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title: "佛祖統紀 · 4 興道下八祖紀"
description: "佛祖统纪由南宋僧人志磐于咸淳年间撰成。全书五十四卷，以天台宗视角记述佛教传播史，涵盖印度至中国的佛教源流、宗派传承、历代高僧事迹及教理阐述。它仿照史书体例，系统整合此前诸家佛教史传，是天台宗集大成的历史著作。该书不仅保存了大量珍贵佛教史料，且确立了以天台为正统的判教体系，对后世佛教史学研究影响深远，被誉为中国佛教通史的里程碑式著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwm71nj016rjs04nf0qzepm"
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## 佛祖統紀卷第八

> 仏祖統紀 巻第八

宋景定四明東湖沙門志磐撰

> 宋景定四明東湖沙門志磐撰

### 興道下八祖紀第四

> 興道下八祖紀 第四

十祖天台興道尊者大法師

> 天台宗第十代祖师、兴道尊者大法师

十一祖天台至行尊者大法師

> 天台宗第十一祖、至行尊者・大法師

十二祖國清正定尊者大法師

> 十二代目の祖師、国清正定尊者の大法師

十三祖國清妙說尊者大法師

> 十三祖、国清の妙説尊者大法師

十四祖國清高論尊者大法師

> 十四番目の祖、国清高論尊者大法師

十五祖螺溪淨光尊者大法師

> 第十五代祖師、螺渓浄光尊者・大法師

十六祖四明寶雲尊者大法師

> 第十六代祖師、四明の宝雲尊者・大法師

十七祖四明法智尊者大法師

> 十七代目の祖師、四明法智尊者大法師

昔吳越王。請諡諸祖。而龍樹北齊南岳三師未及諡。今并取邃法師下無師號者。即本紀之文。摭其行實以為尊稱。是蓋尊祖之大義也。他日有能考論懿德上之清朝賜以徽諡者。幸當用此定名。庶乎不失其實也。或疑今私諡者。漢朱穆門人與蔡邕諡文忠先生。晉陶潛門人諡靖節先生見漢書宋史唐蕭頴士門人諡文元先生趙璘因話錄元延祖諡太先生元結之父此皆門人私諡無咎。

> 昔、呉越王は諸祖に諡を請うたが、龍樹・北斉・南岳の三師にはまだ諡が及んでいなかった。そこで今、邃法師以下の師号のない者についても併せて取り上げ、本紀の文からその行実を拾って尊称とした。これはまさに祖を尊ぶ大義である。他日、この美德を考論して朝廷に上申し、徽諡を賜る者があれば、幸いにもこの定名を用いるべきである。そうすればその実を失わないだろう。あるいは、今の私諡について疑う者があるかもしれない。漢の朱穆の門人は蔡邕に文忠先生と諡し、晋の陶潜の門人は靖節先生と諡した<note>漢書・宋史に見える</note>。唐の蕭頴士の門人は文元先生と諡し<note>趙璘『因話録』</note>、元延祖は太先生と諡された<note>元結の父</note>。これらはみな門人の私諡であり、咎めはない。

傳聖人之道者。其要在乎明教觀而已。上尊龍樹下逮荊溪。九世而祖之宜矣。至於邃修二師。相繼講演不墜素業。會昌之厄教卷散亡。外琇竦三師唯傳止觀之道。螺溪之世。賴吳越王求遺書於海東。而諦觀自高麗。持教卷用還於我。於是祖道復大振。四明中興實有以資之也。是諸師者。或顯或晦。述而不作稱之曰祖蓋傳授有所繼。正統有所繫也。撰興道下八祖紀。

> 聖人の道を伝える者の要点は、教えと観行を明らかにすることにあります。上は龍樹を尊び、下は荊溪に及び、九代にわたって祖として仰がれるのは当然のことです。邃修の二師に至っては、相次いで講演を重ね、本来の教えを絶やしませんでした。会昌の法難によって教典が散逸しましたが、外琇・竦の三師はただ止観の道のみを伝えました。螺渓の時代には、呉越王が海東に遺書を求めたことに助けられ、諦観が高麗から教典を携えて我が国に戻りました。こうして祖の道は再び大いに振るいました。四明の中興も、まさにこの力に支えられたのです。これらの諸師は、あるいは世に現れ、あるいは隠れましたが、述べて作らず、祖と称されるのは、伝授に継承があり、正統に繋がりがあるからです。興道以下八祖の紀を撰しました。

十祖興道尊者道邃。不知何許人。唐大歷中代宗來依荊溪於佛隴。洞悟幽玄無所凝滯。荊溪嘉之曰。吾子其能嗣興吾道矣。遂授以止觀輔行。師為眾開說發明深旨。聽者無不領寤。同門元皓一見師大敬服。貞元二十一年。日本國最澄遠來求法。聽講受誨晝夜不息。盡寫一宗論疏以歸。將行詣郡庭白太守。求一言為據。太守陸淳嘉其誠。即署之曰。最澄闍梨。身雖異域。性實同源。明敏之姿。道俗所敬。觀光於上國。復傳教於名賢。邃公法師。總萬法於一心。了殊塗於三觀。而最澄親承祕密。不外筌蹄。猶慮他方學者。未能信受其說。所請印記安可不從。澄既泛舸東還。指一山為天台。創一剎為傳教。化風盛播。學者日蕃。遂遙尊邃師為始祖。日本傳教實起於此晁說之。撰明智塔銘云。荊溪傳行滿。滿傳廣修。案大宋僧傳。邃法師傳廣修。修傳物外。今依宋傳。以邃師次荊溪為正。晁氏親見明智者。不知當時何緣得此異說。

> 十祖興道尊者・道邃は、どこの出身かは分かっていません。唐の大暦年間、代宗の時代に荊溪（けいけい）のもとを訪れ、仏隴（ぶつろう）に身を寄せました。深い真理をすっかり悟って、心にわだかまりがなくなりました。荊溪はこれを喜んで、「わが弟子よ、あなたこそわが道を受け継いで栄えさせることができるだろう」と言い、止観輔行（しかんぶぎょう）を授けました。師は人々のために説き、深い教えを明らかにしたので、聞く者はみな目覚めを得ました。同じ門下の元皓（げんこう）は、師に一目会うと、たいそう敬服しました。貞元二十一年、日本の最澄が遠くはるばる法を求めてやって来ました。師の講義を聞き、教えを受けて、昼も夜も休むことなく励み、一宗の論疏をことごとく書き写して帰国しようとしました。出発に際して、郡の役所に出向いて太守に申し出て、証として一言を求めました。太守の陸淳（りくじゅん）はその誠意を嘉（よ）みして、ただちにこう認めました。「最澄闍梨は、身は異国の地にあっても、その本性は実に同じ源である。明晰で聡明なその姿は、道俗ともに敬うところである。大国に学び、名賢から教えを受け継いだ。邃公法師は、すべての法を一心にまとめ、異なる道も三観によって明らかにした。しかるに最澄は秘密の教えを直接受け継ぎながら、その手段や形にとどまることなく、なお他国の学者たちが、その説を信じて受け入れることができないのではないかと案じている。その求めに応じて印記を与えないわけにはいかない」。澄はこうして舟で東へ帰り、一つの山を指して天台と名づけ、一つの寺を建てて伝教（でんぎょう）としました。教化の風は盛んに広まり、学ぶ者は日ごとに増えました。そこで遠くから邃師を始祖として尊びました。日本における伝教は、まさにここから始まったのです<note>晁説之が明智塔銘に記している。荊溪は行満に伝え、行満は広修に伝えたと。大宋僧伝を見ると、邃法師は広修に伝え、広修は物外に伝えたとある。今は宋伝に従い、邃師が荊溪の次であるのを正しいとする。晁氏は明智に直接会っているのに、どうしてこの異説を得たのか分からない</note>。

