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title: "菩薩地持經 · 17 菩提品"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
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### 菩薩地持方便處菩提品第十七

> 菩薩地持方便処 菩提品 第十七

云何菩薩慚愧？略說有二種：一者自性；二者依處。菩薩行無罪行，自覺非法內自羞恥，是名為慚。以此非法故，於他生畏恭敬羞恥，是名為愧。又羞恥菩薩，性自專精，況復修習，是名菩薩自性慚愧。依處者，略說有四種：若所應作，不隨建立而生羞恥，是名初依處。所不應作，隨順建立而生羞恥，是名第二依處。若為惡覆藏而生羞恥，是名第三依處。若自疑悔能自除滅，續起羞恥，是名第四依處。是名依處。云何菩薩不動力？略說有二種：一者自性；二者依處。能斷染污心，不令一切煩惱自在，堪忍眾苦，種種財利種種恐怖，修正方便而不傾動，性自寬忍性能思惟，是故不動，是名自性不動力。復次菩薩不動力，略說五種不動：一者種種輪轉苦能速除滅；二者所化種種眾生造諸惡行，為是等故長夜受苦；三者伏諸異論；四者為諸大眾隨順說法；五者演說勝妙甚深之法，能令菩薩具足受持一切禁戒。

> 菩薩の慚愧（ざんき）とは何でしょうか。簡単に言えば、二種類あります。第一に「自性（じしょう）」、第二に「依処（えしょ）」です。 菩薩が善行を積み悪行を遠ざけ、自ら「これは法にかなわない」と気づき、心の内で恥じることを、「慚（ざん）」といいます。また、その非道な行いのために、他者に対して畏れ敬い、恥じ入ることを「愧（き）」といいます。さらに、菩薩は本来、専ら精進する性質を持つゆえに、ましてや修行を積めばなおさらです。これを「菩薩の自性としての慚愧」と呼びます。 「依処」とは、簡単に言えば四種類あります。為すべきことを、そのまま受け入れずに恥じること、これを第一の依処とします。為すべきでないことを、素直に従って行い恥じること、これを第二の依処とします。悪事を隠し覆って恥じること、これを第三の依処とします。自らの疑いや後悔を自ら消し去り、さらに恥じること、これを第四の依処とします。これらを依処といいます。 では、菩薩の「不動力」とは何でしょうか。簡単に言えば二種類あります。第一に自性、第二に依処です。汚れた心を断ち切り、あらゆる煩悩に支配されず、苦しみに耐え、様々な財利や恐怖に対しても、正しい修行の方法を修めながら決して動じないこと。本来、寛容で忍耐強く、よく思惟する性質のゆえに動かないこと。これを「自性としての不動力」と呼びます。 さらに、菩薩の不動力には、簡単に言えば五つの動かない側面があります。第一に、様々な輪廻の苦しみを速やかに消し去ること。第二に、教化する様々な衆生が悪行を起こすために、そのために長い間苦しみを受けること。第三に、様々な異論を抑え伏せること。第四に、大衆のために教えに従って説法すること。第五に、勝れて妙なる甚深の法を説き、菩薩があらゆる戒律を完全に受け持ち保つことができるようにすることです。

云何菩薩心無疲厭？有五因緣，修正方便而不疲厭。一者菩薩性自有力而不疲厭；二者於不疲厭數數修習而不疲厭；三者方便所攝，精進勇猛自觀前後，所修轉勝而不疲厭；四者深利智慧思惟成就而不疲厭；五者於諸眾生深起悲心，常等哀愍而不疲厭。云何菩薩善知諸論？是菩薩於五明處、名身句身味身，從他所聞具足攝受誦習通利，從他聞義善能思量。如是菩薩知法知義，於法於義已受不忘。未修習者，漸漸增進聞思究竟，次第成熟得喜淨心。菩薩如是行者無量滿足，善知諸論而不顛倒。

> 菩薩の心にどうして倦むこと（疲れ厭うこと）がないのか。その因縁は五つある。正しい修行の手段を整えても、決して疲れないのである。 第一に、菩薩は本来、もって生まれた力によって疲れない。 第二に、倦まないこと自体を繰り返し習い修めることで、疲れない。 第三に、巧みな方便を備え、精進勇猛に努め、自分の修行の前後を観察して、その修行がさらに勝れたものへと進んでいるのを知るので、疲れない。 第四に、深く優れた智慧によってよく考え抜かれているので、疲れない。 第五に、全ての生きとし生けるものに対して深い悲しみの心を起こし、常に平等に憐れみの心を持っているので、疲れない。 では、菩薩はどのようにして様々な論（教え）を正しく知るのか。この菩薩は、五つの明らかな学問分野（五明）について、また（言葉を構成する）名身・句身・味身について、他者から聞いて完全に受け止め、読み暗唱し、通じて流暢に扱えるようになる。他者から教えの意味を聞いては、それをよくよく考える。このようにして、菩薩は法（教え）を知り、その意味を知る。法とその意味を、すでに受け取って忘れることがない。まだ十分に習い修めていないものについては、少しずつ進めて、聞くことと考えを極めることの完成を目指す。そして順を追って成熟し、清らかで喜びに満ちた心を得る。菩薩はこのように実践し、限りなく満ち足りて、様々な論を正しく知り、決して誤った見方に陥ることがない。

云何菩薩善知世間？是菩薩於眾生世間如實了知，所謂生老死、此沒彼生。此眾生於生死出離，如實了知。復次於眾生世間濁世增時如實了知，離濁世增時亦如實知。所謂五濁：一曰命濁；二曰眾生濁；三曰煩惱濁；四曰見濁；五曰劫濁。謂今世短壽，人極壽百歲，是名命濁。若諸眾生不識父母、不識沙門婆羅門及宗族尊長、不修義理、不作所作、不畏今世後世惡業果報、不修慧施、不作功德、不修齋法、不持禁戒，是名眾生濁。若此眾生增非法貪，刀劍布施、器仗布施，諍訟鬪亂、諂誑妄語，攝受邪法及餘惡不善法生，是名煩惱濁。若於今世法壞法沒，像法漸起邪法轉生，是名見濁。若飢饉劫起、疾病劫起、刀兵劫起，是名劫濁。是名菩薩知眾生世間。復次菩薩於器世間若成若壞如實了知。復次菩薩於世間、世間集、世間滅、世間集滅道、世間味、世間患、世間離如實了知。

