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title: "俱舍論頌疏記 · 分別業品第四"
description: "俱舍論頌疏記是唐代高僧遁麟對世親菩薩《俱舍論》及其頌疏的註釋著作。該書成於中國佛教唯識學鼎盛時期，系統闡述了俱舍論的核心教義，包括五蘊、十二處、十八界等法相概念，以及業果、輪迴與涅槃思想。其內容以嚴密的阿毘達摩體系著稱，被譽為俱舍學研究的重要樞紐。該註疏不僅深化了對印度佛教根本論的理解，更成為漢傳佛教法相宗的核心典籍，對東亞佛教哲學發展影響深遠。"
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## 俱舍頌疏記　論本第十三

> 俱舎頌疏記 論本第十三

富春沙門　遁麟　述

> 富春の沙門 遁麟 述

造作名業者此但一義然更以持法式及分別果二義釋業持法式者謂能任持七眾法式分別果者謂能分別可愛非愛果所以世品後明業品者世品明內外果差別不同果所賴因謂由業惑惑總業別故先明業為一因主作先覺因者此外道計有其兩種或梵王或大自在天以為一因主計此一主先起欲覺欲得受用境界眾生便生以先覺為因名先覺因或數論外道計我以為一主起於先覺生於世間今言非自在天等者總非諸計也正理云兼破無因論等廣破邪執立自宗云世別由業生云何知然見業用故謂世現見愛非愛果差別生時定由業用如農夫類由勤正業有稼穡等可愛果生有諸愚夫行盜等業便招非愛殺縛等果又世現見造善業者少造惡業者多然於世間有情樂少苦多感身不淨者謂造雜業感內身形於九瘡門常流不淨為對治彼感外具生色香味觸甚可愛樂󳬂金者是樹名出罽賓國其華黃色取華安置一處待爛厭取汁以物和之為香華稻猶有香氣亦用為香也然於人中亦有感外非愛如毒刺等今且約妙者說諸天善業惡不能雜者諸天雖復起諸煩惱善勝惡劣故得純名業依身起者謂任運根力依非其業性惡由動作為善惡等方是業性故婆娑云色形積聚總名為身此業依身故名身業准此即是身之業故依主釋也。

> 業とは、作りなすことを意味します。これはただ一つの意味にすぎませんが、さらに「法式を保つ」と「果を分別する」という二つの意味で業を解釈します。「法式を保つ」とは、七衆の法式を保ち支えることができることを指します。「果を分別する」とは、愛すべき果と愛すべからざる果を正しく見分けることを指します。そこで、「世間品」の後に「業品」を説くのです。「世間品」では内外の果の違いを明かしますが、果は因に頼って生じます。その因とは業と煩悩によります。煩悩は総体であり、業は別々のものですから、まず業を明かすのです。 「一因主として先覚の因を作す」とは、これは外道の説であり、二種類あります。あるいは梵王（梵天）を、あるいは大自在天を、唯一の因主とします。この一主がまず覚りの想い（欲覚）を起こし、世の衆生が境界を受用することを欲すると、衆生が生まれる、と説きます。この「先に覚りあり」ことを因とするので「先覚因」と呼びます。あるいは数論派の外道は、「我」を一主とし、先に覚りを起こして世間を生じると計ります。 今ここで「自在天などにあらず」と言うのは、これらの様々な邪見をすべて否定する意味です。『順正理論』には、「無因論などもあわせて破る」とあり、広く邪執を破って、自らの宗旨を立てて言います。「世の違いは業によって生じる」。どうしてそう知るのか。業の働きが見えるからです。世間で実際に見られるように、愛すべき果と愛すべからざる果の違いが生じるのは、必ず業によるものです。例えば農夫たちは、勤め励む正しい業によって、穀物などの愛すべき果が生まれます。一方、愚かな人々が盗みなどの悪業を行えば、殺されたり縛られたりといった愛すべからざる果を招きます。また世間を見れば、善業をなす者は少なく、悪業をなす者は多いものですが、それでも世の有情には楽が少なく苦が多いのです。 「感身不浄」とは、雑多な業によってこの内なる身体を感じて、九つの瘡門から常に不浄が流れ出ることをいいます。これを対治するために、外の道具を感じて、美しい色・香り・味・触り心地など、とても愛すべきものが生じるのです。 「金」とは、木の名前で、罽賓国にあります。その花は黄色で、この花を取って一箇所に置き、爛れるのを待って汁を絞り、ある物と混ぜて香とします。華や稲（いね）にもなお香気があり、これも香として用います。 しかし人間の中にも、外に愛すべからざる果を感じる者があり、例えば毒や棘などがそうです。今はひとまず殊勝な者について言えば、諸天は善業が悪と雑じらないことです。諸天とはいえ煩悩を起こすことはありますが、善が勝れ悪が劣るので、「純粋」という名を得るのです。 「業は身に依って起きる」とは、自然に働く根力に任せて身に依るのであって、それ自体は業の性質ではありません。悪・善などを作り動かすことによって初めて業の性質となるのです。そこで『婆沙論』には「色形が積聚して総じて身と名づける。この業は身に依るから身業という」とあります。これに準ずれば、これは「身の業」ということであり、「依主釈」です。

言五業即身語中各有表無表為四并意業為五言身語至無表者同是色業一能表示故名為表一則不能表示故故名無表由此差別立二種名意業非色不能表示不名為表由表無故無表亦無以無表名遮同色類身語表故。

> 「五業」とは、身業・語業・意業のうち、身と語にはそれぞれ「表業（あらわに示す行為）」と「無表業（あらわに示さない内面的な行為）」があり、これで四つとなり、さらに意業を加えて五つとする。 身業と語業について「表・無表」と言うのは、これらがともに「色（形あるもの）」に属する業だからである。そのうち、一方は外に向かって示すことができるので「表」と呼ばれ、他方は外に示すことができないので「無表」と呼ばれる。この違いによって、二つの名称を立てるのである。 意業は色（形あるもの）ではないため、外に示すことができず、「表」とは呼ばない。また、表がない以上、無表も存在しない。なぜなら、「無表」という名称は、形あるものに属する身業・語業の「表」を遮って立てられたものだからである。

