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title: "法華傳記 · 3 傳譯年代"
description: "法華傳記由唐代僧人僧詳編撰是一部重要的佛教史傳類著作該書匯集了諸多與法華經相關的靈驗感通故事及高僧大德的持誦事蹟生動反映了法華經在中國早期的傳播與信仰狀況全書內容豐富不僅記載了許多珍貴的歷史資料更展現了法華經作為大乘佛教重要經典其提倡的一佛乘思想和人人皆可成佛的理念對中國佛教各宗派尤其是天台宗的發展產生了深遠影響是研究法華經流傳史和中國佛教社會史不可或缺的重要文獻"
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### 傳譯年代第三

> 第三伝訳年代

謹按諸經目錄等。法華飜譯年代。略有六時。一者佛滅後一千二百三十年。前魏甘露元乙亥。即吳五鳳二年也。七月七日。外國支彊梁接。言正無畏。於交州城。沙門道馨筆受。譯成六卷。名法華三昧經者是也。二者一千二百四十年。西晉太始元乙酉。月支國沙門曇摩羅蜜。晉言法護。姓支氏。歷遊西域。解三十六國語及書。從天竺國齎持梵本來。譯成六卷。名薩芸芬陀梨法華經者是也。三者護更至太康七年丙午。廣譯成十卷。名正法華經者是也。永熙元年八月二十八日。比丘康那律。於洛陽寫之竟。時與清戒界節優婆塞張季博蕫景玄劉長武長文等。手執經本。詣白馬容。對與法護。口挍古訓。講出深義。以九月本齋十四日。於東牛寺中施檀大會。講誦此經竟日盡夜。無不咸歡。重已校定。四者一千二百八十四年。東晉咸康元乙未年。沙門支道林譯成六卷。名方等法華經者是也。五者一千三百五十三年。即姚秦弘始七甲辰。天竺沙門鳩摩羅什。秦云童壽。於長安逍遙園。譯成七卷或八卷。名妙法華經者是也。什與護相去。將一百餘年。六者一千五百五十年。即隋仁壽元辛酉。沙門笈多崛多。於興善寺譯成七卷。名添品法華經者是也。經序云。考驗護什二譯。定非一本。護似多羅葉。什似龜茲之文。而護所闕者。普門品偈。什所闕者。藥草喻品之半。富樓那及法師等二品之初。提婆達多品。普門品偈也。什又移囑累。在藥王之前。二本陀羅尼。並置普門之後。其間異同。言不能極。普曜寺沙門上行所請。遂共三藏崛多笈多二法師。於大興善寺。重勘天竺多羅葉本。富樓那及法師等二品之初。勘本猶闕。藥草喻品。更益其半。提婆達多。通入寶塔品。陀羅尼神力之後。囑累還結其終。千萬億偈妙義難盡。重勘之時。略用三例。一者移品如神力囑累等。二者添文如藥草半普門偈等。三者改言如二品呪等。自餘諸文。全依什本。並無所改。就六譯中。三存三沒。於三存中。妙本最長。普賢夢授句逗。無文義謬。南山問天曰。什師一代所飜之經。至今若新。受持轉盛何耶。答曰。其人聰明善解大乘。以下諸人。並皆後人一代之寶也。絕後光前。仰之不及。故其譯經以悟達為先。得佛遺寄之高位在三賢。自手出經。後至今盛誦。無有替廢。冥祥感降歷代彌新。以此證量。深會經旨。又文殊指授。今其刪定。特異常倫。豈以別室見譏。頓忘玄致。殊不足涉言已上更依僧傳及別傳經錄等。略敘什譜。本是天竺人也。累世國相。父鳩摩羅炎。聰明有懿節。將嗣相位。乃辭出家。東度葱嶺。龜茲王聞其棄榮。甚敬慕之為國師。王有妹。年始二十。才悟明敏。過目必能。一聞則誦。且體有赤黶。法生智子。諸國娉之並不許。及見羅炎。心欲當之。乃逼以妻焉。良久不懷。王親問妹。汝夫何術。答云。行欲之時誦一偈云。處世界如虛空。如蓮華不著水。若是此偈力歟。王曰。汝宜妖情。既而懷什。什在胎。其母慧解倍常。有阿羅漢達磨瞿沙曰。此必懷智子。為他說舍利弗在胎之證。及什生之後。還忘前言。什母出家學得初果。什年七歲。亦俱出家。從師受經。日誦千偈。偈有三十二字。凡三萬二千言。即自通達。無幽不暢。九歲隨母。渡辛頭河至罽賓。遇槃頭達多。即王之從弟也。才明博識。