> 菩薩はどのようにして世間をよく知るのでしょうか。菩薩は衆生の世間をあるがままに理解します。すなわち、生・老・死、そしてここを去りあちらに生まれること、また、衆生が生死の輪廻から出離することを、あるがままに理解します。 さらに、衆生の世間において、濁りの世が増す時をあるがままに理解し、濁りの世が減る時もまたあるがままに理解します。いわゆる五濁とは、第一に命濁、第二に衆生濁、第三に煩悩濁、第四に見濁、第五に劫濁です。 現代は寿命が短く、人の最長寿命は百歳であること、これを命濁と名づけます。もし衆生が父母を知らず、沙門やバラモン、宗族や目上の者を知らず、道理を修めず、なすべきことをなさず、今世や後世の悪業の報いを恐れず、施しを修めず、功徳を作らず、斎法を修めず、戒律を守らないならば、これを衆生濁と名づけます。もしこの衆生が非法の貪りを増し、刀剣の施しや武器の施しを行い、争い騒ぎ、へつらい偽りの妄語をなし、邪法を受け入れるなど、そのほかの悪や不善の法が生じるならば、これを煩悩濁と名づけます。もし現代において正しい法が壊れ滅び、像法が徐々に起こり、邪法が転じて生じるならば、これを見濁と名づけます。もし飢饉の劫が起こり、疫病の劫が起こり、刀兵の劫が起こるならば、これを劫濁と名づけます。これを菩薩が衆生の世間を知ることと名づけます。 さらに、菩薩は器世間の成立と壊滅をあるがままに理解します。また、菩薩は世間、世間の集まり、世間の滅び、世間の集まりを滅する道、世間の味わい、世間の患い、世間からの離脱をあるがままに理解します。

復次菩薩眼及色俱生四大名士夫，身名為人，無有第三。言我眾生想，無第三想。言我眼見色乃至我意識法，但是言說數。言是長老，如是生、如是姓、如是食、如是苦覺樂覺、如是長壽、如是久住，如是等言說分齊，一切皆如實知。菩薩於此眾生世間、器世間，八行觀察世間義、世間第一義，如實了知，是名知世間。

> さらに、菩薩は眼と色が共に生じる四つの大きな要素から成るものを「士夫」と名付け、身体を「人」と名付けるが、第三のものは存在しない。「私」や「衆生」という思いも、第三のものとしての想いはない。私が眼で色を見る、あるいは意識が法を識別するというのも、単なる言葉の上の呼び名に過ぎない。これを「長老」と呼び、このように生まれ、このような姓を持ち、このように食べ、このように苦や楽を感じ、このように長寿であり、このように長く住む、といった言葉による区別も、すべてあるがままに知る。菩薩はこの衆生の世間と器の世間において、八つの行によって世間の意味と世間の第一義を観察し、あるがままに了知する。これを「世間を知る」という。

復次菩薩若見上座及勝功德者，尊重奉迎設床請坐，合掌恭敬禮拜問訊。年德等者，正言詶對軟語安慰，不起等慢稱量彼此。年德下者，隨力勸喻稱彼實德，為覆實罪，不令恥懼生退沒心，不輕蔑彼。若見眾生求法求財，不背面不嚬蹙，歡喜舒顏，不嗤彼闕。見彼𡉏頓不起輕心。若見一切上中下人，先語問訊，歎言善哉。隨宜善處，隨力所能攝以財法。不諂曲不自重、不自高不自大，不以增高而自矜異。於諸親厚一切給與，終不棄捐若病不病。隨順身口意業，與相習近為善知識，離諸怨對孤獨貧乞無所歸蔭，隨其力能為作依怙，不以憂苦加於眾生。因緣事起，所應戲笑如法戲笑非不如法。不以戲言形名他人，乃至親密亦復不說。於他人所不久瞋恨，雖復瞋彼不揚其過。若為他人身口毀辱，能善思惟以法自解。自省己過心不躁動，身口意業慮而後行。離十四垢業，謂隱覆六方，離四惡友、攝四善友，如修多羅廣說。現法樂義、錢財具足、勤力具足、守護具足，以正命心為諸世間工巧之業，不曲不幻不欺誑，常有慚愧行、無罪行，威儀具足重慎威儀。為他親厚受寄不侵，若負人債終不抵捍。分父餘財平等無偏。若是真寶，主作偽想，依實與價。決斷世事辯正機速。彼彼所作來求請者，悉與同事終不廢退。能隨問答。為正事業不為非正。若為國王，以法治世不為非法，不樂罰責，於惡戒眾以戒建立。成就八種賢聖之語，見則言見，聞覺識知則言識知，不聞不見不覺不知則言不知。菩薩成就如是等法，如世間知、如世間轉，如實了知，是名知世間。

> また、菩薩は、もし上座や勝れた功徳を持つ者を見れば、それを敬い迎え、座を設けて請じ、合掌して恭敬し、礼拝し、安否を問う。年齢や徳が同等の者には、正しく言葉を交わし、柔らかな言葉で慰め、「等しい慢」を起こして彼此を計らない。年齢や徳が下の者には、力に応じて諭し、その実際の徳を称え、過ちを覆して、彼らに恥じ恐れ、退いて没する心を起こさせず、軽んじない。 もし衆生が法や財を求めるのを見れば、背を向けず、しかめ面をせず、喜びの顔を舒べ、その欠如を嘲笑しない。彼らが萎えているのを見ても、軽い心を起こさない。 もしあらゆる上・中・下の人々を見れば、先に語りかけて安否を問い、「善きかな」と称嘆する。状況に応じて善く処し、自らの力の及ぶ限り、財と法をもって摂取する。諂曲せず、自らを重んじず、自らを高くせず、自らを大とせず、高ぶって自らを誇り異とすることをしない。 全ての親しい者たちには、与えるべきものをすべて与え、病むときも病まざるときも、決して捨て置かない。身・口・意の業に随順し、彼らと親しく交わって善知識となり、怨みや対する者、孤・独・貧・乞い、帰る蔭のない者たちを離れ、その力の及ぶ限り、依怙となって、憂い苦しみを衆生に加えない。 因縁の事が起こったならば、戯笑すべきことは法に従って戯笑し、法に従わないことはしない。戯言をもって他人を形名せず、親密な間柄であっても、またそれを言わない。他人に対して久しく瞋り恨まず、たとえその人に瞋っても、その過ちを揚げない。 もし他人から身や口で毀られ辱められても、よく思考し思いを巡らせて、法をもって自らを解く。自らの過ちを省みて心は躁動せず、身・口・意の業を慮ってから行う。 十四の垢の業を離れる。すなわち、六方を隠覆し、四悪友を離れ、四善友を摂することであり、これは経典に広く説かれる通りである。現世の法の楽義、財貨の具足、勤力の具足、守護の具足をもって、正命の心をもって諸々の世間の工巧の業に従い、曲がらず、幻惑せず、欺かず、常に慚愧あり、罪行なく、威儀具足し、慎み重き威儀を有する。 他人から親しく信頼され、預けられたものを侵さず、もし人に負債があっても、決して抵当を盾に拒まない。父親の残余の財産を分けるには、平等にして偏りがない。もし真の宝であっても、主が偽物と思っているならば、実に従って価格を支払う。世間の事を決断するに、弁舌正しく機敏に速い。 彼らのなす様々な働き、来て請う者には、すべて共に事をなし、決して退け廃しない。問いに応じて答えることができる。正しい事業のためには、正しくないことはしない。 もし国王となれば、法をもって世を治め、非法を行わず、罰や咎めを好まず、悪しき戒の衆には戒をもって建立する。 八種の賢聖の語を成就する。すなわち、見たことを見たと言い、聞き、感じ、認識し、知ったことを知ったと言い、聞かず、見ず、感じず、知らないことは知らないと言う。 菩薩がかくの如き法等を成就することを、世間の知る如く、世間の転ずる如く、如実に了知する。これを知世間と名づく。

