---
title: "法華經玄贊要集 · 第十六"
description: "法華經玄贊要集由唐代高僧栖復集錄編纂，是對窺基大師法華經玄贊的注疏要義集成。該書誕生於唐代唯識宗鼎盛時期，系統闡釋法華經的深層義理，融合唯識思想與如來藏學說，重點剖析一乘真實、三乘方便等核心教義。作為法華經注疏的重要樞紐，它承襲玄贊的權威體系，為研究唯識宗法華經觀提供關鍵依據，在漢傳佛教典籍中具有承先啟後的學術地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwqjpzd04beie04j1o3d8j2"
---

## 法華經玄贊要集卷第十六

> 法華経玄賛要集 巻第十六

鏡水寺沙門　栖復　集

> 鏡水寺の僧侶　栖復　が編集した

言果決者。略舉十事名果決。一割肉飼鷹。二投身餓虎。三抽心為法。四挑眼施人。五剝皮為紙。六削骨為筆。七刾面為墨。八研頭謝王。九臂燃千燈。十燒身供養。如是十事。實為難事。皆為求法。故名果決也。

言一句投火者。若能投身七仞火坑。當施汝法。菩薩聞已。歡喜踊躍。作是思惟。我為法故。尚應久住阿鼻地獄。一切惡趣受無量苦。何況纔入人間火坑。即便聞法。但為我說。我入火坑。不將為難也。又昔佛為智光仙人。變身為兔。投火求法。

> 一つの句でも火に投じる者がいるならば、もし身を七尋の火の穴に投じることができるなら、そのとき汝に法を施そう。菩薩はこれを聞いて、喜び勇んで、こう考えた。「私は法のゆえに、たとえ長く阿鼻地獄に留まり、あらゆる悪趣で無量の苦しみを受けてもよい。ましてや、ただ人間の火の穴に入ることは何ほどのこともない。ただ私のために説いてくだされば、私は火の穴に入ることをも、困難とは思わない」と。また昔、仏は智光仙人として、姿を兔に変え、火に身を投じて法を求めたのであった。

言半捨身者。世尊初入僧祇資糧位。作雪山童子。為求半偈。捨全身而五羅剎。

> 世尊が初めて僧祇の資糧位に入られた時、雪山の童子としておいででした。半偈を求めるために、全身を捨てて五人の羅刹に捧げられたのです。

言增長心者。二意。一約增自功德心。如今之大德。為名位所繫。恐名不稱。專修善事。名自增長。二約自名遠振。他人聞已。希慕高蹤。見賢思齊。勤修善事。名增長他人功德也。

> 「心が成長する」ということには、二つの意味があります。 一つ目は、自分自身の徳を増すという意味です。現代の高徳な僧侶のように、名声や地位にとらわれて、自分の評判が名実ともにふさわしいものかどうかを気にしながら、ひたむきに善い行いを積むことを「自らの成長」といいます。 二つ目は、自分の名声が遠くまで広がり、それを聞いた人々が立派な生き方に憧れ、すぐれた人を見ならって自分も善い行いに励むようになることを指します。これは「他者の徳を育てる」ということです。

言由所成法者。秀云。即是智性涅槃。是未曾有。名快妙事。能成之心。四智菩提名快妙心。由所證理快妙事故。能證智名快妙。快妙之所說。於教故難知心。名大智斷。一體用分。了俗證真。不相違故。

> 言葉によって成し遂げられる法について、秀師はこう説く。すなわち、それは智慧の本質そのものである涅槃である。これは未曾有のことであり、快妙な事柄と名付けられる。それを成し遂げる心、すなわち四智と菩提は、快妙な心と名付けられる。証得される理が快妙な事柄であるからこそ、証得する智慧もまた快妙と呼ばれる。快妙なものが説かれたものであるから、教えにおいては心を理解し難いものとされ、大いなる智慧の断じるところと名付けられる。一体のものがその働きによって分けられ、世俗を了知し真実を証得する。これらは互いに矛盾することがないのである。

言無上深者。永泰云。快妙即舉所取能。意取能證之智。無上深舉能取所。意求所證理名無二種。意者互相影發。說令證故。初解取能。後解取所也。

> 「言無上深者」とは、永泰の解釈では、まず「快妙」が得ようとする対象（所取）を挙げて、その本意はそれを証得する智慧（能取）を示すことにある。さらに「無上深」は、その智慧（能取）を挙げて、その本意は証得される真理（所取）を求めることにある。この二つは、互いに影響し合い、照らし合う関係である。語りかけているのは、これを証得させるためである。最初の解釈は「能取」を重視し、後の解釈は「所取」を重視する。

言或難解法者。秀云。並屬於理。唯佛能知。是甚深義。由甚深理。方說於教。名甚深也。

> ある教えが理解しにくいものもある。秀という人は述べている。これらはすべて理（ことわり）に属するものであり、仏だけが知り得るものである。これは甚だ深い意味であり、その深い理によって初めて教えが説かれるのである。だから「甚深」と名付けるのである。

言入甚深者。入者解也。有二意心。一如來自入。二能合他人入文字章句。意難得也。如言一切眾生咸皆成佛不解我意等。

> 言葉が甚深なものに入るとは、「入る」とは理解することを意味する。ここには二つの意味がある。一つは、如来ご自身がその境地に入られること。二つ目は、他の人々を文字や章句の真意へ導き入れられることである。しかし、その真意は捉えがたい。例えば、「一切の衆生はみな成仏する」と言っても、私の意図を理解しない者がいるようなものである。

言佛自持者。秀云。如此難事。佛自任持在身。任持不失故。

> 仏が自らを保ち持つというのは、秀という僧侶が言うには、「このような難しいことを、仏が自らの身に引き受けて保ち続け、失うことがない」という意味である。

言不同外道者。如來說法因緣道理。以親證而方演說。不同外道。自不能解。何能令他解。

> 外道の言うところとは異なる。如来が説法されるのは、因縁の道理に基づき、自らが直接悟ったことをもって説かれるからである。外道は自らも解せず、ましてや他人を解せしめることはできない。

言說因緣法極等者。因緣道理義。即是如來說名字章句。道理極甚深。佛自能證亦令他解。如化眾生從初至末。與說其法。稱彼根機。令得道果。名為說因緣法極甚深也。

> 因縁の法を説くことが極めて等しいとは、因縁の道理の意味である。すなわち、如来が説かれた名前や言葉、章句のことである。その道理は極めて深遠である。仏は自ら悟りを証するとともに、他の者にも理解させる。例えば、衆生を教化する際、最初から最後までその法を説き、彼らの根機に合わせて、道の果てを得させる。これを「因縁の法を説くことが極めて深遠である」と呼ぶのである。

言二隨宜所說者。有五。一者知時。若為他說。復知時節不得過分。二者知處。如邊地及不律處不須說法。三知根性樂欲。量根機授藥。隨宜而說故。四者。若不解深密法者。舉世喻說而令解也。五者。若屬甚深理者。久學之人為說深法。由斯五種。故隨宜說。意趣難知。

> 「その時宜に応じて説く」とは、五つの場合がある。第一に、時を知ることである。もし他人のために説くならば、時節をよくわきまえ、行き過ぎがあってはならない。第二に、場所を知ることである。辺境の地や、法を聞くにふさわしくない場所では、説法をする必要がない。第三に、その人の性質や好みを知ることである。その人の器量に応じて薬を授け、時宜に応じて説くからである。第四に、もし深い教えを理解できない人には、世間のたとえを用いて説き、理解させることである。第五に、もし非常に深い理に属するならば、長く学んできた人には深い法を説くのである。この五つの理由によって、時宜に応じて説くのである。その意図するところは、なかなか知りがたいものである。

言所作住持者。外利他故。名為所作。內自利功德故。名為住持。即他受用變化身。是利他。名為所作。自受用身自利功德。窮未來際。無斷無盡。名為住持。然聲聞之身。多不百年五十年壽命。故無住持自利功德。又不能廣化眾生。無利他所作故名不共。聲聞等雖度人。籌盈石室。亦不為多。不及如來所度有情無有邊際等。

> ここで「所作（しょさ）」と「住持（じゅうじ）」について述べる。 「所作」とは、外に向かって他者を利益する働きを指す。一方、「住持」とは、内に自らの利益となる功徳を保ち続けることを意味する。 すなわち、他者を受用させ、変化する身（他受用身・変化身）は、他者を利益するものであるから「所作」と呼ばれる。自らが受用する身（自受用身）は、自らの利益となる功徳であり、未来永劫、尽きることなく絶えないことから「住持」と名付けられる。 しかし、声聞（しょうもん）の身は、多くは百年にも満たず、五十年ほどの寿命である。そのため、自らの利益となる功徳を長く保つ「住持」の働きを持たない。また、広く多くの衆生を教化することもできないから、他者を利益する「所作」の働きも欠けている。ゆえに、声聞は仏と共通しない「不共（ふぐう）」の性質を持つとされる。 声聞たちも人々を教化することはあるが、たとえ石の部屋を満たすほどの数を導いたとしても、それほど多くはない。如来が度した有情（うじょう）の数は、限りなく果てしないこととは比べるべくもないのである。

言不同二乘者。秀云。謂二乘人緣教起行。及化生等。名外所作。若證所證理。及持經教持戒等。名為內利住持。雖作此利。而皆狹局。不名甚深。如來外利說法。百千法門。廣利群品。內利能證。無上清淨。法界住持。恒河沙功德。名為甚深。又外利所作。利他行圓滿。內利住持行。自利行滿故。名住持甚深也。

> 「二乗と異なる」と言うのは、秀師の解釈によれば、次の通りである。二乗の人は、教えに縁して修行を起こし、また教化によって生じるものなどを「外における所作」と名づける。もし証得すべき理や、経典を受持し戒律を守ることなどは「内の利他・住持」と名づける。このような利益を行うとはいえ、すべて狭く限られているので、「甚深」とは呼ばない。如来の外における利他は説法であり、百千の法門をもって広く衆生を利益する。内における利他は、無上清浄の法界を証得し、恒河沙の功徳を受持することを「甚深」と名づけるのである。また、外における利他の所作は、利他行が円満し、内における利他の住持行は、自利行が満ちるので、「住持の甚深」と名づけるのである。

言上來總說等者。由近諸佛結受持讀誦深。

> ここまでに述べた「総説」とは、諸仏に近づき（親しみ）、この経典を受持し読誦することの深い功徳を結びつけて説明したものです。

言修行者。結修行甚深。經言盡行諸佛無量道法。

> 修行者というのは、その修行が非常に深いものであります。経典には、すべての仏陀の無量の教えと行いを尽くし行う、と説かれています。

言果決者。結果行甚深。經言。勇猛精進。

> 果断に言う者とは、深い道理を行じる結果である。経典に曰く、「勇猛に精進せよ」と。

言增長功德心者。結增長功德心甚深。經言。名稱普聞。

> 「功徳を増す心」とは、功徳を深く増す心をまとめたものです。経典には「その名は広く知れ渡る」と説かれています。

言證快妙事心者。結快妙事心甚深。經言。成就甚深未曾有法。

> 心の悟りを証することは、その妙なる真理を極めること。経典には「深遠にして未曽有の法を成就す」と説かれています。

言成無上法者。結無上甚深。經言。難解法者如來能知。

> 「無上の法を成就する」とは、最も優れ、深遠な真理を完成させることである。経典に、「解き難き法を、如来はよく知る」と説かれている。

言隨宜說難可得解者。結第七甚深。

> （師がその人の）能力に応じて説法されるとしても、その教えを理解することは難しい。これをもって第七の「甚深（深遠さ）」とする。

言二乘不了者。結第八甚深。由佛成就。前四甚深為因。第五第六為果。果既成就。所以第七甚深外為眾生說。由佛說法。所以第八甚深一切聲聞辟支佛所不能知也。問此八甚深與教理行果及二甚深相攝如何。答第一第七是教。第六是理。第二是行。第五第八是果。第三第四通行果也。二深相攝者。第一第七是阿含甚深。第二行餘。皆是證甚深也。

> 二乗（声聞・縁覚）が理解できないというのは、第八の甚深（非常に深い教え）をまとめたものである。仏が成就したからこそ、前の四つの甚深を因とし、第五と第六を果とする。果がすでに成就したので、第七の甚深は外に向かって衆生のために説かれる。仏が説法したからこそ、第八の甚深はすべての声聞や辟支仏（縁覚）には知ることができないのである。 問う：この八つの甚深は、教・理・行・果および二つの甚深とどのように対応するのか。 答え：第一と第七は教であり、第六は理であり、第二は行であり、第五と第八は果である。第三と第四は行と果の両方に通じる。二つの甚深との対応については、第一と第七は阿含甚深（経典の教えの深さ）であり、第二からその他はすべて証甚深（悟りの深さ）に属する。

言況佛智慧非甚深哉者。謂上來八甚深。但釋慧門。不釋智慧。慧門尚自甚深。況佛智慧。二乘豈能測度者哉。

> 仏の智慧は、はたして限りなく深遠であると言えるでしょう。先に述べた八つの深遠な教えは、智慧の入り口を説明したものに過ぎません。その入り口でさえ、すでに深遠なのですから、ましてや仏そのものの智慧は、どれほど深遠であることでしょうか。声聞や縁覚の悟りを得た者たちでさえ、その智慧の深さを測り知ることはできないのです。

言上嘆所證所說法者。法妙是所證。如來是能證。法是所說。如來身能說。

> ここに申し上げて、お釈迦さまが悟り、お説きになった教えを讃えます。その教えは素晴らしいものであり、それが悟りの内容です。お釈迦さまがその悟りを体現され、教えをお説きになりました。お釈迦さまの身が、その教えを伝える者なのです。

言嘆下如如來能證能說等者。問前說二甚深已了。今又嘆法師功德。是何意。答聲聞人四十年前執所得。與世尊同。兼執身。與佛無異。所得法既同。能得人身亦不異。前嘆二甚深。令知法異。今嘆法師功德。令知自身與如來別。

> 「言葉をもって嘆ずることは下（しも）の如く、如来はよく証しよく説くことなど（の勝れていることを）を嘆ずる。」 問う、前に二種の甚深を説いて已（おわ）んぬ。今また法師の功徳を嘆ずるは、何の意ぞや。 答う、声聞の人々は四十年の間、得たる所のものを執着して、世尊と同じと思い、また身をも執して、仏と異なることなしと思えり。得たる所の法すでに同じければ、よく得る人の身もまた異ならず。前に二種の甚深を嘆じて、法の異なることを知らしめ、今、法師の功徳を嘆じて、自身の如来と別なることを知らしむるなり。

言依論牒經等者。准梵本經。第八甚深後續。次便合有一个何以故。一个徵詞。徵前來智慧。向上五種甚深教門。向上八種甚深。何皆言二乘不知。答云。舍利弗。諸佛如來自在說因成就故。此上梵本經文也。諸佛如來自在成就為一段。又諸佛如來說因成就為一段。由自在成就。即是內證智慧甚深也。由說因成就。即是教門甚深。又自在成就成前三句。說因成就即是成前第四種種言詞等四七辨。只緣自在成就。所以諸佛智慧。有五種甚深。只緣說因成就。所以教向上五難八甚深二乘不知。

> 言うところの「依論牒經等者」とは、梵本の経典によれば、第八の甚深の後に続いて、すぐに「何以故」という一つの問いかけの言葉がある。これは先ほどの智慧について問いかけるものである。上の五種の甚深の教えの門、上の八種の甚深について、なぜすべて「二乗は知らない」と言うのか。それに対する答えが、「舎利弗よ、諸仏如来の自在の説因の成就によるのである」というものである。これが梵本の経典の文である。 「諸仏如来の自在成就」を一段とし、「諸仏如来の説因成就」をまた一段とする。自在成就によるならば、それは内証の智慧の甚深である。説因成就によるならば、それは教えの門の甚深である。また、自在成就は先の三句を成し、説因成就は先の第四の種々の言詞などの四七の弁を成すのである。 ただ自在成就によるがゆえに、諸仏の智慧には五種の甚深があるのである。ただ説因成就によるがゆえに、教えの上の五難・八甚深を二乗は知らないのである。

言舍利弗如來等者。問云何名為自在說因緣成就。答疏牒。經言。舍利弗。如來成就種種方便種種知見種種念觀種種言詞。此總四句。何名方便知見念觀言詞。答向下論主三段五番解釋此總四句。金城云。此秦本經與梵本經。有三種差別不同。一脫少。二不次。三離合。且脫少者。即是第六難解法者。如來能知。又云。一切聲聞辟支佛。所不能知儥。次又有一个何以故徵問。經家答云。舍利弗。諸佛如來自在說因成就。故此上四節經文。梵本經具有。秦經所無。即是第一少意。二前後不次者。若秦經。先言舍利弗吾從成佛已來。然後引總句經文種種因緣種種譬喻。若是梵本經。先言舍利弗吾從成佛已來。然後向下引別句經文。廣演言教無數方便。此名前後不次也。三離合不同者。梵本經云。種種方便種種知見種種念觀。秦經合成種種因緣。梵本經云。種種言詞。秦本經云。種種譬喻。西國言詞多說諸譬喻故。故喚言詞作譬喻也。梵本四句。秦經兩句。離合不同。有此三種差別不同也依論記了經。

> 舎利弗よ、如来について問われたことは、「どのようにして自在の説法による因縁成就と名付けるのか」ということです。答えに疏が注釈します。経典にこうあります。「舎利弗よ、如来は様々な方便、様々な知見、様々な念観、様々な言詞を成就している」。これは全体で四つの句です。何を方便・知見・念観・言詞と呼ぶのか。答えに、これから論主が三段五番の解釈でこの四句を説明します。 金城の言うには、この秦本の経典と梵本の経典には三つの違いがあります。第一に「脱少（欠落）」、「不次（順序が異なる）」、「離合（分かち合わせ方が異なる）」です。 まず脱少とは、すなわち第六の「難解の法」について、如来はよく知っているということ、また「一切の声聞や辟支仏は知ることができない」と述べられています。次に、もう一つの「何以故」という問いかけがあり、経家が答えて「舎利弗よ、諸仏如来は自在の説法による因縁を成就している」と述べます。この上記の四節の経文は梵本にはありますが、秦本には存在しません。これが第一の欠落の意味です。 第二の前後不次とは、秦本では先に「舎利弗よ、我は成仏して以来」と言ってから、総句の経文である「種々の因縁、種々の譬喩」を引用します。梵本では先に「舎利弗よ、我は成仏して以来」と言ってから、別句の経文である「広く教えを演説し、無数の方便」を引用します。これを前後が順序通りでないと呼びます。 第三の離合不同とは、梵本では「種々の方便、種々の知見、種々の念観」と言うのに対し、秦本ではこれらを合わせて「種々の因縁」としています。また梵本では「種々の言詞」と言うのに対し、秦本では「種々の譬喩」としています。西方の国では言詞で多くの譬喩を説くため、言詞を譬喩と呼ぶのです。梵本の四句に対し、秦本は二句で、分かち方や合わせ方が異なります。このように三つの違いがあるのです<note>この注記は論記に基づいて経典を解釈したものです</note>。

言展轉意言等者。略申大意也。展轉意言以下別句。釋上總句。名展轉也。三番名為展轉也。初以論往成就等四義。釋上總四句。次以經已下別句。解上總句。後暗配論文一番。名為展轉。問何以知成就總四句法。法師身上功德所證所說。二乘不知。答謨云。先於證成就。後方說因緣圓滿。即照理不圓。功德不滿。功德不滿說即不深。證理既圓。功德滿故。說即甚深。將彼內證之法向外說。說彼所證智慧及門二皆甚深。二乘不知申意了。

> ここで「展轉意言等」とは、全体の大意を簡潔に述べたものである。「展轉意言以下」は別の句であり、上の総括の句を解説している。これを「展轉」と名付ける。三つの段階を経て「展轉」と呼ぶのである。 まず初めに、論の「往」から「成就」に至る四つの義をもって、上の総括の四句を解説する。次に、経の「已下」の別の句をもって、上の総括の句を解き明かす。最後に、密かに論の一文を配当して、これを一つの「展轉」とする。 問う：どうして「成就」という総括の四句の法が、法師の身体の上にある功徳・所証・所説であり、二乗には知り得ないと分かるのか。 答える：詮とは、まず「証成就」によって後に「因縁円満」を説くのである。もし理を照らすことが円満でなければ、功徳も満ちず、功徳が満ちなければ説くところも深くない。証理がすでに円満であれば、功徳も満ちるゆえに、説くところもまた非常に深いのである。その内証の法をとらえて外に向かって説くとき、その所証の智慧と門との二つが、ともに非常に深い。二乗には知り得ないという意を述べたのである。

言何等名為說因等者。依論配經。問何故名說因成就。答疏言。謂種種方便等。

> ここでいう「説因」とは何を指すのか。論に基づいて経典に照らし合わせるならば、次のようになる。「なぜ説因が成就すると言うのか。」その答えとして、注釈書には「さまざまな方便を用いることなどを指す。」とある。

言准論解經等者。重明論意。此說秦本經中只有兩个總句種種。因緣種種譬喻譬喻。已上是總句。廣演言教已下四唱經文。是四个別句。第四唱中有七唱經文。總科為一个別句。

> ここで論や経典の解釈について述べる者は、重ねて論の意図を明らかにする。ここに説くところによれば、秦の本の経典の中にはただ二つの総句があるのみである。「種々の因縁、種々の譬喩、譬喩」――ここまでが総句である。「広く言教を演ぶ」より以下の四つの唱えの経文は、これらは四つの別句である。第四の唱えの中には七つの唱えの経文があり、総じていえば一つの別句と見なす。

言展轉訓釋等者。問此後展轉與前展轉何別。答前初如來內證真理。方有自在說因成就。後為眾生解說。名為展轉也。此句後展轉。即總四句為所。釋下三段五番為能釋。能釋句名展轉第一往成就等。一番釋總四句。名第一展轉。二明配經句。名第二展轉。三暗配論文。名第三展轉。所以疏言論有三解。次下三段五番解釋。有云。總四句是所解。三段五番為能解。且總四句者。秦經只有兩句。梵經本有四句。種種方便種種知見種種念觀。秦經合前三句。為種種因緣。梵經種種言詞。多說諸譬喻故。疏主却依梵本經中四个總句。向上作三段五番解。

> 「展転」についての解釈を詳しく述べる。ここで、後の「展転」と前の「展転」の違いを問うならば、答えはこうである。前の部分では、如来がまず内に真理を悟り、それによって自在の説法が成就するという因を述べている。後の部分では、その教えを众生のために解き明かすことを「展転」と名づけるのである。この句の後の「展転」は、全体で四つの句を対象とするものである。次の三段・五番の解釈が、能釈（解釈する側）となる。能釈の句を「展転」と名づけ、第一に成就などを説く。 一番目の展転は、全体の四つの句を解釈するものである。二番目は経の句に対応させることを明らかにし、これを第二の展転とする。三番目は論の文に暗に対応させることを明らかにし、これを第三の展転とする。ゆえに疏では「論に三つの解釈がある」と言うのである。 次に、以下の三段・五番の解釈について述べる。ある説によれば、全体の四つの句は解釈される対象であり、三段・五番は解釈する側である。そもそも全体の四つの句とは、秦訳の経にはただ二句しかないが、梵本の経には四句がある。「種々の方便」「種々の知見」「種々の念観」である。秦訳では前三句を合わせて「種々の因縁」としている。梵本の経では「種々の言詞」とあり、多くの譬喩を説いているからである。疏主は梵本の経にある四つの総句に基づいて、上に向かって三段・五番の解釈を施したのである。

言初論自別釋初四初四句者。即是論主先將一番論文。解上總句。經文一遍。便是三段之中第一段。五番之中第一番也。第一往成就。釋上種種方便。第二教化成就。解種種知見。第三功德畢竟成就。解上種種念觀。第四說成就。釋上種種言詞。此是論主自解。上總四句一遍說。

> まず、「論」の初めに四つの別釈があります。最初の四つの句というのは、論主が最初に一連の論文を用いて、前述の総括的な句を解説したものです。経文を一通り説くことが、三段の中の第一段、五番の中の第一番にあたります。第一の「往成就」は、前述の「種々の方便」を解説します。第二の「教化成就」は、「種々の知見」を解き明かします。第三の「功徳畢竟成就」は、前述の「種々の念観」を解説します。第四の「説成就」は、「種々の言詞」を説き明かします。これらは論主が自ら解説したもので、前述の総括的な四つの句を一通り説いたものです。

言次論如經已下等者。即是經家四个別句。兩番配此總。四句分二。初明配經句。為一番。後暗配論文為一番。故名兩番也。

> 次に「論の如き経、已下等」というのは、経典の作者が四つの別々の句を挙げたものです。これらを二つの段階に分けて、この総説に対応させています。四つの句を二つに分けます。最初に、経典の句に対応させるものを一つの段階とし、後で、論文に暗に対応させるものを別の段階とします。だから「二つの段階」と呼ばれるのです。

言其後二番中者。且明配經句。暗配論文。對前往成就等。名後二番也。即是論主將經家向下四个別句。釋上四个總句。一如經廣演言教無數方便。引導眾生。令離諸著。解上種種方便。二如經所以者何。如來方便。知見波羅蜜。皆以具足。解上種種知見。三如是舍利弗。如來知見廣大。深遠無量。無礙力無所畏。禪定解脫三昧。解上種種念觀。只此前三个別句。亦名前三義一處明。第四別句亦得名第四義一處明也。二云。意言緣前三論一處明故。隔斷第四句經。故成兩番此解正。從前別句。至此第三別句解了。便不解第四別句。論家復以三節論文。解上三个總句。第一往成就。可化眾生依止善知識。解上種種方便。第二成就。根熟眾生令得解脫。解上種種知見。第三成就。力家自在淨降伏。解上種種念觀。名暗配論文。初配經句。後暗配論文。總當前三義。一家明後引。第四別句釋上第四總句種種詞也。經言。深入無際。成就一切未曾法。已下七唱文。經總屬第四別句。疏文分二。初明配經句。後暗配論文。上來往成就等四句。論文三段之中。為第一段。次四个別句。解總之句中。前三義一處明。為第二段。第四義一處明。為第三段上來三段。言五番者。往成就等四句論文。三段之中第一段。五番之中第一番。前三義一處明中明配經句。三段之中第二段五番之中第二番。後暗配論文。三段之中第二段。五番之中第三番。第四義一處明中明配經句。第三段中第四番。暗配論文。第三段中第五番。亦有作三番五段。往成就四句論文遂長配為第一番。四个明配經句為第二番。四个暗配論句為第三番。何名五段。答前三義中明配暗配。第四義中明配暗配。便成五段。今當三段五番之中第一段第一番。上來法師功德分中初科了。次下正解。

> ここで言う「後の二番」について説明します。経文の文句に明らかに配当するのが「明配經句」、論疏の文に暗に配当するのが「暗配論文」です。前の「往成就」などに対する関係から、後の二番と名付けます。 これは論主が経典の作者が下に挙げた四つの別々の句を用いて、上の四つの総括的な句を説明したものです。 第一に、経に「広く教えを演説し、無数の方便を用いて衆生を導き、諸々の執着から離れさせる」とあるのは、上の「種々の方便」を説明しています。 第二に、経に「何以故。如来の方便、知見、波羅蜜は、全て具足しているからである」とあるのは、上の「種々の知見」を説明しています。 第三に、経に「舎利弗よ、如来の知見は広大で、深遠で、無量であり、無礙の力、無所畏、禅定、解脱、三昧を有する」とあるのは、上の「種々の念観」を説明しています。 ただ、これら最初の三つの別句は「前三義を一処に明かす」とも呼ばれます。第四の別句は「第四義を一処に明かす」とも呼ばれます。 第二の説では、前三つの論を一処で明かすことに重点を置くため、第四の別句の経文を隔てて、二つの番に分けると解釈します（この解釈が正しい）。前の別句からこの第三の別句までの説明で終わり、第四の別句は説明しません。論家は三つの節からなる論の文を用いて、上の三つの総句を説明します。 第一の「往成就」は、教化すべき衆生が善知識に依止することであり、上の「種々の方便」を説明します。 第二の「成就」は、根の熟した衆生に解脱を得させることであり、上の「種々の知見」を説明します。 第三の「成就」は、力が自在で、清浄であり、降伏することであり、上の「種々の念観」を説明します。これを「暗配論文」と呼びます。 最初に経の句に配当し、その後で論の文に暗に配当します。総じて前述の三義に当たります。一つの解釈では、後の引用では第四の別句が上の第四の総句である「種々の詞」を説明するとしています。経に「深入無際、成就一切未曾法」とある以下の七つの偈頌の文は、経全体が第四の別句に属します。疏の文は二つに分けられ、初めに経の句への配当を明かし、後に論の文への暗に配当します。 前述の「往成就」などの四句は、論の文の三段の中の第一段です。次に四つの別句が総句を説明する中で、前三義を一処で明かすのが第二段、第四義を一処で明かすのが第三段です（以上が三段）。 「五番」について言えば、「往成就」などの四句の論の文は、三段の中の第一段であり、五番の中の第一番です。前三義を一処で明かす中で経の句に明らかに配当するのは、三段の中の第二段であり、五番の中の第二番です。後に論の文に暗に配当するのは、三段の中の第二段であり、五番の中の第三番です。第四義を一処で明かす中で経の句に明らかに配当するのは、第三段の中の第四番であり、論の文に暗に配当するのは、第三段の中の第五番です。 また「三番五段」とする説もあります。「往成就」などの四句の論の文は長いのでまとめて第一番とし、四つの経の句への明らかな配当を第二番とし、四つの論の句への暗に配当するものを第三番とします。なぜ五段と呼ばれるのでしょうか。答えていえば、前三義の中の明配と暗配、第四義の中の明配と暗配を分ければ、五段になるからです。今は、三段五番の中の第一段第一番に当たります。 以上で法師功徳分の中の初めの科段（区切り）が終わりました。次に以下が正式な解釈です。

言初番別解等者。初總標初番也。

> 最初に「初番」と「別解」などと述べるのは、まず全体をまとめて示し、その最初の段階を指しているのです。

言一往成就等者。賀云。謂背法身而起應化。往犯往生死。故名往。金城二義。一約所化解者。背小向大。名來。如經言。漸漸遊行遇向本國。又云。遂到父舍所止之城。若背大向小名之。為往。經言。不如往至貧里。肆力有地。衣食易得。若久住此。或見逼迫。強使我作。作是念已。疾走而去與論不相應。一云。約能化解者。若他受用為大。菩薩現即名來。是大菩薩所來之處。由十地菩薩得通。自在遊十方淨土。是菩薩所來處故。若約化身上說。往往就眾生。如來有自在力。隨應可度。能往十方。即是往義。經往到子所。方便附近。但是乘非願力起感現身。名往。又從因至果。名來。往果向因。就生死名往。攝末歸本名來。從本起用名往。果中佛相望某甲佛。入生死去。好往生死名往。眾生見佛來名來也。

