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title: "續華嚴經略疏刊定記 · 普賢行品第三十六"
description: "續華嚴經略疏刊定記由唐代高僧慧苑所撰，是對法藏大師華嚴經略疏的補充與闡釋。該書創作於盛唐時期，華嚴宗興盛發展之際，內容主要針對法藏疏解進行刊定、修正與擴充，涉及華嚴經的教義闡釋、名相辨析及修行體系建構。作為華嚴宗重要注疏之一，它反映了唐代華嚴學的學術脈絡與思想演進，對後世研究華嚴經論具有較高參考價值，是佛教經典文獻中不可或缺的權威著述。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwrx2yl1h0pie04zdw72jml"
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### 普賢行品第三十六

> 第36章 普賢の行

按梵本中名說普賢行品。

> <note>サンスクリット語の原典では、「普賢行品」と呼ばれています。</note>

釋此品文，四門分別。

> 本品を解釈するにあたり、四つの門に分けて説明します。

初釋名中二：先得名，後釋名。前中此品約人標稱。言普者，遍也。賢，善也，道也，因也。謂此菩薩身遍法界，若依若正，乃至微塵毛端等剎故，具滿眾善德海故。雖成正覺，不捨因行，徹窮來際，常脩利樂，無竟期故。故普賢三昧品云：普賢遍住於諸剎，坐寶蓮華眾所觀。又云：普賢恒以種種身，法界周流悉充滿。又云：一切佛身所有剎，悉現其形而詣彼。又云：普賢廣大功德海，遍往十方親近佛，一切塵中所有剎，悉能詣彼而明現。又云：佛子能以普遍身，悉詣十方諸國土，眾生大海咸濟度，法界微塵無不入。又云：入於法界一切塵，其身無盡無差別，譬如虗空悉周遍。又理趣般若云：普賢菩薩自體遍故。釋曰：此普與賢，各是別義，相違釋也。若總言之，是依主釋也，普賢之行故。

> 「普賢」の名義を解釈するにあたり、まず名称の由来を明らかにし、次にその意味を説明します。 最初に、この章では経典の名を人に準えて掲げています。「普」とは「あまねく」という意味です。「賢」には「優れた」「道」「因」といった意味があります。すなわち、この菩薩はその身があまねく法界に満ち渡り、依報・正報を問わず、微塵や毛先のような微細な世界に至るまで、そのすべてに満ち渡っているのです。また、あらゆる善なる功徳の海を完全に具えています。そして、すでに正覚を成就していながらも、因位における修行を決して捨てることなく、未来際の終わりまですべてにわたって、常に衆生を利益し楽しませる働きを、尽きることなく行い続けています。 ゆえに『普賢三昧品』には次のように説かれています。 「普賢はあまねく諸々の仏国土に住し、宝蓮華の上に坐して、大衆の拝する所となる」 また、「普賢は常に種々の身をもって、法界に周遍し、すべてを満たす」 また、「一切の仏身の所有するすべての仏国土に、その姿を現して、そこに赴く」 また、「普賢の広大なる功徳の海は、十方に遍く往き、諸仏に親しく近づき、一切の塵の中にあるすべての仏国土に、ことごとく赴いて、はっきりと現れる」 また、「仏子は普遍の身をもって、ことごとく十方の諸国土に赴き、衆生の大海をことごとく済度し、法界の微塵に至るまで入らない所はない」 また、「法界の一切の塵の中に入り、その身は尽きることなく、差別なく、あたかも虚空がすべてに周遍するかのようである」 また『理趣般若経』には「普賢菩薩は自らの体が遍満しているからである」と説かれています。 以上の解説から明らかなように、「普」と「賢」はそれぞれ別の意味であり、これは相違釈（各々の意味が異なる解釈）にあたります。これを総合的に見れば、これは依主釈（「普賢」という語が、「普く賢い」という意味で、主体を指す）であり、「普賢の行」という意味になります。

二、來意者，上來從名號品至隨好品明差別因果，從此品下明出現因果。於中普賢行品辨因，出現品明果，故次來也。

> 二、来意について、前の名号品から随好品までは、差別の因果を明らかにしてきました。この品から下は、出現の因果を明らかにします。その中で、普賢行品は因を明らかにし、出現品は果を明らかにするので、次にこの品が来るのです。

