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title: "金剛經音釋直解 · 如法受持分第十三"
description: "金刚经音释直解由明代高僧圆杲法师解註，是一部针对鸠摩罗什所译金刚般若波罗蜜经的注疏著作。本书诞生于明朝佛教义学复兴的背景下，旨在通过音释与直解相结合的方式，帮助学人扫除文字障碍、直探经义核心。其内容主要包括对经文难字的注音释义及对般若空性思想的浅显直白阐释，强调离相破执、应无所住的修行要旨。作为一部简明实用的入门注本，该解註在佛教历史上为金刚经的普及与理解提供了重要助力，是研究明代佛教思想及金刚经传播的重要文献。"
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### ○如法受持分第十三

> 第十三章 如法受持

爾時須菩提白佛言：世尊！當何名此經？我等云何奉持？佛告須菩提：是經名為金剛般若波羅蜜，以是名字汝當奉持。

> その時、須菩提が仏に申し上げた。「世尊よ、この経典を何と名付けるべきでしょうか。私たちはどのようにしてこれを守り実践すればよいのでしょうか。」 仏は須菩提に告げられた。「この経典は『金剛般若波羅蜜』という名である。その名の通りに、あなた方はこれを守り実践しなさい。」

金剛是喻，般若是法，般若波羅蜜是梵語，此云智慧到彼岸也。出前經題註訖耳。以是名字者，此經乃般若之名，非真般若之體，故說名字也。汝當奉持者，當依義奉行，持教流通也。

> 金剛は譬え、般若は教えです。般若波羅蜜はサンスクリット語で、これを「智慧（はらわた）の彼の岸に到る」と訳します。これは以前の経題の註で述べた通りです。「以是名字」とは、この経典は般若という名前であって、真実の般若そのものではありません。そのため名前で呼んでいるのです。「汝当奉持」とは、意味に従って実践し、教えを守り広めなさい、ということです。

所以者何？須菩提，佛說般若波羅蜜，即非般若波羅蜜，是名般若波羅蜜。

> それはなぜか。須菩提よ、如来が説く般若波羅蜜は、すなわちそれ自体が実体としての般若波羅蜜ではなく、仮に般若波羅蜜と名づけられているにすぎないからである。

但有言說，皆無實義，般若無相，故佛說即非般若，是名般若也。

> ただ言葉で説かれているものには、すべて本当の意味はありません。般若には形がありません。だから仏は、それは般若ではないと言い、それを仮に般若と名づけるのです。

須菩提，於意云何？如來有所說法不？須菩提白佛言：世尊，如來無所說。

> 須菩提よ、あなたはどう思うか。如来は何か教えを説いたであろうか。 須菩提は仏に申し上げた。「世尊よ、如来は何も説いておりません。」

如來說法，為利生故，真如體淨，實無法可說也。

> 如来が説法されるのは、生きとし生けるものを利益するためです。真如の本体は清らかであり、実のところ説かれるべき法は何もありません。

須菩提！於意云何？三千大千世界所有微塵，是為多不音否？須菩提言：甚多，世尊！須菩提！諸微塵，如來說非微塵，是名微塵；如來說世界非世界，是名世界。

> 須菩提よ、どう思うか。三千大千世界にあるすべての微塵の数は、多いと言えるだろうか。 須菩提が答えた。「非常に多いです、世尊よ。」 須菩提よ、これらの微塵について、如来は「微塵にあらず」と説き、それを仮に「微塵」と名づけるのである。また、如来は「世界にあらず」と説き、それを仮に「世界」と名づけるのである。

三千世界不外乎心，一切微塵悉依於地。故世界者，隨眾生心業所感而有。眾生心淨則世界淨，眾生心垢則世界垢。悟法無體即非微塵，悟相虗妄則非世界。佛心空寂，觀此微塵不實、世界非堅，故說非有塵世，是名塵世也。

> 三千の世界も、すべて心の外にあるものではなく、あらゆる微塵も大地に依って存在する。したがって、世界というものは、衆生の心と業の働きに応じて現れるのである。衆生の心が清らかであれば世界も清らかとなり、衆生の心が汚れていれば世界も汚れる。法に実体がないと悟れば、それは微塵ではなくなる。相が虚妄であると悟れば、それは世界ではなくなる。仏の心は空寂であり、この微塵が実在せず、世界も堅固ではないと観察される。それゆえ、塵世が実在しないと説かれ、仮に塵世と名付けられるのである。

須菩提！於意云何？可以三十二相見如來不音否？不音弗也。世尊！不可以三十二相得見如來。何以故？如來說三十二相，即是非相，是名三十二相。

> 舎利弗よ、あなたはどう思いますか。 如来は三十二の身体的特徴によって見極めることができるでしょうか。 できません、世尊よ。 如来は三十二の特徴によって見極めることはできません。 なぜなら、如来が説く三十二の特徴とは、本来それらは固定された実体ではなく、 ただ仮に三十二の特徴と呼ばれているに過ぎないからです。

三十二相者，如來以三十二妙行，感此報身妙相，淨如琉璃內外明徹，雖則報身殊妙，亦是幻妄終歸壞滅，故說非相，是名為相也。

> 三十二相とは、如来が三十二のすぐれた修行によって得たこの報身の妙相であり、琉璃のように清らかで内外ともに明らかに透き通っています。たとえこの報身が非常にすぐれていても、幻のようなものであり、最後には壊れ滅びてしまうものです。だからこそ「相にあらず」と説かれ、それを「仮に相と呼ぶ」とされるのです。

須菩提！若善男子．善女人，以恒河沙等身命布施。

> 須菩提よ、もし善男子・善女人が、ガンジス川の砂の数ほどの身命を布施したとしても。

七寶布施，是利物濟貧；身命布施，乃了心立行，無非福報也。

> 七宝の布施は人を助け貧しきを救うことであり、身命の布施は心を尽くして行いを立てることであり、いずれも功徳（福報）にほかなりません。

若復有人，於此經中，乃至四句偈等，為他人說，其福甚多。

> さらに、もし誰かがこの経典の中の、わずか四行の偈（げ）であっても、他の人のために説き聞かせるならば、その功徳ははかり知れないほど大きなものとなります。

佛言：小則微塵，大則世界。福報則妙身，立行則布施。如此塵世身行四事，盡屬虗幻，無有實體。若人能持此一經，為人解說，則得福多矣。

> 仏様はおっしゃいました。 「小さいものは微細な塵であり、大きいものは全世界である。功徳の報いとして得られるのは見事な身体であり、行動の基礎となるのは施しである。このように、この塵のような世の中での身体の営みや四つの行いは、すべて幻に過ぎず、実体のあるものは何一つない。もし人がこの経典を心に留め、他の人のために説き明かすならば、その人は大きな功徳を得るであろう。」