許身表業形色為體者謂髮毛等總名為身身形非一故言如是如是正量部計動為業者以身動時由業動故謂身無剎那滅由於思業動此身時即此動身名為身表有宗以有剎那念念滅故不許取動為體由此兩宗不同故相破也言有剎那者諸法得自體項無間即滅名為剎那有此剎那名有剎那如有財人名為有財言剎那為因有不成過者夫論立因以證宗義要須同許方得為因今正量部唯許覺燄鈴聲有剎那滅不許身表業等有剎那滅故顯論主為因不成猶如兔角者以兔角本來自無不待因無今滅法是無還不待因同於兔角故引為喻定無餘量過現量者於三量中取證諸法定無餘比量教量能過現量前以比量破今現量破也故非法滅皆不待因者結證也既有薪等待因而滅故非一切法滅皆不待因也論明有為生滅有二種因一者主因謂生滅相恒與法俱因用獨勝故名主因二是客因謂餘因緣或有或無因用非勝故名為客經部宗計生有客因無主因滅無主客二因有部滅有主因無客因正量部計色等諸法滅時待主客二因心心所法及𦦨聲等滅由主因不待客因有熟變生下中上別者謂燒薪時有三色異分下中上然中熟生下熟即滅者謂燒薪次黑生時便無黃色最黑生便無次黑應生中上熟因體即是滅下中熟因者此以一因有能生能滅過也謂以一火燒薪此時令中熟生即此剎那下熟復滅豈以一火能為生滅二因耶生滅本是相違其因是應一時廣文應言應生中熟因體即是滅下熟因應生上熟因體即是滅中熟因今文從略故言中上熟因等法自然滅者謂不待客因名自然非不待主因也若爾現見煎水滅盡火合於中為何所作答由火界增能令水聚於後後位生漸漸微乃至最後更不復續是名火合於中所作非令水滅也身表是形理得成立者論主破正量部訖由斯理故有宗身表是形理得成立也此亦且敘權許隣次還破言待此長色者待謂觀待即相望也火㷮字林燒木燋也說文㷮焦也一面多生者理實長色兩頭多生恐濫四邊故言一面此等色相如界品說便謂為長者此理實非長等由見假長等相應謂為長等然長圓等依火㷮立形色依顯理亦同然故引為喻如是依顯能取於形者此論主正釋無別形色狀如依觸取長等相而許但是多堅等積無別長觸故知依顯取形亦但是多顯色積無別長等章中注略也言形為身表但假非實者形為身表不同正量部但假非實不同有部語表許言聲者語謂言聲聲能表示內心名表表有造作名業語即是表表即是業故名語表業不同身業約所依立。

> 身の表示（身表）とは、形色を体とするものである。すなわち、髪や毛などは総じて「身」と名づけられる。身は一つではないから、「かくかくのごとし」と言われるのである。 正量部は、動きを業とする。身が動く時、業によって動くからである。すなわち、身に刹那の滅はないと考える。思（思心所）の業がこの身を動かす時、この動く身そのものを「身表」と名づけるのである。 一方、説一切有部（有宗）は、刹那ごとに念念滅するから、動きを体とすることは許さない。このように両宗は異なるので、互いに破り合うのである。「刹那あり」とは、諸法が自らの体を得た瞬間、間をおかずに滅することを「刹那」と名づける。この刹那を持つことを「刹那あり」と言う。たとえば、財を持つ人を「財あり」と言うのと同じである。 「刹那を因とすれば、不成の過失がある」とは、そもそも因を立てて宗義を証明するには、双方が認めるところでなければ因となりえない。今、正量部は、覚（知覚）・焔（炎）・鈴の声のみが刹那に滅することを許し、身表の業などが刹那に滅することを許さない。それゆえ、論主が因とすることは成立しないのである。 「兎角のごとし」とは、兎の角はもともと存在しないから、因によって無くなるのを待たない。滅する法は、還って因を待たず、兎の角と同じであるから、この譬えを引くのである。 「必ず余の量に勝る過失なし、現量なり」とは、三量（現量・比量・教量）のうち、諸法を証明するには、必ず余の比量・教量が現量に勝ることはない。先に比量をもって破り、今は現量をもって破るのである。 「故に法の滅するは皆因を待たず」とは、結びの証明である。薪などが因を待って滅するのを見れば、すべての法の滅が因を待たないわけではないのである。 論に明かすには、有為法の生滅には二種の因がある。第一は主因で、生滅の相が常に法と共にあり、因の働きが特に優れているから「主因」と名づける。第二は客因で、その他の因縁であり、ある場合もあればない場合もある。因の働きが勝れないから「客」と名づける。 経部宗は、生には客因があり、主因はないと計る。滅には主因も客因もない。有部は、滅には主因があり、客因はないとする。正量部は、色などの諸法が滅する時には、主因と客因の二つを待つと計る。心・心所法および焔・声などが滅するのは、主因によるのであって、客因を待たない。 「熟変（熟して変ずること）が下・中・上の別を生ずる」とは、薪を焼く時に三種の色の違い、すなわち下・中・上があることを言う。 「中熟（中程度の熟）が生ずれば、下熟はすなわち滅す」とは、薪を焼く時、次に黒（焦げ）が生ずれば黄（色）はなくなり、最黒が生ずれば次黒はなくなることを言う。 「応に中・上熟の因体は、すなわちこれ下・中熟を滅する因たるべし」とは、これは一つの因が生と滅の二つの働きを持つという過失を言うのである。すなわち、一つの火で薪を焼く時、この火が中熟を生じさせる。そして、この刹那に下熟が滅する。どうして一つの火が生滅の二つの因となれるであろうか。生と滅はもともと相違するものであり、その因が一時に二つの働きを持つことはできない。 広い文では「応に生中熟因体即是滅下熟因たるべく、応に生上熟因体即是滅中熟因たるべし」と言うべきであるが、今の文は略しているから「中上熟因」などと言うのである。 「法は自然に滅す」とは、客因を待たないことを「自然」と言うのであって、主因を待たないという意味ではない。 「もしそうなら、現に水を煎じれば滅尽するが、火が共にあることは、その中で何をするのか」との問いに答えて、「火界が増すことによって、水の集まりが後の後の位に至り、徐々に微細になり、最後にはさらに続かなくなる。これを『火が共にあることの働き』と言うのであって、水を滅ぼすのではない」と。 「身表は形であるという道理は、よく成立す」とは、論主が正量部を破り終えて、この道理によって、有宗の身表が形であるということがよく成立することを言う。これもまた、ひとまず仮に許して、次にまた破るのである。 「この長色を待つ」とは、「待つ」は観待（観じて待つ）すなわち相望することである。 「火㷮」とは、字林に「木を焼きて焦がす」とあり、説文に「㷮は焦なり」とある。 「一面に多く生ず」とは、理実には長色は両頭に多く生ずるのであるが、四辺に濫ることを恐れて「一面」と言うのである。これらの色相は、界品に説くところのごとし。 「すなわち長しと言う」とは、これは理実には長などではない。仮の長などの相を見て、「長などである」と言うのである。 「しかして長・円などは火㷮によりて立つ。形色は顕色に依って立つ。理もまた同じく然り。故に譬えと為す」とは、このように顕色に依って形を取ることができる。これが論主の正しい解釈であり、別に形色はないのである。 「状（かたち）は、触に依って長などの相を取るがごとし」とは、すなわち、多くの堅などの積集のみを許して、別に長という触はない。それゆえ、顕色に依って形を取ることも、多くの顕色の積集のみであって、別に長などはないことを知るべきである。章の中の注は略されているのである。 「形を身表と為すは、ただ仮のみにして実にあらず」とは、形を身表とすることは、正量部のようではなく、ただ仮のみであって実ではない。また、有部のようでもない。 「語表は声を許す」とは、「語」は言声を意味する。声は内心を表示することができる。これを「表」と名づける。表には造作があるから「業」と名づける。語すなわちこれ表であり、表すなわちこれ業である。ゆえに「語表業」と名づける。身業が所依に約して立てられるのとは異なるのである。

