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title: "雲臥紀譚 · 秀紫芝文"
description: "雲臥紀譚由宋代高僧曉瑩錄撰，成書於南宋初期。該書屬佛教筆記體裁，主要記錄了作者雲遊期間的所見所聞，包括禪門軼事、高僧語錄及叢林規制等內容。全書反映了南宋佛教尤其是禪宗的發展狀況，具有重要的史料價值。作為佛教史傳文獻，它為研究宋代禪宗思想、僧團生活及社會互動提供了珍貴的一手資料，在佛教典籍中佔有獨特地位，是了解當時佛教生態的重要參考。"
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蜀僧祖秀。字紫芝。蚤以文鳴於士大夫間。慕嵩明教之風。著歐陽文忠公外傳。蘇養直庠為序冠其首。略曰。君子以佛之教不見證於堯．舜．禹．湯之世。而孔子．孟軻之後。歷代先儒雖當國。不少禁。亦聽其橫流㝢內。古今持此論者有矣。獨秀公以謂堯之丹朱。不足以授政而禪舜。舜亦憂商均而禪禹。至湯武革命。斯教之所始。使孔子行事。亦何以異此。由堯迄武王。佛未誕生。有以也。成康既沒。佛於是顯跡。然而未被中華。以竢聖人生於魯。集大成於古帝王之教也。甚矣。聖人困於魯衛．陳宋。欲居九夷。乘桴浮海。當是時。以外數萬里之教。加于中國。天子．諸侯疇聽之哉。佛之法不苟傳。非顯宗感而求諸遠。恐未能速應耳。此皆秀公京師之書。其駭古震今之論。溢數萬言。特未傳於世。又秀甞讚東坡像曰。漢之司馬．楊．王。唐之太白．子昂。是五君子者。皆生乎蜀郡。未若夫子而有耿光。夫子之詩。抗衡者。其唯子美。夫子之文。並軫者。其唯子長。賦亦賢於屈賈。字乃徤於鍾王。此夫子之絕技。葢至道之秕穅。夫子之道。是為后稷．伊尹。可以致其君於堯．湯。時議將加之於鈇鉞。而夫子尤諷於典章。海表之遷。如還故鄉。信蜀郡之五傑者。莫得窺夫子之垣墻。秀之言論風旨。不特此而已。嘗一臠可以知鼎味也。靖康初。秀尚留京師。著華陽宮記。極為詳備。其東都事略以為朱勔傳讚。葢勔董役讀之者。所謂壽山艮嶽則昭然矣。豈待寄目耶。張丞相德遠判福唐。致秀住長樂光嚴蘭若。後歸老蜀山。翛然燕處。一話一言未嘗忘衛宗護教。既福不逮慧。為時論所惜焉。

> 蜀の僧、祖秀。字は紫芝。若くして文才をもって士大夫の間で名を馳せた。明教大師の風を慕い、『歐陽文忠公外傳』を著した。蘇養直の書いた序文をその巻頭に掲げ、その中で大要このように述べている。「君子たちは、仏教という教えが堯・舜・禹・湯の時代にはその証を示さず、孔子・孟子以降、歴代の儒者たちが国政を執り行っても禁じることはなく、天下に広まるままに任せてきた。古今を通じてこのような論を唱える者は多かった。しかし、ただ秀公だけは、堯がその子丹朱には政権を委ねられずに舜に譲り、舜もまたその子商均を憂いて禹に譲り、湯王・武王の革命に至って、ここにこの教えが始まったのだと論じた。たとえ孔子が天下を治める立場にあったとしても、これと何ら異なることはなかっただろう。堯から武王に至るまで、仏がまだ誕生していなかったのには理由がある。成王・康王の時代が過ぎ去って、仏はここにその姿を現した。しかし、まだ中国には及んでいなかった。それは、聖人が魯の国に生まれ、古の帝王たちの教えを集大成するのを待っていたからである。なんと深遠なことか。聖人は魯・衛・陳・宋の国々で困難に遭い、九夷の地に住まうことや、筏に乗って海を渡ることを望んだ。この時、西方数万里の彼方の教えを中国に持ち込んだところで、天子や諸侯が誰が聞き入れるだろうか。仏の教えはいい加減に伝えられるものではない。目を輝かせる王者が、その教えを遠くに求めようと心から思わなければ、恐らくは速やかに応えることはできなかっただろう。」これらはすべて、秀公が都で記した書物の内容である。その驚天動地の論は数万言に及び、ただ世に伝えられていないだけである。また、かつて秀は東坡の像に賛を寄せてこう言った。「漢の司馬遷・揚雄・王褒、唐の李白・陳子昂。この五人の君子は、いずれも蜀の地に生まれた。しかし、あなた（東坡）ほどの光輝を放つ者はいない。あなたの詩で肩を並べるのは、おそらくただ杜甫のみ。あなたの文章で並び立つのは、おそらくただ司馬遷のみ。その賦は屈原や賈誼にも勝り、その書は鍾繇や王羲之よりも力強い。これらはあなたの絶技であるが、それは至高の道にとっては、もみ殻やくずに過ぎない。あなたの道こそが、后稷や伊尹のごときものであり、あなたの君主を堯・湯のような聖王に導くことができるものだった。時の議論はあなたを刑に処そうとしたが、あなたはそれでもなお、もっぱら典章制度を諷諫し続けた。遠く海の果てに流されても、まるで故郷に帰るかのようだった。まことに、蜀の五傑といえども、あなたの境地の壮大さをうかがい知ることはできない。」秀の言論や風格は、このことだけに留まるものではない。ほんの一片を味わえば、鼎の味を知ることができるというものである。靖康の初め、秀はなお都に留まり、『華陽宮記』を著して、極めて詳細に記した。『東都事略』はこれを朱勔の伝の賛としている。これは、おそらく朱勔が工事を監督したことを読めば、いわゆる寿山艮嶽の状況が明らかになるからである。どうしてわざわざ目にする必要があろうか。張丞相徳遠が福唐を統治していた時、秀に長樂の光嚴蘭若に住むよう招いた。後に蜀の山に帰って隠居し、悠然と暮らし、一言一句も宗門を守り教えを護ることを忘れなかった。ついに、福徳は智慧に及ばず、時の論者はこれを惜しんだのである。