述曰。指要斥日本乾淑所錄邃知上止觀中異義。以三界為無漏總中三者。竊詳邃師親受止觀於荊溪。無緣輒創此說。特乾淑輩為此私義。託邃師以行之耳。則知日本別行十不二門題云國清止觀和上者。皆其國人之依放也。指要又云。他既曾附示珠指。往於彼國。必是依之勘寫。據此又知國人依奉先所寄之本。故并託止觀和上之名以行其文也。四明之言。斥乾淑奉先耳。世人不寤。便謂斥邃師。請以此議為解。

> ここに述べる。指要は、日本の乾淑が録した邃知の止観における異義を斥けている。三界を無漏とし総中とする三つの説については、詳しく考えるに、邃師は直接に荊溪から止観を授かったのであるから、理由もなく急にこの説を創始したはずがない。特に乾淑たちがこの私義を作り、邃師に託して行ったのであろう。そうであれば、日本で別に行われている十不二門の題に「国清止観和上」とあるのは、みなその国の人が模倣したものであることがわかる。指要にはまた「彼はすでにかつて示珠指を付して彼の国に送ったことがあるから、必ずそれに依って勘写したのであろう」とある。これによれば、また国の人が奉先から送られた本に依ったため、合わせて止観和上の名を託してその文を行ったことがわかる。四明の言葉は、乾淑と奉先を斥けているのである。世の人は悟らず、すぐに邃師を斥けていると言う。どうかこの議をもって解としていただきたい。

十一祖至行尊者廣修。姓留氏。東陽夏昆人。早入邃師之室。研精教觀。而向心至行。日誦法華淨名光明梵網四分戒本為常課。六時行懺晚年彌篤。每歲行隨自意三昧。七七日未嘗以事廢。天台刺史韋珩音衡佩玉素重教門。請入郡堂講止觀。珩於即席深有省發。時會聽者莫不欣慶。會昌三年唐武宗二月十六日。終於禪林。葬全身於金地道場。登門弟子甚眾。居上首名物外。後二十三年。門人良湑敬文。發塔火育之得舍利千餘粒。大如菽。即舊地建塔藏之。

> 十一祖至行尊者廣修は、姓は留氏、東陽夏昆の人です。早くから邃師の門に入り、教えと観行を研ぎ澄まし、心を至行に向けました。日々、法華経・浄名経・光明経・梵網経・四分戒本を誦することを常の勤めとし、六時に行懺し、晩年にはますます篤く励みました。毎年、随自意三昧を行い、七十七日の間、事があっても決して怠ることはありませんでした。天台の刺史である韋珩<note>音は衡、佩玉</note>はもとより教門を重んじ、郡の堂に招いて止観を講じさせました。珩はその席で深く悟るところがありました。その場にいた聴衆も皆、喜びました。会昌三年<note>唐の武宗</note>二月十六日、禅林で亡くなりました。全身を金地道場に葬りました。門下の弟子は非常に多く、上首と呼ばれたのは物外でした。その後二十三年、門人の良湑と敬文が塔を開き、火葬して得た舎利は千余粒、大きさは豆ほどでした。もとの地に塔を建てて納めました。

十二祖正定尊者物外。姓楊氏。閩之候官人。久從修師傳止觀。且說且行。大中末宣宗歲歉。加趺一室妙入正定。謂弟子曰。汝若不死至五穀登時。可擊磬引我出。越歲餘。弟子如所教遂從定起。中和五年僖宗三月十五日。終於國清葬於智者塔院之側。上首弟子。元琇。敬休。慧凝。皆傳道於世以紹家學。

> 十二祖正定尊者物外は、楊氏の出身で、閩の候官の人です。長く修師について止観を学び、説きながら実践していました。大中末年の頃、宣宗の時代に凶作がありました。尊者は一室で結跏趺坐し、深く正定に入りました。弟子たちにこう言いました。「もしお前たちが死なずに五穀が実る時まで生きていたら、磬を打って私を呼び出しなさい。」それから一年余りが過ぎ、弟子たちが教えの通りにすると、尊者は定から起ちました。中和五年三月十五日、国清寺で亡くなり、智者塔院のそばに葬られました。上首の弟子である元琇、敬休、慧凝は、いずれも世に道を伝え、家学を受け継ぎました。

十三祖妙說尊者元琇音秀玉石天台人。依國清外法師學止觀。盡其旨。妙於講說。不以學徒眾寡二其心。一日升座眾集或少。有異僧十人自外而入。威儀可觀。致敬已坐行末。講散復問訊即出。師遣侍者邀之。皆凌空舉手笑謝而去。師當僖昭之際。天下方亂。學教之徒忽聚忽散。以故得定慧之業者艱其人。唯清竦常操。承事日久洞達無遺。操師傳義從。從傳德儔。儔傳慧贇。修雅。皆繼世有聞云。

> 十三祖妙説尊者元琇<note>音秀玉石</note>は天台の人。国清の外法師のもとで止観を学び、その趣旨を極めた。説法を巧みに行い、学ぶ者の多い少ないで心を変えることはなかった。ある日、法座に上がると集まった者は少なめであったが、威儀の立派な異僧十人が外から入ってきた。丁重に礼をして末席に座り、講義が終わると再び挨拶して出ていった。師が侍者に後を追わせて招いたが、皆、空に身を躍らせて手を挙げ、笑って辞去した。師は僖宗・昭宗の時代に当たり、天下はまさに乱れていた。教学を学ぶ者たちは急に集まっては散っていったので、定と慧の修行を成就する者は得がたかった。ただ清竦だけが常に志を保ち、長く師に仕えてその教えを通達し、遺すところがなかった。竦の師は義従に伝え、従は徳儔に伝え、儔は慧贇と修雅に伝えた。皆、代々その名を聞かれたという。

十四祖高論尊者清竦。天台人。依琇法師精思止觀。旦夜不懈。及繼主國清。說行兼至。時錢氏建國。吳越天台一境有同內地。師領眾安處厲其志曰。王臣外護得免兵革之憂。終日居安。可不進道以答國恩。每長日臨座高論不已。眾莫敢有倦色。門人世業者。羲寂。志因。覺彌。

> 第十四祖・高論尊者清竦は天台の人です。琇法師に師事して止観を深く究め、朝も夜も怠ることがありませんでした。やがて国清寺の住職を継ぐと、説法と実践の両方を兼ね備えた方として知られました。当時、銭氏が国を建て、呉越の天台一帯は内地も同然の安寧を得ていました。師は大衆を率いて心安らかに過ごしながら、こう励ましました。「王臣の方々が外から守ってくださるおかげで、戦乱の憂いを免れている。一日中安穏に暮らしていられるのに、どうして道を進み、国の恩に報いずにいられようか。」師はいつも長い一日、座に臨んでは高らかに論じ続け、誰一人として疲れた顔をする者はいませんでした。門人で家業を継いだ者には、羲寂、志因、覚弥がいます。