於色心上熏成種子者謂從前思熏色身成種子也以經部宗身語二表是無記性思通三性故唯思業能熏成種表業不能熏也假立無表者謂此思種不能動身發語表示內心名無表業問既從思立應名隨心轉答經部所明欲散無表與定無表意義不同欲散無表由審決二思力之所引發動作思說名為表業發身語表故此熏於心成其種子名為無表定心無表即不如是由彼同時心力起故入定則有出定則無名心隨轉過去大種尚非有者依經部宗以過去無體故也言諸有色不起愛恚者謂在無漏不於三世色上起愛恚也亦不於受想等起惑故言乃至識亦然言施常已食者即常施食也如有人宅標牓施僧食等隨時施者謂隨寒熱等時而施衣等也此前語表更無異性者謂使行殺時前教人語表更無改變如何先不成業今成業耶法謂外處者謂諸根境內外以分是外處也若十二處以論是十一處所不攝法若以有色無色以分不言無色若不以法處有無表色者即成缺減簡法不周也此於因上立果名者謂定中正語等三無表色是因出定後正語等三是果今說在定有正語等即是於因上立果名也以八道支是無漏故要在定中不可缺也定境界色者謂修定人現行中有色相現也新云其定境色亦是可見色處所攝如解脫色緣青等時是可見色瑜伽云相應者是法名今言瑜伽師者從法受名密意說恒時相續者不顯了說是思所熏習種子但言恒時相續福業增長故是密意也二微細者種子非色法相難知故相續者剎那不斷故轉變者謂取果與果時異故差別者成果時不同故言非作成業道者亦思種者由能教者本教他時已能熏成加行思種相續而依住使者依教所作殺等究竟成時法爾能令教者身中於前加行所熏思種更復發生根本業道乃至當來能感多果故名業道獲得如斯意樂依止者謂獲得無漏勝意樂故此意樂或欲為體或勝解為體或通二為體故攝論云以欲勝解為體意識相應故名意樂依止經部破有宗云若由無表能遮犯戒應無失念而破戒者若依彼宗思種名戒者若有力能憶念即不犯戒若無力能憶念即便犯戒以無別體故可容犯戒釋思種中兩解者前解有七思種念念增加後解唯一思種功能有七故為異也言初念七支種子者且約根本除加行說第二念二七支者即并初念七故成二七即色心持種者凡起善惡思業皆熏根識成其種子或有心能持色種如生無色界多時無色後色從心生也有色持心種如入無心定後心起從色也。

