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title: "淨心誡觀法發真鈔 · 菩提篇二十六"
description: "淨心誡觀法發真鈔由宋代律宗高僧允堪述，日本僧人慧光合錄。該書以律宗思想為核心，闡述修行者如何淨化內心、嚴持戒律以達解脫。內容融合止觀實踐與戒律規範，強調心性修持與行為規範的統一。歷史背景上，此作反映了宋代佛教律學的發展及中日佛教交流。在佛教地位上，該書是研究中國律宗及戒律思想的重要文獻，對後世戒律實踐與禪修理論具有深遠影響。"
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誡觀對發菩提心法第二十六

二十六釋菩提篇身心自利總前二十五門大行化他故立四篇居後而又道心為要復在下三之前謂遇機能接逢苦悉受曰對起大道行曰菩提心若發此心總有三種按圓覺疏云初了悟覺性次發菩提心後修菩薩行謂若不了自心何以證道故多劫修行非真菩薩次不發大心無由起行故善財先陳己發方問行門圭峯自釋云初謂四大非我五蘊皆空空病亦空了然自覺聖凡相異異則不真生佛體同同豈增減依此悟解終始無殊此釋了悟覺性湛然發心即菩提心學菩薩行即六度萬行等見聞影嚮何實虗雖應形聲誰主誰宰不何依此悟所作非真自謂修行元是結業又華嚴三千行法最初以菩提心為所依普賢說三千行法第一句云以菩提心為依恒不忘失故然有菩提心體心相心德言心體者大悲大智大願三種心是大願是總悲智是別願者樂欲何事唯發心願樂通達諸法救度眾生故成悲智故起信云信成就發心者略說三種一者直心正念真如法故即是大智無所執著二者深心樂修一切善行故即大願謂四弘等是三者大悲心救護一切苦眾生故言菩提心相者所發之心要無分齊謂約悲願則盡度眾生盡修諸行約念真如則上無菩提可求下無眾生可度中無萬行可修故無分齊言菩提心德者若依上品發心一念之德過於虗空故華嚴以一百大喻校量菩提功德不及少分況此心難發為曲疏。

> 第二十六 菩提心を明かす章 身も心も自らのために修行することは、これまでの二十五門で説いてきました。大きな行いによって他を導くために、四篇を後に置いています。そして、道心が最も大切であることから、下の三篇の前に置かれています。 機に遇えば受け入れ、苦しみに逢えば全てを受けることを「對起」と言います。大道を起こす行いを「菩提心」と言います。 この心を発すれば、全部で三種類あります。「圓覺疏」によれば、第一に覚性を了悟し、次に菩提心を発し、後に菩薩行を修するといいます。 自分の心を了悟しなければ、どうして道を証できましょうか。ですから、長い劫の間修行しても、真の菩薩ではありません。次に、大心を発さなければ、行いを起こす道はありません。それゆえ、善財童子はまず自分の発心を述べてから、行いについて問うたのです。 圭峯は自ら次のように解釈しています。 「初めに、四大は我に非ず、五蘊は皆空であり、空の病もまた空であると知る。明らかに自覚すれば、聖と凡は異なる。異なれば真実ではない。生と仏は一体であり、一体ならば増減があろうか。この悟りにより、始めと終わりに差別はない」 <注>これは了悟覚性を解釈したものである。 <注>すなわち菩提心のことである。 <注>すなわち六度万行などのことである。 見聞は影や響のようなもので、何が実で何が虚であろうか。形や声に応じても、誰が主で誰が支配するのか。もしこの悟りに依らなければ、なすところは真実ではなく、修行そのものが結業であると自覚すべきである。 また、華厳の三千の行法において、最初に菩提心を依り所とする。 <注>普賢が三千の行法を説く第一句に「菩提心を依り所とし、恒に忘失することなかれ」とある。 さて、菩提心には体・相・徳がある。心の体とは、大悲・大智・大願の三つの心である。大願は総であり、悲と智は別である。願とは、何を欲し樂しむのか。ただ発願して諸法に通達し、衆生を救済し、そのために悲と智を成就することを樂しむのである。 「起信論」には「信成就発心」を略して三種説く。 一、直心 – 真如の法を正しく念ずる。 <注>すなわち大智であり、執着しないことである。 二、深心 – 一切の善行を修することを樂しむ。 <注>すなわち大願であり、四弘誓願などである。 三、大悲心 – 一切の苦しむ衆生を救い護る。 心の相とは、発する心に分斉（限界）がないことである。悲願においては、全ての衆生を度し、全ての行を修する。念真如においては、上に菩提も求めるものなく、下に衆生も度するものなく、中に万行も修するものなし。故に分斉がない。 心の徳とは、もし上品の発心をすれば、一念の徳が虚空を超える。ゆえに華厳では百の大きな譬えを用いて菩提の功徳を説いても、そのほんの一部にも及ばない。ましてこの心を発するのは難しく、ゆえに曲疏と言うのである。

