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title: "菩薩地持經 · 18 菩薩功德品"
description: "《菩萨地持经》由北凉时期著名译经师昙无谶翻译，属瑜伽行派重要典籍。该经系统阐述菩萨修行的十个阶位（十地）及持守的戒律规范，涵盖发心、修行至成佛的全过程。它反映了公元5世纪大乘佛教菩萨道思想的成熟形态，对汉传佛教菩萨戒体系与修行理论影响深远，是研究大乘菩萨道实践与教义的关键文献。"
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## 菩薩地持經卷第八

> 菩薩地持経 巻第八

北涼中印度三藏曇無讖於姑臧譯

> 北涼・中インド三蔵 曇無讖 姑臧にて訳す

### 菩薩地持菩提分品之餘

> 菩薩地持菩提分品の余

云何菩薩壞佛法者除其暴害，處中者令入，已入者令熟，已熟者令解脫。是菩薩於此四種成就眾生，當知略說六種巧方便：一者隨順；二者立要；三者異相；四者逼迫；五者報恩；六者清淨。菩薩隨順巧方便者，是菩薩欲為眾生說法，先如是柔軟身口行，以施將順自捨恚恨。除恚恨已，彼生愛敬樂欲聞法，然後乃為如應說法，易入易解。時說次第諦不顛倒，以義饒益而為說法忍，諸問答調伏眾生，第一利益哀愍成就。若以神力示現他心而為說法，或請餘人，令種種現化調伏眾生。若有略說義饒益論，廣為分別；若廣大論能為略說。授彼令誦自恣問難，彼受誦已廣為說義。以一切緣三昧度門隨順教授，隨順教誡攝取眾生令其行義。彼諸眾生於如來說甚深微妙空相應經，如其旨趣，彼經中說離自性法及離諸事不起不滅，如虛空如幻如夢。不知義者聞則驚怖，謗彼深經言非佛說；菩薩為彼眾生隨順巧便，於彼深經如來旨趣，隨順其義分別解說而攝取之。如是隨順為彼說言，彼經不說一切都無所有，但言說我自性空無所有，是名離自性、離言說，有事依言事轉，是故言說有自性，亦非第一義有彼自性，是故說言離一切事。言說自性從本已來一切都無所有，云何有生有滅？是故說言不生不滅。譬如虛空，有種種色及諸色業，悉容受彼為作依處，謂虛空行住去來屈申俯仰。又如除彼色及色業已，謂無色自性分，名清淨虛空。如虛空處色等業轉離言說事，種種施設言說妄想虛偽隨轉亦復如是。又如虛空容色等業，離言說法容受妄想亦復如是。若菩薩以智慧，除一切言說所起、邪惑妄想諸虛偽轉，是菩薩以第一聖智離言說事，一切言說自性非性。如虛空清淨，亦非彼展轉有餘自性。是故一切諸法譬如虛空譬如幻，不如事有，亦非一切都無幻事。如是一切法不如言說，愚癡計有亦非一切都無所有。第一義離言說自性，如是方便入非有亦非無，是故知如幻故說如幻。如是菩薩於一切法界，不取不捨不增不減亦無所壞，如實了知。如其所知為人顯示，是名菩薩隨順巧方便。

> 菩薩がどのようにして仏法を壊す者を除き害をなす者を打ち、中程度の者を導き入れ、すでに入った者を成熟させ、成熟した者を解脱させるのか。この菩薩が、これら四種類の衆生を成就させるために、大まかに言えば六つの巧みな方便があることを知るべきである。一つには随順、二つには約束を立てること、三つには異なる相を示すこと、四つには逼迫すること、五つには恩に報いること、六つには清浄であることである。 菩薩の随順の巧みな方便とは、菩薩が衆生のために説法しようとする時、まずこのように柔らかな身体と言葉の行いを行い、施しによって自らの怒りや恨みを和らげ、捨て去る。怒りや恨みを除いた後、彼らは敬愛の心を生じ、喜んで法を聞こうとする。そうして初めて、彼らに応じて法を説き、それは入りやすく理解しやすい。時に応じて順序立てて語り、真実で倒錯していない。意味によって利益を与え、忍耐をもって法を説き、問答を許容し、衆生を調伏する。それは第一の利益であり、哀れみをもって成就させる。もし神通力によって他者の心を示して法を説くならば、あるいは他の人を招いて、様々な変化を示して衆生を調伏させる。もし簡潔に意味のある論を説くならば、詳しく分別して示し、もし広大な論であれば、簡潔にまとめて示す。彼らに読誦を授け、自由に問答させる。彼らが読誦を受け入れた後、広くその意味を説く。あらゆる因縁による三昧の度門によって、随順して教え、戒め、衆生を摂受して、その意味を行わせる。 それらの衆生は、如来の説かれた甚深で微細な、空に相応する経典に対して、その趣旨に従う。その経典の中では、自性を離れる法、および諸々の事を離れ、起こらず滅せず、虚空の如く、幻の如く、夢の如くであると説かれている。その意味を知らない者は聞いて驚き怖れ、その深遠な経典を謗り、「仏の説かれたものではない」と言う。菩薩はそれらの衆生のために、随順の巧みな方便によって、その深遠な経典の如来の趣旨に随順し、その意味を分別して解説し、彼らを摂取する。このように随順して、彼らにこう説く。「その経典は一切が無所有であるとは説かない。ただ『我』という自性が空であって無所有であると説くのであり、これを自性を離れるという。言葉を離れるとは、事が言葉に依って言葉に転ずるからであり、ゆえに言葉には自性があると言う。しかし、第一義においてその自性があるわけではない。ゆえに『一切の事を離れる』と説く。言葉の自性は、元来すべてが無所有である。どうして生や滅があるだろうか。ゆえに『不生不滅』と説く。例えば虚空は、様々な色や諸々の色の働きを、すべて受け入れ、それらの依り所となる。虚空における行住坐臥、屈伸俯仰のようなものである。また、それらの色や色の働きを除いた時、色の自性の部分がないものを清浄な虚空と呼ぶ。虚空が色などの働きを受け入れるように、言葉を離れた事は、様々な仮設の言葉や妄想、虚偽が随って転ずるのを受け入れる。また虚空が色などの働きを受け入れるように、言葉を離れた法は妄想を受け入れる。もし菩薩が智慧によって、すべての言葉から生じる邪な惑いや妄想、諸々の虚偽の転じを除くならば、この菩薩は第一の聖なる智慧によって言葉を離れた事を知り、すべての言葉の自性は自性ではない。虚空が清浄であるように、それらが展転して他の自性があるわけでもない。ゆえにすべての諸法は虚空の如く、幻の如くであり、事のように存在するのではない。また、すべてが幻の事として無いわけでもない。このように、すべての法は言葉のようではなく、愚か者が執着して『有る』と計るが、すべてが無所有であるわけでもない。第一義は言葉の自性を離れている。このような方便によって、『有るのでもなく、無いのでもない』と入る。ゆえに『幻の如し』と知るから、『幻の如し』と説く。このように菩薩は、一切の法界において、取らず、捨てず、増やさず、減らさず、また壊すこともなく、如実に了知する。その知るままに、人のために示す。これを菩薩の随順の巧みな方便と名付ける。