三、宗趣者，此下二品俱是自在果成，為物出現因果為宗，徹窮來際利樂為趣。

> 三、宗旨と趣旨について述べます。この下の二つの品（ほん）は、ともに自在の果が成就したものであり、人々のために出現する因果を宗旨とし、永遠にわたって人々を利益し楽しませることを趣旨としています。

四、釋，文中二：先長行，後偈頌。前中亦二：先正說；後爾時，佛神力故下，辨瑞。前中亦二：先敘說所因；後佛子！我不見下，正顯。

> 【四、解説】 文章は二段構成。まず長文（散文）、次に偈頌（詩句）。 長文の部分もさらに二つ。最初に教えを述べ、その後に「その時、仏の神通力によって」以下で瑞相を説明する。 そして教えの部分も二段。最初に説法の理由を述べ、次に「仏子よ、私は見ない」以下で本題を明らかにする。

前中三：一、指前所說，是隨器略說，謂是前所說差別因果。二、何以故，徵。徵意云：何以將彼差別因果為略少故。三、諸佛下，釋。釋意云：由差因俱是因因，其行未普；差別果但是因果，略顯相好，未可廣陳。若出現因果，則因是因，一一行量盡法界；果是果果，境界如空。因果俱盡，未來利樂無竟，故前云略少。若爾，何不唯說出現因果？故此釋云：諸佛世尊為惡眾生出興故，將說出現時先說差別，故云為諸眾生無知乃至隨流遠道故出興也。然此說差別所由中，略顯十種：一、無智無明者，通獨頭、相應二種。二、作惡諸纏者，此有八種。十種八者，謂昏沉、睡眠此二障，止掉舉、惡作二障，觀嫉、慳障，捨無慚、無愧障。尸羅十者，謂於前八加忿、覆二種，此皆現起纏繞於心，令不自在故。廣如章釋。三、我、我所者，此通生法見、修二種，具如別章。四、身見者，謂五見中唯薩迦耶故。五、三、四、七、八倒者，三謂心想見，四即常謂無常乃至淨謂無淨，七謂前三四，八謂前四乃無常謂常等四。六、疑者，謂心猶豫故。七、邪見者，五見中乖僻正理之見故。八、結者，有三、五、九種，三謂身見、戒禁取、疑，五謂愛、恚、慢、嫉、慳，九謂愛、慢、無明、見取、疑、慳、嫉。九、縛者，有二種、四種，二謂相及麤重。相者，有二說。一云：相是相分，由有漏得相，令彼見分不得自在，名為相縛。此相即是縛，名為相縛。一云：第七末那為相縛體，由第七識、餘眼等識於所緣相不得自在。若依此說，相之縛名為相縛。麤重縛者，亦有二種。一云：有漏法上無堪任性，名麤重縛，與有漏法非一非異，無別體故非實，斷不斷別故非一。二云：二障種子通名麤重，雖有二說，取種為勝。或有說云：一切漏相分名為相縛，由彼令見分不自在故。即彼相分上能縛諸惑，名麤重縛，行相麤故。若總言之，所緣相分名相縛，能緣見分貪等諸惑名麤重縛。四者、貪欲、瞋恚、戒取、我見。十、隨流遠道，可知。後一句結。結意云：世尊為此多惑障眾生出興，是故先須說差別因果，後為說出現因果也。

