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title: "大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔 · 4"
description: "唐代澄观所著的《大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔》是华严宗重要注疏之一，为解释《华严经》及智俨、法藏等前人疏解而作。该书系统阐发了华严教义中的法界缘起、十玄六相等核心思想，融合了判教理论与修行实践。作为华严宗承前启后的权威论著，它不仅深化了佛教哲学体系，还对后世禅教融合产生了深远影响，被誉为华严教学集大成之作，在汉传佛教中具有崇高地位。"
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## 大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔卷第五

> 華厳経疏演義鈔巻第五

唐清涼山大華嚴寺沙門澄觀述

> 唐の清涼山大華嚴寺の沙門澄観の述

第五依現相。疏文分四：一總明大意、二顯相不同、三別明放光、四料揀同異。今初，應有四句：一者隨相、二者無相、三者無相不礙相、四者相即無相。「法性寂寥」即第二句。「無相之相」即三四句。下別明中有初一句，故應莫執無相以斥諸相也。故下經云「如來非以相為體，但是無相寂滅法，身相威儀悉具足，世間隨樂皆得見。」《十地經》云「佛住甚深真法性，寂滅無相同虛空，而於第一實義中，示現種種所行事。所作利益眾生事，皆依法性而得有，相與無相無差別，入於究竟皆無相」等，即其義也。

> 第五に、現相による観点について述べます。疏の文は四つの部分に分けられます。第一に全体の大意を明らかにし、第二に相の違いを示し、第三に放光について別に説明し、第四に同異を比較検討します。今、最初の部分には四つの句があるべきです。一つは「随相」、二つは「無相」、三つは「無相は相を妨げない」、四つは「相はすなわち無相」です。「法性は寂寥」というのは第二の句です。「無相の相」というのは第三と第四の句です。以下の別明には最初の一つの句があるので、無相を固執して諸々の相を斥けてはならないと理解すべきです。したがって、後の経文に「如来は相を以て体とせず、ただ無相寂滅の法であり、身の相や威儀はすべて具足し、世間は楽しみに随って皆な見ることができる」とあります。『十地経』には「仏は甚深の真法性に住し、寂滅無相は虚空の如くであるが、第一実義の中にあって、種々の所行事を示現する。衆生を利益する所作の事は、皆法性に依って有り、相と無相は差別なく、究竟に入って皆無相である」とあり、これがその意味です。

疏「起教多端」下，第二顯相不同也。由所起教異，故能起相殊。如說《法華》，以放光動地雨華為相；將說《涅槃》，以聲光遍照普告為相；如說《般若》，以散金華為相。今經具有諸相，華藏世界六種震動，雨於華雲香雲蓋雲鬘雲瓔珞雲等，皆其相也。又〈現相品〉現五種相等。

> 「教えを起こすには多くの方法がある」という疏の下、第二にその顕れる相が異なることを示します。起こされる教えが異なるからこそ、起こす側の相も異なるのです。例えば『法華経』を説く際には、光を放ち大地を震動させ、花を降らせることを相とします。『涅槃経』を説こうとする際には、声と光が遍く照らし、あまねく告げ知らせることを相とします。『般若経』を説く際には、金の花を散らすことを相とします。今この経にはこれらの様々な相がすべて備わっています。華蔵世界が六種に震動し、花の雲、香の雲、蓋の雲、鬘の雲、瓔珞の雲などを降らせるのも、すべてその相です。また〈現相品〉には五種の相が現れると説かれています。

疏「故諸會」下，第三別明放光。於中文三：初總明；次「然有二」下別顯；後「隨處放異總有十光，各有所表至文當知」者，重釋隨相。三中言十光者，第一會放於二光，謂〈現相品〉初，於如來眾齒之間放種種光；二亦於此品放眉間光。第二會放足輪光。第三會足指放光。第四會足上放光。第五會膝輪放光。第六會亦眉間放光。第七會初不放光，而〈出現品〉放二種光，謂放眉間光加於妙德，放於口光加於普賢。第八會總不放光。第九會亦放眉間白毫光明。初會、七會各二光，八會不放故，故九會共有十也。言各有所表者，初面門眾齒放者，表教道遐舒，金口所流，從佛口生，真佛子故。以是義故，於總處放也。又表咀嚼法味滋法身故等。眉間放者，通表一乘中正之道。足輪最下，表信四義：一自下而上，信最初故；二最卑微故；三為行本故；四信該果海，已滿足故。第三會足指安住故。四足上依行故。五膝輪屈伸，可迴向故。六十地眉間，表所證十如具足中道故。七出現眉間，表出現中道，不住生死涅槃之二邊故；又口放光，表佛口生，真長子故。第八會不放。行依解發，依解光故；或略無故。第九眉間，表證窮法界之中道故。廣如下疏，故云至文當知。