> 「一往成就等」について、賀師はこう述べている。すなわち、法身を離れて応化身を現じ、迷いの世界へと赴き、生死の流れの中を往き来することを「往」と名づける。 金城では二つの解釈がある。第一に、教化される側から見た解釈である。小さな悟り（小乗）を離れて大いなる悟り（大乗）に向かうことを「来」と名づける。経典に「次第に遊行して、やがて本国に帰り着く」とあり、また「父の家に至り、その城に留まる」とあるのがこれである。反対に、大乗を離れて小乗に向かうことを「往」と名づける。経典に「貧しい里に赴き、力を尽くして働ける場所を得て、衣食を得やすい」とあり、また「もし長くここに留まれば、迫られて無理やり働かされるかもしれない。そう思って、急いで立ち去った」とあるのがこれである（ただし、これは論の意とは合わない）。 第二に、教化する側から見た解釈である。他受用身を大いなるものとすれば、菩薩が現れることを「来」と名づける。これは大菩薩の来たる所であり、十地の菩薩は神通力を得て、十方の浄土を自在に遊行する。これが菩薩の来る所以である。化身について言えば、衆生のもとへ赴くことを「往」とする。如来は自在の力を持ち、教化すべき相手に応じて、十方へ赴くことができる。これが「往」の意味である。経典に「子の所に往き、方便をもって近づく」とあるが、これは願力によるのではなく、衆生の機に感じて身を現わすことを「往」と名づけるのである。 また、因から果へ至ることを「来」と名づけ、果から因へ向かい生死の世界に赴くことを「往」と名づける。末を収めて本に帰することを「来」と名づけ、本から起って用をなすことを「往」と名づける。果位にある仏が、ある仏として生死の世界に入り、喜んで生死に赴くことを「往」と名づけ、衆生が仏の来たるを見ることを「来」と名づけるのである。

言從兜率天退等者。申論意也。始從天退沒。迠至涅槃。巧用多端。利益眾生。名為種種方便。種種即方便。方便不一。名種種。

> 兜率天より退くることを言う等は、論の意を述べたものである。初めに天より退いて没し、涅槃に至るまで、巧みな働きは多岐にわたり、衆生を利益することを、種々の方便と名付ける。種々とはすなわち方便である。方便は一つではないから、種々と名付けるのである。

言起難思化者。如佛身。本唯有一。即依一身。而起百億身。如身事等。非凡夫心思口議事等。名難思也。

> 仏の身について考え及ぶことのできない教化の働きを説く。仏の身は、本来ただ一つである。しかし、この一つの身に基づいて、百億もの身を現すのである。このように、身やそのはたらきのすべては、凡夫の心で思いめぐらしたり、言葉で語りつくせるものではない。それゆえに「思い及ばず、語りつくせない」と名づけるのである。

言權巧智用者。解方及便。本無而有。應物權現。故名方便。八相成道。皆是本無而有也。天親菩薩體經意。諸佛方便。不過生死。教化眾生故。喚作方便。問菩薩何故不生餘處。唯居此天。答色界境妙。彼諸眾生貪著樂勝。難可教化。無色界是難地。菩薩不生於彼。欲界之中三塗眾生。苦逼化不得。六欲天中下三天。著樂化不得。上二天亦爾。唯此天受樂知足。故聖教說晝三時夜三時。為色界天子。說四靜慮法。為六欲天子。說十善法。晝夜六時。一一時中。教化五百億天子。令得聖果。如是共化三千億天子。日日如是教化也。故唯生彼天。

> 「権巧智用」とは、衆生の状態に応じた巧みな智慧を用いることである。その本質は「方便」である。本来は存在しないものを、衆生に応じて仮に現すことから「方便」と名付ける。八相成道（佛陀の生涯の八つの主要な出来事）も、すべて本来は無いものを仮に現したものである。 天親菩薩は経典の意図を理解して、あらゆる仏の方便は生死を離れることなく、ただ衆生を教化するためにあると説いた。それゆえ「方便」と呼ぶのである。 問う：菩薩はなぜ他の場所に生まれず、ただこの天（兜率天）だけに生まれるのか。 答える：色界の境地は妙であるが、そこに住む衆生は楽に対する執着が強く、教化し難い。無色界もまた教化が困難な境地である。ゆえに菩薩はそこには生まれない。欲界の中でも、三悪趣の衆生は苦しみに苛まれ教化できない。六欲天のうち下の三天は楽に執着し、上の二天も同様である。ただこの兜率天だけは楽を受けつつも満足を知る。それゆえ聖教には「昼の三時、夜の三時」と説かれている。色界の天子には四静慮の法を説き、六欲天の天子には十善法を説く。昼夜六時のそれぞれの時において、五百億の天子を教化し、聖果を得させる。このようにして合わせて三千億の天子を教化し、日々このように教え導くのである。ゆえにただこの兜率天にのみ生まれるのである。

言八相者大般若等者。陳相烈名也。由方便善巧願力。為有情類。示現入勝。乃至涅槃。

> 八相とは、大般若経などで説かれている、仏がこの世に現れる八つの重要な姿のことです。仏は、智慧と慈愛による巧みな手段と、その願いの力によって、迷いの世界に生きる人々のために、高貴な姿でこの世に現れ、最終的に涅槃に入るまでを示現されるのです。

言嬰兒者。菩薩為示現嬰兒童子後宮遊戲。菩薩若作餘像說法。後宮女人則不信樂。故現嬰兒。

> 「乳児」というのは、菩薩が乳児・童子の姿で宮中の遊びを示されることを言います。もし菩薩が他の姿で教えを説いても、宮中の女性たちは信じ喜ぶことができません。そのため、乳児の姿を現されるのです。

言苦行者。謂諸天人作是念言。端坐受樂。不得聖道。菩薩示現苦行。亦為降伏苦行外道。示現種種難行苦行。

> 苦行を行う者とは、すなわち諸々の天や人々がこのように思うことをいう。「端坐して楽しみを受けるだけでは、聖なる道を得ることはできない」と。菩薩は苦行を現し示す。また、苦行を行う外道を降伏させるためにも、種々の難行苦行を現し示すのである。

言成道者。謂有高行人。常能離俗。菩薩示現出家成道也。

> ここで「成道」と言うのは、高い修行を積んだ人があり、常に俗世を離れることができて、菩薩が出家の姿を示して悟りを開かれることを指すのです。

言入涅槃者。復有天人。樂聞圓寂。為彼示現涅槃。

> 涅槃に入ると言っても、天人の中には「円寂」という言葉を聞いて喜ぶ者もいます。そのような者たちのために、仏は涅槃の姿を示します。

言彼經者。即般若經也。

> この経典というのは、すなわち般若経のことです。

言最勝天子者。簡要云。最勝者。知足天中一小天子也。有云。但是釋迦說般若經會下。不妨是諸天天子。未必定是知足天子也。

> 最も勝れた天子について、簡潔に言えば、最勝とは、知足天（兜率天）の中の一人の小さな天子である。ある説には、これはただ釈迦が般若経を説かれた法会の座にいた、諸天の天子たちのことであって、必ずしも知足天の天子とは限らないとも言われている。

言云何菩薩行深等者。意云。世尊說般若無相。今如何說有八相耶。

> さて、「菩薩は深い行いをどのように修行するのか」と問うのは、どのような意味があるのでしょうか。その意図はこうです。世尊（仏陀）は般若（智慧）には形がないと説かれました。それなのに、どうして今、八つの相（特徴）があると説かれるのでしょうか。

言相不可得者。有二說。一智說證理時。冥然一體。其實無相。當情名不可得。向上能取所取相。不可得也。二者。所現之相。不執為實有。熾燃現相不生執著。執著相無。名不可得。

> 「相は不可得なり」ということには、二つの解釈がある。 一つ目は、知恵によって真理を証得するとき、すべてが一体となり、はっきりとした区別がない。そのため、心に現れる対象としての「相」はつかみ取ることができない。上に向かっては、取るものも取られるものもない。このように、あらゆる相は得ることができないのである。 二つ目は、現れ出でた相に対して、それを実在のものと執着しないことである。はっきりと現れていても、執着を生じない。執着の相そのものがなくなるので、これを「不可得」と名付けるのである。

言菩薩相不可得者。所學之法。既相不可得。能學般若菩薩相。亦不可得。若有少法得阿耨菩提者。燃燈佛則不與我授記。又說授記。又說彼遍計之相。而不可得。不說依圓也。但由方便。教化眾生。示現有生相及涅槃相等種種諸相上總答。

> 「菩薩の相は得るべからず」と言うのは、学ぶべき法がすでに相として得られず、学ぶ般若の菩薩の相もまた得られないということです。もしわずかな法でも阿耨菩提を得るものがあったなら、燃燈仏は私に授記を与えなかったでしょう。また授記を説き、その遍計の相を説いても、それは得られないものとされます。依円の相については説かれません。ただ方便によって衆生を教化し、生の相や涅槃の相などのさまざまな相を現し示すのです。<note>上総答</note>

言諸天計常等者。有二意。一破常計。二破樂計。

> 天人などが「常である」と考えることについて、二つの意味がある。一つは「常」という考えを破ること、もう一つは「楽」という考えを破ることである。

言是故菩薩等者。入胎之相。即是從天墮落也。入胎者。華嚴經說。菩薩在胎內。即能轉正法輪。又能善知。入胎住胎出時節。又說菩薩處胎。常得天龍八部衛護。香潔自在。不同凡夫也上出意也。

> このように、菩薩たちは入胎の相を示す。それはすなわち天上から降り立つ姿である。入胎について、『華厳経』にはこう説かれている。菩薩は胎内にいながら、すでに正しい法の教えを説き、また、入胎・住胎・出胎の時期をよく知っている。さらに、菩薩が胎内にいる間は、常に天竜八部が守り護り、香り清らかで自在であり、凡夫と同じではないと説かれている。

言世間最勝等。簡要云。兜率天名世間。菩薩為彼天主。世間最勝。有云。有情世間。菩薩於彼有情中最勝。名世間最勝。菩薩雖處欲天。而無欲染。一是最勝。二是於欲不染。尚有墮落。況餘不勝。況欲染者。而得常耶。

> 世の中で最も優れた者とは、簡潔に言えばこうである。「兜率天」は世の中のことを指し、菩薩がその天の主であることから、世の中で最も優れた者と言われる。また、ある解釈では、生きとし生けるものの世界において、菩薩がその中で最も優れていることから、「世の中で最も優れた者」と呼ばれる。 菩薩は欲望の天に身を置きながらも、欲望に染まることがない。これが第一の優れた点であり、第二に欲望に染まらないことである。それでもなお堕ちることがあるのだから、ましてや優れていない者や欲望に染まる者が、永遠に安住できるはずがあろうか。

言如見日輪等者。菩薩如日輪。尚有墮落也。著樂起常計者。猶如螢火。豈得久停。

> 太陽のような存在であっても、菩薩でさえも、やがては堕ちることがあります。楽しみに執着し、永遠のものと思い込むことは、まるで蛍の光のようなものです。どうして長く留まることができましょうか。

言如救頭燃者。如火燃頂。豈得寬慢者哉。菩薩在生死火宅之中修行。修行勝。如火燃頂。無容放逸。如諸天常行放逸。不肯來見菩薩禮拜受法。故示沒墮。即餘天子不肯來者。咸來見菩薩禮拜聞法。又云。但是諸天。是著樂放逸之人。是頭燃。菩薩破放逸行。如救頭燃者也。有作救字。捉入之義。如人落火坑。事須救。如飛蛾投火相。似頭投皆得。

> 「あたかも頭に火がついたのを消すかのごとく」とは、例えば火が頭の上に燃え移ったならば、どうしてゆっくり構えていられるだろうか。 菩薩は生死の火宅の中にあって修行をする。その修行は、火が頭に燃え移ったのを消すように緊迫したものだ。決して怠けてはならない。 しかし天人たちは、常に放逸に耽って、菩薩のもとに来て礼拝し、教えを受けることをしない。だから（菩薩は）衆生を救うために、あえて（天界に）出現するのである。すると、来ようとしなかった天子たちも、皆こぞって菩薩を訪ね、礼拝し、教えを聴くようになる。 また、こうも言われる。天人たちは、楽に執着し放逸な人々である。それが「頭に火がつく」ことである。菩薩は放逸を打ち破る行を修める。これが「頭に火がついたのを消すように」努めることである。 「救」の字を「捉え入れる」という意味に解する説もある。人が火の穴に落ちたならば、すぐに助け出さねばならない。飛蛾が火に飛び込むように、頭から飛び込んでも、皆が救われるのである。

言二令有情咸見者。但是下生來。此界有情咸得見也。

> 二つのましますことにより、すべての衆生が皆、見ることを得る。ただし、これは下生して来た時に、この世界の衆生が皆、見ることを得るのである。

言乃至第八復有等者。大般若五百六十八云。一從兜率天退。即入胎相。二嬰兒相。謂有一類下劣有情。善根少故。不令得見如來成無上道。轉正法輪。菩薩為彼示現童子相。方便說法。若作餘像。彼不信受。四苦行相。為彼諸天。作如是念。端坐受樂。不得聖道。菩薩謂彼示現苦行相。亦為降伏苦行外道。示現種種難行苦行。五成道相。謂彼諸天長夜發願。願見菩薩。詣菩提金剛座上時。成等正覺。無量人天既供養已。皆獲菩提因緣。六降伏相。謂彼天人作如是念。惡魔外道。障礙正法。願得菩薩坐菩提樹。降伏惡魔及諸外道。有正信者。令得正見。佛為此有情。坐菩提座。七轉法輪相。復有天人。作如是念。願見大師。成一切智。為諸眾生。示現三轉十二行相無上法輪。八入涅槃相。復有天人。樂聞圓寂。菩薩為彼。示現涅槃。疏中開童子嬰兒為二。不說出家。若准彼經。合嬰兒童子為一。別開出家。

> まず「乃至第八に等（ひと）しき者有り」というくだりについて、大般若経巻第五百六十八にはこう説かれています。一に、兜率天より退して、すなわち入胎の相を示すこと。二に、嬰児（ように）の相。これは、ある種の劣った有情（うじょう）で、善根が少ないゆえに、如来が無上道を成就し正法の輪を転じる姿を見ることを得させない者たちのため、菩薩は童子の相を示して、便利な方法で説法されるのです。もし他の姿を示せば、彼らは信じ受け入れないからです。四に、苦行の相。彼らの天人たちが「端坐して楽を受けるようでは、聖道を得ることはできない」と考えるのを見て、菩薩は彼らのために苦行の相を示します。また、苦行を尊ぶ外道を降伏させるためにも、様々な難行・苦行を示されるのです。五に、成道の相。彼らの天人たちが長夜にわたって、「菩薩が菩提の金剛座に至り、等正覚を成じられますように」と願い、無量の人天が供養した後、皆が菩提の因縁を得ることを願っているのです。六に、降伏の相。彼らの天人たちは「悪魔や外道が正法を妨げている。菩薩が菩提樹の坐処で悪魔や外道を降伏し、正しい信仰ある者に正見を得させてくださいますように」と願います。仏はこの有情のため、菩提の座に坐します。七に、転法輪の相。また天人たちが「大師が一切智を成就し、衆生のために三転十二行相の無上の法輪を示してくださいますように」と願うのを見て、仏はそれに応えて説法されるのです。八に、入涅槃の相。また天人たちが円寂を聞くことを楽（ねが）うのを見て、菩薩は彼らのために涅槃の相を示すのです。疏（しょ）の中では童子と嬰児を別々にして二つとし、出家の相を説いていませんが、もしその経に照らせば、嬰児と童子を一つに合わせ、出家を別に開くべきでしょう。

言攝大乘論第九者。指餘說。此間所引。依大般若。將此八相。對攝大乘論及華嚴經。對辨差別。彼攝大乘論云。一從天沒相。二受相生。即入胎相。三受欲樂。餘五相同。四踰城出家。五苦行。六成道。七轉法輪。八涅槃相。此攝大乘論。閻魔加從天沒相。名差別也。金云。此經先說成道。後降魔。彼處先說降魔。後成道。華嚴經辨差別者。金云。明住兜率天相為一。降下閻浮為二。添前般若八相。成十相也。名往成就。紀國云。往者赴也。逼三業。吾從成佛已來。此身業化。即神通化。眾生根熟。感而遂通。心水稍淨清。佛日斯應。所以上退一生。下流八相。為三病之良醫。作四生之慈父。語往者。廣演言教。是前雖現身丈六。但可覩相生忻。若不教弘九部。無以憑論取悟。所以暢四辨於舌端。流八音於聽表。開三乘正路。塞六師邪徹。使聞之者。識是知。非行之者。從善而棄惡。意往者無數方便。前雖身語未能說經。意業蜜加。方能演暢。欲使來生。功德念念而增。已生善根。新新不退。故說三業。名往成就。

> 「摂大乗論」の第九は、他の説を指すものである。ここで引用するのは『大般若経』による。この八相を『摂大乗論』および『華厳経』に対照して、その違いを論じる。かの『摂大乗論』にはこうある。第一に天から没する相、第二に生を受ける相、すなわち入胎の相、第三に欲楽を受ける相、その他の五相は同じである。第四に城を踰えて出家する相、第五に苦行、第六に成道、第七に法輪を転ずる相、第八に涅槃の相である。この『摂大乗論』では、閻魔（閻浮）を加えて天から没する相とし、名称の違いとするのである。 金師は言う、「この経では先に成道を説き、後に降魔を説く。かの処では先に降魔を説き、後に成道を説く」と。 『華厳経』の違いを論じるならば、金師は言う、「兜率天に住する相を第一とし、閻浮に降りることを第二とする。先の般若の八相に加えて、十相とするのである。これを『往成就』と名づける」と。 紀国は言う、「『往』とは赴くことである。三業に迫るのである。『我、成仏してよりこのかた』というのは、この身業の教化、すなわち神通の教化である。衆生の善根が熟し、感じてそれに通ずる。心の水が少しずつ清らかになり、仏の日がこれに応じるのである。それゆえに上では一生を退き、下では八相を流れ示して、三病の良医となり、四生の慈父となるのである。 『語往』とは、広く教えを説き示すことである。これは先に、丈六の身を現したけれども、ただ姿を見て喜びを生じるのみである。もし教えをもって九部を広めなければ、何によって経論に依って悟りを得ることができようか。それゆえに四弁を舌端に暢べ、八音を聴表に流し、三乗の正路を開き、六師の邪路を塞ぐのである。これを聞く者は、是を知り非を識り、これを行う者は、善に従いて悪を棄てるのである。 『意往』とは、無数の方便である。先には身と語とをもってしても、まだ経を説くことはできなかった。意業の密かな加護があって、はじめて暢べ演ずることができるのである。来生においては、功徳が念念に増え、すでに生じた善根は、新新として退かないようにと望むのである。それゆえに三業を説いて、これを『往成就』と名づけるのである。」

言教化成就等者。二解。一云。前云。前示現者顯示義。現有染淨之體。即同業果化。如官人清政。典吏倣之。即名教化故。二云。後示現者。指示解釋之義。示現證染淨之義。即說如來指示。此化身中顯現。有此染淨因果故。名示現也。教化成就一句。牒論也。種種知見一句。引經也。論主解經。知見者。即是教化成就。成就者圓滿之義。若不就知見。因何能起化身。教化眾生也。二云。種種知見者。論云。示現染淨諸因故。由如來身向內具足知見。所以能於身上示現相有染淨諸因緣。

> 「言教化成就等者」について、二つの解釈がある。 一つ目の解釈では、「前の示現」とは「顯示（あらわし示す）」の意味であり、現在の染浄（けがれと清らかさ）の本体を現すこと、すなわち業と果の教化と同じである。例えば、役人が政治を清く行えば、下の役人もそれに従うようなものである。これを教化と名付けるのである。 二つ目の解釈では、「後の示現」とは「指示・解釈」の意味であり、染浄の道理を証として示すこと、すなわち如来が教え示すことをいう。この化身の中に、このような染浄の因果が顕れているから、「示現」と名付けるのである。 「教化成就」の一句は、論（『摂大乗論釈』）を引用したものである。「種種知見」の一句は、経典を引用したものである。論主が経典を解釈して、「知見」とはすなわち「教化成就」のことであると説く。「成就」とは円満の意味である。もし知見によらなければ、どうして化身を起こして衆生を教化することができようか。 二つ目の解釈では、「種種知見」について、論に「染浄の諸因を示現する」とある。如来の身が内に知見を十分に具えているからこそ、その身の上に染浄の諸因縁の相を示すことができるのである。

言能示現有一切等者。因有二解。一者。因果之因。化身中示現。集能招苦。道能證滅。名染淨因果。十年受樂。納妻生子。此名染因。感火坑毒飯馬麥金鏘推山出血等事。名染果。六年苦行。三十四心斷煩惱。名淨因。感丈六金身三十二相八十種好。名淨果。即是集諦煩惱貪愛因。感苦諦果。道諦因感滅諦果。皆世間受樂者。故示現有也。實久成佛。示近出家。學道成佛也。

> 「言葉によって、あらゆるものを示し現すことができる」ということについては、二つの解釈がある。 第一は、「因果」の「因」という意味である。化身においては、集（苦しみを集めるもの）は苦しみを招き、道（実践）は苦しみの消滅を証することを示す。これを染めと浄めの因果と呼ぶ。 例えば、十年間楽しみを受け、妻を娶り、子を儲けること。これは染めの因とされる。そして、火の穴、毒の飯、馬の麦、金の槍、山を押しつぶす出血などの出来事を経験すること。これが染めの果である。 また、六年の苦行を経て、三十四心で煩悩を断ち切ること。これは浄めの因とされる。そして、丈六の金身、三十二相、八十種の好を感得すること。これが浄めの果である。 つまり、集諦の煩悩である貪りや愛着が因となり、苦諦の果を感ずる。道諦の因は滅諦の果を感ずるのである。これらはすべて、世間における楽しみを経験しているように見えるため、そのような示し現しがあるのだ。 実際には、はるか昔にすでに仏陀となっていたが、出家や学道、成仏の姿を、間近に示し現したのである。

言或示染淨等者。第二解也。引示現兩字。與前別。前解示現者。示相也。第二解示者。指示。開如來身中自內證知染因果道理。知淨因盛淨果道理。染因感染果道理。煞生短命報。布施富貴報。如來自知。向眾生說。交猒染因果。欣淨因果者。因由所以義也。

> 染めと清めについて説き示すというのは、第二の解釈である。「示現」という二文字を引き用いるが、これは前の解釈とは異なる。前の解釈では「示現」とは姿を示すことであった。第二の解釈では「示」とは指し示すことである。如来の身の内に自ら証得された、染めの因果の道理、清めの因果の道理を知ることができる。染めの因は染めの果を招き、清めの因は清めの果を招く。殺生すれば短命の報いを受け、布施すれば富貴の報いを得る。如来はこれを自ら知って、衆生に向かって説かれる。それによって衆生をして染めの因果を厭い離れ、清めの因果を欣い求めるようにさせるのである。「因由」とは「所以」の意味である。

言前能現身者。簡要云。指往成就中示現佛身。此解非也。只是指當句教化成就中前解也。但是料簡兩解。既無別事。前能示現於佛身上。示現有染淨因果。大家眼見耳聞。皆是實有也。後解依佛身中證知染淨因果道理。

> 「言葉の前に現身を示す者」について。簡潔に言えば、過去の成就の中に、仏身を示現することを指すという解釈があるが、これは正しくない。これは単に、当該の句における教化成就の中の前の解釈を指すだけである。ただ、二つの解釈を比較検討しているに過ぎない。別に特別な事柄があるわけではない。前の解釈では、仏身の上に示現されるものとして、染浄の因果があると説く。これは誰もが目で見、耳で聞くことであり、すべて実在するものである。後の解釈では、仏身の中において、染浄の因果の道理を証知することに基づいている。

言論下解等者。問此間有示現染淨因果。向下說成就中。又染淨因果二文何別。答疏言論下解等。意言此教化者。依證法故。彼說成就者。依說法故。意道如來證會此染淨道理。教化之具。下文將四辨。為他說也。如人甞味。後方說之也。

> 「論下で説明される内容」について。問う：この経典には、染浄の因果が示されている。後の成就の説明にも、染浄の因果についての二つの文章があるが、この二つはどう違うのか。答える：疏の「論下」とは、この教化は証得した法に基づくものであり、以前の「成就」の説明は説法に基づくものである。つまり、如来はこの染浄の道理を悟り、その上で教化の手段として、以下の四つの弁才を用いて他者に説くのである。ちょうど人が味を実際に味わった後に、初めてその味を人に伝えられるのと同じである。

言三功德畢竟等者。論文也。謂種種念觀。牒經也。即如來身中十力四無畏等。諸功德法。名為念觀故。論名功德畢竟成就也。

> 「三種功徳は究極において等しい」とは、論（じろん）の言葉です。すなわち、さまざまな念（おもい）や観（み）を挙げているのは経典の文です。如来の身には十力（じゅうりき）や四無畏（しむい）などの功徳の法があり、これらを「念観」と名づけます。そのため、論では「功徳は究極において成就する」と説いているのです。

言此意說言以說等者。解論文中。以說彼法四个字也。

> これは、論文中の「以說彼法」の四文字を解釈した言葉です。

言彼念觀等者。解論文中。成就二字。

> ここで「念観等」と言うのは、論文中の「成就」という二文字を解釈したものである。

言如所說法者。解論文中。如法兩字。

> 「言如所說法者」とは、説かれた教えの通りに生きる者を指し、「解論文中」とは、論書の中の解説を読み解くことを意味し、「如法」の二字について解説している。

言本末因緣等者。解論文中相應兩字。且釋經句。畢者終也。竟者久也。終久成就。成就者。具足十三門功德。菩提涅槃二皆具足。具足者。圓滿義。此解經中。種種念觀如來身上功德。不具據念觀。勝法攝餘十三門功德。論主解經云。種種念觀者。以說彼法者。即是經中嘆法師功德分中十三門功德也。如來身中。一一證得。名成就。內證為因。外說為緣。故名成就因緣也。如法相應者。說合證故。不相違背上消論文。此意說言乃至念觀等法。解上論家以說彼法也。彼念觀法佛皆成。解上論家成就二字。如所說法。本末因緣皆相應者。即是十三門功德如來內身成就得。名本因緣。外為眾生說。名末因緣。內身成就。名本。外說名末。內身成就。名因。外為他說。名緣也。相應二字。解上論家相應字。即是內證外說相應。即是相當契會也。攝云。一一法上。皆有本末報身成就。名本。化身起說。名末。況詳凡所說法事必有因。名本。必有所歸。名末。或因名本。果名為緣。唯緣生故。

> 「本末因緣等」とは、論文中の「相應」の二字を解釈したもので、経の文句を釈したものである。「畢」とは終わること、「竟」とは尽きること。終わりまで成就することをいう。「成就」とは、十三門の功徳が完全に備わること。菩提と涅槃の二つがともに完全に具わること。「具足」とは円満の意味である。これは経中の「種種念觀」が如来の身体の上の功徳を観ずることを解釈したものである。ただ念觀だけを挙げるのではなく、すぐれた法が残りの十三門の功徳を含んでいるのである。論主は経を解釈して、「種種念觀とは、かの法を説くことをもってする。すなわち経中の法師功徳を嘆ずる部分の十三門の功徳をいう」とした。如来の身体のうちに、一つ一つ証得されることを「成就」と名づける。内に証することを因とし、外に説くことを縁とする。ゆえに「成就因緣」と名づけるのである。「如法相應」とは、説くところと証するところが合致することをいい、互いに背くことがない。{上、論文を消す}この意図は、「乃至念觀等の法」と言うのは、上の論家が「以說彼法」と解釈したものを説明するのである。その念觀の法はすべて仏が成就されたものである。上の論家の「成就」の二字を解釈したものである。「如所說法」、本末因緣がみな相應するとは、すなわち十三門の功徳を如来が内に身で成就し得ることを「本因緣」と名づけ、外に衆生のために説くことを「末因緣」と名づける。内に身で成就することを「本」と名づけ、外に説くことを「末」と名づける。内に身で成就することを「因」と名づけ、外に他のために説くことを「緣」と名づける。「相應」の二字は、上の論家の「相應」の字を解釈したもので、すなわち内に証し外に説くことが相應することをいい、すなわち互いに対応し合致することをいう。摂とは、「一つ一つの法の上に、みな本末がある。報身の成就を『本』と名づけ、化身が起こって説くことを『末』と名づける」という。さらに詳しく言えば、およそ説かれる法事には必ず因がある。これを「本」と名づけ、必ず帰するところがある。これを「末」と名づける。あるいは因を「本」と名づけ、果を「緣」と名づける。ただ縁によって生じるからである。

言四說成就者。牒論也。謂種種言詞。引經也。今此言詞句。即是。秦經種種譬喻。西國言詞多說諸譬喻故。故喚言詞作譬喻。即不是喻。況之譬喻也。

> 四つの説を成就すると言うのは、論の文を受けたものである。様々な言葉・表現を指し、経典を引き合いに出している。ここでいう言葉・句というのは、まさにこれである。秦の経典では「種々の譬え」という。西方の国々では言葉で多くの譬えを語ることから、言葉を譬えと呼ぶのである。つまり、これは譬えそのものではなく、譬えに喩えた表現なのである。

言以四無礙依何等何等者。論家都有四个何等。問論家分作四个何等。徵有何意。答緣能被所被相別。所以分作四个何等也。上來兩句徵能被。教下兩个徵所被根也。實泛說如來四辨。兩个何等。攝四辨足。亦同唯識解第九地云。於無量所。說無量名句字。後後慧辨陀羅尼自在。愚無量所說。即義無礙解。無量名句字。即法無礙解。後後慧辨。即攝詞無礙解。辨才無礙解。為攝二句故。重言後後。此亦如是。然今指法。且說法華一會。

> 「四無礙を説くにあたって、『何等』という語を四箇所に用いる。その『何等』を、論家は四つに分けて解釈する。問う——論家が四つの『何等』に分けたのは、どのような意図があるのか。答う——能く教化する者と、所に教化される者との違いがあるからである。ゆえに四つの『何等』に分けたのである。最初の二句は、能く教化する者（仏の四無礙弁）を指し示し、後の二句は、教化される者の機根（素質）を指し示すのである。実際、広く如来の四無礙弁について述べるならば、二つの『何等』で四無礙弁を十分に収め得る。また『唯識論』の第九地の解釈にも同じことがある。そこに曰く——無量の所説に対し、無量の名・句・文（言葉や表現）を用い、後後の智慧・弁才・陀羅尼（総持力）が自在である、と。『無量の所説』とは、すなわち義無礙解（意味に対する自在な理解）である。『無量の名・句・文』とは、すなわち法無礙解（教法に対する自在な理解）である。『後後の智慧・弁才』とは、すなわち詞無礙解（言葉に対する自在な表現）と、弁才無礙解（自在な説法の力）とを収めている。この二つの句を収めるために、『後後』と重ねて言うのである。この経文もまた、それと同じである。ただ、今ここで指し示す教えは、特に『法華経』の一つの法会について説いているのである。

言依何等者。論主解經。經云種種言詞。言詞之中。說何法所以。論家四个何等徵。疏主依四个何等。下一一分別云。一依何等義。疏主答云。依法華經一乘為說。即義無礙解。

> 論主が経典を解釈する際、経典には「種々の言詞」と説かれています。その言詞の中で、どのような法を説いているのか。論家は四つの「何等」を用いて問いを立てます。疏主はこの四つの「何等」に基づいて、それぞれを一つずつ説明します。第一に、どのような義に依るのか。疏主は答えていうには、法華経の一乗を説くために依るのであり、これがすなわち義無礙解である。