> 前の部分は三つに分かれます。第一に、前に述べたところを指して、それは機に応じた略説であり、先に説いた差別因果であるとします。第二に、「何以故」と問いを立てます。その問いの意味は、「どうしてその差別因果を略して少ないとするのか」ということです。第三に、「諸佛」以下が、その説明です。説明の意図は、差別の因はすべて因の中の因であり、その行いはまだ普遍ではなく、差別の果はただ因の中の果に過ぎず、相好を簡略に示したもので、広く述べるには至らない、ということです。もし出現因果であれば、因は真の因であり、一つ一つの行いの量は法界を尽くし、果は果の中の果であり、その境界は空のようです。因果ともに尽き、未来における利益と安楽には終わりがありません。それゆえ先に述べたものを「略して少ない」と言うのです。それならば、なぜ専ら出現因果だけを説かないのか。そこでこのように解釈します。諸仏・世尊は悪い衆生のために出現されるので、出現の因果を説こうとする時、先に差別因果を説かれるのです。それで、「諸の衆生が無知であるがゆえに、乃至、流れに随って道から遠ざかるがゆえに出現する」と説かれているのです。さて、この差別を説く理由の中に、略して十種を示します。 一、「無智・無明」とは、独頭と相应の二種を合わせたものです。二、「作悪・諸纏」とは、これには八種あります。十種の中の八種とは、昏沈・睡眠のこの二つは止（奢摩他）を障げ、掉挙・悪作の二つは観（毘鉢舎那）を障げ、嫉・慳の二つは捨を障げ、無慚・無愧の二つは尸羅を障げます。また十種の尸羅とは、前の八種に忿・覆の二種を加えたもので、これらはすべて現に起きて心を纏い、自在ならしめません。詳しくは章の解釈の通りです。三、「我・我所」とは、これは生法の見惑・修惑に通じ、その二種があります。詳しくは別の章にあります。四、「身見」とは、五見の中のサッカヤ・ドリシュティ（有身見）のみです。五、「三・四・七・八の倒」とは、三は心・想・見の倒、四は常を無常と見るなど、乃至、浄を不浄と見るなど、七とは前の三と四を合わせたもの、八とは前の四つの逆、すなわち無常を常と見るなど四つです。六、「疑」とは、心が猶豫することです。七、「邪見」とは、五見の中でも道理に背く見です。八、「結」には三・五・九種があります。三とは身見・戒禁取・疑、五とは愛・恚・慢・嫉・慳、九とは愛・慢・無明・見取・疑・慳・嫉です。九、「縛」には二種と四種があります。二種とは相縛と麤重縛です。相縛には二つの説があります。一つの説では、相は相分であり、有漏の相を得ることによって、その見分を自在ならしめないので、相縛と名づけるとします。この相は即ち縛であり、相縛と名づけます。もう一つの説では、第七末那識を相縛の体とし、第七識によって、他の眼等の識が所縁の相において自在を得られないとします。この説に従えば、相（対象）の縛を相縛と名づけます。麤重縛にもまた二種あります。一つの説では、有漏法上の無堪任性を麤重縛と名づけ、有漏法と非一非異であり、別の体がないので実ではなく、断たれるか断たれないかの違いがあるので非一であるとします。二つ目の説では、二障の種子をすべて麤重と名づけます。二説あるけれども、種子とする説が勝れています。あるいは次のように説くものもあります。すべての有漏の相分を相縛と名づけ、それによって見分が自在でなくなるからです。その相分の上にある、縛する諸々の煩悩を、行相が粗いので、麤重縛と名づけます。総じて言えば、所縁の相分を相縛と名づけ、能縁の見分に染まる貪等の諸惑を麤重縛と名づけます。四種とは、貪欲・瞋恚・戒取・我見です。十、「流れに随って道から遠ざかる」は、知るべきでしょう。後の一句は結びです。結びの意味は、世尊はこれらの多くの煩悩・障害を持つ衆生のために出現されるので、まず差別因果を説く必要があり、その後で出現因果を説かれる、ということです。