> 疏の「故諸會」の下は、第三に別に放光を明かす。その文の中に三つある：初めに総じて明かし、次に「然有二」の下で別に顕し、後に「隨處放異總有十光，各有所表至文當知」は、相に随って重ねて釈する。三の中の「十光」とは、第一会は二光を放つ。すなわち〈現相品〉の初めに、如来の衆歯の間において種々の光を放つ。二つ目もまたこの品において眉間の光を放つ。第二会は足輪の光を放つ。第三会は足指が光を放つ。第四会は足上に光を放つ。第五会は膝輪が光を放つ。第六会もまた眉間から光を放つ。第七会の初めは光を放たないが、〈出現品〉において二種の光を放つ。すなわち眉間の光を放って妙德に加え、口の光を放って普賢に加える。第八会は総じて光を放たない。第九会もまた眉間の白毫の光明を放つ。初会と第七会はそれぞれ二光ずつ、第八会は放たないので、九会合わせて十光あるのである。「各有所表」と言うのは、初めの面門の衆歯から放つのは、教道が遠く広がり、金口から流れ出て、仏の口から生まれ、真の仏子であることを表す。この義によって、総（まさ）に処において放つのである。また法味を咀嚼して法身を滋養することを表す、など。眉間から放つのは、一乗の中正の道を広く表す。足輪は最も下にあるので、信の四義を表す：一には下から上へと向かい、信が最初であること。二には最も卑しいものであること。三には行の根本となること。四には信が果海に及んで、すでに満ち足りていること。第三会の足指は安住することによる。第四の足上は行に依ることによる。第五の膝輪は屈伸して、回向すべきことによる。第六の十地の眉間は、証する十如が中道を具足することを表す。第七の出現の眉間は、出現の中道を表し、生死と涅槃の二辺に住しないことによる。また口から光を放つのは、仏の口から生まれ、真の長子であることを表す。第八会は光を放たない。行は解に依って発起し、解の光に依ることによる。あるいは略して無いのである。第九の眉間は、証する法界の窮まりの、中道を表す。広くは下の疏の如くであるので、「至文當知」と言うのである。

疏「其動地等」下，第四料揀同異。慶前起後二義不同，故取起後，不取慶前。言「如十地」等者，九地初云「說此菩薩八地時，如來現大神通力，振動十方諸國土，無量無數難思議」等。既牒八地，明是慶前，讚竟便請第九地故，義兼起後。

> 疏の「其の動地等」の下は、第四に同異を料簡(りょうけん)する。前を慶し後を起す二つの義は異なる。故に後を起す方を取り、前を慶する方を取らない。「如十地」等と言うのは、第九地の初めに「この菩薩が第八地を説く時、如来が大神通力を現し、十方の諸国土を振動し、無量無数にして考え難きこと etc.」とある。既に八地を挙げているので、これは前を慶すること明らかである。また讃え終わってすぐに第九地を請うので、その義は後を起すことも兼ねている。

第六依說人。疏文分二：先總顯來意、後開章別釋。今初。先立理。然法有四種，教、理、行、果。理法湛然無興廢，龍宮教海亦多長在，修行剋果則在於人。故《般若論》云「法欲滅者，修行滅故。」然弘有二義：一者自行、二者轉化，今取轉化。「下文云」下，引證也，即第十六卷勝慧菩薩偈，具云「譬如暗中寶，無燈不可見。佛法無人說，雖慧莫能了。」故說者如燈，能照眾生心寶故。

> 第六に、説法者（説く人）について述べる。疏の文は二つに分かれる。まず全体として来意（この章を設けた意図）を示し、後に章を開いて別々に解釈する。今はその初めである。まず理を立てる。そもそも法には四種ある。教・理・行・果である。理の法は湛として（清らかに静かで）興廃がなく、龍宮の教えの海もまた多くは長く存在する。修行して果を得ることは、人に懸かっている。ゆえに『般若論』に「法が滅しようとするのは、修行が滅するからである」と説く。また、弘める（広める）ことには二つの意味がある。一つは自ら行ずること、二つは他を教化することである。今は他を教化する方を取る。「下文云」の下は、証拠を引いているのである。すなわち第十六巻の勝慧菩薩の偈に、詳しくは「譬えば暗中の宝は、灯が無ければ見ることができない。仏法も人が説かなければ、慧があっても理解することはできない」とある。ゆえに説法者は灯のようなものであり、衆生の心という宝を照らし出すのである。

疏「今此能說通三世間」下，開章別釋。於中三：初總明說人、次指文顯說、後說儀不同。今初，總有四種：一明有三、二開三為五、三開五為十、四開十為無量。

> ここから、この経典を説く者が「三世間」に通じるということを示して、章を開き別々に解説します。 その中で、三つの部分に分けられます。 第一に、説く者全体を明らかにすること。 第二に、文を示して説くことを明らかにすること。 第三に、説く様式の違いを明らかにすること。 まず最初に、全体を明らかにする中で、全部で四種類があります。 第一に、三つがあることを明かす。 第二に、三つを開いて五つとする。 第三に、五つを開いて十とする。 第四に、十を開いて無量とする。