> 心と色の上に種子を薫習するというのは、以前の思い（思）が色身を薫習して種子を成すことを言います。経部宗では、身と語の二つの表業は無記の性質であり、思だけが三性に通じるので、ただ思の業だけが薫習して種子を成すことができ、表業は薫習することができません。無表を仮に立てるのは、この思の種子は身体を動かし言葉を発して内心を示すことができないので、無表業と名付けるのです。 問う：すでに思から立てられたのなら、心に随って転ずると名付けるべきではないか。 答える：経部が明らかにするところでは、欲界散位の無表と定中の無表は意味が異なります。欲界散位の無表は、審慮・決定の二思の力によって引き起こされるもので、動作の思を表業と名付け、身と語の表を発するものです。ゆえにこの思が心に薫習して種子を成すのを無表と名付けます。定中の無表はこれとは異なり、同時の心の力によって起こるので、入定すればあり、出定すればない。心に随って転ずると名付けます。 過去の大種はなお有ることあたわずというのは、経部宗では過去には体がないとすることによります。「もろもろの色について愛・恚を起こさない」というのは、無漏の位では三世の色について愛・恚を起こさないことを言います。また受・想などについても煩悩を起こさないので、「乃至識もまたしかり」と言うのです。 「施しは常にすでに食す」というのは、常に施しの食を施すことです。例えば、ある人が家に標を掲げて僧侶に食を施すなどのことです。「時に随って施す」とは、寒熱などの時に随って衣などを施すことです。 「この前の語表にはさらに異なる性質がない」というのは、人をして殺させるとき、前に教えた語表に何の変化もないのに、どうして先には業が成らず、今になって業が成るのか、ということです。 「法とは外処をいう」のは、諸々の根と境を内外に分けた場合の外処です。十二処で論じれば、十一処に含まれない法です。有色・無色で分けるなら、無色とは言いません。もし法処に無表色がないとするなら、欠減が生じて法の周らかさを欠くことになります。 「この因の上に果の名を立てる」というのは、定中の正語などの三つの無表色は因であり、出定後の正語などは果です。今、定の中に正語などがあると言うのは、因の上に果の名を立てるのです。八正道の支は無漏であるから、必ず定の中にあって欠くことはできません。 「定の境界の色」というのは、修定する人が現行の中に色の相を現ずることです。新しく言えば、その定の境界の色もまた可見色の処に含まれます。解脱の色が青などを縁ずるときは、これは可見色です。瑜伽では「相応するものは法なり」と言います。今、瑜伽師と言うのは、法から名を受けてのことです。 「恒時に相続すると密かに説く」のは、はっきりとは示さずに、思に薫習された種子を、ただ「恒時に相続して福業が增長す」と言うだけで、これは密意です。 二つの微細とは、種子は色法ではないので相が知り難いことです。相続とは、刹那に絶えないことです。転変とは、果を取るときと与えるときとで時が異なることです。差別とは、果が成るときに異なることです。 「作られた業道ではない」というのも思の種子です。教える者が初めに他人を教えるとき、すでに加行の思の種子を薫成し、相続して依り住しています。使者が教えのままに殺などをし終わるとき、法として自然に、教える者の身中にある以前の加行で薫じた思の種子に、さらに根本の業道を発生させ、未来に多くの果を感ずることができるので、業道と名付けます。 「このような意楽の依止を得る」というのは、無漏の殊勝な意楽を得ることです。この意楽は、欲を体とするか、勝解を体とするか、あるいは両方を体とします。ゆえに摂論では「欲と勝解を体とする」と言います。意識と相応するので、意楽の依止と名付けます。 経部は有宗を破して言います。「もし無表が戒を犯すことを防ぐことができるなら、失念して戒を破ることはないはずだ」。彼の宗では、思の種子を戒と名付けるなら、もし憶念する力があれば戒を犯さず、もし憶念する力がなければ戒を犯す。別の体がないので、犯戒することもあり得るのです。 思の種子を釈するのに二つの解釈があります。前の解釈では七つの思の種子が念念に増加するとし、後の解釈では一つの思の種子の機能に七つがあるとします。これが異なる点です。 「初念に七支の種子がある」というのは、根本についてのみ言い、加行を除いています。第二念に二七の支があるというのは、初念の七を合わせて二七となるからです。 すなわち、色と心が種子を持つということです。およそ善悪の思業を起こすときは、皆、根と識に薫習して種子を成します。あるいは心が色の種子を持てることがあります。例えば、無色界に生まれて長く色がないとき、後に色が心から生じるようなことです。あるいは色が心の種子を持つことがあります。例えば、無心定に入った後に、心が色から起こるようなことです。

現身大種但為依者所依則親依則稍踈引喻可知第一解言即用造初念無表大種造後念無表者此以無礙故一四大種得造眾多無表以時別故非互為果第二解言別起一具大種等者此解意謂一具大種造同時無表即於現在別起一具大種懸造未來無表也第三解言剎那剎那四大別造者此意初念無表自一具造後起多具懸造未來異熟虗踈故相容受此三說中初解為正新破第二解云何因後念無量剎那同一大造初念無表有何別因異大造耶論但自云細麤因別而無有文現未別因破第三師云一一剎那有七具四大一一大種復有七微即是於一剎那有二十八微設其報色虗踈尚不得容造一日一夜無表四大極微如何得容百年八萬歲等今詳三解並舊人取婆娑正文目為三解非婆娑自有三釋。

> 身体というものは、四大元素（地・水・火・風）によって現れますが、それらは単に身体を支える「所依」に過ぎません。所依としての関係は親しく、別の働きとして見る場合はやや疎遠になります。譬えを使って考えてみましょう。 第一の解釈では、初めの刹那に生じた無表業（心の中に刻まれる善悪の行為の種）を造る四大元素が、その後の刹那の無表業も造ると言います。これは、四大元素に障害（妨げ）がないため、一つの四大元素が多くの無表業を造ることができるという考えです。しかし、時が異なるため、それらが互いに結果をもたらす関係にはなりません。 第二の解釈では、別の一組の四大元素が同時の無表業を造り、現在において未来の無表業をも造ると言います。つまり、現在の四大元素が未来の無表業を予め造っておくという考えです。 第三の解釈では、刹那ごとに異なる四大元素が造ると言います。つまり、初めの無表業は一組の四大元素によって造られ、その後は多くの組が未来の異熟果（業の報いとしての結果）を予め造ると考えます。しかし、この場合の四大元素は粗く疎かで、お互いを受け入れる余地があるとされます。 この三つの解釈のうち、第一の解釈が正しいとされます。 第二の解釈を批判して、「後の刹那に無量の瞬間があるのに一つの四大元素が造るなら、初めの無表業を造る際に異なる四大元素による特別な理由があるのか？」と問います。論書には「細かさと粗さの違いによる」とあるだけで、現在と未来を区別する理由は示されていません。 第三の解釈を批判して、「一刹那には七組の四大元素があり、各大元素にはさらに七つの極微がある。つまり、一刹那には二十八の極微があることになる。たとえ報身の色が粗く疎かであっても、一日一夜の無表業を造るに耐えない。ましてや百年や八万年の無表業など、極微の四大元素にどうして受け入れられるだろうか」と論じます。 この三つの解釈は、昔の人が『婆沙論』の本文を取って三つに分けたもので、『婆沙論』自体に三つの解釈があるわけではありません。

