如己所得。五者以知足心少積眾具，所得能捨。

> 菩薩には五つの行いがあり、それによって善知識（よき師）から清らかな信頼を得て安住し、他の人々もそれを聞いて喜び、ましてや実際に目にすればなおさらのことである。 第一に、威儀が整っていること。静かな振る舞い、備わった振る舞い、全身が整っていること。 第二に、心が常に安らかに落ち着いていること。身体と口と心の行いが、おろそかにならず、落ち着きを失わないこと。 第三に、偽りがないこと。すなわち、他者を欺かないために、威儀を保つこと。 第四に、嫉妬しないこと。すなわち、他者が説法することや財物を得ることに嫉妬の心を起こさず、常に自ら進んで他者に説法を勧め、もし財物が自分のもとに来ても、他者に譲るよう勧めること。偽りのない心で、常に喜びの心を持つ。他者が説法し、利益や喜びを得るのを見て、あたかも自分が得たかのように喜びの心を起こすこと。 第五に、足ることを知る心を持って、多くの道具や品々を蓄えず、得たものは惜しみなく施すこと。

菩薩有五事，真善知識調伏眾生，為善知識事。一者語言；二者與念；三者教授；四者教誡；五者說法。以是五事廣化眾生，如聲聞地教授教誡，廣說如力性品。

> 菩薩には、五つの方法がある。それは、本当の善き友として、人々を正しく導き、教え諭すためのものだ。 一つ目は、相手に合わせた言葉を使うこと。 二つ目は、相手に気づきを与えること。 三つ目は、具体的な教えを授けること。 四つ目は、戒めや注意を与えること。 五つ目は、法（真理）について説くこと。 この五つの方法によって、広く人々を導いていく。これは、声聞の修行者が行う教えや戒めの方法と同様であり、さらに詳しいことは『力性品』に述べられている通りである。

菩薩有四事，親近善知識滿足。一者若病不病隨時供養，愛念恭敬淨信饒益。二者隨時敬禮，問訊奉迎合掌供養。三者如法衣食湯藥眾具而作供養。四者若依止者，如法隨作而不傾動，如實而說隨時往詣，請所應作。菩薩於善知識所，成就五想而聽法，當作寶想，以難得故。作眼想，得勝俱生智慧因故。作明想，得俱生智慧眼，顯示一切種如實境界故。作大果福利想，得涅槃道無上因故。作樂無罪想，現法不得涅槃道，如實觀察止觀大樂，無罪因故。

> 菩薩には、善知識と親しく交わることで実践が満たされる四つの方法があります。 第一に、病気の時もそうでない時も、常に供養し、愛し敬い、清らかな信を以て利益すること。 第二に、常に敬礼し、安否を問い、合掌して供養すること。 第三に、法にかなった衣服・食事・薬・日用品などを供養すること。 第四に、善知識に依止するならば、法のままに従い動じることなく、ありのままを語り、常に訪れて、なすべきことを請うこと。 菩薩は善知識のもとで、法を聴く際に五つの想いを成就すべきです。 宝の想い——得難いものだから。 眼の想い——優れた智慧という共得る因を得るから。 明かりの想い——智慧の眼を得て、あらゆるものの真実の姿を明らかにするから。 大きな果報と利益の想い——涅槃の道という無上の因を得るから。 楽しく罪のない想い——現世で涅槃の道を完全には得られないものの、ありのままに観察し止観の大いなる楽を得る、罪のない因となるから。

菩薩於善知識聽受經法，於說法人有五處不憶念淨心專聽。一者不念破戒，謂不念言此犯律儀，不應從彼聽受經法。二者不念下姓，謂不念言，我不從彼下姓之人聽受經法。三者不念醜陋，謂不念言，我不從彼醜陋之人聽受經法。四者不念壞味，謂不念言，我不從彼不正語人聽受經法，但依於義不依於味。五者不念壞美語，謂不念言，我不從彼麁言說人聽受經法。如是五處不憶念已，是菩薩勤攝正法，於說法人不起嫌想。若下根菩薩起人過心退不樂聽法，當知是菩薩不能自度，智慧退減。