疏「開即為五」者，開三世間中智正覺一為三乘故，眾生世間及器世間仍舊不開，故為五也。

> 疏が「開けばすなわち五となる」と言うのは、三世間の中の智正覚を一つ開いて三乗とするからである。衆生世間と器世間は従来のまま開かないので、五となるのである。

疏「更開為十」等者，以三世為三，微塵說為四，毛孔說為五。疏「器及有情各有分圓」下，出為十所以。直語世界說，是器家之圓；若言微塵說，即器家之分。但言有情說，是有情家圓；若云毛孔說，即有情家分。言有情者，即含前佛菩薩聲聞眾生也。疏「此上諸說通三世」者，上之七說並通三世也。謂過去佛說、現在佛說、未來佛說等。疏「故普賢」下，引證。言「如是說等」者，等取下句種種悉了知也，亦等餘文。

疏「廣則無量法界品中類非一故」者，〈法界品〉中略明五類法界，皆有說義。五類之內一一復多，故云無量。言五類者，一法法界、二人法界、三俱融、四俱泯、五無障礙。初中有十門：一事法界、二理法界、三境、四行、五體、六用、七順、八逆、九教、十義。二人法界亦有十門：一人、二天、三男、四女、五在家、六出家、七外道、八諸神、九菩薩、十佛。又事有多事，天有多天，神有多神，百一十城、三千知識等，故云類非一也。

疏「如僧祇」下，指文顯說。言「菩提樹等」，即器世界說。「至文當知」者，經云「其菩提樹恒出妙音，說種種法無有盡極。」而言等者，等取餘文師子座說等。又等取塵毛之文，如善慧地云「或時心欲放大光明演說法門，或時心欲於其身上一一毛孔皆演法音，或時心欲乃至三千大千世界所有一切形無形物皆悉演出妙法言音」，乃至云「或時心欲令不可說無量世界，地水火風四大聚中所有微塵一一塵中，皆悉演出不可說法門。如是所念，一切隨心無不得者。」上之所引，即器界塵毛等說也。

疏「其能說」下，三明說儀不同，指下文耳。

第七依聽人。疏文有二：先明大意；後「即下諸眾」下，略指類別。疏「子期云喪」者，《列子》云「伯牙善鼓琴，鍾子期善聽。伯牙鼓琴，志在高山。子期曰：『善哉！峨峨兮若泰山。』志想流水。鍾子期云：『善哉！洋洋兮若江漢。』伯牙所念，鍾子期必得之。伯牙遊於泰山，又遇天陰卒逢暴雨，止於巖下，心悲乃援琴而鼓之。初為霖雨之操，更造崩山之音。音曲每奏，鍾子期輒窮其趣。伯牙乃捨琴而歎曰：『善哉！子之善聽。夫志想像猶吾心也，吾於何處以逃聲哉。』」《莊子》加云「鍾子期死，伯牙終身不復鼓琴。」《文選》云「士為知己者用，女為悅己者容。」明人之道術在遇知音，知音即聽者。

第八依德。本文三：初明大意、次「略有二類」下別釋、後「若感者」下揀濫。初中，疏「川有珠」下喻。「內無德」下合。後「然唯約說者」，揀定。

第九依請人者，文二：先舉無顯有、後「然有二」下別示請儀。

第十依能加者，亦二：先總明大意、後「然若佛」下別釋所以。今初，先立理、後指陳。前中，借《尚書》意故。彼第四云「民罔常懷，懷之有仁。鬼神無常享，享于克誠。」「心冥至極」下，指陳也。以入定契理，故佛加耳。故下文中「以三昧力故，感十方諸佛現前」等。別釋中四：一總彰有無、二「所以加者」下出加所以、三「若爾僧祇隨好」下釋通妨難、四「加有」下就類彰別。二中，先徵、後釋。釋有三意。疏「欲顯諸佛同加即同說故」者，即第一意。若佛自說，即不可言加，即但名自說耳。今由同加皆與智勸說，則顯同說也。疏「一說一切說故」者，第二意也。上顯通方之法，此顯圓融之教。然一經中總具四句，今但舉一，以順同加義故。言四句者，一者一說，如〈僧祇〉等。二者一說一切說，如向所明。三者一切說是一說，如一切處文殊遍周法界同聲說偈，顯法無異故。四者一切說是一切說，如十方來證皆自敘云：「我等諸佛亦如是說。」餘三不順同加，故疏不明耳。疏「亦顯果海」下，第三意也。佛表果海，菩薩表因故。故《十地經》云「此處難宣示，我今說少分。」論經云一分，論釋云果分不可說，但說因分，因分於果分為一分耳。

