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title: "涅槃經疏私記 · 釋名字功德品第六"
description: "涅槃經疏私記由唐代天台宗高僧行滿集錄撰述，是對南朝智者大師所著涅槃經疏的註解與闡釋。該書形成於中國佛教宗派興盛、教義體系趨於成熟的唐代，旨在深入疏解大般涅槃經的佛性思想與涅槃常樂我淨之義。內容系統闡釋了眾生皆有佛性、如來藏及一闡提成佛等核心教義，並融合天台宗觀心法門與判教理論。此著作反映了中國佛教對涅槃經的獨特理解，是天台宗的重要典籍，對後世研究涅槃經及佛性論具有深遠影響。"
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### ○釋名字功德品第六

> 第六品 名号の功徳を説く

開善合為八善者。合上中下為一善。并前七善即成八也。

> 1\. 賢善（すぐれた徳） 2. 正善（正しい行い） 3. 妙善（絶妙な善） 4. 微善（細やかな善） 5. 深善（深い善） 6. 廣善（広大な善） 7. 無上善（この上ない善） 8. 無等善（比べるもののない善） 上・中・下の位をひとつにまとめたものを第一の善とし、それに先の七つの善を合わせて八つの善としています。

今依七譬釋七善文者。從於八河入海次第對之。乃至八味具足。亦是備具善也。

> 七つのたとえを用いて七種の善を説明する時は、八つの川が海に入る順序になぞらえる。そして八つの味がすべて備わるように、この善もまた完全に具わっているのである。

悕望永斷者。此是極上之味。如食乳糜。更無所須也。

> 願いを永遠に断ち切る者にとって、これは極上の味わいである。まるで乳粥を食べるかのように、他に何も必要としないのである。

善治亂心者。即是梵行慈善。四無量心能修定。故云善治。若不修定。即是空亂意眾生。非此大乘定也。

> よく心の乱れを治める者こそ、真の清らかな修行（梵行）であり、慈しみの心（慈善）を実践する者です。四無量心を修めることで、心を定めることができるのです。だから「よく治める」というのです。もし心を定める修行をしなければ、それはただ空しく思い悩む衆生であり、この大乗の定（瞑想）とは呼べません。

一是諸佛之師者。常住秘藏之理。為佛師也。

> 一、諸仏の師とは、常住不変の秘蔵の真理そのものであり、この真理が諸仏の師である。

二是菩薩之門者。門是能通。一切菩薩修大涅槃教。從因至果。證三德理。名為正法。為大良醫也。

> 第二に、菩薩の門について。門とは通ずることを意味します。すべての菩薩は大涅槃の教えを修め、因から果へと至り、三徳の理を証得します。これを正法と呼び、優れた名医であるのです。

三杜眾生四惡之趣者。聞此名字。深信功德。惡不能染。故云杜也。

> 三つの悪道に落ちるはずの衆生も、この名号を聞いて、その功徳を深く信じるならば、悪に染まることがありません。だから「杜（ふさぐ）」というのです。

此文從所持法作名者。謂名字功德也。

> この文は、修行者が持つべき教えをもとに名づけられたものです。すなわち、その名前自体に功徳があるということです。

互舉一邊者。彼論人此論法。舉法知有人。舉人必具於法。故云互耳。

> 片方だけを挙げて述べるというのは、あの論では「人」を扱い、この論では「法」を扱うことを意味する。「法」を挙げれば、そこに「人」が存在することが分かり、「人」を挙げれば、必ず「法」が備わっている。だから「互いに」と言うのである。

而彼此中者。生死為此岸。涅槃為彼岸。發心為中依。今觀生死即涅槃故。故云非彼此中者。

> しかし、この「彼と此」の話ですが、 迷いの世界（生死）を「此岸（こちらの岸）」、 悟りの世界（涅槃）を「彼岸（向こうの岸）」、 そして悟りを求める心を「その中間のよりどころ」とします。 しかし、実際に観じてみると、迷いの世界こそがそのまま悟りの世界なのです。 だから、本当の意味での「此岸」も「彼岸」も、またその「中間」もないのです。

一問三答者。問彼岸為一也。三答者。答彼此中三也。

> 一つの問いに対して三つの答えがある。その問いとは「彼岸」が一つであることについてである。三つの答えとは、「彼方」「此方」「その中間」の三つである。

登於性地者。通教菩薩本自不墮。何假聞經也。

> 性地に登る者は、通教の菩薩もともと自ら堕ちず。何ぞ経を聞くを仮さんや。

為作遠緣者。別時意趣。即時未免也。

> 遠縁を作るというのは、「別時の意趣」であり、すぐには（苦しみから）免れないということです。

名無名等者。入內凡位也。

> 名前がない、名づけようがないなどの状態は、凡夫の内なる境地に入った位を指します。

超度有流者。有謂三有。流即四流也。

> 生死の流れを超えさせる。三有とは三つの生存を指し、流れとは四つの流れのことである。

信此為受者。如法華中。初隨喜人深信諦理。順涅槃心三德之解。名之受也。

> このことを「受ける」と信じるならば、例えば『法華経』の中で、初めて喜びを感じる人が真理を深く信じ、心を涅槃に向け、三つの徳を理解する、そのことを「受ける」と呼ぶのです。

念念相續名之為持。五品六根於慈可獲。豈只聞經而矣哉。

> 心に念を絶やさず、続けていくことを「持つ」と言います。 五品（ごほん）や六根（ろっこん）の位は、この慈悲の心によって得ることができるのです。 決して、ただ経典を聞くだけの話ではないのです。

經云及諸魔性者。名不改。煩惱等魔惱亂行人。種種扇動。廣如止觀中說也。

> 経典にある「魔性」というものは、その本質を変えることがないものです。煩悩などの魔は修行者を悩ませ、さまざまに動揺させます。その詳しい内容は『摩訶止観』の中に説かれている通りです。

萬德為初者。意斥他云。果中萬德何却為初也。

> 万徳を初めとする、とは、他を否定する意味です。「修行の結果である万徳が、なぜ初めにあるのか？」と問うているのです。

經云上中下語者。即是上文第一語善。義即義善。文即文善。純備即獨一善。清淨即行善。梵行即慈善。滿足即具善也。

> 経典に説かれる「上・中・下の言葉」とは、すなわち上文の第一の言葉が「善」であることを指します。「義」とは意味が優れていること、「文」とは文章が優れていること、「純備」とはそれだけで完全な善であること、「清浄」とは実践行が清らかな善であること、「梵行」とは慈悲の行いであること、「滿足」とはすべての善を備えていることです。

故互相釋者。常故即大。大故即常。大之與常一體名異耳。

> したがって、互いに説明し合うならば、「常」であるからこそ「大」であり、「大」であるからこそ「常」です。「大」と「常」は、同じ一つのものの異なる名前に過ぎないのです。

乳是其本者。乳是一。生熟為二。酪漿為二。即成五味也。

> 乳はその根本です。乳は一つですが、生と熟の状態で二つとなり、さらに酪や漿（しる）も加わって二つとなり、このようにして五つの味が成立するのです。

## 涅槃經疏私記卷第四

> 涅槃経疏私記 巻第四