> 菩薩が善知識から経典や教えを聞く際には、説法をする人に対して次の五つの点を気にせず、清らかな心で専念して聴くべきです。 第一に、「戒を破っている」とは思わないこと。つまり、「この人は戒律を守っていないから、その人から教えを聞くべきではない」と考えないこと。 第二に、「身分が低い」とは思わないこと。つまり、「私は身分の低い人から教えを聞くつもりはない」と考えないこと。 第三に、「醜い」とは思わないこと。つまり、「私は見た目の醜い人から教えを聞くつもりはない」と考えないこと。 第四に、「言葉が正しくない」とは思わないこと。つまり、「私は言葉遣いの正しくない人から教えを聞くつもりはない」と考えず、ただ内容（義）に従い、表面的な言葉の味わい（味）にこだわらないこと。 第五に、「美しくない言葉遣い」とは思わないこと。つまり、「私は荒い言葉を使う人から教えを聞くつもりはない」と考えないこと。 この五つの点を気にせずに、菩薩は教えを熱心に受け止め、説法する人に対して嫌な気持ちを起こしません。 もし根気の弱い菩薩が、説法する人の欠点に心を向けて、教えを聞くのを嫌がり、聞こうとしなくなるなら、その菩薩は自分自身を救うことができず、智慧が衰えてしまうと知るべきです。

云何菩薩修四無量？謂慈悲喜捨。略說菩薩四無量有三種修：一者眾生緣；二者法緣；三者無緣。菩薩安處一切三聚眾生已，若苦若樂不苦不樂眾生，欲安樂故，作樂饒益想而修慈心，周滿十方一切眾生意解想住，是名菩薩眾生緣慈。若菩薩起法數想，法數眾生行觀而修慈心，是名法緣慈。若復於法離諸妄想而修慈心，是名無緣慈。如眾生緣、法緣、無緣慈，悲喜捨亦如是。若菩薩於苦眾生作除苦想，周滿十方而修悲心，是名為悲。於樂眾生起樂隨喜想，周滿十方而修喜心，是名為喜。如是三種眾生不苦不樂，隨其次第起離癡恚貪想，周滿十方而修捨心，是名為捨。若菩薩慈等無量，眾生緣與外道共。若法緣者，與聲聞緣覺共，非外道共。若菩薩無緣無量，不共一切聲聞緣覺及諸外道。若菩薩三無量，當知樂想攝，所謂慈悲喜。一無量安想攝，所謂捨。一切無量，名為哀愍。成就此者，名哀愍菩薩。菩薩觀察眾生界，有百一十苦而修悲心。云何百一十苦？有一種苦，謂一切眾生皆墮集苦，以集苦無差別故。又二種苦，謂欲根本所愛念事變易生苦、愚癡報苦，極苦觸身而作是言：「我苦我苦。」愚癡愁憂亦名二箭，身受心受。又三種苦，謂苦苦、行苦、變易苦。又四種苦，一者合會別離苦，從愛別離生；二者斷苦，從種類沒死生；三者相續苦，從無量生死展轉相續生；四者終竟苦，從不得涅槃者五盛陰生。又五種苦：欲纏緣苦，恚、癡、睡眠、悔、悼纏緣苦。又六種苦，謂因苦，依惡道因故；果苦，生惡道故；求財苦、守護苦、不足苦、壞敗苦。又七種苦，謂生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎會苦、愛別離苦、求不得苦。又八種苦，謂寒苦；熱苦；飢苦；渴苦；不自在苦；自作苦，謂尼乾等；他作苦，謂彼手石刀杖蚊虫等；久住威儀苦。又九種苦，謂自不具足苦；他不具足苦；親屬不具足苦；財物不具足苦；無病不具足苦；戒不具足苦；見不具足苦；現在苦；他世苦。又十種苦，謂食具不足苦；飲具不足苦；車乘不足苦；衣服不足苦；瓔珞不足苦；器物眾具不足苦；華鬚塗香眾具不足苦；伎樂眾具不足苦；燈明眾具不足苦；男女給使不足苦；初始苦。復有餘九種苦，謂一切苦、大苦、一切門苦、惡行苦、轉生苦、不隨欲苦、違害苦、相續苦、一切種苦。一切苦者，若前因所起及轉時緣苦。大苦者，長夜種種無間大苦。一切門苦者，若地獄畜生餓鬼、善趣輪轉。惡行苦者，若現世犯他他還報己，若食惡食令身不安，如是種種自身現作還受其苦。若住眾多不正思惟，則生一切諸煩惱苦。身口及心多造惡行，於未來世生惡行苦。轉生苦者，有六事不決定起輪轉生死。自身不定，謂先為王後反貧乞。妻子不定、奴婢給使不定、朋友大臣親屬不定，謂今為妻子乃至大臣親屬已，彼於後時在生死中反為怨害及惡知識。財物不決定者，謂於生死中資財無量，後極貧苦。不隨欲苦者，欲得長壽不樂短命，惱苦生；欲得端正不樂醜陋，惱苦生；欲為上族不樂卑賤，惱苦生；欲得自在不樂貧窮，惱苦生；欲得大力不樂少力，惱苦生；欲多智慧不樂愚癡，惱苦生；欲降伏彼不樂不如，惱苦生。違害苦者，謂在家妻子減苦、出家煩惱增苦、飢儉苦、刀兵恐畏苦、曠野嶮處恐怖苦、支節不具苦、殺縛斷截捶打苦、驅擯出外苦。相續苦有九種，此中不說。一切種苦者有五種，如前說。五種樂相違苦，謂因苦、受苦、樂對治苦、不斷受苦、出家遠離寂滅菩提樂對治非家欲界和合覺想凡夫苦，是名五苦。又有五苦，謂逼迫苦、眾具不足苦、四大增損苦、失所欲苦、三界煩惱穢污苦，是名五苦。此五種及前五種，略說十種一切種苦。前五十五種、此五十五種，略說百一十種苦，是菩薩悲境界，緣彼故悲心生，修習增長成就滿足。