疏「若爾僧祇」下，三釋通妨難。於中三：初設難、二釋難、三遮難。今初也。

疏「表微細」下，二釋難也。略舉二意，對前三意。言「微細難知」者，對前同說及一切說。前菩薩說，以受加故，表佛同說。今以僧祇數量重重微細，唯佛能知。隨好光明功德，一好一光能破地獄，三重頓圓故亦難知，唯佛能了故佛自說。疏「超出因果故」者，對前果海不可說也。前難中意云：若以菩薩表因，今佛自說，應可表果可說。故今答云：對果說因，言因可說。因無果外之因，沒同果海故。因亦叵說，如鳥跡同空跡亦叵說。因既非因，果亦非果，欲拂前因果之相，故佛自說。

疏「然施設不同不應一準」者，三遮難也。恐有難言：若今佛說即表微細，餘應是麁。此言超出，前應繫著。故此遮云：聖教施設千差萬別，各取一表不應剋定。受加表於同說，亦非麁非著；佛說表細顯超，亦不礙於同說。約表小異，大旨全同，何不亡言？觸途生滯，故云不應一準。

疏「加有二種」下，第四就類彰別。於中二：先顯別、後指文。前中顯有三業者，口業勸說以益辯、意業冥加以益智、身業摩頂以增威。然意與智雖則是冥，以與身語同時，此二顯彰，以少從多故。三皆稱顯，冥唯與智，故有不同。

疏「普光法界」下，後指文也。普光攝三會，謂二七八也。法界，即是第九會故。此四會並唯有冥，由二七兩會不入定故，故無顯加；而文殊師利、普賢菩薩皆言承佛神力，故是冥加。第八會普賢雖入三昧無有加分，但有作用發起，故無顯加；亦云承佛神力，故有冥加。〈法界品〉如來自入三昧，不可有加。下普賢、文殊有說無定，故闕顯加；皆承佛力故能說能證，故有冥加。疏「餘皆具二」者，即餘五會。「顯必有冥」者，釋具所以。冥即未必有顯，顯即必有於冥，以如來有力有慈常冥加故。未定緣闕，不容有顯，故唯有冥。顯加之時，冥常不捨。又有意加，故言必有。疏「餘至下明」者，謂冥顯加相有多義門，隨文具顯也。

第二藏教所攝。疏文分二：先總、後別。總中亦二：先總科、後「今初」下牒釋總名。引世親攝論者，然《攝大乘論》本論即無著菩薩所造，釋有多家，此方有二本，即世親、無性二菩薩也。大唐三藏俱譯二本，各有十卷。梁朝真諦譯世親釋論，有十五卷，今稱梁攝論。是釋義大同小異，疏家隨便引之。恐濫三本，故各以異名揀之。然依古德，多引梁論。若今自取，多引無性、世親。疏「謂攝一切所應知義」者，即彼論自釋攝義。「所應知」者，然論無別釋，下廣顯論所明，即十勝相，謂一應知依止勝相、二應知相勝相、三應知入勝相等。十相皆言應知，即理事等法皆應知也。

疏「攝即包含」者，疏家轉將攝義復釋於含，以前標云以含攝故，故牒釋也。疏「言三藏」下，第二別釋，分二：先三藏、後二藏。前中三：初總列、次「初中」下別釋、後「然此三藏」下總顯所詮。二中，三藏即為三別，皆先標、後釋。疏「今初亦名」下釋也。於中四：一會梵音、二敘古譯、三敘古破、四會順違。今初。言「梵音素怛纜」者，唐三藏譯云「是中天之語，什公多譯為修多羅，亦云修妬路，多通諸天。什公是龜茲人，近於東天。實叉三藏于闐國人，多近東北。然什公亦遊五天，隨時所受小有輕重，語其大旨理則無乖。然前後三藏多云修多羅也。」「梵音楚夏」者，秦洛謂之中華，亦名華夏，亦云中夏。淮南楚地非是中方，楚洛言音呼召輕重。今西域梵語有似於斯，中天如中夏，餘四如楚蜀。西來三藏，或有南天、或有北天、或有中天，東西各異。