通達三藏九部。名播諸國。遠近師之。什至即崇以師禮。從受雜藏中長二含。凡四百萬言。王請入宮。集外道論師。共相論議。什乘隙而挫之。黑山既傾。白日圓彰。王甚歡喜。以外國之上供而供。所住寺僧。則差大僧五人沙彌十人。營視掃灑。其見尊崇如此。年十二其母携還龜茲。諸國皆聘以好爵。什並不顧受。後什母將什改至月氏。北山有一阿羅漢。見而異之。謂其母曰。常當守護。若至三十五。不破戒品者。當大興隆佛法度無數人。凡厥興化與優婆掘多無異。什進到沙勒國。頂戴佛鉢隨心念。即有輕重。停住沙勒一年。誦通阿毘曇及十二門等。無所滯礙。有三歲沙門名喜見。語王曰。此沙彌不可輕。王宜請令開法門有二益。一國內沙門。恥其不及。必見勉強。二龜茲王。必謂什出我國我妹所生。而彼尊之是尊我也。必來交好。王許焉。即設大會。請什伸高座。說法轉輪。龜茲果遣重使。酬其親好。什以說法之暇。乃尋訪外道經書。明達四韋陀典十八大經及五明論等。時有草車王子參軍王子兄弟二人。委國請從而為沙門。才伎絕倫。兄字須利耶跋陀。弟號須利耶蘇摩。專以大乘為化。特弘法華。其兄及諸學人。皆共師焉。什亦宗而奉之。為什說阿耨達經。什聞空旨怪悟。方知理有所歸。專務方等。乃歎言。吾昔學小乘。如人不識金以鍮石為妙。因廣求義要。遍遊五竺諸國。誦法華大品首楞嚴等諸大乘經。受中百二論及十二門大智度論等。諸國義學。皆以伏膺資之。隨母還到溫宿國。即龜茲之北界。時有一道士。振名諸國。什以二義撿道士宗。於是聲聞諸國。譽宣海外。龜茲王躬往迎什還國。廣說諸經。四韋學宗。莫之能抗。母已證二果。有頃辭往天竺。謂王曰。汝國尋衰吾其去矣。行至天竺。進登三果。其母臨去謂什曰。法華方等摩訶般若深教。應大闡真丹傳之東土。唯爾之力。但於己身無利。其如何。什白言。大士之道忘己利。彼若必使大化流傳。能開悟朦俗。雖身當爐鑊苦更無恨。於是留住止于新寺。後於寺側故宮中。初得放光。住降伏天魔。停住三年。廣誦大乘經論。洞其祕藏奧旨。王為造金師子座。以大秦錦褥鋪之。令什昇而說法。什曰。家師盤頭達多。猶未悟大乘。欲躬往化不得停此。俄而大師不遠而去。大乘空義聖復共。至經一月餘日。方乃信服。歎曰。和上是我大乘師。我是和上小乘師矣。西域諸國。咸服什神俊。每至講說。諸王皆長跪座側。令什踐而登焉。其見重如此。什既道流西域。名被東川。時符堅僣號關中。有外國前部王及龜茲王弟。並來朝。堅云。西域多產珍奇。請兵往定以求。至堅建元十三年丁丑正月。太史奏云。有星見外國分野。當有大德智人入輔中國。堅曰。朕聞。西域有鳩摩羅什。襄陽有沙門道安。將非此耶。即遣使求之。十八年九月。堅遣呂光等。卒兵七萬。西伐龜茲及烏耆。光既獲什。未測其量。見年少乃凡人。戲之強妻以龜茲王女。什不受辭甚苦。光還中路。置軍於山下。將士已休。什曰。不可在此。必見狼狽。宜徙軍隴山上。光不納諫。至夜果大雨洪起深數丈。死者數千。光始密而異之。光從之至涼州。聞符堅已為姚萇所害。不久光又卒。子紹襲位數日。光庶了纂。殺紹自立。稱元咸寧。與什博戲。殺纂曰。斫胡奴頭。什曰。不能斫胡奴頭。胡奴將斫人頭。此言有旨。光弟保有子名超。超小字胡奴。後果殺之。時人方驗什之言也。什停涼積年。呂光父子。既不弘道。無所宣化。符堅已亡。竟不相見。及姚萇。諸呂以什智計多解。恐為姚謀。不許東入。及萇卒。子興襲位。復遣敦請興。弘始三年三月。有樹連理。生于廣庭。逍遙園葱變為󱤤。以為美瑞。謂智人應入。五月伐呂隆。方得迎什入關。以其年十二月二十日。至于長安。興侍以國師之禮。仍請入西明閣及逍遙園譯出眾經。沙門僧󰒯僧叡僧肇等八百餘人。諮受什旨。既令出大品。什持胡本。興執舊經。以相讎校其新。興既靈襟。崇仰佛法。恒於大寺草堂之中。供三千僧。與什參定新舊諸經。弘始七年冬。更譯法華。興執法護經相挍。什誦梵本。僧叡等筆受。至于五百弟子授記品。什曰。昔護譯云天見人人見天。此語與西域義同。但在言過質。叡應聲曰。將非人天交接兩得相見乎。什大喜。凡譯經論。九十八部四百二十五卷。著實相論及注維摩經。撰馬鳴龍樹提婆等傳。述安樂土義經生人傳菩提心義等。凡佛法東漸以來。大化普潤多是什公力也。相傳云。什師是文殊化形。昔靈山為發起。今日譯經。若執筆時。從筆放光。光中或時現文殊形。或現佛身。四王加護。於中多聞隨身云云。予見什公行本是大聖。亦居三賢。所譯妙典。感通寔有所以矣。