後正顯中二種：一、先辨所治廣多，有百萬障；後佛子！我不見有下，明能治廣大，有六十種行。前中三：初、總舉；二、何等下，別顯；三、佛子！若菩薩下，結。初中三：先標，次徵，後釋。初中，按梵本云：佛子！諸菩薩過失中，我不見有一法過菩薩。於他菩薩起瞋心者，釋曰：雖諸煩惱皆能通障一切聖道，然瞋一種具有二義，故偏舉之：一、親障菩薩，不能攝受饒益眾生；二、於菩薩道，諸障之中最尤重故。決定毗尼云：菩薩寧起百千貪心，不起一瞋，違害大悲莫過此故。善戒經說與此同也。二、別顯中，先徵，後顯。顯中有一百門，寄位分五：初、障十信行；二、不樂佛法下，明障十住行；三、不得菩薩諸根下，障十行；四、樂誹謗一切智語下，障十迴向大願行；五、不樂與菩薩同住下，障十地真證行。此中亦耳不聞無礙法故者，梵本云：耳不聞法處受身障。釋曰：謂生於無佛處故，菩薩萬行不過此故。五位起一瞋心，一切頓障。又以所障法界如帝網重，重令能障同於所障，亦皆無盡。起一瞋成百億障，理實無盡。結中三：初正結；次何以故，徵意；後佛子！我不見下，釋成。亦即是後辨能治廣大也。就辨能治廣大中三：初躡前總顯；次是故諸菩薩下，別明；後佛子！菩薩摩訶薩聞此下，結勸。初中可知。次別顯中有六位，皆依前起後。初中三：一、牒勸修治；二、依勸徵問；三、所謂下，正顯。顯中十句攝為五對：初二約人：前不捨下，後不慢上。次二約法：一、不誹教，二、不迷事。次二約心行：一、樂行，二、堅心。次二約降制伏，使前降後制；後二悲、智，前悲後智。第二清淨中三段同前。初謂依前正法行，成離染勝，故云清淨。十句亦攝為五對：初三於教法淨：一、信，二、求，三、護。次二於理法淨：一、廣大，二、甚大。次二於化清淨：一、了器，二、僧福。次二於時劫淨：一、不著，二、勸察。後一結成性。第三廣大智者，由離染障，令智廣大故。此十句亦為五對：初二了所化智，次二知化法智：一、能詮，二、所詮。次二知持辨智，次具身、語業用智，後二照依、正智。第四入十普入者，由得廣智，能普契所知，令互相入，故十句中各自多少為對。初二、大色小處互相入，次二、多身一身互相入，次二、多劫一念互入，次二、多法一法互入，次二、多處一處互入，次二、多根一根互入，次二、多根與境互入，次二、多想一想互入，次二、多言音一言音互入，後二、三世一世互入。第五、住十勝妙心者，轉變無礙，應機成益，故心得勝妙。正顯中，一、住離言，二、住離念，三、住無常愛果因，四、住常果因，五、住祕密深，六、住平等深，七、住滅猶豫，八、住諸世平等，九、住三世佛平等，十、住佛十力、四無量。第六、得十一種佛法善巧智者，依前勝妙心，起此巧智。正顯中，一、了理法，二、出生行法，三、宣說教法，四、證果法，五、明了三乘法，六、悟解一乘法，七、巧言詞說法，八、純門說法，九、雜門說法，十、知別不別、二二不二、不二二十一、於第一義諦唯識門究竟故。三、明結勸中三：初、正顯勸，二、何以故徵意，三、菩薩摩訶薩釋意。由聞此法得佛果故，功德海滿故，利生等故。