疏「古譯為契經」下，第二敘古譯也。於中五：一標名；二「智論」下引證；三「契謂契理」下會義；四「即契理合機之經」下會六釋，以契對經即名依主，以契經對藏便名持業；五「復云」下會傍正。疏「有云按五印度至斥於古德經非敵對」者，第三敘古破。此古即是靜法寺苑公《刊定記》中義也。但言有云，即是《刊定記》主。若云古德，多是藏和尚，亦有此前諸德。此中總舉先古諸德。又此中疏撮略《刊定》之意耳。《刊定記》敘古義竟，便云「今詳諸論及以梵本，良恐不爾。所以者何？此中通辯有三失故：一敵對翻名失、二以義為名失、三總別不分失。」今疏所明即第一失，謂修多羅一名既含四實，線既敵對，經何得非？經亦是敵對，言非敵對，故云敵對翻名失。故今疏云「斥於古德經非敵對」。二以義為名失者，意云：經字是名、契字是義，以經有契理合機之義，故借契義以助經名。而呼契經兩字全作名者，即是以義為名失也。若是全名者，應云欲底修多羅。欲底之言，有其三義：一者契義、二順古所行、三依正道理。今取契義，既無欲底之言，明知名無契字也。又舉例云：如質多名心、集起為義，詎翻集起亦作名耶？意云：集起既非心名，契理豈是經目也。三總別不分失者，彼云：但藏部立名，各有兩重總別：一謂三藏十二部為總名，修多羅等為別稱；二謂修多羅為總號，毘奈耶、應頌等為別目。古來相傳，唯辯前門不論於後。今修多羅，依藏部中總相業用而立其名，餘藏部名依藏部中別相業用。所以者何？修多羅業能貫攝故。餘藏餘部所詮所化，由此貫攝彼方成故。故《涅槃》十五云「始從如是我聞，終至歡喜奉行，一切皆名修多羅故。」釋曰：《刊定記》文猶似難見，今更為釋。言各有兩重總別者，如三藏中兩重者，一云三藏是總、經律論為別；二修多羅是總稱、調伏對法為別稱故。三藏中修多羅即是總名，雖標總稱即受別名，故云今修多羅依三藏中總相業用。古人不知此從總相得名，但謂為別，故云總別不分失也。又如十二部亦有兩重總別者，一云十二部經是總名也，謂修多羅、祇夜等即為別稱。二云修多羅是總名，祇夜等十一為別稱。不取修多羅，以修多羅為總故。亦雖標總稱，即受別名。是則三藏中修多羅通於二藏，十二分中修多羅通餘十一故。若不通者，修多羅既稱契理合機，餘無此名應不契理合機。既俱契理合機，明知修多羅是從總相立名耳。三藏十二部皆有兩重總別，故云各有也。《刊定》之意，亦有理在。今謂若十二部中修多羅，則通十一及於三藏；若三藏中修多羅名，唯通十二，不通二藏。二藏之中有契合者，自屬十二分中修多羅耳。思之。以非苦要，故疏略不敘，唯明初一。恐欲知根本，故鈔具敘耳。彼復破於遠公三修多羅，至〈十藏品〉當說。

疏「今更詳之」者，第四會順違也。於中三：初全縱、次半奪、後出古意。今初，言「古如所破」者，經線俱為敵對，而言線是經非，故如所破。

疏「若兼順義」下，二半奪也。縱其經是敵對，奪其不名聖教，是故一名含於多實，應須順義立名。如仙陀婆一名四實，若譯經中五味之處，應譯為鹽；若譯經中王之所乘仙陀婆者，應譯為馬，不可言水言器。今譯佛經云修多羅，合名聖教也，言線言索非全愜當，故云經自屬於席，經敵對應名聖教。「梁攝」已下引文為證，即第一論。然此所引上兩句全是論文，「為成聖教」下乃取義釋。以彼本論云「攝大乘論即阿毘達磨教及修多羅。」釋論云「此言大乘者，欲揀小乘阿毘達磨。何不但說阿毘達磨名，復說於修多羅名？有阿毘達磨非是聖教故。」此中意云：若但言阿毘達磨，揀濫不盡，故加修多羅言，揀異凡夫所造之論，明是聖教之論故。今引意者，本論牒修多羅，釋論之中乃云聖教，明是譯修多羅為聖教也。

疏「古德見此方儒墨皆稱為經」下出古意也。席經不順本義，是故借耳。儒即儒教，夫子為主。墨即墨教，墨翟為主，亡身益物是其所宗，如夏禹之勤，用斯意也。儒有九經五經等，皆稱為經。經者，常也、典也。聖人之言方得稱經。此方既以聖人之言為經，故譯聖教亦名經也。言「雙含二義」者，即聖教及經緯義也。「俱順兩方」者，順此方夫子等經，順西域經緯聖教之經也。恐濫席經故，加「契」字以揀之耳。古人既以敵對為線，明知亦未了契經半從義耳，故為允當。

疏「二顯相」下，此中大意，取其一名四實以會《雜心》五義，便是顯修多羅之相。文中三：初總舉包含、二「故雜心」下正會五義、三「總上五義」下以義貫通。二中，即《雜心》第八〈修多羅品〉云「修多羅者，凡有五義：一曰出生，出生諸義故。二曰涌泉，義味無盡故。三曰顯示，顯示諸義故。四曰繩墨，辨諸邪正故。五曰結鬘，貫穿諸法故。如是五義，是修多羅義。」今疏引初二義不次者，依古疏引，取義便耳。

疏「總上五義不出貫攝」，於中二：先總釋貫攝、後彰所貫攝。前中有三：初標義、二引證、三釋所引。疏「故佛地論第一」者，二引證也。全引論文，更無所少。而次下對所詮云「應知此中宣說佛地，饒益有情。依所詮義，名佛地經。如緣起經、如集寶論。」意云：皆從所詮也。