言何等名字章句者。疏主答云。依法華經名字章句為說。即法無礙解。

> 「名前や文句とは何を指すのか」という問いに対し、疏主は答えて言う。「法華経の名前と文句に基づいて説く。これが、法に対する妨げのない理解である」と。

言隨何等者。答隨南閻浮提眾生言音為說。即詞無礙解。

> 南閻浮提の衆生の言葉に従って説法することを、言葉の自在な智慧（詞無礙解）といいます。

言何等眾生者。答隨舍利弗根器為說。即辨才無礙解也。

> ここで「いかなる衆生か」という問いに対して、答えは「舎利弗の根機に応じて説く」というものです。これは、辯才無礙の解釈を示しています。

言此四之中等者。疏主依論家解處料簡。第一句能起化身。八相成道。往成就。問往成就中。既言唯起化身。如何八相中。有轉法輪相。既爾。與第四說何別。答往成就中。雖有說法。今從多分。正取身往。

> ここでいう「四の中の等しい」というのは、疏主が論家の解釈に基づいて整理したところです。第一句は化身を起こすことを説き、八相をもって成道することを示し、「往成就」とあります。「往成就」の中では「ただ化身を起こす」と説かれているのに、八相の中にどうして「法輪を転ずる」という相があるのでしょうか。そうだとすれば、第四の説と何が異なるのでしょうか。答えは、「往成就」の中には説法も含まれるけれども、多くを取れば、主として身が赴くことを指している、ということです。

言第二能示現等者。教化成就。

> 第二に「示現等」と言うのは、教化を成し遂げることを意味します。

言第三如所說等者。即是經中所說十力四無畏等。十三門功德。皆圓滿功德。功德畢竟成就也。

> 第三に、「説かれたところの如く」とは、経典の中で説かれた十の力、四つの無畏などの十三の功徳を指す。これらはすべて円満な功徳であり、その功徳は究極的に成就されているのである。

言由佛法師具此等者。總指於前方便知見等四。具此四種說。因成就。假者佛身。得名勝妙。說法亦名勝妙。又往成就等四種。初一身勝妙。第二第三意勝妙。第四語勝妙。所以說二乘不知也。

> これは仏法の師がこれらの功徳を具えていることを言う。ここで「これらの」とは、前述の方便・知見などの四つの法を指す。この四つを具えて説法することを、因縁が成就したという。仮の身である仏身は、勝妙（すぐれて妙なる）と名づけられ、説法もまた勝妙と名づけられる。さらに、往（修行）の成就などの四つの種類について、第一は身が勝妙、第二と第三は意（心）が勝妙、第四は語（言葉）が勝妙である。だから、二乗（声聞と縁覚）はこれを知らないと説かれるのである。

言或前四種示者。疏主直下消當唱經。文總四句。方便等意也。第一句。經言。種種方便。既有方便。即是起化身德。八相成道。是也。

> ここでいう「前の四種を示す」とは、疏主が経文を直接解釈したものである。その文章は全体で四つの句から成り、「方便」などの意味を含む。第一の句について、経には「種々の方便」とある。方便があるということは、すなわち化身の徳を起こすことであり、八相成道がそれにあたる。

言第二句是報身德者。經既言知見。即是報身。四智菩提即報身種子。斷染證淨道理。唯報身有。

> 第二句讲的是报身的功德。经中既然说“知见”，指的就是报身。所谓四智菩提，就是报身的种子。断除烦恼、证得清净的道理，只有报身才具有。

言第三句等者。既言念觀功德。向下所作真如。即是法身。亦云有為功德。復名法身。論說五法。名法身故。

> 第三句等とは、すでに「念じ観ずる功徳」と説かれていることから、以下に説くところの真如は、すなわちこれ法身である。また「有為の功徳」ともいい、さらに「法身」と名づける。論において五法を説いて、「法身」と名づけるからである。

言第四句是等者。既言種種言詞。即是四辨具足。

> この第四句に「等」という語があるのは、すでに「種々の言詞」と言っているからであり、これはすなわち四種の弁才（四無礙弁）が具わっていることを示しているのである。

言由此三身等者。上來初解四句論文。唯是化相。後解四句經文。通三身。疏主都斷。由此三身四辨具足。故能起說。所以智慧門深。此雙會前教理上不知也。既具前三種。三種方便。種種知見。種種念觀。即是如今秦經中種種因緣。第四句種種言詞。即是種種譬喻也上一段文總解四句了。

> ここで言う「三身」等についてです。先ほど初めに四句の論文を解釈したのは、ただ化仏の相に限ったものでした。後に四句の経文を解釈したのは、三身に通じるものです。疏主は総合的に判断して、この三身によって四弁才が具足するので、説法を起こすことができると言いました。だからこそ智慧の門は深いのです。これは先ほどの教えと理の上の不知を両方調和させたものです。すでに三種の方便、種々の知見、種々の念観を具えているなら、これが今の秦経（鳩摩羅什訳の経典）における種々の因縁に当たります。第四句の「種々の言辞」は、すなわち種々の譬えを指しています。<note>上の一文は四句全体をまとめて解釈したものです</note>

言論復第二已下等者。以如經已下四个別句。釋總四句。今當第一別句。經言。廣演言教乃至離諸著。此唱經云無數方便。無數之言。已是解上種種方便。方便不一。故言種種也。問經家何以將廣演言教等。解上種種方便。答由有方便故。能廣演言教。實無有二乘佛。說有二乘教。於一乘道。分別三乘。名種種方便。

> （第二の段階を釈す）経典の「已下」という言葉以降には、四つの個別の文があり、全体の四つの句を説明している。今、第一の個別の句について述べる。 経典に「広く教えを演説し、毀誉褒貶の一切を離れる」とある。この経文は「無数の方便」を説くものである。「無数」という言葉は、すでに上の「種々の方便」を解釈している。方便が一つではないから、「種々」と言うのである。 問う：経典の作者はなぜ「広く教えを演説する」などを挙げて、上の「種々の方便」を説明したのか。 答える：方便があるからこそ、広く教えを演説できるのである。実には二乗も仏も存在しないのに、仏は二乗の教えを説いた。一乗の道において、三乗を分別して説くことを「種々の方便」と名付けるのである。

言此即第一者。問此廣言教等。一唱經文。是何句攝。答疏言此即第一等。

> これは第一のことである。問う、「この広大な教えの言葉などは、経典の一唱の文句であるが、これは何の句に含まれるのか。」答える、「疏の言葉に、これ即ち第一などという。」

言然初以兩番釋上三句已者。問何名兩番。答明配經句。為一番。暗配論文。為一番。即成兩番。問對往成就。是後何名初。答五番之中。論家往成就第一番。下經家四番。四番之中。初科兩番。後科兩番。今是初兩番。故言初也。

> では、最初に二つの段階で上記の三句を説明しました。では、その二つの段階とは何でしょうか。答えは、経文の句に明らかに照らし合わせることが一つの段階であり、論書の文に暗に照らし合わせることがもう一つの段階です。これで二つの段階となります。では、「往成就」に対して、「初」とは何を意味するのでしょうか。答えは、五つの段階の中で、論者が「往成就」を第一段階とし、その後に経の解釈者が四つの段階を設けています。この四つの段階の中で、最初の科段が二つの段階を含み、後の科段も二つの段階を含みます。今、ここで述べているのは最初の二つの段階なので、「初」と言うのです。

言復以兩番等者。即是第四言詞句中。明配暗配。為兩番。

> また、二つの段階に分けるのは、第四の言葉と文の部分において、明確な対応と隠れた対応を二つの段階として示しているのである。

言彼論文長等。疏主恐人難解。欲擬解四个別句去。先依論牒三段五番科。經文一遍。

> その論文の長さなどについて、疏主は人が理解しにくいことを恐れ、四つの別々の句を解釈しようとした。まず論に基づいて三段・五番の科を立て、経文を一度掲げた。

言此第一初番釋云者。此初字與前初字又別。前云。初兩番約前三義。與第四義。分初後也。今此初字。解四个明配經句。疏文皆有初字。對暗配論文。為初也。

> ここで言う「第一」の「初」という文字は、前の「初」という文字とはまた別の意味である。前に述べたように、最初の二つの段階は、前の三つの意味と第四の意味に基づいて、初めと後ろを分けている。今、この「初」の文字は、四つの明らかな対応する経典の文句を解釈するものであり、疏の文にはすべて「初」の文字がある。これは、暗に論文に対応するものと対比して、「初」としているのである。

言復有義種者。問何名方便。答論解云。示現外道。示現者指示義。指示外道種種邪過失。如狗逐塊。毀責邪法。令眾生捨邪法。入佛正法。即是鶖子本事珊闍耶外道。後入入故。方便也。二者。方便故示現。諸佛正法種種功德。接引眾生。入佛法中。名方便。此是所釋經句下解能釋別句經文。

> また、義（意味）には様々な種類があると言われています。ここで「方便」とは何かと問うならば、論典の解釈ではこう述べられています。「外道（邪な教え）を示し現すこと」であると。示し現すとは、指し示すという意味です。外道の様々な誤った欠点を指し示し、例えば犬が石を追いかけるような無意味な行いを例に挙げて、邪な教えを非難し戒めます。それによって眾生（生きとし生けるもの）に邪な教えを捨てさせ、仏の正しい教えに入らせるのです。これはまさに、舎利弗（しゃりほつ）が元々従っていた珊闍耶（せんじゃや）外道の話であり、後に仏法に入ったという故事に基づいています。これが第一の「方便」です。第二に、「方便」とは、諸仏の正法における様々な功徳を示し現し、眾生を引き寄せて仏法の中へ導き入れることを指します。これもまた「方便」と呼ばれます。この部分が、経典の文において解説されている内容です<note>以下に、別の経文の句をさらに解釈します。</note>

言如經云。舍利弗吾從成佛已來。九个字。秦經將向總句頭上安著也。梵本經將向別句頭上安著。如經舍利弗吾從成佛已來廣演言教已下是。梵本經云。於諸著處。令得解脫。秦本經云。令離諸著。所以疏主和會云。文雖小異。大意亦同。

> 経典にこうあります。「舎利弗よ、私は成仏して以来」という九つの言葉は、秦の経典では総句の冒頭に置かれています。梵本の経典では別句の冒頭に置かれています。例えば経典に「舎利弗よ、私は成仏して以来、広く教えを説いてきた」とあり、その後に続く部分がそれです。梵本の経典には「執着のあらゆる場所において、解脱を得させしめる」とあります。秦の経典には「諸々の執着から離れさせしめる」とあります。このように疏主が和会して言うには、「文は少し異なるが、その大意は同じである」と。

言釋無數方便者。論解釋句中。廣演言教。無數方便。有四番解釋。

> 「数多くの方便を説く」とは、論の解釈において、教えを広く説き示す多くの方法を意味します。「数多くの方便」には、四つの段階にわたる解釈があります。

言方便令入等者。方便之言。於下三處轉。即是未入法者。令入佛法。未發心眾。教化令發心。入佛法故。二斷諸疑者。即是已教佛法。令斷疑。令舍利弗法華會上迴心修行。破新舊二疑也。三疑即斷了。令入增上勝智。舍利弗等修行。當來成華光名。得無漏勝智也。四攝法攝取眾生令得解脫者。即是舍利弗將四攝法。轉化堅滿菩薩。令得解脫。又有說。前云令入諸善法者。無聞非法器眾生。令入法故。二斷諸疑者。即聲聞人聞四諦法教斷疑。三令入增上勝智。即是緣覺十二緣生教。得勝智。對聲聞名增上也。四四攝法。令菩薩以四攝法。令眾生倣此。後鬘四種重任配。不及前解也。問言入者。為約佛。為約所化。答約所化。眾生四種。皆所化生說。不約能化也。

> 「言方便令入等者」ということについて説明します。「方便」という言葉は、以下の三つの場合に用いられています。 第一に、まだ仏法に入っていない人々を仏法へ導き入れることです。まだ発心していない人々を教化して、発心させ、仏法に入らせることを指します。 第二に、諸々の疑いを断ち切ることです。これは、すでに仏法を教えられた人々の疑いを断たせることを指します。舎利弗が法華経の法会において心を向け変えて修行し、古い疑いと新しい疑いの二つを破ったことを意味します。 第三に、疑いが断たれたならば、さらに上の優れた智慧に入らせることです。舎利弗らが修行して、将来、華光という名前の仏となり、煩わりのない優れた智慧を得ることになります。 第四に、四摂法を用いて衆生を引き取り、解脱を得させることです。これは、舎利弗が四摂法を用いて堅満菩薩を教化・転換し、解脱を得させることを指します。 また、別の解釈もあります。先に述べた「諸々の善法に入らせる」とは、まだ聞くことのない、仏法の器でない衆生を法に入れさせることです。第二の「諸々の疑いを断つ」とは、声聞の人々が四諦の教えを聞いて疑いを断つことです。第三の「上の優れた智慧に入らせる」とは、縁覚が十二因縁の教えによって優れた智慧を得ることで、声聞と比べて上であることを意味します。第四の「四摂法」とは、菩薩が四摂法を用いて衆生にこれを見習わせることです。後の『鬘』に説かれる四種の重任の配釈は、前の解釈ほど優れていません。 問う：「入る」ということについては、仏に約するのでしょうか、それとも教化される側に約するのでしょうか。 答える：教化される側に約します。四種の衆生はすべて教化される者について説かれており、教化する側について説いたものではありません。

言此六釋中等者。亦有疏言四釋。亦云五釋。皆非。六釋為正。此上四義。帖前示現外道種種過失及示現諸佛功德。故成六釋也。一迴邪。是即初示現外道種種邪法。即是外道執我我。今舉所取能。即是第一時有教。二入正。即是第二時空教。說諸佛正法種種功德。三進善。即是方便。令入諸善法故。四破惡。即前斷疑。五百自入勝智。即前增上勝智也。六令他解脫。即前四攝法化眾生。又舍利弗本事珊闍耶外道。我本著邪見。為諸梵志師。住邪也。世尊知我心拔邪執涅槃。迴邪也。我悉除邪見。於空法得證。名入正。迴心向大名進善。法華會上斷疑。名被惡。初地已去。直至當來成佛。名曰華光。名自入勝智。又令他解脫。轉化堅滿菩薩。亦得成法輪也。

> ここで「六種の解釈」と言う場合、疏（注釈書）によっては「四種の解釈」と言うものもあり、「五種の解釈」と言うものもあるが、いずれも正しくない。「六種の解釈」が正しいのである。 上の四つの義（意味）に、先に示した外道の種々の過失を示すことと、諸仏の功徳を示すことを加えることで、六種の解釈となるのである。 一に「回邪（邪をめぐらす）」とは、はじめに外道の種々の邪法を示すことである。すなわち外道が「我」や「我所」に執着することである。今、取るべきものと能く取るものを挙げることで、これが第一時の「有教（有の教え）」である。 二に「入正（正に入る）」とは、第二時の「空教（空の教え）」であり、諸仏の正法の種々の功徳を説くことである。 三に「進善（善に進む）」とは、方便であり、一切の善法に入らしめるためである。 四に「破悪（悪を破る）」とは、先の疑問を断ち切ることである。 五に「自入勝智（自ら勝れた智慧に入る）」とは、先の「増上勝智（増上の勝れた智慧）」のことである。 六に「令他解脱（他をして解脱せしむ）」とは、先の「四摂法（四つの摂受の法）」によって衆生を教化することである。 また、舎利弗はもともと珊闍耶外道の弟子であった。「私はもと邪見に執着し、多くの梵志たちの師となって、邪に住んでいた。世尊は私の心を知って、邪見の執着を抜き、涅槃に向かわせてくださった。これが回邪である」と。 「私はすべての邪見を除き、空の法によって悟りを得た」これを入正という。 心をめぐらして大乗に向かうことを進善という。 法華経の会座において疑問を断ち切ることを破悪という。 初地より上、未来にわたって成仏することを「華光」と名づけ、これを自入勝智という。 また、他を解脱せしめ、堅満菩薩を教化して転じて法輪を成すこともまた、令他解脱である。

言以此方便引攝等者。解經中引導眾生。令離諸著。蔣音即及。

> このように方便をもって引き摂るとは、経典の中で众生を導き、すべての執着から離れさせると説かれていることを解釈したものである。蔣音<note>すなわち「及」</note>。

言著者執本等者。執即是本。本即是著。執與生死為本。故名執本。又執有二種。一者我執。與煩惱障為本。亦與分段生死為本。二者法執。與所知障為本。亦變易生死為本。所以疏言。愛染生死。即是著也。

> ここで言う「著」と「執」、そして「本」について説明します。「執」とは、すなわち「本」のことです。「本」とは、すなわち「著」のことです。この「執」が生死の世界の根本となるため、「執本」と呼ばれます。 また、「執」には二つの種類があります。 一つ目は「我執」です。これは煩悩の障り、すなわち煩悩障の根本となり、また迷いの世界である分段生死の根本となります。 二つ目は「法執」です。これは物事の本質を知ることを妨げる所知障の根本となり、またより微細な生死である変易生死の根本となります。 ですから、疏（解釈書）に「愛や執着が生死の世界に染まり絡みつくこと、これが『著』である」と述べられているのは、このことを指しています。

言論云諸者。解經諸著字也。凡夫觸目對情。皆起執著。經言諸著。論云彼彼。

> 「諸」という言葉について、経典では執着を指す文字です。凡夫は目に触れるものや心に感じるものすべてに対して執着を起こします。経典で「諸著」と言うのは、論書では「彼彼」と説いています。

言著界者。欲界色界無色界。

> 「界」というのは、欲界・色界・無色界のことです。

言著地者。九次第定四禪八定并滅盡定。名九。生長功德之處。故立地名。於此地上而生執著。名著地。

> ここでいう「著地」とは、九次第定（九つの段階的な禅定）――四禅八定と滅尽定を含む九つの境地――を指します。これらは功徳が育ち成長する場所であるため、「地」と名付けられています。このような境地に立ちながら、そこに執着を生じさせることを「著地」と呼ぶのです。

言戒取三昧等者。戒取見取。執此三昧。故名執著。問其滅盡定。利根那含羅漢緣覺自在菩薩。方得滅定。因何更有見戒取執著。名為著地耶。答攝云。二說。一煩惱障中。見戒取不還已無。所知障中。見戒取不妨亦有。二者。未入聖位已前。聞說此滅盡定。起見戒取。執之修學。實是凡夫有執著。非聖人也。唯此著地。不通聖人。況許取初解法執無失。說二乘諦執滅定。又佛呵菩薩。不令入滅定。故妨何法執收。唯大乘義。要其二為戒取。一執為最勝。二能得清淨。具於二者。方得名戒取。若有一而不具二。皆名邪見。不同小乘隨起一个皆成戒取。令此大乘如起最勝。及能得清淨。菩薩同時五薀。見為先者。則見取攝。戒為先者。則戒取攝。如諸外道。坐得四禪八定。已執諸見及所依薀。同時亦有上地意故。即總取而為戒取故。由此見戒。執八定也。

> 「戒取三昧等者」とは、戒取見と見取見のことです。この三昧に執着するから、「執著」と名づけるのです。 問う：その滅尽定は、利根の阿那含（不還果）、羅漢、縁覚、自在菩薩だけが得ることができるものです。どうしてさらに見取・戒取の執着があり、「著地」と名づけることがあるのでしょうか。 答える：教えをまとめると、二つの説があります。一つには、煩惱障の中では、見取・戒取は不還果の聖者にはすでにありませんが、所知障の中では、見取・戒取がまたあっても妨げないということです。二つには、まだ聖位に入る以前に、この滅尽定の話を聞いて、見取・戒取を起こし、それに執着して修行することです。実際には凡夫で執着があるのであって、聖人ではありません。ただこの著地のみは聖人には通じません。 ましてや、初めて法を知って執着がないという解釈を取るならば、二乗が諦理を執着して滅定に入ることを許すことになります。また仏が菩薩を呵責して、滅定に入らせないのは、どの法の執着に収めるべきでしょうか。ただ大乗の義のみが、その二つを戒取とするのです。一つは「最も優れたものと執する」こと、二つは「清浄を得ることができる」と執することです。この二つを備えて初めて戒取と名づけられます。もし一つがあって二つを備えなければ、すべて邪見と名づけられます。 小乗のように、ただ一つ起こるだけでみな戒取となるのとは異なります。この大乗では、最も優れたものと執すること、および清浄を得ることができると執することが起こるとき、菩薩が同時に五蘊のうち、見が先ならば見取に摂せられ、戒が先ならば戒取に摂せられます。例えば外道が坐禅によって四禅八定を得て、すでに諸々の見解と所依の蘊に執着し、同時に上地の意もあるから、総じて取って戒取とするのです。このゆえに見取・戒取が八定を執着するのです。

言九次第定者。問為離八定別有滅定。為即八定耶。答即於第八地中開。何故開之為二。答漏無漏殊。聖凡求異故。若爾。此定依有頂非想。開為兩地。無想屬第四禪。無想外道妄計亦開兩地。難曰。滅定心滅不滅別。開與不開。外二定一種滅。兩處各開地。答滅定心雖等。通依諸地故開。無想唯在四。雖復滅心。故合。然此九定名地者。地者依止義。與諸功德。為依止故。

> 九次第定について問う。八定を離れて別に滅尽定があるのか、それとも八定そのものなのか。答えていうには、第八地の中に於いて開かれたものである。なぜ二つに開くのか。答えていうには、漏と無漏が異なり、聖者と凡夫の求める所が異なるからである。もしそうならば、この定は有頂非想に依って、二つの地に開かれる。無想定は第四禅に属し、無想外道は妄計して、これもまた二つの地に開く。難じていうには、滅尽定の心の滅は、滅するか滅しないかの区別がある。開くか開かないか、外道の二定は一種の滅であり、二つの所にそれぞれ地を開く。答えていうには、滅尽定の心は同じといえども、諸地に通じて依るから、開くのである。無想定はただ第四禅にのみ在り、心を滅すると雖も、故に合わせるのである。しかしこの九つの定を地と名付けるのは、地とは依止の義であり、諸々の功徳にとって依止となるところだからである。

言著分者。如在家俗人父母。作農業商業工業散業煞羊等業。事鬼神業。如是執著己之事業。即子繼父業。不依餘業。皆名著在家分也。

> ここで「著しい在家の分」とは、在家の一般人を指します。彼らは父母や農業、商業、工業、その他の生業に従事し、羊を殺すなどの仕事や、鬼神を祭る仕事を行います。このように、自分の仕事に執着し、子は父の職業を継ぎ、他の仕事には就かないことを、「在家の分に著する」と言います。

言著出家者。如出家已後不修道業。苟求名利觀行者。但作觀行。析伏煩惱。餘不作如此觀者。皆名為著。問業著名利。可名著。如覺察煩惱。如何名執著。答雖覺察煩惱。而於善品。無進趣心。亦名為著。如修不淨。或作數息。而伏煩惱。即執此定。所學觀行之業。以為究竟。更不作餘。名之為著。問覺察煩惱。理合名順。何名執著。答執自觀。是將餘觀行。為非專住。此情名為執著也。

> 出家者に執着があるとは、出家した後に仏道の修行に励まず、やたらに名誉や利益だけを求める者を言う。観行（心を観察する修行）する者は、ただ観行だけを行って煩悩を抑え込もうとするが、このように観ずる以外の修行を一切しない者を、全て「執着」と言う。 問う：「業」が名誉や利益に執着するなら、それは執着と言えるだろう。しかし煩悩に気づき観察することは、どうして執着と言えるのか。 答える：たとえ煩悩に気づいて観察しても、善い修行に対して前進する心がなければ、それも執着と言うのだ。例えば不浄観（体の不浄を観る修行）や数息観（呼吸を数える修行）を修して煩悩を抑えても、その定められた境地に執着し、自分が学んだ観行の修行だけが究極だと思い込んで、他の修行を一切行わなければ、それを執着と呼ぶのだ。 問う：煩悩に気づいて観察することは、道理にかなった「順」と言うべきではないか。なぜ「執着」と言うのか。 答える：自分の観行だけを正しいと執り、他の観行は全て間違いだと決めつけて、その一つの境地だけに留まり固執する。この心持ちを「執着」と呼ぶのだ。

言著乘等者。著小乘大乘。著分別種種法相道理。乃至分別佛地。故此人貪分別法相。不肯修行。名為著也。問法歸分別寧通。答但除執著之意。不言都不分別。不爾。如來善能分別一切諸法。豈是著心。若爾。八地已還菩薩猶法執。當應一切不分別法。或分別法。而有執耶。答此說如來方便。令彼一切眾生離諸執著。誰言菩薩皆得爾耶。

> 「法に執著する」とは、小乗や大乗に執著し、様々な法の相や道理を分別することに執著し、さらには仏の境地に至るまで分別することに執著することを言います。ですから、このような人は法の相を分別することに貪り執われ、修行しようとしないのです。これを「執著」と呼ぶのです。 問い：法は分別に帰するものならば、どうして分別してはならないのでしょうか。 答え：ただ執著の心を取り除くことを言っているのであって、全く分別しないということではありません。そうでなければ、如来はあらゆる法を善く分別できるのに、どうして執著の心があると言えるでしょうか。もしそうだとするならば、八地以下の菩薩はまだ法に対する執著があるのですから、一切の法を分別しないべきなのでしょうか。それとも法を分別しても執著があるのでしょうか。 答え：これは如来の方便の教えであって、すべての衆生に執著を離れさせるためのものです。誰が菩薩もそのようにする（分別しない）と言ったのでしょうか。

言此第二句論云等者。此即經家第二別句。釋上第二總句。總句云。種種知見。別句經云。所以者何。徵上種種知見。問何名種種知見。答經言。如來方便知見波羅蜜。皆已具足。故總句云。種種知見。

> この第二の句について、論には「等（とう）」とある。これは経典の作者が付け加えた第二の別の句であり、上に述べた第二の総句を説明するものである。総句には「種々の知見」とある。別の句では「なぜかといえば」と述べ、上の「種々の知見」を問いかけている。問うて言う、「何を種々の知見というのか」と。答えて言う、経典に「如来の方便の知見波羅蜜は、すべてすでに具足している」とある。ゆえに総句には「種々の知見」とあるのである。

言論諸番者。對後暗配。名初也。

> 多くの人々が語る言葉は、後の理解と照らし合わせて、その名が最初に現れるものである。

言種種知見者。牒所釋經句。

> 「さまざまな知見を語る」とは、解釈しようとする経典の言葉を示したものです。

言自身成就至菩薩等者。章敬云。此是論主釋別句意也。自身解經中。知見波羅蜜多。皆已具足也。真如妙理。離言絕相。名不可思議。對能證之心。名為境界。或真如妙理。名境界。只此境界。即不可思議。通此二說佛德圓滿證。名為具足。根本智親證不可思議境界。後得變歎證不可思議境界。

> 「みずから仏の境地を成就し、菩薩たちに至るまで」について。章敬という僧はこう解釈した。「これは論主（世親）が、経典の文の意味をそれぞれに解釈したものである」。みずから経典を理解し、知恵と見解の完全な実践をすでにすべて身につけている。真如の妙なる理法は、言葉を離れ、形相を超えている。これを「不可思議」と名づける。これを証得する心に対しては「境地（境界）」と呼ぶ。あるいは、真如の妙理そのものを「境地」と呼ぶこともある。この境地こそが、まさに「不可思議」なのである。この二つの説を総合すれば、仏の功徳が完全に満ち足りていることを「具足」と名づけるのである。根本智は、不可思議の境地を直接に証得し、後得智は、その証得を称賛しつつ、不可思議の境地を示すのである。

言與聲聞菩薩等者。此解經中方便也。由佛自到彼岸。成就得知見。後得智中。為聲聞說。故名方便也。令他悟解。迴心向大。名之為與。亦令菩薩修行。修行得此佛果。名與知見方便上論生總解了。

> 「声聞や菩薩に『与える』とは、この経典における巧みな手段（方便）を説明したものです。仏は自ら彼岸に到達し、知見を成就されました。その後得の智において、声聞のために説かれたので、これを方便と呼びます。他の者たちを悟りへ導き、心を向けて大乗へと向かわせることを『与える』と名付けます。また、菩薩に修行させ、修行によってこの仏の果報を得させることも、知見の方便を与えると言います<note>上の論は全体を総括して解釈したものである</note>。」

言到彼岸者勝等者。論主解到彼岸。由佛自身到彼岸。成就得知見。後得智中為他說。名方便。令舍利弗亦致岸。故云到彼岸者。勝餘一切諸菩薩故。

> 彼岸に到る者とは、勝者（仏）のことです。論主（龍樹）は「彼岸に到る」ことを解釈して、仏ご自身が彼岸に到られたのです。その成就によって知見を得て、その後の智慧の中で他の人々のために説くことを「方便」と呼びます。舍利弗をも彼岸に至らしめるから、「彼岸に到る者」と言うのです。それは、他の一切の菩薩たちよりも優れているからです。

言文少不同等者。料簡闕具也。梵本經云舍利弗。秦經云所以者何。有無不同。梵經知見在前。秦經方便在前。正倒不同。且梵本經。先由成就得知見。次有後得智。後有方便智。此依本末次第。若秦經在前說方便。不依次第。梵經云到彼岸。秦經云波羅蜜。唐梵不同也。秦經言皆具足。論中更加勝餘一切菩薩故。菩薩證十真如。不得具足。如來方便亦具足。知見亦具足。波羅蜜亦具足。故云皆已具足。故名勝。勝餘菩薩也。

> ここで「言文少不同」とは、経典の版本によって言葉に多少の違いがあることを指し、その相違を検討して欠けている部分や完全な部分を明らかにするのです。梵本の経典では「舎利弗」と言い、秦本（鳩摩羅什訳）の経典では「所以者何」とあります。有無が同じではありません。梵本の経典では「知見」が先にあり、秦本の経典では「方便」が先にあります。正しい順序と逆さまの順序の違いです。 梵本の経典では、まず「成就知見」によって、次に「後得智」が生じ、その後「方便智」が生じると説きます。これは根本から末梢へという次第に従っています。しかし秦本の経典では「方便」を先に説くので、この次第に従っていません。 梵本の経典では「到彼岸」と言い、秦本の経典では「波羅蜜」と言います。これも言語の違いによるものです。秦本の経典では「皆具足」と言いますが、論（『大智度論』）ではさらに「勝餘一切菩薩」という言葉が加えられています。 菩薩は十種の真如を証得しても、完全に具足することはできません。しかし如来の方便も具足し、知見も具足し、波羅蜜も具足しています。だから「皆已具足」と言うのです。これが「勝」であり、他のすべての菩薩よりも勝れているという意味です。