云何菩薩修習四依？是菩薩為義故從他聽法，不為味為義聽法。不為味者，若聞世間非巧便說，依義菩薩亦專心聽。復次菩薩於闇說明說如實了知，知所應依，不以上座多識。若佛若僧，依止如是諸說法人。如是依止所應，不依於人。於真實義心不動搖，能自了知不由於他。復次菩薩於如來所深信清淨，一向信受如來所說，依了義經非不了義。依了義經者，於此法律不可破壞。不了義經者，謂以種種門說而不決定，應有疑問。若菩薩於了義經作不決定者，於此法律則為可壞。復次菩薩得堅固修慧，不以聞思識諸法義，用修慧知，不以聞思識知故。聞如來所說第一甚深法義，不起誹謗。是名菩薩修習四依。如是成就者，略說四種無量，顯示其義具足。大師修慧所知，一切四依平等方便，菩薩於彼出要道皆悉明達而不迷惑。

> 菩薩が四つの依りどころをどのように修めるかというと、まず第一に、菩薩は意味（義）のために他者から法を聞き、味わいのために聞くのではありません。味わいのためでないとは、たとえ世間的で巧みでない説法であっても、意味に依る菩薩は心を集中して聞くということです。次に、菩薩は闇説（あんせつ）と明説（みょうせつ）をありのままに知り、何に依るべきかを理解します。上座であることや知識が多いことではなく、仏や僧伽のような説法者に依り、そのように依るべきところに依り、人には依りません。真実の意味において心は動かず、他に頼らず自らを知ることができます。 さらに、菩薩は如来に対して深い清らかな信を起こし、如来の説かれたことを一貫して受け入れ、了義経（りょうぎきょう）に依り、不了義経（ふりょうぎきょう）には依りません。了義経に依るとは、この教えと戒律において破壊されないことです。不了義経とは、様々な方法で説かれても確定的ではなく、疑問が生じるものです。もし菩薩が了義経に対して不確定な態度をとるなら、この教えと戒律は破壊されうるものとなります。 また、菩薩は確かな修慧（しゅうえ）を獲得し、聞（もん）や思（し）によって法の意味を識るのではなく、修慧によって知り、聞や思による知識には頼りません。如来の説かれた最も深遠な法の意味を聞いても、誹謗を起こしません。これが菩薩の四依の修習です。このように成就すると、簡潔に四種の無量を示し、その意味が完全に明らかになります。大師の修慧によって知られる一切の四依は平等な方便であり、菩薩はその要諦をすべて明らかに理解し、迷うことはありません。

云何菩薩四無礙慧？於一切法一切章句，如其體實，修慧所知無礙不謬，是名法無礙。於一切法一切相，如其體實，修慧所知無礙不謬，是名義無礙。於一切法一切名處，如其體實，修慧所知無礙不謬，是名辭無礙。於一切法一切種分別，如其體實，修慧所知無礙不謬，是名樂說無礙。菩薩如是四無礙，得五處無量巧便，謂陰巧便、界巧便、入巧便、緣起巧便、處非處巧便。此四行菩薩，於一切法能自覺悟為他顯示；除此已更無有餘能自覺悟，況餘顯示。

> 菩薩の四種の無礙慧とは何でしょうか。 あらゆる法（現象）とその文句について、その本質のままに、修行による智慧が理解し、妨げなく誤りがないこと、これを法無礙といいます。 あらゆる法とその特徴について、その本質のままに、修行による智慧が理解し、妨げなく誤りがないこと、これを義無礙といいます。 あらゆる法とその名称の用い方について、その本質のままに、修行による智慧が理解し、妨げなく誤りがないこと、これを辞無礙といいます。 あらゆる法とその様々な分類について、その本質のままに、修行による智慧が理解し、妨げなく誤りがないこと、これを楽説無礙といいます。 このように菩薩は四つの無礙慧をそなえ、さらに五つの領域における無量の巧みな技法を得ます。すなわち、五蘊の巧みな技法、十八界の巧みな技法、十二処の巧みな技法、縁起の巧みな技法、そして道理・非道理の巧みな技法です。 この四つの行をそなえた菩薩は、あらゆる法について自ら悟り、また他の人々に示すことができます。この他に、自ら悟り、ましてや他の人々に示すことのできる者は、もはやいないのです。

云何菩薩菩提具？當知二種：一功德具；二智慧具。此二種具，廣說如自他品。又功德、智慧具，菩薩初阿僧祇劫名為下，第二為中，第三為上。

> 菩薩の悟りを成し遂げるための備えとは何か？知るべきだ、二つある。一つは功徳の備え、二つ目は智慧の備えである。この二つの備えについて詳しくは、自他の品に説かれている通りである。また、功徳と智慧の備えについて、菩薩は第一の阿僧祇劫においては「下」と呼ばれ、第二では「中」、第三では「上」とされる。

云何菩薩摩訶衍所攝？修習三十七道分是菩薩依，四無礙慧方便所攝智三十七道分，如實了知而不取證。種種乘方便，彼亦如實知，所謂聲聞乘方便、大乘方便。聲聞乘方便如實知，如聲聞地所說。云何菩薩於大乘方便三十七品如實了知？是菩薩住身身觀，不於身身而起妄想，亦非一切非性。於彼身離言說自性，如實了知，是名第一義身身觀念處。若菩薩觀世諦者，隨無量處方便，知身身觀念處。如身身觀念處，餘念處及餘道品亦復如是。非身等法妄想觀苦、若妄想觀集，亦不於斷起滅妄想，亦不於得因起道妄想。離言說自性，苦法集法滅法道法如實了知，依此第一義修道分，名為修諦。若菩薩隨世諦無量處方便，名為緣諦修。若彼菩薩於此法如是不起妄想者，是名為止。及彼如實知第一義，及無量處方便知法，是名為觀。略說菩薩止有四行：一者第一義；二者俗數智前行；三者一切虛偽妄想不行；四者於此無言無相之法不起妄想其心寂靜，一切諸法悉同一味。如是四行，菩薩止起乃至究竟如來知見。略說菩薩觀有四行，謂此四行所起智慧，是名為觀。離一切法有無智慧，隨無量法分別處觀，於此四行菩薩觀起乃至究竟如來知見，是名略說菩薩止觀。