疏「此或貫攝通所說所化」下，三釋所引論也。釋有二義：一通、二局。上即通也。言二義通所說者，謂貫穿所說之法，攝令不散故。故下疏引《瑜伽》云「攝取聖語」。言二義通所化者，貫穿所化眾生心行，攝取不捨故。局義可知。

疏「又世親攝論」下，第二彰所貫攝之法。於中二：初引《攝論》正釋、後例同指餘。前中，即彼論第一。文中亦二：先引論總標、後「依者」下引論別釋。釋標四義則分為四：初釋依中，舉其三事。一「於是處」者，即說經處，如佛在摩竭提國等。二「由此」者，即說經因緣，即所被機等。如《十地經》，由十方佛加，解脫月請等。三「為此」者，即說經意。如〈發心品〉云「為欲顯示佛法故、為以智光普照故、為欲開闡實義故」等。故梁論云「是處、是人、是用。」疏「相者謂世俗諦相、勝義諦相」者，謂世尊說法有何相貌。諸佛唯依二諦為眾生說，更無餘相。疏「法者謂蘊界處」等者，即所詮法門軌持之法，一一皆通二諦。蘊即五蘊，界即十八界，處即十二處，緣起即十二因緣，諦即四諦，食即四食，如世親論第十初說。靜慮即四靜慮，無量即四無量，無色即四無色，解脫即八解脫，勝處即八勝處，遍處即十遍處，菩提分即三十七品等。無礙解即四辯才，無諍即無諍三昧。等者，等餘法數。並下經文廣有其相。疏「義者隨順密意說」等者。義名所以。世尊說法，或顯了說、或密意說。如說一切皆空，此就第一義說。凡夫不解，謂無俗諦等。亦如四意趣、四隨等。梁論釋義云「義者所作事故名義，生道滅惑是事。」此意云：佛所說經，但令眾生生道滅惑，以為其義耳。亦佛之意趣也。

疏「瑜伽二十五、顯揚二十」等者，二例同指餘。先例同，謂彼二論皆云素怛纜者，謂佛世尊於彼方所、為彼有情、依彼所有諸行差別，演說無量蘊相應語，乃至廣說。結集法者，攝取聖語為法久住，以美妙言次第結集，貫穿縫綴能引義利，能引梵行真妙實義，是素怛纜。疏「餘義至十二分中當明」者，下有異名，有四：一依《仁王．二諦品》名為法本、二依梁論名為聖教、三依《成論》名直說語言、四依《智論》第二但名為經。四中，疏文已有二四，初三二名在〈十藏品〉。又三局十二分中修多羅，故此不釋。又遠公立三修多羅，一總相、二別相、三略相。《刊定記》破於後二，並在〈十藏品〉中，故云餘義等。

第二毘奈耶藏。疏文分二：初總科、後「前中」下別釋。於釋名中二：先正釋、後辯異名。今初。

疏「此翻為調伏」者，準《刊定記》云「義翻為調伏。若敵對翻，正稱為律。」若素律師疏云「梵曰毘尼，或云鞞泥迦、毘那耶、鼻那夜，此等皆由梵音輕重不同，傳有訛略不得正名。正曰毘奈耶，此云調伏。」

疏「毘尼或翻為滅」下，二辯異名。於中有四：今初。名滅者，東塔又云毘膩多，此云已調伏，當其滅義故。母論第一云「滅諸惡法，故名毘尼。」釋曰：若依此釋，則毘尼但是毘膩多之言略耳，則與毘奈耶調伏之義有乖。而上又云「毘尼、鞞泥迦等，皆梵音輕重。」則毘尼亦是毘奈耶略稱，含其調伏與滅二義耳。故疏云毘尼或翻為滅。疏「滅有三義」等者，釋義。一「滅業非」者，不殺盜等，故律中有犯毘尼、有諍毘尼。二「滅煩惱」者，是發業之本，故律云「為調伏貪嗔等令盡，是故世尊制增戒學。」三「得滅果」者，即無為果，故戒經云「戒淨有智慧，便得第一道。」疏「或名尸羅」等者，第二名也，即雙從因果得名。

疏「亦名波羅提木叉」等者，第三名也。言「揀異定道」者，非是定共、道共二戒。是遠離󰊋縛業緣，名為解脫。疏「亦翻為隨順解脫」者，即第三名中別義也。故《遺教經》云「戒是正順解脫之本，故名波羅提木叉。」又《相續解脫經》云「五分法身，名為解脫。」梵云毘木叉。若涅槃解脫，梵云木叉。依此亦可雙從因果得名，隨順是因故。又《刊定記》云「離過無障。名無木叉。業用無礙，名毘木叉。」又云「復有異名，名優波羅叉。此西域外道律名。又名刺闍爾地地字音提，此西域王法律名。」