云何菩薩立要巧方便？若有眾生來從菩薩求索十種資生眾具，為立要言：「汝能供養父母沙門婆羅門，廣說如上乃至受戒。若能如是，我當施汝。如其不能，則不施與。」所謂田宅市肆官爵國土錢財六畜工巧醫方，若結婚姻、若食不食，所作同事。爾時菩薩為立要言：「汝能供養父母乃至受戒，我當施汝飲食乃至同事。」復次菩薩，若有眾生犯罪謀逆作不饒益事，為他殺縛斷截捶打、毀辱呵責驅出質債、為他所執。爾時菩薩為立要言：「汝能供養父母乃至受戒，我當救汝令脫眾難。」復次若有眾生，王賊水火人及非人不活惡名諸恐怖等，爾時菩薩為立要言：「汝能供養父母乃至受戒，我當救汝令脫恐怖。」若有眾生欲恩愛集會遠離怨憎，爾時菩薩為立要言：「汝能供養父母乃至受戒，我當方便從汝所願。」復次若有眾生疾病困厄，爾時菩薩為立要言：「汝能供養父母乃至受戒，我當令汝病苦得除。」菩薩如是立要已，彼諸眾生疾修善法，遠離諸惡得隨所欲，是名菩薩立要巧方便。若菩薩與眾生立要已，彼諸眾生不隨要者，如上所許亦不施之，為度彼故非不欲與。

> 菩薩の巧みな方便による条件付きの約束とは、どのようなものか。 ある衆生が菩薩のもとへ来て、十種類の生活に必要な道具を求めるとする。その時、菩薩はこう条件を提示する。「もしあなたが父母や沙門（修行者）、バラモン（司祭）を供養し、さらには戒律を受けて守ることができるなら、私はあなたに施そう。それができないなら、施さない。」具体的には、田畑や家屋、市場や店舗、官職や領土、金銭や財産、家畜、手工芸や医療の知識、結婚の約束、食べ物を食べるか食べないかの選択、共に働くことなどである。 そのような時、菩薩は条件を提示して言う。「あなたが父母を供養し、戒律を受けて守るなら、私は食べ物や飲み物から共に働くことまで、あなたに施そう。」 さらに、もしある衆生が罪を犯したり、謀反を起こしたり、人のためにならない行いをして、殺されそうになったり、捕らえられたり、手足を断たれたり、打ち据えられたり、辱められたり、責められたり、追い出されたり、借金の抵当にされたり、他者に捕らえられたりしたとする。その時、菩薩は条件を提示して言う。「あなたが父母を供養し、戒律を受けて守るなら、私はあなたを救い、様々な苦難から逃れさせよう。」 さらに、もし王や賊、水や火、人間や人間ならざるもの、生活の苦しみ、悪い評判などの様々な恐怖がある時、菩薩は条件を提示して言う。「あなたが父母を供養し、戒律を受けて守るなら、私はあなたを救い、その恐怖から逃れさせよう。」 また、もしある衆生が愛する者との集いを望み、憎む者との別れを願うなら、その時、菩薩は条件を提示して言う。「あなたが父母を供養し、戒律を受けて守るなら、私は方法を尽くして、あなたの願いを叶えよう。」 さらに、もしある衆生が病気や困難に苦しんでいるなら、その時、菩薩は条件を提示して言う。「あなたが父母を供養し、戒律を受けて守るなら、私はあなたの病の苦しみを除いてやろう。」 このように菩薩が条件を提示した後、それらの衆生は速やかに善い行いを積み、様々な悪から遠ざかり、望み通りを得る。これが菩薩の巧みな方便による条件付きの約束と呼ばれるものである。 もし菩薩が衆生と条件を約束した後、その衆生が約束を守らなければ、先に約束した施しも行わない。しかし、それは彼らを救うためであり、決して施したくないからではない。

諸難恐怖及諸病苦、愛念和合、不愛別離，為度彼故一切放捨。示作如是決定之相，非其實心有放捨念，漸漸要令斷不善法建立善法。若復眾生無所須欲亦無眾難，乃至無病，而與菩薩先為親厚，隨宜勸導令修善法，所謂供養父母乃至持戒。若彼眾生不隨其教，爾時菩薩現瞋責相，為度彼故，心無恚恨；於諸所作悉現乖異，為度彼故，非實違背；或現加彼不饒益事，欲度彼故，非其實心。菩薩方便現此異相，欲令眾生修諸善法斷不善法，是名菩薩異相巧方便。

> あらゆる困難や恐怖、そして病の苦しみの中で、愛する人と和合し、愛さない人と別れることを厭う者たちのために、それを救済するため、一切を捨て去るのです。このように決然とした相を示すのは、実際に心に「捨てる」という念があるからではなく、徐々に不善の法を断ち切り、善の法を建立させようとするためです。 また、もし欲望や困難がなく、病にも苦しまない衆生がいて、もとより菩薩と親しい関係にあるならば、臨機応変に勧めて善の法を修めさせます。すなわち、父母を供養することから戒を保つことに至るまでです。もしその衆生が教えに従わなければ、その時に菩薩は叱り咎めるような相を現します。彼らを救済するためであって、心に怒りや恨みはありません。その行いのすべてにわざと違背した様子を見せるのは、彼らを救済するためであって、実際に背いているわけではありません。時に彼らに不利益なことをして見せるのも、彼らを救済するためであって、本心ではありません。 菩薩は方便をもってこのような異なる相を現し、衆生に善の法を修めさせ、不善の法を断ち切らせようとします。これを「菩薩の異相巧方便」といいます。