言知見者。真俗者根本證真。後得智達俗解知見了。

> 「知見」とは、真実と世俗の道理を明らかにすることです。根本となる智慧（根本智）で真実を悟り、その後の智慧（後得智）で世俗の事柄を理解します。

言方便者此等者。後得智上作用。八相成道。故名方便。方便善巧者。將所成就知見。與諸眾生說。還令眾生成就知見。名方便。

> ここでいう「方便」とは、これら衆生を導くための方法のことです。これは後の得る智慧の上での働きであり、八つの相をもって成道するという形で現れます。そのため「方便」と呼ぶのです。 「方便善巧」とは、自らが成就した知見を、あらゆる衆生に説き聞かせ、彼らもまた同じ知見を成就させるように導くことです。これを「方便」と名付けます。

言由自成就等者。問何故如來知見亦具足。方便亦具足。答疏言由自成就等。此舉理取智。意言先由成就不可思議境界。境界即是涅槃。次成就知見。後起方便。是此意也。先由身自成就不可思議境界。此境界即是圓滿真如。塵沙萬德為境。能牽牛能緣心。故具知見。根本智名知。後得智名見。此二智作用。與聲聞菩薩等說。故名方便上舉理取智了。

> 「自ら成就する等」について。問う、なぜ如来の知見も具わり、方便も具わるのか。答え、疏に「自ら成就する等による」とある。これは理を挙げて智を取ることをいう。その意は、まず不可思議な境界を成就し、その境界とはすなわち涅槃である。次に知見を成就し、後に方便を起こす。これがこの意味である。まず身が自ら不可思議な境界を成就する。この境界とはすなわち円満な真如であり、あらゆる徳が境界となる。能く牛を牽き、能く心を縁じるゆえに、知見を具える。根本智を「知」と名づけ、後得智を「見」と名づける。この二つの智の働きは、声聞や菩薩などに説くゆえに「方便」と名づける<note>上に理を挙げて智を取ることを了した</note>。

言波羅蜜等者。舉智取理。此解意先成就得知見。次證不可思議境界。後以方便。為他人說。他人亦到彼岸。故名方便。波羅蜜者。到彼岸義也。舊闕多字。唐三藏加多字。波羅。此云彼岸也。蜜多。此云到。若順西方語云。彼岸到。今依三藏云。名到彼岸。金云。蜜多。離也到也。此有三對。一離有相此岸。到無相彼岸。二離生死此岸。到涅槃彼岸。三離六弊此岸。六度彼岸。言六弊者。一慳貪。二毀禁。三嗔恚。四懈怠。五散亂。六愚癡。如次六度所治病也。今經取涅槃。為彼岸也。然二乘等。即無波羅蜜多。故有頌云。麟角喻無有六波羅蜜多。唯我最勝尊。具足到彼岸。

> 「波羅蜜等」と言うのは、智を挙げて理を取るのです。この解釈の意図は、まず知見を成就し得ること、次に不可思議な境界を証すること、その後で方便を用いて他の人のために説くことです。他の人もまた彼岸に到るので、方便と名付けるのです。波羅蜜とは、彼岸に到るという意味です。古い訳には「多」の字が欠けていましたが、唐三蔵が「多」の字を加えました。「波羅」は、これを彼岸と言います。「蜜多」は、これを到ると言います。西方の言葉の順に従えば「彼岸に到る」となりますが、今は三蔵に従って「到彼岸」と名付けるのです。金剛仙論にはこうあります。「蜜多」は、離れること・到ることです。ここには三つの対があります。一は、有相の此岸を離れて、無相の彼岸に到ること。二は、生死の此岸を離れて、涅槃の彼岸に到ること。三は、六弊の此岸を離れて、六度の彼岸に到ることです。「六弊」と言うのは、一に慳貪（けんどん）、二に毀禁（きごん）、三に嗔恚（しんい）、四に懈怠（けたい）、五に散乱（さんらん）、六に愚癡（ぐち）です。それぞれ順に、六度が治すべき病です。この経では涅槃を彼岸と取っています。しかし二乗などには、波羅蜜多はありません。それゆえに頌があります。麟角喩の者は六波羅蜜多を持たない。ただ我れ最勝の尊のみが、彼岸に到ることを具足する、と。

言明佛等者。先舉智也。問何故相違。答有二意。一者。欲顯佛所得法不過性相。二者。亦顯證無前後。如是日照空中。闇暗盡明。佛成就理智二法。即是自利也。

> 「仏などの諸仏を言明する」とは、まず智を挙げることを意味する。問う、なぜ相違するのか。答える、二つの意図がある。一つは、仏の得たところの法が性と相を超えないことを示そうとするため。二つは、証得には前後の区別がないことをも示すためである。このように、太陽が空に照らせば、暗闇は尽きて明るくなる。仏が理と智の二つの法を成就すること、これがすなわち自利である。

言由具方便二智等。明佛利他行也。

> 言葉には、方便と智慧の二つの智が具わっている。これは、仏が他者を利する行いを明らかにするものである。

言故能以此等者。准疏意。即是如來自性成就知見性相。令彼聲聞等。還如世尊。成就得不可思議境界。而能具足知見方便。名與聲聞菩薩也。

> 故に、このような者たちを「声聞・菩薩」と名付けることができるのは、疏の意味に照らせば、これは如来の自性として成就された知見の性相を指す。それにより、あの声聞たちもまた、世尊のように、不可思議な境界を成就し、完全な知見と方便を具えることができる。その意味で、彼らを「声聞・菩薩」と呼ぶのである。

言此第三句者。天親菩薩將第三別句。釋上總句種種念觀。問何名念觀。答下別句十三門功德。是念觀所攝。合之則種種念觀。開之則十三門功德也。秦本只有八門也。初番者。對後暗配。名初也。復種種念觀。牒總句經文。

> さて、この第三句についてですが、天親菩薩はこの第三番目の別句を用いて、先ほどの総句にある「種々の念観」を釈明しておられます。では「念観」とは何かと問うならば、答えましょう。下にある別句の十三門の功徳こそが、この念観に含まれるものです。それらを一つにまとめれば「種々の念観」となり、開けば十三門の功徳となるのです。鳩摩羅什三蔵の訳本（秦本）には八門しかありません。初番とは、後ろの分かりにくい箇所に対応づけて、「初め」と名付けたものです。そして再び「種々の念観」とあるのは、総句の経文を繰り返して挙げたものです。

言經舍利弗如來知見至具足故者。引別句經也。具足言之。言遍下十三門功德。

> 舎利弗よ、如来の知見は、完全に満ち足りているがゆえに、というのです。これは別の経文の句を引用したものです。詳しく言えば、以下の十三の教えの功徳にわたって述べられているのです。

言文意大同等者。梵本經念觀功德有十三門。秦經有八門。闕五。即無不共法根力三十七菩提分及三摩拔提五門也。

> ここで、言葉とその意味がほぼ同じであることについて。梵本の経典では「念観の功徳」に十三の門がある。秦の経典には八つの門があり、五つが欠けている。すなわち、共ならざる法、根、力、三十七菩提分、そして三摩抜提の五つの門である。

言廣者。初解總句。問何名總句。答言總者。只於當句中就總。不望他方便知見言詞總。今總就念觀之中如來知見。是體。廣大深遠。是用。合此知見體用。名總也。十三門功德。是別句。問何以知見體用是總句耶。答以彼知見廣大深遠故。是總句。此知見向上廣大深遠。遍在十三門功德中。一一向上。皆有廣大深遠義。開之則十三門。合之則是一箇知見為體也。如來知見亦廣大深遠。無量亦廣大深遠。無礙亦廣大深遠。乃至三摩䟦提亦廣大深遠。此是秦經八門功德。辨總別也。廣者無邊。所證理既無邊。能證智慧亦無邊也。根本智證盡一切理。名無邊。後得智達盡一切事。名無邊也。

> 「広い」とは、まず総句を解釈することです。問う、何を総句というのか。答える、総というのは、ただ当の句の中において総であるのであって、他の方便・知見・言詞を望んで総というのではない。今、総じて念観の中において如来の知見を、これが体である。広大で深遠なのが、これが用である。この知見の体と用を合わせて、総と名づけるのである。十三門の功徳は、これが別句である。問う、どうして知見の体と用が総句であると知るのか。答える、その知見が広大で深遠であるから、これが総句である。この知見は上に向かって広大で深遠であり、十三門の功徳の中に遍く存在する。一つ一つの上に向かって、すべて広大で深遠という意味を有する。開けば十三門となり、合わせれば一つの知見を体とするのである。如来の知見もまた広大で深遠であり、無量もまた広大で深遠であり、無礙もまた広大で深遠であり、乃至三摩跋提もまた広大で深遠である。これは秦経の八門の功徳であって、総と別を弁別するものである。広いとは限りがないことである。証する理がすでに限りがないので、証する智慧もまた限りがない。根本智はすべての理を証し尽くすので、限りがないと名づける。後得智はすべての事を達し尽くすので、限りがないと名づけるのである。

言大者無上者。出過三界。體是無漏。故名無上。然佛功德。即十地菩薩二乘人不能過者。

> 大いなる者とは、最高の者である。三界を超え出で、その本質は煩悩のない清らかなもの。ゆえに「無上」と名づける。ただし、仏の功徳は、十地の菩薩や二乗の人々も超えることができないものである。

言深者難測者。唯佛能知。菩薩二乘不知。故名難測。

> 深い真理を探求する者は、その測り知れなさゆえに、仏のみがその本質を悟ることができる。菩薩や二乗（声聞・縁覚）はこれを理解できないため、それを「難測（はかりがたし）」と称する。

言遠者時長者。二解。一云。三大劫來修習得。名遠。二者。窮未來際。不增減故。名遠。摩訶般若內照法身理。解脫道已去。窮未來際。故名遠。

> 「遠い」ということについて、二つの解釈があります。第一に、三つの大劫（長い時間）を経て修行を積んで得られたものを「遠い」と名づける。第二に、未来の果てまでも尽きることなく、増えも減りもしないことを「遠い」と名づける。摩訶般若（大いなる智慧）が法身の真理を内側から照らし、解脱の道を成就して以後、未来の果てまで窮め尽くすことから、「遠い」と名づけるのです。

言此上乃是等者。即是根本後智也。

> これを上と言うのは、すなわち根本智と後得智のことである。

言又此諸德等者。問十三門功德中。有是智慧性者。不以慧為體。於中禪定等諸法。如何亦以智慧為體。答疏言又此諸德等。即諸功德亦二智眷屬為體。如無量無礙等。皆通心心所。是智慧之眷屬也。禪定與智眷屬。三昧皆定。皆智慧眷屬。亦名知見也上諸德總句了。

> また、これらの諸徳について。十三門の功徳の中に、智慧を性とするものがある。慧を体としないのであるが、その中で禅定などの諸法は、どうして智慧を体とするのか。答えていう。疏に「またこれらの諸徳等」とあるのは、すなわち諸功徳もまた二智の眷属を体とするのである。例えば無量・無礙などは、すべて心・心所に通じ、智慧の眷属である。禅定と智慧の眷属は、三昧はすべて定であり、すべて智慧の眷属である。また知見とも名づける<note>上の諸徳の総句はここで終わる</note>。

言依此經文無量者。即論牒經無障也。有解牒論。梵本經剩無障。脫却無量。秦經有無量。闕無障。此解不然。疏為也。無障即是經中無量也。法若有障。不名無量。法既無鄣。故無量也。

> この経典の文において「無量」と言うのは、論が経典の文を引用して「無障」と言っているのである。ある解釈では、論の文を引用しているとし、梵本の経典には「無障」が余分にあり、「無量」が欠けているとする。秦の経典（鳩摩羅什訳）には「無量」があり「無障」が欠けている。この解釈は正しくない。疏が言うには、「無障」とは、まさに経典の中の「無量」のことである。法に障害があれば、「無量」とは呼べない。法がすでに障害がないのだから、ゆえに「無量」なのである。

言謂三十七菩提分者。問既說三十七菩提分。何故別說五根五力耶。答由入道勝故。生長功德。勝故別說也。

> 三十七菩提分法について述べられています。既に三十七菩提分が説かれているのに、なぜ特に五根と五力を別に説くのでしょうか。それに対する答えは、これらは悟りへの道に入る上で特に優れており、功徳を育てる働きが殊勝であるから、特に別に説かれるのです。

言三摩䟦提謂九等至等者。二說。一云。在定位之心。安和平和平等。名之為等。此由定力。令身心至此平等之位。名為等至。二云。等謂平等。惛沉掉舉名不平等。由前加行。折伏却惛沉掉舉。平等持心。而至於定位。名等。等即至也。初釋以定為緣。令心安和也。後釋由前加行為緣。念心安和也。此之一種。秦經亦無十三門中四無所畏十八不共法。唯佛即有。故不道菩薩聲聞也。四無礙解通菩薩。餘者三乘共。即四禪八定。兼通外道也。

> 三摩跋提とは、九等至などを指す。これについて二つの説がある。第一の説は、定位にある心は安らかで、穏やかで、平等である。これを「等」と名づける。これは定の力によって、身心をこの平等の境地に至らしめることから、「等至」と名づけるのである。第二の説は、「等」とは平等のことであり、昏沈や掉挙は不平等と名づけられる。修行の前段階の努力によって、昏沈や掉挙を抑え伏し、心を平等に保ち、定位に至らしめることを「等」と言う。すなわち、「等」とは「至る」ということである。最初の解釈は、定を縁として心を安らかにするということであり、後の解釈は、前の修行の努力を縁として心を安らかにするということである。 この種のことについて、秦訳の経典には十三門の中に含まれていない。四無所畏や十八不共法は、仏だけが有するものであり、菩薩や声聞には説かれていない。四無礙解は菩薩にも通じるものである。その他のものは三乗に共通するものである。すなわち、四禅と八定であり、外道にも通じるものである。

言體即明記等者。意言如來得大總持故。此十三門功德。明記不忘。故名種種念觀。觀即慧故。非此十三門皆以觀為體也。八門中念觀兩法偏勝故。舉念明記勝。觀是慧。慧簡擇勝。正合取慧。不合取念。慧同時故雙取也。

> 言体について「明記等」というのは、次のような意味です。如来は大いなる総持（すべてを記憶する力）を得ておられるので、この十三の門の功徳を明らかに記憶して忘れることがない。そのため「種々の念観」と名付けるのです。観とは慧（智慧）のことです。だから、この十三の門がすべて観を体とするわけではありません。八つの門の中では、念と観の二つの働きが特に優れているので、「念」を挙げて明記（記憶すること）の優れていることを示し、「観」は慧であり、慧は物事を正しく選り分けることに優れています。本来なら慧を取るべきで、念を取るべきではありません。しかし、慧は同時に念を伴うものなので、両方を取り上げているのです。

言一列名者。問如何名四種無量。答疏言謂慈無量等。此四無量。亦名四等心。亦名四梵住。攝引雜集云。四無量具五緣。一以靜慮為依止。二者。有情為所依。三拔苦與樂為行相。四定慧為自性。五心心所法為助伴也。若空言四無量。通三乘人。若言大慈。大悲大喜大捨。唯佛有故。謂慈無量。外道凡夫不妨有慈悲。若喚作無量。即不得。謂悲無量。喜無量。捨無量。

> まず「四種無量」とは何かについて問うならば、疏には「慈無量など」とある。この四無量は「四等心」とも呼ばれ、「四梵住」とも称される。『雑集』を引いて述べるならば、四無量には五つの縁が備わる。第一に、静慮を依り所とすること。第二に、有情を対象とすること。第三に、苦を抜き楽を与えることを行相とすること。第四に、定と慧を自性とすること。第五に、心と心所の法を助伴とすることである。ただ単に「四無量」と言うならば、三乗の者に通じる。しかし「大慈・大悲・大喜・大捨」と言うならば、それは仏のみに有るものである。慈無量について言えば、外道や凡夫でも慈悲を持つことは妨げられない。だが「無量」と称するならば、それは叶わないのである。悲無量・喜無量・捨無量もまた同じである。

言釋名等者。亦名四等心。緣一切有情。平等起故。亦名四梵住。由行此四。當感無量大梵福故。一緣無量境。攝云。菩薩藏經云。諸菩薩為菩提故。盡眾生界。慈心遍滿。盡虗空界。是眾生界量。無所不遍。菩薩大悲亦復如是。緣無量有情為意。故名無量。不同凡夫但緣妻子眷屬方起。二乘唯依欲界起。如來大悲遍三界起。故名無量。菩薩緣欲界四趣。但拔苦苦。不能拔地獄地獄壞行二苦。今說如來遍緣三界。拔彼三苦。

> 「四等心」という名前について説明します。 これは「四無量心」とも呼ばれます。すべての生きとし生けるものに対して、平等に慈しみの心を起こすからです。また「四梵住」とも呼ばれます。この四つの心を修行することで、計り知れない大いなる梵天の福徳が得られるからです。 一つ目の特徴として、その対象は無限の世界に広がっています。『菩薩蔵経』にはこうあります。「諸々の菩薩は悟りを求めるがゆえに、あらゆる衆生の世界を尽くすまで、慈しみの心をあまねく満たす。虚空が尽きるほど広大な衆生の世界の広がりも、その慈しみはどこにも行き渡らないところがない」。菩薩の大いなる悲しみもまた同じであり、無量の生きとし生けるものを対象とする心であるから「無量」と名付けられています。 これは凡夫がただ自分の家族や身内だけに慈しみを向けるのとは異なります。また、声聞や縁覚の修行者は欲界の衆生だけを対象としますが、如来の大いなる悲しみは三界のすべてに及びます。そのため「無量」と呼ばれるのです。 菩薩は欲界の四つの苦しみの世界に住む者たちのために、ただ「苦苦」という苦しみだけを取り除こうとしますが、地獄の衆生が受ける「壊行」と「行苦」という二つの苦しみまでは取り除けません。ここでは如来が三界すべてにわたって、その三つの苦しみすべてを取り除くことを説いています。

言二起無量行解等者。行解不一。故名無量。所緣既無量。能緣行解亦廣大。此約見分。緣所緣相分。境既無量。其能緣見分行解。亦名無量。如外道六行伏惑時。決於有情不為損惱。修上定時。亦有四無量。二乘等亦有。但是假相菩薩通假實。但緣四趣有苦眾生。起此四。故除天起。不能救壞行苦。名小四無量。如來所作。是實通拔三界三苦。名大慈等四。

> ここに「二種の無量なる行解を起こす」と説かれるのは、行と解がそれぞれ一様ではないからである。それゆえに「無量」と名づけるのである。所緣（対象）がすでに無量であるから、能緣（認識する心）の行解もまた広大である。これは見分について言うのである。見分が相分（対象の影像）を緣じるとき、境がすでに無量であれば、その能緣の見分の行解もまた「無量」と名づけるのである。 たとえば、外道が六行観によって煩悩を伏するとき、有情に対して損害や悩ましを加えないと決意する。上地の禅定を修めるときにも、四無量心がある。また、二乗（声聞・縁覚）にもあるが、それは仮の相にすぎない。菩薩は仮と実とを通じてもつのである。 ただ四趣（地獄・餓鬼・畜生・修羅）の苦しみある衆生を緣じてこの四無量心を起こすのである。それゆえに天趣を除くのである。なぜなら、天の衆生は壊行苦（壊れゆく苦しみ）を救うことができないからである。これを「小四無量」と名づける。 如来のなされるところは、真実にして三界の三苦（苦苦・行苦・壊苦）をすべて抜き去るのである。これをもって「大慈」などの四無量心と名づけるのである。

言三感無量果小者。有近果遠果。由行此四等心。近果。即四禪梵王。初將四天下六欲天福集一處著。始底一箇初禪梵王福。遠果。即成佛也。有漏心修四無量。感四禪梵王果。無漏心修四無量。感無漏梵王果。即如來身。即遠果之。問凡夫生上界。要須習定。今但修四無量。如何得生。答嗔恚煩惱不生上界。慈悲既是無嗔。何妨得生緣。憐兒故投水而死。生於梵天。女人憐子。即是無嗔。心無果緣。即是捨定無嗔。有定得生梵天。以母有真拔子之心。是悲心故。得生上。名盛果無量。問其梵福分限如何。答菩薩藏經云。譬如三千大千世界。下至金輪。上至四禪。水滿其中。取一牛毛。竪分三分。取其一分。遍涅水中。以手拭乾。還放水中。沾此水盡。梵福方盡。

> 四無量心の功徳には、大きく分けて近い果報と遠い果報の二つがあります。この四種の平等な心を修行することで得られる近い果報とは、四禅天の梵天王になることです。初めに四大洲と六欲天の福報をすべて集めて一箇所に置いても、そのすべてを合わせた福報をもってしても、初禅天の梵天王一人分の福報にようやく届くかどうかという程度です。遠い果報とは、成仏することです。煩悩のある心で四無量心を修行すれば、四禅天の梵天王の果報を得ます。煩悩を離れた清らかな心で四無量心を修行すれば、煩悩を離れた梵天王の果報、すなわち如来の身を得ます。これが遠い果報です。 問いかけます。凡夫が上界に生まれるには、必ず禅定を修めなければなりません。今、ただ四無量心を修めるだけで、どうして上界に生まれることができるのでしょうか。 答えましょう。瞋恚の煩悩があれば上界に生まれることはできませんが、慈悲の心は瞋恚を離れたものですから、どうして生まれる縁とならないことがありましょうか。例えば、ある女性がわが子を深く哀れんで、その子を救おうとして水に入り、命を落としたために梵天に生まれたという話があります。女性が子を慈しむ心は、すなわち瞋恚を離れた心です。心に悪い縁がなければ、それは禅定を具えた瞋恚のない心です。禅定があるからこそ、梵天に生まれることができるのです。母親が本当に子を救おうとする心を持つこと、これが悲心です。この悲心によって上界に生まれることができ、これを盛果無量と名づけます。 さらに問いかけます。梵天の福報の限界とは、どのようなものでしょうか。 答えましょう。菩薩蔵経に説かれています。たとえば三千大千世界を、下は金輪より上は四禅天に至るまで、すべて水で満たしたとします。牛の毛一本を取って、それを縦に三分し、そのうちの一分を取り、その水の中に浸します。そして手でその水滴を拭い取り、再び水の中に戻します。こうして、その毛先に付く水が尽きるまで繰り返しても、ようやく梵天の福報が尽きるというのです。それほどに梵天の福報は大きなものなのです。

言法界有情總為三類等者。金云。若約界地論。可為四類。一無苦無樂。謂第四禪已上并四空處。二有苦無樂。謂地獄全。鬼畜一分。三有樂無苦。謂下三禪。四亦苦亦樂。謂欲界人天及鬼畜一分。鬼即至五岳禹王等。祀者畜生龍鳳象馬。亦有一分受樂者。又化度各為四句料簡。一先樂後苦。如世人飛鷹走狗自樂己身。不知已後地獄受苦。二先苦後樂。如今苦心持戒。及內財外財施人。命終之後。生天淨土是。三先樂後樂。如出家人離煩惱。名先樂。後成佛名後樂。四先苦後苦。如外道鞭㭬臥蕀。後入地獄。然疏言三類者。總相言。俱句即攝在苦樂中。亦無違也。然依此三類。眾生中有七類人。依此人境向上行慈悲喜捨。問云何七類。答且親有三品。一父母師長為上親。二兄弟伯叔為中親。三朋友眷屬為下親。四非怨非親中容人。怨有三品。五下怨。煞朋友眷屬。六中怨。煞兄弟伯叔。七上怨。煞父母師長。於此七類人上。從淺至深修。事須先修慈無量。慈無量以與樂。為行相。且樂有二種。一有漏。二無漏。有漏樂有三品。人中四洲菩薩六欲天為下品。初二靜慮為中品。第三靜慮為上品。又無漏樂亦有三品。聲聞中聖有學無學為下品。辟支迦為中品。菩薩佛為上品。有漏無漏不同。總相作三品。配上樂如一貫金錢。中樂如五百銀錢。下樂如一百銅錢。且第一上親是父母與上樂。如與一貫金錢。中親是兄弟與中樂。如與五百銀錢。朋友遠親與下樂。如與一百銅錢。此第一未是修行。作觀行人方法次第。二方是觀行人。調練身心。如先於上品親與上樂。此為最下修慈。次於中品與上。乃至上親與下樂。上怨與上樂。有十九句。至此方名成就。其相云何。先上親與上樂。中親與中樂。下親與下樂。三於中親與上樂。下親與中樂。中容與下樂。三於下親與上樂。中容與中樂。下怨與下樂。三於中容與上樂。下怨與中樂。中怨與下樂。三於下怨與上樂。中怨與中樂。上怨與下樂。三於中怨與上樂。上怨與中樂。上親與下樂。三後於上怨與上樂。方是親行成就。由佛因中作此觀行。果中任運怨親平等。見怨家如赤子也。

> ここで「法界の有情を総じて三類とする」等と言うのは、金剛大師の解釈によれば、次のようになります。もし界（三界）や地（四禅天などの段階）によって論じるならば、四類に分けられます。 一、苦も楽もない者。第四禅天より上と、四無色界（空無辺処など）。 二、苦はあるが楽はない者。地獄のすべてと、餓鬼・畜生の一部。 三、楽はあるが苦はない者。初禅から第三禅までの下三禅。 四、苦もあり楽もある者。欲界の人間・天人と、餓鬼・畜生の一部。例えば、鬼でいうと五岳の禹王などを祀る者、畜生でいうと龍・鳳凰・象・馬などにも、一部楽を受ける者がいます。 また、教化の観点からも、それぞれを四つの句に分けて考えます。 一、先に楽で後に苦。例えば世の人が鷹を放ち犬を走らせて自分自身を楽しませるが、後に地獄で苦しむことを知らない。 二、先に苦で後に楽。例えば今、苦心して戒律を守り、財産や身を施す人は、命終わった後に天上や浄土に生まれる。 三、先に楽で後に楽。例えば出家者は煩悩を離れるので「先に楽」、後に仏となるので「後に楽」と言う。 四、先に苦で後に苦。例えば外道が鞭で打ち、薪の上に臥すなどの苦行をして、後に地獄に入る。 疏で「三類」と言うのは、全体的な見方であり、「苦楽の両方がある」という句は苦と楽の中に含まれるので、矛盾はありません。そして、この三類の衆生の中に七種類の人がいます。この人々という対象に対して、慈悲喜捨の修行を向上させていきます。 問う、「七種類とは何か？」 答える、まず親には三つの等級があります。 一、父母・師長は上の親。 二、兄弟・伯叔（おじ）は中の親。 三、朋友・眷属は下の親。 四、怨みでもなく親でもない中間の普通の人。 怨みにも三つの等級があります。 五、下の怨み。朋友・眷属を殺す者。 六、中の怨み。兄弟・伯叔を殺す者。 七、上の怨み。父母・師長を殺す者。 この七種類の人に対して、浅いところから深いところへと修行します。必ず先に「慈無量心」を修めます。慈無量心は楽を与えることを行相（働きの形）とします。楽には二種類あります。一つは有漏（煩悩のある）の楽、二つは無漏（煩悩を離れた）の楽です。 有漏の楽には三つの等級があります。 人間の四大洲、菩薩、六欲天は下品（下の等級）。 初禅・第二禅は中品。 第三禅は上品。 また、無漏の楽にも三つの等級があります。 声聞の中の聖者で、有学・無学は下品。 辟支迦（縁覚）は中品。 菩薩・仏は上品。 有漏と無漏は異なりますが、総合的に三つの等級とします。上の楽を例えば一千文の銭、中の楽を五百文の銀銭、下の楽を百文の銅銭に例えます。 まず、第一の段階では、上の親である父母には上の楽を与えます。ちょうど一千文の銭を与えるようなものです。中の親である兄弟には中の楽を与えます。五百文の銀銭を与えるようなものです。朋友や遠い親族には下の楽を与えます。百文の銅銭を与えるようなものです。これはまだ本格的な修行ではなく、観行する人の方法・順序を示したものです。 第二の段階からが、実際に観行する人で、身心を調練します。例えば、先に上の品の親には上の楽を与える。これが最も下の慈の修行です。次に中の品には上を与える。このように段階を経て、上の親には下の楽を与え、上の怨みには上の楽を与える。ここに十九の句があります。ここまで至って初めて成就したと言えます。 その様相はどうかというと、 まず、上の親には上の楽、中の親には中の楽、下の親には下の楽。（三句） 次に、中の親には上の楽、下の親には中の楽、中間の普通の人には下の楽。（三句） 次に、下の親には上の楽、中間の普通の人には中の楽、下の怨みには下の楽。（三句） 次に、中間の普通の人には上の楽、下の怨みには中の楽、中の怨みには下の楽。（三句） 次に、下の怨みには上の楽、中の怨みには中の楽、上の怨みには下の楽。（三句） 次に、中の怨みには上の楽、上の怨みには中の楽、上の親には下の楽。（三句） 最後に、上の怨みには上の楽。これでようやく親（慈悲）の行が成就します。 仏は因位（修行中）においてこのような観行をしたので、果位（悟り）においては自然に怨みと親の区別なく平等であり、怨みの敵を見ても、まるで愛しい我が子を見るかのようにするのです。

言一與苦樂者。總意說不獨指一方也。一世間有一般人。衣食用得足。名無苦。更覔富貴不得。名無樂。非是總無三苦八苦。二無枷棒臨身。名無苦。有生住異滅還流。名無樂。此一類人無苦故。不旨造善。無樂故又不肯造惡。事須苦逼身方乃造善樂。及身方能造惡。此一類人苦樂總無也。佛若遇此一般眾生。事須無倒與樂。問何名無倒與樂。答一為名分心與樂名倒。離名利心名無倒。二有漏名倒。與無漏名無倒也。意取無漏樂為政。此一類人無苦無樂。若更與世間示與癡相應。不可救得。故無倒與樂。設是有漏。亦名無倒。如言一乘。通有漏故。若與人天愛染。名為有倒也。所以疏言無倒與樂名慈也。

> 一に苦楽と言うのは、総意を述べて、一方だけを指すのではない。一、世間に一般の人がいる。衣食が足りていて、名づけて苦なしとする。さらに富貴を求めても得られない。名づけて楽なしとする。これは総じて三苦八苦がないというのではない。二、枷や棒が身に臨まない。名づけて苦なしとする。生・住・異・滅の還流がある。名づけて楽なしとする。この一類の人は、苦がないゆえに喜んで善を造らず、楽がないゆえにまた進んで悪を造ろうとしない。事は必ず苦が身を逼めて、ようやく善を造り、楽が身に及んで、ようやく悪を造ることができる。この一類の人は、苦楽が総じてないのである。仏がもしこのような衆生に遇うならば、事は必ず倒れなく楽を与えるべきである。問う、何を名づけて倒れなく楽を与えるとするのか。答う、一には、名利の心のために楽を与えるのを、倒れという。名利の心を離れるのを、倒れなしという。二には、有漏を倒れと名づけ、無漏を与えるのを倒れなしと名づける。意は無漏の楽を取って正とする。この一類の人は、苦なく楽なしである。もしさらに世間の示しと痴の相応を与えるならば、救い得ない。ゆえに倒れなく楽を与える。仮に有漏であっても、また倒れなしと名づける。例えば一乗を言うように、有漏に通ずるからである。もし人天の愛染を与えるならば、これを有倒と名づける。ゆえに疏に「倒れなく楽を与えるのを慈と名づく」と言うのである。