釋大種中問身在下地起上定時用上地大種造上地色其四大種為在何處答婆娑有說眉間有說鼻端有說心邊有說臍邊有說足指有作是說隨加行安心處所是處現前有餘師說欲界大種麤色界大種細細入麤隟如油入沙然根本靜慮現在前時色界大種遍身內起若近分定唯心邊起有說近分定大種亦遍身起然長養身不如根本如有二人俱詣池浴一人在池側掬水浴身一人入池中浸身而洗二人用水雖俱遍身然長養身入池者勝新云後解為勝隨定勝劣皆遍身故也問為欲界身中先有間隟色界大種來入中耶答不爾未來欲界身自有二類一唯欲大種二色界大種雜若時遇入色界定緣彼唯欲界便滅色界雜者便生不可言先有間隟後來住中。

> 問う、「欲界の身における大種について」――身は下地に在りて上地の定を起こす時、上地の大種を用いて上地の色を造る。その四大種は何処に在るのか。 答う、婆沙には、ある者は眉間にあると言い、ある者は鼻端にあると言い、ある者は心辺にあると言い、ある者は臍辺にあると言い、ある者は足指にあると言う。また、こう説く者がある――「加行に随って心安を置く処所、その処に現前する」と。他の師は説く、「欲界の大種は麤く、色界の大種は細かい。細きは麤きの隙間に入る、油が沙に入るが如し。しかし根本静慮が現在前する時は、色界の大種は身の全体に遍く起こる。もし近分定ならば、ただ心辺にのみ起こる」と。 ある者は説く、「近分定の大種もまた身に遍く起こる。しかし身を長養することは根本定には如かない。譬えば、二人が共に池に浴みに行き、一人は池の側で水を掬いて身に浴み、一人は池の中に入りて身を浸して洗うが如し。二人の用水は身に遍くすると雖も、身を長養するは、池に入る者の勝れるが如し」と。 <note>新云く、後の解が勝れり。定の勝劣に随いて皆身に遍くする故なり。</note> 問う、欲界の身の中に先に間隙ありて、色界の大種が来りてその中に入るのか。 答う、そうではない。未来の欲界の身は自ずから二類あり。一は唯だ欲界の大種のみ、二は色界の大種が雑わるものなり。もし時に遇いて色界の定に入らば、その縁によりて彼の唯だ欲界のみのものは便ち滅し、色界の雑わる者は便ち生ず。先に間隙ありて後に来りて中に住すると言うべからず。

亦等流性者釋無表五類分別也除苦忍初心無表餘皆是等流性無表唯是善惡性故非異熟生無極微積集非所長養是有為故故非實故五類中但通二類也此散大種至唯等流性者釋欲無表大種五類門中唯是等流不通餘類謂從同類因所生故是等流因等起心不能長養能生無表諸大種故非所長養非是異熟因所生故非異熟生非無漏故非剎那是有為故故非實也問此大種是誰等流果正理云如是說者從無始來定有能造無對造色已滅大種為同類因能生今時等流大種造有表業亦應是無始來同類大種之等流果非從異熟言七支各別大種者謂一具四大種造不殺戒乃至不雜穢語戒皆別自具四大種造也問如不殺等戒對多有情各一不殺為同四大為別四大答准正理云雖對別異有情相續發多無貪所生無表而但一具大種為因以所生果類無別故問大種中不言情非情耶解云前無表已說有情無非情大造有情色故不別說又解既有執受明是有情故不說也定中大種唯長養性者謂等持是能長養故定中大種即通所長養也問此四大種從同類因生有等流性何故但言唯長養耶答五類明義體各不同互不相攝離長養外無別有定中大種唯是等流故不說也同類生故非剎那是有為故非實非是異熟因所生故非異熟是無執受者一以無心執為自體故又此大種無有其餘執受相故名無執受有人疑云定戒大種唯一戒何有七定中無非何用戒答以防身語故有七支又縱無過此七善法法爾有故如佛亦具諸戒豈有過耶表唯等流性者唯言簡餘四類無異熟因故非異熟生無別勝緣故非長養從同類因生故非一剎那是有為故非實身表以屬身故者以身表業與根合故故有執受也語表不屬身者謂語表是聲故無執受又此既是業性已表有情無有非情是業性故餘義皆與散無表同謂別四大種造等言有新生等流大種者論先問云表業生時為要破壞本身形量為不爾耶若破壞者異熟色斷應可更續則違婆娑宗若不破壞如何得有一身處所二形量成答云有別新生等流大種造有表業不破本身問若爾隨依何身分處起有表業應大於本新生大種遍增益故答異熟虗疎互相容受身亦不大婆娑正理更有一釋謂如染支體簿故不隨增。