十五祖淨光尊者羲寂。字常照。永嘉胡氏。母初懷妊不喜葷血。及產有物蒙其首。若紫帽然梁末帝貞明五年己卯生幼白二親求出家。乃入開元。依師誦法華。朞月而徹。年十九晉高祖天福二年祝髮具戒。詣會稽學律深達持犯。乃造天台。學止觀於竦法師。其所領解。猶河南一遍照也僧傳云。蒲州不聽泰。河南一遍照嘗寓四明育王寺。夢登國清。上方有寶幢座。題曰文殊臺。欄楯外隔欲入不可。俄見觀音從堂而出。手却行馬即叉欄也亦名拒馬低回相接。忽覺自身與觀音體合為一。自是之後樂說無盡。初天台教迹。遠自安史挺亂天寶末年。安祿山。史思明。相繼反逆近從會昌焚毀武宗會昌五年。罷僧尼毀寺院殘編斷簡傳者無憑。師每痛念力網羅之。先於金華古藏僅得淨名一疏。吳越忠懿王。因覽永嘉集。有同除四住此處為齊。若伏無明三藏即劣之語。以問韶國師傳燈天台德韶國師。姓陳。嗣清涼益禪師。至天台覩智者遺蹤。有若舊居。又與智者同姓。時疑其後身云韶云。此是教義。可問天台寂師。王即召。師出金門。建講以問前義。師曰。此出智者妙玄。自唐末喪亂教籍散毀。故此諸文多在海外。於是吳越王遣使十人。往日本國求取教典。既回。王為建寺螺溪。扁曰定慧。賜號淨光法師。及清諡天台諸祖止諡天台以十六祖一家教學欝而復興師之力也案二師口義云。吳越王遣使。以五十種寶。往高麗求教文。其國令諦觀來奉諸部。而智論疏。仁王疏。華嚴骨目。五百門等。不復至。據此則知。海外兩國。皆曾遣使。若論教文復還中國之寶。則必以高麗諦觀來奉教卷為正有興教明師。年方弱冠。聽經於會下常自疑云。飲光持釋迦丈六之衣。披彌勒百尺之身。正應其量。為衣解長耶。身解短耶。時韶國師居雲居屬天台聚眾五百。明往問之。國師曰。座主却是汝會。明慍色拂袖而退。國師曰。我若答。汝不是。當有因果。明回螺溪。口即吐血。師聞驚曰。此新戒。觸忤菩薩人來。明舉前話。師云。汝不會國師意速去懺悔。明具威儀詣前悲泣作禮首過。國師為頌出前話云。佛佛道齊宛爾高低。釋迦彌勒如印印泥。明自此疾瘳。歸謝師曰。非師指教幾喪此生二師口義云。玄弼山君言。國師是智者。起法堂都料螺溪。是放生會首。堂中僧眾。是所放之魚太平興國五年本朝太宗自山中出居州治寺東樓。夢剎柱陷入於地。即徙居西偏。其夜春雨驟作。山頹樓傾。咸謂師有天眼。雍熙元年。永安縣請於光明寺為眾授戒。忽佛殿大像墮壞。腹中出發願文。乃唐咸通六年沙門希皎為七鄉人施戒勸造此像。願舍報為男子。童真出家傳法利生。時會觀者謂是師前身也。四年十一月四日寢疾。囑門人不許哭泣祭奠。言已即瞑目。門人累小塔。窆於方丈。壽六十九。夏五十。傳法弟子百餘人。外國十人。義通實為高第。而澄彧。寶翔。為之亞焉。天台官民先曾傳戒者。共迎師真相於開元寺。縞素致祭哀動一城。天為慘色。後徒屬謀遷塔見貌。若生人髮長餘寸。遂遷葬於國清東南隅。澄彧述銘以為識。師講三大部各二十遍。維摩光明梵網金剛錍法界觀永嘉集各數遍。述義例不二門等科節數卷雜見高僧傳等文。

> 十五祖・浄光尊者羲寂は、字を常照といい、永嘉の胡氏の出身です。母は懐妊した初めから生臭いものを好まず、出産のときには頭を覆うものがあり、紫の帽子のようでした。幼いころに両親に出家を願い出て、開元寺に入りました。師について法華経を唱え、一か月で完全に理解しました。十九歳で剃髪し具足戒を受け、会稽に行って律を学び、持戒と犯戒について深く通じました。そこで天台山に赴き、竦法師に止観を学びました。その理解は、河南の一遍照のようであったといわれます。かつて四明の育王寺に滞在していたとき、国清寺に登る夢を見ました。上方に宝幢座があり、「文殊台」と記されていました。欄干に隔てられて入ろうとしても入れません。すると観音が堂から出てこられ、手で行馬をどけて、ためらいながら近づいてくださいました。ふと自分の体と観音の体が一つになったと感じました。それ以来、喜んで説法すること限りがありませんでした。もともと天台の教えの跡は、遠くは安史の乱により、近くは会昌の廃仏によって、残った編物や断れた簡札は伝える者が拠り所を失っていました。師はいつもこれを痛み嘆き、力を尽くして集められました。まず金華の古蔵でただ『浄名経疏』一つを得ました。呉越の忠懿王は、『永嘉集』を読んで「同除四住、此処為斉、若伏無明、三蔵即劣」という言葉があり、韶国師に尋ねました。韶は「これは教義のことです。天台の寂師に問うべきです」と言いました。王はすぐに師を召しました。師は金門を出て、講を建てて先の義を問われました。師は言いました。「これは智者大師の『妙玄』に出ています。唐末の戦乱以来、教籍が散り毀れたため、これらの文の多くは海外にあります」と。そこで呉越王は使者十人を遣わし、日本国へ教典を求めて行かせました。帰ると、王は螺渓に寺を建て、額を「定慧」とし、浄光法師の号を賜りました。また天台の諸祖に清い諡を贈りました。一家の教学が盛んに復興したのは、師の力によるものです。興教の明師という者がいて、年はまだ弱冠でした。会下で経を聴き、いつも自ら疑っていました。「飲光が釈迦の丈六の衣を持って、弥勒の百尺の身に披せるのは、まさにその量に応じている。衣が解けて長いのか、身が解けて短いのか」と。当時、韶国師は雲居に住し、五百の衆を集めていました。明は行って尋ねました。国師は言いました。「座主、かえってこれが汝の会である」と。明は怒りの色を浮かべ、袖を払って退きました。国師は言いました。「私がもし答えて、汝がそうでなければ、因果があるであろう」と。明は螺渓に戻り、口からすぐに血を吐きました。師は聞いて驚き言いました。「この新戒が、菩薩の人に触れ逆らって来た」と。明が先の話を持ち出すと、師は言いました。「汝は国師の意を会得していない。早く行って懺悔せよ」と。明は威儀を具えて前に赴き、悲しみ泣いて礼し、過ちを首（もう）しました。国師は頌を出して先の話を言いました。「仏仏道斉、宛爾高低、釈迦弥勒、如印印泥」と。明はこれ以来、病が癒えました。帰って師に謝して言いました。「師の指教がなければ、ほとんどこの生を喪うところでした」と。太平興国五年、山中から出て州治寺の東楼に住みました。夢に刹柱が地に陥るのを見て、すぐに西偏に移り住みました。その夜、春雨が急に降り、山が崩れ楼が傾きました。皆、師に天眼があると言いました。雍熙元年、永安県が光明寺で衆のために授戒を請いました。すると仏殿の大像が堕ち壊れ、腹の中から発願文が出ました。それは唐の咸通六年、沙門希皎が七郷の人々のために施戒を勧めてこの像を造ったものでした。願は報を捨てて男子となり、童真で出家し法を伝えて生を利するというものでした。その時会にいた観る者は、これが師の前身であると言いました。四年十一月四日、病に臥し、門人に哭泣や祭奠を許さないと嘱し、言い終わってすぐに目を閉じました。門人は小塔を積み、方丈に葬りました。寿は六十九、夏は五十。法を伝えた弟子は百余人、外国の者は十人。義通は実に高弟であり、澄彧・宝翔がこれに次ぎました。天台の官民で先に戒を伝えた者は、共に師の真相を開元寺に迎え、喪服で祭り、哀しみは一城を動かしました。天も惨色を呈しました。後に弟子たちが塔を移そうとして容貌を見ると、生人のようで髪が一寸余り伸びていました。そこで国清の東南の隅に改葬しました。澄彧が銘を述べて識としました。師は三大部をそれぞれ二十遍講じ、維摩・光明・梵網・金剛錍・法界観・永嘉集をそれぞれ数遍講じました。義例・不二門などの科節を数巻述べました。