言無嗔為體者。問何故辨相中出體。答此慈無量不離。以無嗔為體。亦便以無嗔為行相。行慈之人。三業不現嗔之相故。

> ここで「無瞋（怒りのないこと）を体とする」と言うのは、なぜ「相を弁別する」中で「体」を取り出すのかという問いに対する答えである。この慈無量心（慈しみの無限の心）は、無瞋から離れることはない。すなわち、無瞋をその本質とするのである。また、無瞋を行じる様子としても捉えられる。慈しみを行う人は、身・口・意の三つの業（行い）において、怒りの相を示すことがないからである。

言有苦者拔苦者。菩薩悲心。見諸眾生受於苦惱。心生惻愴。而拔濟之。故為悲。釋名也。苦亦有三品。地獄苦為上。餓鬼畜生苦為中。人天苦為下。路行相同前。一上親拔上品苦。中親拔中品苦。下親拔下品苦。二中親拔上品苦。下親拔中品苦。中容拔下品苦。三下親拔上品苦。中親拔中品苦。下怨拔下品苦。四中容拔上品苦。下怨拔中品苦。中怨拔下品苦。乃至上怨拔上品苦。名悲無量。觀行方成也。即以善十一中不害。為體也。

> 「苦しみを抜く者」とは、「苦を抜く者」という意味です。菩薩の慈悲の心は、すべての衆生が苦しみや悩みを受けているのを見ると、心に哀れみの念が生じ、その苦しみを取り除いて救済します。これが「悲」です。これは名称の解釈です。 苦にも三つの段階があります。地獄の苦しみが最も重く、餓鬼や畜生の苦しみは中程度、人間や天人の苦しみは比較的軽いものです。道筋や行いは前述と同じです。 第一に、上位の親しい縁のある者は、最上位の苦しみを抜き取ります。中位の親しい者は中位の苦しみを抜き、下位の親しい者は下位の苦しみを抜きます。 第二に、中位の親しい者が上位の苦しみを抜き、下位の親しい者が中位の苦しみを抜き、中立的な立場の者が下位の苦しみを抜きます。 第三に、下位の親しい者が上位の苦しみを抜き、中位の親しい者が中位の苦しみを抜き、下位の怨みの者が下位の苦しみを抜きます。 第四に、中立的な立場の者が上位の苦しみを抜き、下位の怨みの者が中位の苦しみを抜き、中位の怨みの者が下位の苦しみを抜きます。このようにして、最上位の怨みの者までが最高位の苦しみを抜くようになります。これを「悲無量」と呼びます。観察と実践を経て初めて完成するのです。 具体的には、善心所十一種の中の「不害」をその本質とします。

言三有樂者助喜等者。一上親助上品喜。中親助中品喜。下親助下品喜。二中親助上品喜。下親助中品喜。中容助下品喜。乃至上怨助上品喜。無量觀行成就菩薩。見眾生有榮樂事。心歡喜。不生嫉妬。助彼慶悅。故名喜也。

> 「三有における楽について言えば、喜（歓喜）を助ける者とは、以下の通りである。第一に、上の親しい人が上の喜びを助け、中の親しい人が中の喜びを助け、下の親しい人が下の喜びを助ける。第二に、中の親しい人が上の喜びを助け、下の親しい人が中の喜びを助け、中くらいの関係の人が下の喜びを助ける。さらに、上の怨みの相手が上の喜びを助ける場合もある。無量の観行を成就した菩薩は、衆生に栄え楽しむ出来事があるのを見て、心から喜び、嫉妬の心を起こさず、その慶びを共に喜ぶ。これが喜（歓喜）と呼ばれる所以である。」

言不嫉妬善根者。侚自名利。不耐他榮。今既反彼。助彼令憙。名為不嫉。不嫉即無嗔分也。問憙無量。何故不以無嗔為體。取不嫉善根為體也。答今此疏主從根本立名。先由不嫉眾生。有榮樂事。所以助憙。故以不嫉善根為體。

> 「嫉妬しないことを善根とする」とは、自分の名利にこだわり、他人の栄えることを耐えられないのを、その逆として、相手の栄えを助けて喜ばせることを「嫉妬しない」と言います。嫉妬しないことは、怒りの心がないことの現れです。 問う：「喜びの無量心」は、なぜ怒りの心のないことを本体とせずに、嫉妬しない善根を本体とするのですか。 答える：この疏の主は根本から名を立てています。まず嫉妬しないことで、衆生が栄え喜ぶことを助けて喜ぶのです。だから嫉妬しない善根を本体とするのです。

言復於無苦無樂等者。捨行相也。此一類人衣食自充。無苦懃求。方𫆳無樂。心不了因果。見善不煞。又亦不嗔。名之為癡相。佛菩薩等開決令修行進善。令離癡也。

> 「また、苦もなく楽もない等と言うのは、捨の行相である。この一類の人は、衣食が自ずから満ち足りている。苦労して求めることもなく、楽しいと感じることもない。心は因果を悟らず、善を見ても喜ばず、また怒ることもない。これを癡（おろかさ）の相と名付ける。仏や菩薩などは、教えを開き示して、修行させ善を進めさせ、癡を離れさせるのである。」

言於有苦者。見苦惱貧窮下賤。無手無足。兼無眼目。而來乞者。必起嗔心。今者菩薩若見有苦眾生而來乞者。不生瞋心。繫念彼苦故。又有眾生身上有苦。怨天非人。菩薩聲離也。

> 苦しみを持つ者について言えば、苦しみや悩み、貧しさや身分の低さ、手がない、足がない、さらに目もない者たちが乞いに来たならば、必ず怒りの心を起こすものです。しかし、今、菩薩は苦しみを持つ衆生が来て乞うのを見ても、怒りの心を起こしません。その苦しみを心に留めているからです。また、身に苦しみを持つ衆生がいて、天を恨み、人を責めても、菩薩はそれらを離れているのです。

言於有樂者等者。不了世間錢財。是妄計為實有。生貪著故。令離故也。

> 楽しいと感じる者たちに対して説くとは、世間の金銭や財産が実は虚妄のものであることを理解せず、誤ってそれを実在すると考え、執着や貪りを生じるから、それから離れさせるために説くのである。

言平等欲令等者。辨捨行相也。欲令離諸惡故。明捨功能也。菩薩見諸眾生有憙樂事。於上不生貪愛。於三種境上。不起貪瞋癡。三心總平等故。名捨。所以無貪瞋癡精進四法為體。問此等四心。為實為假。若假與樂拔苦。乃成虗設。若實者。世間如何有苦。可得佛常起故。答二說。一假想心中。作如是觀。為前方便。引後實觀。即能拔苦與樂等。二者。此但是佛菩薩。起此四無量心。為善友緣。與諸眾生為緣故。過去諸佛。數如河沙。皆是已拔苦者。眾生因力。佛方為緣故。如天雨故。只為眾生。法爾無量故。有苦可得。亦約根未熟者故。非是如來四心虗說也。

> 平等について「等」というのは、捨の行相を弁別して述べたものである。諸々の悪を離れさせようとするから、「捨」の機能を明らかにするのである。菩薩は衆生が喜び楽しむ事柄があるのを見て、その上に貪愛を生じない。三種の境に対して、貪・瞋・癡を起こさない。三つの心がすべて平等であるから、「捨」と名づけるのである。ゆえに、無貪・無瞋・無癡・精進の四法を体とするのである。 問う：これらの四心は、真実か仮か。もし仮ならば、楽を与え苦を抜くというのは、虚しい設けとなる。もし真実ならば、世間にどうして苦があろうか。仏は常に起こすことができるからである。 答える：二つの説がある。一つには、仮想の心の中で、このような観を作すのは、前の方便であり、後の真実の観を引き出すためである。すなわち苦を抜き楽を与えることができる。二つには、これはただ仏菩薩がこの四無量心を起こして、善友の縁となり、衆生との縁となるためである。過去の諸仏は、河の砂の数ほどあるが、みなすでに苦を抜いた者である。衆生の因の力によって、仏がはじめて縁となるのである。たとえば天が雨を降らすようなものである。ただ衆生が法として無量であるから、苦があることが得られるのであり、また根が未だ熟さない者についても言えるのである。如来の四心が虚説であるというわけではない。

言善捨為體者。出體簡法也。引唯善十一中行捨。謂進三根。令心平等。無功用住為性。疏政作捨。意簡受也。

> 善捨を体とするとは、その体を示して法を選び分けることである。唯識の十一の善心所の中の「行捨」を引くのである。すなわち精進・三善根によって心を平等にし、努力することなく自然に安住することをその性質とする。疏では「捨」と改めているが、これは「受」を除くという意味である。

言出體性者。合以等者。前來解喜。以不嫉善根為體者。但是疏約根本立名。先由不嫉眾生有榮樂事。所以助喜。故以不嫉善根為體。此是疏主直顯解義也。若依論家。喜以無嗔為體。唯識云。云何名無嗔。於苦苦具無嗔為性。對治嗔恚。云何行捨。令心平等正直無功用住為性。對治掉舉。靜住為業。云何不害。於諸有情。不為損惱。無嗔為性。能對治害。悲愍為業。問不害是假為悲體。百法之中。別開數。不嫉是假。為喜體。善法之中。何不立。答唯識云。謂顯慈悲此二勝故。故離嗔立不害。不嫉不爾。問亦應謂顯喜捨離無嗔外立不嫉。答論云。利益有情。此二勝故。

> まず、「体性」について述べます。ここで「合以等者」とは、先に「喜」を説くにあたり、「不嫉」（ねたみ心のないこと）という善根をその体とする、と説明しました。しかし、これはあくまで注釈者が根本に立って名づけたものです。そもそも、生命あるものが栄え楽しむことを、まずねたまないからこそ、その喜びを助けることができるのです。ですから、「不嫉」という善根を体とする、と述べたのです。これは、注釈者が直接その義を解釈して示したものです。 もし論者の立場に従えば、「喜」は「無瞋」（怒りのないこと）を体とします。「唯識論」にこうあります。「無瞋とは何か。苦しみや、苦しみの原因となるものに対して、怒りを起こさない性質である。瞋恚に対治する。」また、「行捨とは何か。心を平等にし、正直にし、特別な努力をすることなく自然に安らかに保つ性質である。掉挙（心の浮つき）に対治し、静かにとどまることを業とする。」さらに、「不害とは何か。すべての生命あるものに対して、損なったり悩ましたりしないことである。無瞋を性質とし、害することに対治し、悲みいつくしむことを業とする。」 問い：不害は仮のものであり、悲をその体とします。百法の中では、特に別のものとして立てられています。不嫉も仮のものであり、喜をその体とするのなら、善法の中に、なぜ別に立てないのですか。 答え：唯識論にこうあります。「これは慈悲のこの二つが殊勝であることを示すためである。だから、瞋を離れることによって、不害を立てる。不嫉はそうではない。」と。 問い：また、喜と捨が殊勝であることを示すために、無瞋の他に不嫉を立てるべきだとも言えるでしょう。 答え：論にこうあります。「利益有情（生命あるものを利益すること）は、この二つが殊勝であるからである。」と。

言此各有三等者。種類差別。初修觀行之人未能離得我我所心。所以緣眾生時。當情見有有情。圓首方足。張三李四。而能救拔。二者。法緣者。法緣雖除。我執法執乃存。行拔苦與樂時。當情不見眾生。唯作三科法想。而為利益拔濟也。

> これは、それぞれに三つの段階があることを説く。それは、種類の違いによるものである。第一に、初めて観行を修める人は、まだ「我」と「我がもの」という心を離れることができない。それゆえ、衆生を対象とするとき、その心には有情が実在するように見える。丸い頭に四角い足を持つ人間、張三や李四といった具体的な人々として見えるのである。それでも、その人たちを救い助けることはできる。第二に、法縁というものがある。法縁は、我執は除かれても、法執はなお残っている。苦しみを抜き、楽を与える行いをするとき、その心には衆生が見えない。ただ、五蘊・十二処・十八界といった法（もの）の分類としてのみ捉え、それらに利益を与え、救い助けるのである。

言三無緣者。既遣二執。復於諸法離分別。作真如想。由前除却法執。心緣眾生不作眾生想。不作法想。當情唯作真如想。潞云。離分別緣。名無緣。內冥真境。不緣有情。乘國中大願。任運能度。名曰無緣。晢法師問。既緣真如。真如上無苦。如何拔苦。名無緣悲。答拔苦之時。不是拔真如上苦。真如向上。其實無苦。元來拔眾生身上苦。當拔苦時。不緣眾生。唯緣真如。任運能拔苦與樂。名無緣慈。問既實拔苦與樂。何名無緣。答二說。一真如上。離言絕相。體是離緣法。故名無緣。二者。不緣故無緣。拔苦與樂時。唯緣真如。不緣眾生。任運能拔眾生苦故。故名無緣。由佛因中三大劫行四無量觀。觀三事體空。今日觀行純熟。更不加功用行。眾生熾燃離苦。解脫得樂。如陶家輪。陶家輪初時轉。齊轉三匝五匝。却住去。漸漸輪齊清去。一迴拔轉。轉得三十五十匝。若准疏中意。直是緣眾生。作真如想。而救拔苦。問何名無緣。答云。離分別心。作真如想。涅槃經說。五百釋女被挑其眼。受種種苦。即稱南無佛。三度念之。佛力風吹藥。填其眼目。平復如故。佛言我不與他治。當知即是無緣慈善根力也。

> 「無緣」という三つの意味について説明します。すでに「我執」と「法執」の二つの執着を除いた後、さらに諸法に対して分別を離れ、「真如」という想いを起こします。先に法執（すべてのものに実体があると思う執着）を除いたので、心が衆生に触れても「衆生」という想いを作らず、「法」という想いも作りません。心に浮かぶのはただ「真如」という想いだけです。 潞という師匠はこう言います。「分別を離れて縁（よりどころ）とすることを『無緣』と名づける。内に深く真如の境地を観じ、有情（生きとし生けるもの）に執着しない。仏の大いなる誓いの力に乗って、自然のままに众生を救済する。これを『無緣』と名づける」 哲法師が問います。「真如に縁（よりどころ）を置くというなら、真如の上には苦しみがありません。どうして苦しみを取り除くことができましょうか。これを『無緣の悲』と名づけるのはなぜですか？」 答えていわく、「苦しみを取り除くとき、それは真如の上にある苦しみを取り除くのではありません。真如の境地には、本来、苦しみというものは存在しません。元来、私たちが取り除くのは、衆生の身の上の苦しみです。苦しみを取り除くときに、衆生に執着するのではなく、ただ真如のみに縁（よりどころ）を置くのです。自然のままに苦しみを取り除き、楽を与えることができる。これを『無緣の慈』と名づけるのです」 さらに問います。「実際に苦しみを取り除き、楽を与えているのなら、なぜ『無緣（よりどころなし）』と名づけるのですか？」 答えていわく、「二つの説があります。一つ目は、真如の上では言葉を離れ、概念を絶しており、その本体はもともと執着や縁（よりどころ）を離れたものである。ゆえに『無緣』と名づける。二つ目は、執着しないがゆえに『無緣』である。苦しみを取り除き楽を与えるときに、ただ真如のみに縁（よりどころ）を置き、衆生には執着しない。自然のままに衆生の苦しみを取り除くことができるがゆえに、『無緣』と名づけるのです」 仏は因地（修行中の身）において、三大阿僧祇劫（気の遠くなるような長い時間）の間、四無量心（慈・悲・喜・捨の四つの無限の心）の観行を修行され、三つのもの（衆生・法・自己）の本体が空であることを観じられました。今日ではその観行が純熟し、もはや特別な努力や作為を必要としません。衆生が激しく苦しみに焼かれているのを見ると、自然に苦しみから解脱させ、楽を得させます。 例えて言うなら、陶工のろくろのようなものです。ろくろは最初に回すとき、三回五回と回してから止まりますが、徐々に回転が安定してくると、一度回せば三十回も五十回も回転し続けます。 もし注釈書の意図に従うなら、直接的に衆生に縁（よりどころ）を置きつつ、それを「真如」という想いとして観じ、それによって苦しみを救い取り除くのです。 問います。「なぜ『無緣』と名づけるのですか？」 答えていわく、「分別心を離れて、真如という想いを起こすからです」 『涅槃経』にこう説かれています。五百人の釈迦族の女性たちが目をえぐり取られ、さまざまな苦しみを受けました。そのとき彼女たちは「南無仏」と唱え、三度念じました。すると仏の力の風が薬を吹き送り、彼女たちの目を満たし、もとのように平らに回復させたのです。 仏は言われます。「私は他の方法で治療したのではない。これはまさに『無緣の慈』の善根の力であると知るべきである」

言或法無量等者。此第二解。疏主意。法謂十二分教。修慈之者。欲令眾生。因緣十二分教。慈從教法起。故喚教法。作法緣慈。或先因緣教。而後起慈。名法緣慈。此經云。三界無安。猶如火宅。又云。今此三界皆是我有。其中眾生。悉是吾子。而今此處。多諸患難。唯我一人。能為救護。由聞此教。故起悲心。乃至喜捨亦爾。

> 「法は無量なり」等とは、これ第二の解釈である。疏主の意は、法とは十二分教を謂う。慈を修する者、衆生に因縁十二分教を聞かしめんと欲す。慈は教法より起るが故に、教法を喚んで法縁慈と作す。或いは先ず因縁の教えによりて、而る後に慈を起こす。これを法縁慈と名づく。この経に云く、「三界に安きこと無し、猶お火宅の如し」と。また云く、「今この三界は皆是れ我が有り、その中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而るに今この処に多諸の患難あり、唯我一人のみ能く救護を為すべし」と。この教えを聞くに由りて、故に悲心を起こす。乃至喜捨も亦た爾るのみ。

言此三之中等者。凡聖差別也。外道亦能行慈。樣危救弱。作有情想。我見未忘。故當情見有怨親自家妻子男女。

> この三つのうち、「中等の慈悲」とは、凡夫と聖者の違いに関するものです。外道（仏教以外の教えを説く者）も慈悲を行うことはできます。彼らは困っている者を救い、弱い者を助けようとしますが、そこには「有情（生きとし生けるもの）」という思いがまだあり、「我（自分）」という見解を忘れていません。それゆえ、心には怨みや親しみ、自分と他人、妻子や男女への執着が残っているのです。

言次共二乘者。二乘已離我執。當情法執未忘。故救拔眾生之時。作三科法想。名法緣。

> 次に、二乗について述べます。二乗はすでに我執（自分への執着）を離れていますが、法執（物事や教えへの執着）はまだ忘れきっていません。そのため、衆生を救い導くとき、五蘊・十二処・十八界という三つの区分に対する見方を起こします。これを法縁（教えに基づく慈悲）といいます。

言後唯菩薩者。菩薩悟二空。法亦想無也。不見有情及法。但作真如想。三事體空。故後得通前。前不兼後。

> また、後に「菩薩」とのみ説かれる場合について。菩薩は「二空」（人空と法空）を悟り、法についても想念を離れている。有情も法も見ず、ただ真如のみを想う。三つの事柄（能観の智・所観の境・観る者）はその体が空である。それゆえ、「後の智」（根本智の後の境地）は「前」（根本智）を含むが、「前」は「後」を含まない。

言初三安樂等者。利樂差別也。慈無量。悲無量。喜無量。但拔令離苦。無樂者與樂。有樂助喜。此名三安樂。現在因中。便得安樂。第四捨無量。欲令離諸惡。故離貪嗔癡。但名利益。未必安樂。問若然者違他無性。攝論云何四皆安樂。答彼論云。四皆安樂者。約捨無量當來所感安樂果說。此間疏中。言捨唯是利益。約現在法上說也。又有是利益。而非安樂。有是安樂。亦是利益。論約俱句。疏主偏說。亦不相違。初通外道。外道度眾生。唯得生天有漏樂果。二云二乘。二乘自利。小果麤淺。後通菩薩。如來即觀空觀有。拔令出世證真如故。熾然度生。都無彼我。三事體空。有殊勝功德之利益也。

> まず「初三安楽等」と言うのは、利益と安楽の違いを指しています。慈無量、悲無量、喜無量という三つの無量心がありますが、ただ苦しみを取り除いて苦から離れさせるだけでなく、楽がない者には楽を与え、楽がある者にはその楽を助けて喜ばせる。これを三安楽と呼びます。現在の因の段階で、すでに安楽を得ることができるのです。 第四の捨無量は、諸々の悪から離れさせようとするもので、貪・瞋・癡の三毒を離れることです。これはただ利益と言うだけで、必ずしも安楽とは限りません。 問い：もしそうならば、他の無性の教えに反することになりますが、『摂論』ではなぜ四つすべてを安楽と言うのでしょうか。 答え：あの論では、「四つすべてが安楽である」とは、捨無量が将来に感得する安楽の果報について述べているのです。ここの疏の中で「捨はただ利益のみである」と言うのは、現在の法について述べているからです。 また、利益であって安楽でないものもあり、安楽であって同時に利益であるものもあります。論は両方を含む観点から述べ、疏主は一方に偏って述べているが、矛盾するわけではありません。 初めの三つは外道にも通じます。外道が衆生を救済しても、ただ天に生まれる有漏の楽の果報を得るだけです。二つ目は二乗（声聞・縁覚）について述べ、二乗は自己の利益のみを求めるので、その果報は粗末で浅いものです。後のものは菩薩や如来に通じます。如来は空と有を観察し、衆生を苦しみから抜き出して出世間の真理を証得させます。熱心に衆生を救済しても、そこに我と彼の区別は全くありません。三つの事柄の本体は空であり、殊勝な功徳による利益があるのです。

言感果可知者。果報差別也。有二。一總。二別。總果有二。一遠。二近。近成梵福。為大梵王。菩薩藏經說。譬如灾下至金輪。上至梵世。滿中皆水。遍三千界。假使有人。以一牛毛。竪分三分。但取其一遍涅水已。而復擎出。以手拭乾。乾已復涅。大千界中水可治盡。無量心功德無盡。遠則感如來果。二別果。別果中此四無量。若凡夫有漏心中。以煩惱資四無量。感人天果。若以四無量心。資於煩惱。感地獄三塗果。凡夫慈悲。勸人食肉飲酒等。是四無量。資煩惱也。若二乘人。四無量心。資所知障。感變易生死。起慈悲心。救度眾生。誓求菩提。執有情可度。菩提可求。即是所知障。由因此障。而起慈悲故。受變易果也。若菩薩以四無量心資真如。當得法身。以真如資四無量心。當得報身。並是能感菩提涅槃二轉依異也。

> 果報の違いについて、二つの種類があります。一つは総果、もう一つは別果です。 総果には二つの種類があります。一つは遠い果報、もう一つは近い果報です。近い果報は梵天の福徳を成就し、大梵天王となります。『菩薩蔵経』に説かれています。例えば、災いが金輪界にまで及び、上は梵世にまで至り、その中がすべて水で満ち、三千世界に遍く満ちているとします。仮に人が一本の牛毛を取り、それを縦に三分の一に分け、その一部を水に浸してから取り出し、手で乾かし、また乾いてから再び浸すとしても、大千世界の水は尽きることがありますが、無量心の功徳は尽きることがありません。遠い果報は如来の果を感得します。 二つ目は別果です。別果において、この四無量心は、凡夫が有漏の心を持つ場合、煩悩によって四無量心を支え、人天の果報を感得します。もし四無量心によって煩悩を支えるならば、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣の果報を感得します。凡夫の慈悲は、人に肉を食べさせたり酒を飲ませたりすることであり、これは四無量心が煩悩を支えることになります。 もし二乗の人が四無量心で所知障を支えるならば、変易生死を感得します。衆生を救済しようと慈悲心を起こし、菩提を誓い求めるが、有情が度されるべきものだと執着し、菩提が求められるべきものだと執着するならば、それが所知障です。この障によって慈悲を起こすので、変易の果報を受けます。 もし菩薩が四無量心で真如を支えるならば、法身を得ることができ、真如によって四無量心を支えるならば、報身を得ることができます。これはすべて菩提と涅槃という二つの転依の違いを感得することになります。

言與大慈大悲等者。五勝劣差別也。此中有四差別。一救濟假實。二依身因果。三所緣寬狹。四體性多少。然慈悲喜捨。三乘共有。大慈悲等四。唯佛獨有。問四無量慈悲喜捨。與大慈大悲大喜大捨何別。答無性攝論云。大悲者有五義。一福德資粮圓證故。二解脫苦為行相故。三三界有情為所緣故。四於有情心平等故。五決定無有勝此者故。又有說五義大。一資粮大。六度萬行所成辦故。二行相大。三界有情平等悲愍故。三所緣大。緣三界有情故。四平等大。即前七品修怨親平等。五上品大。求大菩提。利樂有情故。更無餘悲。能濟此者。又有頌云。大悲唯俗智。資粮行相境。平等上品故。異悲由八因。俱舍有八因。與彼差別。八因者。一自性異。大悲無嗔無癡自性異故。悲唯無嗔。二行相異。大悲普緣。三苦為境。悲唯緣苦苦。三所緣異。大悲普緣三界。悲唯緣欲界。四依地異。大悲唯第四禪。悲通依餘地起。五依身異。大悲唯依佛身。非通凡夫聖人。六證得異。大悲離有頂。悲離欲界。七救濟異。大悲救有情。皆成實。悲但起假想。希望不實。八哀愍異。大悲平等哀愍。悲即不爾。有不平等。

> 「大慈大悲」と言う場合、五つの勝劣の差別がある。この中に四つの差別がある。第一に救済における仮（仮の救い）と実（真実の救い）の違い、第二に依る身と因果の違い、第三に所縁の広さ狭さの違い、第四に体性の多い少ないの違いである。 しかし、慈悲喜捨（四無量心）は三乗（声聞・縁覚・菩薩）に共通するものである。大慈悲などの四つは、ただ仏だけが独自に有するものである。 問う：四無量の慈悲喜捨と、大慈大悲大喜大捨は何が違うのか。 答える：無性摂論にこうある。「大悲には五つの意味がある。一に、福徳の資糧を円満に証得していること。二に、苦しみからの解脱を行相とすること。三に、三界の有情を所縁とすること。四に、有情に対して心が平等であること。五に、これより勝れたものが決してないことである。」 また、ある論には五つの大の意味が説かれている。一に資糧が大であること。六度万行によって成し遂げられるからである。二に行相が大であること。三界の有情を平等に悲愍するからである。三に所縁が大であること。三界の有情を縁とするからである。四に平等が大であること。先の七品において怨親平等を修行することである。五に上品が大であること。大菩提を求め、有情を利楽するからである。これより勝れて、この苦しみを済度できる他の悲はないのである。 また、頌にこうある。「大悲はただ俗智のみ、資糧・行相・境、平等・上品の故に。悲と異なるは八の因による。」倶舎には八つの因があり、それによって大悲と悲とを区別する。八つの因とは、第一に自性が異なる。大悲は無瞋・無痴を自性とするが、悲（小悲）はただ無瞋のみを自性とする。第二に行相が異なる。大悲は普遍的に三苦を境として縁じるが、悲はただ苦苦のみを縁じる。第三に所縁が異なる。大悲は普遍的に三界を縁じるが、悲はただ欲界のみを縁じる。第四に依地が異なる。大悲はただ第四禅のみに依るが、悲は他の地にも通じて起こる。第五に依身が異なる。大悲はただ仏身のみに依るのであり、凡夫や聖人には通じない。第六に証得が異なる。大悲は有頂（非想非非想処）を離れるが、悲は欲界を離れるのみである。第七に救済が異なる。大悲は有情を救い、すべてを真実に成し遂げる。悲はただ仮の想いを起こすのみで、その希望は真実ではない。第八に哀愍が異なる。大悲は平等に哀愍するが、悲はそうではない。平等でない場合があるからである。

言彼唯實者。大慈大悲。實能拔苦。於一切處。能漏救故。名實。若凡夫雖起四心。而心不稱。以少能拔苦與樂。若極重處。如王法刑戮及諸病苦。而不能救。故名假。若初地已上菩薩。實有慈悲。垂形六道。拔苦與樂。名實。此即八中第七救濟異也。

> 「彼をのみ実とする」とは、大慈大悲のことである。実に苦しみを抜き去ることができ、あらゆる場所において、漏れなく救済するから、「実」と名づける。もし凡夫が四心を起こしても、心がそれにかなわず、わずかに苦しみを抜き、楽を与えることができるだけである。極めて重い場合、たとえば王法の刑罰や、さまざまな病苦などは、救うことができない。それゆえ「仮」と名づける。初地以上の菩薩は、実に慈悲を有し、六道に身を現して、苦しみを抜き、楽を与える。これを「実」と名づける。これが、八つのうちの第七「救済の異なり」である。

言唯佛等者。其四無量通凡聖起。若大悲等四。唯佛能起。即第五依身異。

> 「仏等に言う唯（ただ）とは、その四無量心は凡夫と聖人の双方に起こるものである。しかし、大悲などの四つは、ただ仏のみが起こすことができる。すなわち、第五の依身（による違い）である。」

言依三界者。若大悲等四。通三界起。如乘等。依四無量。多分唯緣欲有情起。即是第三所緣異。

> 「三界に基づくと言うのは、例えば大悲などの四つの心は三界に通じて生じる。例えば乗るなどの行は、四無量心に基づく。その多くは、欲界の有情だけを縁として生じる。これが第三の所縁の違いである。」

言菩薩無癡俱者。四無量菩薩無癡俱。悲大也。由大悲。無嗔癡攝。故自性不可俱也。即八中第一自性異。

> 菩萨に無痴が具わると言うのは、四無量心の菩薩は無痴を具えているということです。悲は大いなるものです。大悲によって、無瞋や無痴に含まれるため、自性として同時に具えることはできません。すなわち、八つのうち第一の自性が異なるということを示しています。

言通假實等者。對上唯實等顯之。大悲以無癡為性。唯識云。彼無癡以慧為性。大悲五力慧力攝。故知大悲無癡為性。

> 「言通假實等者」とは、上の「唯実等」に対応して、その意味を明らかにするものである。大悲は無癡をその本性とする。『唯識論』には、「その無癡は慧を本性とする」とある。大悲は五力の中の慧力に含まれる。したがって、大悲は無癡を本性とすることがわかる。

言列名一法等者。四無礙解。因中分得。佛果滿足。解者智也。菩薩後得智。於此法義詞辨四種境上。通達無有權滯。名為四無礙解也。亦名四無滯智。初二從境立名。後二從心立名也。

> ここに、四無礙解という法が説かれています。これは、修行の途中では部分的に得られますが、仏の果位において完全に満たされるものです。「解」とは智慧のことです。菩薩は、修行の過程で得られる後得智によって、法・義・詞・辯という四つの対象について、滞ることなく深く通達します。これを四無礙解と呼びます。また、四無礙智とも言います。初めの二つ（法と義）は対象に基づいて名付けられ、後の二つ（詞と辯）は心の働きに基づいて名付けられています。

言法謂能詮者。法無礙解。法謂教法。能詮教總持自在。於一名句字中。現一切名句字。故以名句文為體。疏作教字。為正。有本作聲字。非也。尋常出教體。假實合說。聲名句文為體。今對法無礙智所緣境。唯取假法。不取聲。聲是詞無礙中攝。此法無礙智。不緣聲也。