> ここから本論において、二つの内容を明らかにする。第一に、対治すべき障害の多さを先に示す。百萬もの障害があるという。その後、「佛子よ！私は見ない」以下で、対治する方法の広大さを示す。六十種の行があるというのである。 前半の「対治すべき障害」の部分は三つに分かれる。第一に全体を挙げ、第二に「何等か」以下で個別に示し、第三に「佛子よ！もし菩薩が」以下で結ぶ。最初の「全体を挙げる」中では、先に標目を立て、次に問いを発し、後に解釈する。最初の標目の部分で、梵本によればこうある。「佛子よ！諸々の菩薩の過失の中で、私は、菩薩が他の菩薩に対して怒りの心を起こすことよりも重い一つの法があるのを見ない。」と。解釈すれば、あらゆる煩悩がすべての聖なる道を妨げる障りとなるとはいえ、特に「怒り」というものは二つの義を備えているため、特に取り上げるのである。その一つは、菩薩が直接、衆生を救い育て利益することを妨げること。二つには、菩薩の道における諸々の障害の中で、これが最も重いからである。『決定毘尼経』には、「菩薩はむしろ百千の貪りの心を起こすとも、一つの怒りの心を起こすことなかれ。大悲に違背し害すること、これに過ぎるものはないからである」とある。『善戒経』にも同様のことが説かれている。 第二に「個別に示す」部分は、まず問いを発し、次に示す。示す中に百の門がある。位を仮に置いて五つに分ける。第一に十信の行を障害するもの。第二に「仏の法を喜ばない」以下、十住の行を障害するもの。第三に「菩薩の諸々の根を得ない」以下、十行を障害するもの。第四に「一切智の言葉を謗ることを楽しむ」以下、十回向の大願の行を障害するもの。第五に「菩薩と共に住むことを喜ばない」以下、十地の真実の証悟の行を障害するもの。この中で「また耳で障りなき法を聞かないからである」とあるのは、梵本では「耳で法を聞かない場所に身を受ける障り」とある。解釈すれば、仏のいない所に生まれることである。菩薩の万行はこれ以上に出ることはないからである。五つの位において一つの怒りの心を起こせば、一切がたちどころに障害される。また、障害される法界は帝釈天の網のように重なり合っており、障害するものも障害されるものと同等に、尽きることがない。一つの怒りを起こせば百億の障害を生じ、理実には限りがない。 結びの部分は三つ。第一に結びを正しく述べ、第二に「なぜか」と問いの意味を探り、第三に「佛子よ！私は見ない」以下で解釈し示す。これがすなわち、後の「対治する方法の広大さ」を論じる部分でもある。 「対治する方法の広大さ」を論じる中で三つある。第一に前を受けて全体を示し、第二に「この故に諸々の菩薩は」以下で個別に明かし、第三に「佛子よ！菩薩摩訶薩はこれを聞いて」以下で結んで勧める。第一の全体は知られる通りである。 次に「個別に示す」中に六つの位がある。いずれも前のものに依って後のものを生じる。第一の位の中に三つ。一に勧めて修行・対治を書き記し、二に勧めに従って問いを発し、三に「いわゆる」以下で正しく示す。示す中の十の句は五つの対にまとめられる。初めの二つは人について。前は下を捨てず、後は上を軽んじない。次の二つは法について。一に教えを謗らず、二に事に迷わない。次の二つは心の行について。一に行を楽しみ、二に心が堅い。次の二つは降伏・制伏について。前は障りを降し、後はこれを制する。後の二つは慈悲と智慧。前が慈悲、後が智慧。 第二の「清浄」の中では、三段は前と同じ。ここでの「清浄」とは、前の正しい法の行に従うことによって、汚れを離れた勝れた状態を成就するからである。十の句も五対にまとめられる。初めの三つは教えの法について清浄となる。一に信じ、二に求め、三に護る。次の二つは理の法について清浄となる。一に広大、二に甚大。次の二つは教化について清浄となる。一に器を知り、二に僧の福を知る。次の二つは時の劫について清浄となる。一に執着せず、二に勧めて観察する。後の一つは性質を成就することを結ぶ。 第三の「広大な智慧」とは、汚れの障りを離れることによって、智慧を広大ならしめるからである。この十の句も五対となる。初めの二つは教化すべき者を知る智慧。次の二つは教化する法を知る智慧。一に能詮、二に所詮。次の二つは保持・弁説の智慧を知る。次に身と語の業用の智慧を具える。後の二つは依報と正報を照らす智慧。 第四の「十の普入に入る」とは、広大な智慧を得ることによって、知るべき対象に普く契い、互いに入り込ませるからである。ゆえに十の句は、それぞれに多少を対とする。初めの二つは大きな色と小さな場所が互いに入る。次の二つは多くの身と一つの身が互いに入る。次の二つは多くの劫と一つの念が互いに入る。次の二つは多くの法と一つの法が互いに入る。次の二つは多くの処と一つの処が互いに入る。次の二つは多くの根と一つの根が互いに入る。次の二つは多くの根と境が互いに入る。次の二つは多くの想いと一つの想いが互いに入る。次の二つは多くの言音と一つの言音が互いに入る。後の二つは三世と一世が互いに入る。 第五の「十の勝妙な心に住する」とは、転変が自在で、機に応じて利益を成すので、心が勝妙となる。正しく示す中で、一に言葉を離れたものに住し、二に念いを離れたものに住し、三に無常の愛果の因に住し、四に常果の因に住し、五に秘密の深さに住し、六に平等の深さに住し、七に猶豫を滅するに住し、八に諸世間の平等に住し、九に三世の仏の平等に住し、十に仏の十力・四無量に住する。 第六の「十一種の仏法の善巧の智慧を得る」とは、前の勝妙な心に依って、この巧みな智慧を起こす。正しく示す中で、一に理の法を知り、二に行の法を生じ出し、三に教えの法を宣説し、四に果の法を証し、五に三乗の法を明了し、六に一乗の法を悟解し、七に巧みな言辞で法を説き、八に純一な門で法を説き、九に雑多な門で法を説き、十に別と不別、二と二が不二であること、不二と二が一つであることを知り、十一に第一義諦・唯識の門において究竟する。 三、「明らかにして勧める」の結びの中に三つ。第一に勧めを正しく示し、第二に「なぜか」と問いの意味を探り、第三に「菩薩摩訶薩」によってその意味を解く。この法を聞くことによって仏果を得るからであり、功徳の海が満ちるからであり、利益する衆生が平等であるからである。