夫發道心如滴水寄海雖復微鮮水終不失經云一搆乳頃起大乘心當成佛道。

> 道心を発することは、一滴の水が海に注ぐようなものです。その一滴はごくわずかであっても、その水は決して失われることはありません。経典には「わずか乳を搾るほどの短い間でも、大乗の心を起こせば、必ず仏道を成ずるであろう」と説かれています。

道心以菩提翻道故此則大故道心也如滴水下大悲經曰譬如有人折破一毛以為百分取一分毛沾一滴水寄付如來如來爾時即受彼寄置恒河中共其大水漸入大海至劫盡時知彼水滴在大海內見所住所彼經毛端喻心意識恒河喻生死流滴水喻發心少善大海喻如來應正徧知當知若對佛所一發道心善根不失又金藏經云一切有情歸依三寶以清淨信心造一念善佛悉知之經無量劫亦不忘失亦不雜亂如人以一滴水寄大海中佛悉知之不錯不亂意頗同也一搆乳者即一搆乳頃言時之促耳涅槃經云如人搆角本無乳相雖加功力乳無由出搆乳之者不得如是加功雖少乳則多出又地持論云以少方便興大供養攝大菩提乃至於搆牛乳頃於一切眾生修四無量心是名至處道供養乃至筭數譬喻不得為比當知一搆雖少而所得則多一發尚微而所趣尤大如王太子終紹王位故曰當成佛道。

> 道心を菩提と翻すは、これすなわち大きな道心なり。例えば水滴を垂らすがごとし。大悲経に曰く、「譬えば人ありて一毛を折り破りて百分と為し、一分の毛を取りて一滴の水に沾（けが）し、如来に寄付す。如来はその時、即ちその寄付を受け、恒河の中に置きて共にその大水と共に、漸く大海に入る。劫尽きる時に至りて、その水滴の大海内に在るを知り、その住する所を見る」。かの経にいう毛端は、心・意識に喩え、恒河は生死の流れに喩え、滴水は発心の少善に喩え、大海は如来応正遍知に喩う。まさに知るべし、もし仏の所に対し一道心を発せば、その善根は失われず。 また金蔵経に云わく、「一切の有情、三宝に帰依し、清浄なる信心を以て一念の善を造らば、仏は悉くこれを知る。経無量劫もまた忘失せず、また雑乱せず。人の一滴滴水を大海に寄するが如く、仏は悉くこれを知り、錯乱することなし」。意（こころ）もほぼ同じである。 「一搆乳（こうにゅう）」とは、すなわち一搆の乳の頃、時間の短さを言う。涅槃経に云わく、「人の角を搆（しぼ）るが如し。本より乳の相無ければ、功力を加うといえども乳の出づる由なし。搆乳の者はかくの如くすべからず。功力少なしといえども、乳は多出せり」。また地持論に云わく、「少方便を以て大供養を興し、大菩提を摂す。乃至搆牛乳の頃に、一切衆生に於いて四無量心を修せば、これを至処道供養と名づく。乃至算数譬喻も比するに足らず」。まさに知るべし、一搆は少なしといえども、得るところは多く、一発はなお微かといえども、趣くところは特に大なり。王の太子の如く、ついに王位を継ぐ。故に曰く「当に成仏道すべし」と。