十六祖寶雲尊者義通。字惟遠。高麗國。族姓尹氏後唐明宗天成二年丁亥歲生梵相異常頂有肉髻。眉毫宛轉伸長五六寸。幼從龜山院釋宗為師。受具之後學華嚴起信。為國宗仰。晉天福時來遊中國師於天福末。方十六七。正受具學華嚴之時來中國。應在二十後。以歷推之。當在漢周之際。今言天福恐誤至天台雲居韶國師所居忽有契悟。及謁螺溪聞一心三觀之旨。乃歎曰。圓頓之學畢茲轍矣。遂留受業。久之具體之聲浹聞四遠。一日別同學曰。吾欲以此道導諸未聞。必從父母之邦。始乃括囊東下。假道四明將登海舶。郡守太師錢惟治忠懿王俶之子聞師之來。加禮延屈咨問心要。復請為菩薩戒師。親行授受之禮。道俗趨敬同仰師模。錢公固留之曰。或尼之。或使之孟子。行或使之。止或尼之。尼語乙反非弟子之力也。如曰利生何必雞林乎高麗別名師曰。緣既汝合。辭不我却。因止其行。開寶元年本朝太祖漕使顧承徽屢親師誨。始舍宅為傳教院。請師居之。太平興國四年。法智初從師學師年五十三法智年二十六年十二月。弟子延德。詣京師奏乞寺額。七年四月。賜額為寶雲。雍熙元年。慈雲始從師學師年五十八慈雲二十二師敷揚教觀幾二十年。升堂受業者不可勝紀。常呼人為鄉人。有問其故。曰吾以淨土為故鄉。諸人皆當往生。皆吾鄉中之人也。端拱元年十月二十一日。右脇而化。闍維之日舍利盈滿骨中。門人奉葬於阿育王寺之西北隅育王未為禪時。其徒嘗請寶雲諸師。屢建講席。寶雲既終。因葬骨於此地壽六十二。治平元年英宗主南湖法孫宗正。累為方墳石塔作記以識之後七十七年宣和七年徽宗主育王昌月堂。以地蕪塔壞。與寶雲威師。徙骨於烏石山。其骨晶熒有光。考之琅琅其聲。舍利五色滋生骨上。有盈匊得之者。其後主者智謙。重刊石塔記於烏石菴中見振祖集石塔記。

> 十六番目の祖師である宝雲尊者義通は、字を惟遠といい、高麗国の出身で、姓は尹氏でした。<note>後唐の明宗、天成二年丁亥の年に生まれた</note>梵相は並外れており、頭頂に肉髻がありました。眉の毛は美しく曲がりながら伸びて五六寸もありました。幼い頃、亀山院の釈宗を師として出家し、具足戒を受けた後、華厳と起信を学びました。国中から宗派の祖として仰がれました。晋の天福の頃、中国に渡って遊学し<note>師は天福の末、ちょうど十六、十七歳の頃でした。具足戒を受けて華厳を学んでいた時に中国に来たのですから、二十歳以降であったはずです。年代を推算すると、漢や周の間頃になるでしょう。今、天福と言っているのは恐らく誤りです</note>、天台山の雲居<note>韶国師が住んでいた所</note>に至り、忽ち悟りを得ました。やがて螺渓を訪ね、一心三観の教えを聞いて、こう嘆じました。「円頓の学は、ここに極まった」そこで留まって学び続けました。長い年月が経ち、その完成された名声は四方に広く聞こえました。ある日、同門の者たちに別れを告げて言いました。「私はこの道をもって、まだ聞いたことのない人々を導きたい。必ず父母の国から始めよう」そこで荷物をまとめて東へ下り、四明を通って海船に乗ろうとしました。郡守の太師銭惟治は<note>忠懿王俶の子</note>、師が来たと聞いて、礼を加えて迎え、心要を尋ねました。また菩薩戒の師として招き、自ら授戒の礼を行いました。道俗は競って敬い、同じく師の模範を仰ぎました。銭公は固く引き留めて言いました。「あるいは止め、あるいは促す<note>孟子に「行かせようとする者もあれば、止めようとする者もある」とある。尼は語乙反</note>のは、弟子の力ではありません。利生と言うなら、どうして必ずしも鶏林でなければならないのでしょう<note>高麗の別名</note>」師は言いました。「縁がすでにあなたと合ったのです。断っても私を拒むことはできません」そこでその旅を止めました。開宝元年<note>本朝の太祖</note>、漕使の顧承徽はたびたび親しく師の教えを受け、ついに自宅を伝教院として捨て、師に住むよう請いました。太平興国四年、法智が初めて師について学びました<note>師は五十三歳、法智は二十歳</note>。六年十二月、弟子の延徳が都に行き、寺の額を賜るよう奏上しました。七年四月、宝雲の額を賜りました。雍熙元年、慈雲が初めて師について学びました<note>師は五十八歳、慈雲は二十二歳</note>。師は教観を広めておよそ二十年、堂に升って学ぶ者は数えきれませんでした。常に人を郷人と呼んでいました。その理由を問うと、こう言いました。「私は浄土を故郷としている。皆も往生するはずだ。皆、私の郷の中の人である」端拱元年十月二十一日、右脇を下にして亡くなりました。火葬の日、舎利が骨の中に満ちあふれました。門人は阿育王寺の西北の隅に葬りました<note>育王が禅寺になる前、その弟子たちはかつて宝雲などの師を招き、たびたび講席を設けました。宝雲が亡くなった後、その骨をこの地に葬ったのです</note>。寿は六十二歳でした。治平元年<note>英宗</note>、南湖の主である法孫の宗正が、たびたび方墳石塔の記を作ってこれを示しました<note>七十七年後</note>。宣和七年<note>徽宗</note>、育王の主である昌月堂が、地が荒れ塔が壊れたため、宝雲の威師とともに骨を烏石山に移しました。その骨は輝いて光があり、叩くと琅琅と音がしました。舎利は五色で骨の上に生じ、一掬も得た者がありました。その後、主である智謙が、石塔記を烏石菴の中に重ねて刊行しました<note>振祖集の石塔記に見える</note>。

曉石芝曰。石塔記。謂師著述。逸而不傳。然考諸四明章記。則嘗秉筆為觀經疏記。光明玄贊釋矣。蓋四明稟承其義。用之於記鈔諸文。非為無傳。贊釋一部尚存。但不廣行耳。

> 暁石芝が言うには、石塔記には、師の著述は散逸して伝わっていないと記されている。しかし四明の章記を調べてみると、かつて筆を執って観経疏記や光明玄賛釈を著している。思うに四明はその教えを受け継ぎ、それを記鈔などの諸文に用いたのであって、伝わっていないわけではない。賛釈一部は今も残っているが、ただ広く流布していないだけである。

螺溪網羅教典。去珠復還。寶雲二紀敷揚家業有付。而世方尊法智為中興者。以其有著書立言開明祖道觝排山外紹隆道統之功也觝音抵觸也故慈雲贊之曰。章安既往。荊溪亦亡。誕此人師。紹彼耿光。一家大教。鍾此三良。又為之辭曰。一家教部。毘陵師所未記者悉記之。四種三昧人所難行者悉行之。敬繹名言。誠為實錄繹音亦抽絲也。

> 螺渓は教典を網羅し、失われた珠を取り戻しました。宝雲は二十年間教えを広めて、家業は受け継がれました。世間が法智を中興の祖と尊ぶのは、著書を残して教えを明らかにし、宗派の道を開き、山外の説を退けて道統を継承した功績があるからです。そこで慈雲はこう讃えました。「章安はすでに逝き、荊渓もまた亡くなった。この人師が生まれて、あの輝く光を受け継いだ。一家の大教は、この三人の良き師に集まっている」と。またこうも述べています。「一家の教えのうち、毘陵の師が記さなかったものはすべて記した。四種三昧は人が行い難いものだが、すべて行った」と。この言葉を敬って紐解くと、まことに真実の記録であります。