> 菩薩が大乗の教えに含まれるとは、どのような意味でしょうか。三十七の修行道（三十七道品）を修習することが、菩薩の拠り所です。そして、四つの無礙の智慧（四無礙慧）という方便によって摂せられた智慧を用いて、三十七道品をありのままに理解しながらも、その境地で阿羅漢果などを取って終わることはありません。 様々な乗り物（乗）のための方便を、菩薩はまたありのままに知っています。すなわち、声聞乗の方便と大乗の方便です。声聞乗の方便は、声聞の立場で説かれる通りに、ありのままに理解します。 では、菩薩が大乗の方便において、三十七道品をありのままに理解するとは、どういうことでしょうか。この菩薩は、身体を身体として観察する「身身観」に安住していても、身体について「これは身体だ」というような虚妄の概念を起こしません。かといって、すべてが無だともしません。その身体について、言葉による説明を超えた本性を、ありのままに理解します。これを、第一義（究極の真理）における身身観の拠り所（念処）といいます。 もし菩薩が世俗の真理（世諦）を観察するならば、無量の場面に応じた方便を用いて、身身観の拠り所を理解します。この身身観の拠り所と同様に、残りの三つの拠り所（受・心・法の念処）や、他の道の修行区分（道品）についても、同じように理解します。 これらの身体などの法に対して、虚妄に「これは苦だ」と観じたり、「これは集（原因）だ」と虚妄に観じたりしません。また、滅（消滅）について「断ち切る」という概念を起こさず、道（修行法）について「得る」という概念も起こしません。言葉による説明を超えた本性として、苦・集・滅・道の法をありのままに理解し、この第一義に基づいて修道の区分を実践することを、「真理（諦）を修める」といいます。 もし菩薩が世俗の真理に従って、無量の場面に応じた方便を用いるならば、それを「縁（条件）に基づいて真理を修める」といいます。 もしその菩薩が、このような諸法に対してこのように虚妄の概念を起こさないならば、それを「止（シャマタ、心の静けさ）」といいます。そして、そのように第一義をありのままに理解し、また無量の場面に応じた方便を用いて法を理解することを、「観（ヴィパッサナー、物事をありのままに見る智慧）」といいます。 簡潔に言えば、菩薩の「止」には四つの種類があります。 第一に、第一義に基づくもの。 第二に、世俗の知識に先立つ智慧に基づくもの。 第三に、あらゆる虚偽の虚妄な考えを働かせないもの。 第四に、この言葉や形のない法について虚妄の概念を起こさず、心が静かであり、すべての法がまったく同じ味わいであると観じるもの。 以上のような四種類によって、菩薩の「止」は始まり、最終的には如来の知見にまで至ります。 簡潔に言えば、菩薩の「観」にも四つの種類があります。すなわち、この四種類の「止」によって起こされる智慧を、「観」といいます。あらゆる法について「ある」「ない」という智慧を離れ、無量の法をそれぞれの場面に応じて分別して観察します。この四種類によって菩薩の「観」は始まり、最終的には如来の知見にまで至ります。これが、菩薩の止観の概要です。

云何菩薩巧方便？略說十二種，為起內佛法有六種、為外成熟眾生有六種。云何為起內佛法六種巧方便？一者菩薩悲心顧念一切眾生；二者一切諸行如實了知；三者求無上菩提智；四者依顧念眾生捨離生死；五者依諸行如實知，以無染心輪轉生死；六者依求佛智慧熾然精進。是名為起內佛法六種巧方便。云何為外成熟眾生六種巧方便？一者菩薩巧方便以少善根起無量果；二者以少方便起無量善根；三者毀壞佛法眾生除其暴害；四者處中眾生令入佛法；五者已入眾生令其成熟；六者已成熟者令得解脫。云何菩薩能以少善根得無量果？是菩薩教下劣眾生，以少財物施下福田，乃至揣󰉓施於畜生，施已迴向無上菩提，以迴向力故得無量果。云何菩薩以少方便起無量善根？是菩薩見有眾生，修邪法齋而求解脫，則為彼說賢聖八齋斷苦方便不究竟法，授少方便得大果齋。復次邪見眾生苦身求度，為說中道，令離二邊究竟解脫。復次或有眾生求生天者，邪見方便投巖赴火不食等苦，則為演說正法禪定，現法樂住，後生天上如法受樂。復次或有眾生誦習外典求清淨者，以佛正法令其誦習思惟其義，又說如來甚深經典，具足顯示空相應法。彼聞法已，生厭離心專精淨信，於一念頃能攝廣大無量善根，況復次第續念不捨。復次菩薩意解思惟起淨妙想，即以世間香花珍物供養三寶，亦教他人心想供養。復次如是淨心遍滿十方一切世界，供養三寶生隨喜心，亦復教人令其隨喜。復次常修念佛乃至念天，亦教他人令修六念。

> 菩薩の巧みな方便とは何か。大きく分けて十二種類あり、自らの内に仏法を生じさせるための六つと、外で衆生を成熟させるための六つがある。 \*\*内に仏法を生じさせるための六つの巧みな方便\*\* 第一に、菩薩は慈悲の心で一切の衆生を顧みること。 第二に、すべての行（現象）をあるがままに知ること。 第三に、無上の仏陀の智慧を求めること。 第四に、衆生への慈しみに基づいて、生死の輪廻を捨てること。 第五に、諸行をあるがままに知り、煩わりのない心で生死の輪廻を巡ること。 第六に、仏の智慧を求めて、熾んに努力精進すること。 これらを、内に仏法を生じさせるための六つの巧みな方便という。 \*\*外で衆生を成熟させるための六つの巧みな方便\*\* 第一に、菩薩は巧みな方便によって、わずかな善根から無量の果報を得させること。 第二に、わずかな方法で無量の善根を起こさせること。 第三に、仏法を破壊する衆生から、その粗暴な害を取り除くこと。 第四に、中立的な立場の衆生を仏法に入らせること。 第五に、すでに入った衆生を成熟させること。 第六に、すでに成熟した者を解脱させること。 \*\*菩薩がわずかな善根で無量の果報を得るとは、どういうことか。\*\* それは、菩薩が劣った衆生に、わずかな財物で小さな福田（功徳を生む対象）に施しをさせることである。たとえ一口の食べ物を畜生に施す場合でも、施しをした後にその功徳を無上の仏陀の智慧へと回向する。この回向の力によって、無量の果報を得るのである。 \*\*菩薩がわずかな方法で無量の善根を起こすとは、どういうことか。\*\* まず、菩薩は、誤った修行法によって解脱を求めている衆生を見て、彼らに聖なる八斎戒（正しい戒律）と苦しみを断つ方法、また完全ではない教えを示し、わずかな努力で大きな果報を得られる八斎戒を授ける。さらに、誤った見解を持つ衆生が肉体を苦しめて救いを求めているならば、中道を説き、両極端を離れた完全な解脱へと導く。また、天界に生まれようとして、危険な崖から飛び降りたり、火の中に身を投じたり、断食などの苦行をする衆生には、正しい教えによる禅定と、現世での楽しい境地、そして後には天界に生まれて正しく楽しむ方法を説く。さらに、外道の経典を読んで清めようとする者には、仏の正しい教えを読ませ、その意味を考えさせる。そして、如来の深遠な経典、特に空の理法を説く教えを十分に示す。彼らがその教えを聞けば、厭離の心を起こし、専心に清らかな信心を持ち、一瞬のうちに広大無量の善根を集めることができる。ましてや、それを次々と続けて捨てないならなおさらである。また、菩薩は心で清らかな観想を起こし、世間の香や花や貴重品を三宝に供養し、他の人々にも心による供養を教える。さらに、この清らかな心を十方のあらゆる世界に満たし、三宝を供養して喜びの心を起こし、他の人々にもこの喜びの心を持たせる。さらに、常に仏を念じることを含む六念を修行し、他の人々にもこれを教える。