何以故若修道時百一十苦悉堪忍之所謂飢渴寒熱蚊䗈𤼭虱惡風暴雨四百四病呵責罵辱惡口誹謗水火劫盜毒虫猛獸鞭打侵惱難忍之事悉皆甘受不見苦相我身能忍修行六度修三空門以是因緣故至成佛果經云此國一日修道勝他方一劫何以故此中多惱害能忍者希雖忍諸苦功德易長淨土無惱佛道難成。

> なぜかと言えば、修行の道を歩むときには、百十もの苦しみをすべて堪え忍ぶからです。すなわち、飢えや渇き、寒さや暑さ、蚊やアブ、ノミやシラミ、悪風や大雨、四百四病、叱責や罵倒、悪口や誹謗、水や火、盗賊や毒虫、猛獣、鞭打ちや侵害など、耐え難い事柄をすべて甘んじて受け入れ、苦しみの相を見ることなく、自らがよく耐え忍んで修行するのです。六波羅蜜を修行し、三つの空の門を修める。この縁によって、ついには仏の果を成就するに至ります。経典にはこう説かれています。「この国で一日修行すれば、他方の世界で一劫修行するよりも勝れている。なぜか。ここには悩みや害が多く、耐え忍ぶことのできる者は稀だからである。様々な苦しみを耐え忍ぶことで、功徳は育ちやすい。一方、浄土には悩みがない

百一十苦者此總舉也所謂下列苦相也用百一字収下地等四大各有百一又以十字収飢渴等十故曰百一十也所謂一呵責二罵辱三惡口四誹謗五水六火七劫盜八毒蟲九猛獸十鞭打侵惱難忍通収上十雖有此苦修大道人不見苦相是名能忍故經云菩薩離一切相發阿耨多羅三藐三菩提心三空如上他方即指餘三洲及餘樂處也何以下推釋所以為娑婆苦多厭離心一切諸天著樂趣道心緩故有不等是以諸佛多於人中得道淨土者對穢得名非諸佛淨土也以此南洲至穢不如餘三天下淨拾毗尼云閻浮人有四別緣見佛聞法出家得道雖苦亦勝。

> 百一十の苦とは、これは総じて挙げたものである。いわゆる、以下に列挙する苦の相のことである。「百一」の文字を用いて、下の地・水・火・風の四大がそれぞれ百一の苦を持つことを収め、また「十」の文字を用いて、飢え・渇きなどの十の苦を収める。ゆえに「百一十」と称するのである。すなわち、一に呵責（かしゃく）、二に罵辱（めじょく）、三に悪口（あっく）、四に誹謗（ひぼう）、五に水、六に火、七に劫盗（ごうとう）、八に毒虫、九に猛獣、十に鞭打（べんだ）である。これらは悩み苦しめられ、耐え難いものであるが、上の十の苦をすべて収めている。この苦があるにもかかわらず、大道を修行する人は苦の相を見ない。これを「能く忍ぶ」と名づける。ゆえに経に「菩薩は一切の相を離れて、阿耨多羅三藐三菩提（あのくたらさんみゃくさんぼだい）の心を発す」と説かれている。「三空」とは、前に述べた通りである。「他方」とは、他の三つの洲およびその他の楽しい場所を指す。「何をもって」以下の文は、理由を推し示したものである。すなわち、娑婆世界は苦が多く、厭離の心を起こしやすいが、諸天は楽に執着して道を求める心が緩やかであるため、その違いがある。ゆえに諸仏は、多くは人間の中において道を得るのである。「浄土」とは、穢れに対して名づけられたものであって、諸仏の浄土が特別にあるわけではない。この南閻浮提（なんえん

於佛法中若欲退心當憶過去經無量劫在地獄中受熾猛火碎身等苦無逃避處人中苦者百千萬億不重於彼一瞬目頃若不堅固勤行諸度云何能盡生死大苦因緣三塗罪人若為能救。

> 仏の教えにおいて、「退こう」という気持ちが湧いたなら、こう思いなさい。 「私は果てしない昔の劫（カルパ）の間、地獄で燃え盛る猛火に焼かれ、身体が砕けるような苦しみを受け、逃れる場所さえなかった。人の世の苦しみなど、その一瞬の苦しみに比べれば、百千万億分の一にも満たない。もしも忍耐強く、様々な修行の道を進まなければ、どうしてこの生死の大きな苦しみの原因を断ち切ることができようか。地獄・餓鬼・畜生という三つの悪道の罪人を、誰が救うことができるだろうか。」