十七祖法智尊者知禮。字約言。四明金氏世傳所居在郡城白塔巷父經以枝嗣未生。與妻李氏禱於佛。夢神僧携童子遺之曰。此佛子羅睺羅也。因而有娠。暨生遂以為名太祖受周禪。建隆元年庚申也神宇清粹不與眾倫。七歲喪母號哭不絕。白父求出家。遂往依太平興國寺洪選師。十五具戒專探律部。太平興國四年太宗從寶雲教觀時年二十始三日。首座謂之曰。法界次第汝當奉持。師曰。何謂法界。座曰。大總相法門圓融無礙者是也。師曰。既圓融無礙何有次第。座無對。居一月。自講心經聽者服其速悟。五年其父夢師跪於寶雲之前雲以瓶水注於口。自是圓頓之旨一受即了。六年。常代寶雲講。雍熙元年。慈雲來自天台。始學於寶雲之門。師待以益友。義同手足。端拱元年。寶雲歸寂。師復夢貫寶雲之首。擐於左臂而行擐音患亦貫也。即自解曰。將作初表受習流通。次表操持種智之首化行於世也慈雲。撰指要鈔序。采用法智自解之說也。淳化二年。始受請主乾符。綿歷四載諸子說隨。至道元年。以所居西偏小院。學徒戾止。盈十莫容。遂徙居城東南隅保恩院。二年。院主顯通舍為長講天台教法十方住持之地。三年。以院宇頹弊。與同學異聞始謀經理。既而丹丘覺圓來任役事。咸平三年真宗郡大旱。與慈雲同修光明懺。祈雨約三日無應。當然一手供佛。懺未竟雨已大浹慈雲行業記云。約三日不雨。自焚。如期果大雨。太守蘇。為刻石為記其事。六年。日本國遣寂照。持源信法師問目二十七條請答釋。景德元年。撰十不二門指要鈔。成立別理真如有隨緣義。永嘉繼齊立指濫以難之梵天昭師門人謂不變隨緣。是今家圓教之理。別理豈有隨緣。師乃垂二十問以祛其蔽。天台元頴復立徵決以代齊師之答。而嘉禾子玄亦立隨緣撲以助齊頴。時仁岳居座下述法智義。立十門折難總破三師。人謂淨覺禦務之功居多禦音語。務侮同。易外禦其務四年。遣門人本如會稽什師。持十義書觀心二百問詣錢唐昭師室。初是光明玄有廣略二本。並行於世。景德前錢唐恩師製發揮記專解略本。謂十種三法純談法性。不須更立觀心。廣本有之者後人擅加耳。慈光門人奉先清靈光敏。共造難辭二十條輔成其義。時寶山善信致書法智請評之慈雲有寄石壁善信上人詩。有曾同結社之句。據此則知俱師寶雲師亟辭之曰。夫評是議非近於諍競。矧二公吾宗先達。其可率爾。信復請曰。法鼓競鳴何先何後。師於是始作扶宗記。大明廣本附法觀心之義。謂恩師之廢觀心。是為有教而無觀。有梵天昭孤山圓。皆奉先門學。述辨訛以助略本。謂觀有事理。今十法始終皆以一法性而貫之。豈非純明理觀。師作問疑徵之云。若謂十法是理觀者。應此玄文是上三三昧。略本既無揀境。且非約行理觀。則知昭師反成有觀而無教。昭師復述答疑書。從容改轉。以為玄文直顯心性義同理觀。師復作詰難責之云。心性之名釋籤定判在因。上人既以十法是果人所證。則全非直顯心性。又十法既不聞揀陰。將何義同理觀。昭師又述五義云。止觀約行觀心。乃立陰等為境。附法託事皆不立陰。意謂令所立理觀。是事法之例。不須立陰。又被詰之後知心性在因。却潛改云直顯法性昭師所立。謂之約行。則無揀境。謂之事決。則有執為理。進退兩失無所憑據。是為無觀復無教師復作問疑責之曰。詰難本徵直顯心性。純明理觀。何得將事法之觀答之。豈非義窮計盡耶。此書既往逾年不答。師復作覆問以促之。昭師徐為釋問。以十乘妙理為所觀境。師復責之云。本立三障四魔為境界。今若以十乘妙理為所觀境。即以三障四魔為能觀智耶。自發揮至令釋問。四番轉計。五回墮負。往復各五。綿歷七載。乃總結前後。為書二卷斥昭師。一不解能觀法二不識所觀境。三不分內外二境。四不辨事理二造。凡十章。目為十義書。又設為二百問以質之。時孤山居昭師座端。觀如什論辯不可。當遽白郡守。以來無公據發遣。令還不復致答。大中祥符二年。重建保恩院成。自興役至今凡十載。通守石待問為之記。三年乞郡奏於朝。十月。賜額延慶。五年。與異聞作戒誓辭以授徒弟立誠。其略有曰。吾始以十方之心受茲住處。逮乎改創安施棟宇。元為聚學何敢自私。但吾宗有五德者。無擇邇遐。吾將授以居之。後後之謀莫不咸然。五德者。一曰舊學天台勿事兼講。二曰研精覃思遠於浮偽。三曰戒德有聞正己待物。四曰克遠榮譽不屈吾道。五曰辭辯兼美敏於將導。何哉。兼講則畔吾所囑。浮偽則誤於有傳。戒德則光乎化道。遠譽則固其至業。然後辯以暢義。導以得人。五者寧使有加。設若不及去辯矣。六年二月十五日。始建念佛施戒會。親為疏文以寓勸意。自此歲以為常。七年撰融心解。明一心三觀。顯四淨土之旨。天禧元年。謂其徒曰。半偈亡軀一句投火。聖人之心為法如是。吾將捐身以警懈怠。乃與異聞結十同志。修法華懺三載期滿。將焚身以供妙經遺身苦行人之所難。十僧之名惜乎失錄祕書監楊億字大年官至翰林諡文公遐仰道風。白丞相寇準奏賜紫服。復奉書為賀。及聞結懺遺身。乃致書勸請住世。謂方當台教復興之時。正賴傳持為世良導。往復數四尚執前言。楊公乃貽書郡守李夷庚及天竺慈雲俾同勸止。太守親率僚屬。勸請住世說法利生。且密戒隣社常保護之。會慈雲東下力為勸諫。而駙馬李遵勗。亦亟書交勸尚太宗女魏國公主。諡文和公師以公私意勤竟沮前志。乃復結十僧修大悲懺法三載以酬素願。是年述消伏三用章。對孤山闡義鈔。不知性惡是理毒義。有咸潤者述籤疑。以三種消伏俱約圓論。淨覺引疏義。歷四教十法界以除三障。述止疑以扶師義。四年。駙馬李遵勗。奏師高行遺身。上嘉歎不已。特賜法智大師之號。宣旨住世演教郡守錢希白。題塔院云。內翰楊億。為樞使馬知節。撰其父神道碑。不受潤筆。求奏薦四明師號。知節因奏之。上召問。億因言遺身事。上曰。但傳朕言。請師住世傳教。於是賜號法智。據行業碑塔銘實錄及法智往復書。皆言李遵勗。論薦賜號。今詳希白之題。必當時問諸寺僧。繆言之復致繆題耳是年。京師譯經院證義簡長行肇二十三人。各寄聲詩贊美道德待制晁說之作序刻於石五年。上聞師為道勤至。遣內侍俞源清至寺。命修法華懺三日。為國祈福。源清欲知懺法旨趣。為述修懺要旨。是歲撰觀音別行玄記觀經疏妙宗鈔皆成。時梵天門人咸潤述指瑕以非妙宗。且固執獨頭之色不具三千等義。蓋昭圓之餘波也。淨覺為述抉膜以示色心不二之旨。且評他師昧於究竟蝮䘍六即之義。一日。淨覺與廣智辨觀心觀佛求決於師。師示以約心觀佛之談。謂據乎心性。觀彼依正。淨覺不說而去。既而盡背所宗。述三身壽量解。并別立難辭。請潛修前鈔不使外聞。師慮其為後世異說之患。乃加料簡十三科以斥之。淨覺時在天竺上十諫書。謂父有諍子。則身不陷於不義。師復作解謗。謂十諫乃成增減二謗。淨覺復述雪謗。謂錯用權實以判勝劣。師時在疾令門人讀之。為之太息。既逼歸寂遂不復辨。後有希最。即廣慈之子法智之孫。述評謗以辨之。淨覺。時尚無恙。見之曰。四明之說其遂行乎自師時在疾。以下一節。並預敘後事天聖元年仁宗初元撰光明玄續遺記成。試開幃四十二章答泰禪師十問。時天童凝禪師貽書論指要鈔揀示達磨門下三人得道淺深。往復不已。太守林請師融會其說。師不得已略易數語往復書。備在教行錄。忠法師為後序。略述其事三年。先是天禧初詔天下立放生池。師欲廣揚聖化。每於佛生日集眾作法。縱魚鳥為放生之業。是年郡以事聞。勅樞密劉筠撰文以示後人。太守曾會立碑於寺見教行錄嘗一夕夢伽藍神曰。翌日相公至。已而曾公領其子公亮入寺。師以夢告母夫人謝曰。後貴無敢相忘下二句。預敘後事。今教行錄。有曾府捨莊田帖及公亮入相。乃買田闢屋。歲度其徒曾魯公。初生夢老僧披幃入慶。歷八年。以知制詰。䘖恤而歸里。僧元達。附舟至錢唐。聞天竺之勝。特往瞻禮。始至見素衣女自寺門出。謂達曰。曾舍人。五十七。入中書。上座是年。亦受師號。已而不見。至是年。果拜相。歷事三朝。贈太師中書令。諡宣靖。陪享英廟。蔡襄守錢唐。以大士靈異。上於朝因賜號靈感云五年製光明文句記。以迫歸寂不及終帙。其後門人廣智續讚佛一品以成之。六年正月元日。建光明懺七日為順寂之期。至五日結跏趺坐。召大眾說法畢。驟稱阿彌陀佛數百聲。奄然而逝。壽六十九。夏五十四。露龕二七日。顏貌如生爪髮俱長。舌根不壞若蓮華然。明道二年七月。奉靈骨起塔於南城崇法院之左。稟法領徒者三十人。尚賢。本如。梵臻。則全。慧才。崇矩。覺琮等。入室四百八十人。升堂千人。手度立誠等七十人。師自咸平二年。後專務講懺。常坐不臥。足無外涉。修謁盡遣。講法華玄義七遍。文句八遍。止觀八遍。涅槃疏一遍。淨名疏二遍。光明玄義十遍。別行玄七遍。觀經疏七遍。金剛錍。止觀義例。大意。十不二門。始終心要等。不復計數。修法華懺三七期五遍。光明懺七日期二十遍。彌陀懺七日期五十遍。請觀音懺七七期八遍。大悲三七期十遍。結十僧修法華長期三年。十僧修大悲懺三年。然三指供佛。造彌陀觀音勢至普賢大悲天台祖師像二十軀。印寫教乘滿一萬卷。所著續遺記三卷。光明文句記六卷。妙宗鈔三卷。別行玄記四卷。指要鈔二卷。扶宗記二卷。十義書三卷。觀心二百問一卷。解謗書三卷。金光明三昧儀。大悲懺儀。修懺要旨。各一卷。自餘如融心解。義例境觀。起信融會章。別理隨緣二十問。消伏三用章光明玄當體章問。答釋日本源信問。釋楊文公三問。絳幃問答並載教行錄中師於起信論大有悟入。故平時著述多所援據。後人扁其堂曰起信。示不忘也。初受命服。神照以書賀。師答之曰。三術寡修致名達朝彥止觀安忍中云。名譽利養眷屬莫受莫著。推若不去當縮德露玼。若遁迹不脫。當一舉萬里。若名利眷屬從外來破。憶此三術。齧齒忍耐。確乎難拔。若煩惱業定見慢等。從內來破者。亦憶三術。即空即假即中。設使屠析肌肉心不動散。為辨大事彌須安忍。輔行云。外障是軟賊。謂名譽等。內障是強賊。謂煩惱等。內外用術不同尋蒙帝澤令被紫服。有恥無榮何勞致賀。指要初成。雪竇顯禪師出山來訪。觀其書大加欽讚。即為設齋致慶。親揭茶榜。具美其事云。