> 菩薩が四無量心をどのように修行するのか？それは、慈悲喜捨の四つの心である。簡単に言えば、菩薩の四無量心には三つの修行方法がある。第一に「衆生を縁とするもの」、第二に「法を縁とするもの」、第三に「無縁のもの」である。 菩薩は、善、悪、無記の三種類の全ての衆生を心に置き、苦しんでいる者、楽しい者、苦でも楽でもない者に対して、彼らが安楽を得られるようにと願い、楽しい利益があると想い描いて慈心を修行する。それが十方の全ての衆生に満ち渡り、そのように心を理解して安住する。これを菩薩の「衆生を縁とする慈」という。 もし菩薩が、法（現象）には数多くの種類があるという考えを起こし、その法に基づいて衆生の行いを観察しながら慈心を修行するなら、それを「法を縁とする慈」という。 もしさらに、法に対してあらゆる分別妄想を離れて慈心を修行するなら、それを「無縁の慈」という。 衆生を縁とする慈、法を縁とする慈、無縁の慈と同様に、悲・喜・捨についても同じである。もし菩薩が苦しむ衆生に対して苦しみを取り除く想いを起こし、それが十方に満ち渡るように悲心を修行するなら、それを「悲」という。楽しい衆生に対してその楽を共に喜ぶ想いを起こし、それが十方に満ち渡るように喜心を修行するなら、それを「喜」という。このように、苦でも楽でもない三種類の衆生に対して、その順序に従って、無知・怒り・執着を離れる想いを起こし、それが十方に満ち渡るように捨心を修行するなら、それを「捨」という。 菩薩の慈などの無量心のうち、衆生を縁とするものは外道（仏教以外の修行者）と共通する。法を縁とするものは声聞や縁覚と共通し、外道とは共通しない。菩薩の無縁の無量心は、一切の声聞・縁覚や外道とも共通しない。 菩薩には三つの無量心がある。知っておくべきは、「楽」という想いに含まれるものが、慈・悲・喜である。一つの無量心は「安らぎ」という想いに含まれるもので、それが捨である。全ての無量心は「哀れみ（哀愍）」と呼ばれる。これを成就した者を「哀愍の菩薩」という。 菩薩は衆生の世界を観察し、百十の苦しみがあることを見て悲心を修行する。では、その百十の苦しみとは何か？ 一つの苦しみとして、全ての衆生は「集苦」（苦しみを生み出す原因となるもの）に落ちていること。この集苦には違いがないからである。 また二つの苦しみとして、欲望を根本とする愛しいものが変化して失われる苦しみと、無知の報いとしての苦しみがある。激しい苦しみが身に触れた時に「私は苦しい、私は苦しい」と言うこと。無知による憂い悲しみもまた「二本の矢」と呼ばれ、身体の受ける苦しみと心の受ける苦しみがある。 また三つの苦しみとして、苦苦（苦しみそのものの苦しみ）、行苦（変化し続けることの苦しみ）、変易苦（移り変わることの苦しみ）がある。 また四つの苦しみとして、第一に「合会別離苦」（愛する者と別れる苦しみ）、第二に「断苦」（種類が絶え死ぬ苦しみ）、第三に「相続苦」（限りない生死を繰り返し続ける苦しみ）、第四に「終竟苦」（涅槃に至らない者の五蘊による苦しみ）がある。 また五つの苦しみとして、欲望、怒り、無知、眠気、後悔と動揺に縛られた苦しみがある。 また六つの苦しみとして、「因苦」（悪道に落ちる因による苦しみ）、「果苦」（悪道に生まれる結果の苦しみ）、財を求める苦しみ、財を守る苦しみ、足りなさの苦しみ、財が壊れ失われる苦しみがある。 また七つの苦しみとして、生の苦しみ、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、嫌な者と会う苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、求めても得られない苦しみがある。 また八つの苦しみとして、寒さの苦しみ、暑さの苦しみ、飢えの苦しみ、渇きの苦しみ、不自由の苦しみ、自ら苦しみを作ること（例えばニガンタ（ジャイナ教徒）など）、他者から与えられる苦しみ（手、石、刀、杖、蚊など）、長時間同じ姿勢を強いられる苦しみがある。 また九つの苦しみとして、自身の不具足、他者の不具足、親族の不具足、財物の不具足、無病の不具足、戒律の不具足、見解の不具足、現在の苦しみ、来世の苦しみがある。 また十の苦しみとして、食べ物の不足、飲み物の不足、乗り物の不足、衣服の不足、装飾品の不足、道具の不足、花や塗香などの不足、音楽や舞楽などの不足、灯明の不足、男女の召使いの不足がある。 さらに別の九つの苦しみとして、一切の苦しみ、大いなる苦しみ、あらゆる門の苦しみ、悪行の苦しみ、転生の苦しみ、思い通りにならない苦しみ、違害の苦しみ（妨害や害による苦しみ）、相続の苦しみ、あらゆる種類の苦しみがある。 一切の苦しみとは、過去の因によって生じ、移り変わる時に関係する苦しみである。大いなる苦しみとは、長い夜（長い時間）にわたって絶え間なく続く大きな苦しみである。あらゆる門の苦しみとは、地獄・畜生・餓鬼および天道における輪廻の苦しみである。悪行の苦しみとは、現世で他者を害すれば、その報いとして後に他者から害されること、また悪い食べ物を食べて身体が不安になることなど、自らの行いが原因で自らが受ける苦しみである。また、多くの誤った考え（不正思惟）に住すれば、あらゆる煩悩の苦しみが生じる。身・口・意で多くの悪行をなせば、未来世において悪行の苦しみが生じる。 転生の苦しみとは、六つの事柄が不確定でありながら生死を輪廻することである。自身の立場が不確定であること（例えば、かつて王であった者が後に貧しい乞食になること）。妻子が不確定であること。召使いが不確定であること。友人や家臣、親族が不確定であること（今は妻子や家臣、親族であっても、後に生死の中で敵や悪友となること）。財物が不確定であること（生死の中で無数の財産を持っても、後に極度の貧困に苦しむこと）。 思い通りにならない苦しみとは、長寿を望み短命を嫌うが叶わない苦しみ、端正であることを望み醜いことを嫌うが叶わない苦しみ、高い家柄を望み卑しい身分を嫌うが叶わない苦しみ、自在であることを望み貧しいことを嫌うが叶わない苦しみ、大力を望み小力を嫌うが叶わない苦しみ、多くの智慧を望み愚痴を嫌うが叶わない苦しみ、他者を打ち負かすことを望み敵わないことを嫌うが叶わない苦しみがある。 違害の苦しみとは、在家者にとっては妻子を減らす苦しみ、出家者にとっては煩悩が増す苦しみ、飢饉の苦しみ、戦乱の恐怖の苦しみ、荒野の険しい場所での恐怖の苦しみ、手足が不自由な苦しみ、殺される、縛られる、手足を切り落とされる、鞭で打たれる苦しみ、国外に追放される苦しみがある。 相続の苦しみには九種類あるが、ここでは説明しない。 あらゆる種類の苦しみには五種類あり、前述の通りである。五つの楽と相反する苦しみとは、因の苦、感受の苦、楽を対治する苦、絶えず感受し続ける苦、出家・遠離・寂滅・菩提の楽に対治するものである、在家の欲望に執着する凡夫の苦である。これらを五つの苦しみという。 また五つの苦しみとして、逼迫の苦しみ、道具などの不足の苦しみ、四大の増減の苦しみ、望みを失う苦しみ、三界の煩悩による汚れの苦しみがある。これらを五つの苦しみという。この五つと先の五つを合わせて、略して十種のあらゆる苦しみという。 先の五十五種とこの五十五種を合わせて、略して百十種の苦しみとする。これが菩薩の「悲」の対象となる境界である。これを縁として悲心が生じ、修行を重ね、成長させ、成就させ、満足させるのである。