復次正念合掌恭敬，隨時供養一切三寶，亦教他人修此供養。復次於一切眾生一切功德皆悉隨喜，亦教他人起隨喜心。復次於一切眾生入廣大悲心，悉欲代受一切眾苦，亦教他人興此大悲。復次於過去現在一切所犯，以真實隨順求淨戒心向十方佛至誠懺悔，亦教他人如是悔過。彼常如是悔其所犯，以少方便，於一切業障悉得解脫。復次作眾多種種無量變化，一切十方佛法僧處及眾生處，無量神通他心自在菩薩攝取功德。復次菩薩修慈悲喜捨，亦教他修。是名菩薩以少方便，生廣大無量善根果報。

> さらに、心を一つに合わせ、敬って手を合わせ、常にすべての三宝に供養し、また他の人々にもこの供養を修めるよう教えるのです。 さらに、すべての衆生のあらゆる功徳に対して喜びをともにし、また他の人々にもこの随喜の心を起こさせるのです。 さらに、すべての衆生に対して広大な慈悲の心を起こし、そのすべての苦しみを自ら代わりに受けようと願い、また他の人々にもこの大悲の心を起こさせるのです。 さらに、過去と現在に犯したあらゆる過ちについて、真実に従い清らかな戒めを求める心をもって、十方の仏に向かい誠心に懺悔し、また他の人々にもこのように悔い改めるよう教えるのです。このように常に過ちを悔い改めれば、わずかな方便によって、すべての業の障りから解脱することができるのです。 さらに、さまざまな無量の変化を現し、すべての十方の仏法僧の場、および衆生の場において、無量の神通や他心自在の菩薩が功德を積み取るようにするのです。 さらに、菩薩は慈悲喜捨を修め、また他の人々にも修めさせるのです。これを、菩薩がわずかな方便によって、広大で無量の善根の果報を生み出す、といいます。

## 菩薩地持經卷第七

> 菩薩地持経 巻第七

### 方便處攝品第十五

> 第十五章 方便の修行

云何菩薩愛語？略說有九種：一者自性愛語；二者一切愛語；三者難愛語；四者一切門愛語；五者善人愛語；六者一切行愛語；七者除惱愛語；八者此世他世樂愛語；九者清淨愛語。自性愛語者，是菩薩可喜語、真實語、如法語、義饒益語、與眾生語，是名自性愛語。一切愛語者，略說二種：一者菩薩見人舒顏平視，讚言善來等念在前，先語安慰，道路清泰四大調適臥覺安不。如是等隨順世間巧便調言等心慰問，又復呪願妻子眷屬錢財穀米增長具足。見具功德者，勸其信戒施聞智慧令其歡喜。二者說一切種功德用應法安樂眾生，常說等說第一勝妙饒益言說，是名菩薩一切愛語。菩薩愛語二種分別：慰問讚歎者是名隨世間語；第一勝妙饒益言說者是名正說法語。難愛語者略說三種：一者於怨憎所，以清淨心思惟慰喻，發喜饒益而共言語。二者於增上愚癡鈍根眾生，以無厭心思惟籌量，忍諸疲苦以法攝取為具足說。三者於諸諂曲幻偽眾生、欺和尚阿闍梨及尊重福田、或惡邪見，以無害心方便慰喻，發喜饒益而為說法。是名難愛語。一切門愛語者，略說四種：一者斷除諸蓋向於善趣，說初所作法；二者斷除諸蓋實心增進，說應四真諦法；三者見在家出家放逸眾生，等心訶責令離放逸；四者已起疑惑能為開解，若說法若決定論。善人愛語者，略說五種：一者說佛菩薩正因調伏法；二者正出；三者正依；四者正度；五者正示現。處所因緣制戒，是故此法名為正因。於所受戒有所缺犯，教令還淨，是故此法名為正出。說四依所攝正法律至處道，是故此法名為正依。顯示出一切苦不退還道，是故此法名為正度。三種示現於一切說無礙，是故此法名為正示現。一切行愛語者，謂六種七種，略說十三種：聽所應聽法愛語、制所應制法愛語、現諸經法愛語、現諸法相愛語、現諸法名字不顛倒愛語、法句種種分別愛語、慰喻愛語、發喜愛語、自恣安以眾具代其所作虛受愛語、種種恐怖施安愛語、具足說法攝取愛語、開覺不善安立善法見聞疑舉罪折伏愛語、勸有力說法愛語，是十三種名為一切行愛語。除惱愛語者，略說八種，依口四淨八種聖語。口四淨者，離妄語、兩舌、惡口、綺語。八種聖語者，見、聞、識、知，見聞覺知說；不見、不聞、不識、不知，不見不聞不覺不知說。此世他世樂愛語者，略說九種。斷親屬難憂苦故，愛語說法。斷財物難憂苦故，愛語說法。斷疾病難憂苦故，愛語說法。斷戒難憂苦故，愛語說法。斷見難憂苦故，愛語說法。戒具足、見具足、威儀具足、正命具足故，愛語說法。清淨愛語者，有二十種說法，如前力種性品說。云何菩薩利益？利益者，如愛語廣說，異利益今當說。謂菩薩一切行愛語，隨所說義利安眾生。自性利益者，是愛語具足，顯示眾生如所應學，隨利益行法次法向，住於悲心無貪心，勸導教授調伏安立，是名自性利益。一切利益者，略說二種：一者一切眾生未熟者方便令熟；二者已熟者令至解脫。復有三種：一者與現世利；二者與後世利；三者與現世後世利。勸教眾生如法德業獲大財寶，守護增長與現世利，於此現世得大名稱及眾具樂，攝受安立勸捨大財，在家出家乞求活命。與後世利樂，已必定得故，現則不定。勸在家出家次第離欲，於此現世身心息止安隱樂住，後世則生淨妙天上，及無餘涅槃界而般涅槃，是名現世後世利。