---
title: "樂邦文類 · 天台淨土十疑論序"
description: "乐邦文类由南宋宗晓法师于庆元六年编纂而成，是净土宗重要文献汇编。该书辑录了东晋至宋代二百余位僧俗关于西方净土信仰的论述，包括论文、诗偈、发愿文等，系统整理了净土宗的教义与实践。其编纂正值南宋佛教繁荣期，旨在确立净土法门的正统性与传承。作为中国佛教史上第一部净土宗文集，乐邦文类为研究净土思想发展提供了核心文献，对后世影响深远，是了解汉传佛教净土信仰不可或缺的经典。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwr04zk0pmwie041wseud9k"
---

### 天台淨土十疑論序

提刑楊傑

> 楊傑

愛不重不生娑婆。念不一不生極樂。娑婆穢土也。極樂淨土也。娑婆之壽有量。彼土之壽則無量矣。娑婆備諸苦。彼土則安養無苦矣。娑婆隨業輪轉生死。彼土一往。則永證無生法忍。若願度生。則任意自在。不為諸業轉矣。其淨穢壽量。苦樂生死。如是差別。而眾生冥然不知。可不哀哉。阿彌陀佛。淨土攝受之主也。釋迦如來。指導淨土之師也。觀音勢至。助佛揚化者也。是以如來一代教典。處處丁寧勸往生也。阿彌陀佛與觀音勢至。乘大願船。泛生死海。不著此岸。不留彼岸。不止中流。唯以濟度為佛事。是故阿彌陀經云。若有善男子善女人。聞說阿彌陀佛執持名號。若一日乃至七日。一心不亂。其人臨命終時。阿彌陀佛。與諸聖眾現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生極樂國土。又無量壽經云。十方眾生。聞我名號。憶念我國。植諸德本。至心迴向。欲生我國。不果遂者。不取正覺。所以祇洹精舍無常院。令病者面西作往生淨土想。蓋彌陀光明遍照法界。念佛眾生攝取不捨。聖凡一體。機感相應。諸佛心內眾生塵塵極樂。眾生心中淨土念念彌陀。吾以是觀之。智慧者易生。能斷疑故。禪定者易生。不散亂故。持戒者易生。遠諸染故。布施者易生。不我有故。忍辱者易生。不瞋恚故。精進者易生。不退轉故。不造善不作惡者易生。念純一故。諸惡已作。業報已現者易生。實慚懼故。雖有眾善。若無誠信心無深心。無迴向發願心者。則不得上上品生矣。噫彌陀甚易持。淨土甚易往。眾生不能持不能往。佛如眾生何。夫造惡業入苦趣。念彌陀生極樂。二者皆佛言也。世人憂墮地獄。而疑往生者。不亦惑哉。晉慧遠法師。博通教乘。出稱夙德。甞與耶舍尊者劉遺民諸英豪等。結白蓮社於廬山。蓋致精誠於此爾。其後七百年。梁周隋唐至于　國朝。其僧俗修奉獲感應者非一。咸見于淨土傳記。豈誣也哉。然贊輔彌陀教觀者。其書山積。唯天台智者大師淨土十疑論。最為首冠。援引聖言。開決群惑。萬年闇室。日至而頓釋群陰。千里水程舟具而不勞自力。非法藏後身。不能至於是也。傑頃於都下。甞獲斯文。讀示所知。無不生信。自遭酷罰。感悟益深。願廣其傳。因為序引。熙寧九年仲秋述。