云何菩薩現逼迫巧方便？若菩薩為主為王，於自眷屬作如是教：「若我眷屬有不供養父母乃至犯戒者，我當斷其供給，或加謫罰或至驅擯。」立一士夫常令伺察，彼諸眾生以恐怖故，勤修善法斷不善法。彼雖不樂，強逼令修，是名菩薩逼迫巧方便。

> 菩薩がどのように「無理強いの巧みな手段」を用いるのか。 もし菩薩が王や主君となり、自分の家臣や臣民にこう教えるとする。「もし私の配下で、父母を養わず、あるいは戒律を破る者があれば、その者の生活を絶ち、罰を与え、あるいは追放する」と。 そして一人の役人を常に監視役として立てる。 家臣たちは恐怖のゆえに、善行を励み、不善を断つ。 彼らが望まなくても、無理に善を修行させる。 これが菩薩の「無理強いの巧みな手段」というものである。

云何菩薩報恩巧方便？若菩薩先於眾生施諸恩分，若施財物、若度眾難、若度恐怖，和其所念、離所不念，救療眾病令得安樂。眾生知恩欲報德者，爾時菩薩勸令修善，不須世間財利酬報；報之大者，當供養父母乃至持戒。求報恩者令其行善，是名菩薩報恩巧方便。

> 菩薩がどのようにして巧みな方法で恩に報いるのか。 菩薩はまず、人々に恩恵を施す。例えば、財物を与えたり、困難から救い出したり、恐怖から解放したり、望むことをかなえ、望まないことを遠ざけ、病を治して安楽をもたらす。 人々がその恩を知り、お礼をしようとするとき、菩薩は彼らに善行を積むよう勧め、世間の財や利益による返礼を求めない。最も大切な報恩とは、父母を大切にすることから戒律を守ることに至るまでである。 恩に報いる者に善行を勧めること、これこそが菩薩の巧みな報恩の方法である。

云何菩薩清淨巧方便？住究竟地菩薩，淨菩薩道生兜率天。眾生念言：「某菩薩生兜率天，不久當下生閻浮提，當成如來無上等覺。令我愛樂，莫令不樂。彼所生處，我亦隨生。」無量眾生樂修是願。又復菩薩，從兜率天來生世間，若生王宮若婆羅門家，捨上妙樂出家學道，令諸眾生捨離憍慢。又於樹下苦行六年，令餘眾生信苦行者斷其信樂。又復既成無上菩提，令餘眾生堅固信樂同求佛道。又成佛已，默然待請，為令眾生敬重法故，梵天勸請然後乃說。又以佛眼觀察世間，莫令眾生作是謗言：「但以梵天勸請力故，非是如來大悲故說。」為除眾生邪攝受故，轉正法輪，諸餘世間所未曾轉，及制戒律。是名菩薩清淨巧方便。如是巧方便無餘無上，是名菩薩六種巧方便略說廣說。壞法眾生除其暴害，處中者令入佛法，入者令熟熟令解脫，無餘無上，是名菩薩巧方便。

> 菩薩の清らかな巧みな方便とは何か。究竟地に住する菩薩は、菩薩道を清めて兜率天に生まれる。人々は思う。「あの菩薩が兜率天に生まれた。まもなく閻浮提に下り、如来の無上正等覚を成就されるだろう。どうか私がその方に愛楽され、不快に思われませんように。また、その方がお生まれになる所に、私も共に生まれたい」と。無量の衆生がこの願いを楽しく修める。 さらに菩薩は、兜率天からこの世に降り立ち、王宮やバラモンの家に生まれ、優れた楽しみを捨てて出家して道を学ぶ。これにより、衆生が驕り高ぶる心を捨てるように導く。また、菩提樹の下で六年の苦行を行い、他の衆生が苦行への執着を断つきっかけを与える。さらに無上の菩提を成就した後は、他の衆生が固く信じて仏道を共に求めるように導く。 成仏した後は、黙って説法の請いを待つ。これは、衆生に法を敬重させるためである。梵天が勧請してから初めて説法する。また、仏眼で世間を観察し、衆生が「梵天が勧めたから説法したのであって、如来の大悲の故ではない」と謗ることがないようにする。衆生の邪な執着を取り除くために、未曾有の正法の輪を転じ、戒律を制定する。これを菩薩の清らかな巧みな方便という。 このような巧みな方便は、他に余すところがなく、最上である。これを菩薩の六種の巧みな方便の、略説・広説という。法を壊す者を害意から救い、中立的な者を仏法に導き、入った者を成熟させ、成熟した者を解脱させる。この巧みな方便は、余すところがなく、最上である。これを菩薩の巧みな方便という。

云何菩薩陀羅尼？略說四種：一者法陀羅尼；二者義陀羅尼；三者呪術陀羅尼；四者得菩薩忍陀羅尼。云何法陀羅尼？菩薩得如是憶念智慧力，於未曾所聞未曾修習名句味身，次第莊嚴次第所應無量章句，經無量劫憶持不忘。云何義陀羅尼？如前所說，於此諸法無量義趣，未曾讀誦未曾修習，經無量劫憶持不忘。云何呪術陀羅尼？菩薩得如是三昧力，以呪術章句為眾除患第一神驗，種種災患悉令消滅。云何得菩薩忍陀羅尼？菩薩精勤修習因起智慧，獨一靜處燕默少言亦不遊行，知量而食不雜種食、常一坐食，思惟禪定，少睡眠多覺悟，於如來所說得菩薩忍呪術。所謂：

> 菩薩の陀羅尼とは何か。簡単に言えば四種ある。第一は「法陀羅尼」、第二は「義陀羅尼」、第三は「呪術陀羅尼」、第四は「菩薩の忍を得る陀羅尼」である。 法陀羅尼とは何か。菩薩はこのような記憶と智慧の力を得て、これまで聞いたこともなく、修行したこともない名・句・文の集まりや、順序正しく整えられ、順に応じた無量の章句を、無量の劫を経ても記憶して忘れることがない。 義陀羅尼とは何か。先に述べたように、これらの諸法の無量の意味や趣旨について、まだ読誦したことも修行したこともないものを、無量の劫を経ても記憶して忘れることがない。 呪術陀羅尼とは何か。菩薩はこのような三昧の力を得て、呪術の章句をもって衆生の悩みを取り除く。それは最もすぐれた神験であり、さまざまな災いや患いをことごとく消し去る。 菩薩の忍を得る陀羅尼とは何か。菩薩は精進して修行し、智慧を引き起こすために、静かな場所に独りで過ごし、寡黙にし、また遊行せず、必要なだけの食事をとり、雑多なものを食べず、常に一坐食を実践し、禅定を思惟し、睡眠を少なくし覚醒を多くする。如来の説かれたところによって、菩薩の忍を得る呪術を得る。すなわち、