> また、等流性について説明します。無表を五類で分別すると、苦忍の最初の心を除いた無表は、すべて等流性です。無表は善・悪の性質のみであるため、異熟生ではなく、極微の積集もなく、長養されるものでもなく、有為であるため、実でもありません。したがって五類のうち、等流性と剎那性の二類に通じるだけです。 「この散位の大種は、ただ等流性のみである」とは、欲界の無表の大種を五類の門で分別すると、ただ等流性のみで、他の類には通じないことを説明しています。すなわち、同類因から生じるので等流性であり、因となる等起の心は長養することができないので、無表を生じる諸大種は長養されるものではなく、異熟因から生じるものではないので異熟生でもなく、無漏ではないので剎那性でもなく、有為であるので実でもありません。 問い：この大種は誰の等流果か。 正理によれば、「このように説く者は、無始以来、必ず無対の造色を造ることができる已滅の大種が同類因となって、現在の等流大種を生じる。有表業を造る場合も、無始以来の同類大種の等流果であるべきで、異熟からではない」と説きます。 「七支は各々別々の大種である」とは、一具の四大種が不殺戒を造り、乃至、不雑穢語戒も、すべて別々に自らの四大種を具えて造ることを意味します。 問い：不殺などの戒は、多くの有情に対して各々一つの不殺があるが、同じ四大種か、それとも別の四大種か。 答え：正理によれば、「別々の有情の相続に対して発する多くの無貪から生じる無表であっても、ただ一具の大種を因とする。生じる果の種類に区別がないからである」とあります。 問い：大種の中に、有情と非情を言わないのはなぜか。 解釈：先に無表のところで、有情の無表は非情が造らず、有情の色を造るからだと説いたので、別に説かないのです。 また別の解釈：執受があることによって有情であることが明らかだから、別に説かないのです。 「定中の大種は唯長養性である」とは、等持（禅定）は長養することができるから、定中の大種は長養されるものに通じるのです。 問い：この四大種は同類因から生じるので等流性があるのに、なぜただ長養性だけと言うのか。 答え：五類はその義の体が各々異なり、互いに摂し合わない。長養以外に別に定中の大種があるわけではなく、ただ等流性であるから、あえて言わないのです。同類因から生じるので剎那性ではなく、有為であるので実でもなく、異熟因から生じるので異熟でもありません。 「無執受である」とは、第一に、心によって自らの体として執持されないからです。また、この大種には他の執受の相がないので、無執受と名づけられます。 ある人の疑問：定中の戒の大種は一つの戒だけなのに、どうして七つの支があるのか。定中には過失がないので、何のための戒なのか。 答え：身と語を防ぐために七支があるのです。また、たとえ過失がなくても、この七つの善法は法爾として存在します。仏も諸戒を具えているのと同じで、どうして過失があろうか。 「表は唯等流性である」とは、「唯」という言葉で他の四類を簡別します。異熟因がないので異熟生ではなく、別の勝れた縁がないので長養されるものではなく、同類因から生じるので一剎那ではなく、有為であるので実でもありません。 「身表は身に属するからである」とは、身表の業は根と合しているので、執受があるのです。語表は身に属さないとは、語表は声であるから執受がないのです。また、これは業性であるから、有情の表であることがすでに明らかで、非情で業性のものはないので、他の義はすべて散位の無表と同じです。すなわち、別の四大種が造るなどのことです。 「有の新生等流大種がある」とは、論で先に問います：「表業が生じる時、必ず元の身の形量を壊すのか、それとも壊さないのか。もし壊すなら、異熟色が断たれたなら、さらに続くべきであり、それは婆娑宗に反することになる。もし壊さないなら、どうして一つの身の処所に二つの形量が成り立つのか。」 答え：「別の新生の等流大種があって有表業を造るので、身自体を壊すことはない」と。 問い：もしそうなら、身のどの部分に従って有表業が起ころうと、本の身よりも大きくなるはずだ。新生の大種が遍く増益するからである。 答え：異熟色は虚疎で互いに容れ合うので、身も大きくなることはない。婆娑と正理にはさらに別の解釈があり、「例えば、染まる支体は薄いので、それに従って増えることはない」と説きます。

無記不發無表者謂無表在第三轉故三轉者一能發心二所發表三無表其能發之心要須強力方能遠資無表得起既是力劣故不發也言不能引發至果仍續起者謂若善惡力強能引無表因雖謝滅果仍續起無記不然故云不能引發無表可因滅時果仍續起等起不善唯在欲界者謂貪嗔等自性不善思等與此相應成不善身語等業由此等起故成不善上界既無自性不善由此亦無諸不善業故論云已斷不善根及無慙愧故善及無記諸地皆有者由自性善及自性無記遍諸地故相應等起隨其所應亦遍諸地無色界中無身語轉故無律儀者若爾身在欲色起無色定定應有無表戒如欲色界起無漏定有無漏無表答無漏不墮界故又無無漏大種故身在欲色入無漏定依身生處大種所造有漏繫地所不可言有漏無表別界大種造復不可言無漏大造也論云又背諸色入無色定故彼定中不能生色由彼定能伏色大種故所以無無表色為治惡戒故起尸羅者欲界有惡戒故色界起尸羅表唯有伺二者有伺之言為顯中間中間靜慮雖無尋而有伺故故能發表業若言有尋即不攝中定也論云上地既無言如何得有聲處答有外大種為因發聲內身處由斯內外有於聲處見所斷內門轉者謂是迷理惑不緣外事如我見唯迷自事猶執自身中有我我所名內門轉前雖已釋欲界無有覆表此是引論證成無重言失。

> 無記の場合は、無表を発しない。なぜなら、無表は三つの転に含まれるからである。三つの転とは、第一に能発心（発心を起こすこと）、第二に所発表（表白される身口の業）、第三に無表である。その能発の心は、強い力を持って初めて遠くに無表を資けて起こすことができる。無記の心は力が弱いので、無表を発しないのである。「能発を引き起こさず、果まで続いて起こることがない」と言うのは、もし善悪の力が強ければ、無表を引き起こすことができる。因がすでに滅びても、果はなお続いて起こる。無記はそうではないので、「無表を引き起こすことができない。因が滅びる時、果がなお続いて起こることはない」と言うのである。 等起の不善は、ただ欲界にのみ存在する。なぜなら、貪・嗔などの自性は不善であり、思などがこれと相応して不善の身語業となるからである。これらによって等起されるので不善となるのである。上界には自性不善がないので、これによって諸々の不善業もない。ゆえに論には「すでに不善の根と無慚・無愧を断じたからである」とある。 善と無記は、すべての地に存在する。なぜなら、自性の善と自性の無記は、すべての地に遍く存在するからである。相応・等起は、その対象に応じて、すべての地に遍く存在する。 無色界には身語の転がなく、律儀がない。もし、身が欲界・色界にあって無色定を起こすならば、必ず無表の戒があるべきではないか。例えば、欲界・色界に身があって無漏定を起こすならば、無漏の無表があるように。答えていうには、無漏は界に堕ちることがない。また、無漏の大種がないからである。身が欲界・色界にあって無漏定に入る場合、身の生まれた所の大種によって造られる。有漏の系属する地において、有漏の無表が他界の大種によって造られると言うことはできず、また無漏の大種によって造られるとも言えないのである。論には「また、すべての色を背いて無色定に入るので、その定の中では色を生じることができない。その定は色の大種を伏することができるからである。ゆえに無表の色は存在しない」とある。 悪戒を治するために尸羅（戒）を起こすのは、欲界に悪戒があるからである。色界において尸羅の表を起こすには、ただ伺のみがある。「伺あり」と言うのは、中間静慮（中間定）には尋はないが伺はあることを示すためである。ゆえに表業を起こすことができる。もし「尋あり」と言えば、中間定を含まないことになる。論には「上地にはすでに言葉がないのに、どうして声の処があると言えるのか」とある。答えていうには、外の大種が因となって声を発し、内の身処によって、内外に声の処があるのである。 見所断の内門転とは、理に迷う惑は外の事に縁じないことをいう。例えば、我見はただ自らの事に迷い、自身の中に我・我所があると執するので、内門転という。前にすでに欲界には有覆の表がないことを解釈したが、これは論を引いて証明し、重ねて言う誤りはないことを示すのである。