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十七番目の祖である法智尊者・知礼は、字を約言といい、四明の金氏の生まれです。父の経は、跡継ぎがまだ生まれないことを憂い、妻の李氏とともに仏に祈りました。すると夢の中に神々しい僧が現れ、童子を授けてこう言いました。「これは仏の子、羅睺羅である」。そのため身ごもり、生まれるとその名をつけました。生まれつき姿かたちは清らかで、人並みではありませんでした。七歳で母を亡くすと、泣き叫んでやまず、父に出家を願い出ました。やがて太平興国寺の洪選師のもとへ身を寄せました。十五歳で戒を受けると、もっぱら律の教えを究めました。太平興国四年、二十歳のとき宝雲のもとで教観を学び始めましたが、わずか三日目に、首座がこう言いました。「法界の次第を、あなたはよく守りなさい」。師は問いました。「法界とは何ですか」。首座は答えました。「大総相の法門が円融無碍であることだ」。師は言いました。「すでに円融無碍なら、どうして次第がありましょうか」。首座は答えることができませんでした。ひと月のうちに、自ら心経を講じ、聞く者はその速やかな悟りに感服しました。五年、父は、師が宝雲の前に跪き、宝雲が瓶の水を口に注ぐ夢を見ました。それ以来、円頓の教えを一度受けるだけで理解しました。六年には、しばしば宝雲に代わって講じました。雍熙元年、慈雲が天台から来て、宝雲の門で学び始めました。師は彼を無二の友として遇し、兄弟のように親しくしました。端拱元年、宝雲が亡くなると、師は再び、宝雲の首が自分の左腕に貫かれている夢を見ました。そこで自らこう解釈しました。「まず初めに、教えを受けて習い、世に伝えることを示し、次に、一切種智の首を保ち行じて、世に教化を広めることを示すのだ」と。淳化二年、初めて請われて乾符の主となりました。四年の間、多くの弟子たちが従って学びました。至道元年、住まいの西側の小さな院では、学徒が集まり十人も入れば満ちてしまったので、城の東南の隅にある保恩院へ移りました。二年、院主の顕通が、そこを天台教法を長く講じる十方住持の地として譲り渡しました。三年、院の建物が荒れ損じていたので、同学の異聞とともに初めて修理を計画しました。やがて丹丘の覚円が工事を担当するために来ました。咸平三年、郡が大旱魃に見舞われたとき、慈雲とともに光明懺を修し、三日以内に雨が降らなければ片手を供養のために焼こうと誓いました。懺法が終わらないうちに、すでに大雨が降り注ぎました。六年、日本国が寂照を遣わし、源信法師の問い二十七条を持たせて答釈を請いました。景德元年、十不二門指要鈔を撰し、別理真如に随縁の義があることを立てました。永嘉の継斉は指濫を立ててこれを難じ、不変随縁はわが家の円教の理であり、別理にどうして随縁があろうかと述べました。師はそこで二十の問いを垂れてその蔽いを除きました。天台の元頴はさらに徵決を立てて斉師の答えに代わりました。また嘉禾の子玄も随縁撲を立てて斉・頴を助けました。このとき仁岳は座下にあって法智の義を述べ、十門を立てて難を折り、三師をまとめて破りました。人々は浄覚が禦務の功が多いと言いました。四年、門人の本如・会稽の什師を遣わし、十義書と観心二百問を持たせて銭唐の昭師のもとへ赴かせました。もともと光明玄には広略二本があり、世に並行していました。景德以前、銭唐の恩師は発揮記を作り、もっぱら略本を解し、十種三法は純粋に法性を談じるもので、さらに観心を立てる必要はなく、広本にあるのは後人が勝手に加えたものだと述べました。慈光の門人である奉先の清・霊光の敏は、ともに難辞二十条を作ってその義を助けました。このとき宝山の善信が法智に書を送り、これを評定するよう請いました。師はしきりに辞して言いました。「そもそも是か非かを評するのは、争いに近い。まして二公はわが宗の先達である。軽々しくできることか」。善信は再び請うて言いました。「法鼓が競い鳴るのに、どちらが先でどちらが後でありましょうか」。師はそこで初めて扶宗記を作り、広本が法に附けて観心を修する義を大いに明らかにしました。恩師が観心を廃したのは、教はあって観がないということだと述べました。梵天の昭・孤山の円は、ともに奉先門下の学で、辨訛を述べて略本を助け、観に事と理があり、今、十法は始終すべて一法性をもって貫かれている、どうして純粋に理観を明らかにするものでなかろうかと述べました。師は問疑徵を作り、こう言いました。「もし十法が理観であると言うなら、この玄文は上三三昧であろう。略本にはすでに境を選ぶことがなく、また行に対する理観でもない。それなら昭師はかえって観はあって教がないことになる」。昭師はさらに答疑書を述べ、ゆっくりと改め、玄文は直ちに心性を顕すもので、その義は理観に同じだとしました。師はまた詰難責を作り、こう言いました。「心性の名は、釈籤が因にあると定判している。上人はすでに十法を果人が証したものとしている。それなら全く直ちに心性を顕すものではない。また十法は陰を選ぶことも聞かない。何の義をもって理観に同じとしようか」。昭師はまた五義を述べ、止観は行に対する観心であり、そこで陰などを立てて境とする。附法・託事はともに陰を立てない。その意は、今立てた理観は事法の例であり、陰を立てる必要はないというものでした。また詰られて後、心性が因にあることを知り、ひそかに直顕法性と改めました。師はまた問疑責を作り、こう言いました。「詰難はもともと直ちに心性を顕し、純粋に理観を明らかにすることを徵した。どうして事法の観で答えられようか。それこそ義が窮まり計が尽きたのではないか」。この書が送られてから一年余り答えることがなく、師はまた覆問を作って促しました。昭師は徐ろに釋問を作り、十乗の妙理を所観の境としました。師はまた責めて言いました。「もともと三障四魔を境界と立てた。今もし十乗の妙理を所観の境とするなら、すなわち三障四魔を能観の智とするのか」。発揮から令釋問に至るまで、四度考えを巡らせ、五度負けに堕ち、往復それぞれ五度、七年にわたりました。そこで前後をまとめ、二巻の書を作って昭師を斥け、一に能観の法を解しないこと、二に所観の境を識らないこと、三に内外二境を分けないこと、四に事理二造を弁えないことを挙げ、すべて十章とし、十義書と名づけました。また二百の問いを設けてこれを質しました。このとき孤山は昭師の座端に居り、観如・什の論辯がよく当たるのを見て、にわかに郡守に告げ、これまで公の拠り所がないとして発遣し、帰らせて再び答えさせませんでした。大中祥符二年、保恩院の再建が成り、工事を始めてからこのときまでに十年が経ちました。通守の石待問がその記を書きました。三年、郡に願って朝廷に奏してもらい、十月、延慶の額を賜りました。五年、異聞とともに戒誓辞を作って徒弟の立誠に授けました。その概略にこうあります。「私は初め十方の心をもってこの住処を受け、改創して棟宇を安んずるに至った。もとより学を集めるためであり、どうして私することを敢えようか。ただわが宗に五徳ある者は、遠近を選ばず、私が授けて住まわせよう。後の後の謀もみな同じくそうであれ」。五徳とは、一に旧く天台を学び、兼講を事としないこと、二に研精覃思し、浮偽から遠ざかること、三に戒徳が聞こえ、己を正して物に接すること、四に名誉を遠ざけ、わが道を屈しないこと、五に辞弁ともに美しく、導くことに敏いことです。なぜか。兼講すればわが教えに背き、浮偽すれば伝えることを誤り、戒徳あれば化道が輝き、名誉を遠ざければ至業が固まる。しかる後に弁をもって義を暢べ、導きをもって人を得る。五者はむしろ加えることがあってもよいが、もし及ばなければ弁を去れ、と。六年二月十五日、初めて念仏施戒会を建て、自ら疏文を作って勧めの意を寓しました。これより年ごとに常としました。七年、融心解を撰し、一心三観を明らかにし、四浄土の旨を顕しました。天禧元年、弟子たちに言いました。「半偈のために身を捨て、一句のために火に投じる。聖人の心は法のためにこのようである。私は身を捨てて懈怠を警めよう」。そこで異聞とともに十人の同志を結び、法華懺を三年間修し、期が満ちたら身を焼いて妙経に供えようとしました。秘書監の楊億は遠くその道風を仰ぎ、丞相の寇準に白して紫服を賜るよう奏し、また書を奉じて賀しました。そして結懺遺身を聞くと、書を送って住世を勧請し、ちょうど天台の教えが復興する時であり、まさに伝持を頼んで世の良導となるべきだと言いました。往復数度に及んでもなお前の志を執ったので、楊公はそこで郡守の李夷庚と天竺の慈雲に書を送り、ともに勧め止めさせました。太守は自ら僚属を率いて住世説法利生を勧請し、またひそかに隣の社に戒めて常にこれを保護させました。ちょうど慈雲が東下して力強く勧め諫め、また駙馬の李遵勗もたびたび書を送って交々勧めました。師は公私の意の勤なるにより、ついに前の志を沮み、そこでまた十人の僧を結んで大悲懺法を三年間修し、もってかねての願を酬いました。この年、消伏三用章を述べ、孤山の闡義鈔に対し、性悪が理毒であることを知らないとしました。咸潤という者が籤疑を述べ、三種の消伏はともに円を約して論じました。浄覚は疏義を引き、四教十法界を経て三障を除き、止疑を述べて師の義を助けました。四年、駙馬の李遵勗が、師の高行と遺身を奏すると、上は嘉歎やまず、特に法智大師の号を賜り、世に住んで教えを演べるよう宣旨しました。この年、京師の訳経院証義の簡長・行肇ら二十三人が、それぞれ詩を寄せて道徳を讃美しました。五年、上は師が道のために勤めて至ることを聞き、内侍の俞源清を寺に遣わし、法華懺を三日間修して国のために祈福させました。源清が懺法の旨趣を知りたいと望んだので、修懺要旨を述べました。この年、観音別行玄記・観経疏妙宗鈔を撰し、ともに成りました。このとき梵天の門人である咸潤が指瑕を述べて妙宗を非とし、かつ独頭の色が三千を具えないなどの義に固執しました。それは昭・円の余波でした。浄覚は抉膜を述べて色心不二の旨を示し、また他の師が究竟蝮䘍六即の義に昧いことを評しました。ある日、浄覚と広智が観心観仏を弁じて師に決を求めました。師は心を約して仏を観るの談を示し、心性に拠って彼の依正を観ると述べました。浄覚は説かずに去り、やがて宗とする所をことごとく背き、三身寿量解を述べ、また別に難辞を立て、ひそかに前の鈔を修めて外に聞こえさせないよう請いました。師はそれが後世の異説の患いとなることを慮り、そこで料簡十三科を加えてこれを斥けました。浄覚は時に天竺にあり、十諫書を上し、父に諍子あれば身は不義に陥らないと述べました。師はまた解謗を作り、十諫はかえって増減の二謗となると述べました。浄覚はまた雪謗を述べ、権実を錯用して勝劣を判じたと言いました。師は時に病にあり、門人にこれを読ませ、ために太息しました。やがて帰寂に迫り、ついに復た弁じませんでした。後に希最という者があり、すなわち広慈の子で法智の孫であり、評謗を述べてこれを弁じました。浄覚は時にまだ无恙で、これを見て言いました。「四明の説は、それ遂に行われるであろうか」。天聖元年、光明玄続遺記を撰し、成りました。試みに幃を開いて四十二章を講じ、泰禅師の十問に答えました。時に天童の凝禅師が書を送り、指要鈔が達磨門下の三人の得道の浅深を揀示したことを論じ、往復やまず、太守の林が師にその説を融会するよう請いました。師はやむを得ず数語を少し改めました。三年、まず天禧初めに天下に放生池を立てる詔があり、師は聖化を広く揚げようと、毎年仏の誕生日に衆を集めて作法し、魚鳥を放って放生の業としました。この年、郡が事を聞き、勅して枢密の劉筠に文を撰ばせて後人に示し、太守の曾会が寺に碑を立てました。ある夜、夢に伽藍神が現れて言いました。「翌日相公が至る」。やがて曾公がその子の公亮を連れて寺に入りました。師が夢を告げると、母夫人は謝して言いました。「後々は貴くなっても敢えて忘れません」。公亮が入相すると、田を買い屋を開き、年ごとにその徒を度しました。五年、光明文句記を製しましたが、帰寂に迫り帙を終えるに及ばず、後に門人の広智が讃仏一品を続けてこれを成しました。六年正月元日、光明懺を七日間建てて順寂の期とし、五日に至り結跏趺坐し、大衆を召して説法し終わると、にわかに阿弥陀仏を数百声称え、奄然として逝きました。寿六十九、夏五十四。龕を二七日露し、顔貌は生けるがごとく、爪髪ともに長じ、舌根は壊れず蓮華のようでした。明道二年七月、霊骨を奉じて南城崇法院の左に塔を起てました。法を稟け徒を領する者三十人、尚賢・本如・梵臻・則全・慧才・崇矩・覚琮ら。入室四百八十人、昇堂千人、手度の立誠ら七十人。師は咸平二年以後、もっぱら講懺に務め、常に坐して臥さず、足は外に涉らず、修謁はことごとく遣りました。法華玄義を七遍、文句を八遍、止観を八遍、涅槃疏を一遍、浄名疏を二遍、光明玄義を十遍、別行玄を七遍、観経疏を七遍講じ、金剛錍・止観義例・大意・十不二門・始終心要などはもはや数えませんでした。法華懺を三七期五遍、光明懺七日期二十遍、弥陀懺七日期五十遍、請観音懺七七期八遍、大悲三七期十遍を修し、十人の僧を結んで法華長期三年を修し、十人の僧は大悲懺三年を修しました。三指を燃やして仏に供え、弥陀・観音・勢至・普賢・大悲・天台祖師の像二十躯を造り、教乗を印写すること一万巻に満ちました。著したものは続遺記三巻、光明文句記六巻、妙宗鈔三巻、別行玄記四巻、指要鈔二巻、扶宗記二巻、十義書三巻、観心二百問一巻、解謗書三巻、金光明三昧儀・大悲懺儀・修懺要旨各一巻。その他、融心解・義例境観・起信融会章・別理随縁二十問・消伏三用章・光明玄当体章のような問い、日本源信の問いへの答釈、楊文公の三問の釈、絳幃問答などがあります。師は起信論に大いに悟入したので、平時の著述には多くの拠り所があります。後人がその堂を起信と名づけたのは、忘れないためです。初め命服を受けたとき、神照が書を送って賀しました。師はこれに答えました。「三術を修めること寡なく、名が朝彦に達した。まして帝の沢を蒙り紫服を被ることを得た。恥ありて栄なく、どうして賀を致すに労せんか」。指要が初めて成ったとき、雪竇の顕禅師が山を出て訪ねて来て、その書を観て大いに欽讃し、すなわち斎を設けて慶を致し、親しく茶榜を掲げ、その事を美して言いました。