> 愛執が深くなければ、この娑婆世界に生まれることはありません。 念が一つに定まらなければ、極楽浄土に生まれることはできません。 娑婆は汚れた世界です。極楽は清らかな世界です。 娑婆の寿命には限りがありますが、あの世界の寿命には限りがありません。 娑婆にはさまざまな苦しみが満ちていますが、あの世界は安らかに養われ、苦しみがありません。 娑婆では業（ごう）に従って生死を輪廻しますが、あの世界に一度往生すれば、永遠に無生法忍（むしょうほうにん）を証得します。 もし衆生を救済しようと願うならば、思いのまま自在に行動でき、さまざまな業に振り回されることはありません。 その清らかさと汚れ、寿命の長短、苦しみと楽しみ、生死のあり方には、このような違いがあるのです。 それなのに、衆生はそのことに暗く、まったく気づいていません。なんと哀れなことではありませんか。 阿弥陀仏は、浄土に迎え入れてくださる主（あるじ）です。 釈迦如来は、浄土へ導いてくださる師です。 観音菩薩と勢至菩薩は、仏の教化を助ける方々です。 それゆえ、如来の一代の教えは、あらゆる経典の中で、繰り返し細やかに往生を勧めているのです。 阿弥陀仏と観音・勢至の両菩薩は、大いなる誓いの船に乗り、生死の海を渡りながら、この岸（迷いの世界）に執着せず、かの岸（悟りの世界）にもとどまらず、その中流にも止まらず、ただひたすらに済度することだけを仏の働きとしておられます。 だからこそ、『阿弥陀経』にはこう説かれています。 「もし善良な男子や善良な女性が、阿弥陀仏の名号を聞いて、その名を心に保ち続け、一日から七日まで、心が一つに乱れなければ、その人の臨終の時に、阿弥陀仏が諸々の聖衆とともにその前に現れます。その人は終わりの時に心が顛倒（てんどう）することなく、そのまま極楽国土に往生することができるでしょう。」 また、『無量寿経』にはこう説かれています。 「十方の衆生が、私（阿弥陀仏）の名号を聞き、私の国を思い、さまざまな善根を積み、真心からその善を回向し、私の国に生まれたいと願うなら、その願いが叶えられなければ、私は決して悟りを開きません。」 だからこそ、祇園精舎には無常院が設けられ、病者を西に向かわせて、浄土に往生する観想をさせたのです。 なぜなら、阿弥陀仏の光明は法界全体を照らし、念仏する衆生を決して離さずに摂取し、聖者も凡夫も一体であり、衆生の心と仏の心が呼応するからです。 諸仏の心の中にある衆生は、その一つひとつの塵の中にさえ極楽があります。 衆生の心の中にある浄土は、その一つひとつの念に弥陀がいます。 私はこのように考えます。 智慧のある者は往生しやすい。疑いを断つことができるからです。 禅定を修めた者は往生しやすい。心が散乱しないからです。 戒律を守る者は往生しやすい。さまざまな汚れから遠ざかっているからです。 布施を行う者は往生しやすい。自分のものと執着しないからです。 忍辱を実践する者は往生しやすい。怒りの心がないからです。 精進する者は往生しやすい。退転しないからです。 善を造らず、悪も造らない者は往生しやすい。念がただ一つに純粋だからです。 すでに諸々の悪を造り、その業報が現れている者は往生しやすい。本当に慚愧し恐れる心があるからです。 たとえ多くの善行があっても、誠実な信心がなく、深い心がなく、回向発願の心がなければ、上上品の往生を得ることはできません。 ああ、弥陀の名号は実に保ちやすく、浄土は実に往生しやすいのです。 それなのに、衆生は保つことも往生することもできません。仏が衆生をどうすることもおできになりません。 悪業を造れば苦しい境地に堕ち、弥陀を念じれば極楽に生まれる。この二つは、どちらも仏がお説きになった言葉です。 世の人々は地獄に落ちることを憂いながら、往生を疑うのです。これこそ、迷いというものではありませんか。 晋の慧遠法師は、教えと修行のすべてに深く通じ、若くしてすでに高徳と称えられました。 かつて、耶舍尊者や劉遺民ら多くの英傑とともに、廬山に白蓮社を結びました。これも、ひたすらに精誠を尽くしたからにほかなりません。 それから七百年、梁・周・隋・唐を経て、我が国朝に至るまで、僧侶や在家の人々が修行し奉じて、感応を得た者は一人や二人ではありません。そのすべてが浄土の伝記に記されています。どうして偽りでありましょうか。 阿弥陀仏の教えと観法を賛嘆し補佐する書物は山のようにありますが、中でも天台大師の『浄土十疑論』が最もすぐれています。聖なる言葉を引き、衆生のさまざまな疑問を開き決断しています。万年的に暗い部屋も、太陽が昇ればたちまち陰が晴れるようなものです。千里の水路も、船が備わっていれば自力に頼らずに渡れます。これは、法蔵菩薩の後身でなければ、この域には達することはできないでしょう。 私はかつて都でこの書を得て、知人に読み聞かせましたが、聞いた者は皆、信を起こさない者はありませんでした。 その後、自ら厳しい罰を受けてから、その悟りは一層深まりました。 どうかこの書が広く伝わりますように。そのために、この序文を書き記します。 熙寧九年 仲秋 述