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title: "百論 · 8 破因中無果品"
description: "百論由古印度佛教論師提婆菩薩所造，是印度中觀派重要論典之一。鳩摩羅什於公元五世紀後秦時期將其譯為漢文。全論以破斥外道與小乘思想為主軸，闡釋緣起性空的中觀正見，核心在於破除一切執著，彰顯般若空慧。作為大乘佛教基礎論書，百論與中論、十二門論合稱三論，是漢傳佛教三論宗的根本經典，對中國佛教思想發展影響深遠。"
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### 破因中無果品第八

> 第八品　因の中に果なしと破す

外曰：生有故一當成修妬路。汝言因緣故諸法生。是生若因中先有？若因中先無？此生有故，必當有一。

> 論者が問う：「生」というものがあるからこそ、一つ（の実体）が成立するはずだ。あなたは「因縁によって諸法が生じる」と言うが、その「生」は因の中に先に存在するのか、それとも因の中に先に存在しないのか。この「生」が存在する以上、必ず何か一つのものがなければならないだろう。

內曰：生無生不生修妬路。若有生，因中先有？因中先無？如是思惟不可得，何況無生。汝若有瓶生，為瓶初瓶時有耶？為泥團後非瓶時有耶？若瓶初瓶時有瓶生者，是事不然。何以故？瓶已有故，是初中後共相因待，若無中後則無初。若有瓶初，必有中後。是故瓶已先有，生復何用？若泥團後非瓶時瓶生者，是亦不然。何以故？未有故。若瓶無初中後，是則無瓶。若無瓶，云何有瓶生？復次若有瓶生，若泥團後瓶時應有？若瓶初泥團時應有？泥團後瓶時無瓶生。何以故？已有故。亦非瓶初泥團時有瓶生。何以故？未有故。

> 内に曰く、生は無生を生ぜず。もし生というものが有るならば、その因の中に先に有るのか？因の中に先に無いのか？このように思惟しても得ることはできない。ましてや無生においてはなおさらである。もし瓶が生ずるということが有るならば、瓶が最初に瓶となる時に生ずるのか？それとも泥団の後、まだ瓶でない時に生ずるのか？もし瓶が最初に瓶となる時に瓶の生が有るとするならば、これは理にかなわない。なぜならば、瓶はすでに存在しているからである。この初・中・後は互いに依存し合っている。もし中と後が無ければ初も無い。もし瓶の初が有るならば、必ず中と後も有るはずである。それゆえ瓶はすでに先に存在しており、生は何の役に立つのか？もし泥団の後、まだ瓶でない時に瓶が生ずるとするならば、これもまた理にかなわない。なぜならば、まだ存在していないからである。もし瓶に初・中・後が無ければ、それは瓶が無いということである。もし瓶が無ければ、どうして瓶の生があり得ようか？さらに、もし瓶の生が有るならば、泥団の後、瓶となる時に生ずるべきか？それとも瓶の初め、泥団の時に生ずるべきか？泥団の後、瓶となる時に瓶の生は無い。なぜならば、すでに存在しているからである。また、瓶の初め、泥団の時に瓶の生が有るということもない。なぜならば、まだ存在していないからである。

外曰：生時生故無咎修妬路。我不言若已生、若未生有瓶生，第二法生時是生。

> 問いかけ：物が生まれる時、その「生」そのものが理由となって、欠点はない。私は、既に生まれたものや、まだ生まれていないものに対して「瓶が生まれる」とは言わない。第二の法（生の作用）が生まれる時、これこそが「生」である。

內曰：生時亦如是修妬路。生時如先說。若生是則生已，若未生云何有生？生時名半生半未生，二俱過，亦如前破。是故無生。

> 内に曰く、生ずる時もまた同じである<note>修妬路</note>。生ずる時とは、先に述べたとおりである。もし生ずることがあるならば、それはすでに生じたものである。もし未だ生じていないならば、どうして生ずることがあり得ようか。生ずる時とは、半分は生じ、半分はまだ生じていない状態を言うが、そのどちらにも過失がある。これもまた前と同じように破られる。それゆえに、生は存在しないのである。