熾下合有然字瞬者目動也諸度即六度。

> 解説： - 「熾下合有然字」：これは、『心経』のテキストに含まれる「熾」の字の下に、本来「然」の字があるべきだという校訂注記です。 - 「瞬者目動也」：「瞬」とは、目を動かすこと（まばたき）を意味します。 - 「諸度即六度」：「諸度」とは、六つの波羅蜜（六度）を指します。 \*\*翻訳：\*\* この「熾」の字の下には、本来「然」の字が続くべきです。「瞬」とは、目を動かすこと（まばたき）です。「諸度」とは、六つの波羅蜜（布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧）のことです。

若不能救眾生何名慈悲既無慈悲菩提分法依何為本若無根本則遠種性是故菩薩願盡後生不破菩薩戒聲聞之人受形俱戒汝可善知二戒差別。

> もしも衆生を救うことができなければ、何をもって慈悲と言えるでしょう。慈悲がなければ、悟りへと至る方法（菩提分法）は何をよりどころとするのでしょうか。よりどころがなければ、悟りの種性（仏になる可能性）から遠ざかってしまいます。だからこそ、菩薩は生涯を尽くして菩薩戒を破らないと誓うのです。声聞（しょうもん）の修行者は「形俱戒」（形だけの戒律）を受けるのです。あなたは、この二つの戒律の違いをよく知るべきです。

種性即菩提種性以此道性用修慈為本又慈悲為本菩薩既歷劫行慈則奉戒至於未來終不捨也故曰是故菩薩等形俱以盡形受故二戒差別者菩薩誓期來際願力不失菩薩戒疏云若捨菩薩願若增上煩惱犯十重其體即廢無此二緣至佛乃廢聲聞期在盡形形終戒謝故業疏問云薰本識藏此是種子能為後習何得說為形終戒謝答種由思生要期是願願約盡形形終戒謝。

> 種性とは、菩提の種性のことである。この道性をもって修行の根本とし、慈を修行の基盤とする。また、慈悲を根本として、菩薩は長い年月を経て慈を実践行じてきたため、戒律を守り続け、未来に至るまで決して捨てることはない。ゆえに「是故菩薩等」と説かれているのである。 菩薩と声聞の戒律の違いについて述べる。菩薩は未来際に誓願を立て、その願力によって失われることがない。菩薩戒疏には「もし菩薩の願を捨てるか、あるいは増上煩悩によって十重禁戒を犯したならば、その戒体はただちに失われる。しかし、この二つの因縁がなければ、仏となるまで戒は失われない」とある。 一方、声聞は尽形寿（生涯）を期限として受戒する。その形（身体）が終われば戒もまた終わるのである。そこで、業疏に問う。「本識に薫習して蔵識に種子を残すならば、それは将来の修行の因となるはずである。それなのに、なぜ形が終われば戒も終わると言うのか」と。これに答えて「種子は思心所（意志）によって生じるものであり、

菩薩者不染三界不厭三界求無為道不住無為常處生死而無生死。

> 菩薩は三界に染まらず、三界を厭いません。 無為の道を求めながらも、無為に留まりません。 常に生死の世界にあっても、生死はありません。

不染三界非受生故來也不厭三界謂度物故來也不住無為簡異聲門也常處生死成上不厭三界也而無生死顯上不染三界也。

> 三つの世界（三界）に汚されることなく、それは生まれ変わる者ではないからである。 三つの世界を嫌うことなく、それは人々を救うためである。 無為の境地に留まらないことは、声聞（しょうもん）の教えとは異なることを示す。 常に生死の世界にいることで、上に述べた「三界を厭わない」という意味を成す。 しかし生死の実体はなく、上に述べた「三界に汚されない」という意味を明らかにする。

何故不染三界煩惱盡故業不繫故不厭三界愍眾生故大慈悲故求無為道故欲自他利故隨順大乘故何故不住無為攝正法故攝眾生故何故常處生死利行同事故本願無盡故而非生死業種盡故得大自在入解脫海故是以不在此彼不著中流離於中邊心不住邊道何以故不守自性法應爾故。