伊致　密致　吉胝鼻　羼提跛大㗩波呵㗩音，穌急反

> 来たれ、密なる者よ。清らかな忍耐を成就せし者よ。

於此諸呪術章句義思量觀察：「如是呪術章句，如是正思惟，如此義尚不自聞，何有所得？如呪術章句義不可得，是則無義。如是諸義，所謂無義，是故亦無餘義可求。」如是名為善解呪術句義。善解呪術句義者，以如是義，比知一切諸法義，皆悉善知，不從他聞。又知一切言說、一切法自性義不可得。以此等無言說自性義，則知一切諸法自性義，是名第一義最勝義，得最上歡喜。是菩薩得此陀羅尼呪術處，名得菩薩忍。得此忍者，不久當得淨心增上解行地忍，是名菩薩得菩薩忍陀羅尼。彼法陀羅尼、義陀羅尼，菩薩是度初阿僧祇劫入淨心地所得，必定不動最勝最妙。若中間所得，或因願力、或禪定力，不定不住亦不勝妙。如法義陀羅尼，呪術陀羅尼亦如是。得菩薩忍陀羅尼，如前所說。如是一切陀羅尼具四功德者，乃能得之，非不具足。云何為四？一者不習愛欲；二者不嫉彼勝；三者一切所求等施無悔；四者樂法深樂菩薩藏及摩得勒伽藏。

> これらの呪文の章句の意味を考察し観察して、こう考える。「このような呪文の章句をこのように正しく考察しても、その意味すら聞いたことがないのに、何か得られるものがあるだろうか。呪文の章句の意味は捉えがたく、それはすなわち無意味である。このような諸々の意味は、いわゆる無意味であり、それゆえさらに別の意味を求めることもない。」これを、呪文の句の意味をよく理解したという。 呪文の句の意味をよく理解した者は、この意味によって、あらゆる法の意味を類推して知り、すべてをよく知って、他者から聞くことがない。また、すべての言葉や、すべての法の自性の意味が捉えがたいことを知る。この言葉を超えた自性の意味によって、すべての法の自性の意味を知る。これを第一義、最勝義といい、最上の喜びを得る。 この菩薩は、この陀羅尼の呪文の境地を得て、菩薩の忍を得たと名付けられる。この忍を得た者は、まもなく心を清め、増上する解行地の忍を得る。これを菩薩が菩薩の忍の陀羅尼を得たという。 あの法の陀羅尼、義の陀羅尼について、菩薩は最初の阿僧祇劫を超えて清らかな心の地に入り、それを得る。それは必定であり、不動であり、最勝で最妙である。もし途中で得るものがあれば、願力によるか、禅定力によるかであり、不定であり、とどまらず、また勝妙でもない。法と義の陀羅尼のように、呪文の陀羅尼もまた同様である。 菩薩の忍の陀羅尼を得ることは、先に述べた通りである。このように、すべての陀羅尼は、四つの功徳を備えて初めて得られるのであり、備えなければ得られない。その四つとは何か。第一に、愛欲に親しまないこと。第二に、自分より優れた者を妬まないこと。第三に、すべての求めるものに平等に施し、後悔しないこと。第四に、法を愛し、菩薩蔵および摩得勒伽蔵を深く愛好することである。

云何為菩薩願？略說五種：一者發心願；二者生願；三者境界願；四者平等願；五者大願。彼菩薩初發無上菩提心，是名發心願。願未來世為眾生故隨善趣生，是名生願。願正觀諸法無量，等諸善根思惟境界，是名境界願。願未來世一切菩薩善攝事，是名菩薩平等願。大願者，即平等願。又說十種大願：一者願一切種供養無量諸佛；二者願護持一切諸佛正法；三者願通達諸佛正法；四者願生兜率天乃至般涅槃；五者願行菩薩一切種正行；六者願成熟一切眾生；七者願一切世界悉能現化；八者願一切菩薩一心方便以大乘度；九者願一切正方便無礙；十者願成無上正覺。

> 菩薩の願いとは何か。簡潔に言えば五つある。第一に発心の願い、第二に生の願い、第三に境界の願い、第四に平等の願い、第五に大願である。 菩薩が初めて無上の菩提心を起こすこと、これを発心の願いという。 未来の世において、衆生のために善い生まれに従って生まれようと願うこと、これを生の願いという。 諸々の法を正しく観察し、その数は無量であり、諸々の善根を平等にし、その境地をよく思惟すること、これを境界の願いという。 未来の世において、すべての菩薩が善く行うべき事柄をよく摂めようと願うこと、これを菩薩の平等の願いという。 大願とは、すなわちこの平等の願いである。 また、十種の大願が説かれている。第一に、あらゆる方法で無量の諸仏に供養しようと願うこと。第二に、すべての諸仏の正しい教えを守り護ろうと願うこと。第三に、諸仏の正しい教えを悟り極めようと願うこと。第四に、兜率天に生まれ、ついには般涅槃に至ろうと願うこと。第五に、菩薩のあらゆる正しい行いを実践しようと願うこと。第六に、すべての衆生を成熟させようと願うこと。第七に、あらゆる世界においてみずから姿を現し、教化できること。第八に、すべての菩薩が一心に巧みな手段をもって大乗によって度すこと。第九に、すべての正しい方便に妨げがないこと。第十に、無上の正しい覚りを成就することである。

云何菩薩空三昧？菩薩離一切言說自性，觀無言說自性心住，是名空三昧。云何無願三昧？菩薩於無言說自性事，邪見妄想所起煩惱苦，常見其過，於未來世不願心住，是名無願三昧。云何無相三昧？菩薩於無言說自性事，離一切妄想、虛偽相滅，觀察如實寂靜心住，是名無相三昧。以何等故說三三昧，不增不減？有二種：有及無有。有為、無為名為有，無我我所名無有。於有為有，不願不隨故，立無願三昧。於無為涅槃，願樂攝受故，立無相三昧。又於此諸事非願非不願，然於有不有見，以是見故，立空三昧。菩薩修此三三昧，如是建立如實知。若有餘行，悉入三三昧門，所謂聲聞所學所行。