贊曰。唐之末造天下喪亂。台宗典籍流散海東。當是時為其學者。至有兼講華嚴以資說飾。暨我宋龍興。此道尚晦。螺溪寶雲之際。遺文復還。雖講演稍聞。而曲見之士氣習未移。故恩清兼業於前。昭圓異議於後。齊潤以他黨而外務侮同淨覺以吾子而內畔叛同皆足以溷亂法門壅塞祖道溷胡困反濁也四明法智。以上聖之才。當中興之運中竹仲反當也東征西伐再清教海。功業之盛可得而思。是以立陰觀妄。別理隨緣。究竟蛣蜣。理毒性惡。唯色唯心之旨。觀心觀佛之談。三雙之論佛身。即具之論經體。十不二門之指要。十種三法之觀心。判實判權。說修說性。凡章安荊溪未暇結顯。諸深法門悉表而出之。以為駕御群雄之策。付託諸子之計。自荊溪而來。九世二百年矣。弘法傳道何世無之。備眾體而集大成。闢異端而隆正統者。唯法智一師耳。是宜陪位列祖稱為中興。用見後學歸宗之意。今淛河東西淛浙江也又音制見莊子號為教黌者音橫學舍莫不一遵四明之道。回視山外諸師。固已無噍類矣噍才笑反齧也。漢書項羽攻城。所過無噍類。謂屠殺皆盡。無噍食之遺種也然則法運無窮之繫。其有在於是乎。