> 謹んで諸々の経典目録などを拝見しますと、法華経の翻訳年代は、おおまかに六つの時期があります。 一つ目は、仏滅後一千二百三十年、前魏の甘露元年乙亥、すなわち呉の五鳳二年にあたります。七月七日、外国の支彊梁接（正無畏と訳す）が、交州の城において、沙門の道馨が筆受し、六巻に訳しました。これを『法華三昧経』といいます。 二つ目は、一千二百四十年、西晋の太始元年乙酉、月支国の沙門曇摩羅蜜（晋では法護と訳し、姓は支氏）が、西域を歴遊し、三十六ヶ国の言語や文字を解し、天竺国から梵本を持参して、六巻に訳しました。これを『薩芸芬陀梨法華経』といいます。 三つ目は、同じく法護が、太康七年丙午に至って、広く訳して十巻としました。これを『正法華経』といいます。永熙元年八月二十八日、比丘の康那律が洛陽でこれを書き終えました。その時、清戒界節の優婆塞である張季博、蕫景玄、劉長武、長文らと共に、経本を手にして白馬寺に赴き、法護に対面して、古い訓えを口伝えで校合し、深い義を講じ出しました。九月の本斎十四日、東牛寺において施檀大会を行い、この経を終日終夜講誦し、皆が喜ばない者はありませんでした。重ねて校定しました。 四つ目は、一千二百八十四年、東晋の咸康元年乙未、沙門の支道林が訳して六巻としました。これを『方等法華経』といいます。 五つ目は、一千三百五十三年、すなわち姚秦の弘始七年甲辰、天竺の沙門鳩摩羅什（秦では童寿と訳す）が、長安の逍遙園において、七巻または八巻に訳しました。これを『妙法華経』といいます。鳩摩羅什と法護との間は、約百余年隔たっています。 六つ目は、一千五百五十年、すなわち隋の仁寿元年辛酉、沙門の笈多崛多が興善寺において訳して七巻としました。これを『添品法華経』といいます。経の序文に、「法護と羅什の二つの訳を考証したところ、どうやら同じ原典ではないようだ。法護のものは多羅葉（貝葉）のようであり、羅什のものは亀茲（クチャ）の文のようである。法護の訳に欠けているのは普門品の偈であり、羅什の訳に欠けているのは薬草喩品の半分、富楼那及び法師等の二品の冒頭、提婆達多品、普門品の偈である。また羅什は嘱累品を薬王品の前に移し、二本の陀羅尼は共に普門品の後ろに置いた。その間の異同は、言葉で言い尽くせない」とあります。 普曜寺の沙門上行の請いにより、三蔵の崛多と笈多の二法師と共に、大興善寺において、天竺の多羅葉本を改めて調査しました。富楼那及び法師等の二品の冒頭は、調査してもやはり欠けていました。薬草喩品にはその半分を更に補い、提婆達多品は宝塔品の中に統合し、陀羅尼は神力品の後に置き、嘱累品は末尾に戻しました。千万億偈の妙義を尽くすことは難しいため、改めて調査する際に、おおよそ三つの例を用いました。一つ目は品の移動（神力品や嘱累品など）、二つ目は文章の補充（薬草喩品の半分や普門品の偈など）、三つ目は言葉の修正（二品の呪など）です。その他の諸々の文は、全て羅什の原本に従い、何も改めませんでした。 これら六つの訳の中で、三つは現存し、三つは亡失しています。現存する三つのうち、『妙法華経』が最も優れています。普賢菩薩が夢の中で句読点を授け、文章や義理に誤りはありませんでした。南山大師が天に問うて言いました、「羅什師一代が翻訳した経典は、今に至ってもなお新しいかのようです。受持されることもますます盛んになるのは、なぜでしょうか」。