難利益者，略說三種：一切眾生本不修善因而能利益，以苦勸化故。二者本修善根得大財寶深起貪著，而能利益彼大放逸故。三者外道異學著本邪見而能利益彼，極愚癡違正法故。一切門利益者，略說四種：一者不信者勸令生信乃至建立；二者惡戒者勸修淨戒；三者惡慧者勸修正慧；四者慳貪者勸修慧施乃至建立。善人利益者，略說五種：一者於眾生真實利與；二者時與；三者義饒益與；四者柔軟與；五者慈心與。一切行利益者，謂六種七種，略說十三種：應攝等攝；應伏等伏；違佛法者除其障礙；中住眾生令入法律；已入者以三乘法而成熟之；已成熟者令得解脫，眾具護養勸導成就，所謂勸捨小乘守護大乘，獨靜一心，淨諸障礙，憶念及修勸令成就。有聲聞緣覺種性者，以聲聞緣覺乘而成就之。有如來種性者，以無上菩提而成就之。除惱利益者，略說八種。若有眾生，所應慚處令無慚纏，心得開覺；無愧纏、睡纏、眠纏、掉纏、悔纏、慳纏、嫉纏，悉令開覺亦復如是。此世他世樂利益者，略說九種：普令眾生身業清淨，謂授一切種不殺、不盜、不邪婬、不飲酒。普令眾生口業清淨，謂授一切種不妄語、不兩舌、不惡口、不綺語。普令眾生意業清淨，謂授無貪無恚正見。清淨利益者，略說十種，五種外清淨、五種內清淨。五種外清淨者，一者無罪；二者不隨轉；三者次第；四者一切；五者隨所應。雜惡行者、先惡行者、一向惡行者，等以善法而成就之，是名無罪利安眾生。樂解脫者勸令解脫，是名不隨轉利安眾生。童蒙眾生為說近法，近教誡而隨順之。中智者為說中法，教誡而隨順之。上智者為說深法，勝微細誡而隨順之。令其次第漸得善法，是名次第利安眾生。四姓乃至天人一切眾生，隨能隨力利益安樂，是名一切利安眾生。下中上善隨其所應方便利益，是名五種外清淨。六種內清淨者，廣住悲心利安眾生；忍一切苦而不懈惓，心常歡喜利安眾生；以自在身謙卑忍下猶如僕使亦如旃陀羅子，離於我慢利安眾生；離於利養捨於虛偽，心在勝妙利安眾生；於究竟處終不退轉，常以慈心利安眾生。是名五種內清淨。如是外內五種清淨，是名十種清淨利安眾生。云何菩薩同事？是菩薩此義此善、若等若勝，受與眾生悉與己同，是名同事菩薩。得此同事，調伏眾生堅固決定，終不退轉於勸授善法。何以故？彼作是念：「是菩薩與我同事，必能令我安隱快樂。是菩薩所授我者，自修行故，非不樂因而自修行。」若以同事教授眾生，彼終不言：「汝自不行，云何勸授教誡於人？汝應從人諮受教誡。」有菩薩同事，如是同事不示他。有菩薩不同事，如是同事示他。有菩薩同事，亦示同事。有菩薩不同事，亦不示同事。不示他者，諸菩薩等功德、住菩薩道等功德，菩薩隱覆真實功德。不為顯示他者，下劣眾生怖畏深法，菩薩思惟方便調伏，現同彼法如旃陀羅，疾得利益息惱調伏故，現與彼同。示亦同事者，為調伏彼受動搖善根眾生故，菩薩以住善根若上善根顯示同事。亦不示同事者，心自放逸，棄捨他利。從種種施如前說，乃至同事諸波羅蜜，自成熟佛法、成熟眾生，是名略說菩薩善法業。從種種施，乃至同事，是無量善法菩提分。當知三種行、二種勝。三種淨身口意行，是名為行。上妙無染，是名為勝上妙。有三種：眾生等、事等、時等。眾生等者，是菩薩為一切眾生行施等善根，不自為己。事等者，是菩薩行施等一切種善根。時等者，是菩薩不離方便，時節日夜今世後世，常修施等善根，心不休息。無染有四種：是菩薩歡喜心修習善法，不因是故生憂苦悔恨。是菩薩不惱他人，不著諸見、不雜惡行行施等善根。是菩薩一切自己功德，專至顯現堅固顯現寂滅決定，不由於他行施戒等諸善法。是菩薩不於施等善法而求果報，若轉輪聖王帝釋魔梵，不求他報，不依此等求名利身命，於此等行淨歡喜俱，不惱亂他，專至無依。從施等乃至同事諸善法行，是名無染熾然不動快淨，是名清淨菩薩入淨心地。一切善根熾然不動，是名熾然淨心地。菩薩一切善法不思惟起，是名不動淨心地。菩薩隨所得所修善法則不退轉，於未來世必定不退，如明分月日夜增長，善法不退亦復如是。代究竟地菩薩一生相續，若最後身所得善根，是名快淨，於上更無菩薩淨地故。是名三種行、二種勝。三種淨當知，從檀波羅蜜乃至同事，一切施乃至一切同事，修習清淨如來具足充滿無上菩提金剛法身正法久住果報生。難施乃至難同事，修習清淨如來平等奇特未曾有法成就果報生。一切門施乃至一切門同事，修習清淨如來一切取勝天人供養果報生。善人施乃至善人同事，修習清淨如來於無足二足四足多足、色無色想無想非想非非想一切眾生最上果報生。一切行施乃至一切行同事，修習清淨如來種種無量功德攝受，三十二大人相八十隨形好果報生。除惱施乃至除惱同事，修習清淨如來於菩提樹下一切魔怨不能傾動果報生。此世他世樂施乃至此世他世樂同事，修習清淨如來最勝禪解脫三昧正受安樂果報生。清淨施乃至清淨同事，修習清淨如來一切種淨，所謂四種身淨、緣淨、心淨、智淨果報生，三不護、十力、四無畏、三念處、一切不共佛法清淨果報生。是名菩薩施等善法果報無上無量，菩薩無罪行之所出生。