> なぜ三界に染まらないのか？ 三界の煩悩を尽くしたからであり、 業に縛られないからである。 なぜ三界を嫌わないのか？ 衆生を哀れむからであり、 大慈悲があるからである。 なぜ無為の道を求めるのか？ 自他の利益を欲するからであり、 大乗に随順するからである。 なぜ無為の境地に留まらないのか？ 正法を護持するためであり、 衆生を導くためである。 なぜ常に生死の世界に住するのか？ 利益と行いを共にするからであり、 本願が尽きることがないからである。 しかし、それは生死の業の種が尽きたからではない。 大自在を得て、解脱の海に入ったからである。 ゆえに、彼は「ここ」にも「あそこ」にもおらず、 流れの真ん中にも執着しない。 辺と中を離れ、 心は辺の道に留まることがない。 なぜか？ 自性に固執しないことこそ、 法の本来のあり方だからである。

煩惱盡者見思無明習氣俱盡不結三界業故非真受生死也俱慈悲化物故來曰不厭三界也不厭上亦合有何故字隨順大乘者以小乘聲聞唯修自利大乘菩薩修自利利他行故不住無為者以菩薩出假化物為攝眾生故為行正法故不同聲聞沈空滯寂不起化用也利行同事即四攝之二且利行者謂菩薩隨起身口意行能令一切各霑利益眾生既蒙勝利以欣所得利因是生親愛心依附愛道得住真理故名利行攝也又同事者菩薩用法眼明見眾生根緣故一切隨有同欣之者即分形散影普和其光同彼事業各便霑益巧同其事因是生親愛心依附受道得住涅槃故同事益物名為攝也本願無盡者以四弘誓願云眾生無邊誓願度是故菩薩不住無為常處生死心不住邊道者即不住二邊及以中道不守自性者隨物起滅也十地論云菩薩三種觀於眾生起大慈悲一遠離最上第一義樂二具足諸苦三於彼顛倒真樂本有失而不知妄苦本空得而不覺故云顛倒是故不住自性而起化物也則大乘行是法應爾。

> 煩悩を尽くした者は、見惑、思惑、無明の習気までもすべて尽くしています。三界に業を結ぶことがないため、真の意味で生死を受けることはありません。しかし、慈悲をもって衆生を教化するために、あえて「三界を厭わない」と説くのです。「厭わない」の上に「何が故に」という語があるのは、大乗に随順するためです。小乗の声聞はただ自利のみを修めるのに対し、大乗の菩薩は自利利他の行を修めるからです。「無為に安住しない」とは、菩薩が仮の世界に出て衆生を教化し、彼らを導くために、正法を行じるためであり、声聞のように空に沈み寂に留まって教化の働きを起こさないのとは異なります。「利行」と「同事」は、四摂法の中の二つです。「利行」とは、菩薩が身・口・意の行を起こし、すべての者に利益を及ぼすことをいいます。衆生がその勝利を受け、得た利益を喜ぶことで、親愛の心が生まれ、その愛に依って正しい道に留まり、真理を得ることができるため、これを「利行の摂」といいます。また、「同事」とは、菩薩が法眼をもって衆生の因縁を明らかに見るため、すべての者に合わせて共に喜ぶことができます。つまり、自らを分けて影を散らし、その光を和らげ、彼らの行いに同じて、それぞれが利益を得るように巧みに事を同じくします。それによって親愛の心が生じ、その愛に依って道を受け、涅槃に留まることができるため、同事によって物を利益することを「摂」というのです。「本願が尽きない」とは、四弘誓願に「衆生無辺誓願度」とあるように、菩薩は無為に安住せず、常に生死の世界にありながら、心は辺の道に留まらないことをいいます。すなわち、二辺や中道にもとどまらないのです。「自性を守らない」とは、物に応じて生滅することをいいます。『十地論』には、菩薩は三種の観をもって衆生に大慈悲を起こすと説かれています。第一に、最も勝れた第一義の楽から遠ざかっていること、第二に、あらゆる苦を具えていること、第三に、それらについて顛倒していること<note>真の楽は本来有るのに失っていると知らず、妄の苦は本来空なのに得ていると気づかない。これを顛倒という。</note>です。このため、自性に安住せずに教化の働きを起こすのです。大乗の行とは、本来こうあるべきものなのです。