外曰：生成一義故修妬路。我不言瓶生已有生，亦不言未生有生；今瓶現成，是即瓶生。

內曰：若爾生後修妬路。成名生已。若無生，無初無中。若無初，亦無中無成。是故不應以成為生，生在後故。

外曰：初中後次第生故無咎修妬路。泥團次第生瓶底腹咽口等，初中後次第生，非泥團次有成瓶。是故非泥團時有瓶生，亦非瓶時有瓶生，亦非無瓶生。

內曰：初中後非次第生修妬路。初名無前有後，中名有前有後，後名有前無後。如是初中後共相因待，若離云何有？是故初中後不應次第生。一時生亦不然修妬路。若一時生，不應言是初是中是後，亦不相因待，是故不然。

外曰：如生住壞修妬路。如有為相，生住壞次第有，初中後亦如是。

內曰：生住壞亦如是修妬路。若次第有？若一時有？是二不然。何以故？無住則無生。若無住有生者，亦應無生有住，壞亦如是。若一時，不應分別是生是住是壞。復次一切處有一切修妬路。一切處名三有為相，若生住壞亦有為相者，今生中應有三相，是有為法故。一一中復有三相，然則無窮。住壞亦如是。若生住壞中更無三相，今生住壞不名有為相。若汝謂生生共生如父子，是事不然。如是生生，若因中先有相待？若因中先無相待？若因中先少有少無相待，是三種破情中已說。復次如父先有然後生子，是父更有父，是故此喻非也。

外曰：定有生可生，法有故修妬路。若有生，有可生；若無生，則無可生。今瓶等可生法現有，故必有生。

內曰：若有生無可生修妬路。若瓶有生，瓶則已生，不名可生。何以故？若無瓶，亦無瓶生。是故若有生，則無可生，何況無生。復次自他共亦如是修妬路。若生、可生是二，若自生、若他生、若共生，破吉中已說。

外曰：定有生可生共成故修妬路。非先有生後有可生，一時共成。

內曰：生可生不能生修妬路。若可生能成生者，則生是可生，不名能生。若無生，何有可生？是故二事皆無。復次有無相待不然修妬路。今可生未有故，無生則是有，有無何得相待？是故皆無。

外曰：生可生相待故諸法成修妬路。非但生可生相待成，是二相待故，瓶等諸物成。

內曰：若從二生，何以無三修妬路。汝言生可生相待故諸法成。若從二生果者，何不有第三法，如父母生子。今離生可生，更無有瓶等第三法，是故不然。

外曰：應有生，因壞故修妬路。若果不生，因不應壞。今見瓶因壞，故應有生。

內曰：因壞故生亦滅修妬路。若果生者，是果為因壞時有耶？為壞後有耶？若因壞時有者，與壞不異，故生亦滅。若壞後有者，因已壞故無因，無因故果不應生。復次因中果定故修妬路。若因中先有果、先無果，二俱無生。何以故？若因中無果者，何以但泥中有瓶、縷中有布？若其俱無，泥應有布、縷應有瓶。若因中先有果者，是因中是果生。是事不然。何以故？是因即是果，汝法因果不異故。是故因中若先有果、若先無果，是皆不生。復次因果多故修妬路。若因中先有果者，則乳中有酪酥等，亦酥中有酪乳等。若乳中有酪酥等，則一因中多果。若酥中有酪乳等，則一果中多因。如是先後因果一時俱有過。若因中無果，亦如是過。是故因中有果無果，是皆無生。

外曰：因果不破故，生可生成修妬路。汝言因中多果、果中多因為過，不言無因果，是故生可生成。

內曰：物物非物，非物互不生修妬路。物不生物，非物不生非物，物不生非物，非物不生物。若物生物，如母生子者，是則不然。何以故？母實不生子。子先有，從母出故。若謂從母血分生，以為物生物者，是亦不然。何以故？離血分等母不可得故。若謂如變生，以為物生物者，是亦不然。何以故？壯即變為老，非壯生老故。若謂如鏡中像，以為物生物者，是亦不然。何以故？鏡中像無所從來故。復次如鏡中像與面相似，餘果亦應與因相似。而不然，是故物不生物。非物不生非物者，如兔角不生兔角。物不生非物者，如石女不生子。非物不生物者，如龜毛不生蒲。是故無有生法。復次若物生物者，是應二種法生：若因中有果、若因中無果。是則不然。何以故？若因中先無果者，因不應生果，因邊異果不可得故。若因中先有果，云何生滅？不異故修妬路。若瓶與泥團不異者，瓶生時泥團不應滅，泥團亦不應為瓶因。若泥團與瓶不異者，瓶不應生瓶，亦不應為泥團果。是故若因中有果、若因中無果，物不生物。