> では、菩薩にとっての「空三昧」とは何でしょうか。 菩薩は、あらゆる言葉や概念で表そうとする性質（自性）を離れ、言葉を超えた真実の性質に心をとどめます。これを「空三昧」と呼びます。 では、「無願三昧」とは何でしょうか。 菩薩は、言葉を超えた真実の世界において、誤った見解や妄想から生じる煩悩や苦しみを常に過ちと見抜き、未来においてもそれらを願い求めることなく心をとどめます。これを「無願三昧」と呼びます。 では、「無相三昧」とは何でしょうか。 菩薩は、言葉を超えた真実の世界において、あらゆる妄想や虚偽の相（イメージ）を滅し、そのままの真実として静かな状態に心をとどめます。これを「無相三昧」と呼びます。 なぜ、この三つの三昧が説かれ、増えも減りもしないのでしょうか。理由は二つあります。「ある」ということと「ない」ということです。「ある」とは、作られたもの（有為）と作られていないもの（無為）を指し、「ない」とは、私や私のもの（我・我所）がないことを指します。 このうち、作られたもの（有為）に対しては、それを願い求めず、従わないために「無願三昧」が立てられました。一方、作られていない涅槃（無為）に対しては、それを喜び求めて受け入れるために「無相三昧」が立てられました。さらに、これらの事柄に対して、願うでもなく願わないでもなく、しかし「ある」と「ない」という見解そのものを見極めるために「空三昧」が立てられます。 菩薩はこの三つの三昧を修め、このようにして物事をあるがままに知ります。その他のあらゆる修行の道も、すべてこの三三昧の門に含まれます。いわゆる声聞が学び行うものも、また同じです。

有四憂檀那法，諸佛菩薩為令眾生清淨故說。云何為四？一切行無常是憂檀那法；一切行苦是憂檀那法；一切法無我是憂檀那法；涅槃寂滅是憂檀那法。諸佛菩薩具足此法，復以此法傳授眾生，是名憂檀那。過去寂默諸牟尼尊展轉相傳，是名憂檀那。增上勇出乃至具足出第一有，是名憂檀那。云何菩薩觀一切行無常？菩薩觀一切行，言說自性常不可得。若復不知真實無言說事故有生有滅，若彼觀無言說自性一切行無常，觀過去行無生無滅，彼亦無因亦無自性可得，是故亦無因亦無自性。觀現在行無生無滅，彼因不得而與果，故自性可得，是故觀彼自性而無因。觀未來行無生無滅，彼因可得而不與果，故無自性，是故觀因而無自性。如是見三世分段諸行相續轉時，一一行剎那有三有為有為相，於剎那後有四有為相。彼前諸行相自性壞，次未曾行相自性起名為生；起已未壞名為住；顧念前滅行相自性彼起異，異名為老，是故生剎那後；即彼起行相自性壞名為滅。若觀起自性行相，即彼自性生住老相，無餘自性，是故剎那後如是行相自性滅。如是諸生等行相如實觀。此四有為相，略說二種：有性及無性。如來以起故立一有為相，以自性故立第二有為相，諸行住老故立第三有為相。彼菩薩觀有為行分齊，非生非住非老非壞，非一切時別有事起。何以故？諸行分齊起時，更無別生別住別老別壞。諸行分齊住老壞時，亦無別生別住別老別壞一念頃名為一剎那。菩薩如實觀者，不別有生等事可得。若可得者，離色等諸行應別有生。如色等行自性起，彼亦應起。若然者，應有二生：行生及生生。若有行生及生生者，或一或異。若一而謂別有生者，彼空無義。若別有生者，此事不然。若異者，彼行生非相生所為。行生相生所為者，此事不然。如生，住老亦如是。若壞有法自性者，彼應生滅。若壞生時，一切行應即滅。如入滅盡正受，以少方便心心數法滅。若壞滅時，彼一切行應生。以壞無有故，言壞有生滅者此事不然。彼善男子善女人，一切時常有自性者，不應有厭離。離欲解脫，異者應爾。以此事故，菩薩於一切諸行無常如實知。復次菩薩於一切諸行無常相續轉時，觀三苦相：行苦、變易苦、苦苦，如是菩薩於一切行苦如實知。