何法何性由何因成者此問有三一問何法名勝義等四二問此等是何性三問此勝義等由何因成涅槃名勝義善者正理兩釋一解同此第二解云或真解脫是勝是義得勝義勝名謂最尊無與等者義謂別有真實體性此顯涅槃無等實有故名勝義如是勝義安隱名善如是涅槃是善常故於一切法其體最尊是故獨標為勝義善無貪等等取無嗔無癡也。

> ここで問われているのは、「何の法が、何の性であり、何の因によって成るのか」ということです。この問いには三つの意味があります。第一に、何の法を「勝義」などと名付けるのか。第二に、これらの法はどのような性質を持つのか。第三に、この「勝義」などは何の因によって成り立つのか。 涅槃を「勝義善」と名付けることについて、正理には二つの解釈があります。一つはここで述べた通りです。もう一つの解釈では、真の解脱は「勝」であり「義」であると説きます。「勝」とは最も尊く、比べるものがないことを意味し、「義」とは真実の実体が別に存在することを意味します。これは涅槃が何にも等しいものがなく、実在することを示しており、ゆえに「勝義」と呼ばれます。このような「勝義」は安らかで穏やかであるから「善」と呼ばれます。このように涅槃は善であり、常住であるため、すべての法の中でもその体が最も尊く、それゆえに特に「勝義善」と名付けられるのです。「無貪」などには、無嗔・無痴も含まれます。

如雜藥水者喻受想等餘心心所藥喻慚愧等雜藥之水亦名為藥與善相應故亦名善。

> 雑薬の水のようなものは、受・想などの残余の心・心所を喩える。薬とは慚・愧などの喩えである。雑薬を混ぜた水もまた薬と名づけられる。善と相応するから、それもまた善と名づけられる。

勝義不善謂翻涅槃立生死即生死名勝義不善以生死有漏之法皆是行苦自性不安故猶如痼疾有此疾者常不安隱自性不善即翻前自性善立謂無慚愧有二義故一唯是不善二遍不善心貪嗔等三具五義一通五部二通六識三是隨眠性四斷善根時作窂強加行五能發麤惡身語二業由此五種是自性不善作用力強自餘心所等與此相應生成相應不善問一切有漏皆生死攝皆合是不善如何於中有善無記答據義不同立名有異若以行苦極不安隱一切有漏皆是不善若不招果及招愛果別立為善及名無記據義既別故無過也正理具明者正理云乃至設方便立自性等三亦攝不盡無記多故由是無記唯有二種一者勝義二者自性有為無記是自性攝不待別因成無記故無為無記是勝義攝以性是常無異門故應知無記中相應等起者謂於心所中無別心所是自性無記由無自性不立相應由不立自性相應亦不立等起設立此三攝亦不盡准婆娑立五種無記謂異熟等四外更立自性正理以據有為法中體是無記皆名自性故合之為一婆娑據義別故開之為五亦不相違或言六者更加勝義由是無記或一二四五六也。

> 勝義の不善とは、涅槃に対して生死を翻すことを指します。生死そのものを勝義の不善と名付けるのは、生死の有漏の法はすべて行苦であり、その自性は安らかではないからです。ちょうど重い病気のようなもので、この病気にかかっている者は常に不安定で安らかではありません。自性の不善とは、先に述べた自性の善に対して立てられたものです。無慚と無愧には二つの意味があります。第一に、それらはただ不善のみであること。第二に、不善の心に遍く随伴することです。貪・瞋・癡の三つには五つの義があります。第一に、五部に通じること。第二に、六識に通じること。第三に、随眠の性であること。第四に、善根を断つ時に強い加行を作すこと。第五に、粗悪な身語の二業を発すること。この五つの理由により、これらは自性不善であり、作用の力が強いのです。その他の心所などはこれらと相応して、相応の不善を生じます。 問う：すべての有漏はみな生死に含まれ、みな不善であるべきです。なぜその中に善や無記があるのですか。 答える：意味の取り方によって異なり、名前の立て方も異なります。もし行苦として極めて不安定であるという観点から見れば、すべての有漏はみな不善です。もし果を招かないものや愛の果を招くものを分けて立てれば、別に善と名付け、無記と名付けます。意味の取り方が異なるので、過失はありません。『正理』に明らかにされている通りです。『正理』にはこうあります。「たとえ方便を設けて自性などの三種を立てても、無記が多いためにすべてを尽くすことはできない。よって無記にはただ二種のみがある。一つは勝義、二つは自性である。有為の無記は自性に含まれ、別の因を待たずして無記となる。無為の無記は勝義に含まれ、その性が常であり異なる門がないからである。」無記の中の相応と等起については、心所の中に別の心所で自性無記であるものはないため、自性がなければ相応も立てられず、自性を立てなければ相応も等起も立てられません。たとえこれらを立てても、これらの三つはすべてを尽くすことはできません。 『毘婆沙』に依れば、五種の無記を立てます。すなわち異熟などの四種の他に、さらに自性を立てるのです。『正理』は、有為法の中でその体が無記であるものはすべて自性と名付けるという見解に基づいて、それらを一つにまとめました。『毘婆沙』は意味の違いに基づいて五つに開いたのです。これらも互いに矛盾しません。あるいは六つと言うのは、さらに勝義を加えるからです。よって無記には、一・二・四・五・六の立て方があるのです。