> 菩薩の愛語（あいご）とは何でしょうか。大きく分けて九種類あります。一つ目は自性愛語、二つ目は一切愛語、三つ目は難愛語、四つ目は一切門愛語、五つ目は善人愛語、六つ目は一切行愛語、七つ目は除悩愛語、八つ目は此世他世楽愛語、九つ目は清浄愛語です。 \*\*自性愛語\*\*とは、菩薩が人に喜びを与える言葉、真実の言葉、法にかなった言葉、人の利益になる言葉、衆生に向けた言葉を指します。これが自性愛語です。 \*\*一切愛語\*\*は、大きく二つに分けられます。第一に、菩薩が相手を見て顔を和らげ視線を合わせ、「ようこそおいでくださいました」と褒め言葉を先に述べ、道中の安全や体調、休息の具合などを気遣う言葉をかけます。このように世間的な慣習に沿った巧みな言葉で、心を込めて慰め問うことです。また、妻や子供、財産や穀物が増えて満ち足りるようにと祈りの言葉を添えます。さらに、すでに功徳を備えている人には、信仰、戒律、施し、聴聞、智慧を勧めて喜ばせます。第二に、あらゆる種類の功徳を備えた、相手にふさわしく安楽をもたらす言葉、常に語り平等に語る、最も優れた利益となる言葉を語ることです。これらが菩薩の一切愛語です。この二つを分けると、慰めや称賛の言葉は「世間に従った言葉」であり、最も優れた利益をもたらす言葉は「正しく法を説く言葉」です。 \*\*難愛語\*\*は、大きく三つに分けられます。一つ目は、怨み憎む相手に対して、清らかな心で思いやり慰め、喜びと利益をもたらす言葉をかけること。二つ目は、非常に愚かで鈍根な衆生に対して、飽きることなく忍耐強く考え抜き、疲れ苦しみを耐え忍んで、法によって導き、十分に教えを説くこと。三つ目は、心が曲がっていたり、偽り欺いたりする衆生、和尚や阿闍梨、尊敬すべき福田を欺く者、あるいは邪悪な見解を持つ者に対して、害そうとしない心で巧みに慰め、喜びと利益をもたらす法を説くこと。これらが難愛語です。 \*\*一切門愛語\*\*は、大きく四つに分けられます。一つ目は、心の覆い（蓋）を断ち切って善い方向へ向かわせるために、最初に為すべき法を説くこと。二つ目は、心の覆いを断ち切って真実の心を増進させるために、四つの真理（四諦）にかなった法を説くこと。三つ目は、在家や出家の放逸な衆生を見て、平等な心で叱り戒めて放逸から離れさせること。四つ目は、すでに生じた疑惑を解消させ、法を説いたり確かな論を述べたりすること。 \*\*善人愛語\*\*は、大きく五つに分けられます。一つ目は、仏・菩薩の正しい因と調伏の法を説くこと。二つ目は、正しく導き出すこと。三つ目は、正しく依拠させること。四つ目は、正しく渡すこと。五つ目は、正しく示現すること。場所や因縁に応じて戒めを定めることから、これを「正因」と呼びます。受けた戒めに欠けや違反があれば、それを清めるよう教えることから、これを「正出」と呼びます。四つの依り所（四依）に基づく正しい法と律、そして悟りに至る道を説くことから、これを「正依」と呼びます。あらゆる苦しみから退かない道を示し出すことから、これを「正度」と呼びます。三つの示現によってすべての教えに滞りなく説くことから、これを「正示現」と呼びます。 \*\*一切行愛語\*\*とは、六種と七種を合わせて十三種あります。聞くべき法を聞かせる愛語、制定すべき律を制定する愛語、様々な経典を示す愛語、様々な法の相を示す愛語、様々な法の名称を顛倒なく示す愛語、法の句を種々に分別して説く愛語、慰めの愛語、喜びを与える愛語、相手の望むままに必要なものを与え、代わって仕事をする愛語、様々な恐怖を取り除き安らぎを与える愛語、十分に法を説いて導き取る愛語、不善を覚醒させ善を建て、見聞や疑いによって罪を指摘し折り伏せる愛語、有能力な者に法を説くよう勧める愛語。この十三種が一切行愛語です。 \*\*除悩愛語\*\*は、大きく八種あり、口の四つの清らかさ（口四浄）と八種の聖なる語に基づきます。口の四つの清らかさとは、嘘をつかないこと（不妄語）、仲違いさせる言葉を言わないこと（不両舌）、荒い言葉を言わないこと（不悪口）、無駄話をしないこと（不綺語）です。八種の聖なる語とは、見たこと、聞いたこと、識ったこと、知ったことを、そのまま「見た、聞いた、識った、知った」と語ること。そして、見ていないこと、聞いていないこと、識っていないこと、知らないことを、「見ていない、聞いていない、識っていない、知らない」と語ることです。 \*\*此世他世楽愛語\*\*は、大きく九種あります。親族に関する苦難の嘆きを断つための愛語の説法。財産に関する苦難の嘆きを断つための愛語の説法。病気に関する苦難の嘆きを断つための愛語の説法。戒律に関する苦難の嘆きを断つための愛語の説法。見解に関する苦難の嘆きを断つための愛語の説法。戒律を満たすこと、見解を満たすこと、威儀を満たすこと、正しい生活を満たすことによる愛語の説法です。 \*\*清浄愛語\*\*には二十種の説法があり、これは以前に述べた力種性品の中に詳しく説かれています。 \*\*菩薩の利益（りやく）\*\*とは何でしょうか。利益とは、愛語において広く説かれた通りですが、異なる利益について今ここで説きましょう。菩薩は、すべての行において愛語を用い、その言葉の意味するところに従って衆生を利益し安らかにします。本来の利益とは、愛語を完全に備え、衆生に学ぶべきことを示し、利益の行に沿って法に従い進み、大悲の心と貪りなき心に留まり、導き、教え、調伏し、安立させることです。これが自性利益です。 \*\*一切利益\*\*は、大きく二つに分けられます。一つ目は、まだ成熟していないすべての衆生を、巧みに導いて成熟させること。二つ目は、すでに成熟した者を解脱に至らせることです。また三つには、現在世における利益を与えること、来世における利益を与えること、現在世と来世の両方の利益を与えることです。衆生に法にかなった徳と業によって大きな財宝を得るよう勧め教え、それを守り増大させることは、現在世の利益です。この現世で大きな名声や様々な楽しみを得、財産を施すように導いて安立させたり、在家や出家が乞食によって生活するよう勧めたりすることは、来世の利益と楽です。なぜなら来世の利益は確かに得られるからです。現世では不確かでも、在家や出家に順を追って欲を離れるよう勧めることは、現世では身心が安らぎ静かに楽しく住まわせ、来世では清らかな天界に生まれ、さらには無余涅槃の境地で涅槃に入ることを可能にします。これが現世と来世の利益です。 \*\*難利益\*\*は、大きく三つに分けられます。善い因を全く修めてこなかった衆生に対して、苦しみを通して教化することで利益を与えること。二つ目は、善根を修めて大きな財宝を得た者が深く執着し放逸になっている時に、それを利益に導くこと。三つ目は、外道や異学が本来的な邪見に執着している時に、それが極めて愚かで正法に反していることを示して利益に導くことです。 \*\*一切門利益\*\*は、大きく四つに分けられます。一つ目は、信心のない者に信心を生じさせ、確立させること。二つ目は、悪い戒律を持つ者に清らかな戒律を修めるよう勧めること。三つ目は、悪い智慧を持つ者に正しい智慧を修めるよう勧めること。四つ目は、慳吝な者に布施と智慧を修めるよう勧めて確立させることです。 \*\*善人利益\*\*は、大きく五つに分けられます。一つ目は、衆生に真実の利益を与えること。二つ目は、時機にかなった利益を与えること。三つ目は、義（意味）において利益となるものを与えること。四つ目は、柔らかな方法で与えること。五つ目は、慈しみの心で与えることです。 \*\*一切行利益\*\*とは、六種と七種を合わせて十三種あります。導くべき者を導き、調伏すべき者を調伏し、仏法に背く者の障害を取り除き、中立的な者を法と律に入らせ、すでに入った者を三つの乗り物（三乗）で成熟させ、成熟した者を解脱させ、必要なものを与えて養い導き成就させることです。具体的には、小乗を捨てて大乗を守るよう勧め、ひとり静かに専念し、諸々の障害を清め、憶念と修行を成就させるよう勧めることです。声聞や縁覚の種性を持つ者には声聞乗や縁覚乗で成就させ、如来の種性を持つ者には無上菩提で成就させます。 \*\*除悩利益\*\*は、大きく八種あります。衆生が恥じるべきところで恥じる心の束縛（慚纏）に苦しんでいる場合、その心を開き覚醒させます。無慚纏、無愧纏、睡纏、眠纏、掉纏、悔纏、慳纏、嫉纏についても同様に、すべて覚醒させます。 \*\*此世他世楽利益\*\*は、大きく九種あります。すべての衆生に身の業を清らかにさせること、すなわち殺さないこと、盗まないこと、邪淫しないこと、酒を飲まないことを授けること。すべての衆生に口の業を清らかにさせること、すなわち嘘をつかないこと、仲違いさせる言葉を言わないこと、荒い言葉を言わないこと、無駄話をしないことを授けること。すべての衆生に意の業を清らかにさせること、すなわち貪りなく、怒りなく、正しい見解を持つことを授けることです。 \*\*清浄利益\*\*は、大きく十種あり、五つの外的清浄と五つの内的清浄に分けられます。五つの外的清浄とは、一つ目に罪がないこと、二つ目に（他に）従って転じないこと、三つ目に順序立てること、四つ目にすべてを網羅すること、五つ目に相手に応じることです。悪行が混ざっている者、先に悪行を犯した者、常に悪行を行う者に対しても、等しく善法で成就させること。これを「罪なく衆生を利益し安らかにする」と言います。解脱を楽しむ者には解脱を勧めること。これを「他に従って転じずに衆生を利益し安らかにする」と言います。未熟な者には易しい法を説き、易しい教えで導き従わせます。中程度の智慧の者には中程度の法を説き、中程度の教えで導き従わせます。優れた智慧の者には深い法を説き、優れた微細な教えで導き従わせます。このように順を追って善法を得させること。これを「順序立てて衆生を利益し安らかにする」と言います。四つの姓（カースト）や天人のすべての衆生に、その能力と力量に応じて利益と安楽を与えること。これを「すべてを網羅して衆生を利益し安らかにする」と言います。下・中・上の善に応じて、それぞれに合った方法で利益を与えること。これが五つの外的清浄です。 五つの内的清浄とは、広く大悲の心に留まって衆生を利益し安らかにすること。あらゆる苦しみに耐え、倦むことなく心常に喜びをもって衆生を利益し安らかにすること。自在な身でありながら謙虚に低くし、召使や旃陀羅（せんだら）の子のように振る舞い、我慢を離れて衆生を利益し安らかにすること。利養を離れ、虚偽を捨て、心を勝れた微妙なものに留めて衆生を利益し安らかにすること。究極の境地において決して退転せず、常に慈しみの心をもって衆生を利益し安らかにすることです。これが五つの内的清浄です。このように外的五種と内的五種の清浄を合わせて、十種の清浄な衆生利益安立と言います。 \*\*菩薩の同事（どうじ）\*\*とは何でしょうか。菩薩は、この義（意味）や善において、同じか、またはそれ以上のものを、衆生に受け与え、すべてを自分と同じようにすることです。これを菩薩の同事と呼びます。この同事を得た菩薩は、衆生を調伏することが堅固で決定的であり、善法を勧め授けることにおいて決して退きません。なぜなら、衆生がこう思うからです。「この菩薩は私と同僚のように行動してくれる。必ずや私を安楽にしてくれるだろう。この菩薩が私に授けるものは、自ら修行しているからであり、楽しくないから修行していないわけではない。」もし同事によって衆生を教え導くならば、彼らは決してこう言わないでしょう。「あなた自身が修行していないのに、どうして他人に勧め教え戒めることができようか。あなたこそ他人から教えを受けなさい。」菩薩には、同事の関係でありながらそれを他に示さない者、同事の関係でないのに示す者、同事であり示す者、同事でなく示さない者がいます。他に示さないとは、諸々の菩薩の功徳や、菩薩道に留まる功徳などを、菩薩がその真実の功徳を隠し覆い隠すことです。他に示すとは、劣った衆生が深い法を怖がる場合に、菩薩が巧みに調伏する方便を考えて、旃陀羅のように彼らと同じ姿を現し、速やかに利益を得させ、苦しみを鎮めて調伏するために、彼らと同じあり方を示すことです。示しも同事もするとは、動揺しやすい善根を持つ衆生を調伏するために、菩薩が善根に留まり、あるいは優れた善根を示しながら同事を示すことです。同事も示さないとは、心が自ら放逸に陥り、他者の利益を放棄することです。様々な施しから、先に述べた同事に至るまでの諸々の波羅蜜は、自らの仏法を成熟させ、衆生を成熟させるものです。これが菩薩の善法の業の概略です。様々な施しから同事に至るまで、これらは無量の善法であり、菩提の一分です。 なお、三つの行（身口意の三業）と二つの勝（すぐれた点）について知らなければなりません。三つの清らかな身口意の行、これを行と呼びます。優れて汚れがないこと、これを「勝」と呼びます。「優れている」には三つあります。衆生が等しいこと、事（対象）が等しいこと、時が等しいことです。衆生が等しいとは、菩薩がすべての衆生のために施しなどの善根を行い、自分のためにはしないことです。事が等しいとは、菩薩が施しなどのあらゆる種類の善根を行うことです。時が等しいとは、菩薩が方便を離れず、時節、昼夜、現在世、未来世にわたって常に施しなどの善根を修め、心が休まることがないことです。汚れがないことには四つあります。菩薩は喜びの心で善法を修習し、そのために憂い苦しみや悔恨を生じないこと。菩薩は他人を悩ませず、諸々の見解に執着せず、悪い行いを混ぜずに、施しなどの善根を行うこと。菩薩は自分のすべての功徳を、専ら明らかに現し、堅固に現し、静かに決定的にし、他人に左右されることなく、施しや戒めなどの善法を行うこと。菩薩は施しなどの善法に対して果報を求めません。たとえ転輪聖王、帝釈天、魔王、梵天のような地位であっても、他からの報いを求めず、これらの果報によって名声や利養、身や命を得ようともしません。これらの行を清らかな喜びと共に行い、他を悩ませず、専らに無依（依り所なきこと）であること。これが無染であり、また熾然（燃え盛る）、不動（動かない）、快浄（清らかで快い）です。これが清らかな菩薩の浄心地への入り方です。すべての善根が熾然として動かないこと。これを熾然浄心地と言います。菩薩のすべての善法が、思惟しなくとも生じること。これを不動浄心地と言います。菩薩が得た善法や修めた善法は退転せず、未来世においても必ず退かないこと。それは月が明るくなるにつれて日夜成長するように、善法が退かないのも同じです。十地を究めた菩薩は一生相続し、最後の身で得る善根、これを快浄と言います。これより上に更なる菩薩の浄地はないからです。これらが三つの行と二つの勝です。三つの清らかさは、檀波羅蜜から同事に至るまで、一切の施しから一切の同事に至るまでを修習し清めることによって、如来の完全なる無上菩提、金剛の法身、正法の永続という果報が生じます。難施から難同事に至るまでを修習し清めることによって、如来の平等で奇特な未曾有の法を成就するという果報が生じます。一切門施から一切門同事に至るまでを修習し清めることによって、如来がすべての勝れた天人から供養を受けるという果報が生じます。善人施から善人同事に至るまでを修習し清めることによって、如来が無足、二足、四足、多足、有色、無色、有想、無想、非想非非想のすべての衆生の中で最上位となるという果報が生じます。一切行施から一切行同事に至るまでを修習し清めることによって、如来が種々無量の功徳を摂受し、三十二の大人相と八十の随形好を備えるという果報が生じます。除悩施から除悩同事に至るまでを修習し清めることによって、如来が菩提樹の下であらゆる悪魔の怨敵に動かされないという果報が生じます。此世他世楽施から此世他世楽同事に至るまでを修習し清めることによって、如来が最も勝れた禅定、解脱、三昧、正受の安楽を得るという果報が生じます。清浄施から清浄同事に至るまでを修習し清めることによって、如来のあらゆる種類の清らかさ、すなわち四種の身浄、縁浄、心浄、智浄の果報が生じます。三つの不護、十の力、四つの無所畏、三つの念処、すべての不共の仏法の清らかさという果報が生じます。これらが菩薩の施しなどの善法の果報であり、無上で無量であり、菩薩の無罪の行いから生じるものです。