常觀四諦十二因緣生死苦聚常起四弘誓願建大夫志常以四攝饒益眾生常修四無量心怨親平等常行六度自他利益常修萬德求無上菩提為成十力無畏不共之法今唯略勸廣恐文繁能依此誡名廣大淨心。

> 常に四諦（四つの聖なる真理）と十二因縁（縁起の十二支）を観じ、生死の苦しみの集まりを悟りなさい。常に四弘誓願（四つの広大な誓い）を起こし、大丈夫（りっぱな求道者）としての志を立てなさい。常に四摂（四つの教化の方法）をもって生きとし生けるものを利益し、常に四無量心（四つの限りない心）を修めて、怨みと親しみを平等に見なさい。常に六度（六つの波羅蜜）を行じて、自他ともに利益し、常にあらゆる功徳を修めて、無上の菩提（悟り）を求めなさい。それによって、十力・無畏・不共の法（仏だけが持つ十の力、四

四諦十二因緣雖三乘同觀而執據常別故祇桓寺有菩薩四諦院菩薩十二因緣院具也四弘誓願者即是菩薩所行諸佛所證法也以凡夫二乘法中雖有慈悲而並無弘誓之德以不能久處生死荷負一切今菩薩善達四諦十二因緣憐愍一切同於子想故起弘誓接物利生同入涅槃所謂一未度者令度二未解者令解三未安者令安四未涅槃者令得涅槃智者云此四弘誓願即是發菩提心萬行之本靈覺之源也四攝者一布施二愛語三利行四同事俱言攝者用此四法同情接引則物無所不攝也眾生因此依附然後尊以大方所謂先以欲鈎牽後令入佛道四無量心即慈悲喜捨十力者一處非處力二業三定四根五欲六性七至處道八宿命九天眼十漏盡即諸佛所得如實智用通達一切了了分明無壞勝故通名為力無畏者即四無所畏一者一切智無所畏二漏盡三說障道四說盡苦道以諸佛十力之智內充明了決定故對外緣而通無恐畏不苦之法者即十八不共法所謂一身二口三念無失四無異想五不定心六無不知已捨七欲八精進九念十慧十一解脫十二解脫知見無減十三四五一切身口意業隨智慧行十六七八智慧知過過去未來現在世無礙此之十八極地之法不與凡夫二乘及諸菩薩共有故云不共也。

偈曰。

若發菩提心 動念起慈悲 求於無為道身常處有為 四攝調眾生 然可受三歸譬如大暗處 月輪放光暉 自未脫諸苦先當救艱危 無緣修四等 饒益與除衰

動念起慈悲問慈悲二種所出合修者答小遠法師云慈欲與樂無悲除苦樂則不生故須修悲悲故拔苦無慈與樂苦則不去故須修慈是二相須故須並修問慈悲之後何又修喜答慈欲與樂悲與󳫠苦若無喜心除其嫉妬則拔苦與樂不勝故次修也問慈悲喜捨幾屬有行幾屬空行答前三是有行後一是空行若無空捨是則前三便屬受見若無前三是則捨心於空滯沒是四相須並修也故向云常修四無量心是也無為道即涅槃也以涅槃體寂不為諸相所遷故有為者常處生死修四攝等下化眾生也然下以攝彼熟故然後可與受三歸或發五八等戒也歸者以反還為義譬下大暗喻眾生菩薩出世放光喻慈攝為眾日輪喻生說法自下菩薩運心自未求解脫先令眾生離苦得樂四等即四無量但約心名四等約境號無量。