前心名因等起者即前經云因邪見故乃至起邪語等以邪見等為發業前心也問隨轉於業有何作用答雖有先因為能引發若無隨轉者如死業應無有故隨轉因亦名有因正起業時見斷無者謂正起業時心麤散故見所斷識爾時不起若起見斷惡業即息又論云又見所斷若發表色此色則應是見所斷是則違越阿毗達磨謂轉心若善隨轉亦容三者且初轉隨轉俱善可知轉心是善隨轉不善者如欲禮佛忽見婬女起染眼識即不善也或緣威儀等即無記也轉心不善隨轉有善者如本起心欲殺忽覩佛像起善心也或緣行住等起威儀無記心也無記心有三心隨轉者且威儀無記中如有行時忽遇佛像等起善眼識或見婬女等起染眼識如是即善染為無記隨轉尊者世友說曰此由覺慧速疾廻轉起增上慢謂於行位起此眼識而實行時則善染心不現在前若善染現在前時即止不行此不善染心但如伴者不名等起依婆娑有三師說各不同此煩不具錄故言必同者謂佛善心必善心為隨轉無無記心為善隨轉也故論云而或有時善隨無記轉曾無無記為善隨轉言心或增長者釋善隨無記轉善勝無記故為增長無萎歇者釋無無記為善隨轉也許佛有異熟通果威儀三無記者如佛現通即通果無記整衣行等威儀無記異熟無記即任運心工巧處心佛多不起故略不說非全不起故但言三又解三無記據現行說工巧唯成就故不說二說中初說為正所以世尊有無記心者如佛問阿難天雨不及鳥鳴等並無記心。

> 前心が「因等起」と呼ばれるのは、先の経典に「邪見を因とするがゆえに、邪語などを起こす」とある通り、邪見などが業を発起させる前の心だからである。 問う：随転は業に対してどのような働きがあるのか。 答える：先に因があってそれを引き起こす力があっても、もし随転がなければ、例えば死業のように業が起こらないはずである。だから随転の因も「有因」と呼ばれるのである。 正しく業を起こす時に「見断の者は無し」というのは、業を起こす時の心は粗雑で散乱しているため、見断の識はその時には生じないからである。もし見断が起これば悪業は止む。また論に「見断が発表の色を起こすならば、この色は見断であるべきであり、これは阿毘達磨に反する」とある。 転心が善であれば、随転もまた善・不善・無記の三つであり得る。 まず、初めに転心も随転も善であることは明らかである。 転心が善で随転が不善の場合とは、例えば仏を礼拝しようとした時に、ふと淫女を見て染汚の眼識を起こすような場合である。あるいは威儀などの縁によって無記になることもある。 転心が不善で随転が善の場合とは、例えば殺そうと思って心を起こしたが、ふと仏像を見て善心を起こすような場合である。あるいは行住などの縁によって威儀の無記心を起こすこともある。 無記心には三つの心が随転することがある。例えば威儀無記の中で、歩いている時にふと仏像などに出会って善の眼識を起こしたり、淫女などを見て染汚の眼識を起こしたりするような場合である。このように善・染が無記の随転となるのである。 尊者世友はこう説く：「これは慧が速やかに廻転するがゆえに、増上慢を起こして、歩行の位においてこの眼識が起これば、実際に歩行する時には善・染の心は現在前しないと考えるが、実は善・染が現在前すれば、その時には歩行は止まるのである。この不善染心はただ伴侶のようなものであり、等起とは呼ばない」 これは婆娑論に三師の説がありそれぞれ異なるが、煩雑なのでここでは詳しく記さない。 「必ず同じ」というのは、仏の善心には必ず善心が随転となり、無記心が善の随転となることはないということである。だから論に「あるいは時に善が無記に随って転ずることはあっても、無記が善の随転となることは決してない」とある。 「心あるいは增長す」というのは、善が無記に随って転ずることを説明している。善は無記より勝れているので「増長」というのである。「萎歇なし」とは、無記が善の随転となることはないことを説明している。 仏には異熟・通果・威儀の三つの無記があると許されている。例えば仏が神通を現じる時は通果無記であり、衣を整え歩行するなどは威儀無記であり、異熟無記は任運の心である。工巧処の心は仏には多く起こらないので略して言わないだけで、全く起こらないわけではない。だからただ三つと言うのである。 また別の解釈では、三つの無記は現行に基づいて説かれており、工巧はただ成就のみで現行しないから説かないのである。二つの説のうち、初めの説が正しいとされる。 世尊に無記心がある理由は、例えば仏が阿難に「天が雨を降らせているか、鳥が鳴いているか」と問われた時など、その問い自体が無記心によるものだからである。

那伽行在定等者彼異說意既四威儀常在定故無散心及無記心也有部通曰約佛四威儀中皆能入定故言行住等在定非謂無散心及無記心也。

> 那伽行在定等について、他の異説の意は、すでに四威儀（行・住・坐・臥）のすべてにおいて常に定の中にあるがゆえに、散心や無記心はないというものである。有部（説一切有部）はこれを通じて解釈して言うには、「仏の四威儀において、いずれも定に入ることができるがゆえに、行・住・坐・臥が定にあると言うのであって、散心や無記心がないという意味ではない」と。

## 俱舍頌疏記

> 俱舎頌疏記