於彼大苦聚，緣十八種苦，生大悲心。云何十八苦？謂愚癡報苦、行苦、所攝究竟苦、因苦、生苦、自作苦、他逼迫苦、他作苦、惡戒苦、惡見苦、本因苦、大苦、地獄苦、善趣攝苦、一切性苦、無智苦、增長苦、受苦、鄙穢苦。復次有四行悲，名為大悲：一者緣彼眾生甚深微細難知之苦而起悲心；二者久遠長養於百千劫修習慇懃發悟緣生；三者菩薩隨其發悟入於悲心，為令眾生永離眾苦故捨百千身命，何況一身及諸財物；四者悉能代受一切種苦出離快淨，謂究竟地菩薩菩薩清淨及如來如來地清淨。復次菩薩於此百一十種苦修習悲心，則為修習菩薩一切悲心，則能疾得清淨悲心入淨心地。菩薩於諸眾生極親厚想、愛念想、欲為所作想、不疲厭想、代受苦想、所作自在想。悲如苦諦無間等，聖弟子究竟深入厭離心相續生，謂菩薩悲心。前行觀百一十種大苦種積聚，菩薩如是修習悲心，於內外事無有少物而不捨離、無一律儀而不攝持、無一他不饒益而不堪忍、無一精進而不勇猛、無一禪定而不正受、無一智慧而不得入。若人問佛：「住何等住處名為菩薩？」應正答言：「住大悲者是。」彼一無量如前說，於諸無量最為無量積聚，攝無量愛果、無量行，一向純善無有罪過。如是具足修習無量者，有四功德利：修此無量先得第一現法樂住；無量功德具攝受增長；於無上菩提淨心堅固；為眾生故於生死中代諸眾生受一切苦。

