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title: "樂邦文類 · 華嚴念佛三昧無盡燈序"
description: "乐邦文类由南宋宗晓法师于庆元六年编纂而成，是净土宗重要文献汇编。该书辑录了东晋至宋代二百余位僧俗关于西方净土信仰的论述，包括论文、诗偈、发愿文等，系统整理了净土宗的教义与实践。其编纂正值南宋佛教繁荣期，旨在确立净土法门的正统性与传承。作为中国佛教史上第一部净土宗文集，乐邦文类为研究净土思想发展提供了核心文献，对后世影响深远，是了解汉传佛教净土信仰不可或缺的经典。"
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### 華嚴念佛三昧無盡燈序

> 『華厳念仏三昧無尽灯』序文

圓澄法師義和

> 円澄法師 義和

六道凡夫三乘賢聖。其根本悉是靈明清淨。一法界心。性覺寶光。各各圓滿。本不名諸佛。亦不名眾生。但此心靈妙自在。不守自性故隨迷悟之緣。作業受苦。名曰眾生。修道證真。遂名諸佛。佛憫眾生顛倒妄想。執著而不證得。於是稱法界性。說華嚴經。欲令眾生。知一切法。即心自性。成就慧身。不由他悟。至於善財證入法界。參諸知識。最初吉祥雲比丘。教以無礙智慧念佛門。又解脫長者。教以唯心念佛門。又普遍吉淨光夜神。教以觀德相念佛門。其後華嚴諸祖。慮念佛者。莫得其要。於善知識解脫門中。復設諸門。意使諸佛與眾生交徹。淨土與穢土融通。法法彼此該收。塵塵悉包遍法界。相即相入。無礙圓融。儻得其門。則等諸佛於一朝。不得其門。則徒修因於曠劫。夫不龜手之藥一也。有終身洴澼洸者。有裂土而封者。蓋用有工拙。而利有大小念佛法門一也。有涉時之久。致力之多。而平素失其指歸。逮乎垂亡。他境強奪尠能超邁。此終身不免於洴澼洸之謂也。唯華嚴觀行。得圓至功於頃刻。見佛境於塵毛。諸佛心內眾生。新新作佛。眾生心中諸佛念念證真。至簡至易。雖然諸佛拔苦與樂之心一也。不思議力一也。唯西方彌陀世尊。接引娑婆眾生願力偏重。即本師故。是以流通經中。普賢行願獨指彌陀。極為至切義和晚年退席平江能仁。遍搜淨土傳錄與諸論讚。未甞有華嚴圓融念佛法門。蓋巴歌和眾。雪曲應稀。無足道者。嗚呼不思議法門。散乎大經與疏記之中。無聞於世。離此別求。何異北轅而之楚耶。於是備錄法門。著為一編。使見聞者不動步而歸淨土。安俟階梯。非思量而證彌陀。豈存言念。諸佛則背塵合覺故明。眾生則背覺合塵故昏。欲使冥者皆明。明終無盡。因目其篇曰無盡燈云爾。乾道元年九月望。臨安府慧因院。華嚴教觀義和序。

> 六道の凡夫から、声聞、独覚、菩薩の三乗の聖者に至るまで、その根源はすべて霊明で清らかなものです。ただ一つの法界の心、その本性の覚りの宝光は、一人ひとりが完全に満ち足りています。もともと諸仏とも名づけず、また衆生とも名づけません。しかし、この心が霊妙で自在でありながら、自らの本性を守らないため、迷いと悟りの縁に従って、業を作り苦しみを受け、これを衆生と名づけます。道を修め真実を証すれば、ついに諸仏と名づけられます。仏は、衆生が顛倒した妄想にとらわれ、執着して悟りを得られないことを哀れみ、そこで法界の本性に則って『華厳経』を説かれました。それは、一切の法がすなわち心の自性であり、智慧の身を成就するのは他による悟りではないことを、衆生に知らせようとなさったからです。善財童子が法界を証悟し、多くの善知識を訪ねたとき、最初の吉祥雲比丘は、無礙の智慧による念仏の法門を教えました。次に解脱長者は、唯心の念仏の法門を教えました。また、普遍吉祥浄光夜神は、徳相を観じる念仏の法門を教えました。その後、華厳の祖師たちは、念仏する者がその要点を得られないことを憂い、善知識の解脱の法門の中から、さらに様々な法門を設けられました。その意図は、諸仏と衆生が交わり徹し、浄土と穢土が融け合い通じ、あらゆる法が互いに包み込み、すべての塵が全法界を遍く包み、相即相入して、障りなく円融することにあります。もしその法門を得れば、一瞬のうちに諸仏と等しくなれますが、法門を得なければ、長い劫の間、修行の因を積んでも徒労に終わります。手が荒れない薬というものも、使い方次第で、一生を水仕事で終える者もいれば、領地を分け与えられて封じられる者もいます。これは使い方の巧拙によって、利益に大小があるからです。念仏の法門もまた同じです。長い時間をかけ、多くの努力を注いでも、平生にその指針を失い、死に臨んで他の境界に強く奪われて、ほとんど超えられない者がいます。これこそが、一生を水仕事で終えることに他なりません。ただ華厳の観行だけは、一瞬のうちに円満な至極の功徳を得て、塵や毛先に仏の境を見ることができます。諸仏の心の中の衆生は、新たに新たに仏となり、衆生の心の中の諸仏は、一念一念に真実を証していく。これは極めて簡潔で容易です。しかしながら、諸仏が苦しみを抜き、楽しみを与える心は一つであり、その不思議な力も一つです。ただ、西方の弥陀世尊（阿弥陀仏）だけは、娑婆世界の衆生を救い導く願力が偏重しています。これは、まさに本師であるからです。それゆえ、流通している経典の中では、普賢菩薩の行願のみが特に阿弥陀仏を指し示しており、極めて適切です。〈注：義和〉晩年、平江の能仁寺から退いた後、浄土の伝記や記録、そして様々な論や讃を広く探しましたが、華厳の円融念仏の法門に出会ったことはありませんでした。それは、田舎歌には人が大勢集まるが、高雅な曲には人が稀であるように、とるに足らないからでしょう。ああ、この不思議な法門は、大経典や疏や記の中に散在しているにもかかわらず、世に知られていません。これを離れて他に求めれば、北を指して楚に行くのと何の違いがあるでしょう。そこで、この法門を詳しく書き留め、一つの書にまとめました。これによって、見聞する者が一歩も動かずに浄土に帰し、階段を必要とせず、思考を超えて弥陀を証し、言葉や念に依らなくなることを願います。諸仏は塵を背けて覚りに合うがゆえに明るく、衆生は覚りを背けて塵に合うがゆえに暗いのです。暗い者をすべて明るくしようと願い、明かりはついに尽きることがありません。そこで、この書を『無尽灯』と名づけました。乾道元年九月十五日、臨安府慧因院にて、華厳教観の義和が序す。