疏「後顯相者」下，顯相。文二：先指前總說，謂制伏過非及滅惡等，即行止行，調練三業。性善守信等通於止作。毘尼以止惡作善為宗，律宗其唯持犯，故以止作總為顯相。

疏「若別說者」下，二論別釋。言「廣如彼論」者，論云「犯罪者，謂五眾罪。等起者，為無知故、放逸故、煩惱盛故、不尊敬故而犯諸罪。還淨者，謂由意樂不由治罰，如受律儀。出離者，有七種：一各各相對說悔所犯。二誓受治罰，謂受學等。三等有妨害，為先制學處，後由異門還復開許。四別立止息，謂僧和合，還捨所制。五轉根，謂苾芻苾芻尼轉男女形故，捨不共罪。六由真實觀，謂作殊勝法嗢拕南等諸行相觀。七由法爾得，謂由見諦法爾而得，謂無小隨小罪。應知毘奈耶復有四義：一補特伽羅故，世尊依彼制所學處。二制立故，謂告白彼補特伽羅所犯過已，大師集僧制所學處。三分別故，謂制學處已，更廣解釋先所略說。四決擇故，謂於此中決判所犯，云何有罪，云何無罪。」然《明了論》釋無小隨小罪，自有二說：一云小謂第二篇罪，隨小謂二種方便罪。一云小謂性罪，隨小謂諸戒中制罪。問：今明大乘，那引小教？有答云：理實三藏大小不同，今且就引接教說。古來同此。今更一解，謂持心雖異，名意大同，故得引小。又上所引論名，分明易曉故。又上云「如受律儀」者，梁論云「如本受持對治」。

第三阿毘達磨藏。文中二：先標、後釋。釋中三：初辯名、二顯相、後異名。初中二：先得名、後釋名。前中，先釋法、後釋對。前中，即取《俱舍》意釋。故論云「能持自性故名為法。若勝義法，唯是涅槃。若法相法，通四聖諦，是善是常故名為勝。」即釋彼論也。相者，性也、狀也。「二俱名相」者，亦釋彼論也。以四聖諦中滅諦是理。而皆云相者，滅諦之相即體相也，餘三約相即相狀也。

疏「法既有二」下，釋對，亦取論意。彼論云「此能對向，或能對觀故。」為此屬之。

疏「其能對者」下，出對法體，亦取論意。故論頌云「淨慧隨行名對法。」論曰「慧謂擇法，淨謂無漏，淨慧眷屬名曰隨行。如是總說，無漏五蘊名為對法。」疏「由對果對境分二對名」等者，釋疑。疑云：唯一淨慧，何有二對之名？故為此通。疏「慧但是對而非是法，非所對故」者，揀濫。此是古德解釋。意云：為分能所，故言慧但是對。若據法能持自性，慧何非法？故今揀云非所對故。

疏「言對法者」下，二釋名也，即會六釋。法之對者，依主釋也。疏「故對法藏特名慧論」者，若據所對所依，應名法論。慧依於法，慧為其主，故名慧論。故所詮中詮於慧學。疏「舊譯」已下，出其異名，兼成上慧義。

疏「世親攝論云」下，第二辯相。於中二：先總、後對。義同前下，別釋數者，數字通去入二聲，此取去聲。「數數宣說」者，數即入聲。自相者，如色變礙為相，受以領納為相等。共相者，共有無常苦空等。廣如《十地疏》明。疏「論處所等」者，即《瑜伽論》說，論有七例。頌云「論體論處所，論據論莊嚴，論負論出離，論多所作法。」亦如初地中辯。言「能勝伏他論」者，勝約能立，伏約能破。故梁論云「伏者，此法能伏諸說。」立破二能，由正說依止等方便故。云「通」者，梁論名解，由阿毘達磨通修多羅義，易解了故。「亦名」已下，三辯異名。文處可知。問曰：三藏前二，是佛所說。後一論藏，是菩薩說。是則如來不說三藏耶？答：《婆沙》最初即有此問。問曰：「誰造此論？」答：「佛世尊。」「誰問誰答？」或云舍利弗問、或云諸天問，乃至或云化比丘問。佛答：「若爾，何以云迦多演尼子造？」答：「造彼諷誦耳。」有云：亦是彼說。是則論藏，有是佛說，有是菩薩說，取經中義廣以釋之。以本統末，亦佛說三藏耳。

疏「然此三藏約其所詮」下，第三總顯所詮也。疏「如攝論說」者，亦是世親《攝論》第一。論云「又能說三學故，立素怛纜藏。能成辦增上戒、增上心學故，立毘奈耶藏。謂具尸羅，即無悔等，漸次能得三摩地故。能成辦增上慧故，立阿毘達磨藏。謂能決擇無倒義故。」梁論亦同。疏「兼各通三」者，經中戒慧，其文非一。毘尼增三，文云「云何增戒學？所謂增心學、增慧學，是名增戒學」等。