> 讃えて曰く。唐の末の世に、天下は戦乱に陥り、天台宗の典籍は海の向こうへと散逸してしまった。その当時、この宗派を学ぶ者の中には、華厳経まで兼ねて講じ、それをよりどころとして飾り立てる者さえあった。やがて我が宋の国が興ると、この道はなおも暗いままであった。螺渓・宝雲の時代になって、散逸していた文献が再び戻ってきた。講義や演説が少しずつ聞かれるようになったとはいえ、偏った見方をする者たちの気風や癖は改まらなかった。それゆえ、恩清は前期において二つの宗派を兼ね、昭円は後期において異を唱え、斉潤は別の一派に属して外に向かって仲間を侮り、浄覚は我が子でありながら内にあって仲間に背いた。いずれも法門を乱し、祖師の道を塞ぐに十分であった。四明の法智は、聖なる才能をもって、中興の時運に遭遇した。東に征き西に伐ち、再び教えの海を清めた。その功業の盛大さは、思うだけで知ることができる。それゆえ、陰を立てて妄を観ずること、理を別して随縁とすること、究竟の蛣蜣、理毒と性悪、唯色唯心の趣旨、観心観仏の談義、三双をもって仏身を論じ、即具をもって経体を論じ、十不二門の要点、十種三法の観心、実を判じ権を判じ、修を説き性を説く。およそ章安・荊渓が未だに明らかにしきれなかった、あらゆる深い法門を、ことごとく表に現し出した。これを群雄を御する策とし、諸子に付託する計とした。荊渓以来、九世二百年になる。仏法を弘め道を伝えることは、どの時代に欠けたことがあろうか。あらゆる体系を備えて大成をなし、異端を退けて正統を盛んにした者は、ただ法智ただ一人の師のみである。まさに列祖の末席に連なり、中興と称せられるべきである。これによって後学が宗に帰する志を見るのである。今、浙江の東西で、教黌と呼ばれる学び舎は、一つとして四明の道に従わないものはない。振り返って山外の諸師を見れば、もはや生き残りは一人もいない。そうであるならば、法運の尽きることのないつながりは、まさにここにあるのではないだろうか。

## 佛祖統紀卷第八終

> 仏祖統紀 第八巻