> ここで「法（教え）」とは、教えを表現し伝えるものを指します。「法無礙解（教えに対する自在な理解）」における「法」とは、教法（教えそのもの）を意味します。教えを伝えるもの全体を自在に把握する力であり、一つの名詞・文・文字の中に、あらゆる名詞・文・文字を現じることができるのです。したがって、その本体は名詞・文・文字（言葉のまとまり）にあります。注釈書では「教」の字を用いるのが正しいとされています。ある版本では「聲（声）」の字を用いますが、それは誤りです。通常、教えの本体を説明するときには、仮のものと実在するものを合わせて述べ、声と名詞・文・文字をその本体とします。しかし、ここでは「法無礙解」という智慧が捉える対象について述べているため、仮のものである言葉（名詞・文・文字）のみを取ります。声は取りません。なぜなら、声は「詞無礙解（言葉に対する自在な理解）」の範囲に含まれるからです。この「法無礙解」の智慧は、声そのものを対象としないのです。

言義謂所詮等者。義無礙解。即真俗諦。俗諦之理。所謂有漏。真諦之理。所謂無漏。其中有有為無為。對能詮教。總名義也。一切法但是所詮。皆名義也。俱舍云。緣所詮義。名義無礙解也。

> 「言葉と意味について、つまり「義無礙解」とは、真諦と俗諦を指します。俗諦の理は、いわゆる有漏の世界であり、真諦の理は、いわゆる無漏の世界です。その中には、有為と無為も含まれます。これらは、教えを表す言葉（能詮の教え）に対して、意味づけられるものすべてを総称して「義」と呼びます。あらゆる法（存在）は、言葉で表現される対象であり、すべて「義」と名付けられます。『倶舎論』にも、「意味づけられた対象に基づいて、義無礙解と名付ける」と説かれています。」

言詞謂等者。詞無礙解。謂諸方言音。如來悉知。於一音聲中。現一切音聲。後得智一一皆能了達。名詞無礙解也。

> 言葉や名称などについて：言葉に対する自由自在な理解力（詞無礙解）とは、あらゆる地域の言語や音声を如来がすべて知り尽くしていることです。一つの音声の中に、一切の音声を現し示し、その後の智慧によって一つひとつを完全に理解し通じることができる。これを言葉に対する無礙の解と言います。

言辨才謂等者。辨才無礙解也。辨中謂七辨之中應根巧說法。故是發語。即所起四辨。名辨才。若言無礙解。約能起之智上。方無所拘礙。若言辨才。即約所起四辨七辨。由能觀後得智起。此四七辨無有權滯。智能起智。就所起立名。名辨才也。

> 「言辨才謂等者」とは、辨才とは無礙解（無碍の智慧）のことである。「辨中」とは、七つの辨（七辨）のうち、相手の能力に応じて巧みに説法することを指す。それゆえに、これは言葉を発することであり、ここから生じる四つの辨（四辨）を辨才と名付けるのである。もし「無礙解」と言うならば、それは智慧そのものに基づいて、何の妨げもなく自由自在であることを指す。もし「辨才」と言うならば、これは生じた四辨・七辨に基づいており、後の智（後得智）によって観察して生じるものである。この四辨・七辨には、滞りや妨げが一切ない。智慧はこれらの辨を生じさせる力であり、生じたものに基づいて名付けて、辨才と呼ぶのである。

言有多差別者。如決釋菩薩地說及十地論。總說此四無礙解。初地分得。九地相續。佛位圓滿。菩薩入九地時。得此無礙解。唯識第九云。九地菩薩成就微妙四無礙。能遍十方。善說法故。即是此地菩薩所化眾生數如雲雨。能令爾許所化眾生。一時發問。菩薩一時俱斷眾疑。是也。能任運說法。名善慧地。問四無礙解。依何界地得。答法苑云。四無礙解。皆依第四靜慮。准此。唯依佛說。若通因位說法。一種通二地。五地初禪有尋伺發語言故。二禪已上借尋伺發語言故。亦得名有也。辨才無礙解亦是聲。同詞無礙也。

> 四無礙解について、種々の説き方の違いがある。例えば『菩薩地』と『十地論』の解釈によれば、この四無礙解は総じて次のように説かれる。初地で部分的に得られ、九地で相続し、仏位において円満となる。菩薩が九地に達したとき、この無礙解を得る。 『唯識論』第九巻にはこうある。「九地の菩薩は微妙な四無礙を成就し、十方に遍く善く説法する故に、この地の菩薩が教化する衆生の数は雲や雨の如くである。その多くの衆生が一時に質問しても、菩薩は一時に全ての疑問を断じる」と。すなわち、自在に説法することを「善慧地」と名付けるのである。 問う：四無礙解は、どのような界や地に依って得られるのか。 答える：『法苑義林章』によれば、四無礙解は全て第四静慮に依るという。これに基づけば、仏のみに依るとも言える。もし因位の説法にも通じるとするならば、そのうちの一種は二つの地に通じる。すなわち、五地では初禅に尋・伺があり語言を発することができるが、二禅以上では尋・伺を借りて語言を発するので、これも説法を得ると名付けることができるのである。また、弁才無礙解は「声」でもあり、詞無礙解と同じである。

言義無礙解者。若真如名義。約緣而說。唯第四禪。若所證理名義。即通一切地。何法不是所詮故也。第八地菩薩自利行任運精修。若於利他行。功用猶劣。說法之時。假乎尋伺。第九第十地菩薩。發語言語說法。依正思惟。又不假尋伺。

> 言義無礙解とは、真如という名と義について、因縁に基づいて説くならば、第四禅のみに限られる。もし所証の理を名と義とするならば、あらゆる境地に通じる。どの法も所詮の対象ではないものはないからである。第八地の菩薩は、自利の行を任運に精進して修める。しかし利他の行については、その功用がまだ劣っている。説法の際には、尋伺に依るのである。第九地と第十地の菩薩は、言葉を発して説法し、正思惟に依って、また尋伺に依ることはない。

言出體者。此四等者。何故多取無漏後得智為體。若疏言非證真如故。問總合是後得智。如何言多以。答次下疏言義無礙亦通正智。以真如理。亦通正智。緣。故言多以。三全一少分。是後得智為體。一少分。是根本正智為體。名多。

> ここで「体」と言うのは、この四種（法無礙・義無礙・辞無礙・楽説無礙）のことである。なぜ多く無漏の後得智を体とするのか。もし疏（注釈書）に「真如を証するのではないから」とあるなら、問う：総合すればこれは後得智であるのに、どうして「多く」と言うのか。答え：後の疏に「義無礙は正智にも通ずる。真如の理は正智の縁にも通ずるからである」とある。ゆえに「多く」と言うのである。三つは全てで、一つは一部分が後得智を体とし、一部分は根本正智を体とする。これを「多」と名づけるのである。

言初地分得九地任運等者。問九地菩薩離障圓成。與佛果四智菩提圓滿何別。答言九地離障圓成者。初八地說。非對佛位也。問無礙解與辨才何別。答自悟邊名解。利他邊名辨。問佛菩薩何別。答七地已前。依初定。有尋伺。起語言。八地已上。依第四禪。無礙伺也。

> ここで「初地において九地の分を分かち得て、任運に等しくなる」ということについて述べる。 問う：九地の菩薩は障りを離れて円かに成し遂げるが、仏果の四智菩提の円満とは何が違うのか。 答える：九地において障りを離れて円かに成し遂げるというのは、初地から八地までのことを言うのであって、仏の位を指すのではない。 問う：無礙解と辨才の違いは何か。 答える：自ら悟る側面を「解」と言い、他を利益する側面を「辨」と言う。 問う：仏と菩薩の違いは何か。 答える：七地より前は、初禅に依って尋と伺があり、言葉を発することができる。八地以上は、第四禅に依って、無礙の伺がある。

言處非處。處非處所知之境。智力是能知之智。

> ここに示すのは、仏の十力のうち第一の「処非処智力」についての説明である。 「処」とは道理にかなったこと、「非処」とは道理に反することを意味する。仏はこの「道理にかなうこと」と「道理に反すること」を、すべて正しく知っておられる。その智慧が「処非処智力」である。

言自業智力者。瑜伽等文。唯舉其因。不談其果。名自業力。

> 「自業智力」とは、『瑜伽師地論』などの経典では、ただその因のみを挙げて、その果については述べていない。これを「自業力」と名づけるのである。

言異熟者。般若經中因果雙舉。業者因也。果熟果也。

> 「異熟」と言うのは、『般若経』の中で因と果の両方を挙げていることです。業（ごう）とは因であり、その果が熟したものが果（報い）なのです。

言靜慮解脫者。金云。定有四種。一順退定。謂未淨定。二順住定。謂淨淨定。三順勝進定。謂忻上定。四順決擇定。謂將入見道。餘力准知。世尊於此十種境上。善能了知。故名智力。

> 静慮解脱について、金剛は次のように説く。定には四種類がある。第一に順退定、すなわち未だ清らかでない定。第二に順住定、すなわち清らかで清らかな定。第三に順勝進定、すなわちより高みを喜ぶ定。第四に順決擇定、すなわち見道に入ろうとする定。その他の力については、これに準じて知るべきである。世尊はこの十種の境涯について、よく知り尽くしておられる。それゆえに智力と名づけるのである。

言總名力等者。如來身上二種。一身力中最強。是那羅延力。佛身節節之中。皆有那羅延力。俱舍說。那羅延節節皆然。象等七十增此觸處為性。凡象香象摩諾健那鉢羅蜜健提伐浪迦遮恕羅那羅延。今不說身力。但智力不被他人屈伏。故名力也。世間人力雖能摧他人。還被他人屈伏。曹併雖然壯。還被管萬迪撲。法中論。約於菩薩時。金剛喻定斷極微細礙著等障。至解脫道中。頓得此十力。後起定。唯如來有。二乘無故。小乘唯云十力四無所畏。三念住大悲。名不共法也。菩薩名近。十力亦未得。唯佛有得也。然力有二種。一身力。二心力。今取心力。心力即智。如來具二能。名能摧怨歒。約所破得名。不可屈伏。約能破立名。所破四魔。能破即談力自體。

> 総じて「力」などと名づけるのは、如来の身には二種あるからです。第一に身力（身体的な力）で、最も強いのは那羅延（ナラヤナ）の力です。仏の身体の各節々にも、すべて那羅延の力が備わっています。『俱舎論』には、那羅延の力は各関節に等しく備わると説かれています。象なども七十倍に増して、この触処（感触の対象）を体性とします。すなわち、凡象・香象・摩諾健那・鉢羅蜜健提・伐浪迦・遮恕羅・那羅延と段階を経て強くなります。今ここでは身力を説かず、ただ智慧の力について述べます。この智慧の力は、他の者に屈伏させられることがないので、「力」と名づけるのです。世間の人の力は、確かに他人を打ち負かすことができても、また他人に屈伏させられるものです。たとえ力が強く壮んであっても、やはり他人に打ち負かされることがあります。法の中（仏法の教え）について論じると、菩薩の時代には、金剛のような定（金剛喻定）によって、極めて微細な障りや執着などの障害を断ち尽くします。そして解脱の道（解脫道）に至って、この十力を一時に獲得するのです。その後、定を起こすとき、この十力は如来だけにあり、声聞・縁覚の二乗にはないのです。小乗の教えでは、ただ十力と四無所畏、三念住、大悲だけを「不共法」（仏だけが持つ独自の性質）と説きます。菩薩は「近い」と名づけられますが、十力はまだ獲得しておらず、ただ仏だけがこの力を得ているのです。しかし力には二種あります。第一に身力（身体の力）、第二に心力（心の力）です。今ここでは心力を取ります。心力とはすなわち智慧のことです。如来はこの二つの力を具えているので、「怨敵を打ち破る者」と名づけられます。これは破られる対象（所破）に基づいて名づけられたものです。「屈伏させられない」というのは、破る側の働き（能破）に基づいて立てられた名前です。破られる対象は四魔（煩惱魔・蘊魔・死魔・天魔）であり、破る働きについては、その力の自体を論じるのです。

言與一切種利樂等者。解經意也。一切種後得智也。有二義。名一切種。一切如來後得智。是一能知一切法。約功能。名一切種也。二云。所緣境上。萬類差別。種類眾多。從境立名。一切種。即是後得智上。利他作用功能。慧是體。功能是用。用與體相應。他性相應。非自性也。

> 「一切種の利楽等と言うのは、経の意を解釈したものである。一切種とは後得智のことである。二つの意味がある。一切種と名付けるのは、一切の如来の後得智は、すべての法を知ることができるという、その働きに基づいて、一切種と名付けるのである。第二に、所縁の境の上には、万類の差別があり、種類が多く存在する。境に基づいて名を立てて、一切種とするのである。すなわち、後得智の上にある、利他の作用・機能のことを指す。慧は体であり、機能は用である。用は体と相応する。他性と相応するのであって、自性と相応するのではない。」

言畢竟勝伏等者。引論文也。畢竟者。即究竟也。糅云。簡外道。外道雖暫能伏他。不能長時。有萎歇故。不得畢竟。不名力也。如慶喜。被六萬億魔嬈。被如來勅文殊以呪力取之也。即是不能長時伏也。今如來伏一切天魔等。但利益他。無勝負心。能長時畢伏。問如何如來有怨。答魔自於如來起怨。非如來有怨也。勝伏者。不可屈伏義。伏者。能摧怨歒義也。故以威勢等。疏主解也。

> 「言畢竟勝伏等とは、論文を引くところなり。畢竟とは、すなわち究竟なり。糅に云わく、外道を簡ぶ。外道は、暫くは能く他を伏すと雖も、長時には能わず、萎歇することあるが故に、畢竟を得ず、力を名とせず。慶喜（阿難）が六萬億の魔に嬢わされ、如來の勅により文殊が呪力をもって之を取りしが如きは、すなわち長時に伏すること能わざるなり。今、如來は一切の天魔等を伏するも、ただ他を利益するのみにして、勝負の心なし。能く長時に畢く伏するなり。問う、如何にして如來に怨ありや。答う、魔が自ら如來に於いて怨を起すのみにして、如來に怨あるには非ず。勝伏とは、屈伏せしめらるべからざる義なり。伏とは、能く怨敵を摧く義なり。故に威勢をもって等とすとは、疏主の解なり。」

言對法云等者。緣菩薩藏經顯揭。與瑜伽文同。此前一處引對法文。別所以再引也。善記問論者。有人徵問。所問之論。名問論。如來言解釋。名善記。記者。分別解釋義。即四記。四記唯約分段生死上說。且善降即難摧。善記即難屈。所問有四。一者一向記。如有問言。生者皆有死耶。三寶是良福耶。此義決定。一向記言。生者皆死。三寶真良福田。二分別記。如有問。死以更生耶。引不。則須分別。有煩惱者。死已更生。無煩惱者。更不復生。凡夫有學有煩惱因緣即生。如無學等。無此因緣。即不生。若凡夫外道不善了達。作生死問。應如是答。三反詰記。如有問言。人勝耶劣耶。則須返詰。汝對於何。若對天人。即為劣。若對於畜。人則為勝。十地菩薩相望亦爾。四默置記者。如有問言。龜毛為青黃為赤白。兔角為曲為直。即須默置記。默然莫對。龜毛本無。何得論其青黃赤白。若答者。應長戲論。終無有盡。故言善降等。

> 「言對法云等者」とは、菩薩蔵経に説かれていることを顕かにするもので、瑜伽論の文と同じである。ここで前に一処の対法の文を引用したが、別に再び引用するのはそのためである。「善記問論者」とは、ある人が問いを発することをいう。その問われる論を「問論」と名づけ、如来がその言を解釈することを「善記」と名づける。「記」とは、物事を分別して解釈するという意味であり、すなわち四種の記のことである。この四記は、もっぱら分段生死について説かれたものである。しかも「善降」とは破られ難いことをいい、「善記」とは屈し難いことをいう。問われることには四つある。 一つ目は「一向記」（一方的に答えられる問い）である。例えば「生あるものは皆死するのか」「三宝は良き福田であるか」という問いのようなものである。この意味は決定しているので、一方的に「生あるものは皆死する。三宝は真実の良き福田である」と答える。 二つ目は「分別記」（分別して答えられる問い）である。例えば「死んだ後、再び生まれるのか、生まれないのか」という問いのようなものである。これは分別して答えなければならない。煩悩がある者は、死んだ後にまた生まれる。煩悩がない者は、再び生まれることはないのである。凡夫や有学は煩悩という因縁があるので生まれるのであり、無学などのようにこの因縁がない者は生まれないのである。もし凡夫や外道が不善のために生死についての問いを発したなら、このように答えるべきである。 三つ目は「反詰記」（問い返して答えられる問い）である。例えば「人間は勝れているのか、劣っているのか」という問いのようなものである。これは問い返さなければならない。「あなたは何に対して言うのか。」もし天人に対してならば、人間は劣っている。もし畜生に対してならば、人間は勝れているのである。十地の菩薩が互いに向かい合う場合も、またこのようである。 四つ目は「黙置記」（黙って答えを置く問い）である。例えば「亀の毛は青いのか黄なのか、赤いのか白いのか」「兎の角は曲がっているのか真っ直ぐなのか」という問いのようなものである。これは黙って答えを置くべきである。黙って対（こた）えないのである。亀の毛はもともとないものであるから、どうしてその青黄赤白を論じることができようか。もし答えるならば、ただ長い論義（戯論）を増すだけで、ついには尽きることがないであろう。このゆえに「善降」などというのである。

言力用不同者。即是智體是一。所對不同。隨分十種。帶數釋也。辨云。十即是力。持業帶數二釋也。

> ここで言う「言力用不同（言葉・力・働きがそれぞれ異なる）」とは、つまり智慧の本体は一つであるが、対象が異なることによって、その働きに応じて十の種類に分かれることを指す。これは「帯数釈（数を帯びた解釈）」である。 これについて論じるならば、十とはすなわち力であるから、「持業釈（体と作用が同じであるという解釈）」と「帯数釈（数を帯びた解釈）」の二つの解釈が成り立つ。

言因果相當等者。路云。處是道理義。非處是非道理義。因感善果。是因果相當。是道理義。名處也。若如外道。說持齋得飢餓報。此即因果不相當。非道理義故。名為非處。又云。處者因義。即是惡因。與惡果為因。名因果相當也。若因果不相當。名非處。外道有三。一無因。謂自然而生。即烏不染而自黑。獸不畵而自班。二惡因。簡要云。外道計苦因生樂果。樂因生苦果。世尊責云。愚癡外道。豈有放逸受樂。而招樂果耶。三不平等因者。一因感多果。如大自在天。能生一切。佛法責之。如何一因之上。能生多果。故名不平等。

> 「因果が相当する」とは何か。路という註釈書にはこうある。「『處』は道理という意味である。『非處』は道理ではないという意味である。因が善果を感ずる。これが因果が相当するのであり、道理という意味である。これを『處』と名づける。もし外道のように、斎（奉斎）を行えば飢餓の報いを得るというなら、これは因果が相当しない。道理ではないから、『非處』と名づけるのである」。また、次のようにも言う。「『處』とは因という意味である。すなわち悪因が悪果の因となることを、因果が相当すると名づける。もし因果が相当しなければ、非處と名づけるのである」。 外道には三つの立場がある。第一に「無因」である。すなわち自然に生じるという考え方で、烏は染めなくても自ら黒く、獣は描かなくても自ら斑があるというようなものである。第二に「悪因」である。『簡要』という註釈書にはこうある。「外道は、苦因が楽果を生じ、楽因が苦果を生じると計る。世尊はこれを責めて言われた。『愚かな外道よ。放逸に楽しみを受けて、どうして楽果を招くことがありえようか』」と。第三に「不平等因」である。ひとつの因が多くの果を感ずるという考え方で、例えば大自在天が一切を生じることができるというようなものである。仏法ではこれを責めて、「どうしてひとつの因の上に、多くの果を生じることができようか。だから不平等というのである」と言う。

言瑜伽云淨不等者。淨因感淨果。染因感染果。非不平。意道平等善惡二因。感善惡二果。不同外道煞牛祠天。行不善因。望得生天善果。皆是因果不相當。即是不平等。

> 瑜伽論で説く「浄と不浄は等しからず」とは、清らかな因は清らかな果を感じ、汚れた因は汚れた果を感じることを意味する。決して不均衡なのではない。その意図は、善と悪の二つの因がそれぞれ善と悪の果を感ずるという平等を説くことにある。外道が牛を殺して天を祭り、不善の因を行いながら天上に生まれる善果を得ようとするのとは異なる。それらはすべて因果が相応しくなく、すなわち不平等なのである。

言如實轉因者。疏主解也。有疏云。如轉變因者。攝云。筆誤也。淄州云。近檢論文。如轉變。為正。大論三十九云。非不平等。如實轉因者。遠離一切增上慢。智說名如實。不同外道冥性為因。是不實。佛法依處道理。名如實轉因。如者稱順義。實者真實轉起也。此因與當來為如實生起之因。名如實轉因也。

> 「如實轉因」について、疏主はこのように解釈している。ある疏には「如轉變因」とあり、摂の説では「これは筆の誤りである」とされている。淄州の説では「最近論文を調べたところ、『如轉變』が正しい」とある。大論の三十九巻には「不平等にあらず。如實轉因とは、あらゆる増上慢を遠離した智慧を『如實』と名づける。外道の冥性を因とする説とは異なり、それは真実ではない。仏法は道理に依拠するゆえに、これを『如實轉因』と名づける」とある。 「如」とは「よくなう」という意味であり、「實」とは「真実に転起する」ことである。この因は未来に対して如實に生起する因となることから、「如實轉因」と名づけるのである。

言處者建立等者。問何名為處。答三義解處。疏言建立義。二依義。三起義。

> ここで「処」とは何か。答えていこう。「処」には三つの意味がある。第一に「建立（確立する）」という意味、第二に「依（よりどころとなる）」という意味、第三に「起（生じる）」という意味である。

言能建立果者。解前建立義。

> 「果を建立すると言うのは、前に述べた建立の意味を解釈するものである。」

言為依能起等者。為依兩字。解前依義。起字解前起義也。問何名處義。答處者建立義也。為因能建立果。果為所建立。故名為處。二者依義。因為所依。果為能依。名言種子生五薀現行。名依所也。善惡因招無記果名處。三處者起義。因能起果。果為所起。故名為處也。

> 「言為依能起等者」というのは、「為依」の二文字が先ほどの「依」の意味を解釈し、「起」の字が先ほどの「起」の意味を解釈するものです。 問う：「処」の意味は何か。 答え：「処」とは「建立」の意味です。原因となるものが結果を築き上げ、結果が築き上げられるものとなる。だから「処」と呼ぶのです。 二つ目は「依」の意味です。原因がよりどころとなり、結果がよりどるものとなります。名前や言葉の種子が五蘊の現れを生み出すことを「依」と呼びます。善悪の行いが無記の結果を招くことを「処」と呼びます。 三つ目に「処」は「起」の意味です。原因が結果を起こし、結果が起こされるものとなる。だから「処」と呼ぶのです。

言不平等因與上者。佛法善因感善果。外道善因感惡果。一陪相達。今瑜伽說。處者因義。破外道不平等因。無性論云。處者所以義。有所容受義。若無所以。若無容受。說名非處。雙破無因惡因。合斯二論。義方周足上解處非處了。

> 不平等な因について、上の者に言及する。仏法では善因は善果を感じ、外道では善因は悪果を感じる。これは全く相反する。今、瑜伽（ゆが）では「処」は因の義と説く。外道の不平等因を破るためである。無性論には「処」は所以の義、有所容受の義とある。もし所以なく、容受なければ、これを非処と名づける。無因と悪因の両方を破るのである。この二つの論を合わせて、その義はようやく十分となる。<note>上の解釈、処非処は了（おわ）る。</note>

言於此二種等者。解智義。即處非處。名二種也。一切智者。問此明後得智。何故引根本智。答智是能知。汎解一切智是根本智。一切種智是後得智。今此四種並是後得。後得智體唯是一。以作用不同。故說為四。簡要云。即得後智也。不同尋常解根本智名一切也。此中說後得智名一切者。能遍知一切法。緣一切境。故名一切。一切者。章敬云。有四義。一者。緣一切界。二者。緣一切事。三者。緣一切品。四者。緣一切時。於此四境。無礙而轉。名一切智。一切界中有二。一器。二有情。一切事中有二種差別。一者有為。二者無為。一切品中有五種。一自相差別。二共相差別。三因果差別。四界趣差別。五三性差別。時有三時。一過去。二未來。三現在。即於如是一切界一切事一切品一切時。如實而知。故名一切智也。

> ここでいう「二種」とは、「智」の意味を解釈したもので、すなわち「処」と「非処」の二種を指す。「一切智」について、問う：ここで明かしているのは後得智なのに、なぜ根本智を引いて説明するのか。答える：智とは知る能力のことである。広く解釈すれば、一切智は根本智であり、一切種智は後得智である。今、ここで説く四種はすべて後得智である。後得智の本体はただ一つであるが、その働きが異なるため、四種と説くのである。「簡要」にはこうある：すなわち後得智を得ることを指す。通常の解釈のように根本智を一切と名付けるのとは異なる。ここで後得智を一切と名付けるのは、すべての法を遍く知り、すべての境に対して縁じるからである。ゆえに「一切」と名付けるのである。「一切」について、「章敬」にはこうある：四つの意味がある。一つ目は、すべての界に縁じる。二つ目は、すべての事に縁じる。三つ目は、すべての品に縁じる。四つ目は、すべての時に縁じる。この四つの境において、妨げられることなく働くことを「一切智」と名付ける。すべての界には二種ある。一つは器（物質的な世界）、二つ目は有情（生きとし生けるもの）である。すべての事には二種の区別がある。一つは有為（因縁によって作られたもの）、二つ目は無為（作られていないもの）である。すべての品には五種ある。一つ目は自相（個々の特性）の区別、二つ目は共相（共通の特性）の区別、三つ目は因果の区別、四つ目は界と趣（生存の領域）の区別、五つ目は三性（善・悪・無記）の区別である。時には三時ある。一つは過去、二つ目は未来、三つ目は現在である。すなわち、このようにすべての界、すべての事、すべての品、すべての時を、あるがままに知ることを「一切智」と名付けるのである。

言無滯智者。暫時依意。遍於一切。無礙速疾。名無滯智也。簡要云。不被外道問難屈辱故。

> 智に滞りなき者とは、しばらくの間、心に委ねて、あらゆるものに滞りなく速やかに至ることを、智に滞りなしと名づける。簡要に言えば、外道の問い詰めや難問によって辱めを受けることがないからである。

言清淨智者。一切煩惱及智氣畢竟永斷。故清智。二乘世俗是有漏。不名清淨。今佛智世俗是無漏無愛恚。名為清淨。

> 智慧が清らかであるとは、すべての煩悩と智慧のもつ微細な曇りが完全に断ち切られているからです。声聞や縁覚の智慧は、世俗的なもので煩悩が残っているため、清らかとは言えません。一方、仏の智慧は世俗的なものであっても、煩悩や執着のない清らかなものです。

言離增上慢等者。不同外道未得謂得。佛證得福智圓滿。具一切智。名離增上慢。離少得謂多得也。

> 「増上慢を離れる」とは、外道のように得ていないのに得たと思うのとは異なる。仏は福と知恵が円満に具わり、一切智を証得しているから、「増上慢を離れる」と言う。少ししか得ていないのに、多くを得たと思うことを離れているのである。

言力義如前者。前十智是體。此四个智。是向上義。如來以此後得三智。能知前二。處非處名智力。

> 先の説明と同じく、十種の智はすべて智慧の本体である。この四つの智は、さらに高みへ向かうための智慧である。如来は、この後得の三智によって、先の二種の智を知ることができる。「処・非処」とは、物事が道理にかなっているか否かを知る智慧の力である。

言各自所作等者。自業智力於自所作。自受果報。如實了知。及布施福移轉。不作而得。言施福移轉者。諸外道言。今生布施。來生受貧窮果。今生竊盜。來世富貴果。持齋餓鬼果。煞馬祠天。感生天長命果。乃至行苦因得樂果。行樂因得苦報。如有人禮菩提樹及以布施。有人不去。即用金錢買取不得。種種爭論。今說業力。降伏此等垢。知諸業自受。問佛法之中。子孫設齋為亡人。豈非此人造福他人受果。答地獄中有白幡現。亦事須得亡人自發心始得。若不如此。十方世界菩薩修行無限。个个總願。願一切眾生。總如我身一切成佛。若許他人造業此人受。即事凡夫。總合成佛了。我輩凡夫既不免生死。故須自作自受。故言各自所作也。

> 「各自所作等者」とは、自分の行いに関する業（カルマ）の智力を、自分がしたことに対して、自分がその報いを受けることを、ありのままに知るということです。また、布施の功徳が他者に移り変わることや、行いがなくても得られることについても述べています。 「布施の功徳が移る」とは、外道（仏教以外の教え）の人々が言うことですが、彼らは「この世で布施をしても、来世では貧しい報いを受ける」「この世で盗みをしても、来世では富貴な報いを受ける」「斎（精進潔斎）を守ると餓鬼の報いを受ける」「馬を殺して天を祭ると、長生きして天に生まれる報いを得る」などと言います。また、「苦しい因（原因）を修行して楽しい果（結果）を得る」「楽しい因を修行して苦しい報いを得る」とも言います。 例えば、ある人が菩提樹を礼拝し、布施をしようとします。しかし、別の人がそれを妨げ、金銭を払ってその機会を買い取ろうとしますが、得ることができません。このように、さまざまな争いがあるのです。 ここで仏教は「業の力」を説き、このような汚れ（誤った見解）を打ち破ります。そして、すべての業は自分自身がその報いを受けるのだと知らせます。 問い：「仏法の中で、子孫が亡くなった人のために斎（供養）を行うのは、その人が功徳を積んで、他の人がその報いを受けることになるのではないですか？」 答え：「地獄の中に白い幡（のぼり）が現れることがありますが、これも亡くなった人自身が心を起こさなければ得られません。もしそうでなければ、十方世界の菩薩たちの修行は限りがなく、それぞれが『すべての衆生が、私と同じようにすべて成仏しますように』と願っています。もし他人の行いによって、その人が報いを受けるというなら、凡夫（迷いの者）たちは皆、まとめて成仏することになるでしょう。しかし、私たち凡夫は生死を免れることができません。だからこそ、自ら行い、自ら報いを受ける必要があるのです。ゆえに『各自所作』と言うのです。」

言三世者。過去未來現在。三業者。或福業非福業不動業。或即順現順生順後業。業能順果。果是所順果。業是能順名自業。業有三。一非福。三塗。二福業。四洲六欲天。三不動業。色無色。非福三品。上品地獄。中品餓鬼。下品畜生。福業二品。下品四洲。上品六欲天。不動二品。下品色界。上品無色界。或身業語業意業。或順現受業。現世造業。現世受報。名順現受。或第一生造業。第二生受。名順生受。今生或造業。第三生已去受。名順後。若不定業者。有三種。有時定報不定。時不定報。俱不定。如來後得智。一一皆知。眾生身中。自作業自受報。從因為名。名自業智力也。