第二、辨瑞中二：先感瑞；後爾時，佛神力故下，明證成。前中二：先此土；後如此世界下，結通十方。前中二：先顯瑞因。因有二，謂佛力及法爾。後明瑞相。相中二：先動地；後雨諸色雲。並可知。後證成中亦二：先此土；後如此道場下，結通十方。問：此感瑞自是重會普光明殿，會中何故結通，乃云菩提樹下、菩提場、菩薩宮殿中耶？

> 第二に、瑞相の二つの意義を明らかにします。まず瑞相が感応して現れること。その後に「その時、仏の神力によって」の下からは、証明が成立することを示します。 瑞相の部分は二つに分かれます。まずこの娑婆世界での瑞相、次に「このような世界において」の下からは、十方世界に通じて結ばれることを示します。前者はさらに二つに分かれます。まず瑞相が現れる因を示します。その因には二つあり、仏の力と法の自然の力です。次に瑞相そのものを明らかにします。瑞相には二つあり、まず大地が震動し、次に様々な色の雲が降り注ぐことです。これらは理解できるでしょう。 後の証明が成立する部分も二つに分かれます。まずこの娑婆世界での証明、次に「このような道場において」の下からは、十方世界に通じて結ばれることを示します。 問い：この瑞相の感応は、重ねて普光明殿で説かれたものです。会の中でなぜ結通して、「菩提樹の下、菩提場、菩薩の宮殿において」と言うのでしょうか。

答：以菩提樹是本故，前後諸會不一不異故。第二偈頌中二：先敘意，後正頌。

> 答えよう。菩提樹が根本であるから、前後の集会は一つでもなく、異なるわけでもない。第二の偈頌には二つある。まず意味を述べ、後に正式に頌える。

前中二：初示相，謂自他二力是所因也，觀十方者念所化故，觀法界者思所說故。後欲開下述意，謂為欲述此十種意故說此偈頌：一明因行，二顯果德，三說大願，四行起時處，五機熟願佛，六稱機授法，七所說利益，八明因得果，九果淨身，十語業開現。此十種義，下偈頌中普具顯之。正頌中有一百二十一頌，分二：初二十二頌顯說分齊，餘九十九頌正辨普賢行相。此並不是重前文，但與綺互共顯普賢行用，謂前是略明、此是廣說，前體後用故。前中，初二頌誡聽許說；二、亦說諸劫下八頌，明此菩薩學過去佛弘誓願行；三、於一賢劫下十一頌，明學相學現未脩三輪行。於中，初七舉現未佛，後四學成三輪淨行。四、行者下一頌，結說分竟。

> まず前半の二つの部分について説明します。一つ目は「相を示す」ことで、他力と自力の二つの力が修行の基盤となることを示します。そして「十方を観る」とは、教化の対象となる衆生を思念することであり、「法界を観る」とは、説かれる教えを思惟することです。 次に、後半の「開いて述べようとする意」についてですが、これは以下の十の意味を明らかにするために、この偈頌が説かれています。一つ目は「修行の因」を明らかにすること、二つ目は「悟りの果報」を示すこと、三つ目は「大いなる誓願」を説くこと、四つ目は「修行が始まる時と場所」を示すこと、五つ目は「機が熟して仏の願いが成就すること」を語ること、六つ目は「機に応じて教えを授けること」を説くこと、七つ目は「説かれた教えの利益」について、八つ目は「因によって果を得る」ことを明らかにすること、九つ目は「果報によって清らかな身体を得ること」、十つ目は「言葉の働きによって教えを開示すること」です。 この十の意味は、後述の偈頌の中で余すところなく示されています。 本偈頌は全部で百二十一偈あり、これを二つに分けます。最初の二十二偈は「説かれる範囲」を示し、残りの九十九偈は普賢菩薩の修行のあり方を詳しく説きます。これは前文の繰り返しではなく、互いに補い合いながら普賢菩薩の修行の働きを明らかにするものです。すなわち、前が簡略な説明であるのに対し、これは詳細な解説であり、前が「体」で後が「用」という関係になります。 前者の二十二偈のうち、最初の二偈は「聴聞を勧め、説法を許す」内容です。次に「また説く、諸々の劫において」から八偈は、この菩薩が過去の仏から学んだ「広大な誓願の行」を明らかにします。三番目に「一つの賢劫において」から十一偈は、現在と未来の仏から学び、「三輪の清らかな行」を修める様子を説きます。その中で、初めの七偈は現在と未来の仏を挙げ、後の四偈は三輪の清らかな行を修め成就することを示します。 四番目に「行者…」の一偈をもって、この説法の区切りを終えます。