答えには、「その人は聰明で大乗をよく理解していました。彼の下にいた人々も、皆後の世にとって代えがたい宝でした。絶後光前、仰ぎ見ても及びません。それゆえ彼の翻訳は、悟りに達することを第一とし、仏の遺した教えを高く位置づけて三賢の位を得ました。自ら経典を出してから、後世に至るまで盛んに誦持され、廃れることがありません。冥々のうちに祥瑞が感応し、歴代を経るごとに新たになります。この証拠により、経典の旨を深く会得していることが分かります。また文殊菩薩が指図して、その刪定をさせたため、特に通常とは異なっています。どうして別室での誹りをもって、玄妙な趣旨をたちまち忘れることがありましょうか。まったく言及するに足りません。<note>已上</note> 更に僧伝や別伝、経録などに基づいて、大まかに羅什の略譜を記します。 羅什はもともと天竺の人で、代々国相を務めていました。父の鳩摩羅炎は、聰明で立派な節操があり、宰相の位を継ごうとしましたが、辞して出家しました。東に向かって葱嶺を越えました。亀茲の王は、彼が栄誉を捨てたと聞き、非常に敬慕して国師としました。王には妹がいて、年は二十歳、才能があり聡明で、一度見たものは必ず会得し、一度聞けば暗誦しました。また体に赤い斑点があり、法によって智者の子を生むと言われました。諸国が娶ろうとしましたが、全て許しませんでした。そして羅炎を見て、心から娶りたいと思いました。そこで無理に妻とさせました。長い間、妊娠しませんでした。王が自ら妹に尋ねました、「あなたの夫は何か術を使うのか」。答えには、「交合の時に、一つの偈を誦します。『世間にあたかも虚空の如く、蓮華が水に着かないように』と。これはこの偈の力でしょうか」。王は言いました、「あなたは情が過ぎている」。その後、羅什が宿りました。羅什が胎内にいる時、その母の慧解は普通よりはるかに優れていました。阿羅漢の達磨瞿沙が言いました、「これは必ず智者の子を宿している。彼のために舎利弗が胎内にいた時の証を説こう」。羅什が生まれた後は、以前の言葉を忘れました。羅什の母は出家して初果を得ました。羅什は七歳の時に、共に出家しました。師に従って経を受けて、一日に千偈（一偈は三十二字、凡そ三万二千字）を暗誦し、自ら通達して、奥深いところまで理解できないことはありませんでした。 九歳の時、母に従って辛頭河を渡り、罽賓（カシミール）に至りました。そこで槃頭達多という人に遇いました。この人は王の従弟で、才能は明らかで博識であり、三蔵九部に通達し、その名は諸国に知れ渡り、遠近の人々が師としていました。羅什が至ると、すぐに師の礼をもって遇し、彼から雑蔵・中・長の二阿含を学び、凡そ四百万言に及びました。王は羅什を宮中に招き、外道の論師たちを集めて共に議論させました。羅什は機に乗じて彼らを論破しました。黒山が既に崩れ、白日が円く照らし出すかの如く、王は非常に喜び、外国の上等な供物をもって供養しました。宿泊する寺の僧たちは、大僧五人、沙弥十人を派遣して、掃除や管理をさせました。その尊崇されようはこのようでした。 十二歳の時、母は羅什を連れて亀茲に帰りました。諸国は皆、高官で彼を迎えようとしましたが、羅什は全く顧みませんでした。その後、羅什の母は彼を連れて月氏に赴きました。北山に一人の阿羅漢がいて、彼を見て異とし、その母に言いました、「常に守護しなさい。もし三十五歳になって戒を破らなければ、大いに仏法を興隆させ、無数の人々を度するでしょう。その教化のあり方は、優波掘多と異ならない」。羅什はさらに沙勒国に進みました。仏の鉢を頂く時は、心の念いに従って軽重がありました。沙勒国に一年滞在し、阿毘曇や十二門などの経典を滞りなく誦持しました。 三歳の沙門で喜見という者がいて、王に言いました、「この沙弥を軽んじてはいけません。