> 四つの優陀那の法がある。諸仏や菩薩は、衆生を清らかにするためにこれを説く。その四つとは何か。全ての行は無常であるというのが優陀那の法であり、全ての行は苦であるというのが優陀那の法であり、全ての法は無我であるというのが優陀那の法であり、涅槃は寂静であるというのが優陀那の法である。諸仏や菩薩はこの法を完全に具えており、さらにこの法を衆生に伝える。これを優陀那と呼ぶ。過去に沈黙して修行した多くの聖者たちが、互いに伝え継いできた。これも優陀那である。さらに増上に勇んで出て、第一の有（三有の頂上）に至るまで完全に超出する。これも優陀那である。 では、菩薩はどのようにして全ての行が無常であると観じるのか。菩薩は全ての行を観じて、言葉による自性は常に得ることができないと知る。もし、言葉を超えた真理を知らずに、それに執着して生や滅があると見なすならば、それは誤りである。もし言葉を超えた自性を観じて一切行が無常であると見るとき、過去の行には生も滅もないと観じる。それらには原因もなく、自性も得られない。ゆえに原因もなく、自性もない。現在の行には生も滅もないと観じる。その原因は得られずに結果をもたらすため、自性のみが得られる。ゆえに、その自性を観じて原因がないと知る。未来の行には生も滅もないと観じる。その原因は得られるが結果をもたらさないため、自性がない。ゆえに、原因を観じて自性がないと知る。 このように、三世に区分された諸行が連続して転じていくのを見るとき、それぞれの一つの行の一刹那には三つの有為相がある。その刹那の後には四つの有為相が現れる。まず、先の行の相の自性が壊れる。次に、まだ現れていなかった行の相の自性が生じることを「生」と呼ぶ。生じてまだ壊れていないことを「住」と呼ぶ。過去に滅した行の相の自性を顧みると、そこに異なる様相が生じる。その異なりを「老」と呼ぶ。ゆえに、生の刹那の後には、その生じた行の相の自性が壊れることを「滅」と呼ぶ。もし生じた自性の行の相を観じれば、その自性には生・住・老の相があり、それ以外の自性はない。ゆえに、刹那の後にはこのような行の相の自性が滅する。このように、生などの行の相を如実に観じる。 この四つの有為相は、大まかに二種類にまとめられる。すなわち「有性」と「無性」である。如来は「起」によって第一の有為相を立て、「自性」によって第二の有為相を立て、「諸行の住と老」によって第三の有為相を立てる。その菩薩は、有為の行の範囲を観じて、それは生でもなく、住でもなく、老でもなく、壊でもなく、決して全ての時に別々の事柄が起こるわけではないと知る。なぜならば、諸行の範囲が生じる時、別の「生」や別の「住」、別の「老」、別の「壊」は存在しないからである。諸行の範囲が住し、老い、壊れる時も、別の生、住、老、壊は存在しない<note>一念の間を一刹那と名付ける</note>。菩薩が如実に観じるとき、別に「生」などの事柄を得ることはない。もし得られるならば、色などの諸行を離れて別に「生」が存在することになる。例えば、色などの行の自性が生じるように、それ（生）もまた生じるはずである。もしそうならば、二つの生が存在することになる。すなわち「行の生」と「生の生」である。もし行の生と生の生があるならば、それは同一か異なるかのどちらかである。もし同一でありながら別に生があると言うならば、それは無意味である。もし別に生があるならば、そうではない。なぜなら、その場合、行の生は生の生がもたらすものではないからである。行の生が生の生によってもたらされるとするのは、道理に合わない。生と同じように、住と老も同様である。もし壊（滅）に法としての自性があるならば、それは生と滅を持つはずである。もし壊が生じる時、全ての行は即座に滅するはずである。例えば、滅尽定に入るとき、わずかな方便によって心と心所の法が滅するように。もし壊が滅する時、それらの全ての行は生じるはずである。しかし壊には実体がないため、壊に生や滅があると言うのは誤りである。 もし善男子・善女人が、常に固定した自性を持つと考えるならば、厭離や、欲望を離れる解脱はありえない。もしそうならないならば、別のものであるはずだ。このような理由から、菩薩は全ての行が無常であると如実に知る。 さらに、菩薩は全ての行が無常として相続して転じていくとき、三つの苦の相を観じる。すなわち、行苦、変易苦、苦苦である。このように、菩薩は全ての行が苦であると如実に知る。

復次菩薩於一切法有為無為、無我我所，如實知眾生無我及法無我。彼眾生無我者，有法非眾生，離有法亦非眾生。法無我者，一切言說事，亦無言說自性法。如是菩薩於一切法無我如實知。

> さらに、菩薩はすべての現象（有為・無為）について、「私」と「私のもの」という執着がないことをあるがままに知る。すなわち、生きとし生けるものには実体としての「私」はなく、また現象にも実体としての「私」はないと知る。 「生きとし生けるものに実体の私がない」とは、存在するもののうちに「生きとし生けるもの」はなく、「存在するもの」から離れたところにも「生きとし生けるもの」はないということである。 「現象に実体の私がない」とは、あらゆる言葉で表現される事柄にも、言葉そのものに固有の本質（自性）はないということである。 このように、菩薩はすべての現象に実体としての「私」がないことを、あるがままに知るのである。

復次一切行起因斷，無餘諸餘畢竟滅名般涅槃，煩惱寂滅眾苦永息。未入淨心地菩薩、未見諦聲聞，於涅槃作意解想，說言寂滅涅槃。當知是等不得真實涅槃知見，唯有正思惟。譬如國王長者巨富無量，為諸子故造作戲具，鹿車、牛車、馬車、象車。彼諸子等歡喜愛樂，作真鹿馬象車等想。其父知子漸已長大，為說真實牛鹿象馬，諸子謂父歎己象馬。父於後時知子轉大，將出宅外示真象馬。彼見實已乃知其真，定知其父常所歎說非是我等先所翫好，先所翫好非真象馬。如是諸行以為屋宅，未住淨心地菩薩、未見諦聲聞如彼童子，諸佛如來及入大地菩薩明見涅槃，為彼菩薩及諸聲聞歎說涅槃，彼既聞已隨說意解。若彼漸學道品具足，入淨心地及見諦聲聞，彼於涅槃生現知見：如是諸佛菩薩所歎說者，非如我等愚癡智慧意想所解，我等所想相似非實。於彼所解生慚愧心，依後知見。譬如病人遇得良醫，為治病故說隨病藥。彼諸病者常習此藥，便作信解樂著此藥，緣是病差。更起餘病應服餘藥，良醫教彼棄捨前藥，更服餘藥。彼諸病者信前藥故，不肯棄捨，良醫方便令服後藥。如是菩薩住淨心地、見諦聲聞，諸煩惱病，諸佛如來、住大地菩薩為彼說法上法上上法、深法上深法上上深法、勝法上勝法上上勝法，教授教誡。入淨心地菩薩、見諦聲聞，聞佛所說信受不疑，乘如來所說具足法乘，善能調御遊平等道，疾疾正向無餘涅槃。