第二、正顯普賢行相中亦二：初六十九頌明自德大智行；後未安者令安下，三十頌明外化大悲行。前明普賢大智行中十種：一、初七頌明善入帝網大智行；二、深入微細下，十七頌明深入時處微細智行；三、世界及如來下，五頌明了三世佛心祕要行，謂世界名及佛名，此等最麤，猶於多劫說不能盡，況佛心中所知境界，謂真妙法界等，然此菩薩亦能了知成普賢大智行；四、如是未來世下，四頌了未來攝化業行；五、現在所攝下，四頌通達現在佛境界行；六、出生無㝵眼下，五頌明六根化用行；七、諸佛甚深智下，十頌明器世間自在行；八、了知諸世間下，六頌明智正覺世間自在行；九、如來法身藏下，五頌明非身示法身行；十、譬如工幻下，六頌明非量不量淨心行。上來自德智了第二、外大悲行中亦十行：初六頌化物令發菩提心行；二、眾生身無量下，二頌讚歎現佛攝生行；三、諸佛能現身等，一頌明分布過去舍利行；四、如是未來等，一頌明能起未來佛德行；五、如是三世下，四頌明法輪深入行；六、無量無邊下，五頌了物心器染淨行；七、眾生皆妄下，三頌了物業報緣起行；八、眼、耳、鼻、舌下，五頌了達根境無㝵行；九、佛說等，一頌了知三輪三世中說法行；十、末後二頌明三世相行。普賢行品釋了

> 第二に、普賢の行いの相を正しく顕す中でも、二つに分けられる。 初めの六十九頌は、自らの徳による大いなる智慧の行いを明かす。 後の「未だ安らかならざる者をして安らかならしめん」より下、三十頌は、外に向けた大いなる慈悲の行いを明かす。 先に、普賢の大いなる智慧の行いの中には、十の種類がある。 一、初めの七頌は、帝網（たいもう）に善く入る大いなる智慧の行いを明かす。 二、「深く微細に入る」より下、十七頌は、時と処に深く入る微細な智慧の行いを明かす。 三、「世界及び如来」より下、五頌は、三世の仏の心の奥深く秘められた要諦の行いを明かす。 すなわち、世界の名や仏の名など、これらは最も粗いものであり、それでもなお、多くの劫を経て説き尽くすことはできない。ましてや、仏の心の中に知られる境地、すなわち真実で妙なる法界などはなおさらである。 しかしこの菩薩は、そうした境地をも了知し、普賢の大いなる智慧の行いを成し遂げる。 四、「かくのごとき未来世」より下、四頌は、未来における教化・摂受の行いを了知する。 五、「現在に所摂する」より下、四頌は、現在の仏の境界に通達する行い。 六、「生まれ出ずる障りなき眼」より下、五頌は、六根による教化の用の行いを明かす。 七、「諸仏の甚深なる智慧」より下、十頌は、器世間における自在の行いを明かす。 八、「諸の世間を了知す」より下、六頌は、智正覚世間における自在の行いを明かす。 九、「如来の法身の蔵」より下、五頌は、身によらずして法身を示す行いを明かす。 十、「あたかも幻の工人のごとく」より下、六頌は、量にあらず、量ならざる、清らかな心の行いを明かす。 以上が、自らの徳による智慧の行いである。 第二に、外に向けた大いなる慈悲の行いの中にも、十の行いがある。 一、初めの六頌は、生きとし生けるものを教え導き、菩提心を発させる行い。 二、「衆生の身、無量なり」より下、二頌は、仏の現れを讃え、生きとし生けるものを摂め導く行い。 三、「諸仏、能く身を現ず」など、一頌は、過去の舎利を分布する行いを明かす。 四、「かくのごとき未来」など、一頌は、未来における仏の徳を起こす行いを明かす。 五、「かくのごとき三世」より下、四頌は、法輪に深く入る行いを明かす。 六、「無量無辺」より下、五頌は、生きとし生けるものの心という器の、染められ清められる様を了知する行い。 七、「衆生はみな妄なり」より下、三頌は、生きとし生けるものの業と報いの縁起を了知する行い。 八、「眼、耳、鼻、舌」より下、五頌は、根と境に通達して障りなき行い。 九、「仏の説く」など、一頌は、三輪と三世の中での説法を了知する行い。 十、最後の二頌は、三世にわたる相の行いを明かす。 「普賢行品」の解説、終わり。