逢一百十苦 甘忍未曾瞋 亦不見苦相又不見我身 身苦二空俱 忍法亦復然諸苦及人法 三相滅隨真

亦不見苦相謂菩薩度眾生雖彼苦而不見苦相又不見我身故經云如我昔為歌利王割截身體我於爾時無我相人相眾生相壽者相乃至若有我相等應生瞋恨忍法亦然者以身苦既空忍亦空也問涅槃經云菩薩入地獄如三禪樂云何受苦答如三禪樂自是一行由心不生故心不生即是無我人在苦而不苦又經云三禪樂不一向言樂也若一切樂無病苦則闊痛苦行那成菩薩徧行問有云菩薩捨身頭目手足不痛苦已知諸法如幻故如何答幻不苦自是一行菩薩亦不住是行中若都不捨身命那得超越劫數亦不說對行苦行苦不痛苦者如捨土木此違菩薩苦行負菩薩心成大罪也又有無痛苦者一為忍力大故能堪忍苦勝於凡夫二為大悲重故念眾生受苦亦不覺苦如母見子墮屎坑中念子心重透入中取亦不覺臭雖處無痛苦行中亦不著無痛則純於無病雖在痛行中亦不著痛則純於痛法此乃足跡不可尋也三相即諸苦人法也以滅滅故非著不著即解脫而契乎真矣。

菩薩不住道 隨逐利益行 常處於三界救濟苦眾生 迷道令見道 無明令得明慧手執金錍 決膜療羣肓 滅者不永滅生者不常生 生滅畢竟空 凡聖本來平

不住道者即不住涅槃也金錍者喻也涅槃如來性品云譬如目盲人為治目故造詣良醫是時良醫即以金錍決其眼膜今喻菩薩以教理行錍決開眾生無明眼膜顯了佛性也滅者不永滅遇緣即生故生者不常生緣盡即滅故謝康樂云解極會如體無方所緣至物見來無所從感畢為隱亦何所去生下即生死涅槃猶若空華凡聖高下平等一理故則無能化所化也。

願從今日後 乃成法界主 不起一慾心貪染一切女 願從今日後 乃至成佛道於一切眾生 不嫌不瞋惱 顧從今日後乃至證真如 不起顛倒心 取著世六塵願從今日後 乃至無為岸 不起攀緣心念諸惡覺觀

法界主與下成佛道無異證真如共無為岸不殊但文之變耳。

今發菩提心 生生超八難 弘誓要期已道心勿退散

八難者謂三惡道三四北洲五長壽天大論云非非想處壽八萬大劫或說無想天壽六佛前佛後七世智辨聰八盲聾瘖瘂道心勿退散者以大心難行故特勸之且如身子尚有退也故智論云舍利弗於六十劫行菩薩行欲度彼岸時有乞人來乞其眼舍利弗言眼無所住何以索之若須我身及以財物當以相與答言不須唯欲得眼爾時舍利弗出一眼與之乞者得已於舍利弗前齅之嫌臭唾而棄地又以脚踏舍利弗思惟言此人難可度也不如自調早度生死思惟是已於菩提道迴向小乘當知菩薩大行難其行矣又此篇雖廣示於願行今據發菩提心經誓願品中始末用意有十大正願其文甚要故曲引之一者願我先世及以今身所種善根以此善根施與一切無邊眾生悉共迴向無上菩提令我此願念念增長世世所生常係在心終不忘失為陀羅尼之所守護二者願我迴向大菩提已以此善根於一切眾生處當得供養一切諸佛不生無佛國土三者願我生諸佛國土已常得親近隨侍左右如影隨形無剎那頃遠離諸佛四者願我得親近佛已隨我所應為我說法得成就菩薩五通五者願我成就菩薩五通已即通達世諦假名流布解了第一義諦真如實性得正法智六願我得正法智已以無厭心為眾生說示教利喜皆令開解七者願我能開解諸眾生已以佛神力徧至十方無餘世界供養諸佛熟受正法廣攝眾生八者願我於諸佛所受正法已即能隨轉清淨法輪十方世界一切眾生聽我法者聞我名者即得捨離一切煩惱發菩提心九者願我能令一切眾生發菩提已常隨將護除無利益與無量樂捨身命財攝受眾生荷負正法十者願我荷負正法已雖行正法心無所行如諸菩薩行於正法而無所行亦無不行為化眾生不捨正願是名發心菩薩十大正願此十大願徧眾生界攝受一切恒河沙諸願若眾生界盡我願乃盡而眾生界實不可盡我此大願亦無有盡向所引者無謂文煩頗資大行儻誦之心首寄言履踐者則菩提種子結果不遠矣。

## 淨心誡觀發真鈔下本

## 淨心誡觀發心鈔下末