王は彼を招いて法門を開かせるべきです。それには二つの利益があります。一つには、国内の沙門が自分の及ばないことを恥じて、必ず奮起するでしょう。二つには、亀茲の王は、きっと「羅什はわが国で生まれ、わが妹の子である。彼が彼を尊ぶのは、我を尊ぶことだ」と思い、必ず来て親交を結ぶでしょう」。王はこれを許して、すぐに大会を設け、羅什を高座に招いて法を説かせ、法輪を転じさせました。亀茲は果たして重い使者を派遣し、親交を深めました。羅什は説法の暇に、外道の経書を尋ね求め、四韋陀典、十八大経、五明論などを明らかにしました。 その時、草車王子と参軍王子の兄弟二人がいて、国を棄てて出家し沙門となりました。その才能と技芸は群を抜いていて、兄は須利耶跋陀、弟は須利耶蘇摩と号し、専ら大乗をもって教化し、特に法華経を弘めました。兄や多くの学徒は皆、彼を師としました。羅什もまたこれに帰依し敬いました。彼は羅什のため阿耨達経を説きました。羅什は空の旨を聞いて怪しく悟り、初めて理の帰するところがあることを知り、専ら方等の教えに励みました。そして嘆いて言いました、「私は昔、小乗を学びましたが、それはあたかも人が金を識らず、鍮石（真鍮）を妙とするようなものであった」。そこで広く要義を求め、五竺の諸国を遍歴し、法華経、大品経、首楞厳経などの諸大乗経や、中論、百論、十二門論、大智度論などを誦持しました。諸国の義学の徒は皆、心から学び取りました。 母に従って温宿国（亀茲の北の境界）に帰った時、一人の道士がいて、諸国に名声を轟かせていました。羅什は二つの義をもって道士の宗旨を論破しました。ここにおいて羅什の名声は諸国に鳴り響き、海外にまで誉れが広がりました。亀茲の王は自ら羅什を迎えて国に帰らせ、広く諸経を説かせました。四韋の学宗は、誰一人として対抗できる者はありませんでした。母は既に二果を証していましたが、しばらくして天竺へ行くことを告げ、王に言いました、「あなたの国はまもなく衰えるでしょう。私は去ります」。天竺に行き、三果に達しました。母が去るに臨んで、羅什に言いました、「法華、方等、摩訶般若の深い教えは、まさに真丹（中国）で大いに宣揚され、東の地に伝えられるべきです。それはあなたの力によるものです。しかしあなた自身には利益がありません。どうしましょう」。羅什は答えて言いました、「大士の道は己を忘れて他を利することです。必ずや大いなる教化を流布させ、愚かな人々を悟らせることができるなら、たとえ炉や鎧の苦しみを受けようとも、恨みはありません」。 そこで留まって新寺に住みました。後に寺の側の古い宮殿の中で、初めて放光経を得て、天魔を降伏させました。三年滞在し、広く大乗の経論を誦し、その秘蔵の奥旨を究めました。王は金の獅子座を作らせ、大秦の錦の褥を敷き、羅什を高座に上げて説法させました。羅什は言いました、「私の師である槃頭達多は、まだ大乗を悟っていません。自ら赴いて教化したいので、ここに留まるわけにはいきません」。やがて大師は遠くから赴いて来ました。大乗の空義は聖なるものであることを、一ヶ月余り経ってようやく信服し、嘆いて言いました、「和尚は我が大乗の師であり、私は和尚の小乗の師です」。西域の諸国は皆、羅什の神俊ぶりに感服しました。彼が講説するたびに、諸王は皆、座の側に長跪し、羅什がその上に登ってから座るようにさせました。その敬われようはこのようでした。 羅什は西域に道が流布し、その名は東の地にも及びました。その時、符堅が関中に僭号していました。外国の前部王と亀茲王の弟が共に来朝しました。堅は言いました、「西域には多くの珍奇なものが産出される。兵を請いて定め、求めよう」。符堅の建元十三年丁丑の正月、太史が奏上しました、「星が外国の領域に見えます。