疏「第二明二藏」等。疏文有四：一標、二「即由前三」下釋、三「故莊嚴」下引證。四「此就二乘」下出所以。於中分三：初正出為二所以、次「若約教行別故」下出三乘三藏不同、後「又由緣覺」下重成二藏之義。疏「即大小半滿不同」者，諸經論中多以大小相對，故分大小經律論。別大乘之中有大乘經律論。小乘之中有小乘經律論。別《華嚴》、《般若》等為大乘經，《菩薩戒》、《善戒經》等為律，《瑜伽》、《智度》等為論。小乘四阿含等為經，五部律為戒，《婆沙》等為論。故大小三藏迢然不同。言半滿者，即出《涅槃》北經第四〈如來性品〉，文云：「善男子！譬如長者唯有一子，心常憶念，憐愛不已。將詣師所欲令受學，懼不速成，尋便將還。以愛念故，晝夜殷勤教其半字，而不教誨毘伽羅論。何以故？以其幼稚力未堪故」等。下合云「所言一子者，謂一切眾生，如來視於一切眾生猶如一子。教一子者，謂聲聞弟子。半字者，謂九部經典。毘伽羅論者，所謂方等大乘經典。以諸聲聞無有慧力，是故如來為說半字九部經典，而不為說毘伽羅論方等大乘。善男子！如彼長者子年既長大，堪任讀學，若不為說毘伽羅論，何名為藏？」乃至云「今我亦爾，為諸弟子說於半字九部經已，次為演說毘伽羅論，所謂如來常存不變。」上即經文。半滿是喻，大小是法，餘義可知。又西方三藏之外加一雜藏，謂陀羅尼、五明論等為四藏，大小俱有則有八藏。若六波羅蜜經說有五藏，小乘三藏，及雜藏為一藏，大乘為一藏，故為五藏。若大開為三，即有七藏。三乘各三，便是九藏，加一雜藏便為十藏。三乘各四，應十二藏。疏中「第二明所攝」下，文中有二：初明彼攝此經、後「若約」下明此攝彼藏，文並可知。上來藏攝竟。

第二明教攝中，疏「二者諸宗立教」等者，由前經藏有權實等，故有此門。於中三：一標舉將說、二總辯深玄、三開章別解。今初，可知。

疏「夫教海冲深」下，二總辯深玄，有標、釋、結。今初。教海總含深廣，文略語深。法雲智光，略明深廣。下經云「一切諸佛雲雨說法，唯十地菩薩能安能受能攝能持，佛剎微塵法門海故、雲雨說法故。」〈夜摩偈讚品〉勝林菩薩云「譬如孟夏月，空淨無雲翳，赫日揚光輝，十方靡不充。其光無限量，無有能測知，有目斯尚然，何況盲冥者。諸佛亦如是，功德無邊際，不可思議劫，莫能分別知。」故云智光無際。「妙辯叵窮」者，《法華》云「諸法寂滅相，不可以言宣。是法不可示，言詞相寂滅。」故四辯八音不能談其狀也。普賢行願云「如來功德，假使十方一切諸佛，經不可說不可說佛剎微塵劫，相續演說不可窮盡。」

疏「以無言之言至無窮之機」者，二釋。即出叵窮所以，全依體上起大用故，非是無言非在言故。然能說之妙，謂無言之言；所說之深，謂言絕之理。故經云「了法不在言，善入無言際，而能示言說，如響遍世間。」《法華》云「以方便力故，為五比丘說」等。「以無變之變」者，能說多端故。下經云「一法門中無量門，無量千劫如是說。所演法門廣大義，普運光天之所了」等。「應無窮之機」者，所感非一故。故九地云「如是乃至不可說世界所有眾生，一剎那間一一皆以無量言音而興問難，一一問難各各不同。菩薩於一念頃悉能領受，亦以一音普為解說，各隨心樂令得歡喜」等。菩薩尚爾，何況如來。〈出現品〉云「如來音聲亦復如是，普入一切處、一切眾生、一切法、一切業、一切報中而無所住者。」即無變之變也。又云「佛子！如來隨一切眾生心行欲樂無量差別，出若干音聲而轉法輪」者，即應無窮之機也。廣如下說。是知如來教法，能深能廣、能高能遠，其猶大海周天，雖涉而難越；孤峯四絕，可仰而叵昇也。

疏「極位所承凡情難揖」者，三結成難思。揖，由測也。九地已下皆測量不及，唯十地菩薩位極能承故。《十地經》云「譬如娑竭羅龍王所霔大雨，唯除大海，餘一切處皆不能安、不能受、不能攝、不能持。如來祕藏大法明、大法照、大法雨亦復如是，唯除第十地菩薩能安能受能攝能持，餘一切眾生聲聞獨覺，乃至第九地菩薩，皆不能安不能受不能攝不能持。」第五經云「佛子眾會廣無限，欲共測量諸佛智。諸佛法門無有邊，能悉了知甚為難。」喜目云：「諸佛法海無有邊，我悉一時能普飲」等，證上可知。

## 大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔卷第五