> ここで「三世」と言うのは、過去・未来・現在のことである。「三業」とは、福業・非福業・不動業の三つを指す。あるいは、現世で果報を受ける業・次の生で果報を受ける業・それ以降の生で果報を受ける業のことでもある。 業は果報を引き起こすものであり、果報は業によってもたらされる結果である。業がその結果をもたらすので、「自業」と呼ばれる。 業には三種類ある。 第一に非福業（不善の業）があり、これは三悪道（地獄・餓鬼・畜生）に報いをもたらす。 第二に福業（善の業）があり、これは四つの大陸（人間界）と六つの欲界天に報いをもたらす。 第三に不動業（禅定による業）があり、これは色界と無色界に報いをもたらす。 非福業には三つの段階がある。上品は地獄、中品は餓鬼、下品は畜生である。 福業には二つの段階がある。下品は四つの大陸（人間界）、上品は六つの欲界天である。 不動業にも二つの段階がある。下品は色界、上品は無色界である。 また、業は身業（体の行い）・語業（言葉の行い）・意業（心の行い）の三つに分けられる。 さらに、果報を受ける時期によっても分類される。 現世で造った業を現世で受けるものを「順現受」という。 第一の生で造った業を第二の生で受けるものを「順生受」という。 今の生で造った業を第三の生以降に受けるものを「順後受」という。 定まらない業（不定業）には三種類ある。 「時の定まった報い」であり「報いの時は定まっているが内容は定まらない」もの、 「時は定まらないが報いは定まる」もの、 「時も報いも定まらない」ものである。 如来は後の得られた智（後の得智）によって、これらすべてを一つ一つ完全に知っておられる。 衆生の身の内には、自らが造った業があり、自らがその報いを受けるのである。 その原因に基づいて名付けられ、「自業智力」と呼ばれるのである。

言於此善惡業異熟等者。章敬云。指般若經業異熟智力。因果雙舉也。問此自作業。自受果。與處非處何別。答前處非處。遮他無因惡因及不平等因。無自然樂因得樂。如數證計冥性。梵王帝釋等。此業異熟。約自作還自受也。問前後二解憑何教說。答曰。若作集論等。但能招彼順現受等三業。名為自業。若依般若經。名業異熟智力。前能知業。此據能知業所感果。故別也。

> ここで、善悪の業（ごう）と異熟（いじゅく）について述べる。章敬（しょうきょう）は言う、「般若経にいう業異熟智力（ごういじゅくちりょく）を指す。因果の両方を挙げているのである」と。 問う——「自分で業をつくり、自分で果を受けているのに、処非処（しょひしょ）とどう違うのか」。 答える——「先の処非処は、他による無因・悪因・不平等因を遮り、自然に楽の因があって楽を得るということを否定するものである。例えば数論（すろん）の計（はか）りのように、冥性（みょうしょう）や梵王（ぼんのう）・帝釈（たいしゃく）などを立てる類である。この業異熟は、自分でつくり、自分で受けるということを説くものである」。 問う——「前後の二つの解釈は、どのような教説に基づくのか」。 答える——「もし『大乗阿毘達磨集論』などによれば、ただ順現受（じゅんげんじゅ）などの三業を招くものを自業と名づける。もし般若経によれば、業異熟智力と名づける。先のものは業を知ることができ、後のものは業によって感ずる果を知ることができる。ゆえに異なるのである」。

言亦名業異熟智者。業異熟屬眾生。智力屬佛也。

> 「言亦名業異熟智者」とは、ある教えではこれを「業異熟智」とも呼ぶ。業異熟は衆生に属するものであり、智の力は仏に属するものである。

言四靜慮解脫等者。由定寂靜。能審慮故。慮體是慧。定有靜用。能生慧慮。故名靜慮。有四解。一奢摩他。云等持。通定散。但專注不散者。皆此攝也。惛沉掉舉。是不平等。由所加行。折伏惛沉掉舉。平等持心。於一境轉。名等持也。二等至。簡要云。三摩䟦提。此云等至。通有心無心。唯定非散。此有二。一在定位之心。安和適悅。名之為等。此由前定力。引彼身心。至此安和平等之位。名為至。二解云。等謂平等。惛沉掉舉。名不平等。由前加行。折却惛沉掉舉品。此加行之心。便是平等品。此心等引。至安和分位。等能引至。此名為等至也。

> 四静慮・解脱などについて、ここに「静慮」と名付けるのは、禅定の寂静なる働きによって、よく審らかに慮る（考える）ことができるからである。慮るという本体は智慧であり、禅定には静かに保つ働きがあって、智慧という慮りを生じさせる。それゆえ「静慮」と名付けるのである。 これには四種の解釈がある。 第一に「奢摩他（しゃまた）」、すなわち「等持（とうじ）」と訳される。これは禅定にも散心にも通じるもので、ただ心を一つの対象に集中して散らさないものであれば、すべてこれに含まれる。昏沈（こんちん・心の沈み）や掉挙（じょうこ・心の浮き立ち）は、心の不平等な状態である。修行の実践によって、この昏沈と掉挙を抑え伏し、心を平等に保ち、一つの境涯の上に働かせること、これを「等持」と名付ける。 第二に「等至（とうし）」、簡潔に言えば「三摩䟦提（さんまばつだい）」、これを「等至」と訳す。これは有心・無心の両方に通じ、禅定のみを指し散心にはない。これには二つの解釈がある。一つは、禅定の中にある心が安らかで和やかであり、快く適っていること、これを「等」と名付ける。これは先の禅定の力によって、その身心を導き、この安和平等の境地に至らしめるので、「至」と名付けるのである。第二の解釈は、「等」とは平等のことであり、昏沈と掉挙を「不平等」と名付ける。先の修行の実践によって、昏沈と掉挙の類を退け抑える。この修行の心そのものが、すでに平等の類である。この心が平等に導かれ、安和の位に至る。平等が（心を）導き至らしめるので、これを「等至」と名付けるのである。

言此等諸定通滿等者。有漏定通雜染清淨。無漏定唯清淨。若但言染。唯愛味。不通淨定。若言雜染。即通有漏淨定。兼愛味定也。若細分別。染中有二。一障礙雜染。為求靜慮加行時。無方便故。及諸蓋間雜生故。二自地雜染。雖離下染欲得上定。仍為自地纏隨眠縛。不得清淨。有四番。二淨二染。二淨者。一善方便。二善清淨。二染者。一離現纏。二離隨眠。故成四。此一節疏文。會般若經中智與瑜伽論名自不同。意說如來於此諸定差別。佛皆能知也。

> ここでいう「これらの諸定が通満する」とは、有漏の定と通とは雑染と清浄の両方を含み、無漏の定は清浄のみであることを意味する。ただ「染」という場合には、愛味だけを指し、清浄な定を含まない。「雑染」という場合には、有漏の清浄な定と愛味の定の両方を含むのである。さらに詳しく分別すると、染には二つの種類がある。第一は障礙雑染で、静慮を求めて加行を行う時に、方便がないため、および諸々の蓋が間雑して生じるためである。第二は自地雑染で、下地の染を離れて上地の定を得ようとしても、なお自地の纏と随眠に縛られて、清浄を得られないことである。四番あり、二浄と二染である。二浄とは、第一は善方便、第二は善清浄である。二染とは、第一は現纏を離れること、第二は随眠を離れることである。故に四番となる。この一節の疏の文は、般若経の中の智と瑜伽論の名が互いに同じでないことを会通するものである。意図するところは、如来がこれらの諸定の差別を、すべて知ることができるということである。

言根者信等者。根勝劣智力也。根者生長義。故說名根。根即信進念定慧五根也。簡要云。此顯信等五根有上下勝劣。上者名勝。下者名劣。佛於勝劣二根中。皆能知故。名根勝智力也。然此五根道漏無漏。有上中耎。菩薩五根為上。緣覺五根為中。聲聞五根名下。中下二根合處說。名劣。上者獨勝。即菩薩也。此上三乘通論勝劣二品也。疏中意。三乘各各有自耎中上。耎者劣即下也。初聞教名耎。次修行行名中。後成熟果上。此解總非正也。但是一人身中。有信等五根。便自然有上者。有中者。有下者。中下名劣。上品名勝也。

> 「言根者」とは、信（信仰）などを指します。これは、仏が衆生の根機（能力・素質）の優れたものと劣ったものを見抜く智慧のことです。「根」には「生長（成長・発展）」という意味があります。だから「根」と名付けられています。根とは、すなわち信・精進・念・定・慧の五根のことです。 『簡要』にはこうあります。「これは、信などの五根に、上・下、優・劣の違いがあることを示す。上のものを『勝』と呼び、下のものを『劣』と呼ぶ。仏は、優れた根と劣った根の両方を見通して知ることができる。だから『根勝智力』と呼ぶのである」 さて、この五根には、煩悩を断つ修行（有漏）と、すでに煩悩を離れた境地（無漏）の違いがあり、また上・中・下（柔）の段階があります。菩薩の五根が最上のものであり、縁覚の五根が中のものであり、声聞の五根が下のものです。中と下の二つの根を合わせて「劣」と呼びます。上のものだけが特に優れており、それが菩薩です。 以上のように、三乗（声聞・縁覚・菩薩）を通して、勝と劣の二つの品目について論じたのです。 疏（注釈書）の意図としては、三乗のそれぞれに、自分自身の柔（下）・中・上（優）の段階があると説きます。柔（下）は劣、すなわち下位を指します。初めて教えを聞く段階を「柔」と呼び、次に修行を積む段階を「中」と呼び、最後に果報が成熟した段階を「上」と呼ぶのです。しかし、この解釈は必ずしも正しいとは言えません。 実際には、一人の人間の中にも、信などの五根が備わっていれば、自然と上のものもあれば、中のものも、下のものもあるのです。中と下を「劣」と呼び、上のものを「勝」と呼ぶのです。

言若從他等者。問一種是信等五根。如何則有上中下差別。答疏云若從等。若論根勝劣智。文已結了。即合屬他後文。若准疏勢。屬根勝劣智力。為正。雖前結了。但是結標文。此段疏結釋文。若從他以為其先者。名隨信行人。是鈍根是劣。身中有三乘種姓。不能覺。事須假他人教示方生信心。信從他人起。名隨信行中等。或觀諸法。以為先者。即是隨法行人。利根人也。先觀察而自起信心。不假善知識。名利根人。問此中為但取信等五根。兼通餘根耶。答攝云。此約入見道。且說信等五根。若通說生死。可兼二十二根。信等五根體是善故。名別有體。簡前八根。唯是無記。意與五受。通三性簡。三無漏體同一慧故。故於二十二根。唯說爾許。非不知餘。

> 問う：「他の教えに従う」と言うが、同じ信・精進・念・定・慧の五根なのに、なぜ上・中・下の差別があるのか。 答え：疏（注釈書）に「他に従う等」とある。もし根の勝劣・智慧の力について論じるなら、その文はすでに結び終えているので、後ろの文章に属するのが適切である。疏の流れに従えば、「根の勝劣・智慧の力」に属するのが正しい。前に結んだとはいえ、それは標目を結んだに過ぎず、この段の疏は釈（説明）の文を結んでいる。 もし他に従うことを先に立てるならば、これを「随信行の人」と名づける。これは鈍根であり、劣った人である。その身の中に三乗の種姓を持っているが、それを自覚できない。必ず他人の教え示しを借りて初めて信心が生じる。信が他人から起こるので、「随信行」と名づける<note>中くらい</note>。 あるいは諸法を観察することを先に立てるならば、これはすなわち「随法行の人」であり、利根の人である。先に観察して自ら信心を起こすので、善知識（良き師）を借りる必要がない。これを利根の人と名づける。 問う：ここでは信等の五根だけを取るのか、それとも他の根も兼ねるのか。 答え：摂（要約）にはこうある。これは見道に入ることに約して、ひとまず信等の五根を説いている。もし生死を広く通じて説くならば、二十二根を兼ねることもできる。信等の五根はその体が善であるから、別に体があると名づける。前の八根を簡別すれば、ただ無記であるだけ。意と五受（苦・楽・憂・喜・捨）とは三性に通じることを簡別する。三つの無漏根はその体が同じ智慧である。ゆえに二十二根の中で、ただこれだけを説くのである。他の根を知らないからではない。

言愛樂勝解等者。種種勝解智力也。相國云。於三乘處。各隨自情愛勝解。忻慕修學。名種種信解。心勝於境。名之為勝。印持決定。名之為解。印持三寶。是良福田。愛三乘行。取三乘果。名為愛樂。先由勝解。印證前境。決定是因。不可引轉。是果如來能知。名智力。眾生三乘五性勝不一。總名種種勝解智力也。或樂於善。或樂不善等。佛悉能知也。

> 「愛楽・勝解など」とは、仏が衆生それぞれの様々な理解や志のあり方を知る智慧の力を指します。相国（そうこく）はこう述べています。「三乗の教えにおいて、それぞれの者が自分の好みに従って理解し、喜び、学びを求める。これを衆生の様々な信解と呼ぶ。心が対象を超えて勝れていることを『勝』といい、確かに心に留めて決めることを『解』という。三宝を心に確かに留めて敬うこと、それが本当に尊い功徳の田である。三乗の修行を喜び、三乗の果てを求めることを『愛楽』という。まず勝解によって対象を確かめ、因が決まっていると理解する。その結果を如来は全て知っておられる。これが智慧の力である。衆生には三乗・五性の違いがあり、その理解も一つではない。これらを総称して種々勝解の智慧の力という。ある者は善を好み、ある者は不善を好む。仏はそのすべてを如実に知り尽くしておられるのである。」

言若廣建立等者。種種界智力也。意言有情有種種性。或一乘。或五乘。或通三性。善惡無記種子。乃至八萬四千行。如來皆能了知也。建立者。施設義。種種界者。界是因義。亦是性義。即是三乘五乘種子也。

> もし「広く建立す」などと言うならば、それは「種々の界に関する智の力」を指す。つまり、如来はあらゆる有情の様々な性質――一乗、五乗、あるいは三性（善・悪・無記）に通じるもの――や、その種子から八万四千の行に至るまで、すべてをありのままに知り尽くしておられる、という意味である。「建立」とは、教えを立てて示すこと。「種々の界」とは、「界」が因であることを意味し、同時に性質をも表す。すなわち、三乗・五乗の種子のことを指すのである。

言或四乘者。三乘外加不定乘。五乘者。四乘外加人天乘。即無性人也。此約五乘種子。瑜伽說四種界。一本性住種性界。二習所成界。三可對治界。染種子無漏智對治。四不可對治界。即無種人身中。法爾種子無漏智對治也。

> あるいは「四乗」という場合、三乗に加えて「不定乗」を指します。また「五乗」という場合は、四乗に加えて「人天乗」を指します。これは、無性の人（成仏する素質のない人）のことです。これは五乗の種子に関する説明です。 『瑜伽師地論』では、四種の「界」が説かれています。第一に「本性住種性界」（生まれながらに備わっている仏性の種子）、第二に「習所成界」（修行によって育てられる種子）、第三に「可対治界」（対治されるべき種子、すなわち煩悩の種子で、無漏智によって対治されるもの）、第四に「不可対治界」（対治できない種子、すなわち無種の人の中に法爾として存在する種子で、無漏智によっても対治されないもの）です。

言或貪嗔等者。有唯貪增。有唯嗔增。有唯癡增。有三俱者。故名等分。

> 「ある者は貪りのみが強く、ある者は怒りのみが強く、ある者は愚かさのみが強い。また、三つすべてを備えている者もいる。これらを『等分』と名付ける。」

言乃至有情八十千等者。辨云。此據全數。故俱舍云。牟尼說法蘊。數有八十千。亦同詩三百。亦是舉全數。理實八十四行也。詩三百五篇也。維摩經云。八萬四千諸塵勞門也。種性不一。名為種性。種性者界也。知諸眾生。多貪種性。多嗔種性。乃至多癡八萬四千病行種性。佛智一一皆知。名種種界智力也。

> これは「乃至、有情八十千等（八十千に至るまでの有情）」についての説明です。 疏の解釈では、これは全体の数を挙げたものとされています。だから『倶舎論』に、「牟尼（仏陀）が説いた法蘊（教法の集まり）は、その数が八十千ある」と述べられています。これは『詩経』が三百篇あると言われるのと同じで、これも全体の数を挙げたものです。実際には、仏陀の教えは八十四行（八十四の部門）あり、『詩経』も三百五篇あります。 『維摩経』には「八万四千の塵労（煩悩）の門」と説かれています。衆生の性質（種性）は一様ではなく、これを種性と呼びます。種性とは「界」（性質の枠組み）のことです。仏は、多くの衆生が貪欲（むさぼり）の性質を持つこと、多くの衆生が瞋恚（いかり）の性質を持つこと、乃至、多くの衆生が愚癡（おろかさ）という八万四千の病に等しい行いの性質を持つことを知っておられます。仏の智慧は、その一つ一つをすべて知るのです。これを「種々の界についての智慧の力」（種種界智力）と呼びます。

言若即如是者。趣入聖道行也。若即如是者。指前門中種子也。諸趣門中者。指此門中染法種子現行也。諸趣門即是所趣。所趣即是佛所知境。所知有四。貪嗔癡等分也。言順正行者。一句是能趣。貪嗔癡是所趣也。修不淨觀慈悲觀界分別觀。為能趣行。今唯取能趣行。是此間遍趣行。行收遍趣之行。依主釋。今趣遍字屬如來。如來智家所知之如來後得智。遍能得知眾生趣向之行。名遍趣行。

> もしそのようなものであるならば、これは聖なる道に入る行いである。もしそのようなものであるならば、前の門の中の種子を指すのである。諸趣門の中というのは、この門の中の染められた法（煩悩）の種子と現行を指すのである。諸趣門とは、すなわち趣く先のことである。趣く先とは、すなわち仏の知る境である。知るべきものには四つがある。貪・瞋・癡・等分である。「順正行」と言うのは、一句は能く趣くことであり、貪・瞋・癡は趣かれるところである。不浄観・慈悲観・界分別観を修めるのは、能く趣く行である。今、ただ能く趣く行のみを取る。これがこの間の遍趣行である。行は遍趣の行を収める。依主釈である。今、趣・遍の字は如来に属する。如来の智の家において知られる如来の後得智は、あまねく衆生の趣向の行を知ることを得る。これを遍趣行と名づける。

言或一切五趣之門者。福業。是趣向人天行。不動業。是趣向上界行。慳貪業。是趣向餓鬼行。無慚愧。是趣向畜生行。邪見謗法。是趣向地獄行。

> あるいは、五つの迷いの世界（五趣）へと通じる門について言えば、善い行い（福業）は人や天の世界へと向かう道であり、動かない心に基づく行い（不動業）は、より高い天の世界へと向かう道である。欲深く執着する行いは、飢えた鬼の世界へと向かう道であり、恥や反省の心を持たない行いは、動物の世界へと向かう道である。誤った見解を持ち、正しい教えを否定する行いは、地獄の世界へと向かう道である。

言或諸外道等者。趣向執著行也。此解不同諸解。今却取所趣行也。五薀假者身中異見。為能趣。行是所趣。外道異見趣向鞭㭬臥棘行。沙門異見趣向三乘行。執著幻術符書禁呪十二圍陀經書伎業。種種黨類差別。各各修邪。互相違背。執己為長行。餘為非等。

> あるいは諸々の外道（邪見を抱く者たち）は、特定の行いを志向し執着する。この解釈は他の解釈とは異なる。今ここでは、志向される対象としての行いを採用する。五蘊からなる仮の身（自己）の中に、種々の異なる見解があり、これが能趣（志向する主体）となる。行いは所趣（志向される対象）である。外道の異なる見解は、鞭打ちや苦行などの行いを志向する。沙門（修行者）の異なる見解は、三乗（声聞・縁覚・菩薩）の行いを志向する。また、幻術・符呪・禁呪・十二種のヴェーダ経典・技芸などに執着する。種々の仲間の集まりには違いがあり、それぞれが邪な修行を行う。互いに相反し、自らの行いを最も優れたものとし、他を否定するのである。

言或此世他世者。趣求涅槃行也。此世即現在也。他世者。過去未來。總名他世。賀云。即三乘人。三世中趣涅槃之行。名無罪趣行。涅槃體即無罪。無罪之趣行。依主釋。簡要云。無漏聖道。越生死故。名無罪趣行。無罪即趣行。持業。此唯取無漏太狹。若言無罪之趣行。無漏有漏收盡也。三業有漏善順聖道。皆是無罪行也。佛智一一能知四種行。名遍趣行智力。

> あるいは、この世や他世に関わる行いとは、涅槃を求め求める修行のことである。この世とは現在のことである。他世とは、過去と未来を総称して他世という。注釈にはこうある。すなわち三乗の人々が、三世において涅槃を目指して修行する行いを、「無罪趣行」と名付ける。涅槃の本質はすでに罪がないことなので、「無罪の趣行」というのは依主釈（所有格の解釈）である。簡要にはこうある。漏れのない聖なる道は、生死を超えるから、「無罪趣行」と名付ける。無罪そのものが趣行であり、これは持業釈（同格の解釈）である。しかし、これを漏れのないものだけに限るのは狭すぎる。「無罪の趣行」と言えば、漏れのないものも漏れのあるものもすべて含まれる。身・口・意の三業による漏れのある善は聖なる道にかなうものであり、すべて無罪の行いである。仏の智慧は、これらの四種の行いを一つ一つ知ることができるので、「遍趣行智力」と名付けるのである。

言於能遍行等者。會般若經中名字。此遍趣行。是如來後得智所遊履之處。名行行也。能了知智。就所了知為名。名遍行行也。相國云。前解於遍。即佛能緣智名遍。今此解遍。屬於所緣。諸趣之行名遍。問趣行智力。與處非處智力何別。答攝云。彼是智境寬。此是趣行即狹。彼兼緣非處寬。此唯緣處狹也。

> 「能遍行等に言うは、般若経の中の名字に会す。此の遍趣行は、是れ如来の後得智の遊履する所の処なり。行行と名づくとは、了知する智有り。了知せらるる所の智に就きて名と為す。遍行行と名づくとは、相国云く、前の解は遍に於いて、即ち仏の能縁の智を名づけて遍と為す。今此の解は遍に属する所の縁、諸趣の行を名づけて遍と為す。問う、趣行の智の力と、処非処の智の力と何の別ぞ。答う、摂に云く、彼れは是れ智の境広し。此れは是れ趣行即ち狭し。彼れは兼ねて非処の縁を広しと為す。此れは唯だ処の縁を狭しと為すなり。」

言若於種種有情等者。宿住隨念智力也。緣過去境也。前來遍趣行智力。是如來智。能知有情身中行。今此中說如來智力。能知有情身也。宿者宿世。過法世名宿也。所緣境住在過去。念慧兩法。同緣過去境揀擇。是智也。念隨於智。同時緣境。名隨念智力也。解隨念於智。隨字屬念也。二云。正能緣過去境。名念也。智不能緣過去境。由念引皆。智隨於念。亦緣過去境。名隨念智力。此後解智隨於念。隨字屬智也。前解為正。緣智與念。是同起之法。今不言智力者。是隣近釋。餘九皆依主也。若於種子等者。一一總知名種種。有情言音。四方名字。東方世界眾生所有名字。張三李四。南西北方眾生所有名字。如來一一皆能知也。自體者。有情身體。體即身。

> （この文は、仏教の教理注釈書の一節で、仏陀の持つ十種の智慧力の一つである「宿住随念智力」について説明しています。） もし様々な有情について言えば、それは「宿住随念智力」のことです。過去の境涯を縁とする智慧です。先に述べた「遍趣行智力」は如来の智慧であり、有情の身の中にある行為を知ることができます。今ここで説く如来の智慧力は、有情の身体を知ることができます。「宿」とは前世のことであり、過去の世の法を「宿」と呼びます。所縁の境涯は過去にあり、念と慧の二つの法は共に過去の境涯を縁として観察・選択する智慧です。念は智慧に従い、同時に境涯を縁ずるので、「随念智力」と呼びます。「随念」が「智」に続く場合、「随」の字は「念」に属します。第二の説では、正しく過去の境涯を縁ずることを「念」と呼び、智慧そのものは過去の境涯を縁ずることはできませんが、念によって導かれるので、智慧は念に従い、同じく過去の境涯を縁ずることを「随念智力」と呼びます。この後の解釈では、智慧が念に従うことから、「随」の字は「智」に属します。前の解釈が正しいとされます。智慧と念は同時に生じる法だからです。ここで「智力」と言わないのは、隣近の解釈（隣接する語を持って説明する方法）によるもので、他の九つの智慧力はすべて依主の解釈（主体を基準とする解釈）に従います。 「もし種子などについて言えば」とは、一つ一つを総称して「種種」とします。有情の言葉の音声、四方の名前、東方世界の衆生が持つ名前、張三・李四のようなもの、南西北方の衆生が持つ名前を、如来はすべて一つ一つ知ることができます。「自体」とは有情の身体のことであり、体とは身を指します。

言八言說等者。即將過去盡辨。有八般事。為言說之因。一一皆說。名八言說。一如是名字。如是言通下七處轉。如帝釋過去名蠒兒。二如是生類。婆羅門剎帝利等。三種姓。種姓氏之姓。即婆羅門六姓等是。亦如張王等。四飯食。如帝釋宮中蘇陀味。北洲自然粳米。五受苦樂者。謂苦樂。失財利名苦。得財利名樂。六長壽。假如人合壽百歲。至嬰兒後。活至六十七十已來。名壽。七活至八十九十。名久住。八活至盡壽百歲。名壽量邊際。

> 八つの言説について説明します。これは過去のことを完全に説明しきることです。八種類の事柄があり、それらが言説の原因となります。それぞれを一つずつ説明することから、八つの言説と呼ばれます。 一、名前（名称）——「如是名字」とは、そのような名前という意味です。この「如是」という言葉は、以下の七つの場合にも通じて用いられます。例えば、帝釈天は過去に「繭児」という名前でした。 二、生類（生まれの種類）——バラモンやクシャトリヤなどの身分のことです。 三、種姓（家柄）——種姓とは、家系や一族の姓のことです。すなわち、バラモンの六姓などがこれにあたります。また、日本でいえば「張」や「王」のような名字に相当します。 四、飯食（食べ物）——例えば、帝釈天の宮殿にある蘇陀味（甘露の味）や、北俱盧洲に自然に生える粳米などのことです。 五、受苦楽（苦楽を経験すること）——苦と楽のことです。財産を失うことを苦といい、財産を得ることを楽といいます。 六、長寿（長く生きること）——例えば、人の寿命が百歳と定められている場合、幼児期を過ぎてから六十歳や七十歳まで生きることを「寿」といいます。 七、久住（長く住むこと）——八十歳や九十歳まで生きることを「久住」といいます。 八、寿量辺際（寿命の限界）——満百歳まで生き切ることを「寿量の辺際」といいます。

言於此八中等。智隨於念。緣過去境。即是於念。隨念決斷即名智。念能憶念。即智言略所行行者。問如何前說八。後略為六。答秀云。總門眾生身中。過去八事。今略為六。即以八種。略為六故。據所行行。不過六種。攝前長壽久住。總為壽量。故唯六也。但略其數。非略行也。問八言說句。與略所行行何別。答說是能詮教。六略行是所詮理也。此二俱是如來智所知境也。八言說約法體。則有八種。六略行論佛所知。合成六種。合壽量為一故。所以名略也。即六種種境。是宿住智。所遊履行處。名略所行行也。

> ここでいう八種の中について説明する。智慧は念に従い、過去の境涯に縁じる。すなわち念に従って、念に随って決断することを智慧という。念はよく憶念するものであり、智慧がわずかにその所行を示すのである。 問う：なぜ先に八種と説き、後で六種に略すのか。 答える：秀という師は言う。総じて衆生の身の中における過去の八種の事柄を、今六種に略すのである。すなわち八種を六種に略すのであるから、その所行に基づけば、六種に過ぎない。先の長寿・久住をまとめて寿量とするので、ただ六種となるのである。ただその数を略したのであって、行を略したのではない。 問う：八つの言説の句と、略された所行の行とは、どのような違いがあるのか。 答える：言説とは教えを表すものであり、六つの略行とは説かれる道理である。この二者はいずれも如来の智慧が知る所の境涯である。八つの言説は法の本体について言えば八種あり、六つの略行は仏の所知について論じれば六種となる。寿量を一つにまとめたからである。それゆえに「略」というのである。すなわち六種の境涯こそ、宿住智が遊行し履践する処であり、これを「略所行行」と名づけるのである。

言一呼召等者。即前如是名字。二剎帝利等者。即前如是生類。我是過去剎帝利婆羅門。三父母者。即前種姓。四飯食等者。即前飯食。即變生為熟。亦只如冷淘不詫等。名方軌也。五興衰者。興即樂也。衰即前苦也。六壽量者。即前長壽久住邊際。是也。

> 「呼召等」とは、前に述べた「如是の名字」のことである。「剎帝利等」とは、前に述べた「如是の生類」のことである。すなわち、私は過去において剎帝利（王族）や婆羅門（司祭）であった。「父母等」とは、前に述べた「種姓」のことである。「飯食等」とは、前に述べた「飯食」のことである。すなわち、生のものを熟したものに変えるという、温かいものや冷たいものを調理するような、その方法を「方軌」と呼ぶのである。「興衰」とは、興（おこり）は楽であり、衰（おとろえ）は前に述べた苦のことである。「寿量」とは、前に述べた長寿や久住の限界のことである。

言此等宿住等者結也。智與念俱時起。能緣過去。名念俱行智力也。隨念相應之智力。依仕解。

> これは、前世などの記憶に関する智慧の話をまとめたものです。智慧と念が同時に起こり、過去を縁としてとらえることから、「念とともに働く智慧の力」と呼ばれます。その智慧の力は、心に浮かぶ記憶と調和して働くものだと、解説で述べられています。

言諸有情類等者。死生智力也。前來宿住隨念緣過去。此生死智力緣未來境。即知三根聲聞。未來世經若干劫。當得作佛等。及知諸弟子。若造善業者。來世中得生善處。若造惡業者。來世中生三惡趣之處。又能降伏執著斷見之者。佛語言。未來世中。若更無身。可言斷滅。未來有其無量。如何執身而有斷滅耶。

> ここで「すべての生きとし生けるもの」と言うのは、生死に関する智慧のことです。先ほどの「宿住随念智力」は過去のことを縁とし、この「生死智力」は未来の境地を縁とします。すなわち、三種類の声聞（声聞乗の修行者）が未来世において、何劫もの時を経て仏になることができるかどうかなどを知ることができます。また、諸々の弟子たちについて、善い行いをすれば来世に善い場所に生まれること、悪い行いをすれば来世に三悪趣（地獄・餓鬼・畜生）に生まれることを知っています。さらに、「断見」（死後に何もないと見る考え方）に執着する者を調伏することができます。仏がおっしゃるには、「未来世において、もし再び身体がなければ、断滅と言えるだろう。しかし未来には無量の身体があるのに、どうして身体を執着して断滅があると言えるのか」と。

言臨欲終沒等者。死謂本有最後一剎那心現在。只有此一剎那。更無後念。此名為死。謨云。欲死正死。名死也。

> 「臨命終時」とは、死ぬというのは、今のこの命の最後の一瞬の心が現れることを言います。この一瞬だけがあり、それ以降の心はありません。これを「死」と呼びます。経典にはこうあります。「死に臨む時、まさに死ぬとき、これを死と名づける」と。