> さらに、すべての「行」の生起する因が断たれ、余すところなく尽き、他のすべてのものも究極的に滅した状態を般涅槃と呼ぶ。煩悩が寂滅し、一切の苦が永久に息むことである。 しかし、清浄な心の境位に達していない菩薩や、真理を見極めていない声聞は、涅槃について概念的に思い描き、「これが寂滅した涅槃である」と語る。知るべきである、これらの者は真実の涅槃を知る見解を得ておらず、ただ正しい思考をしているに過ぎないことを。 たとえば、ある国王や長者が計り知れない富を持ち、子どもたちのために鹿車、牛車、馬車、象車といった遊び道具を作ったとする。子どもたちはそれらを喜び愛着し、本物の鹿や馬、象の車だと思い込む。ところが、父は子どもたちが次第に成長したのを知り、それらが実は本物の牛や鹿、象、馬であることを教える。子どもたちは父が自分たちの象や馬を褒めているのだと思う。 その後、父はさらに子どもが大きくなったのを見計らい、家の外に連れ出して本物の象や馬を見せる。彼らは実物を見て初めて、父が以前から語っていたものこそが真実であり、自分たちが先に遊んでいたものは本物の象や馬ではなかったと理解する。 このように、「行」の集まりを家と見なすなら、清浄な心の境位に達していない菩薩や真理を見極めていない声聞は、あの子どもたちのようなものである。諸仏如来や大地の境位に達した菩薩は涅槃を明確に見ており、それらの菩薩や声聞のために涅槃を称賛し語る。彼らはそれを聞いて、語られた通りに概念的に理解する。 しかし、もし彼らが次第に教えの道を学び、修行の条件を備え、清浄な心の境位に入り、あるいは真理を見極めた声聞となるなら、その時彼らは涅槃について現実の知見を生じる。すなわち、「諸仏や菩薩が称賛し語るものは、私たちのような愚かな智慧や概念で理解したものとは違い、私たちが考えていたものは似て非なるものである」と知る。そして、それまで自分たちが理解していたことに慚愧の心を起こし、後のより高い知見に依拠するようになる。 たとえば、病気の人が名医に出会い、その病を治すために病に応じた薬を処方される。その病人はこの薬に慣れ親しみ、信じ執着する。そしてそのおかげで病気は治る。しかし、さらに別の病が生じ、別の薬を服用すべき時が来る。名医はその病人に前の薬を捨て、別の薬を飲むよう教える。しかし病人は前の薬を信じているため、それを手放そうとしない。そこで名医は方便を用いて、後の薬を飲ませる。 このように、清浄な心の境位に住する菩薩や真理を見極めた声聞が煩悩の病にかかっている場合、諸仏如来や大地の境位に住する菩薩は、彼らにさらなる法、さらに上の法、最も優れた法、深い法、さらに深い法、最も深い法、勝れた法、さらに勝れた法、最も勝れた法を説き、教授し教誡する。 清浄な心の境位に入った菩薩や真理を見極めた声聞は、仏の説法を聞いて信受し疑わない。如来の説かれた完全な法を乗り物として、巧みに調御しながら平等の道を遊行し、速やかに無余涅槃へと向かうのである。

### 菩薩地持方便處菩薩功德品第十八

> 第18章 菩薩功徳品

菩薩學阿耨多羅三藐三菩提，有五奇特未曾有法。云何為五？一者於諸眾生無有因緣而起愛念；二者為諸眾生受無量苦；三者煩惱熾盛難化眾生方便調伏；四者入第一難解真實之義；五者入不可思議神通之力。如是奇特未曾有法，不與一切諸眾生共。

菩薩有五事非奇特，能成奇特未曾有法。一者為安眾生故受於苦因，受苦因故得受安樂。二者知生死過惡涅槃功德，有淨眾生念不自受樂、為淨眾生故受諸生死。三者修靜默樂、有淨眾生念不自受樂、為淨眾生故演說正法。四者修六波羅蜜善根、有淨眾生念不自受樂、為淨眾生故不捨一切眾生、亦不捨果報。五者他事己事如是一切利益眾生。

菩薩有五事，於一切眾生其心平等。一者初發心願，為一切眾生其心平等。二者修習大悲心，與哀愍俱其心平等。三者於一切眾生作一子想，與愛念俱其心平等。四者觀一切眾生諸行緣起，一眾生法即是一切諸眾生法，隨順一切眾生其心平等。五者如為一眾生行，如是一切眾生，利益心俱其心平等。

菩薩有五事饒益一切眾生：一者說正命饒益；二者不隨順者說隨順法饒益；三者孤獨辛苦貧乞無依者為作依怙饒益；四者向善趣者說道饒益；五者為三乘人說三乘饒益。

菩薩有五事報眾生恩：一者自成功德；二者勸他令成；三者孤獨辛苦貧乞無依為作依怙；四者供養如來；五者佛所說法，若讀誦若書持若供養。

菩薩行菩提道常求五事：一者常願諸佛出興於世；二者於諸佛所聽六波羅蜜及菩薩藏；三者堪能一切種成熟眾生；四者堪能無上成熟眾生；五者得阿耨多羅三藐三菩提、阿惟三菩提、聲聞菩提，和合聲聞。

菩薩有五事利益眾生真實方便。是菩薩先欲安樂眾生，於彼安樂如實知不顛倒覺，如前供養習近無量品說。菩薩有五種方便攝一切正方便：一者隨護方便；二者無罪方便；三者思惟力方便；四者淨心方便；五者決定方便。隨護方便有五種：一者黠護，得俱生智能疾受法。二者念護，念持於法。三者智護，得堅固智觀察法義，以黠念智護離於退分修勝進分。四者自心護，守護根門。五者他心護，隨順他心。無罪方便者，於諸善法不顛倒，熾然無量常修迴向菩提。思惟力方便者，是解行地。淨心方便者，是淨心地具足行地。決定方便者，是決定地、決定行地、究竟地。是名五種方便攝一切正方便。

菩薩退分有五事：一者不恭敬法及說法者；二者放逸懈怠；三者習眾煩惱及諸惡行；四者稱量同己及餘菩薩起增上慢；五者於法顛倒起增上慢。

菩薩勝分有五事，與上退分五事次第相違者，是名勝分。

菩薩有五事菩薩似功德過：一者於諸凶惡及犯戒者作非慈饒益；二者現諂曲威儀；三者說世俗語、外道經論，得生智慧能自思惟；四者行於有罪施等善根；五者演說建立似功德法。菩薩有五事菩薩真實功德：一者於諸凶惡及犯戒者起勝悲心；二者具足成就真實威儀；三者於如來說得生智慧能自思惟；四者行於無罪施等善根；五者演說正教毀相似法。

菩薩調伏眾生有十種，名正調伏。云何為十？離諸纏、離煩惱分惡戒。

菩薩有六事，為如來授無上菩提記。一者種性未發心；二者已發心；三者現前；四者不現前；五者時量時定得無上菩提；六者時無量時不定受記。菩薩有三種決定：一者種性名為決定。何以故？堪能為緣，有障決定阿耨多羅三藐三菩提。二者決定發無上菩提心，不能乃至不退乃至無上菩提。三者得力，利益眾生，如所欲、如所作、如是不虛，彼最後決定故，如來受決定記。

菩薩不作五種力故，不得阿耨多羅三藐三菩提。一者初發心；二者哀愍眾生；三者熾然；四者精進；五者於一切明處方便不厭。

菩薩有五事常所修集：一者常不放逸；二者孤獨辛苦貧乞無依為作依怙；三者供養如來；四者持戒，有犯即覺；五者所作所行所可憶念，一切迴向無上菩提。

菩薩有十法，菩薩等法第一最勝。一者菩薩種性勝餘種性；二者初發心勝一切正願；三者精進智慧勝餘波羅蜜；四者軟語勝餘攝事；五者如來勝餘眾生；六者大悲勝餘無量；七者第四禪勝於餘禪；八者空三昧勝餘三昧；九者滅盡正受勝餘正受；十者清淨巧方便勝餘巧方便。