これは大徳の智人が中国に入って輔佐する兆しでしょう」。堅は言いました、「私は聞く、西域に鳩摩羅什がおり、襄陽に沙門の道安がいると。まさにこれであろうか」。すぐに使いを遣わして求めさせました。 十八年九月、堅は呂光らに、七万の兵を率いさせ、西の亀茲と烏耆を討たせました。光は羅什を捕らえましたが、その力量を測りかね、年若いのでただの凡人だと思い、からかって強引に亀茲の王女を妻にさせようとしました。羅什は受けず、非常に苦しみました。光が帰還する途中、軍を山下に駐屯させました。将兵が休息を取ろうとした時、羅什が言いました、「ここにいてはいけません。必ずや窮地に陥ります。軍を隴山の上に移すべきです」。光は諫めを聞き入れませんでした。夜になって果たして大雨が降り、洪水が何丈もの深さに及び、死者は千人にも上りました。光はここに至って密かに彼を異と感じるようになりました。光は彼に従って涼州に至りました。 符堅が既に姚萇に害されたことを聞き、やがて光も亡くなりました。子の紹が位を継ぎましたが、数日後、光の庶子の纂が紹を殺して自立しました。元号を咸寧と称し、羅什と博奕をしました。纂を殺す際に、「胡奴の首を切れ」と言いました。羅什は言いました、「胡奴の首を切れない。胡奴が人の首を切るだろう」。この言葉には意味がありました。光の弟の保には超という子がおり、超の幼名は胡奴でした。後に果たして彼を殺しました。当時の人々は、はじめて羅什の言葉が的中したと悟りました。 羅什は涼州に長年滞在しましたが、呂光父子は道を弘めなかったため、宣化するところはありませんでした。符堅は既に亡くなり、ついに会うことはありませんでした。姚萇の時代、呂氏たちは、羅什が智計に長けているため、姚のために謀略を巡らせることを恐れ、東へ入ることを許しませんでした。萇が亡くなり、子の興が位を継ぎました。再び使者を派遣して、興が招請しました。 弘始三年三月、庭に連理の木が生じ、逍遙園の葱が薤に変わりました。これらを瑞兆とし、智人が入るべき時だと謂いました。五月、呂隆を討ち、ようやく羅什を関中に迎え入れることができました。その年の十二月二十日、長安に至りました。興は国師の礼をもって遇し、西明閣及び逍遙園に入れて、多くの経典を訳出させました。沙門の僧䂮、僧叡、僧肇ら八百余人が、羅什の旨を諮問しました。既に大品経を出させようとして、羅什は胡本を手にし、興は旧経を手にして、互いに校合し新たにしました。興は霊襟を開き、仏法を崇拝し、常に大寺の草堂の中において、三千の僧を供養し、羅什と共に新旧の諸経を參校しました。 弘始七年冬、更に法華経を翻訳しました。興は法護の経を持って校合し、羅什は梵本を誦し、僧叡らが筆受しました。五百弟子授記品に至って、羅什が言いました、「昔、法護の訳に『天が見る人、人が見る天』とある。この語は西域の義と同じだが、言葉が類型的すぎる」。叡が即座に応えて言いました、「これは『人天交接して両得相見』ということではありましょうか」。羅什は大いに喜びました。 凡そ訳した経論は、九十八部、四百二十五巻に及びます。実相論や維摩経の注釈を著し、馬鳴・龍樹・提婆などの伝を撰びました。安楽土義経、生人伝菩提心義などを述べました。仏法が東漸して以来、大いなる教化が普く潤ったのは、多くは羅什の力によるものです。伝えられるところによれば、羅什師は文殊の化身であり、昔、霊鷲山では発起の役目を担い、今日翻訳するにあたっては、筆を執る時に筆から光を放ち、光の中には時に文殊の姿、時に仏の姿が現れ、四天王が加護しました。その中で多聞天が随身しました。<note>云云</note> 私は羅什の行状は、本来大聖であり、三賢の位にも居るものと思います。彼が訳した妙典が、感通を有することは、実に所以のあることです。