> その大いなる苦しみの集まりにおいて、 十八種の苦しみに緣って、大悲の心を生じる。 十八の苦しみとは何か。 すなわち、無知の報いとしての苦しみ、行為そのものの苦しみ、すべてを包み込む究極の苦しみ、 原因の苦しみ、生まれる苦しみ、自ら招く苦しみ、他者から強いる苦しみ、他者が作り出す苦しみ、 悪い戒律の苦しみ、誤った見解の苦しみ、根本原因の苦しみ、大きな苦しみ、地獄の苦しみ、 善い世界に属する苦しみ、あらゆる性質の苦しみ、智慧なき苦しみ、増え続ける苦しみ、 受け取る苦しみ、卑しく汚れた苦しみである。 さらに、大悲と呼ばれる四つの悲みの行いがある。 第一に、その生きとし生けるものの、極めて深く微細で知りがたい苦しみに緣って悲みの心を起こすこと。 第二に、長い年月をかけて百千劫の間、修行を重ね、熱心に悟りを開き、緣って生じることを發すること。 第三に、菩薩はその悟りにしたがって悲みの心に入り、生きとし生けるものに永遠に苦しみから離れさせるために、 百千の身や命を捨てる。ましてや一つの身体や財寶などはなおさらである。 第四に、すべての種の苦しみを代わりに受け、苦しみから出て清らかになること。 すなわち、究竟地の菩薩の清らかさと、如来の清らかさである。 さらに、菩薩はこの百十種の苦しみについて悲みの心を修習することにより、 菩薩のあらゆる悲みの心を修習することとなり、 速やかに清らかな悲みの心を得て、清らかな心の境地に入ることができる。 菩薩は、生きとし生けるものに対して、 極めて親しいという想い、愛しむという想い、何かをしてあげたいという想い、 疲れないという想い、代わりに苦しみを受けようという想い、思いのままに行動できるという想いを持つ。 悲みは苦しみの真理をありのままに観ることと等しく、 聖なる弟子は究極まで深く入り、厭い離れる心が次々と生じる。 これを菩薩の悲みの心という。 先行して百十種の大きな苦しみの積み重なりを観察し、 菩薩はこのように悲みの心を修習するので、 内外の事柄について、少しも捨てないものはなく、 守らない戒律はなく、 他者の利益にならずに耐えられないものはなく、 勇ましくない精進はなく、 正しく受け止めない禅定はなく、 入ることのできない智慧はない。 もし人が佛に問うたなら、「どのような住まいに住む者を菩薩というのか」と。 正しく答えるべきである。「大悲に住む者を菩薩という」と。 その一つの無量の心は先に述べた通りであり、 諸々の無量の心の中でも最も無量の集まりであり、 無量の愛の果報と無量の行いを包み込み、 ひたすらに純粋で善く、過ちがない。 このようにして無量の心を十分に修習する者には、四つの功徳の利益がある。 この無量の心を修習すれば、まず第一に現在の法における安楽の境地を得る。 無量の功徳をすべて受け入れ、増長させる。 無上の菩提に対する清らかな心が固くなる。 生きとし生けるもののために、生死の中で彼らのすべての苦しみを代わりに受ける。