菩薩有四種正施設，如是正施設是如來說，非餘若天若人、沙門婆羅門如是聞。一者法施設；二者諦施設；三者方便施設；四者乘施設。法施設者，十二部經修多羅等，次第演說次第建立。諦施設者，有一種，謂如實義諦。復有二種：世諦、第一義諦。復有三種：相諦、說諦、作諦。復有四種：苦諦、集諦、滅諦、道諦。復有五種：因諦、果諦、智諦、智境界諦、無上諦。復有六種：實諦、虛妄諦、知諦、斷諦、證諦、修諦。復有七種：味諦、患諦、離諦、法諦、解諦、聖諦、非聖諦。復有八種：行苦諦、苦苦諦、壞苦諦、生諦、滅諦、穢污諦、清淨諦、正方便諦。復有九種：無常諦、苦諦、空諦、非我諦、有愛諦、無有愛諦、斷方便諦、有餘涅槃諦、無餘涅槃諦。復有十種：自作苦諦、貧窮苦諦、四大增損苦諦、愛戀苦諦、污辱苦諦、業苦諦、煩惱諦、正思惟諦、正見諦、正見果諦、四種方便名方便施設，如前力種性品說。乘施設者，聲聞乘、緣覺乘、大乘。一一乘七種施設四聖諦慧。如是慧，若依、若緣、伴、業、眾具，如是慧若果，此七種名聲聞乘施設。如聲聞乘施設，緣覺乘亦如是。離言說境界，一切法如離諸妄想平等慧。如是慧，若依、若緣、伴、業、眾具，如是慧若果，此七種名大乘施設。過去未來現在，一切菩薩正施設，已作當作，一切四種無餘無上。

菩薩有五種無量，生一切巧便行。一者眾生界無量；二者世界無量；三者法界無量；四者調伏界無量；五者調伏方便無量。六十一種眾生名眾生界，如意地身，分別則有無量。十方無量世界無量名，如娑婆世界名娑婆主。善不善無記法，分別則有無量。調伏有一種，謂一切眾生調伏。復有二種：具縛、不具縛。復有三種：軟、中、上根。復有四種：剎利、婆羅門、毘舍、首陀。復有五種：貪欲、瞋恚、愚癡、憍慢、覺觀。復有六種：在家、出家、未熟、已熟、未解脫、已解脫。復有七種：惡人、中人、小智人、大智人、現在調伏、未來調伏、隨緣調伏，若得緣如是，如是迴向。復有八種：謂八眾剎利，乃至婆羅門。復有九種：一者如來調伏；二者聲聞緣覺調伏；三者菩薩調伏；四者難調伏；五者易調伏；六者軟語調伏；七者呵責調伏；八者遠調伏；九者近調伏。復有十種：一者地獄；二者畜生；三者餓鬼；四者欲界人天；五者中陰；六者色；七者無色；八者想；九者無想；十者非想非非想。是五十五種，分別則為無量。眾生界、調伏界有何差別？眾生界者，不分別一切眾生種性處。調伏界者，彼種性處如是彼彼處轉調伏方便無量，如前成熟品說，彼亦無量種分別。如是次第說五種無量。何以故？是菩薩為眾生修行，是故說初無量。眾生彼處可得，是故說第二無量。眾生於彼彼世界煩惱清淨法可得，是故說第三無量。觀彼彼眾生隨所堪能脫苦，是故說第四無量。乃至方便脫眾生苦，是故說第五無量。是故說五種無量，生菩薩一切巧便行。

菩薩有四求，於一切法如實知。一者名求；二者事求；三者自性施設求；四者差別施設求，如前真實品說。菩薩有四事，於一切法如實知：隨名求如實知、隨事求如實知、隨自性施設求如實知、隨差別施設求如實知，如前真實品說。

諸佛菩薩有五事，為眾生說法得大果福利。一者為眾生說法生離垢法眼；二者為眾生說法得諸漏盡；三者為眾生說法發無上菩提心；四者為眾生說法得第一菩薩忍；五者為眾生說法，聞已受誦，具足修習令法久住。是名五種說法得大果福利。

云何名大乘？有七種大故名為大乘。一者法大，謂十二部經，菩薩方廣藏最上最大。二者心大，謂發阿耨多羅三藐三菩提心。三者解大，謂解菩薩方廣藏。四者淨心大，謂過解行地入淨心地。五者眾具大，謂福德眾具、智慧眾具得無上菩提。六者時大，謂三阿僧祇劫得無上菩提。七者得大，謂得無上菩提身，無與等者，況復過上。彼法大、心大、解大、淨心大、眾具大、時大，此六大謂因種得大謂果處。

菩薩有八法，攝一切摩訶衍菩薩藏所說，謂信菩薩藏，顯示一切法真實義、顯示一切諸佛菩薩不可思議第一勝妙神力，得聞慧思慧思惟，依聞慧思慧思惟方便得淨心，得淨心方便入修慧行，入修慧行方便修慧果成，如是修慧果成畢竟出離，菩薩如是學得無上菩提。菩薩如是學得無上菩提，略說十種：一者種性；二者入；三者未淨；四者淨；五者未熟；六者熟；七者未定；八者定；九者一生；十者最後身。種性者，名未得淨心。發心修學名為入。已入未入淨心地名為未淨；入淨心地名為淨。淨者未入畢竟地名為未熟；入畢竟地名為熟。熟者未入定地名為未定；已入定地名為定。又熟有二種：一者一生，次第得無上菩提；二者最後身，即此生得。如是從種性乃至最後身得無上菩提，此十種菩薩所學而學，於上更無所學。菩薩如所學而學，於上更無菩薩學。菩薩如所學而學，得一切功德名，所謂菩薩摩訶薩、勇猛無上、佛子、佛持、大師、大聖、大商主、大名稱、大功德、大自在。如是十方無量世界、無量菩薩、無量因緣，自想施設。當知若有言我是菩薩，不善學菩薩所學者，當知是名字菩薩非實菩薩。若言我是菩薩，善學菩薩所學者，當知是實菩薩。