言住在有等者。慈恩云。取中有末後一剎那心。名生時一念。第八識攬父母遺體而住。即名生時。不取生胎方名生也。此中但說生死及降伏執斷見。是本意也。如經中說。孝子比丘僧中惡口。在胎六十年。意言如六十劫。皆名為住。如來一一能知。名死生智力。

> 住（じゅう）というのは、例えば慈恩大師（基大師）がおっしゃるには、「中有（ちゅうう）の最後の一刹那の心を取りて、これを『生の時の一念』と名づける。第八識が父母の遺体を受け取ってそこに留まることを、すなわち『生の時』と名づけるのであって、胎内に入った時をもって生まれたとはしない。ここではただ生死と、断見（すべては滅びるという見方）を調伏することのみを説くのが、本来の趣旨である。経典に説くところのように、孝子の比丘が僧の中での悪口によって胎内に六十年留まった。その時を、あたかも六十劫のように感じた。これらをすべて『住』と名づける。如来はその一つ一つをことごとく知り尽くす。これを『死生智力（死生を知る智慧の力）』と名づけるのである。」

言於善惡趣等者。解力義也。

> 善と悪の世界（趣）などについて説くことは、力の意味を解き明かすことである。

言一切諸法等者。能知見修無學道。名漏盡。今說正知若兼方便。亦通知資粮加行方便伏惑成道。名漏盡。若種若現皆盡諸漏。是現行。及眠即是種子。如是種現皆盡。名漏盡智力。問漏是種子。如來遍緣三乘無學身中漏盡亦知。聖有學身中漏法不盡。亦亦知。問若知漏盡。可名漏盡智力。兼知漏不盡。何不名漏不盡智力。答影彰說故。或從勝說。問佛自身中諸漏已盡。佛自知否。知者何名此力。若言知見者。其相云何。答見心故。果中作用強盛。見分亦得。及緣自證王所。見分亦互相緣。不同因故。得能知自足漏盡。若爾。何名同一所緣。不可現在心反緣自心故。答王緣於所見分之時。與所自證因。緣此見故。無有失。

> すべての諸法が等しいと説くのは、能く知見・修・無学の道を了知し、これを漏尽と名づける。今、正知を説くに、もし方便をも兼ねれば、また資粮・加行の方便が煩悩を伏し、道を成ずることをも通じて知る。これを漏尽と名づける。もし種子ならびに現行の、皆諸の漏を尽くすを、これ現行とし、眠はすなわち種子なり。かくのごとく種・現みな尽くるを、漏尽智力と名づく。 問う、漏は種子なり。如来は遍く三乗の無学身の中の漏尽を知り、また聖者の有学身の中の漏法の尽きざるをも知る。 問う、もし漏尽を知ることをもって、漏尽智力と名づくべし。兼ねて漏の尽きざるをも知るならば、何をもって漏不尽智力と名づけざるや。 答う、影彰の説き方によるがゆえに、あるいは勝れたるに従いて説く。 問う、仏自身の中の諸漏はすでに尽きたり。仏は自ら知るや。もし知るならば、何をもってこの力と名づくや。もし知見と言わば、その相はいかん。 答う、心を見るがゆえなり。果の中の作用は強盛なるがゆえに、見分もまた得べし。および自証分・王・所・見分もまた互いに縁ず。因と同じからざるがゆえに、自らの漏尽を知ることを得。もししかれば、何をもって同一所縁と名づくや。現の心は自らの心を反縁すること能わざるがゆえに。 答う、王が所見の分を縁ずる時、その自証の因と、この見を縁ずるがゆえに、失なし。

言智者是體等者。十種智皆是體。十種力皆是用。智即是力。持業釋。

> 智者の「体」について言えば、十種の智はすべて「体」であり、十種の力はすべて「用」である。智はすなわち力である。これは「持業釈」による解釈である。

言此中宿住等者。秀云。然智不緣過去。念能知宿世事。由智與念俱故。隨念亦緣過去。今從助伴。以得其名。故隨念智力。隣近釋。或能緣過去境。與彼念俱。念俱由近。彼念相從得名。隣近釋後勝。

> ここで「宿住等」と言うのは、秀という人物が述べていることだが、智は過去を縁としないけれども、念が過去の出来事を知ることができる。智と念が共にあるからこそ、その念に従って過去をも縁とすることができるのである。今、このように、助けとなるもの（念）に従って、その名が付けられたのだ。それゆえ、「随念智力」というのは、隣接するものによる解釈（隣近釋）である。あるいは、過去の境涯を縁とすることができて、その念と共にあることから、其の念に近づき、その念に従って名前が付けられたので、これも隣近釋である<note>後の方が優れている</note>。

言處非處等者。並北依主也。

> 「言處非處等者」というのは、すべて北インドの『倶舎論』の主たる解釈に基づくものである。

言雖復處三文不同者。是結前也。然體有五者。生後也。

> 三つの文が異なると言っても、それは前の内容をまとめたものである。しかし、体には五つあるというのは、後の内容を引き出すためのものである。

言一最勝體者。問何名最勝。答佛功德中。慧最勝故。言最勝體也。

> 「一つの最勝の体」とは何か。問うて言う、「何を最勝と名づけるのか」。答えて言う、「仏の功徳の中で、智慧が最も優れているからである。それゆえに『最勝の体』というのである」。

言佛具知根慧等者。佛具知根。含於九法。謂信等五。及意喜樂捨。今取九中五根五中慧根。為十力體。無漏根有三。一未知當知根。即見道十五心已前。於所未知。當知故。二已知根。第十六心已去。金剛心已還。於十五心前者。已知故。三具知。謂解脫道後。故言具知根也。問此三根為世俗。為勝義。答若准小乘。俱是假法。皆名世俗等。論云。四塵雖有漏。實故名勝義。三根雖無漏。假故名世俗。若大乘宗。既是無漏。故勝義攝。

> 仏が「具知根」などを知ると言うのは、仏が具知根を知るという意味で、これは九つの法に含まれる。すなわち、信・精進・念・定・慧の五根と、意根・喜根・楽根・捨根である。今、この九つの中から五根を取り、その五つの中の慧根を十力の体とする。無漏の根には三つある。第一に「未知当知根」、これは見道の十五心より前で、まだ知らないことを知るべきことを意味する。第二に「已知根」、これは第十六心以降、金剛心以前で、十五心より前のことをすでに知っていることを意味する。第三に「具知根」、これは解脱道の後に完全に知ることを意味するので、「具知根」と呼ぶ。 問う：この三根は世俗であるか、勝義であるか。 答える：小乗の教えに従えば、これらはすべて仮の法であり、すべて世俗と呼ばれる。論に言う、「四つの塵は煩悩があるが、実であるから勝義と言う。三根は煩悩がないが、仮であるから世俗と言う」。大乗の宗派では、これらはすでに無漏であるから、勝義に含まれる。

言二引出體等者。二說。一定能引慧。名引生。二者。定是功德叢林。亦能生功德。名為引生也。慧是諸德之主。亦能引生諸法。慧亦名引生。故十力以定慧為體。又云。由定起根本。根本引起後得。後得智得上妙用。名力也。

> ここで「二つの引き出す」と「体など」について述べる。二つの解釈がある。第一に、必ず智慧を引き出すものを「引生」と名づける。第二に、禅定は功徳の集まりであり、また功徳を生み出す力もあるので「引生」と名づける。智慧はすべての功徳の主であり、またすべての法を引き出す力もあるので、智慧も「引生」と名づける。ゆえに十力は禅定と智慧をその本質とする。また、こうも説かれる。禅定によって根本智が生じ、根本智が後得智を引き起こし、後得智によってすぐれた働きを得る。これを力と名づけるのである。

言三尅實體等者。問既尅實體。以五根為性。何不言信力念力。答慧為勝故。空言智力。隨勝而就。據實。信等亦得為體也。

> 言「三克実體等」とは、既に実体を克定して五根を性とするならば、なぜ信力・念力と言わないのか。答えていうには、慧が最も勝れているからである。ただ智力と言うのは、勝れたものに随って立てたのである。実に拠れば、信等もまた体となり得るのである。

言相應體者。智起之時。同時必有遍行別境善十一。俱時而起。故論云。及相應也。

> 言葉と対応する体とは、智慧が生じるとき、必ず同時に、普遍的に働く心作用や特定の状況で働く心作用、善心所の十一種類が共に起こることを指す。そのため、論書には「および対応する」と説かれている。

言四蘊等者。且智起時。必有淨識。心王是識。同時有遍行心所。以為受蘊。想為想蘊。自餘遍行一分。別境善十一等。並是行蘊。智起之時。與此眾生相應。故名相應。雖有眾多之法。不離四蘊為性也。

> 「四蘊などと言うのは、さしあたり智が生じる時には、必ず清らかな識がある。心王は識であり、同時に遍行の心所があって、これを受蘊とする。想は想蘊である。その他の遍行の一部、別境や善十一などは、すべて行蘊である。智が生じる時、これらの多くの法と相応するので、相応と名づける。多くの法があるとはいえ、四蘊を離れないことを体性とするのである。」

言五眷屬體等者。此體最寬。四蘊之上。更加色蘊。為五蘊。疏主取定道二戒。為色蘊。問佛身何得成定道二戒。答若准小乘宗。說定共戒唯有漏。道共戒唯無漏。大乘宗。定共戒通漏無。道共戒唯無漏。今取大乘。佛身無漏。戒隨於佛。定戒亦唯無漏。問因中定道二戒。依現行思上立。此現行思上有遮防。彼身口七支惡色不起功能。名無表色。若爾佛果無彼惡色可防。如何亦名為色。答有三解。一云。雖無色可防能發善色。亦名為色。二云。果中有彼防發功能在。亦名為色。三云。從遠所防說。亦名為色也。

> 五つの眷属（眷属体）について言えば、この体は最も広いものです。四つの蘊（受・想・行・識）の上に、さらに色蘊を加えて五蘊とします。疏主（注釈者）は、定共戒と道共戒の二つの戒を取って色蘊としました。 問う：仏の身に、どうして定共戒と道共戒が成り立つのでしょうか。 答える：もし小乗の宗派に従って言えば、定共戒は有漏（煩悩のある状態）のみであり、道共戒は無漏（煩悩を離れた状態）のみであると説きます。大乗の宗派では、定共戒は有漏・無漏の両方に通じ、道共戒は無漏のみです。今は大乗の説を取り、仏の身は無漏です。戒は仏に随順するので、定戒もまた無漏のみとなります。 問う：因位（修行中の段階）における定共戒と道共戒は、現行の思（心作用）の上に立てられます。この現行の思の上には防護・遮断の働きがあり、身・口の七つの業（身体と言葉による行為）における悪い色（不善の行為）が生じないようにする機能があります。これを無表色（外面に現れない色）と呼びます。それならば、仏の果位には防ぐべき悪い色が存在しないのに、どうして戒を色と名付けるのでしょうか。 答える：三つの解釈があります。一には、「防ぐべき色はないが、善い色を発起する能力があるので、これも色と名付ける」とします。二には、「果位には、なお防護し発起する機能が存在するので、これも色と名付けられる」とします。三には、「遠い昔に防護したという観点から説いて、これも色と名付ける」とします。

言此雖無文等者。疏主自添此一解。立理云。此雖無文等。道理合有也。遮犯戒垢。助摧怨故。犯戒之法。名之為垢。由無表戒能防此垢。永不令起。名遮犯戒垢。既遮此垢。諸煩惱不起。名助摧怨。怨者煩惱。與無漏智為怨也。

> これは、経典の文には直接ないものの、疏主（注釈者）が自らこの一つの解釈を加えたものである。その理屈を立てていうには、「これは文がなくとも、道理として必ずあるべきことである」。犯戒の垢を防ぎ、怨敵を打ち破るのを助けるからである。犯戒の法を「垢」と名づける。無表の戒によってこの垢を防ぎ、決して起こさせないことを「犯戒の垢を遮る」と名づける。すでにこの垢を遮るならば、諸々の煩悩は起こらない。これを「怨敵を打ち破るのを助ける」と名づける。怨敵とは煩悩のことであり、無漏の智にとっての敵である。

言餘之三門者。指餘門義。次有第三辨行相門。隨辨名處。略已解畢。

> そのほかの三つの門とは、他の門の意味を指すものである。次に第三の行相を弁別する門がある。名や処に随って辨じることは、すでに簡略に解し終えた。

言第四次第者。如來初得無上菩提。即使頓得。後次第起。初立一切無倒因果。起處非處智力。次第希求欲界異熟為說。遠離諸不善業。令行善業。起自業智力。乃至次令永斷一切煩惱。起漏盡智力。

> ここで「第四次第」というのは、如来が初めて無上の悟りを得られた時、その悟りは一瞬にして得られたものです。その後、段階を追って教えを説かれました。 最初に、因果の道理がすべて正しく逆転しないことを示し、「処・非処智力」を起こされます。次に、欲界における報い（異熟）を求める心に応じて、不善の業を遠ざけ、善い業を行うように教え、「自業智力」を起こされます。そして、さらに進んで、すべての煩悩を永遠に断ち切らせるために、「漏尽智力」を起こされるのです。

言第五諸門。諸門者有五。一分別門。二不共門。三平等門。四差別門。五引發門。一分別者有三。一時分別。三世所知。隨悟入故。二品類分別。謂於一一。隨自相共相一切行。而悟入故。三者身分別。十方有情。各各差別。一切相續一切事義。隨悟入故。不共門者。二乘所無。菩薩分得別。唯佛獨圓。平等門者。一切如來皆悉平等。具足此力。無有差別。差別門者。如菩薩地廣說其相。恐繁不可述。引發者。復有三種。一方便。二根本。三引發。方便者。謂於教法向上定。數數思惟行相。後使成滿。根本者。雖通諸靜慮皆悉有之。如來多住第四靜慮。故言根本。引發門者。復有二種。一現前起用。以後得智為體。二居住本性用。出世間正智為體。即根本智。

> 第五に説くは、諸々の門についてである。諸門には五つある。一に分別門、二に不共門、三に平等門、四に差別門、五に引發門である。 一に分別とは、三種ある。時に分別とは、三世の所知を、隨って悟り入るが故に。 二に品類分別とは、謂く、一々に隨いて、自相・共相の一切の行を、悟り入るが故に。 三者に身分別とは、十方の有情の、各々差別し、一切の相續と一切の事義とに、隨って悟り入るが故に。 不共門とは、二乘には無く、菩薩は分に得るも、唯佛のみ獨り圓滿す。 平等門とは、一切の如來は皆悉く平等にして、此の力を具足し、差別無し。 差別門とは、菩薩地に廣く其の相を説くが如し。繁きを恐れて述べ難し。 引發には、復た三種あり。一に方便、二に根本、三に引發なり。 方便とは、謂く、教法に於いて向上に定め、數數思惟し行相し、後に使めて成滿せしむるなり。 根本とは、諸の靜慮に通ずと雖も皆悉く之れ有れども、如來は多く第四靜慮に住す。故に根本と言う。 引發門には、復た二種あり。一に現前して用を起すは、後得智を體と為す。二に居住の本性に用うは、出世間の正智を體と為す。即ち根本智なり。

言列名等者。佛四無畏者。疏中自列。菩薩四無所畏者。一總持無畏。二知根無畏。三問答無畏。四斷疑無畏。如常不輕品解。今此佛四無所畏也。

> ここで「言列名等者」とは、仏の四無所畏（佛四無畏）のことである。疏（注釈書）の中ではすでに列挙されている。菩薩の四無所畏とは、第一に総持無畏（すべての教えを記憶し保持することに恐れがない）、第二に知根無畏（衆生の性質や能力を見極めることに恐れがない）、第三に問答無畏（どんな問いにも答えられることに恐れがない）、第四に断疑無畏（衆生の疑いを断ち切ることに恐れがない）である。これは常不軽品（法華経の常不軽菩薩の品）における解釈と同様である。ここでは、仏の四無所畏について述べられている。

言四是數名者。釋名也。無所畏者。於此四處。能自了知。此是總談無畏。於此四處。有人徵問。如來能自了知。都無性懼。故名無畏也。

> 「四」とは数を表す名前です。これは名称の説明です。「無畏」とは、この四つの場合において、自ら完全に理解していることを意味します。これは全体的に「無畏」について述べたものです。この四つの点について、誰かが質問や疑問を投げかけても、如来は自らはっきりと理解しており、まったく恐れやおののきがありません。そのため「無畏」と呼ばれるのです。

言坦然無畏者。身無畏也。言心無怯劣者。心無畏也。言無所疑慮者。諸語無畏也。或怛然無畏。是總名無畏。心無怯劣。心無畏。無所疑慮。語無畏。都無怯懼。身無畏。故名無畏。結也。

> ここで「坦然として畏れなし」とは、身体に怖れがないことです。「心に怯え劣りなし」とは、心に怖れがないことです。「疑い慮ることがない」とは、言葉に怖れがないことです。あるいは「恬然として畏れなし」とは、これらを総称して「無畏」と呼びます。心に怯え劣りがなく、心に怖れがないこと、疑い慮ることがなく、言葉に怖れがないこと、まったく怯え恐れることがなく、身体に怖れがないこと、それゆえに「無畏」と名付けます。これが結びの言葉です。

言正覺諸法者。簡外道耶覺。只此正字。若是邪正之正。簡外道。若圓正之正。兼簡菩薩。覺未圓故。

> 正覚の諸法と言うのは、外道の邪な覚りを除くためのものである。ただこの「正」の字について言えば、もし邪正の「正」であるならば、外道を除くことを示す。もし円正の「正」であるならば、菩薩をも除くことを含む。なぜなら、菩薩の覚りはまだ円満ではないからである。

言等覺諸法者。簡於二乘。偏覺諸法者。即所知法也。合而論之。正等覺。若開則言正覺等覺也。上正等覺無畏。斷所知障也。

> 「等覚の諸法」とは、二乗（声聞・縁覚）を簡別したものであり、「偏覚の諸法」とは、すなわち所知の法である。これらを合わせて論じれば「正等覚」となる。もし開けば、「正覚」「等覚」と言う。上の「正等覚無畏」とは、所知障を断ずることである。

言諸煩惱漏種現者。漏盡無畏。斷煩惱障。知他人身中漏或種總盡。名漏盡無畏。問他人身中漏不盡。亦如何不言漏不盡無畏。答據實總知。但是就勝而說也。問自身中漏盡知否。答亦知也。

> 諸々の煩悩や煩悩のもとになる種子が現れ出るものについて、漏（煩悩）が尽きたという無畏（何も恐れない智慧）があります。煩悩の障りを断ち切ったことにより、他人の身の中にある煩悩や、その種子がすべて尽きていることを知る。これを「漏尽無畏」と呼びます。 問い：他人の身の中の煩悩が尽きていない場合、どうして「煩悩が尽きていない」という無畏と言わないのでしょうか。 答え：実のところ、すべてを正しく知っています。ただ、特に優れた面に焦点を当てて説いているだけなのです。 問い：自分自身の身の中の煩悩が尽きているかどうかも知っているのですか。 答え：それも知っています。

言說鄣礙法等者。障法無畏。一者貪欲。二者全界煩惱。總名為障。三界分別煩惱。望三乘人見道。總名為障也。俱生煩惱前六品。望第二果為障。後三品望第三果為障。上二界俱生煩惱。望第四果為障。總而言之染法為障者。煩惱所知二障。

> ここで「言説の障礙となる法」について説きます。障法無畏（さわりとなる法についての迷いのない智慧）には、第一に貪欲、第二に三界全体の煩悩があります。これらを総称して「障礙」といいます。三界の分別によって生じる煩悩は、三乗の修行者にとって見道を妨げるものとして、総じて障礙とされます。俱生の煩悩のうち前の六品は、第二の果（一来果）を得る妨げとなります。後の三品は第三の果（不還果）を得る妨げです。上の二界における俱生の煩悩は、第四の果（阿羅漢果）を得る妨げとなります。総じていえば、煩悩や知られざるものを汚す法が障礙となるのです。すなわち、煩悩障と所知障の二つです。

言說出離道等者。出苦道無畏也。正說見道修道究竟道。名出離道。傍取方便及資粮加行亦伏惑。亦名出離道。聲聞人觀四諦。緣覺人四十四智七十七智。出苦道。菩薩二空智乃至三十七品六度四攝等。佛即雙離二障。名出苦道無畏。出三乘聖道。是出苦道法也。正等覺四不是無畏。無畏不是正等覺等四。此四法是境。如來於此四之上。身心無畏。故以為名也。

> ここで「出離道」などと言うのは、苦しみを超え出る道について、恐れるところがないという意味です。正式には、見道・修道・究竟道を説いて「出離道」と名づけます。また、方便や資粮、加行も、煩悩を抑え伏せるものであるから、これも「出離道」と呼びます。 声聞（しょうもん）の行者は四諦を観じ、縁覚（えんがく）の行者は四十四智・七十七智によって、苦しみを超え出る道とします。菩薩は二空の智、さらに三十七品・六度・四摂などを修行します。仏は煩悩障と所知障の二つの障りをともに離れるので、「苦しみを超え出る道にして、恐れなし」といいます。 三乗の聖道を出ることを、苦しみを超え出る道の法とします。正等覚と四無畏とは、同じものではなく、また無畏が正等覚など四つと同じというわけでもありません。これら四つの法は境（対境）であり、如来はこの四つの上に、身心ともに畏れるところがないので、その名をもって「無畏」と説くのです。

言於此四中等者。簡要云。初二是自利德。即佛自是正等覺。正等覺之無畏。漏盡之無畏。後二是利他德。障法無畏。出苦道無畏。通三乘人。出苦道及三乘障法也。無畏屬佛自身故。出苦道之無畏。障法之無畏。皆依主也。

> ここで言う「四無畏」について、簡潔に説明します。最初の二つは自利の徳です。すなわち、仏ご自身が正等覚（完全なる悟り）であり、正等覚に関する無畏（恐れのないこと）と、煩悩を尽くしたことによる無畏です。後の二つは利他の徳で、障法無畏（悟りを妨げる法についての無畏）と、出苦道無畏（苦しみから抜け出す道についての無畏）です。これらは三乗（声聞・縁覚・菩薩）の人々に通じるもので、苦しみを超える道と、三乗が乗り越えるべき障害の法を示します。無畏は仏自身に属するものなので、出苦道無畏と障法無畏は、いずれも「〜についての無畏」という意味で、仏に従属する関係にあります。

言出體性等者。五重出體。道理一准。前十力中釋。

> 「言出體性等者」とは、五重の出體についてであり、その道理は一様に準じる。先の十力の中での解釈と同じである。

言若起作用者。金云。等覺諸法。及斷種現。是住自性。正智為體。即本智也。說障法出苦道等。是起作用。後智為性。相國。此四無畏。各有自姓作用。

> もし言（ことば）に働きがあるならば、金剛（こんごう）の教えでは、すべての法（ものごと）を等しく覚り、煩悩の種子（しゅじ）と現行（げんぎょう）を断ち尽くすことが、自性（じしょう）に安住し、正智（しょうち）を体とするものであり、これが根本智（こんぽんち）です。また、障害となる法を示し、苦しみからの解脱の道を説くことは、働きを起こすことであり、後得智（ごとくち）を体とします。相国（しょうこく）よ、この四無畏（しむい）には、それぞれに自性と働きがあります。

言發起者。因定發慧。而得四故。故引發故。以定慧為體。此引發義。亦同十力中解。餘義并同。

> ここで言う「発起」とは、定によって慧を発し、その結果として四つの功徳を得ることである。ゆえに「発起」と名づける。その本体は定と慧である。この「発起」の意味は、十力の中での解釈と同じである。その他の意味も同じである。

言談實等者。同前尅實體也。

> 言談が実のことである、というのは、先ほどと同じく、確かに実体のあることを指すのである。

言如經言者。菩薩藏經也。

> この経典の言葉は、大乗菩薩の教えを説いた『菩薩蔵経』のことです。

言復有沙門或非沙門等者。問世尊經教中。言佛具一切智。無所不知。何故。比丘從他方來。佛問言安樂住否。乞食易得否。事與教不相符也。

> また、ある修行者や修行者ではない人々がこう問うことがあります。「世尊の経典の教えに、仏はすべての智慧を具え、知らないことはないと説かれています。それなのに、なぜ比丘が他の地方から来たとき、仏は『安らかに暮らしていますか』『托鉢は簡単に得られましたか』と尋ねられるのでしょうか。これは教えと矛盾しているのではないでしょうか」と。

言遂於此中有立難云等者。世尊既有問詞。狀似不知。便招傍人難言。佛若知。何要問。若不知要問者。何得言具一切智。據實。如來所知障盡已。但是如來示相引導之門。垂軌後人。故陳是事。

> この中で難を立てて言うことあり。「世尊は既に問いの言葉をお持ちである。その様子は知らないかのようである。それゆえに傍らの人が難じて言う。『仏がもし知っているなら、どうして問う必要があろうか。もし知らないなら、問うことが必要なのか。どうして一切智を具えていると言えるのか』と。実のところによれば、如来は所知障を尽くし終えている。ただ、如来は姿を示して導く門として、後の人々に手本を垂れるために、この事を述べられたのである。」

言我於此難正見無由等。對法云。我於是事正見無緣。緣者由也。意言我見汝難。無其來由所以也。無真實道理緣由也。得安穩住者。身無畏無怖。無畏者心無畏也。自稱我處大仙等者。由語業無畏也。

> 私がここで、あなたの問いに対して正しく見ることができない理由はない。『対法論』にはこうある。「私はこの事について、正しく見る縁（理由）がない」。縁とは「由」すなわち理由のことである。つまり、「私はあなたの問いを、その由来・根拠なしに理解している。真実の道理や理由がなくても、私はそれを見通している」という意味である。 「安穏に住することを得る」とは、身体に恐怖や怯えがないことである。畏れがないとは、心に怖れがないことである。「自ら大仙の処にいると称する」とは、言葉の行為（語業）によって、何の怖れもないことを表している。

言攝受來者等者。問比丘乞食易否。今生歡喜之心。無非利益。皆是法輪。

> 来る者を摂受するとは、比丘に乞食が易しいかどうかを問うことである。今、喜びの心を生じさせることは、利益でないものはない。すべてこれらは法輪である。

言欲令諸人審等者。問阿難言天雨下否。欲令阿難審諦於事。佛知尚問。況餘不知。

言亦為後人作等者。如夫子入太廟每事問。例後人也。亦是夫子禮也。然佛一切語言。皆為利益。皆是法輪。如多聞等十部小乘。許諸佛言非皆利益。如問慶喜天雨下否。問諸比丘乞食易不。此何利益。轉何法輪。答大眾等十部小乘。諸佛言皆為利益。問天雨下等。令審講事。佛知尚問。乞食令喜等發心修行。非無利益。皆是法輪。四無畏中。前三屬佛。後一屬弟子。而由世尊言我於四事皆悉了知。而無有畏。世尊既鳴。是言於事中。多有違文。故即有難。

言遂有難言言諸漏等者。問如何初成道。降伏天魔。佛即努眼。嗔魔王。言獘魔等。佛即有嗔。又如提婆達多。見佛出家去。便言。我與邪輪共生羅睺。佛聞此語。即嗔提婆達多。癡人愚人。經中雖言漏盡。相上貪嗔癡宛然。叱呵調達有嗔愛。

喜漂溺。為對治第二禪喜。故第三禪立念支也。此第四定為第三定中勝樂。留礙不能出離。是故世尊勸住正念故。第四禪立念支也。此問答大小乘果。問初二禪身光何別。答初禪身光。如末尼珠。內暗外明。二禪身光。如燈明。內外俱了。今准此中。若依小乘。初二定中無樂受。所言樂者。即是輕安。若准大乘。即是樂受解經禪字了。

言定是四無色等者。分二。初釋名。後出體。釋名中。初釋總名。後別名。且總名。總名無色。婆沙一百四十一云。何故此四說名無色。答超過一切有色法故。色法於此無主容故。說名無色。四者是數。名無色者。無色謂無色。即是四箇根本上三近分。此七處名無色也。空處近分。樂得此名。緣下地色。有色想故。若依大眾化地部等。許見色界。有細業果色。以色細故。立無色名。所言無色者。無彼麤色。若依大乘。言無色者。無業果。許有果色。言無色者。據業果而論之上總名了。後釋別名者。一空無邊處者。具依空無邊處近分定。先對治却四禪已下色。法苑云。空者空其色故。無邊者。十方諸相不可分別。即無邊虗空也。處者。定與心心所法。名處。空無邊是境也。處是能緣心。緣無邊之處。依主釋也。色者質礙義。若不觀色作空。神通往來。即有障礙。觀行成就。當情所緣。是空無邊行相也。問何名處。答二解。一云。約修定人。說能緣心。緣空之處。名處也。二者。處謂能緣定。心是生功德之處也。二者。識無邊處者。當地能緣心緣空處。能緣空之識為境也。下地空既無邊。能緣之識。亦無邊也。三者。無所有處者。小乘二說。一者。觀此位。我我所無。名無所有處。問一切地中。無我我所。何獨此地名無所有。答餘地雖有。勢分羸劣減少。不同此地。二者。不者同下地觀識。此位之中。總不觀境。寂靜而住。名無所有。大乘不然。以當地二十二法為能緣。將識無邊處。能緣無邊之識為境又云。或有所無邊處。所緣無邊之識為境通此二為前正於此識上。思惟觀察。離識之外。更無一法。以無所有為境。無少所有。故名無所有。問緣無不生心。如何牽起能緣心耶。答雖然以無為境思惟。勝解之時。事須依上觀察作無有解也。觀識外無有一法也。亦不緣空。亦不緣識。唯觀無所有為境。四者。非想非非想處者。緣無所有處。能緣為心境。第一非字。非由無也。此定之中。無彼下地麤想。名非想也。第二非字。非由不也。第三非字。非由無也。即不是無也。當地內心極細。心想不無。故云非非想。法苑云。無所有處當地極細心心所二十二法不無。故云非非想。次出體者。婆沙云。一者修得。二者生得。若修得者。有定果色。兼有色蘊。若生得者。四蘊為性。故大乘法苑云。眷屬五蘊為性。此定果色。又言無色定者。四根本上三近分定。唯緣無色定。其空處近分定。通緣下地色境。有色想故。不空緣無色也。問色與無色定相狀何別。答入四靜慮定時。其身相狀。如處室中。入無色定時。其身相狀。如處虗空。問如何無色唯此四定耶。答離下地生得分四種。離第四靜慮生得空無邊處。離空處生立識無邊處。離識處生立無所有處。離無所有處生立非想非非想處。又有說。由受生有四處。謂空處二萬劫。識處四萬劫。無所有處六萬劫。非想非非想處八萬劫解禪定了。

言解脫謂八解脫等者。法苑十門分別。一烈名字。二顯行相。三出體性。疏中有三門也。四釋名。五所緣境。六凡聖得。七離障別。八依身起。九二得果。十有漏無漏分別。

## 法華玄贊要集卷第十六

乹符六年冬溫州開元寺講大慈恩比丘弘舉傳寫供養。

弘長元年辛酉漆月拾日寫之畢。　　永實

同年十月二日一交了。